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790(ななくま)アートシアター「走れメロス」

「我」を「失くす」、「我」を「忘れる」、「我」が「無い」。

 半年ぶりの演劇見学に行ってきた。

  というか、公演が行われる場所に行くまで、公共交通機関を使うたびに抱えていた
「変な苛立ち」というものがなく、不思議な感覚で目的地に向かっていた。

  公演の行われる末永文化センターというところは大昔、博多駅の駅弁を作っていた
「寿軒」の社長さんが私財を投げ打って九州交響楽団の練習拠点として作られた場所。
そういうことを考えながら、博多駅のホームに寿軒のステンレスワゴンがあって、
温かい食べ物や飲み物をオールシーズン売っていたよな、昼間は穏やかだったけれど、
夜暗くなって終電間際になるとドメスティックバイオレンスを地で行くような修羅場が
ごくたまに繰り広げられていたし、そうでなくともそのワゴンの周囲に知的障害なのか、
重度の発達障害なのか、わからない人がヘッドホンを使わずスピーカー剥き出しの
小型カセットで「もしもピアノが弾けたなら」を聞いている、という大変濃い場面に
よく遭遇したよな、その流れでもハイエンドな芸術かよ、ということを思い出していた。
 
 階段を登り、2階にある剥き出しの場所に旅館の一間を想起させる空間と
円形の台と踏み台がある程度の間隔を空けて表演空間として存在している。
その両側に客席をしつらえて見手を入れる、というのが今回の趣向。

 太宰治の「走れメロス」というお話は「友情のために約束を守る」という
物語の肝が存在している。
そして、「メロスはなぜ走ることになったのか」という物語に仕組まれた問いも
同時に存在している。

 日本の文化芸術、特に演劇映像の世界でなんだかんだ活動している人たちは、そのキャリアの中で、一度は太宰治が設定したこれら二つの問いをそれぞれの解釈と表現として
見せたことがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。

 さて、今回は「走れメロス」がどうやって生まれたのか、というお話を
太宰治と檀一雄の関係という史実を利用して見せることで二つの問いを解き明かしてみる、
というアプローチを採用した。

 まず、太宰治はお金と女の人にだらしがなく、その尻拭いをするために小説を書いて
お金を作った、というのはロシアのドフトエフスキーと若干似ているかもしれない。

 けれども、ドフトエフスキーは借金取りと真正面から向き合って単価の安い小説を
長く、たくさん書いたが、太宰治はうじうじだらだら考えるだけで、肝心の小説という
商品が生み出されていない、その間にもだらしない出費が続いてさあ大変、いっそのこと
熱海に逃げちゃえ、という設定を作り、その設定で走れメロスのお話を走らせていく。

 その様子はまるでプロレス。
相手は世の中と目の前の相手、そして物語自体。
その三つに3人の演者が必死かつ命をかけて取っ組み合っている。

 この取っ組み合いを見ながら「我」というものを持っている、というか抱え込んで
しまっているから人は苦しくて悲しい思いをするのかもしれない、ということを感じた。
特に太宰治はこの「我」が人一倍強かったから、「他」を気にしてしまい、「他」と比べることで「我」を忘れてお金と女の人を使って「他」と比べた、比べられた痛みを誤魔化していた。

 このことは、現代が抱えている「依存症」という「こころの病気」の根幹をなす部分。
「我」というものを十分出して、何かを為さなければならないという「自己責任=努力依存」がまず存在して、「努力依存」を充足した成果として「買い物依存」や
「ギャンブル依存」、「セックス依存」という「こころの病気」が生まれ、
さらにエスカレートすると「アルコール依存」や「薬物依存」というからだにもよくない
影響が出る依存が発生する。

 「小説を書いて芥川賞を取り、認められる」という努力依存を充足できず、
熱海に逃げてアルコール依存、セックス依存等に耽って誤魔化しても、その代償として
金銭的な負債は膨らみ、それでも小説を書いてなんとかしなければいけない、という
大事なところからは逃げている、というありようを美しく言葉にしたのが
「走れメロス」だった。
 わたしは演劇に関わるものやことをこの数年間で捨てていた。
捨てたことで「我」の存在を見ることができた。
けれども「我」を無くすことができなければ、「我」を見ることができなければ、
ゆくゆくは自分で自分を殺してしまうのか、それがいいのか悪いのか、わからないけれど。
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こわせ貯金箱 第2回公演「ラッキーフィッシュと浮かぶ夜」

