快快 「六畳間ソーキュート世界」

「世界」は小さな「愛」で満ちている。

 それにしても、「まとも」に走れば鉄道は最強の交通手段だ。
九州島は人間でいう「背骨」の部分に九州道という高速道路が走っている。
そしてくじゅうと雲仙が「天使の羽」の部分、空気の流れ、雨の流れは
大体この背中にそって流れている。

 今回は背骨の丁度真ん中あたりに空気と雨の流れがもろに来て、
福岡は大雨、それも心が折れるくらいの。
事実、前日に予定していたルアーノデルモーズの
「誘拐されちゃったのかもしれない」をキャンセルせざるをえないほど
大変な雨だったわけで。

 その中を即座に判断しながら日田に移動するという荒業。
さらに言えば、終演後の日田から博多、福岡空港という移動のチェスを
やらなければならない、という問題が。
結果、早め、早めに動けて、まあ何より、雨の巣に巻き込まれて
一部区間で徐行があって9分遅れで日田に着く。

 まずはパトリアについて、軽くパソコンで
スカウティングレポートを書き上げる。
それから日田やきそばで飯、雑談しながらドアが開くのを待つ。
ドアが開いて、一つのアート空間のアプローチから
表演空間に入る。

 恐ろしいほどにシンプル。
真四角の素舞台、真ん中に箱馬がひとつ、
上手脇にマイクセットが一つ。
なんていくか、これがヨーロッパ的な「おしゃれ」というものなのか。
客入れ音はいわゆる「クラブ」で使われているアイスブレイクテクノかな。

 そんなことを考えているうちに男の演者がやってきて
いつの間にか物語が始まる。
「日常」と「非日常」が曖昧に「混ざった」ものが一発で固まって、切り替わる。
そのさまが、やっぱり、これが新しい演劇のスタンダードだったという感じ。
こまばアゴラ劇場と青年団、そこから派生したままごと、東京デスロック、
大池企画、うさぎストライプ、ガレキの太鼓、その他もろもろの流れの中に
快快もいるのだ、という発見。

 小さな「生活」の中で、自分のできることを積み重ねると
こんな素晴らしい物語ができるのか。
男は今流行の芸人、武井壮のキャラクターを演劇の文脈に乗せると
こういうふうになってしまい、女はこのキャラクターを
コンテンポラリーアートの文脈の身体と身体言語で受け止めている。

 この受け止め具合を見てしまうと自分の大切な人の想いまで感じた。
演劇を見て感じたことをわたしの大切な人はきちんと受け止めてくれるし、
大事な人も第三舞台の封印公演をタダ券もらって見たわけで、
このお話を見れば見るほど大事な人とこれから先の人生を生きていきたい。
だからこそ、いっしょに見ることが出来たらもっとよかったのに。
スポンサーサイト

F's company 「本当ノート」@大分

ものすごく、フリーダム。



 台風、それも風台風がひどくてJRが止まってやがる。
仕方がないのでネット予約をみどりの券売機で引き換えて、
みどりの窓口で払い戻しの処理をしてもらう。
それからバスターミナルに行って、すぐのバス残り一席を
ギリギリでとってえんやらやっと別府に向かう。

 宿に入って温泉に入り、ひと通り作業をしたらさあ大変。
調整できても焼け石に水、という塩梅になってしまい、
これから先のことについて締め付けられるような心配をかかえながら西大分へ。

 今回のツアー会場は昔、大分から松山経由で神戸に向かう
ダイヤモンドフェリーの埠頭にあった倉庫を改造したイベントスペース。
長崎での宝町ポケットシアター、福岡でのgallery konyaのような
「恐ろしいほどのぎっちり感」がなく、不思議な広さと天井の高さで
物語と空気を感じることで、細かいところまで捕まえることができる。

 導入部、ぎっちり感のある場所だとなんかわからなかった
モッシュ感のある?ムーブマイムが意図を持った
イリュージョンになって、いい案内として日常の感覚から根こそぎ持っていかれた。

 で、日常から離れた「空っぽの」感覚で男と女の「なんでもない、普通の日常」を
付かず離れず、淡々と見せていく。
この淡々としたところに「妄想ノート」と「本当ノート」の存在が絡んでいき、
気がつくと「わたし」が「死んで」いるのか、はたまた「あなた」が「死んで」いるのか、
いやいや、「わたし」も「あなた」も本当は「生きて」いるのかもしれないし、
「死んで」いるのかもしれない。
こう言った「ほんとう」のこと「だけ」を知ることはとてもしんどく、骨が折れる訳で。

 だからこそ「ほんと」も「もうそう」も、そして「あなた」も「わたし」も全てまぜこぜになって
一つの「宇宙=コスモ」という「螺旋」として存在しているのかもしれない。
その様子を司る存在が各公演地のゲストプレイヤーがやっていて、その風味がなんとも言えない。

 物語がちゃんとからだに入る寸法につくられている。
だから、生きると死ぬが混ざっている感じがよくわかるともいうが。

 この「螺旋」の中では「ほんとう」も「もうそう」もない、「正しい」も「正しくない」もない。
ひとつ言えることはそれぞれのものや出来事は「記録」というかたちで保存されている。
その保存されているものを見るのも見ないのもそれぞれ自由、このことを知ってふたたび日常に戻る。
そうして見たいつもと同じ景色は知らずに見た景色と違って見えるのだろうか?

それぞれの違った景色を見る「旅」がわたしの場合、大分で終わってしまった。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR