劇団こふく劇場、劇団HIT!STAGE合同公演 「境目」

えげつないけれど、何か愛おしい。

  数日前から世間は台風だ、台風だ、と騒がしい。

その騒がさを感じて、先週の枝光からその日のうちに帰りつけなかったことを

じわじわ思い出し、おんなじことのリピートは正直、まずいよね、と考えたら

某ラジオ局から忘れた頃にアナウンサー朗読会の入場メールが。


 こうなると、金曜日に期日前投票に出かけ、土曜日は朗読会の時間次第で

土曜日の夜を見るか、泊まって日曜日か、それは朗読会に行って決めよう。

という方針だけ決めて、朗読会に行き、いい塩梅でバスに乗って佐世保に向かう。


 ご挨拶したり、雑談したりしてドアが開いたから大ホールの舞台上に

作り上げられた表演空間を見て驚いた、そしていつもとは違う順序で

客席に送り込まれるとそれだけで「不思議な世界に投げ出された」感が強くなり、

少し心配、不安になるが、客入れ音の心地よいピアノ、柔らかい光が

心配や不安によってささくれ立つ心をなんとなくほぐしてくれる。


 開演直前の無遠慮な方(これが市役所の文化関係の役人だったら正直、許せない)に

ほぐされた心を少し乱されるともう本編だ。


 お話の流れとしては、2016年の2月に長崎県佐世保市と宮崎県都城市で同時に起きた

「別れのご挨拶」から始まり、このふたつの「別れ」がいつもだったら露骨に

「可視化」できるはずもない「境目」をくっきりはっきり「可視化」させてしまう、そんなところか。


 こうして、「可視化」されてしまった「境界線」を演者それぞれの「背中」

(だからああいう座席案内になったのか!)から眺めてみると、

2016年の4月16日、(あるいは4月15日)に熊本で起こった大地震を真ん中に

「挟んで」存在するそれぞれの「人生」をうっかり見てしまう。


 さらにはリアルにわたしの「人生」の内外でも起きた出来事を板の上と重ねて、

その正確さに体の中が揺れて、震えている、ちょうど2016年の1月辺りから

今まで続いているわたしの中での「小さな地震」のように。


 板の上では「飛び出す人」と「留まる人」、「逃げる人」と「追う人」の境界線が

複数人であるときは鮮明に、あるときは薄ぼんやりと。

けれども自分の場合は「飛び出そう、飛び出したい」という思いと

「留まりたい、留まろう」という思い、「逃げ出したい」と「逃げ出したくない」という思いが

わたしのひとつしかない心と体にパンパンに詰まって、どうしようもできなかった。


 どうしようも出来ないと、飛び出すにせよ、逃げ出すにせよ、人は無理をする。

無理をする中で人のつながりに気がついたり、繋がりから生まれる縁に助けられたりして

また新しい人生を作っていく、これでいいのだ。


 濱砂さんの立ち居振る舞いに、
 「ああ、男の人って、幾つも愛を持っているのね、ああ、あちこちに薔薇まいてわたしを悩ませるわ」

という歌詞を久しぶりに思い出しちまったわい。


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ドブ恋九州vol.2

「エンターテイメント」ではなく、「演劇」に針が振れているエロ

 春のvol.1、演者を変えた2バージョンまとめてみようか、一方にくどーさん出てるし。
けれども、現実はすべての変わり目で行くこと叶わず。

 そういうわけで、秋もやるよ、とばばあきこさんに言われると、
速攻日程を組み立て、予約をしたら、もう10月だよ。

 この演目、話を聞いてみると、エンターテイメント性に針が振れた
「男女の仲」という一皮剥いてみるとエロの方向に行きそうなお話。

 まあ、自分、こういうたぐいのお話、嫌いじゃない、むしろ大好物。

 というわけで、なんだかんだ用事をしつつ、ハコに行き、
中に入るとキュウキュウ詰めの客席に驚き、座った時点で
「わたしをどう安定させるか」ということしか考えられず、
開演前、メモ紙に色んな感情を書き出して「毒出し」を
することができない。

