さばと座「そしてサンタ・マリアがいた」

「Zeus,Quo Vadis domine?(主よ、あなたはどこへ行く?)」

わたしたちにとって、「信仰」とはなんぞや?
・・・そもそも、わたしたちには「信仰」というものを
持っているのか、持っていないのか、正直わからない。

更に言えば、わたしたちにとって、「神」や「仏」とは
一体何なのか、訳がわからなくなる。

浦上の天主堂だって、大浦の天主堂だって、「ガチの信仰」が
行われている教会には入り口入ってすぐに「賽銭箱」があり、
「賽銭箱」より前の祭壇に近いところは「異教徒たる」わたしを始め、
その教会の近くに住んでいるクリスチャン
(プロテスタントは含まない)しか入れないようにできている。

この件に関して、「差別だ」と思おうとしても、
「至極当然」と思おうとしても、かすかな違和感が残る。
この「違和感」が「頑なさ」というものなのかもしれない。

さて、話題は変わるが、カトリックを始めとした「キリスト教」と
「名前」がつく前、ローマ時代ではこの「信仰」に
どういう「名前」をつけていたのだろう?

諸説紛々あると思われるが、シェンケヴィッチの「QUOVADIS」では
「魚」と物語の中で「名前」をつけていた。

そんなことを考えていたらいつの間にかもう本編。

ひと通り見て、改めて思った。
徳川時代は私たちにとって、西洋でいうところの
ローマ時代だったのかもしれない。
「権力の周辺」はあまりにも退廃的、更には「異者」と
「他者」を切り分ける手段として
「信仰」を悪用し、その「罪悪感」を「同調圧力」という形で隠して、
ごまかしている。

 これが、「魚の信仰」に対する「弾圧」や「イスラム」に対する
「十字軍」へとつながっているのだろう。

この部分が「にほん」という「文化」では結構小奇麗で、西洋のように
野蛮さがないゆえ、見えにくく、わかりにくいことが板の上で
行われていることを通してよくわかるように物語ができている。

浦上、天草、島原、という土地が江戸時代以前、
どういう状況になっていたのか歴史に少しだけ疎い
わたしはよく知らないが、「純粋な信仰」を受け入れる余地があり、
「純粋な信仰」を受け入れたが故に「良心、というものは
とても弱いものである」という「事実」を知り、
そうすることで「良心に背いた」時、どうすればいいか
「対応・対処法」をきちんと心得ている。

これらはまさに「純粋な信仰」と「同調圧力」との
静かながら壮絶なるたたかい。
この「たたかい」を体験した子孫たちが「演劇」で追体験するから
より「たたかい」の持つ圧が真実味、というか生々しく迫ってくる。

そう思うと、Quovadisの世界を2016年の私たちも生きている、
現在進行形で、だとしたら私達を救う「信仰」はなんなんだ?
 
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劇団Hit!Stage「CASE4-天使と悪魔ー」

「悲しき天使」は「悪魔」と同じ存在。

 それにしても、高速バスをめぐる「痴漢」事案はあまたある。
けれども、高速バス、特に夜行バスをめぐる「隣席トラブル」から
始まる傷害事件や殺人事件という事案はまったくもって聴かない。
というか、殺すか、殺されるかの状況になりやすいのに、
結果、殺しました、殺されましたという事にならない。
・・・新車1台をダメにした「巻き添えテロ」の事案は聴いたことがあるが。

 まあいい、とにかく早め、早めに佐世保へ移動、
道中、眠り込んでいるともう終点のバスセンター、時刻は9時少し前。
お金があれば上のホテル・レストランでバイキング食べて、動く。
けれども、現実は時間があってもお金がない。

 となれば、近くに競輪場があるからそこまで歩き、
開門まで正門でボーっとして、門が開くと今日は場外発売日だから
机と椅子のある有料席が無料で入ることができる。
そこで持っているお菓子を食べ、お茶を飲み、前日までの
まとめをやって、時間を潰してから会場へとゆっくり歩く。

 会場及び、中の表演空間は前回と同じ元映画館を
改造したライブスペース、そこに「人間そのもの」が
板の上に存在しているかのようなしつらえ、更に正面には
謎のタンスが「鎮座」している。

 客入れ音は「Those Were The Days」、日本語訳題は
「悲しき天使」のフランス語版、もしかしたらロシア語版が
耳に優しく、加えて切ない音圧と音量で流れてくるから、
日曜の昼下がり、しかも心と体が疲れきっている状況には
大変酷な環境だ。

 こういう酷な環境でも脳みそはフル回転していて、
佐世保という場所の空気は湿気のある南仏マルセイユ、
けれども信仰はロシア正教やらギリシア正教なんだよなぁ、
てなことをつらつらしながら考えている、そうでないと睡魔が。

 睡魔と闘いながら気がつくともう本編だよ。
ムーブマイムのベースとなるものも前回と同じく、
「女性性」を強めに出している「女性」と「男性性」を強めに出している
「女性」、ん、今回は「中性性」が強めに出ている「女性」はいないのか。

 狭い空間の二人芝居だから正面のタンスが開いた中には、
物語に必要な「小道具」が壁にかかって、待機スペースも兼ねる
「アイコンスタイル」の改良版。

 入れ替わり立ち代わり二人の女がいろんな立場をやって、見せる。
おまけに「現実」と「非現実」の2つが、マーブル模様のように
錯綜していて、「生きること」自体が壮大な「ゲーム」なのか、という
感覚に囚われてしまいそうな趣に仕上がっている。

 お話の基本構造は「子育て」をめぐるなんだかんだ。
「子育て」をめぐるなんだかんだにまで想いが立ちゆかねば
なぜ、佐世保という場所で2回も「子供による猟奇的な殺人事件」が
起こってしまったか、その理由がうまく理解できない。

 この「子育て」というものが「何らかの事情」で
うまくできなかった=「魂」を救うことができなかった、あるいは
救えなかった「記憶」を「携帯育成ゲーム」の中にインストールして
それをプレイしている。

 ・・・なるほど、わたしたちはわたし自身を救うことができず、
この「救えなかった」という現実が産み出す「記憶」というものに
人生そのものを翻弄させてしまっているのか。

 そうしてバラバラになってしまった「救えなかったわたし」の欠片を
次こそは、次こそはと何度でも、何度でも拾って、集めて、同じことを
続けている、その結果が「こうなったらいいな」というものが
「こうでなければならない」という怪物に化けて、気が付かないうちに
わたしたちは自らの手でこの怪物を育てていた。

 この怪物は育てば育つほどわたしたちのからだとこころ、
そして脳みそを支配していく。
ゆえに、すべての物や事、出来事に対して「恨み」や「つらみ」、
「嘆き」と「怒り」の感情、更には「他人様信仰」が芽生え、根付き、
行くところまで行って、「自己否定」、自分を殺すか、他人を殺すか。

 そこまでわかったらどう解決すればいいだろう?

 何らかの形で、長い期間降り積もって凝り固まった「負の感情」を
吐き出して、その後にまた「負の感情」が入り込まない手当てが
必要になってくるのかもしれない。

 その手当ての手段として「演劇」を始めとした「アート」を
「カウンセリング」的手法にまで持っていくやり方もアリだろうし、
自分はいままでそうしてやってきたことに加え、化学的療法や
「外部からの強すぎる刺激」を遮断することが必要。

 さて、その次どうするよ、というラストでお話は終わる。

rawworks「中村仲蔵」

徹底的に貫き通す。

 少し早い時間から長崎に入って、開演までうまいもん食って、
温泉にも行ってゆっくりできるかもしれない、なんて
思っていたら、甘かった。

 ・・・ふうっ、ホークスの先先行、6月の阪神戦、ハム戦、
2つとも取れてしまったじゃないか、おまけに机の上に
引っ掛けて使う「書見台」を探して買わなければ。

 色んな意味でカネがかかりすぎる。
緊縮財政によりいっそう磨きをかけたいが、もう嫌だ。
くんちの諏訪神社に行き、そんなことを考えつつ
ひさしぶりに宝町のポケットシアターへ向かう。

 中に入って驚いた。
昔ながらの「芝居小屋」が現代風味にアレンジされながらも
再現されている、というか、なんというか。
おまけに客席が三面になっていて、こういう作りは
同じものを3度見に行きたくなってくる、けれども日程、
加えてお金の問題というものがなかなかそれを許してくれない。

 演劇、というかアートというものは「歴史」という
「アーカイブ」の中に隠れている「トレンド」というものを探して、
拾って、ピタリとハマる「ピース」を新しく補うようにして作る、
そうして「歴史」というものをつないで、続けていくのかもしれない。

 こういうことをつらつらと客席で考えていたら
ものすごく姿勢と所作の良い前説が始まり、
本編の上演時間は90分、とのこと。
どうやら高速バスの最終にはなんとか間に合いそうだ。

 前説の間にもぞくぞくと客が入ってきて
数分オシで本編が始まる。

 お話の中身は孤児が「芸の道」で生きている人に
「拾われて」、最初のうちはこき使われ、その後に
芸を仕込まれ、見つけて、身に付けて、一度は芸の世界で生きてみた。

 けれども「運命のイタズラ」でまた堅気の世界に戻されて、
そこで生きてはみたけれど、芸の世界が骨身に染みてしまうと
堅気の世界で生きていくには無理がある、ということを悟り、
また芸の道に戻って、更にありとあらゆる「汚いもの」を
嘗めに嘗め尽くして更に芸を磨き、看板を背負った男の一代記。

 けれども、看板を背負うまでに喪ったものは数多く、
喪ったものやことをすべて飲み込んで開き直ろうとはするけれど、
「過去」の残像に揺さぶられ、「成功」という幻にも揺さぶられ、
心と体、そして頭が狂っておかしくなろうとも、「板の上」という
ものすごく広いけれど、ものすごく狭い「場所」でしか
生きることができない。

 この「覚悟」と苦しみや痛みを背負って生きた先に
「生の歓び」がある、ということを「心理的な広さ、狭さ」や
「陰影の使い方」で変幻自在に見せている。

 そうなると、物凄く狭い、物凄く密集した濃密な空間で
「研ぎ澄まされた」藝の凄みをいつの間にか見ていた。

 あるときは、歌舞伎であり、またあるときは落語であり、
そして万才でもある。

 こういう壮絶なものを見ていたら、長崎に向かう道中、
あることで「わたしの世界」と方法論によって「違う世界」に
うっかり口を出してしまったわたしの愚かさに気がつく。

 ・・・ただかおり巧い、帯域が広くなってきやがる 。

非・売れ線系ビーナス 「そう遠くない」

「多くの議論」は「ひとつの現実」の前では、とても敵わない。

 宿の中、もんもんもんとして、朝ごはんを食べるタイミングをしくじり、
料理が出てくるタイミングに少し苛立ち、大急ぎで食べて
大急ぎで宿を出て、交通センターに向かい、熊本から長崎行きの
バスのチケットを戻して、福岡からの長崎行き高速バスの手配をし、
前もって確保していた帰りのチケットを出して、福岡行き高速バスに
乗ろうとするが、時刻間違えのミスに気が付き、正しい時刻に変更して
ようやらやっと高速バスに乗る。

 ・・・新幹線ができたせいか、水前寺、益城、特に合志方面から
客がぞろぞろぞろと乗り、なんかきっついなぁ。
きっつい中、天神にたどり着き、西鉄電車に乗ってタブレット開くと
ある方面から昨日のdengekiについて、「助けて」コールが入る。
それを受けてレポートの内容をほんの少しだけ書いてお出しする。

 ゆえに歩いて、家に帰ると、誰もいなかった。
浴室乾燥機だけがウンウン唸っていて、とりあえず洗濯ものを
出して、汗を拭いて、パソコン立ち上げてデータを移して、
ご飯を作って、食べて薬を飲む、2時間ばかり寝て、
再び天神、そして長崎へ向かう。

 大雨、というか、なんというか、天神辺りがひどく混んでいて、
渡辺通を南へ向かい、清水の交差点を曲がると半道橋、
そこから都市高速に乗って、九州道、いつの間にか暗闇になり、
気がつけばもう長崎。
用事をして、バスで宝町のポケットシアターへ。

 炭酸水飲んで、雑談して、中に入ると、
いつものように、いつもの「喫茶店」が「ぎゅっ」と詰まっている。
初演のとき、よくものを見ていなかったせいか、
壁に「野間大池の会」のポスターを初めて見つける。

 そういえば、初演のときは「歴史的な経緯」がよくつかめず、
「恋するマリールー」を見て、ようやらやっと
「ひとつの流れ」を掴んだ、ということに気がつく。
気がつくと、前説を兼ねた物語のさわりのさわりが。
勧められるがままにチラシの束の中にある茶封筒を
手に取り、その中にある「野間大池の会会報」を見る。

 さて、このお話の肝は「福岡」対「博多」の内戦に
那珂川町と佐賀県がちょっかいをかける、という構図。
まずは市町村制度ができる時に「福岡市」にするか、
「博多市」にするか、という問題を「後ろについている方々」が
ややこしいことにして、結果血を見ることに。

 これが「糸島地震」の救助・支援問題を引き金に、
「平和火事」という「仕掛け」が煽りに煽って、
佐賀というか、「筑後」の財力を背景にした那珂川が
油山を攻め落とした、そして占領。

 この占領状態を打開するため、「野間大池の会」が結成され、
解放運動が始まり、政令指定都市になって南区は返還された。
しかし、油山には基地は残り、各区には「自衛組」と呼ばれる
半官半民の軍事組織が組織され、「血のどんたく」や
「マリールー」に代表される「爆破テロ」にまで
問題が先鋭、陰湿化している。
そして、「ロビタ」と呼ばれるヒューマノイドロボット誕生。

 ・・・それから30年のちのお話がこれから始まる。 

 ふう、前置きが長くなっちまったい。
がだ、この「戦争」の「コンビニエンス化」を語らずして
このお話は語れない訳で。

「戦争のコンビニエンス化」というものは、あなたが今、ここで息を
している時、その近くで誰かが「殺され、傷ついている」、
故にあなたもいつか、どこかで「殺され、傷ついてしまう」のかもしれない。
そういう「綱渡り」の日常を知らないうちに生きている。

 さらには「電子マネー払いによるポイントバック」などにより、
知らない間に二重三重の「監視」を受けては居るが
日々、たんたんと生きている人々がそこにいた。

 「問題」から30年以上経過すると、いろんなことが「本当」から
かけ離れて、なにか違う「問題」へと変質してしまうのかもしれない。
「デモ」は「オナニー」ではなかろうか、という疑問や
「選挙」は「投票する」ことに意義があるのではなく、
「棄権する」ことに意義がある、という異議。
「活動」が何かを「伝える」ものではなく、
「出会いの場」になっている、という希薄化。

 それでも現実は「ハラッサー」による嫌がらせや、
「ハラッサー」から進化した「レイパー」や「サディスト」に
よる精神的、肉体的な「侵略」はより激しさを増し、
これらの被害によって苦しんでいる人は更に増え、
「ハラッサー」は当然のことながら「レイパー」や
「サディスト」は「強いもの」に守られているから
反省する気もなければ、罪を背負う気もない。

 そういう現実の前では、性善説だとか、性悪説だとか、
革命がどうのこうの、だとか、議論しても虚しいよな。
ああ、これが「離間戦略」というものに繋がるのか。
そして、「離間戦略」というものによって、社会と
民主主義が壊れてしまったのか。

