ゼロソー 「ピッチ・ドロップ」

「ありえない」ことなんて、「ない」。

熊本の地震の話を元にして、とひとはいう。
けれども、そういうくくりでくくれないほど、物語はとても、とても、深い。

まず、「ピッチ・ドロップ」とはなんぞや?

ピッチとは非常に粘性が高くて固体に見えるような物質を指す総称。
たとえばアスファルトがピッチというものの代表的物質。
室温では、この物質はとてもゆっくり流れて、数年かけて一滴のしずくを形成する。
この流れを観察するために非常に長期にわたって行われる実験が、
ピッチドロップ実験(英語: Pitch drop experiment)である。
(参考:Wikipediaでの項目冒頭部)

しかし、アスファルトを道路に敷くところ、敷いた後を見ればわかるように
高い温度という「負荷」を内的、あるいは外的に掛けると恐ろしいくらいに
柔らかくなってしまう。

その柔らかさと突然掛かった「移動」という2つの負荷で
実験当初から続けていた「物体の粘性」が断ち切られて
という「ありえない」ことが起こって、その後どうなるんだろう?

人間が生きている、ということもだいたいおんなじだ。
てか、五体満足、十全とはいかないまでも、半分の五全の才能を使って
周りの人々を少しは喜ばせているように生きてはいる。

・・・2016年4月16日、わたしの43歳の誕生日までは。
ちょうど、4月15日から16日へと日付が変わる瞬間に起こった
ひどい揺れ、によって、熊本市内とその周辺に住む殆どの人の
「わたしたちが生きている」という「現実」が「ありえない」という言葉が
ふさわしいくらいに変化してしまった。

 自分も、遠く離れてはいたけれど、恐ろしい変化が起こりすぎて、
演劇から遠くはなれたところに今はいる。

ホトリさんだって、自分で仕事をしながら旦那さんの教え子の
世話をする、という「日常」が家の天井が落っこちて(以下略。
「からだ」はなくしたが、「脳」を始めとする感覚器官と延髄という
「生命維持装置」が偶然(これもまた、「ありえないこと」だな)生き残って、
がだ、切れちゃったところが声帯をそれたのは良いが、
発声の基本要素たる横隔膜と肺が潰れたら喋れないぞ。

ま、そういう細かいところは置いといて、
「ありえないことなんて、ない」という普遍的な「現実」に立ち向かうためには
「ひとり」では「現実の力」があまりにも強すぎて、歯が立たない。
故に、「私達」の分身と言わなければ、「助け合う」という言葉が生まれない。

ついでに言えば、「なくしたもの」に対する「処理」のやり方
(グリーフワーク)はたくさんあって、
いちばん大事なのは、「ネガティブな気持ち」に同意するよりも、
「生きているから良いじゃないかという気持ち」に同意する。

そして、その場所にいる「存在」を否定せず、とにかく「どうして」を考える、
わからなくてもそこにただいる、というように「できること」を少しずつやっていく。
こういう物凄くシンプルな「積み重ね」でしか「処理」できない。

この「シンプルな積み重ね」を板の上で起こして見せると、
不思議な安心感が湧いてくるのだ。

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KAKUTA「愚図」

人生を投げ出しても、受け止めて投げ返す存在がいることは幸せだ。

  善通寺でのハイ・パフォーマンスマネジメント業務を
どう演劇に落とし込むか、一通り終わる年明けにわたしの今後を
どうするか、再構築する場所に入っておこうか、と思っていたら甘かった。

 諸々の書類が早い時間帯に整い、気がついたらその場所にいた。
直近の予定は「仕方がない」ということでなんとかなったけれど、
今後の予定は「第一段階」を何とかすることに専念してくれ、
ということで(以下略。

 「第一段階」の肝は、全てを吐き出す、ということ。
今まで関わったところ、いつも行っているところに新しい担当の方に
同行してもらって、いろんなことを聞き取り調査し、自分の中にあるものを
徐々に言語化して、行動の癖を修正して、まあ色々大変。

 そういうことがあって、ようやらやっと演劇を見る。
確か、こんなことになってしまったきっかけが
元ガラパのまつのおが東京に行く送別会、しんどいの引っ張って
行って、グダグダになって、仕事に行ける時間帯に家に帰れず、
生まれて初めて会社をサボった。