 いつもとは違う密着感、いつもとは違う空間の使い方に
戸惑っていると、最初の演目から「走って」いるよ。
風俗の最初、お口で抜いたあと、(以下略。

 その後のオープニング、圧がすごい、すごすぎる。
もうそれしか言えない、あとは11話の山あり谷ありの
恋愛が板の上に繰り広げられている。

 うれしくて、たのしい「はじまり」が何か「悲しい始まり」になったり、
ある世代から上の人にはおなじみのダイヤモンド映像、
黒木香の「SMっぽいの好き」でやってるあの有名な場面を
より美味しくしたり、女同士の壮絶な「言葉の決闘」、
男子同性愛から発達障害がやや入っている夫と支え疲れた
妻の別れ際、二股やら、思いのズレとか、心中まで行き着いたら、
突然明るくなって、もう終わりかよ。

 そんなことを思ったら、まとめのまとめで、「演劇現場」の恋愛を2題ぶっこんできたよ。
裏方同士の恋愛と、書き手と役者のすれ違い。
というか、最後の演目でばばさんがマックノートで「書いていた」ことが
実は今まで板の上でやっていたことじゃないのか?
そんなことを想起させるくらいの収拾具合。

 ほぼ120分、と聞いていたが、時間の長さを感じさせない密度の濃さ。

制作の仕事もやり、陰に日向にフル稼働して、マックノートで戯曲も書いた
 ばばあきこさんに広島にいたおちよしえさんを見たのは内緒。

飛ぶ劇場 「生態系カズクン」

すべての命が尊いのは、綺麗事ではなく真実である。

 そう言えば、わたしが演劇を始めてすぐ、サッカーやら野球やら、WWEやら、
ついでに中国語放送や競輪中継を見るために引いたスカパー、そのチャンネルの
ひとつである「シアターチャンネル」が「飛ぶ劇場特集」という形でこの演目の
舞台映像を流していた。

 あの頃は、「お世話になった人がぎょうさん出ているな」という感じで
更にいうと、途中から見たので話の流れが追えず、すぐにチャンネルを変えてしまった。

 それから時は流れ、飛ぶ劇場は30周年の節目。
そのプロジェクトたるRed Room Radioの枝光公演は諸事情あって(以下略。
ようやらやっと「生態系カズクン」を生で見ることができた。

 西鉄電車に乗って、久留米で降りて、シティプラザまで散歩して、その先の本屋に行って、
「舞妓さんちのまかないさん」の第2巻を探すが見つからず、開場までに時間があるんで
また西鉄の久留米駅まで戻って上の本屋に行くと・・・見つかった!!

 少しうれしい気分で表演空間に入ると、客席三面囲みのオクタゴン(八角形)スタイルに
驚きながら、客入れ音のミンミン蝉時雨に今年の過ぎ去りし、夏の思い出に浸ってみる。

 こうして日常の喧騒と我を忘れていたらエスニックなオーバーチュアーがかかり、
これまたエスニックなCAT'sが始まりそうな勢いで冒頭部分、びっくりしていたところに
喪服姿の人間がぞろぞろやってきて、その後を担架担ぐように棺桶を担ぎ、
畳の床に置いて・・・と来たら、なんていうかこの一連のムーブ「だけ」で世界、というか
フィールドはこういうところで、"Play"のルールはこれです、と気が付かないうちに
見手に提示されている。

 世界、というかフィールドは「お弔い」、その中での"Play"のルールは「人間」と「動物」の
「境界線」をうっすらながら、明確に引く、このルールの中で「人間」を演じる演者は
「役」というそれぞれに与えられた「立場」と「役割」を生きている。
うっすらとしかわからないが「動物」もしかり。

