福岡県大学合同公演2017「孤影」(Koei)

独裁政治を復活させるものは、独裁者の血統ではなく、
自主自立の魂を蝕まれた民衆の貧血、なのかもしれない。

 福岡県大学合同公演といえば、前シーズンは「九州戯曲賞」を
現時点での最年少記録で取った作品を「初演」する形になったけれど、
ある意味、「完成品」の戯曲を「未完成」のからだで演じることはかなりの負担。

 この「反省」があったのかもしれないけれど、今シーズンは
一度戯曲を「仕上げて」、ブラッシュ!という「品評会」に晒して、
様々な整理整頓をやって、「初演」にこぎつけた次第。

 この件から言っても、戯曲にとって、「初演」はものすごく大事なのかもしれない。

 「初演」の出来、不出来が客席で見ていた「演劇をいつか演る人」にとって、
「いつか私達もこの演目をやってみたい」や
「いつか私達もこの演目ができるだろうか」と
思いを巡らせて、意欲に繋がり、
結果、自分のところの劇団での「再演」だけではなく、
ほかの劇団、他の地方で「再演」できることが
劇作家としての「栄誉」であり、「名誉」かもしれない。

 そういうことはさておいて、表演空間からぶったまげた。
一味違う「シアター形式」というか、シアター形式の表演部に加え、
正面ど真ん中を通路としてぶち抜いて、そこも表演部にし、
前説で更に両端の通路も使いますよ、といったものだから(以下略。

 色々感心していたら、いつの間にか表演部センターに
ボロをまとった演者がより良いポジションを探しながら座り始めている。
ハードロックがガンガンかかった今風の空気から気がつくと、もう物語の空気だ。

 そういうことはさておいて、近年、歴史の検証を通して、「本当の歴史」が
徐々に明らかになってきた、ツイッターやフェイス・ブック、その他のウェブで。
同時に、戦争とは何だったのか?ということもまた、明らかになってきた。
というふたつの前提があって、この戯曲と、演劇作品は産まれたのかもしれない。

 戦争の歴史というものは、世界の「支配者一族」が、
「一枚岩」でつながっている「事実」を見抜かれ、
残りの全人類を敵に回してしまわないように、
繰り返し演出した偽装工作なのかもね。

 表演空間の上では「支配者一族」がどのようにして「一枚岩」で
つながっているからくりと、そのからくりに「混ざり込んでしまった」異質が
「一枚岩」を作り上げたからくりをじわじわ「蝕んでいく」様を空間の全てと
演者総動員で「コンテンポラリー演劇」として、見手に提示した。

 「支配者一族」と言うものは表では「男性」を立てるけれど、
実際は「お姫様」という「絶対的な特権を持った女性」が支配している。
そこで使われる言葉や考えは「表と裏」の意味を常に持つ「二枚舌」の構造、
更にいうと、「そこに愛はあるのかい」という特殊な欠乏状態が「支配者一族」を包んでいる。

 この特殊な欠乏状態を補う、対比的な存在として、「犬畜生のなんとか」が存在し、
(多分、「犬畜生の世界」は努力と才覚次第でのし上がることのできるところだろう。)
それぞれの存在を「つなぐ」のが、とある一人の女。

 「女」という「光」をどう当てていくか、この「当てていった」結果としての
「陰」を私たちは見ていたのかもしれない。
そう考えると、わたしたちは「出来事」に対する「光の当て方」を間違えて、
産まれてしまった「陰」の悪戯に悩まされているだけなのかも。

 私たちは余りにも物を知らなさすぎた、というか知ることを妨害されていた。
ここから私達を新しく始めていこう。
スポンサーサイト

最強の一人芝居フェスティバル=インディペンデント“INDEPENDENT:FUK”

スピードと、リズム感。

 どういう「大人の事情」があったのか、正直良くわからない。
今まで、このツアーの「現地受け入れ製作」はFPAPというところが
請け負ってきたのだが、今回はもう一つのところが請け負って、
そのせいか、久し振りにぽんプラザに「帰還」した!!

さて、いつものようにサクッと各演目を順番に書くよ。

ーーー
a.
「もうそうするしかない」
出演:大竹謙作(あなピグモ捕獲団)
脚本・演出:福永郁央(あなピグモ捕獲団)

・・・そう言えば、43歳の誕生日以来、あなピを見ていない。
まあ、いろんなことがありすぎて、というけれど。

 それにしても、ものすごい。
「私達は生まれながらの罪人」と気がつくように仕向けられ、
「抱えている罪」は一体全体、なんぞや?と考えさせられ、
「予知」が出来るくらい、私達のキャパシティに「余地」はあるのか?
「人生を終えて、三途の川を渡る前にある尋問」ってこういうものか?

