不思議少年「棘/スキューバ」

「許しを請う」相手は、「神」ではなく、
もしかしたら「存在している」、
あるいは「存在するはずだった」、
わたしたちの「子孫」に対して、かも知れない。

 ・・・洋画に置き換えたら「棘」は「エビータ」のエヴァに子宮がんが
見つかったところからあと、そして「スキューバ」は「フリーウィリー」、
突き詰めればマイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」そのものだわ。

 演劇丁稚奉公が進めば進むほど、いろいろな意味で厄介、且つしんどい。
新たな奉公についてのなんだかんだがなかなかうまく出ず、
わたしの決めた「アウトライン」に沿って流れは作るが、
一度出てきたら、手直し、すり合わせが多くて、あっち行ったり、
こっち行ったりでもう、どうしようも出来ないったらありゃしない。

 とうとう予約ミス、というやつまでやらかしたぜ、自分。
まあ、早売りだから最小限で抑えられた、というか、
もともとの予定でよかったのでは?としか言いようがない。

 結果、近鉄アーバンライナーのデラックス席、朝早い段階の
席はほとんど抑えられ、身動きのできないところに押し込まれ、
車内、後ろにお行儀の悪い猿三人がえらくうるさい、
ついたら着いたで、コインロッカーの空きがない。

 なんとか押し込めるもの押し込んで、道に迷いながら
場所を見つけ、ご飯を食べるもふと気づく、もうすぐ開演じゃね?
泡食ってきた道を戻り、ビルの19階まで上がって、開演に間に合う。

 ・・・にしても、名古屋の演劇業界って椅子の座部に
膝小僧丸めながら見る女のお客さんがいるんだ、と
感心、というかどう表現したらいいかわからないでいたら
もう本編が始まっているよ。

 前説があり、物語の導入部が始まると、どこからともなく
女の人のすすり泣く声がかすかに、とてもかすかに聞こえてくる、
そして、私の隣から、やおらに立ち上がって、表演空間にいる男の人と
「縁」というか、「運命」、あるいは「関係性(と言うもの)」を
結ぶ、あるいは作っている。

 今、ここで「結んでいる・作っている」関係性の相手は幻なのか、
現実なのか、もしかしたら・・・
という「存在」が現れ、彼女と「激しく」会話する、あるいは
彼女自身の「問わず語り」が物語の基本的な骨組みに
なっている、そういうところまで研ぎ上げてきた。

 「ほんの少しだけ」平凡だった女性、
けれども、非凡という存在になりきることができなかった。

 非凡になることができなかったら、「中途半端」な男を
うっかり好きになってしまい、
中途半端な男だからついつい「尽くしすぎて」、
うざく思われて、嫌われ、別れ、その反動で「サセコ」として
大学時代を過ごし、「サセコ」に飽きて社会人、若い男から
求婚されたものの、過去の辛い体験のせいで愛というものを
素直に受け入れられなくなった。

 逡巡の渦の中、ある日突然「結婚」が飛び込んできて、
お互いがお互いを認め合うゆるい夫婦生活の隙間に
高校時代の中途半端な男の影がこんどは飛び込んできて、
影、というかトラウマが再発して、夫に捨てられる。

 彼女はいろいろな苦労がたたり、子宮がんで余命幾ばくもない。
その病室で一人見ている走馬灯。

 この走馬灯というか幻想をわたしはじっと見ていた。
見ていると、数年前から交際して、近い将来結婚して
共に生きていきたいなといつも考えて、月一回あって、
話をしている女性のことを深く、深く考えていた。

 「大切な人」は「結婚」というものを
「一つ間違えたらお互いがお互いを沈没させそうで」
いつも怖い、と言っている。

 なんとかして、なんとかしないと、その前にお互いのことを
知らないとまずいよね、それからわたしは「大切な人」にわたしの
今までや今、そしてこれからを話すようになり、「大切な人」もわたしに
「大切な人」の今迄や今、そしてこれからを話すようになった。

