中野成樹+フランケンズ『夏の夜の夢』

都会の狂気とファンタジー。

「夏の夜の夢」って、演劇をする方にとっては
ある種の「通過儀礼」的な戯曲だ、ということを今回の公演で
遅まきながら知ることになった次第。

となると、見手である自分にとって、ある程度の本数・バージョンを
見ている「はず」なのだが、実際には数年前の
「ぽんプラザホール開設記念・九州福岡演劇祭」で
ガラパの川口さんが戯曲を整理し、gotoのごとーかおるさんが演出、
このバージョン「しか」実際には見ていないのだ。

そして、スカウティングレポート自体もクラウドに残す以前というか、
「戦争」に巻き込まれ、永遠に読めない状態になってしまった。

・・・宝塚歌劇版の「PACK」というものはかねてから見たい、
そして宝塚歌劇100周年記念のラインナップに入っていたとき、
行ける、と踏んでチケットの手配をした。
けれども、「戦争」に巻き込まれたことによるカオスのため
行くことができず、チケットも現金化できず、
まあよかったことといえば、九大大橋キャンパスでの
アートマネジメント講座、最終シリーズの総まとめ公演
招集日に間に合い、なんだかんだありながらも完走して
この公演を「見手」以外の立場で迎えることができた、それだけ。

・・・今回は「見手」ではなく、受け入れ側の制作兼、
クリエイター側と受け入れ側の間で「状況を整える」立ち位置の
丁稚奉公、という立場で公演を見ている。


フランケンズ、という「劇団」の強みは「古典の語意訳」、
「戯曲」や「物語」の取っ掛かりを「いま」という時代にどう楽しく、
どう理解できるように「翻訳」している、このスタイルでどう料理するか?
「考える事」が好きな人はこういうスタイルにものすごくハマるけれど、
「考えること」が苦手な人は「なんじゃこりゃ」になりやすい。
ここをどういう形で「乗り越えて」いくのか。

これらのことを仕込み後から千秋楽終演まで一通り見ることができた。
というか、九州ではぽんプラザで「短編集」数本を
引っさげてやって来たけれど、四国ではこの公演が初登場、
どういうことをやって、何を見せるのか
掴みどころがない、ということで6月に東京で演った映像を
とあるルートで一通り見せてもらう。

その時感じたことはシェイクスピアの戯曲に橋田壽賀子作・
石井ふく子演出の現代日本「ホームドラマ」の空気をまとわせた、
故にシェイクスピア特有の「韻を踏んだ長ゼリフ」も
心地よく聞ける、空間の作りは基本的に「パジャマ・パーティ」で
「祝祭もの」が持つ「何か」を表現しているんだな。

そういうことを携えて一通り見ていくと、驚いた。
空間の制約上、東京で強く感じた「空間の立体性」はほとんどない。
その分、屏風、視野角度などをうまく利用した仕掛け満載の
表演空間を作り上げ、その中に「生活に追われる人間が存在している」
ゴミ、というか物が散乱している「場所」がぽつんと「存在」している。

・・・パジャマパーティ感、完璧に排除されているよ。
その排除された痕にいま・ここで現実に起きている
「都市の生活」が「これ、よく見るよね」という質感を伴って存在している。
コンタクトレンズ屋、というか、何かを売るための「ちり紙・ちらし配り」や
宅配ピザ屋、運送業者、コンビニエンスストアのそれぞれの日常が
同時並行や交差、混合を繰り返している。

この質感の高い「都市生活」にシェイクスピア戯曲自体の
「貴族」と「妖精」、
それぞれの恋愛にまつわる「行き違い・すれ違い・勘違い」が
混ざり、隠し味としてシェイクスピア戯曲では「貴族の祝祭」で
「職人・労働者」が「余興の演劇」をする部分を
つい最近まで世間を賑わせたSEALsに置き換え、
PEALsというパートタイム労働者(まあ、非正規雇用だわな)の
社会参加活動に変化させたところが効いている。

こうして「森のなか」と「都会の森」でリアルとファンタジーの境界線
ギリギリを攻めていくと、いろんなことをうっかりと考えてしまう。

特にSEALs、じゃなかった、PEALsのところ、
看板では「社会は舞台、ひとは皆役者。輝いているよ!」と謳っていながら
現実論をシェイクスピア戯曲の中のセリフ
「この演劇に出るのはライオンです、ロバではありません」と絡め、
社会参加したいけれど、戸惑っている多くのわたしたち、というところを。

この戸惑い、というか「疎外感」の前では
貴族や妖精の身体的・感情的な「コンプレックス」を嘆くことや、
「振り向いてほしいけれど、振り向いてくれない」や
その逆の出来事なんて、「社会にもう受け入れられている存在」の
贅沢すぎる悩みにしか 思えなくなってしまう。
 
そういう鬱屈感がたまりに溜まって、最終的にやる、やらないにしても
暴力的な悲劇、となりその強弱はパックのようないたずら野郎が
複数回・複数人が絡んでいるんだろうな、そのいたずらごとを思いつつ、
疎外感に対して、もう少し思いを深めていたらSEALsも
なんとかなっただろうに。

・・・そんなことを考えている。 
スポンサーサイト

株式劇団マエカブ 「傾き者のパレード」

ポップでロック な「現在(現代)劇」。

名古屋から朝早く徳島に向かって移動、ご飯食べて
一息つくとズブズブと睡魔が襲ってくる。
気が付くと2回の途中休憩すらすっ飛ばして徳島到着寸前まで
ひたすら眠り込んでいる。

徳島駅前について、坂出までの電車の切符を買い、
近くのうどん屋でご飯を食べ、時間になったので
まずは高松行きの特急に乗り、マリンライナーへ乗り換えて
坂出へ。

諸々ありそうなので帰り、坂出から福岡まで夜行バスを予約したが
公演が終わって、バスに乗るまでに待つ場所が何もない。
ネットカフェやサウナ、スーパー銭湯、ビデオ試写室さえも。

こうなってしまうと16時開演で終わるのが18時、5時間も
じっと出来ないし、そもそも初めて着いた場所でバスの乗り場すらも
把握できていない、こうなったら新幹線で帰ることも考えることにしよう。

それよりも何よりもまずはホールの場所を探そう、
すんなり見つかった、次は木戸銭払う動線がしっくりしない、
おまけに2000円と思っていたのが2500円だった。
・・・なんか変な感情が降り積もりすぎる、新幹線で帰ろう。
高速バスは今度のアートマ講座の帰りに変更だ。

箱のなかに入り、一息つくと驚いた。
ホールの形状が他とは違っている、というか違いすぎている。
「どういうこと」をするためにこの場所を作ったのか、しばし考えこみ、
「無目的」はよろしくないが、「目的がある」ということは
一見良いように見えるが、「時代の変化」によって「目的」が
陳腐化すると潰しが効かず、「目的にしがみつく」可能性を否定出来ない。

そんなことを考えていると、板の上では坂出の伝統芸らしき
「獅子舞」から「神楽」へと演目が進んでいる。
・・・ああ、これが「江戸歌舞伎」で言う「公演最初のセレモニー」なのか。
で、「前説」という「コント」があって、本編、という流れになるのね。

前の日に見た木ノ下歌舞伎はガチの歌舞伎を歌舞伎として持っている
「専門用語」と「身体言語」を 現在に沿うように「ガチの演劇」に翻訳した。

さて、マエカブはどう歌舞伎を「料理」するのだろう、とじっくり見てみた。
土台にあるのは週刊少年ジャンプでかつて連載されていた「花の慶次」、
この物語に「おそ松くん」じゃなかった、
「おそ松さん」や「あのコント」番組、そして
「あのテレビドラマ」の要素を
うまく混ぜ込んでポップでロック な
エンターテイメントという「現在(現代)劇」に直した。

こうなってしまうと歴史上の人物がどこかしら尖った兄ちゃん達に
見えて、どうしょうもねー「争い」が国を動かした、という事実、というか
歴史物語が「傾く」=「変える」というものやことの本質をこれでもか、と
見せていく。

更には「坂出ラブ」まで混ぜ込んでいくから不思議に楽しいのだ。

・・・楽しい後はすごく大変。
バスの変更がうまく行かず、新幹線の中で食べるものが(以下略。
マリンライナーは正規席に座れず、扉の補助席に座り、
新幹線の中は(以下略。
博多にたどり着いてバスのりばですったもんだと変更して10日ぶりに
家に帰り着き、死んだように眠る。

劇団シアターホリック「樺沢家の三人姉妹」

「人間の業」をエンターテイメントで見せる。

 大野城まどかぴあから西鉄電車春日原駅まで歩き、
もたもたしすぎていると先の急行電車に乗り遅れ、
次の普通で大橋まで行き、あとの急行電車に乗り換えて
天神、結局、天神では美味しい食べ物がなく、
バスターミナルの中にあるローソンでなんか買って、
小倉港行きの高速バスに乗る。

 道中、いろんなことがあったけれど、なんとか
松山行きの船に無事乗り、お風呂に入り、ビールを飲んで
横になって、ウトウトしていたらもう松山。

 7時まで船の中でダラダラ時間をやり過ごし、
観光港から高浜の駅まで海を見ながらゆっくり歩く。
本当に瀬戸内の海はいい景色だ。

 本当は高浜の駅で1500円のいよてつフリーパスを買うのだが、
今回は諸々あって、金が無い、故に、松山市までの切符を買い
珍しい車両でゴトゴト松山市駅まで運ばれ、降りると、福岡からの
夜行高速バスがちょうど着いて、乗客を降ろしていたところ。

 うーん、どうなんだ、自分、そんなことを感じつつ、
銀天町から大街道まで歩いて、マクドナルドで飯を食い、
どうしようか、自己ミーティングを始める。
ニンスタまで行くバス、往復は出せない、というか出ない。
けれども、愛媛の地元開幕戦を蹴って、予定どうり
昼にシアターねこへ行っても、正直なんだかなぁになるわけで。

 時計を見たら、朝の8時半、兎に角、片道は歩き通してみる。
・・・休憩入れて、なんだかんだして結局3時間で着いたぞ。
ご飯食べて、ぼーっとして、開幕戦名物の餅まきに参加して、
スタンドに上がり、取った餅を食べながら開始までのひとときを過ごし、
気持ち悪い試合をなんとか引き分けに持ち込んで、急いでバスに乗って
大街道で降りてシアターねこまでたどり着き、なんとか公演に間に合う。

 さて、今回は「カラマーゾフの兄弟」byドフトエフスキーという
名作を現代風、かつガーリースタイルに「仕立て直す」趣向。

 この「仕立て直し」、著作権上は大丈夫なのかな?と
いらない心配をしてみる、演劇時空の旅「三文オペラ」をめぐる
どうのこうのがあったので、余計に気になる。

この件、北九州の軍師さんが分析した資料からみても、
どこか「黒い香り」が漂う感じがするのです。
・・・二束三文で「パブリック・ドメイン」を買い叩き、
その「権利」を高く売りつける「ブローカー」やら「エージェント」などの
有象無象の存在に翻弄されている我々、という構図なんだよなぁ。
最近、そういう手合がよく目立つ。

 どろどろした出来事とその対策をどうすりゃいいかしばし思案していると、
ジェイムス・ブラウンのようなファンクで開演前の前説をぶちかます。
爆発するかのようなファンクで客席を十分に温めたらもう本編だ。

 ある田舎にひとりの「少女」が「赤と白」の混ざった、
セーラー服、靴は白い、ピンクのかばん一つで都会からやってきた。
・・・彼女が物語の案内役であり、狂言回しとなる、樺沢家の末娘。

 この末娘の目から見た「欲」と「金」にまみれた非常に「生臭いお話」を
上の娘と真ん中の娘、そして母との「複雑なのだが、単純」という「家族」関係、
「樺沢家」とその使用人親子(実子ではない親子)との「主従」関係、
「樺沢家」と「菩提寺」との「不思議な関係」、
そして「男」と「女」ののっぴきならない「関係」および「三角関係」。

 全部の「関係」に共通する「何か」は「欲」と「金」。
「欲」と「金」にまみれているから着ている服は「赤く」、
履いている靴は「黒い」。

 そういう状況で非常に「人間臭く」、更に言えば「非常に生臭い」、
「許す、許さない」や、「善と悪」までもがぐちゃぐちゃのめちゃめちゃに
混ざり合った「物語」が板の上で繰り広げられ、
ここに「隠し味」としてファンク、ラップ、
おまけにコンテンポラリーダンスまで加えてみれば、
「生臭いお話」がいつの間にか「極上のエンターテイメント」に
化けてしまっている。

 「極上のエンターテイメント」の中で、ひとりの
純粋な「少女」であった末娘が「強欲の紅」を挿されることによって、
セーラー服から赤一色のワンピース、黒いヒールに化けるさまが最高。

 人間、という弱き存在が強がって、「欲」と「金」を弄んでいたら
気がつけば、のっぴきならない状況になり、その状況を誰かに押し付けて、
知らぬ存ぜぬを決め込もうとするが、「強欲の報い」はてきめんにやってくる。
・・・気がつけば、その場所に誰もいない。
 
 やっている演劇の特性が違う故に、断言を避けるが、
四国にも万能グローブガラパゴスダイナモスクラスの可能性を
秘めた劇団がここにいる、という発見。

 もし、この戯曲を万能グローブガラパゴスダイナモスが演るとしたら、
エンターテイメントにあえてしないで、「ガチの演劇」の文脈を使った
「コメディ」としてやるのだろうな、と思わず考えていた。

演劇ユニットそめごころ「反復する、イクツカノ時間と、交わる、イクツモノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと。」

「演劇」と「日常」の反復運動。

 去年10月のハムプロは「財布をなくした、というか落とした」という
理由で、去年、12月のこふく劇場は「心身の疲労」で、
2度も松山行きをキャンセルしてしまった。
・・・3度キャンセルしたら「次」はない。

 そういう状況で旗揚げ以前より野田秀樹、特に「野田地図」の
「身体言語」及び「身体感覚」を携えて、福岡で立ち位置を
確保しつつある劇団がひょんなところから松山登場。

 松山、という街はシアターねこができる以前から
「コンテンポラリー・ダンス」というものがすごく盛んで、
そういう「前提」を持ったところ。
野田地図も「エッグ」で振り付けにコンテンポラリー・ダンスの名手を
迎えたように、結構「親和性」が高い、という発見。
このふたつが組み合ってどういう「化学変化」が起こるのか?

 そんなことを深々とする冬の空気の下、考える。

 考えながら、我らが愛媛FC、ことしも「キャンプ」という
「長期拘束・長期合宿」をやらず、「日常」を積み重ねて
シーズンに臨む模様、との知らせを受ける。

 「長期拘束・長期合宿」の強みって一体何なんだ?
「演劇時空の旅」のことも有り、更に考えてみることにしよう。

 まずは、「一体感」(らしき)ものを作ることができる、
あとなんだ、長いシーズンの肝、「遠征」の「予行演習」という形で
個々人の「メンタルの強弱」、「対応力の強弱」を見極める事ができる。
・・・これだけか。

 「強み」もあれば、「弱み」もある。
まずは、シーズン最大の肝、「試合から日常」、「日常から試合」が
うまく作れない、ということ。

 「日常から試合」があるから「浮いたり、沈んだり」ということが
わかるのであって、「浮いたり、沈んだり」ということに対処する
「処方箋」がうまく書けないことが多々ある。

 「処方箋」が書けないからどこで「締めて」、どこで「緩める」か
その「勘所」がわからない、わからないからどうしても「やりすぎる」、
「やりすぎて」、心身に「トラブル」を抱えてシーズンに入る。

 ・・・その結果、どうなったか、わかるよね?

 ということで結論を演劇に落としこむ。
「演劇時空の旅」は永山さん、という「コンディショニングの達人」が
演出家を務めていたからこそ、「長期拘束・長期合宿」で
作品を成熟させることができた。

 けれども、たいていの演劇は「作品から日常」、
「日常から作品」のリズムを反復させることによって、
作品と座組を成熟させなければいけないのかもしれない。

 「演劇」、もしくは「サッカー」のない日常から「心と身体」を
「起こして」、段々と「演劇」、もしくは「サッカー」のある日常へと
心と身体を整えていく、そして「試合から日常」、「日常から試合」、
「日常から作品」、「作品から日常」、というリズムを作るから、
「ベンチマーク」が明確となり、出来、不出来がはっきりとわかる。

 そんなことを考えていたら表演空間に入る準備が整い、
そろそろと中に入っていくことにしよう。

 さて、今回は奥行きのある場所の特性を活かした
「八百屋舞台」、そこに「だだっ広い黒板」を仕掛けた趣。
・・・「だだっ広い黒板」、といえばずっと前の「演劇引力広島」初演の
「ガラパゴスパコス」をふと思い出し、思い出しながら今、この場所で
展開している「舞台裏・開演前」のドタバタを見ている。

 開演前のドタバタを「敢えて」、見せているのか、
それとも「初めての場所」で「自分の」演劇を見せるが故の
「神経質」なのか、「演出席」はそのまま、表演部の「黒板」、
チョークで書いた「消しあと」もそのまま、「影アナ」の確認まで。

 え、これ、もう「演劇」は始まっているのか?
「演劇」と「日常」、「嘘」と「本当」、「過去」と「未来」、
あとその他諸々が混ざって何とも言えない時間と空気が
いつの間にか漏れだした「本編」が始まる。

 基本たる「生き違い・すれ違い・勘違い」は押さえていながらも、
「見る」と「聴く(聞く)」、「白」と「黒」、「善」と「悪」という
「人間として、基本的に持っている矛盾」を「あさま山荘事件」と
「ベルリンの壁崩壊」という「生きる、死ぬ」と「革命・反革命」、
更には「共産主義」と「自由主義」の混淆を孕んだ「出来事」に
荒削りながらも落とし込んでいる。

 物語の全体はサン=サーンスの「月光」が流れてはいるが、
自分の脳味噌の中では椎名林檎の「NIPPON」という曲、
更に言えば「あの世へ持って行くさ、至上の人生、至上の絶景」という
ワンフレーズが妙にぐるぐるしやがる。

 ある意味、「絶望」を見せながら「希望」も提示する、というところに
野田秀樹でありながら、野田秀樹ではない。
ある意味、野田秀樹より「社会・時代」の際どいところすれすれを
攻めていく「姿勢」を見せて、再び幕が上がろうとしている。

香川文化芸術フェスティバル(カブフェス)

直島の指輪ホテルのリベンジ、果たした。

 ・・・あれからもう一年過ぎたのか、というくらいものすごかった。
去年はものごっつい台風の中、日田で快快、移動して大阪、
翌日は中崎町でiakuの「人の気も知らないで」、上演途中から
雨がシトシトどころかドバドバ降っている、その様がきっついセリフと
重なって、果たしてたどり着けるかな、どのタイミングで断念するのかな、
なんてことを思いつつ、とにかく新大阪、新幹線で岡山、瀬戸大橋線で
坂出、そして高松と道を急ぐ、そして直島行きの船乗り場につき、
「天候調査中」の案内を見て、ある、ということを信じて船に乗る。

 直島につくとまあ、あるんじゃないのかなという空の塩梅。
場所にたどり着いて、ご飯食べて、雑談しながら待っていると
空がなにか不穏だ、一点俄にかき曇り、風が轟々吹き始め、
気がつけば稲妻ピカピカ雨はドサドサ、開演、じゃなく、
開場10分前に中止が決まって、払い戻して、港の船のりばに
帰りの船の手配と避難のために戻る。
・・・それから船着場近くをウロウロできるまで雨がやんだので
散歩しながら来し方行く末を考え込んでいる。

 ・・・何かが終わって、何かが始まった。
「始まり」というものはとてもとても大変で、わたしを巡る状況が
恐ろしいほど変化しすぎていて、いままで「居心地」の良かったところ
が徐々に「居心地」の悪さ、というものを感じ、新しくやることやものが
続々とやってきて、これらをどうハンドリングするか、
いままでの範疇を超えている。 

 いままでのハンドリングすることの範疇を超えている、
「お金」の面がものすごく窮屈になって、正直やばい。
こんなことを抱えつつ、解決の糸口を掴みつつ、新田原から
小倉、小倉のネットカフェで高松行きのバスを待ち、
バスに乗ってまんじりとしない夜を過ごしたらもう高松。
降りて、駅近くのうどん屋で飯を食うが、七味唐辛子の瓶に
ウジ虫が湧くわ、なんだかんだで(以下略。
風呂を探すのにもしくじって、玉藻公園の中にあるハコに向かう。

 昔ながらのお屋敷、というかどう表現したらいいかわからないが
とにかく、居心地がいい、木と畳、そしてみどりの庭、たまに潮風。
なんか、落ち着いた感じでひと通り場所を見て回るが、
午前中はシアターホリックの連続ドラマ風演劇を見ることにする。

 最初は、いわゆる「ホームドラマ」をえげつなく見せる、
それも物語の「断片」を「同時多発的」に起こして、ある部分は
見手が「選んで」見る、という形がすごく斬新。

 ・・・不倫というのか、なんていうのか、尋常じゃないものを
そうでないように見せるのは、正直、技量が必要だ。
「全て」が終わったあとの嫌な感覚を先に見せて、
「なぜ、そうなったのか」を逆追いで見せると、
潰れそうな居酒屋があるお客がうっかり落とした100万円を
店の人がネコババしたことから起こる「良心とのせめぎあい」。

 「良心」というものが「崩れて」、ネグレクトやら殺人にまで
発展する様子を「あるところ」から「聞いた、見た」というように
「断片」をまとめて、ひとつの物語にする。
・・・これ、池波正太郎の「鬼平犯科帳」あたりに出てきそうな
エピソードの「裏設定」にフォーカスを当てるとこうなるのか。

 「一杯」を重ねるとそれは、罪に罪を重ねてしまうこととおんなじだ。
そうなってしまうと人はとんでもないところに行ってしまう。
「一杯の半分」で収める、それがひとつの「決まり」だったの
かもしれない。

 シアホリを見終わったらちょうどいい塩梅でお昼。
いい隙間なのでまずは宿に大きい荷物を入れる。
えっ、明日からで宿の予約を入れていた、マジすか。
まあ、空室大いにあり、だったからよかったけれど。

 荷物を入れてまたハコに戻って今度はマエカブ二本立て。
まずは「きのこの山」、昔の「ムラ」というものはいかに
「閉ざされた」空間で、「閉ざされた知」というものの
「集合体」だった、この「集合体」の象徴するものが
「きのこ」≒「申神」様の肉であり、それを受け入れて、
初めて「外」の人間は「集合体」の「中」に入ることを許される。

 しかし、「集合体」を無意識のうちに壊そうとする
存在がうっかり入ってきたら「集合体」は全体で「奪い」にかかる。
そして殺して、「集合体」の「閉鎖性」を保とうとする。
そういう風に煽って、煽って、ふすまのところに目線をやると、
・・・また、新たな犠牲者がそこにいた。
うーん、山下和美の「ふんわり」とした「怪談話」を
演劇に起こすとこうなるのか。

 「人でなしの恋」は一転してすごくおどろおどろしい世界、
「極彩色」とはこのことか、演目から演目への「場面転換」すらも
ひとつの「演劇」なのか、というところまで見せてくれる。
明治大正ロマンにまわりで聞こえる他演目の音、いろいろな音が
響き合っている、「疑心暗鬼」というものと。

 にしても、金持ちって何考えているのか、よくわからない。
体面を保つための「本妻」のほかにもう一人「美人」、それも
「毒」のある美しさを持った、そういう女を「飼って」いた。
・・・普通の女だったら、これ、耐えられないよな。
耐えるか、耐えられないのか、ぎりぎりのチラリズムから
薄皮一枚を引剥がしてみたら、より耽美的な、おどろおどろしい世界が。
・・・人間の剥製、もしかして殺したのか、死んだのか。
江戸川乱歩の「因業」ってまじ半端ないわ。

 さて、また宿に戻って、部屋に入り、お風呂までは無理だったか。
ハコに戻って、tempaのところに早く入って、外の庭をゆっくり眺める。
木々の緑、おひさま、海風、そういうものにあたってボーっとしてたら
治らないものも治るかも知れない。

 そんなことを考えていると、唐突に物語が動き出す。
姉、妹の「関係性」をめぐるお話、状況は母の一周忌法要。
おみやげの「甘納豆」を食べていると「母が倒れてから」
止まっていた時間がソロリソロリと動き始める。

 というか、広島というところは案外広い。
ちょっとなんかあった、としても頻繁に行くことが難しい。
この「行けそうで行けない距離感」がお互いの「隠していたこと」を
じわりじわりと明らかにしていく、妹は妹で喘息という持病が
ひどくなって大学を一年休学したり、姉は姉で「心を亡くす」ように
仕事に没頭していたり、色んな意味で大変だ。
・・・切ねぇ時間を一気に詰めていく、というのはとてつもなくしんどい。

 さて、次は兄、弟の「関係性」をめぐるお話だ。
やっぱり、男には「秘密」というやつが仰山あるなぁ。
「あの時」にかかっていた「あの音」がすごく気になり、
未だ探せずにいる。
 
 ロックな兄、真面目な弟。
帰りたい、帰りたくない、帰れない、興味がある、興味が無い。
いろいろな壁というか、距離が果てしなく遠い。
いろんな恋や愛があって、生きるということはやり直しが効かない。

 ・・・気がつけば、兄は事故で死んでいて、この世の人ではなかった。
弟は兄の無念を背負って生きていくのか。
時期的なものもあるのだろうが、「生」と「死」が隣り合うことは切ない。

 一息ついてから長台詞屋。
・・・前の日に戯曲を演者がもらい、当日夕方までじっくり稽古。
空間をシンプルに削れば削るほど、演者の素材、
演者がからだで「鳴らしている」音の質が問われる
作りにまで仕上げている。

 この「作劇」を古くからある「屋敷」というか
「家」がしっかり受け止めて、「一人芝居」ではない、
なんか「新しいジャンル」が生まれた感がする。

 基本形は昔からある家と平屋の文化住宅をめぐるお話。
その家に住んでいた母と息子と娘、それぞれが抱える
物質的、性的なコンプレックスから「死は平等にやってくる」と
いうお話を「リレー」という形で丁寧につないでいる。

 で、そのまますんなり繋がるか、と思わせて
この「家」の近くにある「高層住宅」へ「高さ」でつなげ、
さいごの「家族を持つ」ということに対する
「希望」と「不安」という形にうまくつなげた。

 ひとつの繋がったお話でも通用するし、一つ一つをばらして
ブラッシュアップすることができたらINDEPENDENTに参戦できそうだし
様々な可能性を「作る」ことができた、とはこのことか。

 さて、ハムプロジェクトの準備がほぼ出来たんで中に入るか。
そして、天野っちとしばし雑談、いろいろ溜まりに溜まったことを
ぽつりぽつりと話して、さあ本編。

 初めてハムプロジェクトを見た時は、ちょうど「放生会」が終わって
間もない筥崎宮の裏にあるイベントスペース、ちょうど「見世物小屋」の
「密室感」と「空気感」、故に悲しさや寂しさが満ちていた。

 数年が、久しぶりに同じ演目を見ていたら心持ち広いし、
窓があるから恐ろしく風通しがいい、故におどろおどろしい
「見世物小屋」独特の感じがない。
けれども、そうでないからわたしたちに「外界」と「内界」というものを
強く意識する、というかするりとわたしの中に入ってくる、何かが。

 こういう状況で「精神障害」や「知的障害」、さらには「発達障害」を
抱えている存在が「居場所」を探そうとするが「異質」ということで
「排除」されていく、ここに「サンタウィルス」という「細菌兵器」で
隔離された「差別民」というふたつの「哀しみ」を「悲しい」
そのままではなく「突き抜けた明るさ」と「日体大のエッサッサ」を
うまく使ってひとつの「文学作品」にまで仕上げてきやがった。

 バラシに入り、改めて、わたしはこうして沢山の人をつないできたのか、
この繋がりを見て、なんだか不思議な気持ちになる、うん。
たくさんのことがあって、当分は演劇に戻りにくい状況になりそうだ。
けれども戻ってくる、必ず。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR