南華八花(なんかようか)「野田版・真夏の夜の夢」

夏越の大祓。

永山さん、という存在が宮崎県立劇場の演劇部門に残した「財産」は
この板の上に立っている演者はもとより、裏で音や光を扱ったり、
客席周りの仕事をしていたり、そして客席にいるそれぞれだったのかもしれない。

そういえば、宮崎県立劇場の演劇部門、総責任者が変わるよ、
という話を聞いたのが去年の今頃、じわりじわりと総まとめとして
「演劇・時空の旅」シリーズとして「三文オペラ」をやろうとし、
新任者は新任者の色を少しずつ出し始め、完全なる引き継ぎの
「総まとめ」として、今までの「育成企画」で育てた演者を
「こういう人たちがいますよ、よかったら使ってあげてください」と
「紹介する」ことが今回の趣旨。

加えて、わたしもわたしで真夏に四国善通寺で
ほぼおんなじ演目の「現地受け入れ制作」として
丁稚奉公をし、公演が立ち上がるところから終演まで
いままで見たこともない景色をこれまた今まで
感じたことのない角度で見たものだから余計に気になる。

日程的にも、鹿児島の鳴かず飛ばず、熊本dengekiと
いい並びになっている、こうなったら行くしかないよね。
と気がつくと宮崎行きの高速バスの中にいた。

お風呂に入り、ご飯を食べ、のんびり歩いて場所に向かい、
ドアが開いて表演空間の中に入ると、驚いた。

演者はもとより見手の出入り口が夏越の大祓のとき、
神社の鳥居にくくりつける茅の輪ではないですか。
おまけに空調の具合も、客入れ時の明かり、
音の塩梅は、自分が四国などに行くときによく使う
某ネットカフェとほぼおんなじだ。

そういうところからじわりじわりと気持ちよくなる。
気持ちよくなるところに邪魔が入るとなんか(以下略。

こふく劇場の時と演劇時空の旅の時、
それぞれかける「負荷」は違うけれど、永山さんの演出の肝は
空間のつくりは「時の流れ」というものをその息使いまで
「可視化」する、ということ。
加えて、時の流れを可視化するための程よいフィジカル。

この程よいフィジカルによって、現実の季節は秋の入り口というのに、
夏越の大祓の空気がそこに出来ていて、
さらにいえば、そこに吹くはずのない風が吹いている。

空間の次は、お話についてだな。

シェイクスピア×小田島雄志×野田秀樹というかけ合わせ、
組み合わせは、どこかしら歌舞伎を始めとした古典芸能が混ざって、
「古典」と言うには若すぎて、「現代」と言うには年を取りすぎている。

というか、「昔ながらの割烹料理屋の跡継ぎ問題」という
「世界決め」が微妙なところで古さを感じてしまう。
おまけにプロレス風味が所々に入り、森の中が
「富士急ハイランド」を彷彿とさせる賑々しさ。

この賑々しさに、というかシェイクスピアがもつ「祝祭的な」空間に
それよりも時代が後ろにあるゲーテの長編戯曲、と言うべきか、
小説と呼ぶべきか迷う「ファウスト」を野田秀樹、隠し味に混ぜてきやがる。

もともとそこに「いなかった」メフィストフェレスがそこにいる妖精パックを
「振り回す」、シェイクスピアでは「自発的」に周りを振り回していたパックが
野田版では「受動的」に振り回されて、さらに周りも右往左往してしまう。

故に、「行き違い・すれ違い・勘違い」の妙がくっきりはっきりしているよ。

というか、言わなきゃいけない時と言ってはいけない時、それぞれの時を
取り違えたら色んな意味でえらいことになるぞ、気をつけな。
えらいことの中で一番厄介なのは「相互不信から来る憤怒と憎悪」、
これが降り積もって爆発すると・・・。

この戯曲を書いてから先、野田秀樹の「基本テーマ」が今へと続いているのかな。

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「演劇・時空の旅」シリーズ#7 1953年/フランス「ゴドーを待ちながら」

ものごっつい中味の「お手紙」を頂いた。

 最近の「演劇・時空の旅」シリーズは四面囲み座席や二面囲み座席、
オクタゴン形式などとある意味、「凝りに凝った」空間創りをしていた。

 今回はどうなるのだろう、と思って宮崎に向かうと
久しぶりにガチのシアター形式で「演劇の空間」を作っている。

 荒涼たる空間にこれまた唐突な形で「演芸場」というものが
立ち上がり、その裏の控えでいつ来るかわからない「出番」を待つ
芸人、というものをつらつらと考え、舞台裏の配線周りがスッキリ
していたらものすごく「仕事」が楽になるだろうな、「仕込み」は
えらく大変なものになるけれど。

