万能グローブガラパゴスダイナモス 「ガラ博」(その一)

「真逆のリフレイン祭」を堪能する。


「演劇」というもので皆が平等で笑顔になる空間はいいやね。
自分が「演劇」の仕事を始めた時、面白い仕事をしている
個人に所属を聞くと、と言うか調べてみると必ずこのカンパニーに
ぶつかってしまうことが多々あり、「多色・多才の集合体」だなと
感じていた、で、この「多色・多才」に触れて、響いて、今に至る。

 気がつけば、「安心してわたしを出せる」空間になっていた。
その空間に「西原理恵子博覧会(通称バラ博)」と
「最強の一人芝居フェス」の感覚が絶妙の塩梅で混ざり、
なんていうか、すごく楽しいや。

 その楽しさがオープニングの映像からも伝わってきて、
これが前説でさらに加速して物語に入る。

(松野尾組)
 初手からシュール、おまけにハード。
女の人と、椅子に「拘束された」男、
そしてなにか手を下そうとする男。
・・・なにか尋常じゃない事態があったようだ。
そして、お話は「人類最大、かつ最高の開発」である
「汎用型人型ロボット」がある富裕層の家庭に「子守用ロボット」として
やってきた7月7日という「その日」に巻き戻される。

 「7月7日の定点観測」という「時間的な軸」がかっちりしているから、
「変化する人間」と「変化しないロボット」という対比がくっきりしている。
「人間」が幼い頃は「成熟している」ロボットから「善悪」の概念を教えてもらう。
これがだんだん「世間」というものに触れ、「世の中の色々な汚さ」に触れ、
「善悪の概念が崩れる」≒「大人になる」ということとなり、
両親が不慮の事故で「同時」に死んでしまったことで「善悪の概念」が
完全に壊れて「教育係」から「ボディガード」、
さらには「自らの望むものを手に入れるための暴力装置」として使う、
すべてを手に入れ、すべてを失い、孤独のままに死んでいく人間、
その人間の一生をさらに高性能に「改良された」人型ロボットに追体験させて
またひと通り繰り返してはみる、まるで寄せては返す果てしない波のように。

 松野尾をはじめて感じた「インディゴブルーの本当」と同じような
「近い将来、やって来る恐怖と脅威」のリフレインの重さはそのままに
業田良家の最新作「機械仕掛けの愛」シリーズのような
「切ないけれど、あたたかい」感覚が混ざり、
劇団衛星の「コックピット」の「ロボットと人間の共存」という
感覚を等身大に落としこんで見せていることに確かな足取りでの進化、
というものを感じた。

(椎木組)

 フィジカル、フィジカル、フィジカル、という入り。
あまりにも激しい、というか、落ち着いてみたら驚いた。
・・・この一通りの動き、「クロックアップ・サイリックス」が
2007年の春に「クロサイ解体の夕べ」というトレーニングキャンプで
やったフィジカルトレーニングをうまく応用したな、と唸らされる。

 そして、ただがよこやまのような入り方、さらにはvillage80%が
よく使う「状況の説明をひたすら淡々と説明する」入りをこなして
物語の世界にじわりじわりと見手を誘いこむ。
その裏ではよこやまがただのようにおとこといちゃ(以下略。
誘い込まれて見ると、あら不思議、どこか懐かしさを感じる。

 その懐かしさの元を自分なりにたどってみたら
「忍者キャプター」というものにたどり着いてしまった。
あれも「チーム忍法」だとか「現代忍法」という忍者モノとしては
斬新なアプローチングを使っていてなんとも言えないんだけれど、
ちょうど、放送の時がすごく子供できっちりと感覚に入っていなくて
再放送というものもなく、スカパーでやるにしても「大人の事情」で
「東映チャンネル」という追加料金が必要な奴でしか見られない。
だから物語の世界をしっかりと感じ取れていないので偉そうなことは言えないが。

 こんなお話の流れにキャラメルボックスの「過剰なまでの熱さ」が
スパイスとして効いて、人間関係の複雑さまできっちりと見せている。
にしても、「あのおはなし」をああいうふうにしてみせるのは人が悪いぜ。

 そしてまた同じ事の繰り返しなのか、というところをvillage80%のように
「コレで終わります」というセリフはなかったが、説明付きで見せている。

 本当に重たい空気もなく、純粋さだけが空間を包んでいる。
このことだけでもすごく嬉しいのだ。


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ニットキャップシアター「ピラカタ・ノート」

「ひらかた」というくうきが、そこにいた。

 自分自身が生まれてから10年生きていた、
そして、離れた後10年の空気がそのまま存在していた。
だからこそ母が言っていた言葉がそれとなくわかった。
それくらいお話がえらくハード、
そのハードさがからだに残っているから、
わたしはわたしだったのだ、ということを強く感じた。

 ハコに入って、椅子に座ると、小さいけれど、あの空気が
ぎゅっと詰っている表演空間が。
自分は生まれて10年間、枚方から少し遠い四條畷という街に
住んでいた、そんなことを少し思い出す。
ちょうど、江瀬美町というほんの少し歩けば大阪外環状線という
大きな道路があって、そこを歩道橋で通れば北出の小学校、
小学校に行く途中、外環状線の陸橋を渡れば
そこは隣の寝屋川市、松下電器の配送センターや
大阪ガスのガスタンクがあって、その奥には市民プール、
その道を一度戻って、外環状線を行くと京阪の寝屋川市駅、
更に外環状線を行くと東寝屋川のグリーンシティ、まだイオンじゃなくて
ジャスコだったショッピングモールがあって、小学校3年、4年の日曜日は
自分の体に馴染み始めた自転車でそこまで行っていたんだよな、親の知らない間に。

 眼の前に広がる空間は、自分が幼くて、親と一緒にしかいけなかった
その先、の風景そのものだった。

 この「ひらかた」という「まちづくり」の物語を
「古事記」の「国つくり伝説」という語りを借りて始まった。

 まずは「まつしたこうのすけ」という男神と
「おけいはん」という女神が出会って、くっついて、
街を「産んだ」というマクロ的な広がりが、なんとも言えない。
外環状線、蔀屋本町の交差点を寝屋川方面にまっすぐ行かず、
左側に曲がり、松下の配送センターを見ながら道なりに進むと
萱島に向かう道になり、それを更に真っ直ぐ行くと
門真の松下電器の本社工場にたどり着く。
そこから更に真っすぐ行けば守口、そこに父の働く工場があった。
この門真、守口で働く、さらにはその先の天満橋、淀屋橋で働く人々のために
枚方、という街が生まれたのだ。

 ここにくすぐりとして今の阪急京都線はかつて「新京阪」と言う形で
京阪電鉄のものだったのだ、そういった逸話を
「ひらかたはよつくらんとはんきゅうにながれちゃうよ」と
男神が女神にせっつく様として演劇的に混ぜ込むのは、さすが。

 このマクロ的なお話からストンと「そこに住む人々の様々な生活」という
ミクロ的な拡がりに急降下することで何故か不思議な感覚を見せつける。
片親家庭とか、知的障害と発達障害の境界線ギリギリだとか、
昔からのお金持ちのおうちに生まれたけれど、居場所がないとか、
子供がなかなか生まれない若夫婦が訳あってピラニアを飼うようになり、
その水槽を「ぴらにあのいるひらかた」=「ピラカタ」というふうに見立てた、
このミクロのお話が寄せては返す波のように続けながら、古事記特有の
「田楽」≒「神楽」の要素を現代の形にアレンジしたムーブマイムで見せている。

 この見えてくるものが、自分が四條畷にいて、そこから離れて
わかってきた感覚、「いろいろな意味で隔離されて、慣らされた
混ざることを拒まれた、ひとつひとつが区分けされた空間」として感じられ、
「理想」というものはそれぞれ持っているんだけれど、
なかなか近づかず、近づけず、このささくれ立ちがあまりにも切なくてたまらない。
さらに、自分が四條畷から離れて、福岡に移ってから10年の間で、
大阪が東京に擦り寄ったのか、はたまた東京が大阪に嫉妬したのか、
それぞれがそれぞれと混ざり始めて、「大阪」が大阪で「なくなる」変容までも見せている。
この変容による「狂い」を久しぶりに訪れた1994年3月、いろんな所で見ることがあり、
その狂いが「阪神大震災」という形で顕在化して、わたしが生まれた大阪と
今の大阪はものすごく違う、「区分け」と「均質化」が極限まで進みきった
空気がそこに流れている、そして、そんな時代に変化した。
その変化の様を「表へ出ろぃっ」で野田秀が演ったように
「色を消す」光と色の使い方でうまく表現しやがった。

 本当は人それぞれの立場、というものは様々な形で変化して
ひとつところにとどまれない、と古の知は教えてくれるのだが、
「区分け」と「均質化」が進めばそれぞれの立場は固定化できる、
そして立場を固定化すれば多くの面で都合がいい、という社会になり、
このことを嫌がれば、居場所がなくなるように「システム自体」が作られている
現実の流れを上手く見せているから、母が久しぶりに見た大阪に対して
「あんな淀んだところ、残らなくて本当に良かった」という印象の真意もわかるし、
切なさもよく分かる、けれども、私は複雑だ。
その複雑さがラストに繋がる一連の動きでズシンときた。

 ・・・欲を言えば、プラレール、京阪普通色に塗った国鉄113系だったのが残念。
京阪電鉄の車両は、まだプラレール化していなかったのだろーか、とふと思う。

グレコローマンスタイル「黄昏のジャーマンスープレックスホールド」

演劇とプロレスの素敵な融合。


私たちには「知の畑」を耕すことが必要なのだ。
「地の畑」を耕して作物を得ることと同じように。

 それがある人にとっては「音楽」であり、またある人にとっては「伝統芸能」であり、
「スポーツ」というジャンルで「知の畑」を耕すことが必要な人もまた存在する。
当然、「演劇」というもので「知の畑」を耕し、そこで生み出された「作物」を
あらゆる形で「おすそわけ」することが必要な人もいる。

 問題は、それぞれが違う手段で耕して作物を得ることを
受け入れることができず、なんだかんだと余計なことを言って
場を壊してしまう存在が少なからずいる、というかだれしもが
そういった存在になる可能性がある、という事を知らなければいけないこと。

 そんな観点からもよく考えられている作りだ。
こう言った「プロレス」と「演劇」の融合体は去年、大震災の一週間前、
「笑いの内閣」という京都からやってきたカンパニーの
「俺達のプロレスは反社会的じゃなか」というやつで一度見たが、
この演目を「DDT」とか「西口プロレス」というある意味「演劇に針が振れている」とすれば、
今回の公演はそれよりも「プロレスに針が振れた」感じにバージョンアップされている。
一昔前の「ハッスル」やこれを更に高度化した奴が「WWE」というものなのだろうか。

 というか、村の鎮守様に「奉納」するために相撲ではなく、プロレスをやる、ということが
ものすごく新鮮なのに加えて、今はすごくジメジメとした空気で、その後に続く
灼熱の太陽を通り抜けた先にある一段落、そして冬の寒さへと続く空気がそこにあった。
そんな凛とした空気にリングアナ調の前説が入ってなんとも言えない。

 そこから若いものの「ヤサグレ感」というのが十分に聞いた導入部。
あとは町村合併の話といい、ごみ処理施設の話といい、
最近滅多にテレビドラマを見ない自分が見続けてしまった、
「カエルの王女さま」というドラマの作りとほとんどおんなじ流れ。
違うのはカエルの方は「歌」の力を信じて、だったのに対し、
このお話は「プロレス」という「コミュニケーション・スポーツ」の力を
信じている、というところのみ。

 なんだかんだいっても、人は「つながり」というものを求めていて、
その「つながり」を作るための「手段」というか「場所」として
「まつり」というものがあるのかもしれない。
何者かにとらわれて「なにもできない」わたしが
「新しいわたし」になる「きっかけ」を知らない間に求めているのかもしれない。

 だからこそ、色々な形で「まつり」は存在しなければならない。
プロ野球やサッカーJリーグ、その他諸々のプロスポーツ活動、
音楽や踊り、演劇という文化活動も「やり方」次第で
「まとまって一つとなり、新しい一つを作る」という活動に変化できるのでは?
という「気づき」をもらえるように仕向けられている。

 ・・・無理もない、今回一緒に組んだ九州プロレスの筑前りょう太氏は
Taka-みちのく氏の”KaienTai-Dojo"時代からそういったことをよく考えていて
みちのく氏がどこかメジャーな団体に「出稼ぎ」している留守を守りながら
「プロレス」という「まつり」を千葉県で根付かせようということをやっていたらしく、
筑前氏がみちのく氏の元を離れ、九州プロレスを立ち上げたあと、
みちのく氏が筑前氏の作った「財産」というものに驚いて、ということを
週刊プロレスで読んだことがあったのです。

 そういうことを踏まえながら見ていると、プロレスのリングが
「田んぼ」に見えてきて、リングのメンテナンスをする男たちが
「お米」と「人」はおんなじ手間をかけて育てるのだ、と
お米を田んぼで育てるのは女の人に任せて、
おれたちは「人」をリングで育てる。
でも、女はさみしがりやで、「他者」に向ける愛をわたしにも向けて、
だからすっぽん、なんだろうなぁ。

 けれども、今の状況はそういったことを真っ向から否定して
「経済の効率性がどうのこうの」と「知の畑」をめちゃめちゃに荒らして、
この行為を「経済性」という輩が仰山いる。
この輩はゴミを漁って、生きていることが好きなのかもしれない。
というか、そういう人間じゃない生活が当たり前だということの哀しさが
じわじわと高まっていき、最後の椎木さんという「演劇のプロ」と
筑前りょう太という「プロレスラー」それぞれが持つ「プロの凄みと色気」が
リングの上に炸裂し、めんたいキッドのルチャリブレがいいアクセント、
そして、新しい始まりの匂いが。

大池企画「いないかもしれない 動ver.」

人と人の間には、こっ恥ずかしい思い出だらけ。
 フィジカルに個々人の「物語」を載せるやり方は
福岡にあるvillage80%というカンパニーのやり方といっしょ。 
がだ、こっちのほうが演劇としてはアグレッシブ。
心の奥底にあるこんな柔らかいところにまで
「触れていく」ことができるのか、という驚き。
だからこそ、静ver.の方も見たかった。

 私はひとりになった時、いつも子供の時「やらかした」しくじりの記憶が
泉のように湧いてくる、もしくは憤怒や憎悪というものに化けて、
これらの感情を噛み締めれば噛み締めるほどいたたまれたくなってしまう。
仕事の内容が恐ろしいほど激しく、なにか不安を抱えて眠れなくなったり、
食事を摂るタイミングを間違えてしまうとこのいたたまれなさが掛け算で
わたしの体と心全体にのしかかってきて、
「生きてる価値なんてないじゃねーか、早く死にたい」という感情まで
増幅されてしまうといろんな意味で収拾がつかなくなる。

 こんな状態が表演空間自体に再現されている。
いろいろな「思い出」が自分と「他者」を分ける「境界線」を
作っていて、ああ、こうやって私はわたしを守っていたのか
そうしなければもっとひどいことになっていたのかもしれない。
でも、もっとひどいことにすることも望んでいる私も存在する、
このことを改めて知るように仕向けられて物語が始まる。

まずはランドセルをボール代わりにしてサッカーでいう
「鳥カゴ」のムーブマイムを始め、同窓会の「一次会」が
いつの間にか始まった。
まずはお互いの近況報告を当たり障りなく。
その中に、未婚、既婚のお話やら、関西と関東の文化の違いやら
人の生死のこととか、積もる話をしていたらもう時間。
そういう「今」と「昔」が入り混じった空間で生まれた
個々人の意識をきちんと話す相手に込めている。

 「二次会」に移って、今度は「話題」というものを
ボールというものに込めてゆっくり、まったり回しながら
いろんな意識を相手に返しては出し、出しては受けている。

 こう言った作業をやられると子供の頃の嫌な思い出が
じわりじわりと炙りだされて正直、嫌な気持ちになる。
この嫌な気持ちに向き合うことでわたしはわたしになったのかもしれない。
わたしがわたしになるための道具として彼女は「まほうのクレヨン」を使い、
絵を書いて、書き続けることでこの嫌な思い出を何とかした。

自分は、演劇のスカウティングを始めたことで何とかしたのかもしれない。

 結果、みんなそれぞれ、嫌な思い出を持っていて、
その思い出が頭の中からじわじわ湧いてきて、
なんかいたたまれない感覚に襲われる。
そのいたたまれなさを乗り越えたのかどうかよくわからないが
「大人」の関係としてまたはじめてみようと踏み出してみる。

 なんか、自分もある女の子に対する因縁話を思い出し、
「ああ、元気かな」といういたたまれなさを抱え、福岡に帰る。
次の日、下の妹の娘が幼稚園の準備クラスに入った話があり、
その縁でどうやらある女の子と下の妹が仲良くなりだしたらしい。
・・・さらにいたたまれなくなってしまう。

青年団「月の岬」

人間は斯様に「えげつない」ものなのか。 

こういうたぐいのお話をF’s companyの「けしてきえないひ」や「ツキコイシ」、
Hit!Stageの「白波の食卓」や「春の鯨」、「Case3~よく学ぶ遺伝子」
更には「西の桜」という「月の岬」の舞台である長崎の劇団が
こういった同じ「因業」の物語を演ったものを
さんざん地元の空気で見てきたが、それ以上にえげつない。
人が因業に振り回される、とはこんなに恐ろしいことなのか、
この現実とどう向き合い、どう受け止めるか、ある種の戦慄を感じた。

 表演空間が東南アジアを始めとした亜熱帯気候の
空気をはらんだ作りになっていて、ものすごくおしゃれだ。
そのおしゃれな空間に母親がすうっと出てきて「物語」に
見手が入っていく準備をいつの間にか始めている。
というか、一歩表演空間に足を踏み入れた瞬間、
物語が始まっている。
どこかしらから鳴っている「無音の音」までもが重苦しい。

 その重苦しさを背負って今日はめでたい結婚式。
・・・それにしても朝ごはんの時からえらくだらだらしてる。
時間に追われているはずなのに、なんかゆっくりしてる。
高菜の油炒めをおかずにしてお新香をつまみながら
ご飯を食べ、味噌汁を飲む。
食べ終わったらこれまたゆっくりと支度をする。
そして長崎市内に向かう船が出港するギリギリになって
ようやく重い腰を上げる。

 この一連の流れこそがこのあとの「すべて」を暗示している。
この島がとその住人が持つ不思議な引力に気がつけば巻き込まれて、
「よそ者」という異物がこの島に入ってきたことから生じるたくさんの
「反発力」が微妙に色合いの違う「灰色」となって表演空間を包む。

 この灰色こそがだれもが持っている「秘密」というものであり、
「タブー」と呼ばれているものの正体なのだろう。
どこか、この島はそういった「タブー」や「秘密」を守るために
「閉ざされること」を望んでいたのかもしれない。
そして、これらの秘密やタブーを一度のぞいて、触れてしまったが最後、
形はどうであれ、この島を出ていくように「天の配剤」によって
仕向けられる、というある意味恐ろしいことを極めてあっさりと見せている。
「そうなったものは、仕方がないじゃないか」と言わんばかりに。

 だから、あるものは長崎に残りたい、と思っていたのが
東京の大学に行ってみたい、と言い出すし、
今まで隠していた「好き」を果たすためにさようならも言わずに消えちゃうし、
そのいざこざで複数の家族がつながりをなくしてバラバラに成っちゃうし、
なにか異質なものが入ってきてエネルギーが異常に高まって
すべてが壊れた、さすがにつらいし、しんどい、けれどもこれは「再生の痛み」。
この再生の痛みをどう乗り越えるか、それは人それぞれ違うのだ。

 ものすごく心がヒリヒリして切ない気持ちになって、
じわじわと戦慄を持った切なさがわたしを包み込んでいく。
そんな状態で福岡に帰ると今までの緊張が体中に来て
珍しく体調を崩してしまった。
それほどパワーのある、というかありすぎるお話だった。
プロフィール

itumo25254you

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