KAAT「ルーツ」

本当の意味での知性とはなんぞや?
「洗脳」されるために知性があるとしたら・・・。

 ・・・そんなのいやだ。
というか、関東には結構頭の逝かれたお年を召された方々がいるねんな。
KAATは5階に主なホール入口が「レイアウト」されていて、主なアクセスは
チケットボックス隣りにあるエスカレーター。

 それより前、朝5時に大阪上本町から東京駅八重洲口に放り出され、
(大阪バスニュースター号は居住性抜群だったけれど)
上野東京ラインの始発電車を待ち、上野駅にたどり着くも
歩道橋のエスカレーター・エレベーターが全部朝7時からしか動かない。

 ひいひい言いながらいつも行くサウナへ行き、お風呂に入り、
大広間の仮眠室に入ると急に眠くなり、気がつくともう10時前。
もう一回お風呂に入って温まって、行く準備をして、朝飯食って、
荷物を宿に預けて、トトロ日比谷線で中目黒、それから横浜。

 横浜について、「目的地までの道に迷う」という「市内観光」をして、
それから神奈川芸術劇場(KAAT)にたどり着いて、上に上がるエスカレーターが
動かないことを見て、道向かいのローソンで体制を立て直すことにする。

 なんか食べて、レポート書いて、そろそろ時間やね、と場所に戻ると
エスカレーター前がなんか剣呑だ。
どこぞのおっさんが仏頂面で本読みながら待っていて、気持ちが悪い。
気持ちが悪いことを辛抱しながら待っていると
チケットボックスのお姉さんにイヤミをぶーたれている。

 「順番守れ」、と言うたかて、チケットの券面にはもう「入場の順番」を
記した番号がすでに印字してあって、早く来たからというわけじゃない。
チケットボックスには「本日公演の当日券は(チケットボックスで)発売されていません」と
張り出してはいる、なのにあのおじさん、チケットボックスのお姉さんに
「この状況を写真に取れ」なんて、頭のネジが数個飛んだ人でないと言えない言葉を吐く。

 剣呑すぎる状況を抜け出して、ようやらやっとエスカレーターが動く瞬間、
おっさん、こう吐き捨てたよ。
「あなた、わたしの言った日本語がわかってないですね」だと。
わかっていないのはてめぇだろうが、という言葉を飲み込みつつ
エスカレーターを上り、ロビーにたどり着いて(以下略。

 リアルに「威力業務妨害」を見て、入ったら空間のつくりにも驚いた。
ある意味、多層構造の倉庫であり、生活空間、というには
いささか殺風景、おまけに地下構造まで作り込んでいる。

 さらには殺風景、無機質ながらも、ものすごい精度と密度で
それぞれの人物設定に合った「生活空間」を作り、「購買部」まで立ち上げている。
・・・構造はシンプルだ、けれど恐ろしくリアル。

 こういった「空間」で繰り広げられるは、「古細菌」という
「細菌の化石」を探しに若い研究者が地図にない「事にされている」
廃鉱を抱えた村に導かれるようにしてやってくることから始まる物語。

 最近、人間関係において私は「他者」と「異者」という「腑分け」を
より意識するようになってしまった。
問題、というか、課題は「他者」と「異者」の線引きはどこなのか?
更にいうと「他者」と「異者」の間にある、「わたしじしん」を
「客観的に見た」存在と言うものをどう呼べばいいのか、
板の上で繰り広げられる「認められる」という作業を見ている。

 この作業を見ていけば見ていくほど、この村の村人が、
というか、この地球で生きている人々が何かある種の
個々人に違った「障害」を持たせて、どう振る舞うか?
という「実験」に物語が化けてしまう。

 「障害がある」ということを認めないでわけの分からない
生き辛さや生き辛さから来る「落ちぶれ感」、さらに「平凡」で
あることを罪悪、というか恐怖に感じる心持ち、故に
「そっとしておいてくれ」としか言えないナイーブさ、
このナイーブさを知ろうともせず、「わたし自身だけが持っているかもしれない」
興味を第三者に「押し付けているかもしれない」しんどさ、辛さ。

 「実験」を経て「異者」がなんとか「他者」となって、
新しい命が生まれるまでがインターミッション前。

  インターミッションを通り抜けると、物語の色調が急に変化する。
「せけん」や「せかい」の「偏」や「作り」、というものを
広すぎず、狭すぎず、程よい空間で、しかも時間の長さも感じさせず、
あっさり見せるから目から鱗が落ちると腑に落ちるを同時体験してしまう。