運だ、ツキだ、と言っている時点で実は自分を喪っているのかも。

 久々の演劇だ。
紙工作のデータ集めに名を借りて、これまた久しぶりに広島、松山と
サッカーを見に行った以外、紙工作ばかりして世の中にウトウトとしていた。

 自分自身が世の中にウトウトとしていた時、ショーマンシップが
クラウドファウンディングだなんだと本拠地甘棠館の改修運動を始め、
結果、無事改修が終わり、という話は聞いていてもウトウトしすぎて行かなかった。

 初めて新しい甘棠館に行くと、驚いた!
より一層マルチアクセス感が強くなった!
軽量鉄骨のイントレ板を使って自由自在に、
しかも安全かつ頑丈な段組が組めるようになり、
更に安全かつ頑丈な釣り物バトンがいい塩梅で張り巡らされている。
・・・安全かつ頑丈な釣り物バトンのおかげで上の段ほど照明機材と
頭がぶつかるところはあるが。

 さて、この戯曲はノアールというモデル事務所に以前卸していたものを
今回はガラパの若いもんと新しい表現の場所を求めて飢えている
違う事務所というか、フリーのモデルさんやアイドル、あとなんだかんだを
掛け合わせた面子が演る、という趣向。

 自分が見るにこの戯曲は村上春樹の「羊をめぐる冒険」をベースにした
「運やツキ」を巡る考察が物語の核心。
この核心に「喪う」ことから生まれる悲しみを村上春樹はそのまま悲しみとして
表現していたが、川口大樹は悲しみを「コメディ」という糖衣にくるんで表現した。

 ノアールがやったときはあくまでも演劇というスタイルを崩さず、
見手の視点をなるべく崩さず、板の上で起こっている出来事を丁寧に張り合わせて
物語の核心を明らかにする手法に対して、今回のこわせ貯金箱は
板の上で起こっている出来事を同時多発させて見手の視点をこれでもか、
これでもか、とずらしつつ、同時多発させた出来事の切れ端同士を絶妙に
つなぎ合わせて、気がついたら物語の核心が見えていた、という手法で見せた。

 この手法を始まりと中頃にオリジナルの生歌が入り、
甘棠館ガラパスタイルの進化系というフリーアクセスの表演空間で
予測不可能な演者の出入り、と来たら、コンテンポラリー演劇なんだよな。

 コンテンポラリー演劇になっていたからなのか、
自分が紙工作ばかりしてウトウトした結果、見えてきたことなのか、
正直良くわからないけれど、生きていることを運だとか、ツキだとか、
実力だとか言っている時点で、わたしはわたしの人生を誰か知らない人や物に委ねて
委ねた結果、振り回されてわたしがわたしを喪っているのかもしれない。

 そして、喪った結果、わたしをわたし自身が異物と認識しちゃって、
というか、叩かれ、けなされ、否定され続けていたら異物と認識することで
自分で自分を否定していた、大事にできなくなった。
ということに改めて気が付かされる。

下鴨車窓「微熱ガーデン」



人間は「良心」に縛られた「動物」である。

 下鴨車窓、というか、田辺剛という人は効率的に「演劇活動」を持続するために
ITという最新テクノロジーをこれでもか、と使えているから、正直すごいと思う。
在庫を最小限にするために「紙に印刷され、製本された」戯曲集や上演台本を発売せず、
(今流行りの)アマゾン電子書籍化、公演アンケートもQRコード読み込ませてスマホ、
タブレットから回答することができる。

 ということは演者やテクニカル(スタッフ)に手渡される台本は紙じゃないのか?
アマゾンキンドルを演者やテクニカルに渡して、これで台本読んでね、だとしたらすごい。
そして、公演チケットの予約から決済の流れで紙チケットを使用せず、クレカ決済の他にも
携帯電話のキャリア決済に対応したシステムから観劇後のサンキューメールからアンケートに
誘導する流れができたら・・・怖くなってきた。

 けれども、板の上で繰り広げる物語には恐ろしいくらいに人間の匂いがする。
今回は生きていくお金を稼ぐために「大麻」というか「脱法ハーブ」の栽培に
「うっかり」手を染めてしまった女の子の日常。

 箱の中に入り、よーく見てみると、私がかつて読んだことのある「あ・ジャ・パン」という
小説のいち場面、大阪鶴橋の銭湯跡に迷い込んで、朝鮮豆もやしの密造工場に
出くわした、ということを思い出させるくらいギュッとした空間、暗くてヌメッとした
なんとも言えない空気をほぼそのまま演劇空間に起こすことができている。