 フィールドとルールがものすごくしっかりしているので、それらの裏にある
「移民」や「棄民」の問題、「ユタ(シャーマン)」と「近親相姦」の相関性、
薄っすらと見えるシャーマニズム、逆「安芸の宮島」状態(火葬場と散骨場しかない場所)という
通常の世界だったら忌み嫌われそうな存在が普通の顔をして、そこにいる。

 けれども、誰もがギリギリのところで「人間」や「動物」の尊厳を守っているし、
「尊厳」があるから誰も差別することなく、深いところで悪口も言わず、
自己卑下もほとんどしていない。
というか、端々には差別や尊厳の侵害、自己卑下もあるが、そういう「突破」を
しようとすると、絶妙のコンビネーションで誰かが止める。

 絶妙に止めるから、「ああ、差別や尊厳の侵害、自己卑下」は生きてく上でよくないこと、
あんまりやってほしくないんだよね、という泊さんのメッセージがじわじわ伝わる。
そして、すべてが終わったあと、こう感じてしまう。

 「世の中、色んな人がいるねん、生きている、死んでいるもおんなじように混ざってる」
だから、それぞれの人生邪魔するんじゃねーぞ。

 この基本精神を貫き続けていたから飛ぶ劇は飛ぶ劇足り得た。

福岡県大学合同公演2017「孤影」(Koei)

独裁政治を復活させるものは、独裁者の血統ではなく、
自主自立の魂を蝕まれた民衆の貧血、なのかもしれない。

 福岡県大学合同公演といえば、前シーズンは「九州戯曲賞」を
現時点での最年少記録で取った作品を「初演」する形になったけれど、
ある意味、「完成品」の戯曲を「未完成」のからだで演じることはかなりの負担。

 この「反省」があったのかもしれないけれど、今シーズンは
一度戯曲を「仕上げて」、ブラッシュ!という「品評会」に晒して、
様々な整理整頓をやって、「初演」にこぎつけた次第。

 この件から言っても、戯曲にとって、「初演」はものすごく大事なのかもしれない。

 「初演」の出来、不出来が客席で見ていた「演劇をいつか演る人」にとって、
「いつか私達もこの演目をやってみたい」や
「いつか私達もこの演目ができるだろうか」と
思いを巡らせて、意欲に繋がり、
結果、自分のところの劇団での「再演」だけではなく、
ほかの劇団、他の地方で「再演」できることが
劇作家としての「栄誉」であり、「名誉」かもしれない。

 そういうことはさておいて、表演空間からぶったまげた。
一味違う「シアター形式」というか、シアター形式の表演部に加え、
正面ど真ん中を通路としてぶち抜いて、そこも表演部にし、
前説で更に両端の通路も使いますよ、といったものだから(以下略。

 色々感心していたら、いつの間にか表演部センターに
ボロをまとった演者がより良いポジションを探しながら座り始めている。
ハードロックがガンガンかかった今風の空気から気がつくと、もう物語の空気だ。

 そういうことはさておいて、近年、歴史の検証を通して、「本当の歴史」が
徐々に明らかになってきた、ツイッターやフェイス・ブック、その他のウェブで。
同時に、戦争とは何だったのか?ということもまた、明らかになってきた。
というふたつの前提があって、この戯曲と、演劇作品は産まれたのかもしれない。

 戦争の歴史というものは、世界の「支配者一族」が、
「一枚岩」でつながっている「事実」を見抜かれ、
残りの全人類を敵に回してしまわないように、
繰り返し演出した偽装工作なのかもね。

 表演空間の上では「支配者一族」がどのようにして「一枚岩」で
つながっているからくりと、そのからくりに「混ざり込んでしまった」異質が
「一枚岩」を作り上げたからくりをじわじわ「蝕んでいく」様を空間の全てと
演者総動員で「コンテンポラリー演劇」として、見手に提示した。

 「支配者一族」と言うものは表では「男性」を立てるけれど、
実際は「お姫様」という「絶対的な特権を持った女性」が支配している。
そこで使われる言葉や考えは「表と裏」の意味を常に持つ「二枚舌」の構造、
更にいうと、「そこに愛はあるのかい」という特殊な欠乏状態が「支配者一族」を包んでいる。

 この特殊な欠乏状態を補う、対比的な存在として、「犬畜生のなんとか」が存在し、
(多分、「犬畜生の世界」は努力と才覚次第でのし上がることのできるところだろう。)
それぞれの存在を「つなぐ」のが、とある一人の女。

 「女」という「光」をどう当てていくか、この「当てていった」結果としての
「陰」を私たちは見ていたのかもしれない。
そう考えると、わたしたちは「出来事」に対する「光の当て方」を間違えて、
産まれてしまった「陰」の悪戯に悩まされているだけなのかも。

 私たちは余りにも物を知らなさすぎた、というか知ることを妨害されていた。
ここから私達を新しく始めていこう。

最強の一人芝居フェスティバル=インディペンデント“INDEPENDENT:FUK”

スピードと、リズム感。

 どういう「大人の事情」があったのか、正直良くわからない。
今まで、このツアーの「現地受け入れ製作」はFPAPというところが
請け負ってきたのだが、今回はもう一つのところが請け負って、
そのせいか、久し振りにぽんプラザに「帰還」した!!

さて、いつものようにサクッと各演目を順番に書くよ。

ーーー
a.
「もうそうするしかない」
出演:大竹謙作(あなピグモ捕獲団)
脚本・演出:福永郁央(あなピグモ捕獲団)

・・・そう言えば、43歳の誕生日以来、あなピを見ていない。
まあ、いろんなことがありすぎて、というけれど。

 それにしても、ものすごい。
「私達は生まれながらの罪人」と気がつくように仕向けられ、
「抱えている罪」は一体全体、なんぞや?と考えさせられ、
「予知」が出来るくらい、私達のキャパシティに「余地」はあるのか?
「人生を終えて、三途の川を渡る前にある尋問」ってこういうものか?

 これら、たくさんの問がコンテンポラリーダンスではなく、
舞踏のリズムで演者は見手に問いかけていく。
問いかけられた見手は自らの「思考の海」に飛び込んで、
深いところまで沈み込む、このダーク感、半端ない。

 沈んで、沈んで、息が続かなくなって、苦しくなって、もがくように
空気のあるところに「戻って」来る感じが落語の「芝浜」という
演目のオチに似ていて、また驚かされる。

ーーー
b.
「ノノなのノノもの」
出演:せとよしの(アートユニット豆小僧◎)
脚本・演出:雪見周平(劇団コックピット)

 人生、「イヤダイヤダ」と言っているうちにきちんと「処理」しとけよ。
そういうメッセージが演者の体を通して聞こえてくる。

 自分もそうだけれど、人間という「生き物」は恐ろしいくらい脆いのだ。
その脆さを知ってか、知らずか、無理をして自分自身を「擦り潰して」、
「助けて」の声を聞かず、行き着く先は壊れちゃって、自分で作った
「薄い膜」の中に閉じこもる。

 そうなっちゃうと、色んな意味で大変だ。

ーーー
c.
「鉄の掟」
出演:竹口耕輔(謎のモダン館)
脚本・演出:白濱隆次(謎のモダン館)

 しらはまワールド、演者が変わっても炸裂。
というか、「短編戯曲」の達人なのかもしれない。
旗揚げから貫き続けている「とあるスパイの日常、及び周辺」という
お話のいちエピソードを演者を変えて見せるとあたらしい味わい。

 てか、スパイの世界って、恐ろしいくらいの規律の連続。
その連続に耐えられる気力・体力・記憶力を「試されている」様が
なんとも滑稽で、なんとも切ない。

 更にいうと、見えそうで見えない「地口落ち」という
「究極のちらリズム」が凄すぎて。

ーーー
d.
「ROYAL DESTINATION」—さすらえロンリーボーイ!ー
出演:寺川長(大帝ポペ)
脚本・演出:重松輝紀(バカダミアン)

