劇団鳴かず飛ばず「七芒星」

鳴かずとも、飛ばずとも、演劇はできる。

 神様は自ら努めるものを助くって本当だな。
これだから、「自ら努める人生」ということがやめられない。

 本当に久しぶりの鹿児島。
宮崎から夜行バスに乗り、その前に感じた嫌な空気によって
クタクタのだしがらとなって福岡にたどり着き、
ソラリア西鉄ホテルで朝飯を食おうとしたら、バイキングが
2200円+消費税8%ときたものだから血の気が引いて
新天町のフカヤでモーニングセット、パソコン立ち上げて
なんだかんだしていたらもうバスの時間。

 鹿児島行きのバスに乗ったら乗ったで
・・・また隣に人、だよ。
連休とは言え、正直嫌になる。
悪態つきすぎると警察沙汰になるし、適当に用事をして
あとはひたすら眠り込んだらもう鹿児島。

 KKBのファン感謝デーを横目で見ながら
駅地下の吹上庵に行くとこれまた人の波。
・・・10月8日は「そばの日」、というわけで
この日はいつもより量が少なめのざるそばとかけそばが
300円で食べ放題、とのこと。

 ま、海老天とか、かき揚げ、おにぎり、助六と言うサイドメニューを
取って・、少しでも売上を上げとかないと申し訳ないよな。
頭ぼおっとした状態で飯を食うと量が食べられないし、
人の波は途切れていない、長居という無粋なことができないから
ある程度腹が膨れたところで店を出て桜島行きの船乗り場、
船に乗って、温泉に入って、桜島観光をしたらもう時間。

 この鳴かず飛ばず、という劇団、今年で結成10週年とのこと。
うーん、鹿児島の演劇見本市で「手札」たる鹿児島の各劇団の
「仕事」を見て・・・・というか、その場でMCとか裏方をやっていた。
そして、初めて行ったときのMCのおねえさんが(以下略。

 ここから、鳴かず飛ばずを見るようになり、dengekiで
「薩摩島津」がかつて歴史の中でいじめられていた相手
「肥後細川」に喧嘩を売るような演劇を熊本でぶちかまし、
実力に見手がドン引いた翌年に「ガチのファンタジー演劇」を
持ってきて、見事に2位を取った。

 さて、この戯曲は「劇団☆新感線」名義なのか、
はたまた「いのうえ歌舞伎」名義なのかわからないが、
日本を代表するファンタジーかつエンターテイメント演劇。

 このエンターテイメント・ファンタジー演劇をどう咀嚼して
見手に「消化しやすい形」で提供するか、これが今回の肝。

 お話の流れはよくある「英雄物語」における
「代替わり」、というか「世代間闘争」を根っこに、
「故い存在」が「新しい存在」を苛めに苛め抜いて、
この「苛め」によって「新しい存在」は発達に問題を抱え、
発達に問題を抱えているから心が萎縮して戦うに戦えない。

 そういう「精神的葛藤」を「失敗を繰り返すことで学ぶ」ことで
心の枷を外し、「世代間闘争」に立ち向かう。

 この「物語」に日(火)・水・土・金・風・月(花)・雷という
「地行・天行」と「鏡の魔法」、こう書くと「忍者キャプター」を意識しているな、
というか中国の道教を意識した「気の流れ」に日本の歌舞伎、
中国の京劇それぞれの「技術用語(テクニカル・ターム)」を隠し味に加えると
「エンターテイメント・ファンタジー」というものに隠された
世界は日々刻々と変化している、故に不思議で面白い、ということを
わかりやすく、面白く伝えている。

 さらには「集団のエゴイズム」や「才ある個人のエゴイズム」が
「まだやれる」と意地を張る醜さまでも板の上に載せてきた。

 この様を見て、「エンターテイメント・ファンタジー」と
いうものがこの劇団の心意気なのだ。
そして、この心意気を貫くために今までやってきたこと、
これからやろうとすること、すべてをこの公演でさらけ出した。