 そこから人生がぐるぐる動き出して、ただの送別会は
よりいっそう酷いわたしになって、家には帰り着いたが、
自分の部屋にげ(以下略。

 こんなことを考えつつ、すげぇコンテンポラリーで、すげぇクラブ
(ひと座り数万円ではないところ)の雰囲気を感じていたら本編。

 再構築する場所に行って、今「掘り起こしている」ことと言えば、
「私は、どういうしくじりをして、なぜそうしてしまったのか」、ということ。
そこでわかったことと言えば、人間という生き物は、心のなかに
何かしら「穴」というものを抱えていて、それが個々の関係によって
「気になって」しまうとその穴を埋めようとして行動しすぎてしまうものらしい。

 行動しすぎても、穴は埋めることが出来ず、
逆にあなはだんだん大きくなる。
「動きすぎた結果として」大きくなりすぎて、
ひとりでは手のつけられない穴を見ると、
その穴ごと自身の人生を人生を放り投げる。

 この放り投げる様子が板の上にジグソーパズルのピースのように
絶妙の塩梅でバラバラになって配置されている。

 けれども、世の中には奇特な人もいて、大きくなりすぎた穴を
しかも自分が招いたわけでもない穴を埋めようと東奔西走する。
時には犯罪スレスレのことまでやりながら。

 その犠牲の物語を林家こぶ平、じゃなかった林家正蔵が的確に演じてやがる。
三平含めてクソミソのボロカスに言うやつもいるが、そういうやつがこれを見たら
・・・それでもボロカスに言うんだろうなぁ。

 投げ出しそうになっても、受け止めて、投げ返す存在がいたから
あるいはいるから、なんとかなったのかもしれない、私は。

月光亭落語会「梨の礫の梨」

和解、あるいは赦しという、次に進むために必要な物語。

 一度こういう場所でゆっくりとお酒飲んでみたいな、という空気ができている、
恐ろしいくらいにギュッとしたスタンドバーの作りをこれまた風情のある
アートビルディング内にあるイベントスペースに持ってきたら、なんだかモダン感満載。

 さて、ここ数年、大阪では焼酎亭、ここ福岡ではソネス亭、この月光亭と
「演劇人による落語公演」というものが盛んになっている。
・・・考え方次第によっては、落語というものは「根多」という「戯曲」を
演出・私自身、出演・私自身、という形で、動きも座布団の上に正座し、
上半身だけ動かして板の上で演じる、という「究極の一人芝居」なのかもしれない。

 「究極の一人芝居」で身につけた「技術」をホームグラウンドたる
「演劇」に還元してみよう、という今回の試み、相方は出産後初の演劇を
やろうとしている14+のゆきまるだ。

 まずは「拒絶」のお話と言うマクラから絶妙の話芸が炸裂する。
電車の中って、いろんな拒絶が漂い、なぜかしら火花が飛んでいる。
けれども、これらの「対立」に対してささいな衝突はあるけれど、
これがもとで傷害事件とか殺人事件が起きた話をなかなか聞かない。
ということは、みんな、いろんな拒絶を受け入れてはいるのだろう。

 本当は、自分だって電車に乗った時、自分の隣の空席に
カバンなり、自分の荷物を置いて「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う
ある種の「意思表示」をしたいのだけれども。
板の上では逆に「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う「意思表示」に
抗って、というか抗おうとして、結果降りたかった駅で降りることができず、
実は、抗っていた、抗おうとしていたのは「わたしの自意識過剰」だったのかもしれない。
その考察を裏打ちするかのように「座席の譲りあい」と言うケースまでも
絶妙の話芸で「聞かせて」いる。

 この冒頭部がサキトサンズの元版、最初に見た長崎では
阪急神戸線、西宮北口から電車に乗り、阪急三宮で降りたかったのに、
会社境界線の花隈駅を超えて、高速神戸で相手が降り、
自分は新開地まで行っちまったよ。

 次に見た大阪・和泉大宮では阪神なんば線、大阪難波駅から電車に乗り、
甲子園か、阪神西宮で降りたかったのに、気がつけばこれまた新開地だよ、
山陽電車の西代駅まで行きそうな勢いまで空気が変わった。

 さて、今回の月光亭版、JR九州鹿児島本線かと思いきや、
西鉄天神大牟田線、大橋あたりから電車に乗って、二日市か小郡あたりで
降りたかったのに、久留米、花畑、しまいには大善寺、そこから先は単線だよ。
そう言う空気に見事に変化している。