 そういえばこないだの「道真」という仕事は演者の「動線」にかかる
配線周りに関する養生のオーダーが場面ごとの動きが固まってから
どかどかどかと出て、自分が慌てながら平気な顔をして処理して、
確認を取って、またオーダーが出て、慌てながら平気な顔をして処理、
その繰り返しをしていると、こういう「面倒事」を引き受けて動く
役割や位置がいなければ「演劇」という「公演」は動かないように
なっているのかな、そういう仕事を「やりたい」といえるようになった
自分が(以下略。

 そんなことをつらつらと考えながらじわじわと
いま、そこに在る「演劇」に入り込もうとすると
ちょうどいい塩梅で前説が入る。
前半80分、インターバル10分のち後半65分。
・・・ということはアフタートークをうまく抜け出せたら
宮崎から熊本へ向かう高速バス17時半発に十分間に合う。

 半ば安堵してこの戯曲のおおまかな解説を聞き、
解説が終わると同時にすうっと明るくなって、
演者が板の上に立っている。

 Prayer'sシリーズからの流れを受けているのかもしれないが、
空間に靴の山、その上にラジオが置いてある。
そんな状況で毎日、毎日暇である、この「暇」をどう潰そうか、
というオーバーチュアがあり、一度暗くなってから本編に入る。

 「生きる」というか「歩く」というリズムでチェロが音を出すから
「ゆらぎ感」というものが半端なく出ている。
この「ゆらぎ感」というものを演者が受けてひとつひとつの
ムーブやマイム、更にはセリフ回しが「人生における出会いと別れ」や
「人はなぜ生きるのだろう」というネタを「不条理」というもので
うまく味をつけた「演芸」というものにまで作り上げている。

 この「演芸」となっている「演劇」を九州の、あるいは九州出身の
「演劇の名手」がやっているから喜劇は悲劇に転じ、
悲劇は喜劇に転じる、それでも生きなければならない人間、
というものが手に取るように良くわかる。

 板の上に存在する 「ふたり」の「芸人」を取り囲んでいる
「現実」は今だ、何も変わっていないし、「待っている」とされる
「ゴドー」というものの正体も未だにわからない。
しかし、「時間」と呼ばれている「状況」は少しずつ、
微妙に変化している。

 もしかしたら、この「ふたり」は生きているのか、
死んでいるのかすらも分からない、あるいは知らないのかもしれない。

 さて、鴻上尚史はこの戯曲という「長大なお手紙」の「お返事」として
「朝日のような夕日をつれて」という戯曲を書いたことはすごく有名。
(だから「鴻上夕日堂の逆上」なのかもしれないね、うふふ。)

 「いったい、誰を、何を待っているのですか」
 「本当に、その待っているひとやもの、ことは来るのですか」
 「来るか、どうかわからないひとやもの、ことを待つの、疲れませんか」

 という「お返事」から「ゴドーを待ちながら」に自分は入ってしまったから
「本当の」演劇人はこういうものごっつい「お手紙」をもらい、
この戯曲という「お手紙」に対してそれぞれの立場で、
それぞれの表現手法で「お返事」というものを書いて、出すために
日々、苦悩呻吟しているのかもしれない。

 というか、「ゴドー」というものの正体も見る人それぞれによって
違ってくるのかもしれない。
ただひとつ言えることは「次」というものがわからなくても
生きなければいけない。
そうすることで人間というものが如何に馬鹿で、間抜けで、
くそったれ、だけれども何故か愛しい、ということが良くわかるから。

 まあ、とにかく、今日も、明日もあさっても「暇」というものは
続くのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
そんなことをつらつらと考えながら携帯電話の電源を入れると
・・・もう、バスの時間に間に合わないじゃないか。
そろそろと外に出て、タクシーに飛び乗り、バスに間に合う。

劇団あおきりみかん 「発明王子と発明彼女」

人類最高かつ、最大の「発明」は「愛」だったとは。

 いや、まあ、もう大変です。
カムヰヤッセン見学後、久しぶりにあって話す人が多く、
初日乾杯に紛れ込んで色々と話、顔をつないで静かに
その場を離れ、かなり遅れて月イチデート。

 先週見学に行った「シラノ・ド・ベルジュラック」と
「素敵じゃないか」について「大切な人」と色々話し、その話題から
最近起こった仕事のことや、今までの人間関係、スマートフォンの使い方
おまけにグーグルの使い方などいつの間にか深いところまで。

 結論として、「もう、うしろは振り返らない、前しか見ない」と一致したところで
約束の時間が過ぎて、博多駅に「戻る」時間帯ではないから
おとなしく家に帰り、歯を磨き、風呂に入ってスカウティングレポートを
書きながらまんじりとしない夜を過ごし、時間になったから
博多バスセンターに向かう、本当は始発電車で行きたかったのだが。

 それから時間をうだうだと過ごして、6時45分博多発の高速バスで
宮崎に向かう、そこまで完全に寝ていないから座席に座ると
完全に落ちた、目が覚めるともう宮崎。

 駅前のバス停で降りて、まず向かうは「おぐらのチキン南蛮」。
一昨年の「演劇時空の旅・ファルスタッフ」終演後、
メディキットセンターから宮崎駅に向かい、B&Sつばめ、
自分が予約した便より一便早いのが止まっていたから
便変更を仕掛けようとしたが、うまくいかず、途方に暮れて
ウロウロしたら、ちょうど店を見つけ、夕食時の長い列に並ぶも、
間に合わない、ということでお預け食らったわけで。

 そういうこともあって、とにかくまっすぐ歩くと
ちょうど開店直後の「第一ロット」に間に合う。
かくして二年越しの宿願達成。
・・・鶏肉、しかも胸肉は飽きないねぇ、どんな料理にしても。

 まあ、時間もあるし、メディキットセンターまで歩くか。
まあ数回行くと歩いてでも辿り着くのはいいことだ。
橘通りをずんずん行き、角を曲がり、大学を見つける前に
鳥の炭火焼屋を見つけ、団子屋を反対車線に臨み、
あとは「花地蔵」という花屋を見つけるのみ、と
思ったらそれより前にたまたま出会ってしまった。

 うん、ここの鹿目さんとは去年の廿日市で出して受けて以来、
色々と気にして、気にされていて、文章面においてたくさんのヒントを貰った。
いま、わたしはその「教え」をわたしのからだに落としこんで
「身体言語」に合わせた作りなおしをやっているのかな。
そう考えれば、あの一年間、こりっちを離れて自分のメディアを作って
書き続けたことが多少なりとも良かったのだろう。

 そういう「歓び」を感じながらまたスカウティングレポートを書く。
書いて、頃良い時間になったので上に上がり、ハコの中に入る。

 ハコの中に入ったら、「演劇時空の旅」という企画というものが
あらゆる意味で恐ろしくお金がかかっていることがよくわかる
シンプルな客席の作りをしていた。

 客入れ音からある意味まったりまったりしていて
なんとも言えないところから気がつけば本編になだれ込む。
そのなだれ込み具合、と言い冒頭部の演者の登場具合といい、
「イリュージョン」というものが大変良く効いている。

 物語の肝は「男女の仲、というものの機微」。
この肝を現実なのか、それとも「妄想」なのか、
すごくあやふやな空気で見せつつ、ところどころに
「ご飯を作る、ご飯を食べる」というムーブを入れることで
「妄想」に傾きそうなところをぎりぎりの線で踏みとどまれるように
流れを作っている。

 味付けは童話の「幸せな王子」をベースにして
時折「ロボコップ」の「記憶を思い出す」ところを
混ぜあわせ、山場は「大鉄人17対18」で「男女の対立」を表現したところに
ジッタリンジンの「プレゼント」の歌詞を
「名古屋の有名デートスポット」に置き換えて、
「思い出が多すぎて深すぎる」ゆえの「街自体を破壊したい」願望が効いている。

 けれども、物語が進み過ぎると、「高次脳障害」を
負った人間の持つ「程よく出したいけれど、うまく出せない」感情、
MAX「しか」出せない不都合、そういうところまでじわじわ見せている。
さらに、この障害を引き起こした原因である「ドイツでの列車脱線事故」に
「遭遇した」ことを信じられない、信じたくない、という「混沌」、
素性もなにも知らない「他人」をある意味「助ける」ため
「代わり」に「生きる」ように仕向けた。
 そして「幸せ」な感覚を取り戻して「新しい人生」に踏み出させていく。
そんな「裏設定」まで見えてくる。

 これらのことを目の当たりにしたら
「わたしは、果たして他の誰かを幸せにできているか」という
問いをつきつけられているような気持ちになるではないか。

 それと同時に、「大切な人」と前の日、話したことが
じわりじわりと蘇って「まあ、幸せに少し出来ているからいいか」と
ものすごくこそばゆい気持ちになる見後感。
プロフィール

itumo25254you

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