 月一回の「会話」の内容と今、板の上で起きていることが重なって、
「大切な人」がいう「沈没する」ということの正体が見えて、
妙に私の心に引っかかってくる。

 子供の頃、「両親の離婚」というものを経験すると、
「依存する」と言う面で変な癖がついて、
親と同じ「離婚という経験」をしてしまうのでは、というところにたどり着く、
そして、この変な癖を知らない人についていき、心身のケアが
間違っているからよりひどくなる、そして親と同じことを繰り返す。
 
 そういうところがあるから「結婚」というものについて恐れを持っていた。
・・・だとしたら、わたしは「今」をより一層生きていくしかない。
その様子を見せることでなんとかできるかもしれない。

 これを「物語」で「見せた」のが「スキューバ」だったのか!!
自らを見つける、そして見つける過程を伝える、これが生きる糧。

 このふたつの演目を「アングラ演劇」と「コンテンポラリー演劇」
それぞれの振り幅の大きい、小さいをうまく使い、
更に言えば軸になるガチの演劇がしっかりしているから
人間の持つ「贖罪」と贖罪を「浄化する」物語に化かせてる。

 死の間際になると、人は「贖罪」を神に求めようとする。
けれども、神は人のこの行為を苦々しく思っているのでは。
・・・「俺じゃなくて、あなたの後に続く子孫に対して、だろ」と
そんなことがうっかり聞こえてきそうだった。
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木ノ下歌舞伎「義経千本桜−渡海屋・大物浦−」

本当は、演劇が「社会の木鐸」なのかもしれない。

 ・・・緑の中を走り抜けていく真っ赤な電車。
名鉄電車の東岡崎を過ぎてから伊奈までのルートって、
本当にこんな感じだ。
いやまあ、頭の中で山口百恵の「あの曲」が鳴っている。

山を抜けて、街に入って、川を数本渡るともう豊橋。
一度外に出てなんだかんだして、今度はJRでハコの最寄り駅へ。
以外にもすんなりとたどり着くことが出来て、落ち着きながら
道中で見たこと、感じたことを反芻していた。

その「良し悪し」は問いたくないけれど、「文化の厚み」というものが
ところどころに現れてきやがる、というか「お金」がないことは
すごく辛いやね、作り出せないのはもっと辛いけれど。

更に言えば、わたしたちは「がさつな」ところがあるから
「社交」というものを成立させることが難しく、その源泉は
「発達障害」というものを地域的に抱えているから「まともな」
仕事に就くことが難しく、もっと言えば「知育」にも障害を抱えているから
尚更まともな・・・。

これを「意図的」に放置しなければ世の中はうまく回らないのか?
こんなことを考えると、前説がいつの間にか始まって、もう本編だ。

この「劇団」というか「演劇ユニット」というか説明がしづらいけれど、
得意技、というかウリは歌舞伎「独特」の「身体言語」と「時代背景」を
現在の寸と尺に直して、「演劇」というものに「翻訳」する、ということ。

歌舞伎「独特」の「身体言語」と「時代背景」を
「演劇」というもの「そのまま」に「翻訳」する、ということを
試みた「劇団」が前進座であり、花組芝居ということも言えるのだけれど。

というか、「劇団」というある意味「固定化」した集団がいつ生まれたのか?
歌舞伎、特に「江戸時代」の歌舞伎は「劇団」というか、
むしろ「演劇ユニット」という形態で興行を打っていた、
違いは「一公演ごと」の「雇用契約」なのか、
「一年間」の「雇用契約」なのか、その違いだけで。

こういうところから見ても、今の小演劇って「大江戸歌舞伎」の
手法を知らない間に学んで、利用している、そういう発見をしてしまう。

表演空間の作り方だってそうだ。
歌舞伎の台本の書き方は最初に「本舞台三間の間」という一文を書くが、
これは「能・狂言」から「歌舞伎」というものが始まっていますよ、を
表すだけで舞台上の表演空間はそうではないのが常。

がだ、今回の、というのかどうかは「初見」なのでよくわからないが
「平面」としてはほぼ「本舞台三間の間」という「能舞台」を踏襲している。
違いは「花道」というものの位置が歌舞伎のそれであり、
あと何らかの「規則性」を持って配置された「奈落」と
「奈落」に透明の板をかぶせた存在があることのみ。

そして、平面から40度の斜度を付けて客席に近いところを低く、
遠いところを高くしたことで歌舞伎独特の「高足の二重」を
「現代演劇」の中にうまく取り込んでいる。

「尺高」から「常足」、「中足」、そして「高足」と演者が細かく移動し、
「物語」を様々な高さと角度で「演じる」ことで「普通」と
「普通ではない」世界が「同じ地平」に存在していることをそれとなく見せ、
更には「時代は違えども、同じ物語が進行している」という時間まで
見せることができている。
こうなってしまうと、「源平合戦」という「政治的主導権争い」の
始まりが壮大な「反戦の物語」に化けやがる。
だから最初の音楽を「君が代」にして、「日の丸」を「背負う」という
ムーブマイムが所々に入っていくわけか。

更に言えば、「政治的主導権争い」によってなんの罪もない
数多くの民衆が「殺される」様を衣剥ぎによって表現し、
そうしてたくさんの人間を犠牲にしても、最後は
「津波」に代表される「予期せぬ出来事」で死んでしまうじゃないか、
そう考えると「戦争」とか「主導権争い」って無益だよね。

「無益だよね」ということをストレートに表現すると言論統制に
引っかかるんで「安徳天皇は女性だったかもしれない」という
エピソードを混ぜて、エンターテイメントとしても楽しめる仕掛けを
それとなく作っているのも流石。

ほんと、こういうのを見ているとメディアが「社会の木鐸」と
勘違いしているけれど、本当は演劇こそが「社会の木鐸」なのかも
しれない、という可能性を信じてしまう。

刈馬演劇設計社 「猫がいない」

「社会」は常に「生け贄」を求める。

  「七ツ寺合同スタジオ」という名前とこの場所ができた経緯は
自分が演劇に触れて一番最初にいろんなことを教えてもらった
河合塾の某講師(アサデス。に出ている世界史の青木さんではない)から
聞いたことがある。
(青木さんには入試直前の講習で
「お前はレヴィ・ストロースも知らないのか」と言われた。
そのことばが私の学びをずっと支えているのかもしれない。)

こう考えるとわたしの「発達」が未熟なせいで
自らを伸ばす進路に19歳で進めず、余計な遠回りをしてきたが
回り回ってこの歳になって自らを伸ばす進路に進めたのかな。
・・・河合塾に行ったあの一年間はものすごく貴重だった。

「希望」を持つにはいささか早すぎた、けれども、「絶望」するには
かなり「遅すぎた」のだろう、わたしの場合は。

都市のベストなバランス、というものを「エンターテイメント」の
観点から考えてみると「家内制手工業」と「工場制手工業」が
程よいバランスで拮抗し合い、ここに「工場制重工業」か乗っかって、
補助的に商業・サービス業が支える、当然「強い農業」が
良いバランスを下支えする必要はあるが。

そんなことを考えながらハコのなかに入り、
お客さんの空気を感じながら、自分を温めているといつの間にか
本編が始まっていた。

ある「殺人事件」の「元」加害者と被害者が冤罪が明けて、初めて
「出会う」というところから物語は始まる。

というか、この家、さらにはこの村には「謎」が多すぎる。
実に、あまりにも多すぎる、何故に、この「家庭」は母と殺された
上の娘、そして生き残った下の娘「だけ」だったのか、
夫は死んだのか、自ら出て行く道を選んだのか、どうして
若い男を母は「引っ掛けた」のか。

この村はかつて「別荘地」だった、というが、
現在は「外に開かれる」ことを「拒否」して
内へ、内へと「閉じこもって」いる。

これらの「何故」が始終ブリキのバケツにかつーん、と水漏れなのか、
水滴がかかる音として不気味に鳴っている。
物語を追いながらこの音を聞いていると、あることを思い出したのだ。

