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劇団 go to「愛の讃歌」

立って、居て、振る舞う。

 入場料2500円が捻出できない。
更にいうと、名古屋(・熊本)のシアホリ、東京のきららに行くための時間、
もっと言えば、お金が捻出できない。

 「お金を稼ぐ仕事」と「より良い方向に持っていく仕事」をバランスよくできない、
私にものすごく腹を立てていた。

 というか、準備は恐ろしくしんどい。
目的地がわからなかったり、より良い目的地にたどり着くために
準備云々よりも時間や距離が足りない、ということが分かっているときは。

 預かり知らないところなので深くは突っ込まないが、ごとーかおるのおねえさんも
いつもは万全の準備をして公演を打つのに、今回は「何か」があって、
台本を持った「リーディング」という形で公演をするため、入場無料。

 ・・・結果的に見に行くことになってしまったい、これもまた縁か。

 今回の「趣向」はごとーかおるときないさとみという九州の名手ふたりが
「母と娘」、「祖母と孫」、「同僚・同級生」、「着付師とそのお客」、
「先輩・後輩」などの多種多彩な「女の一生」を手を変え、品を変え、
寄せては返す波のようにこれでもか、これでもか、と見せている。

 その様子を見ている男性、しかも男の兄弟がいない、母と妹二人の女性に囲まれて生きてきた、
もっと言えば、自分より年が下の男の子は上の妹の子しかいない
わたしは「いままで家の中で起こったことに近いよなぁ」と納得し、
(だって、上の妹が着付けとお茶、お花の先生だもん)驚いてもいる。

 けれども、男性であることと、今まで仕事だ、演劇だ、野球だ、なんだかんだと
起こっている現場たる「家」を長く空けていたんだなぁ、長く空けていたから、
驚けども、共感できない状況だったんだ。

 おまけに子宮筋腫という病気を持ち出されると、わたしの母と祖母との関係が
強く思い出されて、いたたまれなくなってしこ(以下略。

 リーディングでこの凄さだとしたら、いったい、台本離したらどうなるんだ?
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九州大学大橋キャンパス演劇部第37回定期公演  「わが星」

「等身大」の「わが星」

 「わが星」という演目を今回入れて、3回違った演出と空間の使い方、空気の使い方でみた。
最初は元版のままごと(だったかな?)を北九州で。
 これは「オリジナル」と呼ぶにふさわしい、開演から終演までの決められた時間を
「現世」から完全に「隔離」してしまうほどびっちりと暗闇と静寂を作り上げて、その中で
「ものがたり」と「せかい」を伝えきった。

 つぎは熊本の雨傘屋というところが、昔繊維問屋(の生活空間)だったところの
アートスペース@熊本河原町で。
このときは逆に開演から終演まで「現世」と「ものがたり・せかい」の境界線がすごく曖昧で、
「大人」の「起きて、飯食って、仕事して、飯食って、好きなことして、飯食って、寝る」の
繰り返しのリズムが効いていた。

 さて、今回の芸工大版、空間の狭さをお得意の「映像」と「演劇」の融合でカバーしているから、
「天」の視座と「人」の視座として「ものがたり」と「せかい」を設定して、
「人生」と「縁のめぐり合わせ」という「人」の「ものがたり」を「宇宙(コスモス)=天」の
「せかい」として伝えきっている。

 からだの動きや、立って、居て、振る舞っている様子は元版のように
ガチのコンテンポラリーダンスでもない、雨傘屋のようにガチの演劇でもない、
「自分たちの技量内でやれることをやる」ことが徹底されていたから
どこか曖昧だけれど、等身大の「生きている」という感覚が濃く、濃く、伝わっている。

 だからこそ、公演途中、お客さんを入れちゃいけないタイミングで入れてしまったことが残念だ。
この演目は圧を徐々に高めて、最後の最後で爆発させることが肝だから。

バカボンド座「子どもに見せてはいけない祭り」

「貧困」は「作られる」という事実。

 大阪西成とか、東京山谷、横浜寿町のように「貧困」を「商品化」出来ないほど
北九州小倉黄金町、八幡春の町、あと筑豊の「貧困」はかなり根が深い。
「お腹が空いた、おにぎり食べたい」というメモを残して餓死した人もいる、
山谷や西成ではきちんと「旅館業」の鑑札を取ってやっている「宿舎ビジネス」にしても
小倉黄金町だったら非合法の「ボロアパートの有効利用」なものだから簡単に火事を起こして、
身元不明の死体が(以下略。

