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トラッシュマスターズ『たわけ者の血潮』

「たわけ」とは「戯け」なのか、それとも、「田を分ける=田分け」なのか?

 表演空間に足を踏み入れたその瞬間から、場に漂う「空気」が
ものすごく濃厚だった。
更に言うと、客層そのものもいつもの福岡演劇より5歳程度年長だ。

 この濃厚な空気に慣れてくると、表演空間自体に「格」というか、
「格」というものが生み出す「差」という意味での「格差」が
どこかしこに隠されている事を知る。

 表演空間の作りは大まかに分けて、「書斎」と「応接室」という
ふたつの「部分」に分けられているが、それぞれの部分が「フラット」に
隣接しているのではなく、「書斎」の部分を「一蹴り分」高く作っている。

 書斎と応接室にあるアンティークな椅子だってそうだ。
応接室の一人がけの椅子は主人が座り、長めのソファは客人用、
そして、背もたれのない椅子、というかオットマン兼用のそれは
その場で「格の低い人」が座る。

 書斎の丸テーブルに沿っておいてある椅子と書斎の机においてある
椅子だっておんなじ形をしているのだけれど、肘掛けに布ぶとんが
貼ってあるのか、否か、で座る人の「格」というものをそれとなく示している。

 そう言う空気の中、お話のキーになる若い男がひとり、
書斎の机に向かい、ある本を眺めながら田山花袋の「蒲団」のように
「思慕の念」という「感情」に身悶える、その最中に福岡を代表する
劇評家が空間に入り、自らの座る場所を求めてまろび歩くさまが
なんとも言えないなぁと感心していると「親子の会話」が過ぎ去り、
気がつくとある新劇公演初日祝の二次会へ。

 「演劇」としての会話の端々にも、入れ子構造になっている「戯曲」にも
「劇場」と呼ばれている空間から重い扉一枚隔てたところにある
わたしたちがいつも生活している「現実」が存在している。

 まずは「ヘイトスピーチ」から始まる「民族差別」問題、それから
「経済的、文化的、思想的」な「格差」が進行している問題、
このふたつが混ざりあって、「もう戦争をして、生きるべき人間を
  選別しなければ社会は立ち行かない」という空気と、
それをなんとか押しとどめようとする空気のそれぞれがそれぞれを
「拒否」していく、その「言語的手段」としての「本音と建前」が
「見える格差」を使いながら可視化され、思考が整理されていく。

 この思考が整理されていく様を見ながら、わたしは、結婚はしているが
月一度会うことができたら御の字、これが数年続いている存在と
昨日、あるテレビドラマに関連して話していた、
人が生きている「現実」を「生きているか」の様に「演じる」ことが演劇なのだよ、という
話とおんなじじゃないか、ということと、「平和」ってなんなんだろう?
日本国憲法って、基本的人権の尊重って何なんだろ?という疑問が同時に湧き上がる。

 この疑問は正直いうと、人それぞれが異なる「答え」を持ち、
その「内面的」な「答え」に沿って人生を生きることでしか解決しない。

 けれども、その「解決手段」にそれぞれが取り組まず、
取り組めないから異なる「答え」や「生き方」を尊重できず、
あるいは、良きにせよ、悪しきにせよ、「タブー(禁忌)」という形で
触らない、触りたくない、と「無かったこと」にする。
そうして、他者に対して自らが「生きる」中で得た知識や知見を
振り回して喧嘩を売る。

 この喧嘩が「医療用大麻(マリファナ)」の合法化をめぐる
なんだかんだに集約され、お話には現れないが「喫煙・禁煙」を
めぐるなんだかんだにまで広がって、とにかく、生きていることが、窮屈になってきた。

 もしかしたら、わたしたちは「何かと何かを比較する」ことを通じて
「差別」という活動を知らないうちにやっていた。
もっと言えば、「わたしはあなたとは違う(優れている・劣っている)」と
「差別」することで、自らの「主義・主張」を正当化している「だけ」かもしれないよ?
「他者」というものを許せなくなったり、許せなくなることで他者を傷つけたりしながら。

 そう言うふうに「自由」を追求して、極めちゃうと「たわけ者」になっちゃう。
「戯け」という意味での、ではなく「田を分ける=田分け」として。
本当は主義主張は異なろうとも、ひとつの「理想」のために力を合わせることができる、
否、しなくちゃいけないが、そうしたくないから「繋がり」を絶ちたい、それが自由。

 「繋がりを絶つ」ことで産まれた自由を知って、伝えたから
祖母はその苦しさを紛らわせるために大麻を使い、その子どもたちは
変な「言葉遊び」という学問しかできなかった。
それが何より証拠には「翻訳家」たる娘(若者にとっては母親)が
「格差」を「超える」ことが結局出来ず、心乱し、狂うしかできなかったわけで。

 息子たる若者はなにか、それ、おかしいんじゃね、と思い、
すべての「現実」に理由や理屈、必然性があることを
考えようや、と考えていたのかもしれない。

 さて、私達はどうなんだ?

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ブルーエゴナク「ふくしゅうげき」

題名を漢字で書くと、「重厚」かつ「濃厚」な物語。

  「ふくしゅうげき」って、なんともはや、えげつない題名だ。
ひらがなで書くからよりえげつなく聞こえてくる。

 そういえば、去年の丁度おんなじ頃、松山でそめごころ見て、
船で小倉に帰り着いて北芸で不思議少年見ることになっていたら
松山にたどり着いて、シアターねこに来てから重苦しいほどに
深々と寒さがやってきて、見終わって、道後温泉まで行って、
足湯で暖を取ってから小倉行きの船に乗ると、明日の福岡行き
高速バス雪のため始発から運休、と船内アナウンスが。

 なんかやばいことになりそうと、いろいろ考えていたら
船はもう小倉、駅前まで歩いて、マクドナルドで飯食って考えて、
とにかく北芸まで行こう、ということになって、数時間待つと、
もう、シャレにならないくらい雪が降り始め、路線バスはチェーンを
シャリシャリ言わせながら走っている。

 チケット代のお金で快速電車に乗って今なら帰ることができる。
「演劇を見る」ということよりまずは「無事に家に帰る」ことを優先させてしまった。

 それから一年後、深々と、というか深、という寒波がやってきて、
またおんなじように北芸に向かっている。
大橋でのきらら「はたらいたさるのはなし」、見に行く前に
うだうだになったうどん粉の脳みそでたさきこぱるに捕まり、
「チケット買って」と言われたものだから(以下略。

 そういうことがあってハコのなかに入ってみると清々しいくらいに何もない
しかも、程よい高さで区切られた素舞台が一つ、そして四隅にマイクロフォンが2つ、
明かりはなんか薄ぼんやりしている表演空間が目の前に広がっている。

 今までのエゴナクは「ラップミュージックと身体言語の化学変化」を
全面に押し出したいわゆる「クラブ系演劇」を持ち味にしてきたが、
今回はそれよりも何か「枯れた(いい意味で)」空間作りをしている。

 その空間で繰り広げられるはとある「中華料理店」の「職場環境」という
ある意味「ヒエラルキー」と呼ばれる「上下関係」というか「序列」というものが
「暗黙の了解」の上に成立していて、「ある程度」はなんとか上手く行っていた。

 しかし、この危ういながらも成立していた「ヒエラルキー」が
何らかの事情で「壊された」時、どうなるよ?

 今まで唯々諾々と「従っていた」裏に隠れている数多くの
ものすごく「ドロドロ」とした負の感情がみなの心の殆どを占め、
こうなっちゃうと「本来の仕事」ができなくなり、その隙間を
「盗み」やら「不倫」とか「人殺し(肉体的・精神的両方共)」、
そして「放火」という危ない方向に行動の矛先を向けてしまうものだ。

 てか、板の上で90分延々と「わたし自身が抱えていた本質的問題」を
見せつけ、直面して、どうやり過ごし、乗り越えていくか、考えな。
といわれている感じだ。

 どどのつまりは「負け」に対する「嫌だ」という感情や、
「同じだ」ということに対する嫌悪感というものが
人生そのものに暴力や、暴言、さらには「不寛容さ」と言った
本来入り込めないものを入り込ませてしまう要因だった。
そして「被害者」もいない、ましてや「加害者」もいない、
底にいるのは素の「わたしたち」だった。

 こういうふうに毎日の生活にありがちな憤怒と憎悪、
これらの結果としての「行動」が「行き着く先」を
ドフトエフスキーの演劇的文脈で表現しているけれど、
重くもなく、かと言って軽くもなく、生きている重さで
コンテンポラリー演劇として、見せるとこうなっちゃうのか!!

万能グローブガラパゴスダイナモス「月ろけっと」@東京

再生する、再起する、という希望。

 熊本では、面白い、面白い、と笑っていたら、知らないうちに
「ああ、お前は一体何をやってきたんだい?」に加えて
「そして、お前は一体何をやらなかったんだい?」という問いかけが
そこはかとなく響いてきて、戦慄を感じたし、その問いかけに答えようとした。

 福岡では「ペネトレイト(突破)」の力強さ、しかも「軽い」ではなく
「重い」ペネトレイトを物語にぶち込んだら、「推進力」というものが
結構重く、力強くなっていて、おまけに「重さ」を感じない。
このペネトレイトで物語を見せると、人間関係を始めとした
「なぜ、そうなるのか」という「知的な迷路」にいつの間にか
はまり込んでしまい、また見たくなる、まるで麻薬のような演劇にまで
「仕上げて」きた。

 さて、この演目の熊本公演後、わたしの身の上が
「壮絶なこと」になってしまった。
というか、「星降る夜になったら」の初演時から始まる
わたしの「壮絶すぎること」が動きだしてきた、ともいう。

 演劇を「見て・演じる」という立ち位置と役割から
「見て・演じる」を自然なやり方でサポートできるように
ありとあらゆることを「学んで、即実行する」というやり方を
始めていたら、いつの間にか窮屈になりすぎて、
また、すべてを放り投げてしまった。

 先ず、「わたしの癖」に特化した「就職エージェント」を探して、
「自分のスタイルで働くための」エージェントを大阪で探し、
見学等の手はずを整えながら、四国の善通寺で
「見て・演じる」を自然なやり方でサポートする、から
「緻密なオペレーション」に転換するなんだかんだを学んで、
実行するプロジェクトに参加した。

 その間に西成の有名ドヤグループにかならずある
「福祉サービス相談所」に行って、住むところとか、
いろいろ足りないところを整えたかったが、
上手く入れそうになく、これじゃまずい、と気がついて
福岡でそういうことができる就職エージェントを探して、
たまたま近所にあるところを見つけて、連絡して、
色々段取りを組んで、この公演の東京分が終わって
演劇優先の生活を一区切りして、「第一段階」に入る
心積もりはしていた。

 その見通しの甘さが・・・結局、いい方に転がった。
年末の四国の善通寺でのアートマネジメント講座、残り、出られません、
という連絡から大阪経由で横浜、東京行って、広島回って
帰ってくる、とか、年末年始の戻し方など、「まずいところ」を出し切るように
持って行かれて、その都度「修正」して、実行する。

 この東京行きだってそうだ。
というか、スケジュール作りのプログラムで当初の日程が
色々不都合がある、ほんとうはキャンセルしたほうが後々いいのだが、
予約をセブン・イレブン行って、お金を払い、チケット化したから
逃げようがない、変更まで無理だったら、と考えていたら(以下略。

 で、スケジュールの詳細な流れを「紙に起こして」見て、動く。
・・・いや、まあ、慌てることがない、とでも言っておこうか。

 わたしのことはさておいて、熊本、福岡公演で見えてきたことは
「生きる」と言うものは人それぞれ異なる量の「持ち時間」の範囲内で
「何をやって、何をやらなかったか」ということの「途中経過」であり、
この「持ち時間」を使い切って、やったものが「結果」として残る。

 ・・・シンプルにいうと、「私たちは命を削って、良きにせよ、悪しきにせよ、
何かを成し遂げようとしている」ということやねん。

 これらを「表現」する物語の「雛形」はゲーテの「ファウスト」という「コンテンツ」。
この「コンテンツ」が繰り返し過ぎたことによる「陳腐化」が
激しくなり、「ファウスト」の「核心部」はそのまま残しながら、
現代風に「選択肢」を「多様に限定化」して、「アミューズメント性」や
「エンターテインメント性」を前面に出す、「リアリティ系コンテンツ」に
まで発展させている。

