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表現の面白さを体感するワークショップ

「自己開示」のやり方。

 そういえば、わたしはわたしの「障害」あるいは特性について、
演劇や舞台芸術の場において、うまく開示できていなかった。

 うまく開示できていなかったから、どういう人があって、どんな人が
合わないのか、ということがわからず、見つからず、ただ闇雲に行動範囲を
広げすぎ、人と人の間でぶつかりすぎて、しんどい思いをし続けていた。

 そうなっちゃうと、何もかもが動かなくなって、行動範囲や人間関係を
絞っていき、なるべく外に出ない生活をするようになると、
良い感じになってきた。

 そういう状況で始めた在宅ワークのトレーニングをする中で、
自己開示のやり方を改めてやり直し、一つの方向性が見えてきた。
その感覚を持っていって、演劇をやってみたらどうなるんだろう?
ということを考えていたら、このワークショップ、というか
前段階としてのシンポジウムにおいでよ、という提案をもらい、
そういえば、糸山さんや王丸さんに自分の障害特性を開示していない
よね、と話そうとしたらチラシをもらい、参加の段取りをしてしまった。

 年が明けて、大雪で日程が飛び、コロナで日程が飛び、
さあトレーニングだ、ということになったのが3月、発表のことは
考えないで何ができるのだろう、ということを探ることに
自分の全てがフォーカスしていた。

 金曜日は午前中通院のため天神に行き、昼過ぎに家に戻ってご飯を
食べて訓練に入り、終わって支度をしてバスを乗り換えて
ももちパレスへ。
(西鉄さんも区間制定期券、都心フリー定期券のほかに東京のバス会社が
 やっている金額制定期券も導入すればなんとかなるのに、改廃だけが
 打開策じゃないんだよ)
 ギリギリに入るように時間調整として藤崎のエニタイムで体をほぐしてから
トレーニングに入る。

 このトレーニング自体がセッションの組み方、グルーピング、時間設定、
あとなんだかんだが秀逸の出来。
そういう空間で時間を過ごすと、自分の障害特性から来る問題点が
なんとなく理解できるようになってきた。
 
 自分は「自然と息を合わせる、自然に息を合わせた」人や存在に対しては
変な敵意を示さない、けれども「息が合わない、当人の持っている息に
わたしを合わせようとする」人や存在に対して、苛立って怒りを見せていた、
ということがわかるようになってきた。

 この問題を理解した上で、いままでの自分を振り返って、
その振り返りを他人の振り返りにくっつけて、音や動きをつけると、
物凄い作品になってしまった。

 こういう体験を主治医の先生に話したら、参加したい、という人が
結構いるんだよ、ということだった。
がだ、この手法は障害特性の違いによって、トレーニングの組み方を
細かくして、グルーピングや時間設定もより細かくしないと、
心地よい場が違う障害特性にとっては息苦しくて苛立つ場に変わりかねない危険性が
あるよな、ということがあるので強く勧めることができなかった現実。

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KAKUTA 「ひとよ」@豊橋公演

「父帰る」というか、「母帰る」だったのかもしれない。

 コロナウィルスになってから、お金があって、社会的信用のある人「しか」
エンターテイメントを享有できなくなった。

 ・・・だって、ローソンチケット取り扱いの一部とJリーグチケットは
携帯電話料金に上乗せしてチケット代を払うことができる、おんなじ仕組みで
演劇の配信(そういえばCapriの時空の滑りが織りなす恋愛もそのシステムだった)も
あるにはあるけれど、世の中のほとんどのキャッシュレス決済は「借金前提の」クレジットカード
じゃなければ、誰も、どこも、相手にしてくれない。

 SMBCとか、JCBが発行する銀行デビッドカードだったら楽天市場などは相手にしてくれる。
しかし、鉄道会社、チケットぴあ関連(どうしてチケットぴあはd払いを導入しないのだろう?)、
あとなんだ、そう言うところは銀行デビッドカードなんて相手にしてくれない、変更やキャンセルが
ややこしい、と言い訳するがそこはうまくシステム…何も言うまい。
SMBCやJCBの発行したプリペイドだったら、もっと相手にしてくれない。
デビットやプリペイドは「対面販売」でなければ力を発揮しない、とコロナ禍で強く感じた。

 だとしたら、演劇やエンターテイメントよりも、今はじっくり自分の根っこをよりよくしたい、
根っこをよりよくするための妨げをなんとかやり過ごし、一年半以上じっくりやって
こないだひとつの成果、というものを見せて、出してきた。

 そして、「ひとよ」という演目が映画になり、あれっ、実演見に行ったっけ?
スカウティングメモ引っ張り出して確かめてみるが「跡々」ともう一本は
KAKUTA見に行っていた、けれども「ひとよ」は行っていなかった。

 久しぶりに遠い所の空気も吸いたいし、近鉄特急の積立金カードも取りに行きたいし、
あわよくば大阪から入って「ひのとり」で名古屋に入って、なんだかんだしたいな、とは
当初は思っていた。
しかし不安感がじわじわとやってきて、ジェットスター名古屋往復にしよう、と
予定をまとめ、金曜名古屋入りの日曜終演後福岡に帰る、という日程でまとまりかけたが、
今度はジェットスターが便そのものを減らしにかかり、日曜間に合うか間に合わないかという
行きの便、月曜早朝の帰りの便を提案され、より一層不安になって出発当日を迎える。

 結局、中部国際空港第2ターミナルの降機口からターミナルの出口までが経費節減の折、
エスカレーターや動く歩道なしの階段クロスカントリーに困り果てたところに一度上に上がらないと
名鉄の駅にたどり着けない、ということもあり、2日間の名鉄フリー切符を買い、特別車座席券を買い、お茶を飲みながらホームの上で劇場さんに「遅れます」の連絡を入れて心を整え、電車に乗る。

 豊橋について、駅からまっすぐ劇場に着き、登録作業をして、びっくりするくらい良い対応で
席に着き(これが本当の「蛍さん」の仕事だった!)今そこにいる日常とは別の日常を実感する。

 ざっくりいうと、このお話は「機能不全家族の破壊と再生」というものが肝なのだ。
そして、どんなに家庭の中が機能不全に陥っていても金や地位があるから外から見て
「このおうち、ちゃんと機能しているじゃん」と見えてしまうのかもしれない。

 加えて、「タクシー会社」という「緩衝帯」や「防波堤」のような
「信頼できる、信用できる、安心できる」場がそこにできているので、
そうそう悪いこともできないし、誠実か、不誠実かよくわからないが、関係も長く続く。

 そういうなだらかな関係を見ながら私にはあるお話が頭をよぎる。
「あれっ、これ菊池寛の父帰るを現代にアレンジしたやつだ」
「著作権切れていたら青空文庫に所蔵されているし、著作権が切れてなかったら
明日本屋に行こう」というふたつのことを考え、帰りの空港で父帰るを初めて読み、
あれ、短編小説か、と思ったら短編戯曲だったんだよな、本当に構造が一緒だった。

 「ひとよ」は母がDV野郎たる夫を成り行きで殺して、刑務所に入って、出所するが
家に戻るにはいたたまれ過ぎて日本全国を放浪するけれど、「生き場所」を求めて
また家に帰る、家に帰ってどういう作用が起こったか、というお話。

 対して、「父帰る」は興行師の父が好きなことをやりすぎてしくじって、
どうにもならずにこれまた日本全国を放浪するけれど、「死に場所」を求めて
家に帰ったものの、息子の「憤怒と憎悪」がすべてを台無しにして…というお話。

 家庭が機能不全だと、いろんなことが歪んでしまい、何もかもがうまくいかなくなる。
それを解決するのは「殺人」をはじめとした「破壊行為」なのかもしれない、と
思い込んでしまう、実際「父帰る」は父を追い出すという「破壊行為」をして、
「ひとよ」はDV夫を本当に殺し、嫌みなことばかり言う姑も殺した、
そして、飲酒依存と薬物依存のダメおやじも「手に掛けよう」とした。

 本当に、人間という生き物はどんなにまともでも「憤怒と憎悪」の記憶があれば
「憤怒と憎悪」の対象が目の前にいれば、どんな残酷な事でもやってのける。
わたしだって、一つ間違えていたら本当に残酷で取り返しのつかないことをしていたのかも。


うぎゃぁ。

 きのうは「となりの田中さん」の学生リーディング公演を
見に行くはず...だった。
 筋トレしてご飯食べて、机に向かって作業して、完全にスイッチが切れて、
気がついたらどうにもならない時間帯。
完全に予定が飛んでいた。
 家庭内暴力の問題やジェンダー、あとなんだ現代社会の欠点をこれでもかと
盛り込んだ戯曲をこれからの人間が演じることで生まれた気付きを見たかったのだが。

オンライン演劇CAPRI【apartment2020】

あらゆる意味で、「ハイブリッド」。

 この演目、以前は「不思議な恋愛3部作」のひとつとして上演され、
「愛」というものは「ロジック」で語ることができるのか?
「ロジック」で語ろうとしてもその外に存在する様々な不確定要素が飛び込んできて、
外から飛び込んできたものがもたらす「化学変化」によって「愛」というものは豊かになる。
そういうお話を5月ゴールデンウィーク明け、六本松に新しくできた福岡市「科学館」のホールで
久しぶりに2020年、の空気をまとわせて仕立て直し公演をする・・・はずだった。

 けれども、コロナウィルスというものは予定をバラバラと解体しやがる。
御多分にも漏れず、この公演も気が付けば、中止になっていたが、このカンパニー、
ただでは起きなかった!

 もともと映像の心得がある人だから、舞台の上でやる演劇をZoomというネット会議システムを
うまく利用して「程よい長さで編成された映像作品」でこの世界観を表現し、台本・稽古・作品の
「3点セット」を閲覧できる「権利」をクレカ決済、コンビニ決済に加えて携帯電話キャリア決済を
使うことで「誰にでも手に取りやすい」作品に仕立て上げた。

 けれども、新しいことを始めるのはいささか大変だ。
演者それぞれが携帯電話のカメラと自撮り棒の使い方に戸惑い、やっと方針がそろって、
「場面のあわせ」ができて、小さいコマをつないだ程よい時間帯で「余韻」を持たせながら
しっかり物語を見せることができたら、今度は物語の中にある磁気嵐が実際に来たので、
配信自体がままならない。

 気が付けば6月末予定の配信期限が7月末になり、ようやらやっと最後の一章を見た。

 こうして映像で見てみると、「ロジック」は奥へ丁寧にしまわれて、
「世界」というものは、私たちが実際にいる世界(=A)と私たちが実際に存在していない以外は
すべておんなじ世界(=’A)の同時並行感、というところがよく見える仕組みを
よく作り上げたものだ、と改めて感心してしまう。

 そうすると、「死んでしまう」ということは「今いる世界(A)」から
「今いない世界・これから訪れる世界(’A)」へ移動して、戻れなくなる行為なのかもしれない。
特に事故や災害で突然死んでしまう、という行為に関して考えてみると、ものすごくしっくりくる。
 ならば、「病気」というもので「運命」を全うした存在はいったいどうなるんだろう?
「自殺」や「殺人」で「生きることを断念せざるを得なかった」存在はどうなるんだろう?

 そういうことがわからないように、わからせないように、わたしたちは生きているのかも
しれないし、生かされているのかもしれない。
そう思えば、別のところでよろしくやってんじゃないの、と素直に思えるかもしれないが、
「人生を始める」段階で悔やんでも悔やみきれない出来事のせいで大きな、否「大きすぎる」未練
というやつを抱えちまうと、いろいろ大変でのちの人生、いろんなものを引きずってしまう。

 その未練を断ち切るように一人の女の子がやってきて、「大丈夫」を重ねてAと’Aそれぞれの世界を
再び動かしていく、というお話にうまく仕立て直した。
だから、「望まれないで生まれた命」なんて本当は存在しないのだが、人間という動物の欲深さが、
そんな悲しいことを言わせてしまうんだよなぁ、ふうっ。

オンライン演劇「未開の議場」九州沖縄Ver.

「社会的距離感」が違うから「人種の坩堝」というのかもしれない。


 うーん、前回のことに関して考えた、感じたことをノートに
書き起こしたかと思っていたが。


 前回はコロナウィルスという「人類共通の問題」に対応するため、
「人々の往来や様々な活動を犠牲にしている」状況による「身動きのとれなさ」や
「分かり合えなさ」によるぶつかり合いからどうなる、という流れだった。


 その流れから数か月、事態は「必要最低限の往来や活動」が解禁された。
というわけで、数か月ぶりに身動きが取れて、いろんなところに
何とか出かけることができるようになった。


 そういう空気を感じて、春と同じ演目を九州沖縄の演者によってやる趣向を見る。
というか、外に出られない間に桜は咲いて、散って、葉桜になり、
そして梅の花も咲いては散って実を太らせ、収穫のち梅干しや梅シロップなどという
加工品に生まれ変わりつつある。


 ・・・ああ、これが「時の流れ」というものか。
わたしたちは「見えないところ」で仕事を進め、世の中を生きているのに
自然はいつもと変わらず、同じ営みを繰り返してはいる。


 ズームという遠隔会議システムを使い始めて結構な時間がたってみると、ズームには
「無料会員」と「有料会員」というものが存在して、「無料会員」は一度に接続できる
人数と連続使用は40分以内という「縛り」が存在して、有料会員はこういった会議を
3回やって、年の会費、というか月の会費を消化できるらしい、ということを
冒頭部、県の補助がどうのこうのという会話からうかがい知ることができた。


 それにしても、いろんな「事情」を聴くのは大変勉強になる。
けれども、日本人、というか人間の悪い癖で、人が集まると必ず悪口を、

しかも「そこにいない人」の悪口を言いたがる、そして果てしのない罵倒合戦へと
「炎上」して、どうにもならなくなる。


 コロナウィルスがある程度収まったら(ふりをしているのに)
今度は今までたまりにたまっていた「他者」と「異者」の区別をして

「異者」を叩きのめして、身体的、精神的なダメージを食らわせる、
肉体的、精神的なダメージを食らわされた、食らわれることを

「拒否」して「反発」する運動、というか行動が全世界で巻き起こっている。


 こういった現実のもとで繰り広げられる「会議」は露骨に「私事」を
さらけ出すだけで、決めなきゃいけないことは何も決まらない。
決まらないから、「何々とは馴染めない」というけれど、陰湿な人とは馴染めないし、
陰湿な人とは議論が成立しにくく、気が付きゃ自分の過去までさらけ出して、
無駄に傷ついて「ある結論」にたどり着く。


 「お祭り」も一つの「居場所」と考えたら「誰のための場所」なのだろう?
「町」という一つの「閉ざされた空間」のために「居場所」として設定されたのか、
「閉ざされた空間」を「開かれた空間」にするために設定するのか、という結論に。
この「結論」を前提にして「各論」を決めていくことが最善手。


 しかし、意地悪をされたと「感じた」、邪魔をされたと「感じた」、
纏っている空気が何か合わないと「感じた」、そしてよくない方向で「感じた」ものが
「わたし」よりも「優れて」いたり、「わたし」がどんなに頑張って、踏ん張っても
「どうしようもできない」ものや、ことがらにまで発展すると「嫌い」が膨らんで
「ひと」は「怪物」に化けて、異者を傷つけ、殺し、他者までも傷つける。


 その状況を「人類・人種」の坩堝に放り込み、「会議」という熱量の高いやり方で
どろどろに溶かされて、「嫌い・怒り・憎しみ」という不純物が排除され、
より純度の高いものが残っていくのかもしれない。


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