時間堂 「ローザ」

世界は同じ調子で回り、うねりながら、踊っている。


 「最悪の事態」について考えこむ。
どうもわたしの「氣」というものが荒れてしまい、落ち着かなくなる。
落ち着きを取り戻すかのように、しばし演劇から離れてサッカーにまつわる雑談。
この雑談では話すことがなかったが、どうやら人間の集中の限界は90分らしい。
「十分に」集中させて50分、というところか、ゆえにサッカーやラグビーは
その時間帯で一度、時間を「切る」わけで。

 なんだかんだを自分の中に「落としこんで」いたらいつの間にか、始まった。
・・・やっぱり、というか、なんというか、ローザ・ルクセンブルグのお話だったのね。
名前と、おおまかな仕事は学校の世界史の時間で聞いてはいたが、
あいにく、その頃の自分は精神的に疲弊していたらしく、心にも、からだにも入ってこない。
おまけに、自分の「テーマ」というやつにも引っかかってこなかったので、触れることもままならず、
いしいひさいちの「現代哲学の遭難者たち」という本に載っていたかな、と思いきや(以下略。

 そういう「基礎知識」が少ししか入っていなかったからこそ、
物語自体の「深さ」というものを感じることができたのではないかと。

 ローザ・ルクセンブルグ、という一人の女性が「殺された」、
その「命日の法要」らしきものがあり、その場所での思い出話を通して
彼女に関わっていた多くの人たちが抱えている、もしくは抱えていた
「誰にも言えない秘密」というものがいつの間にか炙りだされている。

 革命だ、なんだと言ってもお腹は空く、人を好きになるし、嫌いにもなる、
綺麗なものは綺麗だし、美しいものは美しい、醜悪なものは醜悪だ。
そういった様々な感情が「自然な形」で見手に渡されてしまった。

 これ、精神医学でのSSTという「やり方」とほとんど同じじゃないか。
それぞれの人生、という「歴史」がうまく重ねつつ、
冷静な心境で立場を変えていきながら何かを「解きほぐしていく」ように仕向けられている。

 その「解きほぐされたもの」から、人間というものはどうやら二つの感覚を持っているようだ。
「変化」というものを「受け入れて」いく「開いている」感覚と
「変化」というものを「拒んで」しまう「閉ざされた」感覚。
このふたつの感覚が平衡を保っていることが一番理想的なのだろうが、
たくさんの状況や環境によってどちらか一方に触れてしまいがち。
その「一方に触れてしまった」、という「現実」を見ることで、
人は「敗北感」というものを抱え、こじらせて「無力感」にまで転じさせてしまう。

 だからこそ、ローザ・ルクセンブルグはああいう風に立って、居て、振舞ったのかもしれない。
「革命」の中でも「女性」としての「わたし」を貫こうとすることで平衡を保とうとしていた。

 この平行を保つ「試み」を通して、「外」の世界、ファシズム前夜のドイツや
国共合作の中国、さらには現在の日本のように「現実」や「事実」というものは
いつも同じ調子で回り、うねっていて、その中で私たちは踊り、生きている。
だとしたら、わたしたちの中にも、ローザ・ルクセンブルグは「存在」している。
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ノコリジルモ 「タカシ」

ものごっつう、フリーダム。 


 それにしても、グダグダしているなぁ。
グダグダしているから、前に手配したり、予約した
ありとあらゆる事を「断った」事があまりにも多すぎた。
こうして、私はこの場所にいる。
・・・コントロールを突然失い、ものすごく大変。

 それにしてもこのカンパニーはえらくおとなになった。
アンケート用紙にメルアドだけしか記入欄がなかったものが
今回は住所の記入欄がある、空間も目線のストレスがない。
客入れ音や空気の感じは1970年大阪万国博覧会、
そこからベタベタに甘いガールズ・フレンチ調が混ざっている。

 そんな中で、自分の名前は「たかし」だったのかもしれない。
という何やかにやをじわりじわりと思い出し、このことが「ボタンの掛け違え」の
始まりになっているのかな、なんてことまで考えこんでしまっていると、もう本編だ。

