ぐにゃリ 「台風」@佐賀

「屠られた羊」と「モラル・ハラスメント」。

 「心地良い」と「気持ち悪い」を同じくらいの量、抱えることは
恐ろしいくらい心と身体に負担がかかる。
「わたしはいったい、どうしたい」ということがわからなくなって、
そのわからなさにわだかまってしまっている。

 「知らない」、「分からない」で自分の身の回りを済ませることができたら
どんなに楽になるか、でもそうしない自分に対していろんな感情を
抱えすぎて佐賀へ向かい、開場前、ある人に電話をしてから
携帯電話の電源を落として、ハコに入る。

 客入れ音がなんだかベネズエラ調で、この音をスイッチにして
あるやぶさかでないことを考察し始め、気がつけば客席もぞめきはじめた。
なんて言うか、たまらない状態で物語に入ってしまう。

 さちんという書き手が「家出」で九州戯曲賞を取ったその足で
沖縄へ働きに行き、帰りに「台風」で足止め食らってた時に書いたから、らしい。

 ある中学校で働く3人の教師、そして生徒の「日常」を通して
「人間の尊厳」というものは壊そうと悪意を持てば簡単に壊すことができる。
・・・「集団を守る」と言う大義名分のために。
これが、「屠られる羊の必要性、もしくは必然性」というものであり、
手段のひとつとして「モラルハラスメント」に代表される
「嫌がらせ」というものを使うのだよ、
と言う陰湿なものをさらっと見せていた。

 なにを保ちたいのか、正直わからないけれど。
わからないが、そのことをはっきりさせるためにたまたまそうなっていた
「存在」を槍玉に挙げて、さいしょはからかって、次第に「人間の尊厳」へと
介入し始め、その集団への居場所をなくす、と言うか、潰して
「人間の尊厳」を粉々に破壊して、最後は陰湿なやり方で排除してしまう。

 廻りは黙ってみているしかない。
今度、「屠られた羊」にさせられる可能性がある訳で。
屠られた羊にならないように息を潜めて、
隙を見せないように生きているのだろう。

 がだ、そういったことが上手じゃない人が多少なりとも存在する。
そんな人を集団は見逃さない。
どんなに有能で、周りから好かれていようとも、些細な隙を探しだして
その部分を色々な「言い訳」で誇張して攻撃を始める。

 最近の世の中はそういう陰湿な殺気に支配されているから、歪んでいる。
この歪みや狂いについて言及すればするほど余計なトラブル、というものを
抱えてしまい「人生」が足止めを食らって疲弊してしまう。

 そうならないように閉じた空間に閉じこもって過ぎるのをやり過ごすことが
一番賢明かもしれないが、閉じこもると憤怒と憎悪が充満する。
ガスを抜くためには何かを壊すか、危険を犯して外に出なければならない。

 一体どうしたらいいのかわからないぐるぐる廻りが残る見後感。
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

テアトロこじーら 「あゆみ」

半辺天。


「天」は「男」と「女」が「半分ずつ」支えあって成立しているのかもしれない。

 というか、6月頭に「九州演劇人サミット」という
九州で演劇をしている人々が集って、新しいシーズンのおおまかな方針を
公式、非公式を問わず話しあう、という試みに顔を出すまえに、
自分がどれだけ九州を回ってきたか、調べてみた。

 ・・・このシーズン、佐賀だけ演劇のスカウティングに行っていない、という発見。
ステージマロの「金ショー」だとか、結構面白い試みはあるけれど、足が向いていない。
そういえば、本谷有希子の「遭難、」を福岡ではおーたさんの演出で、
熊本では石田みやの演出でそれぞれ見た、熊本と同時期に佐賀でもZiシアターの辻さんが
演っていたのだが、残念ながら九州新幹線の全線開業前だったようで、
熊本から佐賀の移動に骨が折れる、故に佐賀を諦めた。
そんなことをチラホラと思い出す。

 さて、前置きはこのくらいにして、本題に入ろうか。
この4ヶ月前、福岡演劇フェスティバルの口開けとしてこの演目が
オリジナルであるままごと版でやっていた。

 「路上の現実」をイメージした両面座席の
恐ろしく歩きやすいマット敷、という表演空間。
客入れ音はなく、「無音の音」をそこはかとなく楽しんでいると
ふっと姿形の違う女の子8人が表演空間の中に入り、
客席の空気を感じ聞きながら自らの身体の中にある言葉を
感じ聞くように少しずつ心と体をほぐして物語に入っていく。
その時の表演空間が「正方形」だったのに対して、
今回は男と女がちょうど半分半分で、表演空間は円形。

 この「形」の違いは「人生」の違いだとしたら、
いったい、どのように違って見えるのだろうか?
空間の響きの違いがどう人生の響きに変化するか、
目を凝らし、耳を澄ましてみよう、心をゆったりさせて。

 まずは「娘と母」の物語、それから「娘と同性の友達」、
次は「初恋」、それから親元を離れて、別の人生を始め、
その中で結婚して、子供を産んで、母親を失い、
また同じ人生の「あゆみ」を力強く、しかも淡々とした
「繰り返し」という「直線」でままごと版は見せている。


  対して、佐賀版は「娘と母の物語」を飛び越えていって、
ものすごく素朴な「混声合唱」で「人生」を歌い上げた趣きに着地した。
人間自体の息の入れ方から心の入れ方、いろいろな「歩く」がそこに存在して、
故に、より多彩な「人格」というものがかぶさっていく。
さらに、演者それぞれの「人生」まで混ざってきて、ままごと版にはない
「響き」(「和諧」、ではない)が存在し、見手のそれらと重なり、混ざり合う。

 ままごと版の「あゆみ」を見て、正直、女の子が羨ましくなった。
・・・だって、男の子は結婚して子供を「育てる」ことはできるけれど
子供を「産んで、育てる」ことはできないわけで。
がだ、私たちはおなじ場所に存在しても生きているから
感覚が違い、感覚が違うからものを見る角度が違う、それでいいじゃないか。

 世間一般が常に言っている、というか要求する「成功」というものは
このような「あゆみ」から離れたところにあるのではないだろうか?
こんな疑問を抱えながら物語と私の周りを複線化して眺めてみると
「もの」や「お金」、そして「仕事」に恵まれれば恵まれるほど
この「繰り返し」という「直線」から離れて、逸れていくさまが
ままごと版はじわじわと見える。

 佐賀版はこれまた、そんなの、どうでもいいじゃないか、と
「人生」のひとつひとつが「受け渡され」、「受け継いで」いく様子を
丁寧に、丁寧にやっていくから、「平凡」であることがなんと幸運なことで、
なんて幸福なこと、という「喜び」が輪になってグルグル回ってる。

 「シンプル」って、いったいぜんたい、何なんだろう?
「持っている」とか「持っていない」、さらには「格差」なんて
生きている、ということの前ではそんなことは無意味にさえ思えてくる。

 リズムが揃っていようが、ずれていようが、迷いながら歩き、生きてる。
・・・それでいいじゃないか。
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