尖った意見を言うことがかっこいいというのならば
・・・やめといたほうがいいぜ、という演劇の感想を見かけた。
本当は当該ツイートを貼り付けたいけれど、そのツイート主が「自分の鑑賞眼にケチをつけた」と
自分にいきり立って見るに堪えない、聞くに堪えない言葉をぶつけてえらいことになるんだろうな。
だから貼らない。
本当は当該ツイートを貼り付けたいけれど、そのツイート主が「自分の鑑賞眼にケチをつけた」と
自分にいきり立って見るに堪えない、聞くに堪えない言葉をぶつけてえらいことになるんだろうな。
だから貼らない。
まず、自分自身の問題もあって、今は演劇から離れているわたしの状況がある。
だから、ぼろくそにけなした演劇の演目を見ていない。
けれども、「これだけけなした演目」というものを見てみたいと思った時点で、
わたしは「ぼろくそにけなした人」の土俵に上がってしまった。
この事実は認めなければいけない。
だから、ぼろくそにけなした演劇の演目を見ていない。
けれども、「これだけけなした演目」というものを見てみたいと思った時点で、
わたしは「ぼろくそにけなした人」の土俵に上がってしまった。
この事実は認めなければいけない。
認めるからこそ、言える言葉があるとしたら、「厳しい言葉」と呼ばれる「尖った言葉」を
出すということは、その言葉を出すに値する人生を生きてきましたか、ということしかない。
出すということは、その言葉を出すに値する人生を生きてきましたか、ということしかない。
「面白い」とか「面白くない」と感じて、動く根拠には個々人の「人生」が投影されている、
人生が投影されていない「面白い」や「面白くない」には何の意味もないし、自分以外の人間を
人生が投影されていない「面白い」や「面白くない」には何の意味もないし、自分以外の人間を
感じて、動かすことができるわけがない。
厳しい言葉を他者に向かって簡単に吐く人にその覚悟がなく、その言葉の厳しさ、尖りを
自分に矢印として向けたら、もっと自分の人生をよりよくできるだろうに。
自分に矢印として向けたら、もっと自分の人生をよりよくできるだろうに。
そうしようとして試行錯誤の連続である私の人生を「xxxx(わたしの名前)みたいに
落ちぶれたくない」とツイッターで言われると怒りを通り越して、あきれて、悲しくなってきた。
・・・落ちぶれているのは発言者の人生そのものではないでしょうか。
ということを言えたらどんなに楽だったけれど、じっと、じっと辛抱してきた。
落ちぶれたくない」とツイッターで言われると怒りを通り越して、あきれて、悲しくなってきた。
・・・落ちぶれているのは発言者の人生そのものではないでしょうか。
ということを言えたらどんなに楽だったけれど、じっと、じっと辛抱してきた。
「感想」という「本題」にたどり着く前にあえて「自分の人生から見出した評価の根拠」を
書いてきたことに長い、と文句を言った方にもはいはいと受け流しつつ「この人全くわかっていない」と思っていたら、ある出来事を通して本当にわかっていないことを知ることができ、あらためて縁を
切ることができた。
書いてきたことに長い、と文句を言った方にもはいはいと受け流しつつ「この人全くわかっていない」と思っていたら、ある出来事を通して本当にわかっていないことを知ることができ、あらためて縁を
切ることができた。
面白くないだの、楽しくないだの、つまらないだの、そんな言葉はどうでもいい。
みんなはその言葉を発した人がどう生きたか、それを見たいのよ。
・・・隠すんじゃねぇよ、大馬鹿者。
みんなはその言葉を発した人がどう生きたか、それを見たいのよ。
・・・隠すんじゃねぇよ、大馬鹿者。
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