  この演劇空間で繰り広げられるは、「良心に沿って生きる」と「良心に背いて生きる」という
相反する生き方、「善意」と「悪意」が糾える縄のように複雑に絡み合って、
気がつけば希望が絶望に化け、孤独は深まる。

 孤独が深まれば深まるほど栽培する「作物」の質、量ともに向上し、
稼げるお金もより多くなっていく、けれども、生活は「作物の栽培」と「学業」に
全部持っていかれて、狭い空間で食事をし、休息する。

 仕事自体は合っているけれど、働き方が孤独を誘発すると、気が狂いそうになる。
気が狂いそうになると、隣人の孤独な老人に対して、「良心と善意」を持って応対する。
・・・それが「規則」や「マニュアル」に反したことであっても。

 この「良心と善意」が結局は「違法植物の栽培」から離れるきっかけになるのだが。
というか、きれいな方の女の子が「良心と善意」から離れたところに自らを置いたことが(以下略。

 ・・・私が演劇の仕事で宮崎にいったときであった女の子とほぼおんなじ人生だな、と
うっかり思い出して、ここ数年連絡や音沙汰が無いけれど、生きているだろうか?
そんなことまで思い出した。

万能グローブ ガラパゴスダイナモス 第25回公演「溺れるクジラ」

現代版「吾輩は猫である」

 しいきっつあんが「ももち浜ストア」に、ぶっきーがその裏の「今日感モーニング」に
まとまった日数露出することになって、もう半年だよ。
じぶんは朝9時前までラジコで広島RCCの「平成ラヂオバラエティ 午前さまさま」の
フリートーク(月曜日は安仁屋宗八氏、火曜日から金曜日は横山雄二AN)を聞いてから
「アサデス。」とあわせてポチポチ見ている現状。

 というか、こういう塩梅で露出が増えて、徐々に知られる様になっても、
世の中の「可処分所得」が年を追うごとに乗の速さで減少していると(個人の見解だが)
「新規客候補」を集めることが大変だ。
サンフレッチェの年間会員新規開拓キャンペーン、先着500名様にクリアファイルプレゼント、
11月頭から募集開始、一年以上ブランク有りも資格ありと来れば、
12月15日の締切を待たずに枠が普通は埋まるもの。(個人の見解だが)

 けれども、締切間近になんとなく入っても、プレゼントをもらえるくらい
現実は新規客獲得500人が難しくなってきた。
ガラパのように努力しても、なかなかうまくいかない。
ましてや、前作から徐々に作劇の方向性を変えていく「挑戦」を始めたからなおさら。

 それはさておき、ガラパの「新しい挑戦」が今回は薄っすらと見えてきた。
今回の空間のしつらえはどこか海辺にあるゲストハウスという「現代版木賃宿」の
共有部分、置かれている調度は若者たち、という感じで結構おしゃれ。

 おしゃれなんだけれど、同質で同類、おまけに均質で、ひたすらまっ平らに
均されている「閉じた空間」が持つ空気が開演前から感じることができた。
・・・更に、始まると驚いた!

 ガラパの持ち味は板の上に男性と女性半々、もしくは一人多いか少ないかで
物語を回していく「システム」だったけれど、今回は板の上に女性多めで、
「女性を軸にして物語を回していく、男性はそのサポートや狂言回し、道化に徹する」
という「システム」で、舞台装置の「仕掛け」に頼らず、生身のからだと、こころを使って
「人間が抱えているままならなさ」をどう処理するのか、わからないことをコメディとして見せた。

 「人生のままならなさ」を感じなければ、生きていることが楽しくなるのかもしれない。
その裏にある、数多くの恨みや悲しみや屍に目を向けようとする気がない、ともいう。

 逆に、「人生のままならなさ」をどう処理するのかわからなくなると「怯え」が生まれて、
「わたし」そのものが「存在していいんだよ」と思ってくれる存在が見えない、
そもそも「存在していいんだよ」と思ってくれる存在がいるのかどうかすらもわからず、
向き合う相手を間違えて、別のことでどうにかしようと「逃げる」ように・・・。

 逃げて、揺蕩う場所があのゲストハウスだったのか!!
人生を揺蕩うように逃げてしまったら、人生の認知に歪みを生じさせてしまう。
その歪みを「なかったこと」にして、新しく生き直す、あるいは歪みをあえて作って、
成功へと導く。

 どっちにせよ「生き(行き)違い・すれ違い・勘違い」というものが
歪みと逃げと揺蕩いによって生まれてしまうと、死へと真っ逆さまに落ちちゃうよ。
ということを明治時代に感じて、小説にしたのが夏目漱石か?

 だから、杉山のひでさんがやった役が「吾輩は猫である」の猫で、
最後のところもほぼほぼおんなじだ!

 わからないことが糾弾されてしまと、わからないことでもわかったふりをして生きてしまう。
わからないことをわからない、と素直に言えるようになりたいな。

劇団こふく劇場 第15回公演 ただいま 《福岡公演》

「神隠し」と「神様のお仕事」

・・・何なんだろう?

 正直、辛かった。

 今までの私について「うまく行かなくて当たり前」という現実を見せつけられ、
見せつけられても、何をどうしたらいいか、わからない。
「もう嫌だ」といっても「でもやれ」と言う状態になって数ヶ月。

 「演劇に戻る」ことを考えてきびるフェスのキックオフイベントに出て、
シリーズチケットを携帯払いで無理して買い、ガラパのイベントに出て先行発売で
チケットを買うという手をあまりにも打ちすぎたものだから収集がつかず、
より一層何をどうしたらわからず、こころとからだが寒さで動かない。

 当面の交通費を母にお願いして工面して、きびるフェス全部とガラパは
なんとか行けるようにはなったけれど。

 さて、この演目、私の人生泥沼にハマる前に、というか泥沼にハマりかけたところで
枝光アイアンシアター改装直後で見に行っている。
その時は演者の生身の体と、生身の声と歌、能楽、田楽をベースにした所作、から
「変えられるものは変える勇気を、変えられないものを受け入れる勇気を」という
メッセージを貰ったが、それだけだった。

 パピオのビールーム、一番深い場所にある一番広い部屋、携帯電話の電波は一切入らない
(ソフトバンクとauはなんか入るらしいけれど)演劇そのものに集中できる不思議な空間に
客席部背後の余白をたっぷりとった能舞台を変形させたいつもの空間。

 枝光と違うところは立体的に見せる空間のしつらえができている。

 その空間で繰り広げられるは、「毎日のごく普通な生活」を歩く速度で積み重ねている。
この積み重ねに「くっつく(お見合い・結婚)」や「産まれる・育てる」、「離れる(蒸発・失踪)」、
そして「死ぬ・弔う」という「積み重ねを壊してしまうほどの勢いと速度を持った」出来事に
相対したときの戸惑い・焦り・いらだちにこころとからだを持っていかれそうになるが、
なんとなく、乗り越えて、またいつもの速度で生きている。

 その様子を濱砂さん演じる豆腐屋を通して、今回、私は見ていた、気が付かないうちに。
豆腐屋という「仕事」を「神様のいたずら」で見つける前、前職場の市役所で
人生を舐め腐っている人間から後に結婚して失踪する女性がパワハラを受けて悲しんでいるのを
見かねて殴って、やめた、という出来事を知ったからなおさら。

 ・・・私がずっと抱えていた苦しみと一緒だ。
そして、豆腐屋の彼も、私と同じように最初は私自身の「認識の歪み」を
「歪んでいる」と思わず、「もう歪んだままでいいや」とうそぶいていたのかもしれない。
こういうときほど自らの作る豆腐の出来は芳しくない。

 自分だって、スタジアムの紙工作、うまくスタンドの角度が取れなかったり、
一層目と二層目、それ以上の重なりを上手く作れずにいる、
そして「何もかもができなかった」いらだちをえりこさん(なかむらじゃないよ)に話す、
さらに「歪んでいる」私が出ちゃうといつも「ここがずるいところ」と痛いところを突かれ、
「もう嫌だ」といっても「でもやれ」と言う問答を繰り返す。

 この流れを濱砂さんと千春さんが宮崎の土臭さ、ゆったり加減でじわりじわりと
歪みを歪みと認識させるように持っていく。
ある程度、歪みを認識させたところで千春さんは手にしていた扇子代わりの小枝を
そっと柱にかけて、葉っぱを挿して消えていく。

 今まで他人のせいにしてきたから、日曜日の午後ピラフセットを頼んだあと
たまたま目にしたパワハラ野郎が今度は喫茶店の店員に対して同じことをやっていた
ときに出しそうになって堪えた「殺意」、この負の感情が自分のすべてを引き受けることで
最後は消えていた。

 ・・・ああ、私も今はしんどいけれど、こうなるから、うん。
あとは豆腐屋のように一人でもモクモクできる仕事を見つける、その前に歪みをもう少し見ていく。
神様のお仕事の領域かもしれないが。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
演劇を見て、感じて考えて書いていきます。
ひとつの言葉が次につながるきっかけになりますように。

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