 これら、たくさんの問がコンテンポラリーダンスではなく、
舞踏のリズムで演者は見手に問いかけていく。
問いかけられた見手は自らの「思考の海」に飛び込んで、
深いところまで沈み込む、このダーク感、半端ない。

 沈んで、沈んで、息が続かなくなって、苦しくなって、もがくように
空気のあるところに「戻って」来る感じが落語の「芝浜」という
演目のオチに似ていて、また驚かされる。

ーーー
b.
「ノノなのノノもの」
出演:せとよしの(アートユニット豆小僧◎)
脚本・演出:雪見周平(劇団コックピット)

 人生、「イヤダイヤダ」と言っているうちにきちんと「処理」しとけよ。
そういうメッセージが演者の体を通して聞こえてくる。

 自分もそうだけれど、人間という「生き物」は恐ろしいくらい脆いのだ。
その脆さを知ってか、知らずか、無理をして自分自身を「擦り潰して」、
「助けて」の声を聞かず、行き着く先は壊れちゃって、自分で作った
「薄い膜」の中に閉じこもる。

 そうなっちゃうと、色んな意味で大変だ。

ーーー
c.
「鉄の掟」
出演:竹口耕輔(謎のモダン館)
脚本・演出:白濱隆次(謎のモダン館)

 しらはまワールド、演者が変わっても炸裂。
というか、「短編戯曲」の達人なのかもしれない。
旗揚げから貫き続けている「とあるスパイの日常、及び周辺」という
お話のいちエピソードを演者を変えて見せるとあたらしい味わい。

 てか、スパイの世界って、恐ろしいくらいの規律の連続。
その連続に耐えられる気力・体力・記憶力を「試されている」様が
なんとも滑稽で、なんとも切ない。

 更にいうと、見えそうで見えない「地口落ち」という
「究極のちらリズム」が凄すぎて。

ーーー
d.
「ROYAL DESTINATION」—さすらえロンリーボーイ!ー
出演:寺川長(大帝ポペ)
脚本・演出:重松輝紀(バカダミアン)

  熊本の演者さんは「片岡演劇道場」から「熊本バレエ団」、
それぞれの「仕出し」で勉強できているから「身体言語」の質、半端ない。

 この「からだ」に福岡戯曲のいちジャンル、「捏造歴史物語」という
「言葉」が乗っかれば、ぽんプラザの空気が中国北京の頤和園に
いつの間にか変化してきている。

 光緒帝の幽閉、という「場所的な」ミクロから宇宙、天地開闢という
「場所的な」マクロ、辛亥革命一歩手前という「時間的な」ミクロから
さらには過去と現在がマーブル模様になっている「時間的な」マクロと
3次元の「演劇空間」を縦横無尽に動き回ってる。

 人間って、愚かだよな、けれども、素晴らしい!!

ーーー
e.
「女の子は」
出演:山崎瑞穂(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)
脚本・演出:椎木樹人(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)

 ものすごく深いなぁ。
始めてみずほを見た、というか、知り合ったときはなんともはや、
「清楚なお嬢様なんだけれど、ユニセックスの匂い」がする、
故に、いささか癖の強いわたしを色々あるが、「飲み込む」ように受け入れる。
・・・これがこぱるになると平気でガンガン「いじってくる」のだ。
ぶっきーは「だいひょうかんとくとれぽーたー」という感じ。

 で、「星降る夜になったら」@キャナルシティ劇場の
宣材写真から「ユニセックス」じゃない、やまさきみずほを
見せるようになって「なんか、いい」と思ってしまう。

 この「殻をむく」プロセスをしいきっつあんが冒頭部、
スーパーササダンゴマシンのパワポ芸から、お話の流れは
WWEのジョン・シナがぶっこんだ「ヒップホップとプロレスの融合」で
「美味しく」見せている。

 これは「ゴール」のお話じゃない、「スタートライン」に立つお話だ。

ーーー
f,
「楽屋から」
出演・脚本・演出:犬養憲子(演劇きかく「満福中枢」)
演出:大浜暢裕(ハイトラッド)
[招聘作品]from沖縄

 うーん、照屋林助の「てるりん自伝」(みすず書房刊)を手元に残しそこねちまった。
更にいうと、「琉球舞踊」と「琉球組踊」は同じなようであって、同じじゃない。
「琉球舞踊」は民俗芸能から直接来たもので、「琉球組踊」は民俗を「体系化」して
「外交」にも使えるように「琉歌」という教養も加えたもの。