 一つ一つはまだまだ荒削りかもしれない、けれども泥臭く
無骨に、時には無様に歩んできた、その10年が少しずつ
「形」になり始めた。
貫いていけば、福岡のガラパに近づくかもしれない。

 そこはかとない疲弊感を感じたため、
翌日の熊本dengekiを急遽キャンセルし、夜行バスでおとなしく
福岡に帰り、翌朝(以下略。
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鹿児島演劇協議会リーディング 「楽園の楽屋」

演劇は見ることも、作ることもえらく体力と気力を使う。

  恐ろしくしんどいけれど、何かの糧になる活動だ。

 鹿児島、という街は福岡では街が湿気が多いからかもしれない、
この湿気などで「傷めつけられ」、「取り壊されて」しまった
古くて、風情のある建物が多く、その場所をうまく見つけて
「演劇」をしていて、いい空気を作り始めている。

 今回はいわゆる「教員協会」の講堂、という場所を風情のある
演劇空間、それも「舞台裏」という形で使ってしまえ、という趣。

 それにしても、「息」がうまく通る「場所」を作っておかないと
色んな意味でしんどいなぁ、そして物事がうまく進まない。
そう考えるとわたしはずっと「息」が詰まって、あわなくて
すごく苦しかったのかもしれない。

 こういうことをつらつら考えていたらもう本編だ。
板の上ではある程度、年齢を経て、数あまたある
「修羅場」を踏み続けた女優が3人、「日常」を脱ぎ捨て、
「演劇」に着替え、ひと通り終わって「演劇」を脱いで、
また「日常」に戻る、この繰り返し。

 この「繰り返し」をどこからともなく見ているのは
人生そのものの「演出家」たる「神様」なのか、もしかしたら。

 こういうふうに「演劇」と「日常」が重なりあって、絡み合っていくと
公演期間、というものも自ずと長くなることを望んでしまうものだ。
雑談して、外の空気を吐き出し、板の上の世界の持つ空気を
吸い込んで準備をし、演劇をして板の上で起こったいらだちや喜びを
吐き出して、日常の空気を吸い、クールダウンしてまた日常に戻る。

 そして、心と体にトラブルが起こってもそんな事情なんて、
演劇は待ってはくれない、ゆえになんとかごまかして板の上に立ち、
自分の役割を、位置を、十分果たさなければいけない。

 これが「修羅場」というものであり、この繰り返しの中で
見えた景色は、感じることのできたものは一体何だったのだろう?
何をよし、として何をよりどころとし、何を嫌い、何を苦しんでいたのか?

 そして、わたしはどこへ行くのだろう?

 こういうことを考え続け、「わたしの人生」と「役の上での人生」という
「ふたつの人生」を同時に生きていたらもうこんな歳になってしまった。

 「わたしの人生」だけを生きている、ということ自体すごくしんどいのに、
「役の上での人生」というものまで生きていたらいろんなトラブルを抱え、
何がなんだかわからなくなる。

こんな状況を一体何の因果でバチかぶってしんどい思いをしてまで
やっているんだ、と嘆いてみても「自分がどうしてもやりたい」と
思って、この道を選んだのだから逃げることはできない。

 というか、「選択肢」というものは最初からあったのか、
それともなかったのか、すべての業をなし終えるまでわからない。

 集合日から稽古、小屋入り、初日から中日、そして楽日へと
同じ道をゆく同士、連帯感、というものはあるけれど、
現実には親の死に目にも会えず、普通一般の恋愛や
結婚、というものにはまず、縁がない。

 けれども、わたしはいたのうえにたつことをえらび、
こうして、いたのうえにたつことをつづけていく。

 誰か、大切な人が死んでいても、いなくなっても、
そして、わたしが死んでいても、いなくなっても、どこかで見ている、
どこかで見られている、更にはどこかで見ることになるだろう。