 ある場所で、四人の女が一人の男を待っている。
シュールでサイケな女、少女の空気感を持ち続けている女、
「冷たい美しさ」を持つ女、わんぱくな女、それぞれが持つ「本音」という
「色気」をチラチラと見せていって、「あの人は、わたしのもの」とアピールしてはいる。
がだ、この「してはいる。」というものがくまがいのそうびしている
一筋縄じゃいかないところ。

 ・・・どうやら、この男、一年おきに「生活を共にする女」という存在を
取り替えて、乗り換えているらしく、ちょうどひとサイクル終わったところらしい。
で、次、「ローテーション」を続けるのか、否か、続けるとしたらだれからはじめるのか、
まとまらない話し合いが始まった。

 なんでまとまらないか、それは簡単、「エゴ」という「エネルギー」を
どう処理するか、を考えきれていない、からさ。
生活レベル、及び恋愛レベルの向上によって「エゴ」と「欲望」は
青天井に膨れ上がってしまう。
膨れ上がれば上がるほど「欲望」と「エゴ」は存在と存在の間を窮屈にする。
この窮屈な状態を何とかするために行う行動が「競争」というのもなのかもしれない。

 「恋愛における競争」とは「忠誠」のレベルを「争う」ことなのかもしれない。
どれだけ「媚びる」ことができるか、どれだけ「AからC」が上手にできるか、
そんなことを争っている、そんな感じ。

 ・・・うーん、そこを褒めてほしい、というところには同意できないや。
忠誠を争うことなんて全然期待していない、それよりも何よりも、
そういうところ以外にもっとよい所があるでしょう、そこを見せなくて、どうするよ。
こういうやり方で「愛」というものを伝えているのかもしれない。
存在せずに存在する、というかたちで。

 そういうお話をリズムの良さとくまがいの持ち味である
「文選に対するセンス」のよさで十分に見せた。
課題の「語尾をキッチリする」ところも客演のみねおさんや
立石さんという力のあるプレイヤーが入ることでなめらかに、
より良くなっている。

 美しい女の人をみる、という眼福。
というか、それぞれのムーブマイムが「猫」の感じになっていて
実は公園の猫がある飼い主を「待っている」ことにも見えてしまうけれど。

鹿児島演劇見本市(その了)

 鴨池の市民文化ホール、鹿児島中央駅から行く分にはバス便には苦労しない。
問題は天文館方面から行く事と、帰り。
恐ろしくバス便がない、タクシー使うにも前日のうなぎが響いて身動き取れず。
仕方がないから運動施設を横切って騎射場の電停まで歩き通して市電に乗る。
・・・帰り、なにがしの予約を事前に入れず、行き当たりばったりでよかった。
慌てず、中央駅までたどり着き、吹上庵でそばを食い、新幹線の予約を入れ
多少、食い足りなさ、飲み足りなさを感じつつ新幹線に乗る。

さて、ひと通りそれぞれのカンパニーのレポートを仕上げたので試みの総括を。

 今回は東北の大震災やいろんなことがあって、
そのことを踏まえた「いのち」や「生きる」を多彩なアプローチで見せている。
いろいろな立場や人生から見た「いのち」や「生きる」の色合いは
たくさんある方がいろいろなことを考える材料としてはいいこと。

 こういう形で「紹介」があって、参戦希望が多くなり、
一本30分が20分になって慌てているところが多々あった様子。
というか、愛知県長久手で行われている「劇王戦」という試みの
フォーマットは一本20分、その中で「ホン」のクオリティを問う、ということらしい。
このフォーマットに慣れて、質の高い「ホン」、そしてなんだかんだがきちんとしたら
今後、北九州芸術劇場や熊本「倉庫」で行われる「劇王戦・九州予選」に
参戦してそこそこやれるところも出てきそう、そんなことを感じた。