 で、戦後沖縄の「文化復興」の中心となったのは照屋林助、嘉手苅林昌、
仲田幸子、「てるりん自伝」はそこのところがしっかり書かれているのに。

 これらの「豊穣な」琉球文化、という文脈で清水邦夫の「楽屋」という
戯曲を「琉球舞踊の名手」が演じる、という趣向。

 なんていうか、「日常を生きている人の本音」がこれでもか、と
矢継ぎ早に飛び出してきて、なんかヒヤヒヤするが、本音の裏にある
「どんなに貧乏で、酷い目に遭っても、私達琉球人は何度でも
 笑いながら這い上がって、立ち上がって生きて来たし、
 これからも笑いながら這い上がって、立ち上がって生きていく」という
「決意表明」に聞こえてきた。

ーーー
g.
「もしもし」
出演:福田恵(劇団レトルト内閣)
脚本・演出:中野守(中野劇団)
[招聘作品]from大阪

 人生における「雪隠詰」をめぐる「超短編集」という味わい。
この「超短編集」をたった一人で、30分に納める、ということがものすごい。
どうして、ドアが壊れているトイレに行くのか、というツッコミはなしで。
そうツッコめないくらい「深い」人生のお話。

 全体的な物語と物語を「つなぐスピード感とリズム感」がいままでの中で一番いい!!
INDEPENDENTシリーズを見る時、いつも思う「時間のダレ感」というものがない!!

KVA劇団川口さん家のみそスープ「星降る夜になったら」

ノスタルジー?そんなこと、知ったことか!!

イマドキの若い子にとって、スピッツとかMr.Childrenという「音楽」は
「若き日の失われた思い出」に浸るためのノスタルジー・ミュージックなのか!
そんなことまで思い出しちまったい。

この演目の元版たる万能グローブガラパゴスダイナモス版の初演(@イムズホール)と
再演(@キャナルシティ劇場)では「思い出に浸りきっている最中」と
「思い出から抜け出して、新しい人生のはじめかたを模索する」の違いはあるけれど、
客入れの音楽のチョイスからして、ノスタルジーが匂いだしていた。

けれども、今回は元版とは全く真逆の「ノスタルジー?そんなに後ろばかり見てんじゃねーよ」と
言葉は荒いが「諭されている」空気感がなんだかんだ言うてもそこにできている。

あと、空間のつくり、基本の色が白・白・白一色、あとの色は
演者の動きや関係性で見手の皆さんに「頭のなかで」色を付けてもらえ、
というある意味演者にとっては過酷な環境だ。

万能グローブガラパゴスダイナモスの初演・再演、ワタナベエンターテイメント福岡オフィスの
若いもんがやったやつ、そして、今回と都合4回見て、やっとこさこの戯曲の肝が見えた。

根っこに「ある程度年を取って、新しい人生を進み行く必要がある、がどうなるものか危ぶんでいる」
わたしたち、という「存在」がいて、この「存在」は「危ぶんでいる」不安が日々募って、
「不安」に転じ、その不安を紛らわせるため「ノスタルジー」という作用を求める。

「ノスタルジー」という作用を求めて、「同窓会」と言うものを行うように仕向け、
場所を「山奥の貸別荘」にする、という(ここで冒頭の過去と現在が「混ざること」に意味がある!)
「装置」の設定を開演までに見手に見せて、納得してもらう。

あとは110分のうち90分を「生と死の混淆」という流れをコメディにくるんで見せて、
「ああ、わたしは今まで言うべきことを今すぐに言わず、未完として心の奥底に抱えてきたのか、
この「未完」が「思い出」に転じるならまだしも、「こうすりゃよかった」という
「未練」として一生涯尻尾のようにぶらぶらぶら下げて生きるから、人生うまく行かねぇんだよ。
これを踏ん切りにして「迷わず行けよ、行けばわかるさ」とラストまでの時間でまとめる。

この肝をガラパは仕掛け満載の空間で、ある意味、滑らかに言葉という不安定なボールを
ハンドリングミスなく回し、適切な人員でモールとラックを作り、スマートなボディコンタクト、
ここぞというところでうまくキックを使って陣地を稼ぐ、
いわゆる「テスト(マッチ)・ラグビー」の範疇で見せた。

対して、今回はそれよりも結構なハンドリングミス、粗っぽいボディコンタクト、
アタックのアイデアに詰まってキックという「飛び道具」を多用する、
いわゆる「年末年始の大学ラグビー」の範疇で見せた。
だから、ひとつひとつが不思議な「重さ」を持っていた見後感。



ゼロソー 「ピッチ・ドロップ」

「ありえない」ことなんて、「ない」。

熊本の地震の話を元にして、とひとはいう。
けれども、そういうくくりでくくれないほど、物語はとても、とても、深い。

まず、「ピッチ・ドロップ」とはなんぞや?