・・・人のこめかみにたった「一粒」の水滴を当て「続ける」、
もしくは脳みそに「細かな振動」を与え続けると最終的には
「狂って」しまう、という「軍隊」がよく使う「拷問手段」のことを。

ああ、これは社会、という「集団」が「何かを」守るのに
「村八分」という「排除」を利用してしまう、という
人間の「原罪」なのだろう。

この事案は、明らかに殺人事件、だとすると、
「地下室」で上の娘の死体が見つかった。
警察は家族に上の娘の死亡を伝えて、次のように言う。
「あなたの家族が死にました。」

さらに続ける、「事件の捜査を続ければ、あなたたち家族のことが
新聞・テレビ・週刊誌に出ますよ。
旦那さんの仕事や、娘さんの縁談にもさしさわりがあるのではないですか。
さらに、あなたたちは<招かれざる存在>じゃないですか(以下略。」

もし、この「事件」は自殺をしたという調書を出す、という形で
穏便に処理していたら、ここまでおかしくはならない、その「可能性」を
誰が、どのようにして「拒否した」のか、部外者の部外者たる
私たちにはわからないけれど。

このようにして「ムラ」社会では、どのような職業でも家族が事件に
巻き込まれることは大きなハンディとなる。犯罪に関係なかったとしても、
言い訳にはならない。
・・・故に、巻き込まれないように、巻き込まれないように「わたしを殺して」
生き続けるように「同調圧力」によって強制させられる。

こうなると、ムラの支配者にとって自らの「権力」を維持していくために
有利な状況になる。

この有利な状況を維持していくために
今日、誰かが誰かに有形無形のノルマを突きつけている、
そのひとつとして「同調圧力」が存在する、ということかもしれないが。

有形無形のノルマは、事件発生の時点で事実をゆがめる。

だから、冤罪はなくならない、むしろ「社会的排除」の手段として
「意図的」に使用している、という現実がある。

もう一つは、(自白等の)「強制」と「奨励」。
歴史的に言うと、ムラ社会には自殺(自滅)の長い歴史がある。
それは文化でもあり、組織的な行為でもある。

更に言えば、いつも「生け贄」にさせられるのは「真っ直ぐな弱者」である。
そういう人はどこかしら「目立って」しまい、というか目立たされて、
折にふれて「挑発」される、ちょうどバケツに落ちる水滴のように。

で、ある限界点を通過した時点でわざと暴力的に「事態を解決」
させるように仕向け、ありとあらゆることを押し付け、有無を言わせず
「排除」させる。

それで皆が納得して、というかさせられているところに
新しい外からの存在が「事実」を更に「修正」しようと乗り込んだ。
・・・これが「猫」の正体だったのか。

という現実を 「戯曲」の緻密さと「演出」の緻密さが
「掛け算」で合わさった「演劇」というもので見せられると
世の中が「弱者」に対して見せる 「拷問」を「追体験」してしまう。

本当に、人間って弱い、実に弱すぎる。

劇団あおきりみかん「パラドックスジャーニー」

人生での一番厄介な長い、長い、旅の途中。

結論、松山から寄り道して見た甲斐があった。

松山でシアホリ見る、というところまでは道筋ができた。
問題はその後、どうするか?

そのまま福岡に帰っても芸がない、
というか、つまらないし、大阪に寄って阪神戦でも、と思うが
お金が心もとない、ましてや・・・と思ったところに
一枚のハガキがやってきた。

今度、名古屋などであおきり、新作やるよ、
前作、行く予定でキャンセルしたろ?
あ、今回、「行かない」はナシでおねがいします。
なんてそこの親分の直筆で書かれていたら
「集合」が掛かったも同然だ。

「集合」が掛かったら、なにはなくとも行かねばならぬ。
というわけで、大慌てで日程を確認したらちょうど良い塩梅で
ぴったりとハマってしまうではないか。

松山からちょうどいい時間帯で名古屋までの夜行バスがあり、
帰り、福岡までの夜行バスは時間帯がちと早いが、
広島行きだったらちょうどいい時間帯、そしてこないだの遠征で
やり残したことがあって、それを片付けるには良い塩梅。

そういう日程を組んで、実行してみたが、現実は甘くない。
松山の演劇、終演時間が遅く、シアターねこから道後温泉まで
上一万の交差点まで一本で行ける道がどこなのか夜なのでわからず、
変な道筋をウロウロ歩き、道後温泉にたどり着いたら、
足湯も、本館も、椿の湯も時間切れ、大人しくベンチで待つ。

そうこうしているとバスがやってきて、奥のターンテーブルで
一回転してやっと乗ることができる。
あとは目をつぶっているとじわじわと眠くなり、外が見えないから
気がつくともう名古屋、サウナの割引券をもらい、お風呂に入って、
ご飯食べて、ゆっくりしつつ、レポートを書くともう出る時間。
もう一回お風呂に入り、外に出て、まずは伏見に向かって
納屋橋通りを歩く。

そして、御園座はもう取り壊されて改築中だ、というのに
通りの名前は御園通り、通りの終点より先まで歩いていると、
ハコがあるらしい、文具屋がやっている雑居ビルにたどり着く。

・・・ここでいいのだろうか、と考えつつ、
帰りの高速バスのりばまで一本で歩けるか、試してみたが
どうも難しいかも、ちょうど良い塩梅にスルガ銀行があったので
小銭をおろして帰りの地下鉄代は確保した。

あとはコンビニで食事をしながらレポートを書き、
街の様子をウロウロしながら見ている。
日本の現状知るなら、海外行け、とか言うけれど、
名古屋に行って、街の様子を見れば、それでいいのかも。
東京はなんかおとなしすぎる、大阪、福岡はアジア人が多すぎる、
広島はアカデミックな多国籍、名古屋は「本当」の多国籍。

・・・名古屋の地下鉄の案内は日本語、英語、中国語、
ハングルに加えてスペイン語とポルトガル語。
で、ハコのある雑居ビルに住んでいる住人の殆どが
外国人、色んな色の、いろんな言葉を話す人々が
雑多に混ざって、生きている。
これが現実、なのかな。

そういうことを感じつつ、いろいろムカつくことをしのぎながら
ハコの中に入ると黒一色に、回りに棒がぐるりと立っていて
客入れ音も何もないガチの「演劇空間」ができていた。

この演劇空間を見て考えた。
もしかしたら、私たちは何らかの「檻」に「囲われて」、
生きているのかも知れない。
そして、人が「考える」という「作業」における「檻」というものが
「パラドックス(矛盾)」というものなのだろう。

・・・わたしの現状を見てみればあまりにも「不自由」が多すぎる。
なのにわたしたちは常に「自由だ、自由だ」と言っている。
その時点からもう「パラドックス(矛盾)」は生まれているのだ。

これらの事柄を物語の題材として、のっけからフィジカルが高く、
物語とその題材に対して的確なムーブマイムで演者が
「表現」してしまうと、その「表現」の一つ一つが思想的・思考的、
肉体的、あるいは社会的な「檻」から演者自身、あるいは見手を
「解放」する「作業」と化してしまう。

更に、この作業は上下も左右も関係ない空間で
時間の枠も超えた「同時並行的に起こる現実」として
見せている、見せているから、この場に「矛盾ではない」ものが
たった一つだけ存在していることをそれとなく見せている。

・・・それは「愛」というものだった。
けれども、「愛」を「表現」する段階で若干の「パラドックス(矛盾)」が
存在し、この「パラドックス(矛盾)」を「調整」して届ける。
そういうふうに見ると「パラドックス(矛盾)」というものは
人間自らが生きている上で生じさせている「癖」であり、
その「癖」に「向き合う」ことを「一つの旅」として
見せていたのかもしれない。

だからこそ、旅の終わりに「無」から「有」が立ち上がったのか!!
・・・私達の同じ旅はまだまだ続くけれど。
プロフィール

itumo25254you

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