 いままでの鹿児島演劇の色調と違うカンパニーも出てきた、
それをどう「次へ」につなげていくか、いろいろな形で工夫を進めていく。

それにしてもなぁ、会場の「平土間感」のしんどさ、どうにかならないものなのか。
段差の有無が空気の圧力の違いになり、響きの違いになる。
そういうことを考えたら段差のある鹿児島中央公民館か、谷山のホールに
していただけたらもっと響くいいものが生まれそうかな、と考えながら
新幹線で福岡に帰り着く、にしても大雨キツイわ、金銭的にも、精神的にも。

鹿児島演劇見本市(その六)

 最近、まとまらないことばかりで、どころじゃなくなってきた。


劇団「ぴんと。」

 言葉のリズム、というものを徐々にからだへと落とし込み、
この「落とし込んだもの」を「イメージ」として表に出していく。
その「入れ物」が大きい、中くらい、小さい「バス」だったのだな。
乗ってみたいが、乗れるかどうかわからない、そんな逡巡が
あって、中の人が乗ってみる、乗ってみたいでしょ、と
自然な形で手を差し伸べ、いつの間にか引っ張りこまれている。

 気がついたら、過去のしくじり、というか、トラウマと向き合っている。
向き合っては見るが、結果である「記憶」というものが生まれた端から消えて行く。
消えていけば行くほどまた過去のトラウマが濃くなって、さらに向き合うことに。

 いったいぜんたい、私はどうしたいんだろうか?
何を私は、やり直したいのだろうか?
やってみなけりゃ、分からない、というが、私は、そこがわからない。
今、そこにある全ては消せるものなのか、消せないものなのかすらも。

 さらには、「本質」というものを掴んでいるのか、つかんでいないのか。
あらゆる全てがわからないまま、人生のぐるぐる廻りは果てしなく続く。

 なんて言うか、熊本の劇団きららが持つ「身体言語」の使い方を
哲学的強めで鹿児島に持ってきたらこうなるのか、という出来だった。


演劇集団 「宇宙水槽(コスモリウム)」

 福岡の万能グローブガラパゴスダイナモスという
劇団の空気になんとなく似ている、その空気に「現代口語演劇」が
混ざっている、というのは言いすぎだろうか?

 こういう空気感でまずは作家と担当編集者との話、
いつか見た夢をとつとつと話し、ここから「小説」と「現実」と
いうものが「同時並行」でグイグイと進んでいく。
これらの出来事と出来事そのものに関係する情報量が
ものすごく多くて、この多さが見手の脳みそを揺さぶって、
揺さぶられたことによって起きる「熱」の量が半端ない。

 その「熱」にうんうん言っていると、いつの間にか
「絶望」というやつに巻き込まれてこんこんと眠っている
「何か」を目の当たりにしていた。

 人生ってやつはもしかしたら「悪夢」というものなのだろう。
そういったことを知らないことが、実は幸せだっのかもしれない。
それでも、このグルグル周りの中で生きていくことを選んだのだから。


 このふたつは最近の演劇トレンドを取り入れようとする
試みを積極的に進めている、そういう見後感。

鹿児島演劇見本市(その五)

 エグいくらいに大変なことになった。
せっかく演出家協会という場所にわらじを預けられた、というのに。
どう言えばいいのだろう、「編成の見直し」ということが
また変なタイミングで現れて、戸惑っている。
・・・まあいい、諸々ごとで溜まっているスカウティングレポートを
書き進めるにはいい時間帯だ。

演劇ユニット火曜市 


 やられた、しくじった。
前二つがあまりにもヘビーだったものだから、
お手洗いがてら息抜き兼雑談をしていたら、もう始まりそうだ。
おまけに、電源落としたはずの携帯電話が(以下略。
結果、バタバタした感じで物語に入る。
 ・・・がだ、このバタバタ感がみょうにしっくりきやがる。
まあ、中身はどうってことない学園モノ、それも
公立学校ならではの「縛り」がくすぐりとして効いている。

 ある意味尋常じゃないぶっ飛び感、けれど別れの切なさやら
新しい始まりやらが程よく混ざっていてなんとも言えない見後感。

 ヘビーなものを見たあとにはいい箸休めかな。



SATUMA OG'S 


・・・ムーブマイムで「見せること」はできていた。
物語の「処理」も5W1Hに沿った連続感をもっていた。
がだ、意図的なのか、何なのか、よくわからないが
「ルパン三世」の「ものまねショー」というものを
「演劇」の流儀、というか「吉本新喜劇」の流儀で・・・。
というわけで、重たいお話を「エネルギー過剰」で見せてしまっているから
微妙に退屈してしまい、露骨すぎる「ステルスマーケティング」が加わって
正直、ドン引きだった。
オチの付け方もなぁ、あらゆる意味で(以下略。


 こういう軽めに「うふっ」と微笑むことのできる作品を入れられるのはさすが。
けれど、「うふっ」の中に「雑味」を入れてしまったらどうなるのだろう?
ロイジさんはこの「うふっ」のさじ加減が徐々にええ感じになっている。
子供が生まれて「主婦うふふ」具合に変化できたらもっとええ塩梅になるのかな。
・・・あとはなにも言うまい、なにも。

鹿児島演劇見本市(その四)

 ええっと、こないだの「演劇大学」の流れで
「日本演出家協会」の末席に加わらせていただいた。
 というわけで「演出家協会」から「勉強せえよ」と言われてもらった本が面白い。
てなわけでより一層サクサク行くよ、サクサク。

鹿児島高校演劇部

 ・・・高校生が、こんなに「深くて、重い」演劇ができるなんて。
まず、導入部からすごい。
ものすごく立て込んだ状況が一時的に終わって
精神的にも肉体的にもひどく疲れて、スイッチを切っている状況、と
言うものが、今、そこにできている。
こういう状況が積み重なって、何かに苛立って、徐々に食べるということが
億劫になって、気が付けば……・という空気だ。
 その空気を察してか、なにか不思議な存在が付かず離れずついてくる。
というか、ああいうふうに「陰膳」置かれたら……・ねぇ。
空気は状況を作り、抜き差しならぬ「恋愛」というところまで
連れて行かれるのか、とおもいきや、不思議な力が働いて踏みとどまる。
そういったことをきっかけにしてまた心と身体を立てなおそうとする。

 ここの学校はものすごく立て込んだ「社会状況」を
描くことが更に上手くなって、「実年齢よりも年が上」という
世界をまったく違和感なく演れていた。


演劇ユニット「まちねとそわれ」

 ・・・人生って、油断も隙もねぇよな。
ちゃんと「お別れ」を言って「人生」という場を離れることは
すごく幸せなことなんだよ。
大体の場合はそういう「お別れ」をいう機会もなく、
「突然」、あっちの方に連れて行かれてしまう。

 特に事故で連れて行かれてしまうと「想い」というものが
「存在していた」それぞれの「場所」にへばりついていて、
なかなか引き剥がせない、相当厄介だ。
生きている方はこの「想い」を引き剥がさないと次へ進めない。
連れて行かれてしまう方は引き剥がさないと
「来世」に進む時の扱いが悪くなる。
「一等車」と「二等車」、さらには「三等車」の間にある
「差」というものは現世の鉄道、船舶よりも過酷なのだろう。

 だからこそ、現世にいる人間はああいう過酷なやり方で
引き剥がさなければいけなかったのだろう。
まあ、最後の最後に肉じゃがが食べられる「猶予」を作ったところに
そこはかとない切なさを感じるのです。


 さて、このふたつは東日本大震災、という「非常事態」を
「食べる」というアプローチを頼りに「人と人(死者)とのつながり」を
うまく表現できていた。
とにかく、その場にいなくとも私は「食事」という行動を通して
「あなた」と「つながっている」のかもしれない。
そういったことが見えれば見えるほど、災害や災難というものが
実はそれぞれの「心」というものが引き起こしたり、
酷いものにさせているのではなかろうか、と考える。

 求められているものは「強さ」でもなく、「しなやかさ」でもなく、
ある種の「思慮深さ」と言うのだろうか、未だに言葉を見つけられずにいる。
プロフィール

itumo25254you

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