 「にほん」という「くに」や「みんぞく」というものが「そのほかのせかい」から
どういう風に「見られ・思われて」いるのか、そしてこの「見方」に
わたしたちがどう反応しているか、目の前に突きつけられると、考えさせられる。

 「せかい」すべては、みんな「うそ」でつながっている。
「うそ」を共有しない・あるいはできない人は「せかい」には入れない。
「うそ」を信じない・信じたくない人を排除するのがこの「せかい」の仕組み。
この「じじつ・しんじつ」を旧坑道の中で立て板に水の言葉回しで話すと、
不思議に納得してしまう。

 まあ、若い研究者も「せかい」でよく使われている
「賛同を得るために」という言葉の胡散臭さ、と言うものに、気づかなければならなかった。
「多くの人の賛同を得るために」ではなくて「多くの人を騙すために」ということに。
それを「研究所を作り、村をもり立てる」という欲に負けて、忘れてしまった。

さらに、この「せかい」は「ほのめかし」を好む。
そのためには、一世代の期間を費やして「リーダー」や
「カリスマ」という存在を育てることもある。
これは、テロリストの育成と同じだ。
生まれた時から近親者が少なく、少し賢く、貧しく健康であればよいわけで。

 おまけに、「魂」の問題、というやっかいな問題までついてくる。

 結局、わたしたちが「ただしいこと」と信じてきたものは、
ほとんどうそ・いつわりだったのかもしれない。
そのうそ・いつわりをきれいに剥がしたのが「ぼくちゃま」という存在の
「代替わり」にまつわるなんだかんだなのかもしれない。

 誰もこの「構造」を笑えない。
どんな形であれ、私たちは「洗脳」を受けているのだから。
わたしだって、あのキチガイを排除するために警察呼ぼうとしたのだから。
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劇団鹿殺し 「無休電車」

さあ、次を始めようか。

 青山円形劇場が近い将来なくなるらしい。
ものすごく惜しいよな、どうしてあの輩は「文化」というものを
「目の敵」にするのだろう?

 というか、東京で初めて演劇を見た場所がここなものだから
余計切なさや、寂しさというものを感じてしまうのです。
久しぶりにこの場所に入ってみると「狭さ」というものに驚いた。
縮こまって見ていたのか、何なのか、訳がわからなくなる。

 客入れ音から「大阪」があふれている。
大阪があふれている中で今までわたしが歩いてきた道、
出会ったことやもの、そして人がいろんなポイントで重なって
たくさんの「化学変化」というものが起こっていたのかも知れない。

 どうやら、人生、というものは競輪のように「ライン戦」で行くしかない。
がだ、競輪と違うのは「事の次第」によっては先行していかなければいけないし、
先行している人たちを守るために後ろで「仕事」をしなくてはいけない、
さらに言えば、次に繋がる布石、というものも打たなければ。

 こういうことを考えながら本編に入る。

 劇団そのものの「自叙伝」だったのか、これは。
なんていうか、物語の世界は「阪急電鉄」の文化が
これでもか、と込められている。
チョビねえさん、大学は関西学院大学という
これまた「阪急文化」のまっただ中にいたわけで。
だから「楽隊」を入れるになんの抵抗もないわけか。

 いや、まあ、関西の吹奏楽イコール阪急電鉄、阪急百貨店と
いう印象がわたしにはあるのです。
ここに宝塚歌劇が入り、本当は阪急ブレーブス、
オリックスブルーウェーブが入るはずが、
「金の亡者」に対抗して「急神合作」をしたせいで、
ここに阪神タイガースが「混ざって」しまっている。

 そういう文化を「土台」にして伊丹の飛行場、騒音問題で稼いでいた
とある工務店が関空に変化していく中でうまく稼げなくなって、
この文化の中で「生きる」ことが難しくなり、阪急電車に飛び込んで。

 それでも大好きだった「演劇」に対する「無念」というものがあって、
この無念を生きているものに託して、繋げたら「東京に出る」という
ひとつの形になってしまった。

 「共同生活」をしながら「路上」で「演劇」をすることで修羅場を踏み、
お金のことや、機会のなさに苦しみ、一度は諦めようとしたが、
ということをこの劇団が歩いてきた「リアル」と混ざって不思議な感じ。

 「背負っている」とは何なんだ?
「戦い続ける」ってなんなんだ?
それよりも、何よりも「生きる」ってなんなんだ、「死ぬ」ってなんなんだ?

 まあ、今の状況、しんどいことばかりかもしれないが生き続け、
「まっとう」に戦い続けていれば誰かがあるべき方向に導き、助けてくれる。
とにかく、目の前にあることをやりこなしていくしかないのだ。

 自分も今同じ状況下を生きていて、身につまされる。
けれども大丈夫だと背中押された見後感。

野田地図 「MIWA」

「歴史」と「人生」の旅人になった130分。

 ここ最近、世の中にある全ての物や事が「彼の人」に、
否、「彼の人」へと引き寄せられつつある、というか引き寄せている。
・・・こんな話を当の本人がうっかり耳にしたら「言葉使いに気をつけなさい」と
あの上品かつ、重みのある口調で言われてしまいそうだが。

 自分を東京という「感性の戦場」に引っ張り込むきっかけを作った
あるノンフィクションライターさんが久しぶりに出した本も
「彼の人」のことを扱った内容だったし、自分も自分で「彼の人」の
精神空間が傍らに存在している日常を生きている感じがする。

 ・・・そう、「彼の人」の名は「美輪明宏」、またの名を「丸山明宏」。
池袋に行って、そういうお話を見に行くように「縁」というものは
「仕向けられていた」わけか。

  北九州芸術劇場というところは大きいハコ、中くらいのハコ、小さいハコの3つに
分かれていて、大きいハコは「ホール」、中くらいのハコは「シアター」、
小さいハコは「プレイハウス」と英語で表記されている。
しかし、東京芸術劇場は大きいハコは「ホール」、中くらいのハコが「プレイハウス」、
小さいハコは「シアターイースト」と「シアターウェスト」。
どこがどう違うのだろう、と考えながら、開演前の変な重圧感を感じることなく
アシッド感の強そうな客入れ音を聞きながらいろんなことを考えているともう本編。

 これって、「精子」だよな、「受精」だよな。
「踏み絵」という形はとっているが、「リボンの騎士」の冒頭部、
神様がこれから生まれいづる魂に「男性」か「女性」か与えるところを
野田秀樹の「感覚」でやるとこうなるのか。

 「リボンの騎士」は「お家騒動」という「戦場」に「武と剣」で戦いを挑む。
対して「MIWA」は「日常」という「戦場」に「音楽と歌」で戦いを挑む。
さらには「不思議の国のアリス」という「果てしなき追いかけっこ」や
「鬼という相手のいないかくれんぼ・鬼ごっこ」というふたつの「虚構」があり、
この2つの「虚構」を包み込むようにイエス・キリストの誕生、
「三島由紀夫」と「赤木圭一郎」というそれぞれの「リアル」が存在している。

 かつて、自分は越路吹雪の歌を「鉈の切れ味」と表現したことがある。
そして、今回は美輪明宏の歌をあらゆる意味で「斧の切れ味」と表現したい。

 だって、一つ一つのことばや物語を感じるとき
「奥歯」に力を込め、手をぎゅっと強く握り占めているほど
心に引っかかる「切れ味」の「重さ」が半端ない。
切れ味も、重さも半端無いから、気がつけば自分の心の傷に
自ら指を突っ込んでいた感覚がする。

 さらには、「強さ」というものが生み出す「毒」と
「チャイルディッシュ(稚気)」が「男」という存在そのものを
滅ぼしてしまうのか、という「事実」までも見せつけられる。

 時と場合によっては「チャイルディッシュ(稚気)」
というものは魅力的に映ることがある。
しかし、ある時期を過ぎてしまえばその魅力が
通用しなくなってしまうことが多い。

 いつかはわたしのかたすみにある「稚気」を棄てる覚悟を
持たなければならないのかも。

風琴工房「国語の時間」

「誇り」というか、「アイデンティティ」を尊重する、というのは大変難しい。

  このカンパニー、いちど見たかったのだ。
こりっちの「春の舞台芸術祭り」初回最優秀賞。
その公演のチケプレに見事外れて、おまけに身動き取れず。
というわけで、遠巻きに見て、縁がないなぁと。

 そんなこんなで今年の年始め、枝光アイアンシアターで
「演劇の使い方」についての考察を深めるなんだかんだが
泊まりがけであって、そこに制作のお姉さんがいたわけで。

 ・・・演劇時空の旅の予定も飛んだし、当然劇王戦も、
さらにはお金が心もとないなぁ、もう少し早いタイミングだったらと
最初は尻込みしていたがお姉さんが是非に、と何度も言うから
平日日程にして[以下略。

 というわけで来てしまった。
こういう形で行くことになるなんて思いもしなかったのだが。
まあ、改めて「何はなくとも全ては縁」ということを
思い知らされる、というか感じてしまう。

 まじですげぇ。
客席に足を踏み入れた瞬間、奥が深く、天が高く、おまけに意図的な穴のある
ものすごく手の込んだ表演空間が存在していた。
この表演空間「だけ」でもこの演目を見る価値はありそうだ。

 制作のお姉さんからチケットを取ったので席の周りには
「関係者」らしき存在がうようよいらっしゃる。
おまけに一列斜め前には古田敦也氏の奥様が。
・・・「演劇マニア」だというお話はそこかしこから聞こえていたが、
実際そうだったとは、さらには自分のメディアで演劇のことを
お話しているのかな、と思っていたらこりっちにも書いているらしい。

 それにしても東京のこういうところにたむろっている
「関係者」って、なんか剣呑な空気をまとって、甚だ居心地がよろしくない。
些細なことに対して神経質、というか、他者を許さない態度をとりがち、というか
他者の良いところを見ず、悪いところしか見ることのできない可哀相な方々が
演劇作るとどんな作品になり、その作品を見てどんな感想を書いて、
それを普通の人が見て、読んで、感じたら・・・あとは何も言うまい。

 見る前からなんかげんなりしたところに重厚なオーバーチュアから
本編が始まる、というだけでも「ホンマモンの演劇」というものを
見ている、という気持ちにしてくれる。

 1940年、7月、京城のとある小学校から物語は始まる。
夏休み明けてから始まる教育実習の準備のため一人の女学生がやってきた。
名前からして現地の人だが、とても美しい、それも異なった文化の人が
学んで、話す言語の美しさだ。
そして、東京から朝鮮総督府に赴任してきたある役人とたまたまつながることで
生まれた関係、というものを縦糸に、「植民地支配下での言語教育」というものを
横糸にして「にほん」と「コリアン(チョウセン)」の非常にデリケートな関係を
じっくり丁寧に、しかも生々しく見せている前半部分。

 10分間の途中休憩を挟んで後半部分は更に物語が加速していく。
生まれ育った環境、というものと先天的な「才能」というもの、
更には「社会」という状況が絡みあい、うねりあって個々の
「人生」というものが作られ、関係し合い、翻弄されるさまがなんとも言えない。

 この様を見れば見るほど「創氏改名」とか、「方言札」のように
「強いものが弱いものに対して服従を誓わせる」行為として
「文化を揃える」行為はこの時期、世界中、どこもえげつなくやっていた。
「にほん」も「チョウセン」の他に「タイワン」でもほとんど同じ事をやっている。

 なのに、「タイワン」は喜んで「文化を揃える」道を選び、
「チョウセン」は「文化を揃える」ということに対して「嫌悪」や「憎悪」に近い
反応を示すような道を選んでいる。
この違い、というものは一体何なんだろう、そしてどうしてなのだろう。
そういった疑問、ということを考えさせられるように持っていかれる。

 …愛、なのだな、結局は。
何に対する愛なのか、誰に向けられた愛なのか、という違いはあるが。
この「愛」の違いと関係のすれ違いがこれでもかとうねりを見せていく。
うねればうねるほど「居場所」と「愛」が「自己」を作る、というところまで
持って行かれてしまうではないか。

 「居場所」がなければ、肩身の狭い思いをしなければいけないし
そうならないために「同化」の道を選んでみても、二重、三重の「差別」と
いうものが邪魔をする、だったら危険な道を選んで「同化」することができた。

 しかし、差別による憤怒と憎悪は「同化」によって新しく生まれた
「アイデンティティ」というやつを容赦なく剥ぎ取っていく。
そうすることでむき出しになった「地」というものに耐えられなくなり、
反動で死ぬことを選ぶ人もいれば、本当の愛国心に目覚めてしまう人もいる。

 逆に居場所のある人はちょっとやそっとでは「同化」できない。
自分をより良く「表現」するための手段として言葉を使うことができた。
多分、この違いだったのかもしれない。

 このことはまわりまわって、これからの日本の姿かもしれない。
アメリカ合衆国の「51番目の州」になって、こんなことを「支配する」側ではなく、
「支配される側」になって、こんなことや思いを「経験してしまう」、
そんなことを考えた。
歴史とは斯様に皮肉なものだ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

iaku 「エダニク」

「自分の庭」の境界線はいつも曖昧。


 自分は、こうやって演劇をしている他に生きていくために
ファミレスの工場で朝から夕方まで働いている。
仕事の内容は、午前中は深夜から早朝にかけて
各店舗に商品を出した後片付け、翌日の商品出しの準備。
午後は箱洗いとゴミ庫の掃除。

 ひと仕事終わって、ハコにたどり着き、いつもの場所に座る。
冷蔵庫のようなひどく寒い場所にほとんど一日いるわけだから
心と体の両方がものすごく硬い、カチカチに硬い。
どちらもカチカチに硬くなると、他者や物事に対して接し方、というものを
慎重にしないとものすごく大変なことになってしまう。

 工夫を学んで、演劇に活かし、活かしたものを仕事に落としこむ。
この繰り返しが5年間続いている。
ほんとによく続いている、大したものだ。

 このお話は食肉の解体工場のおはなし、ちょうど自分の仕事の前段階。
あの場特有の「寒さからくる心とからだのこわばり感」がよく出ている。
寒い空間でヘタすると大怪我しかねない労働環境で長時間働いて、
気持ちとからだを張り詰めた状況を「緩める」休憩時間。

 カップ焼きそばを食べたり、「切り替え」のやり方は人それぞれ。
そうして緩めようとした時に脳髄、どこかになくした、探せと言われたら
大変だ、さらには変なこだわりを持つ牧場の息子が余計なことを言って
そこにリストラの渦中の人が「脳髄テロ」を起こしてさあ大変。

 物語が進むに連れて、自分自身がついこないだまで体験したことを
「演劇を見る」と言う形で追体験していることに気がつく。

 ハンバーグ工場の仕事の中でリズムが揃わない、というか
最近、「ああせい、こうせい」と「態度」を強要する人が新しく入って来たり、
仕事の状況がそういうふうになってきたことが多くなり、心も体も疲弊していた。
・・・こうなったら仕事も、人生も楽しくなくなってくる。
ほんま、けったくそ悪い、やってられへん、と爆発飛び越えて
暴発させること数回、結果、事を荒立てて大変なことに。

 ・・・わたしも、わたしの世界において筋は通している。
けれども、「筋を通す」という行動が「自分の庭」の基準に於いてだから
こういう大変な事態になっているのかもしれないよと。
 仕事、というものは「個人」ではなく「集団」でやるんだろ、
その集団の中で「役割」というものがあって、その「役割」を
どう工夫してやりこなしていくか、が「働く」ということなのじゃないのかな。
それをいちいち「やってられへん」と荒立てていたらどうなる?

 こういうことを言い含められ、諭されたのだな。

 その後、作業しながら「わたしの至らなさ」を思い出し、考える。
どうして、「やりにくい」とぐずっているのだろうか。
理由は、「自分の世界」というか、「マイルール」というものを
他者から、もしくは他者に押し付け、押し付けられることがあって、
思いや考えを汲み取っていない、汲み取ることができないことについて
苛立ちを覚えていたのだろう。

 さらには人と人の間を感じ取る「アンテナ」が壊れてしまった人の
言動や行動をうまく処理できなかったり、「表現」を使って自らの
自尊心を保ちたい、自らを誇示したい人の攻撃までも処理できない。

 ・・・なんでそんなことするの?
それぞれのプライド、それぞれの「差別」がお互いを
邪魔していることに気がついてよ。

 そんなことが今まで積み重なっていて、さらにダメを押されたらそうなるよね。
ましてや、「庭のこと」をあまりよく知らない人から文句言われたら
これを無意識のうちにやられたらもっと暴発しても仕方がない。
働く以上はそこを堪えなければいけないのだが。

 そういうふうに感情を吐き出し、働ける状態になるまで「謹慎」と言う形で
心と身体を落ち着かせて、懸案を処理して、「培った技術」を次の世代に教える、
という「新しい役割」があって、また働き始める。
・・・そういうものなのだ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

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