ピッチとは非常に粘性が高くて固体に見えるような物質を指す総称。
たとえばアスファルトがピッチというものの代表的物質。
室温では、この物質はとてもゆっくり流れて、数年かけて一滴のしずくを形成する。
この流れを観察するために非常に長期にわたって行われる実験が、
ピッチドロップ実験(英語: Pitch drop experiment)である。
(参考:Wikipediaでの項目冒頭部)

しかし、アスファルトを道路に敷くところ、敷いた後を見ればわかるように
高い温度という「負荷」を内的、あるいは外的に掛けると恐ろしいくらいに
柔らかくなってしまう。

その柔らかさと突然掛かった「移動」という2つの負荷で
実験当初から続けていた「物体の粘性」が断ち切られて
という「ありえない」ことが起こって、その後どうなるんだろう?

人間が生きている、ということもだいたいおんなじだ。
てか、五体満足、十全とはいかないまでも、半分の五全の才能を使って
周りの人々を少しは喜ばせているように生きてはいる。

・・・2016年4月16日、わたしの43歳の誕生日までは。
ちょうど、4月15日から16日へと日付が変わる瞬間に起こった
ひどい揺れ、によって、熊本市内とその周辺に住む殆どの人の
「わたしたちが生きている」という「現実」が「ありえない」という言葉が
ふさわしいくらいに変化してしまった。

 自分も、遠く離れてはいたけれど、恐ろしい変化が起こりすぎて、
演劇から遠くはなれたところに今はいる。

ホトリさんだって、自分で仕事をしながら旦那さんの教え子の
世話をする、という「日常」が家の天井が落っこちて(以下略。
「からだ」はなくしたが、「脳」を始めとする感覚器官と延髄という
「生命維持装置」が偶然(これもまた、「ありえないこと」だな)生き残って、
がだ、切れちゃったところが声帯をそれたのは良いが、
発声の基本要素たる横隔膜と肺が潰れたら喋れないぞ。

ま、そういう細かいところは置いといて、
「ありえないことなんて、ない」という普遍的な「現実」に立ち向かうためには
「ひとり」では「現実の力」があまりにも強すぎて、歯が立たない。
故に、「私達」の分身と言わなければ、「助け合う」という言葉が生まれない。

ついでに言えば、「なくしたもの」に対する「処理」のやり方
(グリーフワーク)はたくさんあって、
いちばん大事なのは、「ネガティブな気持ち」に同意するよりも、
「生きているから良いじゃないかという気持ち」に同意する。

そして、その場所にいる「存在」を否定せず、とにかく「どうして」を考える、
わからなくてもそこにただいる、というように「できること」を少しずつやっていく。
こういう物凄くシンプルな「積み重ね」でしか「処理」できない。

この「シンプルな積み重ね」を板の上で起こして見せると、
不思議な安心感が湧いてくるのだ。

離れてみる。

 ちょうど一年前、たくさんの行き違いがあって、今まで働いてきた仕事を辞めた。
というか、ものすごく窮屈になって、この窮屈さから解放されたかった。

 たしかに、四国遠征をメインにして、大阪や名古屋で演劇を見て、
昼間から酒かっくらって、のんびりお風呂に入っていた頃はまあ、解放されていた。
けれども、行ったり来たりしながら、次の段階を考えたら考えるほど、
別の窮屈さが産まれてきた。

 大阪で人生やり直すのか、福岡で人生やり直しをするのか。
福岡で人生やり直しをするにしても、仕事もやり直しの支援も
きっちりしてもらえなさそうだったので、大阪でそういう場所を探し、
マイナスからのスタートでもいい、とにかく・・・と思ったが、
入り口が固くて、仕方が無い、福岡でやり直そうと腹を決めて
合間合間に演劇の丁稚奉公をし、見学、面談、体験、聞き取り、
演劇の丁稚奉公、ラグビー。

 そうこうしているうちに年末、やり直す場所でやり直す作業を
まずは「自分の歴史」を話し、そこからしくじりを見つけ、
修正して、また見つけては修正して、の繰り返し。

 繰り返しの中で、解決することが見つかったところで
場所が「大人の事情」で無くなる、またかよ、と思って
嫌な気持ちになるが、そこから「熱くて激しい」三ヶ月が
始まり、演劇を削らないと動かない状況になっていた。

 ・・・今まで、何もかもやろうとして、しくじったんやね。
削って自分の持っているすべてを自分に注ぎ込んでやらないと
どないしょうもならないんだな。

プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR