ワルキューレ「The 八犬伝」

「永遠のぐるぐる回り」を人は「輪廻転生」と呼ぶのだ。

 こういうものを「質の高いエンターテインメント」というのだろう。

空間のつくり、様々な仕掛け、ムーブマイム、
「目に見えるもの」すべてがものすごく凝っている。
凝っているんだけれど、発せられるメッセージは
物凄くシンプル、そして深い。
お客さんを楽しませながら、大事なメッセージを
いつの間にかこころの深いところに「打ち込まれて」しまった。

 物語の入りは昔、山根青鬼という漫画家が書いた
「名たんていカゲマン」の「すり学校」というお話を思い出した。
それくらい川内さんのスパルタン先生が濃ゆい、濃ゆすぎる。

 そこから「存在そのもの」が「そうあってはいけない環境」に
あった時、存在はどれくらい拒否反応を示すのか、
じわりじわりと見せつけて、ここに「同じ響き」を持つ存在が
徐々に重なりあって、気がつけば滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」や
角川映画版の「里見八犬伝」とは違う世界がいつの間にか広がってきた。

 ここに「生きとし生けるもの全てには陰と陽が同居している」という
恐ろしく噛みごたえのある硬質なテーマが混ぜ込まれている。
このままでは歯がたたないほどの硬さをアクションがあり、
光や音がドッカンドッカン来て、早変わりや3D映像と
エンターテインメントとして楽しませて「噛み砕ける」工夫を
使って気がつけば、消化している。
ここがこのカンパニーのすごいところ。

 さらには、「本質、というものが持つ罪」もきっちり見せて
ああ、これが「狡猾」というものなのか、と考えてしまう仕掛けも。
あの占い師の立ち居振る舞いに「ひげの殿下」を思い出し、
「ああ、彼の方はもうこの世にいなくなったのか、切ない」と思ったのは内緒。

  けれども、過去チラシで見た八犬伝初演の時の
junさんの美しさ、あれこそが「たおやめぶり」であり、
今回の公演は「ますらをぶり」で演ったのだな、という発見を感じながら
家路につくことにしよう。
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M.M.S.T "Crime and Punishment"

「間違わないように」という祈り、なのかもしれない

 いろんなことが絡まってしまうことはえらくしんどい。
ここにたどり着くまでに、いろいろなことがあった、というか
ありすぎた、とも言うのだろう。

 M.M.S.Tというカンパニーに初めて触れたのがちょうど自分が
演劇のスカウティングを始めた時に始まった「演出家コンペ」だった。
・・・あまりにもあの頃の福岡演劇とは異質のもの、だけれども
高度かつ硬度のある「演劇」に驚いた。
さんざん驚いて次は、と思ったら長い間音沙汰なし。
「消息不明」状態を抜けだしたのは「柿喰う客」からの年賀状。
・・・ドフトエフスキー三部作をなんだかんだする、興味深い。
がだ、最初のやつは奈良の天川という恐ろしいくらいの山奥と
平日の夜、横浜の二つだけ、なんだかなぁと思っていたら
またなんだかんだあって、福岡を拠点に、という話を聞いた。

 自分も自分でエグいことに直面して、今まで作ってきた
ポジションを一度放棄せざるをえない状況になって、
「放棄したよ」と各方面に連絡を入れたらいろいろなところで
状況が自分のあずかり知らない方向へ大きく転がってきた。
本当は「知らぬ、存ぜぬ」を決め込みたかったが。

 そんな状況を背負って、初めて向かう場所だから
少し早めに最寄り駅に向かい、迷う時間がある感じで
ハコを探し、見つけて、中に入る。
・・・奥行きのあるコンクリート打ちっぱなしの空間。
まるで「芸術工場」という趣、楽屋スペースがどうやら上にあるらしく、
準備だ、なんだかんだのミシミシ音がなんとも言えない。

 こんな「無音の音」を感じていると、いつの間にか物語の世界に
入り込んでいたというか、物語の一部として見手も存在している。
そんな空間でプレイヤー4人が「日常」をシンプルにしたムーブ・マイムを
5w1hというものをきちんと込めて「動かしている」からひとつひとつが
美しく、そしてあらゆるものが見えて、聞こえている。

 物語の基本構造はドフトエフスキーの名作「罪と罰」をアレンジして
「憤怒」と「憎悪」をマイルドかつソフトに表現した。
「罪と罰」、というかドフトエフスキー、さらにはロシア文学そのものが
「憤怒」と「憎悪」がごゆく表現されている傾向があって、
それが読み手にとってはしんどいところだったのか、という発見。

 世の中というものはどうも「憤怒」と「憎悪」が
毎日ソフトな雪のようにじわじわと降り積もっているようだ。
その降り積もり具合をうっかり感じ取ってしまったが故の
「狂い」というものが、「欲」というものと重なり、
「狂い」と「欲」に飲み込まれると「金」に追い立てられ、
どうしようもなくなるからまた「強欲」という一つ上の「欲」に
追い立てられてしまうと「抹殺願望」というやつがじわじわと。

 「強欲」を「抹殺」することで魂が救われ、楽になるかと思いきや、
今度は「人を殺した」という事実を知ってしまい、
「殺人罪」という現実を思い知らされ、悶え苦しみ、
悶えに悶え、苦しみに苦しみ抜いた末の救い、また日常に戻るも
「殺人という罪」からの・・・というラストの恐ろしさ。

 これ、野田地図のTheBeeと響きあっているよ。
・・・時代の持つ凄みなのか、と見ながら考える。

 自分がこの演目にたどり着くまでに感じた
「欲」と「強欲」というものが心に存在するから
わたし以外の「他者」が発する「欲」と「強欲」に過剰反応を示す。
過剰反応を表現したのが「憤怒」と「憎悪」という感情であり、
「憤怒」と「憎悪」、「欲」と「強欲」、それぞれが掛け合った
「究極形態」が「犯罪」という形となって皆を不幸にする。

 そうならないように、私達は日々祈るしかない。
「間違わないように」という祈りを朝行い、
夕に「きょうも、間違わなくてよかった」という感謝の祈り。

劇団ショーマンシップ「唐人歌舞伎・午前零時の椅子」

      これが本当の「自立」であり「自律」なのだ。


 男の「凛」というものを見せてもらった。
というか、私は重大なミスを「やらかして」しまった。
ある仕事でこの演目に触れた時、広田弘毅と
中野正剛を取り違えてしまって、中野正剛を
「総理大臣」という書き方をして、迷惑をかけて申し訳ない。

 がだ、このお話はそんなミスをカバーして、
わたしの間違いを「物語」と言う形できちんと教えてくれた。

 それにしても、最前列と二列目の椅子の使い方が
ものすごくいい、ひとつひとつのセパレート感が
きちんと出ていて、後ろにも、両隣にもストレスを感じない。
集中を切らせない工夫ができていてすごく良かった。

 物語は中野正剛が警察からの勾留から
帰ってきたことから始まる。
時代は「治安維持法」下の不自由な社会、
それでも自分を貫き、そしてたくさんの若い人間を
自分の家に書生やお手伝いさんとして住まわせて面倒を見ている。
それだけでもすごいのに、「護衛=監視」という名目でついた
若い特高警察官にも、尊大な態度を取らず、かと言って
卑屈にもならず、丁寧に接している。
更には世の中の色々な妨害を柳に風、とかわしていく
懐の深さがなんとも言えない。

 この懐の深さが物語全体に流れている「変な空気感」を
より一層際立たせている。
日本人はなぜ戦争へと向かったのか、諸説紛々あるが、
自分は最低でも2つ、多くて5つの理由をあげることができる。

 まずひとつは「日本民族」というものの優位性を知らしめる。
資源も何もない民族が「精神力」だけで勝つことが出来れば
痛快じゃないか、という「妄想」ともいう。
ふたつめはアジアを白色人種の魔の手から守るため、という大義名分。

 あとは聞く人によって誤解を招く可能性があるが敢えていう。
「にほん」という「国体保持」に不満や疑問を持つ人間を「駆除」するために
勝ち目のない戦いをやる必要があったから、戦争をした。

 「自らの視点で現実を見て、考える」ということを拒否する時点で
「にほん」という「国体」はそもそも「たたかう」資格を有しない。
そういった「違った物の見方や考え方」を尊重しなければ
「国体」は生き延びることができない、それでも生き延びることが
できたのは不満や疑問を持つ人間をあらゆる手段で駆除したから。
そんな流れを複層で見せていくから得体のしれない気味の悪さが
じわりじわりと見え、私たちは今もなおこのような空気に生きていることも
はっきりと見せている。

 しかし、そんな時代にも「自立と自律」について
きちんと考えている人間は少なからずいて、その人間が
発する言葉そのものが心を動かしていくという
ある意味「良心装置」も働いていた救いまで見せている。
中野正剛は本当の人間だった。

 けれど、あんな死に方はないだろう。
おしかさんもおしかさんだ、なぜそんなことに。
俺、悔しいよ。

 「唐人歌舞伎シリーズ」、やっとこさ現代に時間が近づいてきた。
現代に時間が近づいてきた事による「鋭さ」がじわりじわりとやってきた。
この調子で行ったら「西鉄ライオンズ秘話」から「黒い霧事件」の裏の裏、
亀井光の県庁問題、そこにくっついてきた「お布施事件」、
更には「ゲルニカ裁判」の真相、と福岡に住む人間が
目をそらしてはいけないことにまで踏み込みそうな可能性まで提示してきた。

14+ 「土地/戯曲」

・・・えらく深い。

 ロックという「魂の叫び」とフォーク(土着)にまつわる
いろんな要素が混ざっているからどこか懐かしく、どこか新しい。

 うーん、表演空間のつくりがそのまま「永山」しているよ。
能舞台を思いっきり意識したシンプルな空間。
ここにサイケでキッチュな色調が加われば
そのまま勘三郎と野田秀樹の「表へ出ろぃっ」になってしまうのは内緒だ。
この空間を見て、さとねえさんもそういえば
日本舞踊の心得があって、というか「正統派博多演劇」を
演る女の子は日本舞踊は必修だったよな、とテアトルハカタを思い出す。
というか、正統派の演劇を演るには日本舞踊は必修だったのかもしれない。

 「無音の音」をベースにして繰り広げられるは
生きている存在が「自ら変化に」関わっていくのか、
これから死んでいくものが自らに取って代わられる様子を
「傍観」していくのか、という「変化」に対するアプローチングの違い。

 まずは「何か」を「失った」存在が笹の枝をもって
能楽、というか狂言のムーブマイムで静かに演っている。
そこにまた「風」や「雨」という自然現象を失い、
「光」を失うことで「力」を失い、加えて「愛」を失い、
最終的に「こころ」と「命」を失う。
ここにギターを抱えたスナフキンがフォークやロックを
まるで「囃子方」のようにリズムを作っていく。

 この様子を眺めながらこれを見た前の週、
柿喰う客の中屋敷法仁さんとのトレーニングキャンプの
中身をじわじわと思い出し、そういえばこういう「人生(人間)」という
テーマでひとつ作品を作る、というのが最終課題だったよな。
そこにたどり着くまでの「アプローチング」として「モダンジャズ」や
広い意味での「バレエ」という体さばきと「テクノ・ハウス」という音を使い、
反応のスピードを上げるためにしりとりや山手線ゲーム、
織田信長ゲームを巧妙に組み立てていた。

 けれど、中屋敷さんは能や狂言、歌舞伎にも造詣が深いらしい。
だからこそ、それぞれの「身体感覚」、「身体言語」を土台にして
「変化」をそれぞれのカタチで表現できている、両方共。
だからこそ、この「土地/戯曲」という「ロードプレイ」があり、
外のものを見て、触れて、その成果が反映できることを
素直にすごい、と感じる。

 あとはセリフや歌の「言葉」が「身体言語」に重なって
どちらもうまく届かないところが多々見られた。
「耳」という観点からも演劇を工夫できたらもっと良くなるのではないだろうか?

 ・・・とはいえ、変に感覚をミスって他の見手に迷惑をかけた
自分が言うことではないが。
まあいい、なにも言うまい、なにも。

prayer/s 福岡公演

       「陽」は「陰」がなければなにも生み出せず、
        「陰」は「陽」がなければなにもできない。


 「魂」の「陰」と「陽」がもつそれぞれの
寄せては返す「エネルギー」が渦巻いている表演空間。
この渦巻くエネルギーを感じるには「洋服」でさえも
自らの持つ「なにか」を守っている「よろい」になっているのでは?
ということを思わず考えてしまいたくなる。


 長崎、「トイレコントロール」というものにしくじり、
変な感じで尿意がじわじわと来て、万が一の備えはしたものの、
備えを見失い、腹を決めて物語に何とか入ったものの、
自分自身が物語に入る前に起こっていたことの「情報量」が
あまりにも多すぎて、肝心要の「芯」の部分を感じそこねていたことに
じわりじわりと気がついて、正直、情けない気持ちになる。

 という訳で今回の福岡、入念にトイレコントロールを行う。
水分量をコントロールして、こまめにトイレへ行く。
それから早めにハコに着き、ポジションを素早く決めて、
早いタイミングで「流れ」に入り込めるか、空間の隅々にまで
目を凝らし、にじみ出る普通では聞こえない音に耳を澄まし、
そこに存在しているすべての物や事に神経の糸を張り巡らせる
「準備」をそれとなくしている。

 そうしているとあじびホールの「広さ」というものが
「掴みどころのない人生」そのものとして目の前に広がってくる。
私は今までこの掴みどころのない人生を
あてどもなくさまよっていたのだろうか?
そんなことを感じ、吐きたくなるほどの苦しさを感じてしまう。
長崎では空間自体がものすごくぎゅっとしていて、
この「緊張感」というものが内に内に入っていっていたのだろう。

 いつの間にかキスコがやってきて「流れる」の詩を諳んじ始める。
「往くものの流れは絶えずしてしかもその原型は留まることを許さない」
・・・これって鴨長明の「方丈記」を現代版にアレンジしたらこうなるのだろう。
目の前の「広い」空間が心の「広さ」を得て更に奥行きのある空間になっている。

 ここに男が不自然な形で佇んでいる。
女が現れ自らの手で作り、整える。
そうしているとわたしの感覚は外へ外へと広がりを見せ、
いつもはどうってことない洋服も「わたしの感覚を締め付ける障害物」と
なってしまい、いつの間にかシャツのボタンをゆるめ、
ズボンのベルトをゆるめ、シャツをズボンから出し、
下着のシャツまで出してまで不思議な緩さを感じるように
今起こっていることを受け取り始めた。

 パーカッションにより、「魂」の物語が強調され、
ここにうえのといわもとによる「現実の生活」というものが
同時進行でやって来る。

 「生活」というものと「魂」というものが付かず離れず動き出し、
いつの間にか「男」と「女」という存在が
「陰」と「陽」という存在に化け、その瞬間から一度緩めたものを
再び戻すためシャツのボタンを掛け始めている。
ボタンを掛ける作業が進むにつれ、表演空間自体も
だんだん「陰」と「陽」が離れながらもお互いを探して
求めて、再び出会って、混ざって、ひとつになった。

 私たちは「陰」と「陽」の関係性をいつの間にか忘れていたのかもしれない。
この関係性を見失ったがゆえの不都合ばかりの世の中で。
これから、この「陰」と「陽」の関係性を知って、
受け入れることが大事なのかもしれない。


劇団goto 「秘密の花園」

         新しい段階の入り口に私たちは立っている。


 この段階にたどり着くまでのなんだかんだと
ここにくっついてきたたくさんの重い想いを感じた。
そして、私たちはどうして、なにのために「祈り続ける」のだろう?
久しぶりに演劇していて、そんなことを考えた。

 本当は、自分がこの仕事を始めた時に
この演目を北九州のある劇団が演ったとき、見に行く手はずを整えて
ローソンチケットでチケットを買ってさあ、という時があった。
日程は金曜日に東京に出て、演劇2本見学して、土曜日
サッカー行って、その足でスターフライヤーの深夜便に乗って、
日曜日この演目を小倉で見学、という日程を組んでいたが、
いろいろな意味で力不足による心と身体の疲弊感でなにもできなくて、
たくさんのところに迷惑をかけてしまった、申し訳ない。

 自分がそういうことでうんうん言っていてた時と同じ時、
ごとーさんも思うところあって前所属のk2t3を出て、
一人でいろんなことをやりはじめ、なんだかんだと
こうして新しい場所を作って、そろそろと動き始めた。

 ものすごいシンプルな空間でもきちんと「資料室」という
空気がよく出ていて、空気感に即したムーブ・マイムが
できている、ごとーさん徹底的に鍛えているなぁ、と唸らされる。

 ここで繰り広げられるは「こっくりさん」という女の子だったら
中学生までやりがちなことを社会に出てもやってしまう裏に
恋愛だとか、仕事だとか、お金だとか、人間関係だとか、
日常生活の細かな悩みを等身大だけれど、熱量高く演っている。
どんなに偉くっても、どんなに能力があっても、悩みはある。
悩みは弱き者だけのものではない。
それぞれの悩みと過去を少しずつ話し始め、その話の中に
女の子のいろいろな本音が見え隠れしながら
お互いがお互いのいいところを見つけ始めて
新しい関係を作り始める。

 その中でいろいろな「秘密」が見えそうで見えない。
実は二股で隠れて海に行って事故で死んだのかもしれない、とか、
同性同士の「すき」という感覚、がスパイスで効いていることが、
なんて言うか、悩みと過去を少しずつ明らかにしていく行為となり、
ある意味「祈り」そのものになっていたのかもしれない。

 そんなことを物語が進むに連れて感じるようになり、
「私達はどうして祈るのか」ということをじわじわと考える。
・・・もしかしたら「重い思い」を誰かに、もしくは自分自身に
届ける行為として私たちは祈っているのかもしれない。
というか、祈らなければ、戦い続けることなんてできやしないのだ。

 こうして祈り続け、戦い続けたことでみんな新しい場所にたどり着いた。
その事実だけを感じて次に進んでいける見後感。

謎のモダン館 「あめのふるまち」

             わたしたちはいったいなにを「祈る」?

アクセル踏みっぱなしで得体の知れない独占欲の爆発、
これを時間や時代を超えて、しまいには虚実まで突き抜けた。
怖くて不思議な「そうび」を身に着けた。
「一皮むける」とは、このことなのだろうか?
白濱さんの「ますらをぶり」で夢の遊眠社・野田秀樹の
「ことばあそび」を今までやってきた。
今回はふみさんの「たおやめぶり」という新たな「そうび」を
使って「ことばあそび」を仕掛けてきた趣。

 というか、この場所にたどり着くまで、妙なとげとげしさを
振りまき、そして、感じてしまってところで、ヒーリング系の
客入れ音にかなり安堵する。
この安堵感を抱えて、さらに生死の感覚をほどよく出して物語が始まる。

 よくやらかしてしまいがちな「雨」と「飴」という同音異義語から
「心の渇き」と「喉の渇き」をどう癒していくか、という広がりが根っこにあって、
たまたま訪れたとある村に対する違和感、というものがあって、
この違和感を解消するために「演劇」という道具を使い、
その道具が知らない間に見せる不思議な世界の広がり。

 その場所にはかつて目が見えないが、
よい言葉を「紡ぐ」ことができる男がいた。
この紡いだ言葉を文字に起こすために雇った女の子が
それはそれは美しく、この美しさに嫉妬した男の妻が女の子を殺し、
井戸、じゃなかった、穴の中に捨ててしまった、という
ある意味、「白雪姫」に「珍妃暗殺」を程よく混ぜたお話を
宮城道雄のことやら太陰暦から太陽暦に移り変わる
なんだかんだをスパイスに加えて、「演劇」というやり方で
謎を解き明かしてしまった。

 結局、「奪われる」ことが怖かったが故に道を踏み外した。
道を踏み外してしまうと、どうも先が見えなくなるし、
喉も、心もいつの間にか渇いて、どうしようもなくなる。
「迷い」というものがそうさせているのだが。
これらの「迷い」という「乾き」と「霧」を解決するため、
「成仏しないといけない」という「祈り」がそこにはあって、
というか演劇という「行為」はもしかしたら「祈り」そのものなのだろう。
だから、時間は回りまわってあの旅の一座になったのかもしれない。

 不思議な感覚を抱える、とはこういうことか。

prayer/s 長崎公演

             言葉とからだが響きあう「文学」。

 去年の試演では「生活」を見せてきたが、
今回は「人生」という「文学作品」という形に仕上げてきた。
ベースとなる音が福岡、東京、札幌と各会場で違うらしいので、
「異なる響き」がどんな科学変化をもたらすのだろうか?


 試演の時は宝町ポケットシアター特有の
「大黒柱」を「生命の樹」に見立て、
そこから出たエネルギーを演者が受けて
それぞれのからだを使い「生活」と「命」を
極限まで表現しきった、そんな感じだった。

 今回の本公演は「不安定」というものを
それとなく表現し、薄皮一枚先にある
何かわからないものも存在している。
また、別のところでは街宣車の声や、
路面電車の走る音、その他なんだかんだと
生活の音が聞こえてくる。

 切なく寂しい「氣の流れ」というものが満ちて、
外界との接点が絶たれ、前説の諸注意からの流れで
「流れ」という詩を読み、いつの間にか物語の世界に入り込んだ。
時間は戦後の横浜山手の焼け野原。
男がひとり何かを訪ねてあるところにやってきて、
その場所に佇んでいる。
ここに不思議な空気をまとって女が現れ、
お互いがお互いを「慈しむ」行為をはじめる。

 ここから、この物語の根っこを流れる
「全てを失ったさまよえる魂」が奏でる重低音に
津軽三味線の強く、太い音が絡みあう。
この様はまるで近松門左衛門の書く男と女の悲しみにも似ている。
そこに乗ってくる体の動きは文楽の人形と人形遣いを意識しているかのような。

 この根っこの重低音に岸田國士、夢野久作、谷崎潤一郎、
芥川龍之介、吉行淳之介、阿川弘之、遠藤周作という
なんて言うか陰翳のあまりにもはっきりした情念の文学の要素が
十分に加えられ、混ぜられて、私の奥底からある記憶が蘇る。

 確か小学校一年の頃、学校というものに戸惑って
「死にたい」ということばかり考えていた。
担任の女先生はそれに戸惑いながらも強い態度で
これを強く出した前の日の夜遅く起きた火事によって
亡くなってしまった女の子の話を持ち出し、
「生きたくても生きられない命が」という話をしていた。
その後、自分の足で現場に行った時の焼け落ちたピアノが
物語とともに迫ってくる。

 この記憶を物語とともにじっくり追っていたら
いつの間にか「孤独」と「絶望」が重たく入ってくる。
これを全身で受け止め、狂わんばかりに呻き、悶え、
孤独と絶望を吐き出しきって、また新しい生を生きる。

 ・・・そうして人は生き続けているのかもしれない。

柿喰う客×福岡市文化振興事業団 「ゴーゴリ病棟」

        わたしの中に隠れている「全て」が引き出されていく。

 落語と狂言、広い意味での「バレエ」、その他もろもろを混ぜて、
溶かして、「わたしの中にある狂気」をこれでもか、と加えてみせた。
もしかしたら狂気は「お金」によって引き出されているのかもしれない。
精度・密度の高い「身体言語」というものを使ってこういう内容の会話を
うっかりやってしまったところをたまたま見て、聞いてしまった。


   物凄くシンプル、というか「シンプルこそが肝」と
表演空間自体が「語って」いる。
この表演空間に「身体言語」が乗っかり、
さらに「言語」が「身体言語」を補強するように乗っかっている。
だから、しなやかなんだけれど、ものすごく頑丈。
故に「時間」というものを感じさせない。

 そんな構造で「絶海の孤島」に「隔離されたある病院」で
起きた出来事を絶妙のリズムでやっている。
まずはテクノミュージックを「出囃子」にしてお話を回す存在が登場して
前説の諸注意をやってから「マクラ」に入り、いつの間にか本編。

ムーブ・マイムのひとつひとつが美しいし、演者それぞれの仕事を
いろんな場所で、いろんな形で見てきたが、「新しい身体言語の領域」と
言うものを上手に引っぱり出されて、新しい形でうまく見せている。

 ここにゴーゴリの「鼻」という小説とカフカの「変身」という小説が
絶妙に響きあう「重低音」が流れ、主な旋律は「病院」、
特に「大学病院」という「組織」が抱える「闇」という「病み」と
いうものが流れている。

 この旋律に「ゴーゴリ」という「狂い」が乗っかって、
さらにダメ押しで「お金」という「魔物」がうねるように襲いかかる。
これらのひとつひとつに「説得力」というものが強く現れているから
見ている人ひとりひとりの「感覚」にいつの間にか入り込んでしまってるよ。

 この感覚に入り込んで「人は何かの拍子で突然狂うことがある」という
現実をしきりに「演者のからだ」を使って語りかける、その語りかけに
見手はただ納得するしかない。

 まるで口に出る言葉を使うことなく体が話し始めている。
この「からだが話す」様をそれぞれが耳ではなく、
それぞれが持っているからだを使いながら
懸命に「聴いている」、しかも恐ろしいくらいのスピードで。

 こんな体験をしてしまったがゆえに改めてゴーゴリ、というものを
「読む」ことで何かを掴みたくなってきた思いを抱えて次に向かう。

さて、はじめるか。

 まあ、なんだかんだあった。
引越ししたかったが、取る物も取り敢えず、
あそこに在った痕跡を消去した。

 次の受け入れ場所、というやつを何とか作り、
今後はここから色々と出していこう。
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itumo25254you

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