北九州芸術劇場プロデュース「彼の地Ⅱ~逢いたいひ、と。」

「生きる」という虹色の色調は実はきれいじゃないのだ。

 そう言えば、去年年末、月光亭の演劇を見て以来、演劇を見ていない。
というか、年が明けてから、新しい場所で働き始めた。

 仕事内容は伏せておくが、仕事始まりが昼過ぎで、
今のところは夕方まで働ける、夜遅く、ということはない。
仕事内容もいままでの流れで持っている特性にあった内容。

 けれども、人間関係構築がたいへん。
おまけに18時に終わって駅に向かうとどこかへ行く自由がない。
ここの所をどうするか、思案。

 この演目、前作「彼の地」は人間、それも生まれて育った場所から
見ず知らずの初めて足を踏み入れる場所=「彼の地」に足を踏み入れて、
戸惑いながら「新しい人生」を始め、年月を重ねていたらいつの間にか
わたしの場所=「我の地」となっていた。

 このお話を初演は「第三者」というか「彼の地」から「我の地」に
今いる場所を「変化させたことのある」わたしの視座で眺め、
縁あって再演を見ることになったときは人間ではなく、北九州のいろんな街にいる
いろんな「猫」の視座で眺めることができた。

 こうして、それぞれの視座で見て、わかったことがある。
この演目の構造は「北九州市」という街を「演劇」で紹介している、ということ。
「演劇」で紹介している、という「作用」は世間一般の「ガイドブック」と呼ばれる
ものではほぼ省略しがちな「もの」や「こと」を丹念に掘り下げ、「もの」や「こと」の中に
生きている人間の呼吸を入れてふんわりと見せている。

 例えば、門司の小洒落た角打ち、小倉魚町銀天街入り口にある資さんうどん、
枝光や荒手あたりにある金属加工工場、スペースワールド跡、枝光の丘のとある墓地、
九州国際大学、八幡駅前に昔あって、いまは八幡駅裏の工業団地に移った有薗義肢製作所、
戸畑の若戸渡船場、洞海湾(またの名をくきのうみ)、醤油工場、馬借や小倉駅前の風俗街、
そして曽根の干潟、という沢山の「生きている」が散りばめられている。

 これらの「生きている」は決してきれいじゃないし、どこか不器用で不格好。
不器用で不格好だから失うことが多すぎて、いつも欠落や欠損を抱えて生きている。
あるものは両親のどちらかを欠損し、仕事の何かを欠損し、心のなかにある何かを欠損し、
更には体のある一部分を欠損している人だっている、もっと言えば人生そのものを
欠損してしまった人だっている。

 これらの欠損を抱えた人を繋ぐ「詩」として「北九州市歌」が絶妙に効いていて、
物語を感じて、聞こえた途端に、「ああ、私も北九州という街に半分足突っ込んで生きていたんだ」と
いう思いを感じ、脳みそから涙が出た。
そして、ただかおりが中国語やってるのを感じて、ほんの少しだけ使える、というか
中国語を学ぶことで「中国人(中華民族)の思考」に触れることができた、ということが蘇り、
「学ぶことに涯なし」という「学漢無涯」という掛け軸がいつも部屋の壁にかかってる。

 人間、生きてる、ということはきれいな虹色を書けることなんて少ない。
くすんだ虹色でも、どこか現状欠けている所を多くの人を巻き込んで埋めていって、
なんとかいい虹色を書こうとしている、人が苦手でも、何でも。
それで正直、いいんじゃね?
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削ってばかり。

 なんかなぁ、突然新しいことが始まって、じわじわと変化したほうが良かったのだが、
それも叶わず、対人の問題をどうしたらいいのか、正直わからない。

万能グローブガラパゴスダイナモス「ハダシの足音」@大阪

「発達障害」って、もしかしたら「記憶の森」と関係があるかもしれない。

 最近、だんだん分かってきた。
「耳」というものが(あるいは「目」、「鼻」、「舌」、「手」、「足」にも言える。)
「記憶の森」へのアクセス手段であり、これらの器官は鈍すぎてもいけないが、
敏感過ぎると生きていくことがそうでない人よりも難しくなる、ということが。

 特に、「人と関わる」という点で、「記憶の森」へのアクセス手段たる
身体の各器官が敏感過ぎると、「話して、聞く」ことや、「直接触れる」こと、
更には「味わう」ことで、自分以外の存在が持つ感覚や感情を深く知ることが
苦難の始まりになってしまうことがあり、このことが「仕事」を長く続けられない
わたしの根っこだった。

 そういうことを過不足のない空間の広さと、天井の高さで「物語」として
「コンテンポラリー演劇」として見せられるとわたしの持つ「障害」の特性を
これでもか、と理解してしまうのだ。

 というか、「なんか嫌だな」という「小さな違和感」を定期的に感じてしまうと、
「わたしはここにいていいのだろうか」という不安感や「どうやっても自分は」という
自己否定感、「悪い記憶」という絶望感が混ざりに混ざって、どうしたら良いかわからなくなる。

 どう解決したらいいか、「わたしの中」ではわからないので、外からはよく見える
「矛盾」という怪物にも気が付かず、気がつかないから苛立って仕方がない。

 その苛立ちがある程度うまく行っていた「人間関係」を壊して、自分で自分の
「居場所」を壊して、いつも途方に暮れていた。

 ・・・人生に疲弊するのも無理はない。 
もっというと、生きていく中で生まれてきた「得をしたい」や
「払ったリスク分のリターンは取りたい」が
あるために、お金や時間を始めとした「わたしにとって大切なもの」をドブに捨てた、という
「やっちまった」感を自分から選んだのか、他者からブーブー言われたのか、よくわからないが
この事実が「引き金(トリガー)」になって、生きていることやコミュニケーションを取ることに対して
どうすればいいのか、わけがわからなくなる。

 このわけがわからなくなって、混乱して、どうしょうもならなくなった人間の狼狽を
コメディに包んだコンテンポラリー演劇で見せると、苦しみ方も人それぞれ、と思えるし、
「ああ、この世の中に完璧な人間はいないのだ」という普遍的な事実を暗喩的に教えてくれる。

 自分は狼狽したとき、脳みそが固まるねん。
もう少し詳しくいうと、夜眠れなくなる、それから「考えすぎ・感じすぎ」によって、
脳みそに疲労物質が溜まって、固まって、日々の生活が苦しくなってくる、
ここまできたら、後は釣瓶落のようにじわじわと狂うのみ。

 それが数年前までの自分と、板の上のキャラクターが重なり、
「失うことが怖い・負けることが怖い」、負けたくない、負けることが怖いによって、
いろんな「記憶に関する」矛盾は生まれ、おかしくなるのか!!

 こういうことと、派生する様々な「記憶」を今まで鮮明に覚えていて、
この事実によって助けられたこともあったが、えらい目にあってばかり。
けれども、お薬ちゃんと飲んで、処理のやり方という
記憶の森の抜け出し方という術を学んでいるから、大丈夫。

万能グローブガラパゴスダイナモス「ハダシの足音」@福岡

このお話はわたしにとって、「現在進行形」でもあり、「過去進行形」でもある。

 誰かのために「譲る」ということは、とても、とても、心と身体に来る。
先行販売でチケットを買ってから、いま現在いる環境の「動物園」ぶりがひどくて、
強いて言うなら「動物たち」が自らの「動物性」を自覚していない、それなのに
「動物性」を押し通すことを「人間」と勘違いしているさまを見てしんどくなった。

 そのしんどさが、とうとう逃げられないところにまで来て、今いる場所から
正直、逃げたい、逃げたいけれど九州だったら泊まるところが確保できない。
こういうことを考え、打てる手を打ち、イムズホールへ向かう。

 それはさておき、この劇団、「春シーズン」は新戦力の確認や、新しい試みを試し、
畑を耕す、種を蒔いて、水をやり、手を掛けて、「秋シーズン」で少し大きいハコか、
少し長い期間公演を打ち、福岡以外の場所で腕試しをするローテーションを
ここ最近行ってきたが、今年は「星降る夜になったら」の再演をキャナルシティ劇場でやる
という「チャレンジ」を春シーズンで行い、そうなるとぽんプラザホールでのロングランではなく、
イムズホールで秋シーズンの公演を打っている。

 色んな変化を感じつつ、ドアをくぐり、表演空間の中に入ると、驚いた!!
三面客席囲みからして、まるでドリカムワンダーランドやらSEKAI NO OWARIの
大規模ライブ会場を、へたすると東京ディズニーリゾートがまとっている空気感を
狭いところに圧縮した、としかいいようのない「異質な」空間に放り込まれた感じがする。

 もっというと、天井には白い「魔法の木」が吊ってあって、
「天井」と「井戸」、「天界」と「地界」、「天国」と「地獄」、更には「楽園」と「煉獄」が
展開されていることがじわじわとわかる空間のつくり。

 この空気を抱えて本編に入ると、さらに驚いた。
「ありえへん」ところから人はやってくるわ、人の記憶をどうのこうの・・・とは言うが、
本当のテーマは「完璧な存在」なんてものは「あの世」にも、「この世」にも
どこにもいないんだぜ、というかありとあらゆる存在は多かれ少なかれ「障害」と
いうものを抱えて、持たされて(持って、という表現が正しいのか?)、
生まれて、生きて、死ぬだけなのよ、という事を痛感させられてしまうではないか。

 板の上で生きているキャラクターだってそうだ、
キーになる役の女性は「高機能脳障害」で20数年間記憶が剥落している。
この女性を軸にして、「軽い発達障害」や「重い発達障害」、「自閉症」、
「発達障害と自閉症」の合併、「知的障害と自閉症」の合併、「知的障害」は
でてこないけれど、「学習障害」というように「障害特性」という「キャラクター」が
板の上で炸裂している。

 これらのキャラクターが「過去」のわたしたちと「現在」とされているわたしたちという
「パラレルワールド」を行きつ戻りつしながら、誰しもが脳みその大半に持っているが
いつもはあまり意識しない「記憶の森」というものをはっきりと具現化してしまった。

 この具現化された「記憶の森」の中でガラパ特有のラグビーのフィジカルコンタクトを
取り入れたフェイズを多く作ってみせるコメディの要素はそのままに、コンテンポラリー演劇の
要素を新しく放り込まれると、わたしが今まで通ってきた道筋を追体験して、
前作の「月ろけっと」のように、またも「笑いながら、恐れおののいている」わたしがいた。

バカボンド座「子どもに見せてはいけない祭り」

「貧困」は「作られる」という事実。

 大阪西成とか、東京山谷、横浜寿町のように「貧困」を「商品化」出来ないほど
北九州小倉黄金町、八幡春の町、あと筑豊の「貧困」はかなり根が深い。
「お腹が空いた、おにぎり食べたい」というメモを残して餓死した人もいる、
山谷や西成ではきちんと「旅館業」の鑑札を取ってやっている「宿舎ビジネス」にしても
小倉黄金町だったら非合法の「ボロアパートの有効利用」なものだから簡単に火事を起こして、
身元不明の死体が(以下略。

 こういう「路上の現実」をベースに今回の演目は書かれている。

 「路上の現実」から見えてくることは、人間の「多様性」がなくなって、
「画一化」が進めば進むほど、社会の「安全機構(セーフティーネット)」は
ぼろぼろになり、「貧困」と「格差」をあえて作ることによって、社会を統制する。
統制した社会の先には「地球の画一化」が待っているわけで。

 そういう中を生き抜かなければいけない、私たちは年がら年中「緩め」たり、
「安心」して生きることなんか一切許されないわけで。
一度緩めたり、安心したりするとどこかで見えない落とし穴にハマって、
職も収入も、はたまた家も家族も失ってしまう。

 こんなことを目の当たりにしたら、働くことにも、結婚して、子供を作って、
家族を作って生活すること(=信頼できる人と一緒になって人生を生きること)にも
懐疑的になるんだよな、いわゆる「健常者」と呼ばれる「定型発達者」には。

 けれども、知的障害、精神障害、発達障害のような「非定型発達者」には
「定型発達者」から差別と虐待から来る貧困をこれでもか、と喰らいすぎて、
人生の殆どを「孤独」なまま生き延びている。
その中で蜘蛛の糸を垂らしたら、どうなるか、わかっているよね?

 というか、蜘蛛の糸を垂らしたら、垂らした人に対して愛情という好意を
示してしまうことを知ってか知らずか、よくわからないけれど、この心理的活動を
利用して「非定型発達者」を喰い物にする半端モンが存在している。

 お話が進めば進むほどこの「定型発達者」と「非定型発達者」による
「生きたい」(ふんわりとした「死にたくない」)という希求のぶつかり合いが
ひどくなってきて、「共存共栄」と世間は言うけれど、一体何なん?という
問が絶え間なく客席に降り注いでいる。

 「定型発達者」が考える「共存共栄」は「勝ち役」が利益を得るために「負け役」の
人格を「否定するふり」をしながら「利益を得るために必要な犠牲」を押し付ける。
この活動から出てきた言葉を変にありがたがる。

 ・・・なんか、それ違うんですけど。

 人間、もしくは生き物という存在は「変化」というか「可塑性」を持っていて、
役割と立ち位置によって、この「変化」や「可塑性」を活かして活きている。
それぞれの「変化」や「可塑性」を侵害しないように生きていくことが「共存」であり、
「共存」の結果として産まれたものが「共栄」何だ、ということをラストでそれとなく示している。

 書き手も演者も、人間観察力が秀逸で、「あるある」がたくさん生まれていたよ。
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