万能グローブ ガラパゴスダイナモス「月ろけっと」@熊本

「戦慄しながら笑う」、とはこういうことをいうのか。

 ・・・まだ熊本行きの高速バスは熊本に着く前の
「ある地点」で滑らかに走ることが出来ていない。
そういう地震の影響はあるが、少しずつ元気にはなっている。

 ほんとうは高速バスだったらスーパーノンストップ便
最初の停車地、西合志で降りて、道をくねくね行けば
熊本電鉄三ツ石駅があって、そこから藤崎宮前駅行きの電車に乗り、
黒髪町という駅で降りて、そこから獣道を歩けばバス通り、
着た道を引き返すようにして歩けばはあもにぃ。

 けれども、現実は非情である。
人が多いとうまく降りられなくて、ズルズルと熊本交通センターという
野外、じゃなかった露天バスターミナルに降り立ち、
高速バスおりばと市内バスのりばが恐ろしく離れて、
おまけに横断歩道をやり過ごし、菊池方面の経由地が飲み込めず、
来たバスに乗ったはいいけれど、バス通りをまっすぐ行かず、
熊大方面に曲がったのですぐにバスを降り、歩いてはあもにぃ。

 まあ、辿り着いた先にみずほの顔を見たことで安堵したし、
ガラパのTシャツ着ているせいか、ゆーこねーさんが若返っとる。

 こんなことを感じつつ、はあもにぃのいつものところに座り、
客入れ音を効くと、恐ろしく変化している。

 今までは「若さゆえの不如意であることのもどかしさ」を歌った
日本のロックだったが、今回はフレンチ・ロックと言うか
フレンチ・スカバンド(こういうジャンル、あるのかな?)、
フレンチ・ポップだったらアフリカ移民系とか色々あるが、
声質とかなんだかんだを考慮に入れたら
フレンチ・バスク系の音楽の感じがする。

 新しい変化を感じながら本編になだれ込むと、これまた驚いた。

 今までのガラパの演劇は実際に当たったり、捕まったり、の他に
身体の圧だけを相手に「残す」フィジカルコンタクトを使い、
ラグビーボール状になっている「扱い方によっては不規則に弾む」言葉を
つないでいくことで局面を作って、積み重ねる「コメディ」なのだ。

 今回はこの「基礎・基盤」に「運と欲」、そして「寿命」とは何か、
「時間」とは何か、ということを我々に問いかけている
洋の東西や時代の故い、新しいを飛び越えて集められた
数々の名作、名著を形つくる要素を隠し味に混ぜ込んだら、
「コメディ」という枠を軽く飛び越えた、壮絶な演劇に化けてしまった。

 ・・・面白い、面白い、と笑っていたら、知らないうちに
「ああ、お前は一体何をやってきたんだい?」に加えて
「そして、お前は一体何をやらなかったんだい?」という問いかけが
そこはかとなく響いてきて、戦慄を感じたし、その問いかけに答えようとする
わたしがそこにいた。

 あたらしいがらぱは、どこかてごわいぞ。
ついでに、はしもとまいは「ぺねとれいと(とっぱ)」がうまい。
いりを「おもく」みせることでうまれる「すいしんりょく」もありなのかな。
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ゼロソー「アクワリウム」リーディング

善は善じゃない、悪は悪じゃない。

そういえば、「父と暮らせば」を見に天草に行って、
その足できららの東京公演に向けての仕上がり具合を見て以来の
熊本行きだったし、「あの地震」が起こって以来の・・・だった。

地震が起こる前、熊本の「文化の軸」が辛島町、花畑町の
交通センターを始めとしたところの再開発事業の絡みで
河原町も再開発されそうだ、という流れで移動を始めたらしい。

河原町の「文化の軸」をなすGallery-ADOが健軍に移ると
同時にゼロソーが同じ場所で花習舎を作り、きららさんなどで
お馴染み、アクトアップダンススクールのスタジオだってある。
・・・健軍より中心に近い、国府というところでは第七インターチェンジが
Studio In-ckという場所を構えた。

けれども、こないだの地震はそういう流れを
「ひとまずおやすみ」にするくらいの威力、というか、
なんて言えばいいか、ようわからん状況がいまも続いている。

特に熊本市内ではここ健軍とかその先の秋津が
ものすごくひどく、「とりあえず、大丈夫だけど」という緑色の紙物件、
「大丈夫だけど、住めるかどうか分からない」という黄色の紙物件、
「完全に住めない」という赤色の紙物件がマーブル状に点在している。

その中をずんずん歩いてまずは「秋津有楽園」という
地下水を使って錦鯉の養殖をしたり、釣り堀をしたり、
ビジネス旅館やゲームセンター、おまけに保育園まで
やっている場所までたどり着く。

  ・・・地震が起こると、建物ってあっけなく壊れるんだな。
というか建っている地面がぐちゃぐちゃになり、ぐちゃぐちゃに
なったおかげで地下水の水脈がどっかいって、というか
なくなって、どうにもならなくなり、廃業とのこと。

秋津の公園には仮設住宅もできてはいるが、まだまだ道半ば。

そういえば、この演目を見てから、もうずいぶんな時間が経つのか。
どんな心持ちを携えて熊本に赴いて、この演目を見て、
どういう感覚を持って帰って、レポートを書いたのか、正直わからん。

ただひとつ言えることは、「ミナマタ」を「題材」にして、
現実は凄いネガティブだったことを凄いポジティブに変化させて、
「生きていくためには良い、も悪い、も無いねん」というメッセージというか、
別の意味ではある種の「割り切れなさ」が未だに突き刺さっている。

さて、今回の趣向はぎっちりした空間で、「物語を読む」という形式。

「知らなくてもいいけれど、知ってしまったら逃げられない」という話を
「聞く」と、初演見たときよりも「えげつない感」が半端ないな。
おまけにいまの社会の縮図やないですか、それくらいよく練られている。

「生きていくためには良い、も悪いも無いねん」という「割り切れなさ」と
いうものになんとか折り合いをつけて生きていると、結果として
「金(利益)を得る」ことと「心」の両方(とも)取る、というか
手に入れることが出来ない、「金(利益)を得る」こと、「心」の
どちらかを「選択」しなければいけない、その「選択」の結果が
「いま」なのだ。

そして「世界」というものはわたしたちが「存在している」ところ以外にも
たくさん存在していて、というか「生きている」私達一つ一つにも
「世界」はそれぞれ存在している。
この「世界」の中で起こった「事件」のひとつを起きた「世界」の中に居る
「存在」と一体化して「感じる」、ことで「割り切れなさ」に折り合いを
つけていくのだろう、わたしたちは。

そうなると「魚を食べない」という選択やそうしなかった存在が
「受け入れよう」として「魚を食べたが、嘔吐した」と
いうことにも納得がいく。

「順応性」と「創造性」の問題や、そこに繋がる「文化」とは
「囲い者」や「被扶養者」の作ったもので、「文明」は「扶養者」の
作ったものなのか?ということ、「成長ホルモン垂れ流す」ことが
「知能」を高めたり、いいことずくめで「悪は悪じゃない」というが・・・。
そういう引っ掛かりを残して次に進もう。

ゼロソー「父と暮らせば」

「葛藤」を乗り越えて。

やっとこさこの演目を見に行くことができた。
熊本公演があった時は日程調整がうまくいかず、
見送ってしまい、この戯曲と作者たる井上ひさし氏に
映画の山田洋次監督が「お手紙」を「書く」ように
作った「母と暮らせば」という映画も見ることができず。

そういう経緯があり、天草でこの演目やるよ、という話を
聞き、どうやって行くか、その他諸々を情報交換している。
前の日、長崎市内にいるので、バスで諫早、それから
島原半島を口之津まで行って船で天草、を一番に考えたのだが、
諫早から口之津、鬼池港から本渡市のバスがわかりにくいので
どうしよう、と思案したら、「もう単純に長崎熊本の
高速バスに乗り、そこから天草快速に乗り換えたほうが
15時開演な分、いいんじゃね?」という結論にたどり着く。

で、当日、長崎からひたすら眠り込んで目が覚めると
もう熊本、いわゆる「継ぎ目なし」で天草快速が乗り場に滑り込むので
トイレでおしっこする暇もない、おまけに天草快速にはトイレがない、
時間が進むに連れて増す尿意、結局、本来のトイレ休憩場所より早めに
無理を言ってトイレにいく羽目になる。
・・・仮設、しかも露天ターミナルはしんどい。

 それからバスは海と山が混ざったなんとも言えない道を
えんやらやっと進み行くと本渡のバスセンター、降りて
少しだけ来た道を戻ると今回の会場。

体育館と中くらいのホール、あといろんな施設がコンパクトに
まとまったところの展示ホールにシンプルな表演空間を作り、
しかも午前中は市の子供会に関する話し合いと講演、
それから演劇だから「前説」がそれなりのものに。

さて、井上ひさしの「広島原爆三部作」といえば、
この「父と暮らせば」、「紙屋町さくらホテル」、そして新国立劇場
俳優養成所が必ず教材としてやる「少年口伝隊」。

そのうち、「少年口伝隊」は広島の「現場」近くで見た。
「紙屋町さくらホテル」はまだ未見だけれど、何時かは見るだろう。

この「父と暮らせば」という戯曲を簡潔に言えば、
広島原爆を「伝える」には欠かせない、「語り部」という存在が
「語り部」という存在になる手前の出来事を原爆でなくした
「父」の幽霊とのある意味「コント」に近い「戯曲」にまとめた。

そこには、「大勢の人がこうして死んでしまったのに、
私は、今、こうして生きていることが申し訳ない」という罪悪感、
「悲惨な出来事を素直に話すには抵抗がある」というためらい、
「大切にしたい」と思っている異性がいるけれど、その人は
「被爆者」としてなのか、それとも「異性」としてみているのか、
その他、様々な「葛藤」がぐるぐると渦巻いている、「現実」。

その「現実」を幽霊たる父が程よくかき混ぜ、程よくほぐす。
けれども「現実」という「葛藤」はより重くのしかかる、
のしかかるのが嫌になった娘は知り合いのいる宮島に
逃げようとするが、逃げたら、どうしようももならんぞ、と諭す。

その「現実」を「ほぐす」様子が天草、というこれまた、過去に
「隠れキリシタン」という信仰上の葛藤を抱えた土地と響き合う奇跡。
そして、天草と広島の物理的距離は遠いが、想いの距離は
遠くしたくないやね、ということを考えてしまう見後感。

帰りもいい具合にバスが来て、熊本市内まで戻り、
東京へ向かうきららの最終調整を見学して福岡に戻る。

・・・その一週間後、地震は起こり、日常は日常ではなくなった。
けれども、私達は生きなければいけないのだ、生きているから。
打ちのめされると、そんなこと考えられないほどしんどいけれど。

熊本ポペンク企画プレゼンツ

ままならないのが「人生」、ままならないのも「人生」。

 久しぶりの熊本、dengeki以来の早川倉庫。
今回は2階ではなく、dengekiと同じ1階のコンクリ土間に
少しだけシンプルな表演空間を作っている。

 少しだけシンプルだから、dengekiの時にはわかりにくかった
下手奥からセンターにかけての微妙な「傾き」というか
「傾斜」がはっきりと見える。

 ・・・みきてぃにあえるかな、と思っていたら
なんか、土曜日から北海道に行っていて云々、
ああ、こっちも札幌演劇やらわれらが愛媛の札幌遠征行きたいのに
現実はままならない、まあ、ままならないのが人生か。

 まあ、今回いくことになったのも、去年夏のクリンク本公演、
間の悪いことに野球と重なって、間に合うかどうか逡巡した末に
行けない、というか行かないことを選び、そういうことがあると
これまた「次」はない。

 今回はラグビー・トップリーグ入れ替え戦がレベ5であって、
入れ替え戦前の「チャレンジ戦」はJRFU管轄じゃないから
例のタダ券は使えない、今回は管轄だから使える、
また、ヘスケスを見に行くか、と思っていたら、この演目に重なる。
次キャンセルしたら以後、みることが難しくなるわけで。
となれば行くしかない、いろんな意味で身動き取れないのはなぁ。

【大帝ポペ】
 「居場所」のなさ、というものをこの場にたどり着く前、
つらつらと考える。

 最近、わたしに「受容」という能力を持っている。
ということがわかって、さらに、わたしの「問題」や、「性分」、
そして「障害」というものに「名前」をつけることができた。
そうなると、「対応」のやり方がかなり違っている。
かつてはそうできなかったから「居場所」がなかったのか。

 というか、「受容」ができる「世界」にいる人と
「受容」ができない、「拒絶」しかできない世界にいる人の
ふたつに分かれていて、それぞれの多さ少なさで
「居場所」があるのか、ないのか、に別れるのかもしれない。

 更に言えば、わたしは誰かに「人生」を邪魔されているわけで、
また、わたしはだれかの「人生」を邪魔している。

 こういうお話を「桜塚やっくん」というひとりの芸人の
半分実話、半分伝聞に井上ゴムの持つ「変態性」や「狂い」を
加えてみてみると非常にえげつない、戦慄を覚えるほどえげつない。

 人って、生きていればいるほど「しくじり」というものを
これでもか、というくらい抱えすぎて、「受容」ができる世界にいる
人間はそのしくじりを折りに触れてじわじわと思い出す。
そして、改めて「思い出す」ことによって、ふのわるか、
いたたまれない感情が沸き起こり、どうしようもなくなる。

 けれども、「受容」というものができなければ、
人間が生きている間に感じたすべてのしくじりから
「逃げる」、というかしくじり、というものごと自体から
「逃げられて」しまう。

 そういう「素質」を持った、人間があらゆることから「逃げて」
流れ着く「場所」と自らが覚悟を決めて向かう「場所」、
この2つの対比、そして熊本、ひいては九州演劇業界で
「先を行くもの」に対する「リスペクト」の気持ちを込めながらも見せる
世界は「怖くて、重い」ダークサイド。

 こういう「ダークサイド」にたったひとり存在すれば、
人は簡単に「死」を選ぶのだ。

目の前にある「ダークサイド」に向き合うことが
「生きる」ということかもしれないけれど。
がだ、最後の最後で本当に信じている人、
そのものが突然現れて「生きる」ことを取り戻すことも、ある。
・・・お前はどっちだ?

 「えげつない」お話を70分間、ひとりで「持たせる」技量はさすが。
INDEPENDENTという一人芝居の祭典に持っていきたいところだが、
規定の時間に削り込もうにもどないしようもできない。
まずは話だけ、持っていくか。
 
【with a clink 】
 こんどは、程よい関係。
といいたいけれど、「二人の女性、しかも親友」が
「ひとりの男を半ば取り合う」というライトな「恋愛泥々系」は
当方、きっちり読んだ、聞いたことはないが「パフに会えたら」で
多少、免疫、というものはできている。

 で、前々回のdengekiでなぜ、クリンクはタイトルをとれず、に
終わってしまったのか、どうすれば上に上がれるのか、という
「問い」を残したが、今回、その「問い」に対して、
福岡「非売れ」の「歌謡劇場」と熊本「きらら」の「見立て」を
自らの「スタイル」に受け入れようとしたことに、
ひとつの「解」を見いだした模様。

 お話は、ざっくり言えば、二人の「女の一生」やねん。
で、それぞれの「人生曲線」というものの中に一人の男がいた。
これを世の中は「三角関係」といい、ある意味、暴力的で
ある意味、悲劇的な成り行きを好む傾向がある。

 そう、クリンクの「音楽的色調」になっている、山下久美子も
布袋寅泰と今井美樹、その三角関係の入口でできた曲が
「愛してたなんて今更」、この曲がずっと自分の心の中で鳴っている。
ここに、実際、板の上でかかっている田坂さんのオリジナル楽曲による
「ミュージカル」ではない、「歌謡劇場」が不思議なくらい反響して、
「暴力的・悲劇的」ではない、「デリカシー」を持った、程よい距離の
「付き合い」での「三角関係」もありなんだな。

 さらに、こふくの浜砂さんが「やさしさはやりようによっては
優柔不断という毒に化ける」を地で行く情けなさ、というか
たくさんの色んな感情を表現している。

 こうして醸しだされた「空気」に「見立て」によって作られた
豊穣の空間が加われば、結局は「人生とは自転車レースの
スタート前、パレード・ランからレースが始まり・・・」の
繰り返しじゃねーか、まあ、これから始まるのがノーマルステージか、
山岳ステージかわからないが、ただひとつ言えることは
タイムトライアルレースではない、ということ。

 こういうふうに、「人間の一生」を異なった切り口で見せる。
そうしていると「共通点」と「相違点」がよく見えてくる。
おまけにわたしの過去、周りで起こった出来事すらも
「こういう意図」だったのか、と驚きまで生まれる。

 ・・・ままならない「人生」もええもんやね。

Dengeki vol.4

九州最強の「磁場」誕生。 

 
 14+の広島公演から中国地区劇王戦に行けず、
どうにもならなくなってきている。
 おまけに、久しぶりの熊本、行き道を完全に
忘れてしまっているので時間と距離で戸惑い、 
お行儀の悪い人たちに前を塞がれて右往左往している。

 

 心と体の荒れもひどく、この場所にたどり着く
数日前まで死んでいて、
おまけにお金も心細く、
いろんな不安が体中ぐるぐるしているわけで。
  子供だから、仕方がない、とは言いたくないが、
大人と同じところで戦う以上、
同業者から「行儀が悪い」と
思われてしまったら、それはそれでまずいのです。

  そういうところとおんなじ組に回された大人たちは 
 ものすごく大変だ、と感じていると昼のセッションが始まる。

 
今回は行き道塞いだ団体が最前中央を独占したため、 
四隅の準備まで見えてしまうポジションを見つけて
そこに落ち着くことにしよう、
・・・昼のセッションは。 

 この公演、「パッケージ」の作り方が秀逸。
 音の作り方にしてもオープニングの「田園・朝」から演者入場の
「ラデツキー行進曲」というその場を
ある意味「沸かして」しまう
仕掛け」が十分にできている。

  ・・・がだ、「きちんとできている」からこそ昼セッション担当の 
MCがカミカミのグダグダだったことが非常に惜しまれる。


  
1. 劇団鳴かず飛ばず×演劇集団宇宙水槽 
 
 前シリーズ、初参戦で名刺がわりに
「熊本を思いっきりdisってやる」とも
取りかねない内容を
見手の目の前に差し出されたら、
ものすごくビックリするではないか。 

 そういうわけで、今回は「ファンタジー」を得意とする 
同じ鹿児島の劇団と組んで再びこの場に参戦。
 がだ、今回は全体の端を切り、おまけに昼の部名物と化しつつある 
「大人殺し」の小学生ダンス集団の前で演る。
 
  こら、すごくしんどいぞ、と思っていたらいつの間にか本編が。

 
今回はdisりも何もなく、「cyberで、すごくおしゃれ」な空気で
 「走れメロス」を演る、という趣向。
  
 メロスの立場を演ずるは「人型ロボット」、「プログラミング」という
 「くすぐり」を効かせ、cyberなのに、やっていることは
ガチのマンパワー
(またの名を「人海戦術」という)が
 表演空間目いっぱいに繰り広げられ、
いい意味でえげつない。

  作業中のロボットの目に写った「美しい一羽の鳥」が
柔らかく飛び立ち、
その鳥を追って日本を飛び出し、
世界を駆け回り、気が付くと4万キロも「走り遂げ」ていて、
 一回りして、また同じ場所に追いかけていた鳥が柔らかく降り立つ。

  そういった「空気感」がロックのリズムで表現できている。

 2. 熊本大学演劇部 
 ・・・おどろおどろしい「空気感」、とはこういうことなんやね。

  その「空気感」を肝心要の「第一声」で滑らせて、
台無しにしてしまった。 

 「意思」とはなんぞや?という問いが「主題」であり、
 その問いを「意思」と「石」にかけてみせる、という「趣向」は理解できた。
 けれども、肝心要の「第一声」を弱く出してしまったことで
「主題」と「趣向」、
両方共薄くなってしまった。

  そうなってしまうと板の上にあるすべてが不明瞭になって、 
「人間は、すべからくして大人のふりをした永遠の子供である」という 
「メッセージ」が正確に届かない、それはすごく残念だ。

  お話として「学者、というかその道に対して一途な者」は 
もしかしたら「大きな子供」でしかなく、「大きな子供」が
「大人」として認められるために
「ノーベル賞」というものは
存在しているのだろうか?という疑問、 
更には「地球」という存在が「有機物」なのか、「無機物」なのか。 
もっと言えば「有機物」と「無機物」が共存していて、
その割合はいかほどか? 

 それらがわかれば、もう少し地球やわたしたち人間を
深く理解できるのかもしれない、
けれども、どうなんだい?
 というところが伝わっているからこそ、
第一声を「丁寧に」演って欲しかった。

 3. RIKKA 

 はいはいはい、「大人殺し」の小学生がやってきた。
 「みんなちがって、みんないい」ということも、 
「好きなもの」に対しては「工夫」というものを出しやすい、 
というメッセージはよく理解できた。

  けれども、「学ぶ」ということや、「勉強」の方法論というものは
一体全体、何なんだろう?

 「やる」と「やらされる」の「違い」と「作用・反作用」は何なんだ? 

 これらふたつを勘案して、「わたし(あなた)にあった学び」とは
何なのか、
ということを考えるには、ちとチカチカしすぎて、中身が薄い。 

 「子供の頃から「身体言語」というものを「学んで」、「習得して」、 
小学校高学年から中学生になる頃には、
もう「プロフェッショナル」という
半ば「過酷な世界」を生きている人間にとって、
 日本の、というか「学校教育」自体が
いささか窮屈なもの、と
思えてしまうのだろう。 

  がだ、「ラジオ体操」というものの持つ「美しく、意識を集める」ことを
 「認識する」作業を通して、「違う価値観」に触れることもいいもんだよ。 
ということも考えろよなぁ、という着地の仕方。

  ・・・なんか、見ていて、ある意味哀しくなってきた。

 4. イチニノ 

 「生きること」ということは何かしら「業」を抱えているのかもしれない。 
「第一声」はゴスロリの女の子、中身は「年次の統計数字」。 

 
 空気感は「あった」、「会った」、「有った」、「合った」、
「遭った」 
「在った」、「逢った」・・・という単語がふわふわしている
「変なお見合い」の場。

  この部屋から出ない、出られない、わたし以外しかいない、
いることができない、
わたし以外はみることができない、
わたしはわたししかみることができない。 
これだけでも、なんか怖い、というかぶっ飛んでいる。

  この「ぶっ飛んでいる」状況で私たちは「外の常識」と「内の常識」の 
「かすかな違い」というものを感じ取らされて、同時に「性的な何か」と
 「植物的な何か」に
「なる」ことによって、 
「終わるための旅」をある意味「疑似体験」することになる。

  ・・・ある意味、シンプルではあるが、
別の意味では複雑かつ、煩雑でもある。

  まあ、言えることは世の中の有象無象にある
「汚いもの」を吸い込んで、
「養分にして生きていく」ことも
ひとつ、あり、なのかなぁ。

 5. 「」
 

 若くして死んでしまうのは、正直、しんどいけれど。
 そのしんどさを抱えて迎えるお通夜の場、繰り広げられるは
これまた重たい
「深層心理ゲーム」、何故死んだのか、
何故、一月も冷たい海のなかに「放置」されて
どざえもんになったのか、
壮絶な「腹の探り合い」が半端ない密度で繰り広げられる。

  正直、誰かがごまかして、嘘をついている。
 けれども、その「嘘」を見破る「ギミック」に一抹の不安。 
「手元」を「どう見せるか」というところを曖昧にしたからだろうか? 
「あれっ、いつの間にかに」という「驚き」が薄かった。

  もう少し密度のある空間だったらそれでもいい、
 しかし、dengekiの空間では訳がわからなくなる。

  ・・・人は自分可愛さに嘘をつく、というところが
きちんとしているからこそ、
なおさら強く残念なのですよ。 

 ああ、「組織票」いやだ、いやだ、腹たち紛れに飲む。

  そして夜のセッション、濃ゆい見手の中に混ざる。

  
1. 純白奇劇団 

 今回も、ものすごく「ぶっ飛んで」いやがる。 
「死ぬ」ということの「定義」というものは人によって違うし、 
もっと広い意味では国家、あるいは民族によっても違うのだ。

  こういうところを「きちんと」狂わせながら見せている。

  故に、ある人や国家はたくさんの金を使って、
死体を「永久保存」してみたり、
「肉身如来」というものにしてみたり、
そうして「見世物」というか
「アイコン」にしているところもある、
反面、「安葬」と言って、
土葬で、きちんと「骨」に出来なければ
子孫繁栄が難しくなるほど祟るぞ、
それを「陰死」という。 

 こういうことを聴いて、見ていると切ない、というか考えさせられる。

 2. オルココ2 

 これが「世界基準」の演劇、というもので、
 更に言えば「コンテンポラリー演劇」というものを
突き詰めていくと 
こうなってしまうのか。 

 その文脈で「エゴイズム」と「男子同性愛」、
「嘘」と「罪」を
ジョン・ケージの「4分33秒」という
「現代音楽」の「空気」
取り入れて見せると、
こうなるのか。 

 がだ、「世界基準」を「世界基準」のまま見せてしまうと
 どこかで消化不良を起こしてしまいがちになるのだな。
 そこさえ出来たら、
すげぇ「掘り出し物」になる。

 3. gojunko 

 今回も、一つ一つに込められた「情報量」が半端ない。 
基本線は同級生がカラオケボックスに集って、
人生をどうのこうのするけれど、
その場を「成立」させている
「人間」がいつの間にかひとり欠け、ふたり欠け、
いつの間にか「孤独」になってしまった。 

 そこに至る「事の次第」を見せずに、「死んだ」という
「事実」だけを伝え、
見せられると「死ぬ」って、
こんなに「あっさり」としたものなのか、と重く伝わってしまう。

 4. DOGANG 

 前シーズンのチャンピオン。 

 ・・・にしても「これがチャンピオンなのか?」という出来だった。

  がだ、今回は「チャンピオン」らしい質と出来を持ってきた。

  というか、INDEPENDENT:FUKに持って行ってもいいかな、という 
「一人芝居」を持ってきた、ともいうけれど。

  あとは「たくさんの人間を一人で演る」というアイデアを
 確実に実行するための「準備」をきちんとやる。
 何度も何度も結界を踏み越えず、一発で「決める」こと。

 5. 天然木 

 最後の最後で凄いものがやってきた。

 「民謡オペラ」というのか、「民謡ミュージカル」というのか。
 新しいジャンルを見てしまった。 

 「祖母」と「孫」という世代間の「生き違い・すれ違い・勘違い」を 
「民謡」という自らが培った技術と「生きている空間」をそのまま 
この「場所」に持って行くと全てが圧倒的だった。

  全体通してみると、凄い磁場を持ち始めてきた。
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