 こういう「路上の現実」をベースに今回の演目は書かれている。

 「路上の現実」から見えてくることは、人間の「多様性」がなくなって、
「画一化」が進めば進むほど、社会の「安全機構(セーフティーネット)」は
ぼろぼろになり、「貧困」と「格差」をあえて作ることによって、社会を統制する。
統制した社会の先には「地球の画一化」が待っているわけで。

 そういう中を生き抜かなければいけない、私たちは年がら年中「緩め」たり、
「安心」して生きることなんか一切許されないわけで。
一度緩めたり、安心したりするとどこかで見えない落とし穴にハマって、
職も収入も、はたまた家も家族も失ってしまう。

 こんなことを目の当たりにしたら、働くことにも、結婚して、子供を作って、
家族を作って生活すること(=信頼できる人と一緒になって人生を生きること)にも
懐疑的になるんだよな、いわゆる「健常者」と呼ばれる「定型発達者」には。

 けれども、知的障害、精神障害、発達障害のような「非定型発達者」には
「定型発達者」から差別と虐待から来る貧困をこれでもか、と喰らいすぎて、
人生の殆どを「孤独」なまま生き延びている。
その中で蜘蛛の糸を垂らしたら、どうなるか、わかっているよね?

 というか、蜘蛛の糸を垂らしたら、垂らした人に対して愛情という好意を
示してしまうことを知ってか知らずか、よくわからないけれど、この心理的活動を
利用して「非定型発達者」を喰い物にする半端モンが存在している。

 お話が進めば進むほどこの「定型発達者」と「非定型発達者」による
「生きたい」(ふんわりとした「死にたくない」)という希求のぶつかり合いが
ひどくなってきて、「共存共栄」と世間は言うけれど、一体何なん?という
問が絶え間なく客席に降り注いでいる。

 「定型発達者」が考える「共存共栄」は「勝ち役」が利益を得るために「負け役」の
人格を「否定するふり」をしながら「利益を得るために必要な犠牲」を押し付ける。
この活動から出てきた言葉を変にありがたがる。

 ・・・なんか、それ違うんですけど。

 人間、もしくは生き物という存在は「変化」というか「可塑性」を持っていて、
役割と立ち位置によって、この「変化」や「可塑性」を活かして活きている。
それぞれの「変化」や「可塑性」を侵害しないように生きていくことが「共存」であり、
「共存」の結果として産まれたものが「共栄」何だ、ということをラストでそれとなく示している。

 書き手も演者も、人間観察力が秀逸で、「あるある」がたくさん生まれていたよ。

ゼロソー 「ピッチ・ドロップ」

「ありえない」ことなんて、「ない」。

熊本の地震の話を元にして、とひとはいう。
けれども、そういうくくりでくくれないほど、物語はとても、とても、深い。

まず、「ピッチ・ドロップ」とはなんぞや?

ピッチとは非常に粘性が高くて固体に見えるような物質を指す総称。
たとえばアスファルトがピッチというものの代表的物質。
室温では、この物質はとてもゆっくり流れて、数年かけて一滴のしずくを形成する。
この流れを観察するために非常に長期にわたって行われる実験が、
ピッチドロップ実験(英語: Pitch drop experiment)である。
(参考:Wikipediaでの項目冒頭部)

しかし、アスファルトを道路に敷くところ、敷いた後を見ればわかるように
高い温度という「負荷」を内的、あるいは外的に掛けると恐ろしいくらいに
柔らかくなってしまう。

その柔らかさと突然掛かった「移動」という2つの負荷で
実験当初から続けていた「物体の粘性」が断ち切られて
という「ありえない」ことが起こって、その後どうなるんだろう?