 この空気の中、自然な形でゆきまるが入ってくると、驚いた。
・・・子供を産んで、美しくなっていやがる。

 「自意識過剰」をめぐるひとり酒から「本当は今、そこにはいない」誰かとの会話、
過去に起こった、どうしようもならない、もしくはどうしようも出来なかった出来事についての考察、
突き詰めたら母が突然わたしの目の前から消えたからこんなに大変な目にあった、
責任取ってくれ、と「見えない」母に対して言い寄ってくる。

 ここにフェデリコ・フェリーニの「道」という映画と思われるお話が重なってきて、
「運命」に対してどうしようもできないわたし、とそれでも受け入れて
生きていこうとするわたしが一つの体に入っていて、その相反する思いが
いつもいつもぐるぐるしていて、ぐるぐるがひどくなるとお酒を呑んで、
毒を吐かなければ、やってられないのだ。

 過酷な状況を何とか無理やり生きてきたけれど、疲弊は相当なものだった。
なのにあなたはそこから逃げた、私は逃げられなかった。
けれど、私はもっと、もっと、耐えてやる、という思いが最後のマッカラン2本に
現れていたのだろう。

 色々な思いがいろいろな変化をした様子ってこんなかんじで、
変化した先に見える「景色」を丁寧に、丁寧にノイズを取ってみせたら、
「過酷な人生を生きなければいけなかった」女性と
そうなるきっかけを作った母親との和解、というか赦しというか、次に進む物語と
いうものに変化してすんなり心に染み入ってしまう。

劇団きらら「はたらいたさるのはなし」

「マイノリティの悲哀」と言うには明るすぎて。

  「パーソナル・スペース」と言うものに対して、私たちは鈍すぎる。
・・・のかもしれない。
とくに、「空席を埋める、ということ」において。
段差はあるけれど、やっぱり前の人の頭は気になるし、
その気になっているところをうまく避けるポジショニングにも気を使うし、
最前列がいいかな、と思っても、後ろの人のパーソナル・スペースを
「侵害しない」ようにどうしたら良いか、迷ってしまう。

 そうして「短い時間」で作り上げた「パーソナル・スペース」を
「異なる」人はあっさりと壊してしまうのだ。
「ここ空いていますか」、なんて言われたら、
そりゃ、口ではどうぞ、というが、肚の中では
こいつ、俺に「宣戦布告」してやがる、もしこいつが
「演劇関係者」だったら、こういう人と仕事したくない。
というか、こういう人の作る「作品」という人生はつまんねぇだろうな。
更に言えば、そう言う人達とおんなじ空気吸いたくない。
吸ったら、わたしもおんなじようにつまらないものを作り、
つまらない人生を生きてしまいそうになる。

 ・・・それを人は「普通」というのかもしれないが、
わたしはまだわだかまりが残ってしまう。

 毒吐きはここまでにして、本編に入ろう、本編。

 「うどんの自販機」に関しては、高速道路のサービスエリアや
パーキングエリアにごくごく当たり前にあった頃から
存在は知っていたが、親、とくに父がそう言う食べ物を
食べさせてくれなかった。

 そして、大きくなって、どこにでも行けるようになったら
当の自販機コーナー自体が「絶滅危惧種」、と言うものになってしまった。
というか、この「バブル景気」を通り過ぎた30年で「せかい」や
「にんげん」が大きく変化してしまったんだよなぁ。

 今はYou Tubeという便利なものがあって、
うどんの自販機が稼働している様ばかりを撮りつづけた動画も
たくさんあって、どういう風に「仕込んで」、どういう風に「商品化」されるか、
・・・細かいディテールはここでは問わないことにしよう。

 本題、なぜ、うどんの自販機が減ったか?
機械を作るメーカーの問題、というか、「機械の手入れに手を掛ける」より、
「低賃金・長時間労働」で人を「使い潰した」ほうが安上がりだ、と
資本家(経営者)が気づいてしまったこと。

 「使い潰されてしまった」人が増えると、社会はどうなる?
「消耗された」わたしが「消耗された」他人と触れ合うと、
ものすごく摩擦して、緊張して、退っ引きならない事態になってしまう。

 だから冒頭部のせりふ、「24時間チェーンの店もあるのに、
自販機のうどんを食べに行ってしまう」という言葉につながってくるのだ。
温かいものを腹に入れて、落ち着きたいときまで、ささくれ立ちたくないよ。

 このやんわりとした、穏やかな空間で、マイノリティ、というか
「発達障害」や「ADHD(多動)」、「自閉症」、「軽度の知的障害」、
そういうものをたまたま抱えた人たちが抱える生きにくさを明るく、
とにかく明るく板の上で、表現している。

 わたしも、縁あって、というかワケアリでそういう場所で
初めて大掛かりな「人生の棚卸し」を始めた。
その環境が程度の差はあれど、みきてぃが
この戯曲で描いていることとおんなじことなのだ。

 「やらないかんことは今(今日)やる」とか
板の上で繰り出される言葉やもろもろの動きとおなじものを毎朝 見たら、
こういう「自立支援」のやり方として、「当事者同士による相互扶助」も
あるのだな、というか、うまく「自己開示」ができれば(以下略。

 「普通」というか「定形」って一体なんだろうね?
その言葉を盾にして「普通」とか「定形」の発達ができた人たちは
他人というか、「異なる」人に「服従」を求めているんじゃなかろうか?
そういうことをわかって、表面上の明るさに沸いている客席を見て、
なんだか悲しくて、切なくなってきた。

 普通だ、普通だなんて言っていい気になって、
マイノリティが生きることに対して四苦八苦しているさまを笑ってはいるけれど、
マイノリティであるが故の生きる覚悟、や踏ん切り良くしなくてはいけない事情に
ついて、ほんの少しでもいいから想いを馳せてくれよな。

 「マジョリティ」の中にいると、「覚悟できていない」、「覚悟に踏み切れない」、
そして「覚悟することに躊躇している」わたしを見なくて済むから、なおさら。

万能グローブ ガラパゴスダイナモス「月ろけっと」@福岡

「ああ、お前は一体何をやってきたんだい?」
「そして、お前は一体何をやらなかったんだい?」
 
 あたらしいがらぱは、どこかてごわいぞ。

 ガラパの演劇スタイル・システムは実際に当たったり・当てたり、
捕まったり、捕まえられたり、押したり、押されたりなどの他に
身体の圧だけを相手に「残す」フィジカルコンタクトを使い、
ラグビーボール状になっている「扱い方によっては不規則に弾む」言葉を
つないでいくことで局面を作って、積み重ねる「コメディ」なのだ。

 某地方局の企画で、この演劇スタイル・システムを
デルモーズにいる男の子の手引で、7にんせいだんじょこんごうふっとぼーるの
「ふくおかだいひょう」はしもとまい「せんしゅ」(とあえて呼ばせてくれ)が
「体験する」趣向をたまたまみることになったのだが、「せんしゅ」だから、
この場にハマっているよ。

 更にいうと、かのじょの「きほんとくせい」が「ぺねとれいと(とっぱ)」がうまい、
しかも「軽い」ではなく「重い」ぺねとれいとをもちあじにしているので、
ものがたりの「すいしんりょく」が結構重く、力強い。

 いりを「おもく」みせることでうまれる「すいしんりょく」もありなのかな。

 そういうことはさておき、今回はこの「基礎・基盤」に「運と欲」、
そして「寿命」とは何か、「時間」とは何か、ということを我々に問いかけている
ゲーテの長編小説、というか戯曲の「ファウスト」を元ネタに使い、
ここに「テラスハウス」やらに代表される「リアリティ系ドキュメント番組」を枠組みで、
オチは漢文の「一炊の夢」を仕込んだら、「コメディ」という枠を軽く飛び越えた、
壮絶な演劇に化けてしまった。

 「業」と「欲」が深ければ、夢は叶うと、誰かが言った。
・・・けれども、人間は夢をかなえるために何を「喰いつぶす」のか?
「運」というか、「時間」、それも限りのある「持ち」時間。
この喰い潰す様を表に出した、「どうでもいいこと」からじわじわと
「欲」を叶えさせて、本当に叶えたい「欲」を徐々に見せていく。

 さらに「学問」やら「技術」、もっと言えば「才能」というものを
得るのも、ある意味、「環境」や「人間関係」、などと言った
「偶然」に左右されて、この偶然にたまたま恵まれたのか、
そうでなかったのか、どっちかだった。

 ・・・結局、わたしは限りある「時間」をどのように使ったのか、
その成果が「いま」だったのかもしれない。

 熊本よりもよりシェイプしていたから、こういうふうに物語がわかりやすくなっている。
わかりやすくなっているから、人間関係を始めとした「知的な迷路」にはまり込んでしまい、
また見たくなる、まるで麻薬のような演劇だ。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
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