  熊本の演者さんは「片岡演劇道場」から「熊本バレエ団」、
それぞれの「仕出し」で勉強できているから「身体言語」の質、半端ない。

 この「からだ」に福岡戯曲のいちジャンル、「捏造歴史物語」という
「言葉」が乗っかれば、ぽんプラザの空気が中国北京の頤和園に
いつの間にか変化してきている。

 光緒帝の幽閉、という「場所的な」ミクロから宇宙、天地開闢という
「場所的な」マクロ、辛亥革命一歩手前という「時間的な」ミクロから
さらには過去と現在がマーブル模様になっている「時間的な」マクロと
3次元の「演劇空間」を縦横無尽に動き回ってる。

 人間って、愚かだよな、けれども、素晴らしい!!

ーーー
e.
「女の子は」
出演:山崎瑞穂(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)
脚本・演出:椎木樹人(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)

 ものすごく深いなぁ。
始めてみずほを見た、というか、知り合ったときはなんともはや、
「清楚なお嬢様なんだけれど、ユニセックスの匂い」がする、
故に、いささか癖の強いわたしを色々あるが、「飲み込む」ように受け入れる。
・・・これがこぱるになると平気でガンガン「いじってくる」のだ。
ぶっきーは「だいひょうかんとくとれぽーたー」という感じ。

 で、「星降る夜になったら」@キャナルシティ劇場の
宣材写真から「ユニセックス」じゃない、やまさきみずほを
見せるようになって「なんか、いい」と思ってしまう。

 この「殻をむく」プロセスをしいきっつあんが冒頭部、
スーパーササダンゴマシンのパワポ芸から、お話の流れは
WWEのジョン・シナがぶっこんだ「ヒップホップとプロレスの融合」で
「美味しく」見せている。

 これは「ゴール」のお話じゃない、「スタートライン」に立つお話だ。

ーーー
f,
「楽屋から」
出演・脚本・演出:犬養憲子(演劇きかく「満福中枢」)
演出:大浜暢裕(ハイトラッド)
[招聘作品]from沖縄

 うーん、照屋林助の「てるりん自伝」(みすず書房刊)を手元に残しそこねちまった。
更にいうと、「琉球舞踊」と「琉球組踊」は同じなようであって、同じじゃない。
「琉球舞踊」は民俗芸能から直接来たもので、「琉球組踊」は民俗を「体系化」して
「外交」にも使えるように「琉歌」という教養も加えたもの。

 で、戦後沖縄の「文化復興」の中心となったのは照屋林助、嘉手苅林昌、
仲田幸子、「てるりん自伝」はそこのところがしっかり書かれているのに。

 これらの「豊穣な」琉球文化、という文脈で清水邦夫の「楽屋」という
戯曲を「琉球舞踊の名手」が演じる、という趣向。

 なんていうか、「日常を生きている人の本音」がこれでもか、と
矢継ぎ早に飛び出してきて、なんかヒヤヒヤするが、本音の裏にある
「どんなに貧乏で、酷い目に遭っても、私達琉球人は何度でも
 笑いながら這い上がって、立ち上がって生きて来たし、
 これからも笑いながら這い上がって、立ち上がって生きていく」という
「決意表明」に聞こえてきた。

ーーー
g.
「もしもし」
出演:福田恵(劇団レトルト内閣)
脚本・演出:中野守(中野劇団)
[招聘作品]from大阪

 人生における「雪隠詰」をめぐる「超短編集」という味わい。
この「超短編集」をたった一人で、30分に納める、ということがものすごい。
どうして、ドアが壊れているトイレに行くのか、というツッコミはなしで。
そうツッコめないくらい「深い」人生のお話。

 全体的な物語と物語を「つなぐスピード感とリズム感」がいままでの中で一番いい!!
INDEPENDENTシリーズを見る時、いつも思う「時間のダレ感」というものがない!!

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