 コンテンツに必要なのは「進行役」と「狂言回し」、
そして、「コンテンツの主役」たる「ターゲット役」。
カグラザカってやつは「進行役」のふりをしているけれど、
実は「狂言回し」の役しかやっていない。

 ・・・だとしたら、「真の進行役」は誰なんだ?
もしかしたらヤヨイ、という「人間の皮をかぶった悪魔」が進行役なのか?
そう考えないと「自らは選ばないが、ターゲットには選ばせる」、という行動が
熊本、福岡公演で見た時、どうしても納得できなかった。

 しかし、就職エージェントと「癖」を探る作業をしていく中で見えたことが
人間そのものが「こうなれば、こうなってしまう」や
「こうしてしまうとこういうことになる」という「結果を見越した」行動を
「感覚的」かつ「緻密」にはできにくい。

 一度、「紙に書く」という「肉体を通して意識付けをする」作業をして、
「欲望から来る行動」を「突き放してみる」ことをしなければ
「欲望という落とし穴」の存在に気が付かない。
・・・というか、私たちは「こうなったらいいな」という「願望」で
自らが落っこちる「落とし穴」を自身の手で気が付かないうちに掘っている。

 「楽しい」とか「面白い」の裏では「良くない結果」につながっている。
こういうことをコメディで表現して「同性愛」の叶わぬ恋をスパイスに加え、
「生きて還りし物語」でお化粧を施すと、「人は遅かれ早かれみんな死ぬのだ」、
産まれて、生きて、死ぬまでに得たものは全部「偶然を装った必然」だった。
この「偶然を装った必然」をさり気なく見せる事が「真の進行役」の役目。
だとしたら、全てが納得行くねん。

 こういうふうに、「欲」にまつわる人間の営み全般というか
「弱み」をぎっちり見せてしまうと、まじですげぇとしか言えなくなる。

 そして、ラスト前、「様々な悪感情」をこれでもかと見せつけられた末の、
最後に発する「始めましょうか」というセリフに「再生する、再起する希望」が
込められていることを東京で知ってしまった。

演劇集団よろずや「バイバイ」

いつもの挨拶がやけに愛しく、そして哀しい。

 わたしにとって、「プロ野球」と言うものは近くて、遠い。
わたしの「人生」に「プロ野球」が入ってくる時はあるが、
「同志」と呼べるくらい1シーズン、ガッツリ野球場で応援したことがあまりない。
選手は遠くから見るものであって、サインなんて欲しくはない。
むしろ時間が経てばごみになる。

 いろいろあって、客席を見渡してみると、カープの赤ユニやら何やらがチラホラと見える。
ホークスはなんか、「みんなでたたかっている」という雰囲気が薄い、
薄いから少しでも調子が悪くなると、ありとあらゆるところから
「不平不満」が飛んで来る、そして全てがギクシャクする。

 わたしも含めて、それぞれの人生が存在して、その中に「野球」がくっついてきて、
わたしの人生が調子良い時は励まされつつ「油断するなよ」と釘を刺され、
逆に調子悪い時は「慰め」という励ましと、辛抱すればなんとかなる、という
教えをもらう、「調子の波」と言うものは個人差はあるけれど、ある一定のリズムを
持って浮いたり、沈んだりしている。

 ある時はわたし自身の調子とチームがいい調子で重なったり、
わたし自身は調子悪いが、チームはその逆ということもあるが、
基本、良いことばかりじゃない、悪い事ばかりじゃない。

 広島東洋カープとそのファンはこの事を日本で一番体現しているかもしれない。

 それはさておき、津田恒美というプロ野球選手の「人生」は常日頃、私の心の中に
とどめている、というかとどめ「続けている」出来事である。

・・・気が付けば、自分は彼より11年も長く生きている。

 カープでがんがん投げていたときは、正直、憎たらしかった。
というか、昔のカープの野球はあまりにも隙がなかったわけで、
その隙がない試合の、これまた「しまい」に出てきて完璧に抑える。

 他球団のファンにとっては憎たらしいことこの上ない、まじで殺したいとすら思ってた。
フルフォーム(めちゃくちゃ調子のいい状態)のとき、本当にストッパーしくじったのは
原辰徳を骨折に追い込んだ前のシーズン、優勝争いの大一番、
後楽園で駒田徳広に満塁一発喰らったことと、
日本シリーズ第5戦、所沢で当時ライオンズの工藤公康に
サヨナラヒット喰らった「だけ」か。

 その時の様子からこの物語は丁寧に書き起こしている。
こんなに気迫溢れる仕事をする人間が実は小心者、というか
ものすごい優しさに溢れた「人間」だった。
もしくは、ものすごい優しさに溢れた「人間」だったから、
気迫溢れる仕事をやり遂げることができたんだよ、と指し示す。

 結婚して、やっと夜でも明るいおうちに帰ることが出来て、
子供も出来て、さあこれから、という時に彼は病に倒れてしまったとき、
正直、わたしはびっくりした、というか狼狽した。
・・・だって、さんざん死んでくれ、と思っていてそれが現実になると、
「喜び」よりも先に「やっちまった」という恐怖が襲って来る。
そして、「わたしの持つ悪魔性」に気づかされる。

 はじめは「水頭症」とか言っていて、野球は無理でも
まあ生きて帰っては来るだろう、とは思っていた。
しかし、1年経っても、2年経ってもいい知らせは来ない。
そうなると、いままで持っていた憎らしさはいつの間にか消えて、
「お願いだから、生きて帰ってきて」という思いになってきた。

 しかし、それはかなわぬことだった、ということを
当時、NHKであったドキュメント番組を見ることと、それを文字化した本を
読む機会に恵まれたことで、表には見えない壮絶な現実を知ることとなった。 

 ほんとうは奥さんが書いた「最後のストライク」という本も
読んだほうがいいかもしれないが、主治医(演劇とおんなじように
実際も女の主治医だったのだろうか?)との「西洋医学対マクロビオティック」の
平行線をたどる言葉があまりよろしくない言い争いが巻末にあって少ししんどい。

 当初の新聞記事にあった病因の「水頭症」というのは
実は、ファンを「安心させる」ためのエクスキューズで、
実際は本当に手の施しようのない「脳腫瘍」だったこと。

 それでも何とかしようと奥さんが「マクロビオティック」中心のやり方で
懸命に看病したこと。(だから、彼の「終の棲家」は広島ではなく福岡なのだ)
一時症状が瓦解したときの現役復帰に向けた執念。

 加えて「プロ野球」という毎年新陳代謝の激しい世界で必死に食らいついて
代謝・淘汰をくぐり抜けるけれど、何時かは力及ばす、代謝・淘汰の対象になってしまう。
それでも、懸命に食らいついて、戦ったんだから、悔いはないよと、次の人生に
胸を張って進むことをこうして当事者の感情入りで演劇すると、より一層心に入っちまう。

 
 自分はあれからことあるごとに彼の闘病生活とプロ競技選手の競技人生を想い、
「自分は、果たしてどれだけのことができているのか?」
「自分は、自分がやろうとしていることに妥協を許していないか?」
「自分は、安易に享楽や快楽に走ってはいないだろうか?」
ということを自問自答している。

 あれから13年経った訳だが、当時現役プロ野球選手だった
当事者の殆どがいろんな人生を生きている。

 森脇浩司は新聞に載らない「ある小さな事件」がもとでホークスをやめさせられ、
オリックスバファローズに落ち着いたものの、プロ野球とは縁が切れ、
アマチュア選手の面倒を見ている。

 達川光男は王貞治に請われてホークスに来るが、
我の強さで喧嘩別れして、カープの監督をしたあとに
たまたま松山でのオープン戦の帰り、広島行きのスーパージェット、
あの頃は1000円の追加料金だったな、そこで同席して、
こ難しい顔をして週刊文春読んでたな、これまたなんだかんだあって
落合博満に請われて中日ドラゴンズに行くが、諸事情で出て
来年から縁あってホークスに戻る、今度は喧嘩別れするなよ。

 きたぽっ・・・じゃなかった、北別府学はカープとホームテレビを
振り子のように行ったり来たり、いい年になった今は野球解説の傍ら
夕方ニュースの「情報部門」で美味しいもの食べたり、温泉行ったり、
局所属のタレントさんとまったくおんなじ仕事をしている。

 清川栄治は近鉄バファローズの打撃投手をしている、という話は
聞いたが、球団が消滅し、それでも何処かの球団の打撃練習でコツコツ球を投げているだろう。

 今井譲二は熊本で地に足をつけて、仕事と野球を踏ん張っている(と信じたい)。

 正田耕三は・・・なんでカープと喧嘩別れしたんだよ!!
阪神タイガースでコーチしたけれど、結局消息不明になっちまったじゃねーか。
ほんとうは(以下略。

 山本浩二はWBCで誰も拾いたくない「火中の栗」を何の因果か、
みずから拾いに行った。

 安仁屋宗八(ルーキーズに出てくる安仁屋の名前はこの選手から取ったんだよ!)は
相も変わらずマイペース、RCCで好きな様に喋り、好きな様に振る舞っている。

 長内孝は「野球鳥」という焼き鳥屋だったね。
何処かでスカウトか、なんかやってコーチしてたかと思った(ポリポリ)。

 山崎隆造は結構長い間カープとともにいたんだね。
まあ、広島市内の女子大生を相手にしたマンション経営も順調だし、
カープで球団編成の仕事したり、テレビ・ラジオで解説しなくても・・・。

 金石昭人は言わずもがな、一番この中で成功しているんじゃね?

 あと、一番若い緒方孝市、なんだかんだあっていまやカープの監督だ。
天国の津田恒美も腰抜かしながら、泣いて喜んだだろうよ。

 そして、志半ばで亡くなった上本孝一という審判員とお話にはでてこないが
木村拓也の事も忘れてはいけない。
ホークスの藤井投手の物語もこうして「演劇」にすることができたら
果たして沢山の人に見てもらえるだろうか?

・・・今年も生きて年の暮を迎えられた。

KAAT「ルーツ」

本当の意味での知性とはなんぞや?
「洗脳」されるために知性があるとしたら・・・。

 ・・・そんなのいやだ。
というか、関東には結構頭の逝かれたお年を召された方々がいるねんな。
KAATは5階に主なホール入口が「レイアウト」されていて、主なアクセスは
チケットボックス隣りにあるエスカレーター。

 それより前、朝5時に大阪上本町から東京駅八重洲口に放り出され、
(大阪バスニュースター号は居住性抜群だったけれど)
上野東京ラインの始発電車を待ち、上野駅にたどり着くも
歩道橋のエスカレーター・エレベーターが全部朝7時からしか動かない。

 ひいひい言いながらいつも行くサウナへ行き、お風呂に入り、
大広間の仮眠室に入ると急に眠くなり、気がつくともう10時前。
もう一回お風呂に入って温まって、行く準備をして、朝飯食って、
荷物を宿に預けて、トトロ日比谷線で中目黒、それから横浜。

 横浜について、「目的地までの道に迷う」という「市内観光」をして、
それから神奈川芸術劇場(KAAT)にたどり着いて、上に上がるエスカレーターが
動かないことを見て、道向かいのローソンで体制を立て直すことにする。

 なんか食べて、レポート書いて、そろそろ時間やね、と場所に戻ると
エスカレーター前がなんか剣呑だ。
どこぞのおっさんが仏頂面で本読みながら待っていて、気持ちが悪い。
気持ちが悪いことを辛抱しながら待っていると
チケットボックスのお姉さんにイヤミをぶーたれている。

 「順番守れ」、と言うたかて、チケットの券面にはもう「入場の順番」を
記した番号がすでに印字してあって、早く来たからというわけじゃない。
チケットボックスには「本日公演の当日券は(チケットボックスで)発売されていません」と
張り出してはいる、なのにあのおじさん、チケットボックスのお姉さんに
「この状況を写真に取れ」なんて、頭のネジが数個飛んだ人でないと言えない言葉を吐く。

 剣呑すぎる状況を抜け出して、ようやらやっとエスカレーターが動く瞬間、
おっさん、こう吐き捨てたよ。
「あなた、わたしの言った日本語がわかってないですね」だと。
わかっていないのはてめぇだろうが、という言葉を飲み込みつつ
エスカレーターを上り、ロビーにたどり着いて(以下略。

 リアルに「威力業務妨害」を見て、入ったら空間のつくりにも驚いた。
ある意味、多層構造の倉庫であり、生活空間、というには
いささか殺風景、おまけに地下構造まで作り込んでいる。

 さらには殺風景、無機質ながらも、ものすごい精度と密度で
それぞれの人物設定に合った「生活空間」を作り、「購買部」まで立ち上げている。
・・・構造はシンプルだ、けれど恐ろしくリアル。

 こういった「空間」で繰り広げられるは、「古細菌」という
「細菌の化石」を探しに若い研究者が地図にない「事にされている」
廃鉱を抱えた村に導かれるようにしてやってくることから始まる物語。

 最近、人間関係において私は「他者」と「異者」という「腑分け」を
より意識するようになってしまった。
問題、というか、課題は「他者」と「異者」の線引きはどこなのか?
更にいうと「他者」と「異者」の間にある、「わたしじしん」を
「客観的に見た」存在と言うものをどう呼べばいいのか、
板の上で繰り広げられる「認められる」という作業を見ている。

 この作業を見ていけば見ていくほど、この村の村人が、
というか、この地球で生きている人々が何かある種の
個々人に違った「障害」を持たせて、どう振る舞うか?
という「実験」に物語が化けてしまう。

 「障害がある」ということを認めないでわけの分からない
生き辛さや生き辛さから来る「落ちぶれ感」、さらに「平凡」で
あることを罪悪、というか恐怖に感じる心持ち、故に
「そっとしておいてくれ」としか言えないナイーブさ、
このナイーブさを知ろうともせず、「わたし自身だけが持っているかもしれない」
興味を第三者に「押し付けているかもしれない」しんどさ、辛さ。

 「実験」を経て「異者」がなんとか「他者」となって、
新しい命が生まれるまでがインターミッション前。

  インターミッションを通り抜けると、物語の色調が急に変化する。
「せけん」や「せかい」の「偏」や「作り」、というものを
広すぎず、狭すぎず、程よい空間で、しかも時間の長さも感じさせず、
あっさり見せるから目から鱗が落ちると腑に落ちるを同時体験してしまう。

 「にほん」という「くに」や「みんぞく」というものが「そのほかのせかい」から
どういう風に「見られ・思われて」いるのか、そしてこの「見方」に
わたしたちがどう反応しているか、目の前に突きつけられると、考えさせられる。

 「せかい」すべては、みんな「うそ」でつながっている。
「うそ」を共有しない・あるいはできない人は「せかい」には入れない。
「うそ」を信じない・信じたくない人を排除するのがこの「せかい」の仕組み。
この「じじつ・しんじつ」を旧坑道の中で立て板に水の言葉回しで話すと、
不思議に納得してしまう。

 まあ、若い研究者も「せかい」でよく使われている
「賛同を得るために」という言葉の胡散臭さ、と言うものに、気づかなければならなかった。
「多くの人の賛同を得るために」ではなくて「多くの人を騙すために」ということに。
それを「研究所を作り、村をもり立てる」という欲に負けて、忘れてしまった。

さらに、この「せかい」は「ほのめかし」を好む。
そのためには、一世代の期間を費やして「リーダー」や
「カリスマ」という存在を育てることもある。
これは、テロリストの育成と同じだ。
生まれた時から近親者が少なく、少し賢く、貧しく健康であればよいわけで。

 おまけに、「魂」の問題、というやっかいな問題までついてくる。

 結局、わたしたちが「ただしいこと」と信じてきたものは、
ほとんどうそ・いつわりだったのかもしれない。
そのうそ・いつわりをきれいに剥がしたのが「ぼくちゃま」という存在の
「代替わり」にまつわるなんだかんだなのかもしれない。

 誰もこの「構造」を笑えない。
どんな形であれ、私たちは「洗脳」を受けているのだから。
わたしだって、あのキチガイを排除するために警察呼ぼうとしたのだから。
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