 このことを亀田一郎の孫娘は喫茶店のカウンターから
ずっと見ていたのかもしれない、中立・人道的な立場として。

劇団HIT! STAGE「Case4 他人と自分」

「家」という「暗黒」、「社会」という「地獄」。

 商売道具のスカウティングメモノートを忘れた。
更には今月の払いが全然うまく行かなかったらしく、
より大変なことになった、正直吐きそうで、今後を本気で考えなければ。
これらの変なもやもやを抱えつつ、ハンバーグ工場の仕事を切り上げて
高速バスで佐世保に向かう。

さて、この演目を見る前、ある話し合いで「2次元の思考」と
「3次元の思考」というものが存在していて、
更にはこれらの「思考」を「土台」とした「文化」というものが存在している。

 故に、私達が生きている中での「出来事」という「データ」を
どう「受け取って」いるかの「違い」が
いろいろと厄介なことになっているのだ、という発見をしてしまった。

 今回のハコは昔、映画館だったところをライブハウス、というか
フリースペースにしていて、床に不思議な傾斜が付いている。
この空間にものすごくシンプル、というか
あまりにもシンプルすぎる、正方形と長方形の椅子、
真ん中に三角柱の骨組みだけの表演部。

 ここに「人形」のように女の人が3人、「止まって」居る。
なんていうか、「シンプル」と「無造作」が薄皮一枚で存在している、
とはこのことをいうのだろうか。

 このカンパニーの座組、というか、主な面々は
外面的には女性なのだが、それぞれの「内面的な性」が
微妙に「男性的」に振れている人と、「中性的」に振れている人、
そして微妙に「女性的」に振れている人、というように上手くバランスが
取れて、戯曲的にもこのバランスを巧みに使い「位置」と「役割」を
作ることができている、ということを感じているともう本編。

 ・・・「身体言語」というやつをきっちりと見せている。
見せているから、「ある場所」から目的地である
「ベルハウス」までの道のりから玄関のドアを開ける、という
一つの「手続き」あるいは「手順」の描写の細かさ、さらには
「手続き」や「手順」に込められている情報量が半端ない。

 なんていうか、普段の生活の「情報量」というものは
「縦×横、たまに×高さ」しかない、ここに「×奥行き」という
「情報」が入ってくると尋常ではない「情報量」によってもたらされる
「思考」が持つ「落差」が半端ない。

 半端ない「落差」に戸惑う女性、が板の上に存在していた。
これが「2次元」から「3次元」へと感覚が
引っ張りあげられる、ということか。
ある意味、ものすごくしんどいよな、というところに
「一週間泊まりこみでわたしの分身の訓練をしてね」と来た。

 ・・・「たにん」を「わたし」にする、なにか尋常じゃない。

 その尋常じゃないことを受け容れざるを得ない「人生の事情」が
あって、この事情を「日常」というムーブに移行すればするほど
わたしはいったいぜんたい何を望んでいたのか、
その「望んでいたもの」を手に入れることができなかった。
そういう「行き違い」によって「好意」は「悪意」へと変化して、
この悪意はウィルスのように広まり、侵され、壊れる。

 この一部始終を将棋でいうところの「感想戦」のような
「シアタータンツ」でこれでもかと見せつけてしまう。

 それを見ていると、いままで「望まれる人間」、
「望まれる人財」になろうとしてわたしはわたしを「急き立てて」いた。
そうしてしまう根源である「わたし」が持つ「弱さ」と「無所有」に
向きあえば向き合うほど、さらには現実に向きあえば向き合うほど
「わたし」は「わたし」という存在を否定してしまう。

 否定から生まれた「揺らぎ」と「頼りなさ」というものが
「望んでいたもの」を手に入れて、「人生のシナリオ」通りに
生きる、ということはもしかしたら「生きる」ではなく、
「わたし」というものを「ひけらかして」いるように思えるのだろう。

 その思いは空白となり、この薄暗いものを照らす道標という
「恋」にわたしをなくし、迷子になってしまった。
 
 迷子になったひとりはさんにんであり、さんにんはひとりだった。
よきにせよ、あしきにせよ、「せかいはわたし」であり「わたしはせかい」
・・・だから「ベルハウス」ではなく「ヘルハウス」だったわけね。
プロフィール

itumo25254you

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