 「演劇」とはそういうことであり、「演劇を作る」とはこういうこと。

 自分もこんな風に演劇と関わり、父を何処か遠い所へと送った。
という「現実」と重なれば、ひとつひとつの存在が、言葉が突き刺さる。
新しい演劇と人生に踏み込んでいるとなれば、なおさら。

劇団鳴かず飛ばず 「ダブリンの鐘つきカビ人間」

「たかが30分、されど30分」。

 上演時間の長さ、というものも満足度を左右するのか。

 さて、この演目を今年の5月、広島のtempaというところが
演ったのを見た。

 そのときは「福岡演劇フェスティバル」週間のまっただ中、
ttu「おやすみカフカ」を見たのち、クロサイ「#」を見て、
うまく食事や風呂もできずに広島行きの高速夜行バス、
またいつものようにとなりあわせで人がいる、というストレス。

 このストレスをえんやらやっと、というか路線自体のルート変更に
驚いて広島にたどり着いて、いつものサウナで汗を流して、
一眠りして、気がつけば場所を出ていかなくてはいけない時間、
ゆっくりと広島駅まで歩き、途中のJRA場外馬券売り場で
スカウティングレポートを書きながら時間を潰し、
なんか落ち着かない、というか腹が減ったので新幹線口の
グランヴィア、ビュッフェレストランに並ぶ、その合間にも
しこしことレポートを書く、食べて、ハコに向かい、
レポートを書きながら会場、というか受付を待つがなにかしんどい。

 うまく眠れていないからなのか、入口近くにキャンプでもするのか、と
うす汚い野郎たちが(以下略。

 おまけに、15時半開始で途中休憩がどこに入るかわからないが
終演は18時過ぎ、なんだかんだしていたら19時10分発の
福岡行き最終の高速バスに間に合わない、と気をもんでしまう。

 その旨、挨拶がてら親分に聴いてみると、大丈夫、という。
「間に合う」というならば、信じるしかない、と腹をくくる。

 ということがあったので、鹿児島で鳴かず飛ばずがやる、という時、
まっさきに見に行く、という基本方針は固まった。
泊まるところも久しぶりにレム、問題はお盆の交通問題と
スケジュール管理、どのタイミングで工場での仕事を抜けることができるか。

 そして、上演時間がどんな感じになるのか、もしかしたら
広島のように休憩時間を挟むのか、そうじゃないのか、
下手に長引いたらいけないから早いタイミングで
交通機関が抑えられない。

 おまけに、今後の問題、お金の問題、人間関係の問題、
いろんなことがまとまらなくてものすごくきつい。

 きついことをやりこなして新幹線に乗り、鹿児島について、
宿に入り、外は大雨だから中のレストランで飯を食い、
タンバリンのスカウティングレポートを書いて寝ようとすると眠れない。

 タブレットいじったり、何やらしているともう明け方。
目をつぶって寝ようとすると汗がひどい、朝になって
やっと眠れるが、金縛りが酷い、「臨死体験」とはこのことか。
「ああ、もうすぐ、わたしは、ここで死ぬのだな」と。

 奇跡的に目が覚めて、ご飯を食べ、汗を流してテレビを見る。
・・・おどろいた、名は敢えて秘すが、この演目の出演者が
舞台衣装とメイクで鹿児島の情報番組に出ている。
鹿児島のフットワークの良さ、というか、過酷、というか。

 それを見ると、そろそろ外に出なくてはいけない時間帯。
まずは演出者協会の会費を入れに郵便局に行くが
やらかして、時間がかかりすぎる。
あとは天文館をウロウロして、お昼なのに何も食べられない。

 気がつけばもう時間近いのでハコに向かい、じっと待つ。
鹿児島の中央公民館は漆喰を塗り直すとものすごくいい感じ。

 開演前、腹をくくる、あらゆる感覚を板の上に落とし込む、
そのための準備をやっていると、なんだかなぁ(以下略。
いつものtempaはそう言うのなかったし、この部分だけが
tempaではなく、G2プロジェクト、あるいは商業演劇だった。
・・・大概行儀の良くないわたしが言う義理ではないが。
ということが広島では多々あって、心配したけれど、
鹿児島ではお客さんがすごくちゃんとしていた。