人間が生きている、ということもだいたいおんなじだ。
てか、五体満足、十全とはいかないまでも、半分の五全の才能を使って
周りの人々を少しは喜ばせているように生きてはいる。

・・・2016年4月16日、わたしの43歳の誕生日までは。
ちょうど、4月15日から16日へと日付が変わる瞬間に起こった
ひどい揺れ、によって、熊本市内とその周辺に住む殆どの人の
「わたしたちが生きている」という「現実」が「ありえない」という言葉が
ふさわしいくらいに変化してしまった。

 自分も、遠く離れてはいたけれど、恐ろしい変化が起こりすぎて、
演劇から遠くはなれたところに今はいる。

ホトリさんだって、自分で仕事をしながら旦那さんの教え子の
世話をする、という「日常」が家の天井が落っこちて(以下略。
「からだ」はなくしたが、「脳」を始めとする感覚器官と延髄という
「生命維持装置」が偶然(これもまた、「ありえないこと」だな)生き残って、
がだ、切れちゃったところが声帯をそれたのは良いが、
発声の基本要素たる横隔膜と肺が潰れたら喋れないぞ。

ま、そういう細かいところは置いといて、
「ありえないことなんて、ない」という普遍的な「現実」に立ち向かうためには
「ひとり」では「現実の力」があまりにも強すぎて、歯が立たない。
故に、「私達」の分身と言わなければ、「助け合う」という言葉が生まれない。

ついでに言えば、「なくしたもの」に対する「処理」のやり方
(グリーフワーク)はたくさんあって、
いちばん大事なのは、「ネガティブな気持ち」に同意するよりも、
「生きているから良いじゃないかという気持ち」に同意する。

そして、その場所にいる「存在」を否定せず、とにかく「どうして」を考える、
わからなくてもそこにただいる、というように「できること」を少しずつやっていく。
こういう物凄くシンプルな「積み重ね」でしか「処理」できない。

この「シンプルな積み重ね」を板の上で起こして見せると、
不思議な安心感が湧いてくるのだ。

KAKUTA「愚図」

人生を投げ出しても、受け止めて投げ返す存在がいることは幸せだ。

  善通寺でのハイ・パフォーマンスマネジメント業務を
どう演劇に落とし込むか、一通り終わる年明けにわたしの今後を
どうするか、再構築する場所に入っておこうか、と思っていたら甘かった。

 諸々の書類が早い時間帯に整い、気がついたらその場所にいた。
直近の予定は「仕方がない」ということでなんとかなったけれど、
今後の予定は「第一段階」を何とかすることに専念してくれ、
ということで(以下略。

 「第一段階」の肝は、全てを吐き出す、ということ。
今まで関わったところ、いつも行っているところに新しい担当の方に
同行してもらって、いろんなことを聞き取り調査し、自分の中にあるものを
徐々に言語化して、行動の癖を修正して、まあ色々大変。

 そういうことがあって、ようやらやっと演劇を見る。
確か、こんなことになってしまったきっかけが
元ガラパのまつのおが東京に行く送別会、しんどいの引っ張って
行って、グダグダになって、仕事に行ける時間帯に家に帰れず、
生まれて初めて会社をサボった。

 そこから人生がぐるぐる動き出して、ただの送別会は
よりいっそう酷いわたしになって、家には帰り着いたが、
自分の部屋にげ(以下略。

 こんなことを考えつつ、すげぇコンテンポラリーで、すげぇクラブ
(ひと座り数万円ではないところ)の雰囲気を感じていたら本編。

 再構築する場所に行って、今「掘り起こしている」ことと言えば、
「私は、どういうしくじりをして、なぜそうしてしまったのか」、ということ。
そこでわかったことと言えば、人間という生き物は、心のなかに
何かしら「穴」というものを抱えていて、それが個々の関係によって
「気になって」しまうとその穴を埋めようとして行動しすぎてしまうものらしい。

 行動しすぎても、穴は埋めることが出来ず、
逆にあなはだんだん大きくなる。
「動きすぎた結果として」大きくなりすぎて、
ひとりでは手のつけられない穴を見ると、
その穴ごと自身の人生を人生を放り投げる。

 この放り投げる様子が板の上にジグソーパズルのピースのように
絶妙の塩梅でバラバラになって配置されている。

 けれども、世の中には奇特な人もいて、大きくなりすぎた穴を
しかも自分が招いたわけでもない穴を埋めようと東奔西走する。
時には犯罪スレスレのことまでやりながら。

 その犠牲の物語を林家こぶ平、じゃなかった林家正蔵が的確に演じてやがる。
三平含めてクソミソのボロカスに言うやつもいるが、そういうやつがこれを見たら
・・・それでもボロカスに言うんだろうなぁ。

 投げ出しそうになっても、受け止めて、投げ返す存在がいたから
あるいはいるから、なんとかなったのかもしれない、私は。
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