 こういう様子を見ると「ああ、わたしのやっていること」が
気に入らない人、というものが居て、そういう方々から
キレられていることもあるのだな、と思い知らされる。

 故に、不思議な違和感を感じながら本編に入ることが
広島だったけれど、鹿児島では前説のコールアンドレスポンスで
違和感を「ほぐす」ことですんなりと本編に入る。

 前半部、G2って、「中性的な要素」を持っていたのか、
物語が「男性性」と「女性性」が曖昧なまま存在していて
時と場合によって「男性性」と「女性性」のどちらかが
寄せては返す強弱具合で板の上に現れている。

 お話のベースは「ノートルダムのせむし男」だな。
「ノートルダムのせむし男」は「先天的奇形」だったのだが、
「ダブリンの鐘つきカビ人間」は原因不明の「病気」による
「後天的奇形」によって起こった不都合、それだけの違い。

 前半部の肝は男女性の違いそれぞれを見つめる
おちさんの「女性的な要素と視点」が広島は甘く、優しく効いていて、
ものすごくキラキラしている。
キラキラしているからこそ、なんかものすごく落ち着かない。
落ち着かないから物語を捉えられない。

 逆に鹿児島は「男性的な要素と視点」が「いま、そこに在る現実」として
「苦い」辛口として効いているけれど、なんか後味の良い苦辛さ。
地味で苦辛さはあるのだけれども、「歌舞伎」の「見得を切る」と
いうような「形」がきちんと出来ているから「身体言語」としての
一つ一つがメリハリがあって、落ち着いて物語を捉えられる。

この肝に現代から「迷い込んだ」、「男と女」がドラゴンクエストを
はじめとしたRPGというものをプレイする、ということがうまく絡んで
「違い」から派生する「差別と嘘」というものを
くっきり、はっきりと見せていく、という趣。

 後半部は「後天的奇形」によって「正直者」になった
「大嘘憑き」と「後天的奇形」によって「大嘘憑き」になった
「正直者」による「不器用」だけれど、「本当の恋」という
物語の肝があって、肝の周囲に「欲」と「うそ」という
「人間の原罪」というものがグルグルと絡みつく「気持ち悪さ」、
その気持ち悪さを断ち切る、というRPGを「プレイ」する感覚、
それを見手が「見ている」けれど、
どこかでは「参加している」というところの曖昧さ。

 これらを精度と密度の良さでやられると、途中休憩なんかいらない。
故に物語を動かすリズムがさらに良くて、「因果応報」というか、
「因縁の巡り」やら「愛しているから憎い」としか言えない
苦しみとかが切れ味よく表現できている。

 「欲」と「嘘」はいつも仲良しでこの仲良しぶりが
「世界」をある方向(善悪はここでは問えない)へと連れて行き、
退っ引きならない事態へと気がつけば連れて行かれる。
こんな事態をご破算にし、すべてを中和する塩梅は
梨木香歩の「裏庭」のように「生と死」の両方を抱き寄せて高みに
ひっぱりあげて、「喜捨」という形で見せた。

  だからこそあの「市長」は「嘘」をついて皆を「扇動した」罰、
として「この世での永遠の命」を得た、と「死」という形で
「あの世」に行きたくても、死ぬことすら許されない、
「魔法の剣の奇跡」だって「私利私欲なく使用する」ことが条件な
ものだから起こりようがない、ひたすらに罪もないものを殺して
殺して、自分「だけ」生き続ける、これこそ惨めで酷い罪はないな。

 がだ、「鐘つきカビ人間」の方だって、結局のところ
そうなる前に起こした「過去の因業」が災いして
「助けてほしい時に助けてもらえない」事態を呼び、
自らの「欲」と「嘘」によって自分を滅ぼした、とも取れてしまう。

 ・・・人間というものはものすごく哀しい動物だ。

鹿児島演劇見本市2014(了)

【劇団宇宙水槽】

 ・・・ものすごく若い。
ムーブ・マイム、さらには板の上から聞こえる
「身体言語」そのものまでも。

 これを言ってはいけないが、福岡で言うたら
「wet blanket」というところのような、東京で言うと
「柿喰う客」の流れかな、と感じ取って、その旨やりとりしていたら
どうやら、ここが参考にしている流れは西田シャトナーの
「惑星ピスタチオ」のパワーマイムというものらしい。

 ・・・てか、私はそのたぐいを見たことがなかったな、という発見。
いわゆる「関西系」という演劇の一部なのに。

 そういった「身体言語」とムーブマイムで「青春バトル物」を
おっぱじめよう、という趣。

 「青春バトル物」といえば若さに物を言わせた
これでもか、これでもか、と「身体言語」としてのアクションを繰り出す。
けれども、こういうことをするためにはちゃんと殴って、蹴って、
そのムーブを受けて、次のムーブに返す、という動作をどうつなぐか。

 この流れを身につけるには結構長い時間が必要だ。
・・・その時間を埋めるための一つの手段として
「じゃんけん」という要素を加えてきた、これがすごく斬新。

 殴って、蹴って、身体に「当てる」代わりにじゃんけんをする。
そうすることでアクションの経験が浅くても見ていられるし、
アクションの経験が深くても「心理戦」という要素をわかりやすく
できる、という意外な効果がある。

 この意外な効果が「人の心を読み取る特殊能力」と
「特殊能力者同士の不思議な恋愛」という裏テーマが絡んで
ある意味、すごくバカバカしいんだけれど、面白い。

 ああ、これがこの劇団の「スタイル」で、
このスタイルを突き詰めていけば、かなり凄いことになりそう。

 さて、ひと通り見て、雑談して、路面電車で鹿児島中央駅、
地下の吹上庵でそばとビール、ちょうどいい塩梅の新幹線で
福岡に帰り、長い旅が終わる。

鹿児島演劇見本市2014(4)

【鹿児島高校演劇部】

 ここは大きなハコに慣れているな、と。
四隅にきちんとセリフが入っているし、お話もこれまたえげつない。

 ある姉妹と男の人の「出会い」と「別れ」をギュッと詰め込んだ、
といえばものすごく「さわやか」な青春物語のいち場面と思わせて
しまいがちなのだが、実は一筋縄ではいかないところにまで
見手を引きずり込んでしまう。

 「いじめから逃げる」ために生まれた場所から遠く離れた。
姉は高校へ行く妹の身の回りの世話をし、あるスーパーで
働いて、その場所に男が高校新卒社員としてやってきた。
いろいろな困難があって、その困難を姉と一緒に解決することで
男は「少年」から「大人」になった。

 そういう役割をした人が何も言わずにいなくなるわけだから
すごく慌てて、ずっと「人生」までもマネジメントしてくれ、
と言いたくなるわな。

 なんか、隠しているよな、と思っていたら
姉が家庭のある男の人を好きになり、のめり込んで
結果、自殺未遂を起こし、そのことが理由で妹がいじめられ、
それから逃げるために遠くへ、妹が大学に行くんで
さらに遠くへ行くから、スーパーをやめなければいけない。

 こういう話を聞くと、芸工大の興行講座で平田オリザ氏が
よくネタにする「地方(田舎)」は「人生上のイレギュラー事」と
いうものに対して対処法、というか引き出し、というものが少なく、
「悪いうわさ」という一番良くない対処法で解決して、
当事者の居場所を潰してしまいがちだ、ということを思い出す。

 こうして、「根無し草」の人は生まれるのかもしれない。
正直、切ないし、怖いのです。
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itumo25254you

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