最強の一人芝居=インディペンデント 「INDEPENDENT:FUK」


身体言語の持つ多様性。


 という方がしっくり来るのか、それとも多様性があるからこその
身体言語、としたほうがしっくり来るのか、未だ考えあぐねている。
・・・今年もいよいよやって来ました。
なんか、ブロック分けが「ガチの演劇系」と「ふんわりとした演劇」という塩梅で
揃えられているのが秀逸だ。

 開演前にあったもろもろ事を言うのは気がすすまないので
サクサクと本題に進もう。


【Aブロック】
井口誠司×仲島広隆
 
 いろいろなところで名前は聞くが、仕事自体は今回が初見。
なんて言うか、「立ち」がきちんとしている。
「古典」という文脈で「身体言語」を持っているのだな、という発見。
「古典」というものが持つマッタリ感、というか「溜めて、動く」というものを使って
「働く」ということの大変さ、ヤバいところで働いている、ということの恐ろしさが
うまく表現されている。

 その恐ろしさがじわじわと「自律」というか、「自ら、動く」というものを
侵食していって、最後は誰かのもとで「飼われる」という
「豊かなる不自由」というものはこういうことなのか、に着地した。
何不自由ない状態、というものは意外と窮屈なのかもしれないね。

 台詞回しを明確にしたらかなり化けるのかなぁ、とふと思った。
 
山田美智子

 さて、今回の出物だ。
この演目、去年の鹿児島演劇見本市でスカウティングして、
なんて言うか、わたしの知らないところにまで持っていかれた。
そうなると、営業魂がなぁ、火ぃ着いてしまったのよ。
幸いにも別ルートでも来なよ、という動きがあったらしく、
今回の参戦に結びついたわけで、まあなにより。

 演劇の世界で一青窈のあの「世界観」が作れるとは。
空間の広さに慣れていなかったことはあったが、
ある程度の密室感、というものが出ていてズオズオ感があった。
「感じすぎる」という病気と「感じられない」という病気の両面的な感覚があり、
「殺人を犯す」という恐ろしさというものも出てはいた。
がだ、「人を殺す」とき特有の「匂い」と「セックス」特有の匂いを
うまく感じ取ることが難しかった。
緊張感、というやつがあったのか、何なのかわからないが。
「愛されるしあわせ」と「殺されるしあわせ」を隔てる薄皮一枚感を
見せるギリギリの研ぎ澄ましが大阪でどこまでできたか、見てみたかった。

玉置玲央(柿喰う客)×中屋敷法仁(柿喰う客)

 一番最初の演目を「古典」という文脈だとしたら、
この演目は「同時代性=コンテンポラリー」の文脈で「身体言語」というやつを使った。
それくらい「身体性の再現」というやつがすごくなっている。

 で、3回も見てみるとまた別な角度でいろんなことが見えてくる。
「文武両道」というものはごく普通の家庭で生まれ育てばできやしない、という
「冷徹な現実」を知り、ごくふつうな人生を生きるためには「選択と集中」というものが
必要になってくる、というところにまで思考が進み、今回はロンドン・オリンピックが
直前まで行われた関係で「もうひとつの現実」を垣間見た上でいろんなことを考えさせられる。

 結論、「言い訳は所詮言い訳、すればするほど見苦しく、自らの首を絞める」という見後感。
「エエとこどり」なんてできるわけないからこそ、絞りどころをどうするか。
・・・直前までパルコの「露出狂」を東京でやり、そのあと大阪、名古屋ツアーの流れで
ここに来た分、前回感じた「両性具有感」というか「異性の匂い」を感じることなく、
「男の匂い」がところどころマーブル模様になっていたのが気になってしまった。


 インターミッションはロビーで「キネマおじさん」。
これを見てしまったら本編の映画を見る必要がなくなってしまうほど面白い。



【Bブロック】

守田慎之介(演劇関係いすと校舎)×平林拓也(ユニット成長剤)

 はじめて演者としてのもりしんを見る。
というか自分で書いて、自分で演出することのできる人間が
他者の書いたホンで他者のコントロールを受けるとどう変化するのだろうか?

 ・・・自分で書いて、やるときは等身大のなんだかんだをうまく見せている。
今回は一味違う「閉ざされている思考」、「閉じている思想」のぐるぐる廻りが
渦を巻くようになっていて、この渦巻が「まともな状態」と言われるものを
徐々に壊していき、人生そのものや生活が狂っていく様子が怖かった。

 そういう恐怖感を「そうび」として持てたことが収穫。
収穫の成果を秋口、自宅劇場で見たかったが、行橋までの電車代、確保できず。
・・・禁足令に至る出来事に巻き込まれたから、ともいう。

野中双葉(劇団ノコリジルモ)×熊谷茉衣子(劇団ノコリジルモ)

 「カワイイ」を脱しつつある。
前々作から前作の流れで私達、かわいいだけじゃない。
いつまでもお馬鹿やっていられない、という変化が見られるようになってきた。

 ・・・なんか、哲学的な要素をところどころに入れ込んで、
くまがいの新しいそうびであるところの「文選」に平沢進のもつ
「疾走感がありすぎる」テクノ・ミュージックが聞こえるようなリズム感で
「死ぬって、何なんだろう」、「死んだらどうなるんだろう」という想いを
言葉で紡ぎ、不思議な感覚にいつの間にか引っ張りこまれた。

 このお話を見る前、思うところあってユーチューブ動画で
毛沢東や周恩来、蒋介石、蒋経国、チトー、ホーチミン、金日成、金正日、
スターリン、ブレジネフ、チャーチル、あとその他もろもろの葬儀の映像を
遺体見るのが怖いんで画面を水平にして、空気感を見るようにしていた。
その時に感じたのと同じ、「悲しみ」というやつを超えた何かが板の上にあった。

 盛んに死にたい、死にたいとは言っているが、裏を返せば
実は「生きたい、生きたい」と言っているのかもしれない。
だからこそ、「死ぬな、生きろ」というメッセージが強く残るのだ。


横田江美(A級MissingLink)×土橋淳志(A級MissingLink)
 
 まあ、ええチョイスやわ。
この演目を大阪で見た時、「音までもちゃんと演劇している」と
感心してしまい、飛ぶ劇とその流れをくむところも同じくらいすごいな、と。

 「スピリチュアル」なところでわざと光を失うお話は
ル・グィンの「ギフト」というお話の冒頭部にあったなぁと。
がだ、パラリンピック・ゴールボール競技のドキュメントを通して
「リアルな日常生活」を知っているがゆえの違和感が
大阪で見たときはあって、そこのところがどうかなぁ、と感じていたが
きちんと改善されていて、手触りという「感覚」がズシンと重たく来ている。

 いろいろな束縛が重なって、さらに見えないモノが見えるとは
ほんとうに怖いことだな、と感じてしまった。
さらに、ああいう「復讐」のやり方もあり、というばありなんだなと。

 まあ、ここから新しいことが始まるのだろう。

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アマヤドリ 「幸せはいつも小さくて 東京はそれよりも大きい」

欲望とエゴによって肥大した先にはなにがある?


 ハンバーグ工場の「理念のすりあわせ会」に行ってきた。

 内容は、会社について書かれた文章や映像資料を見て、話をして、聞いて。
この「ハンバーグ工場」と「演劇」というそれぞれの「仕事」というものを
どうやってバランスよく回していくか、そのために必要なのは
「生体の生地」と「自然の理」について、より一層の理解を深めること。

 この作業をやっていくに当たってハンバーグ工場があるのだろう。
この「場所」を失わないようにするために、なにをしていかなければならないか。
そんなことをつらつらと考えながら、久しぶりのぽんプラザ。
きちんと寝ているのか、寝ていないのか、よくわからない故に
わたしの脳みそはグダグダとしてる。

 表演空間えれぇシンプル。
余計なものをこれでもか、これでもか、とそぎ落としている。
体のムーブ・マイムも「集団の動き」の精度と密度が恐ろしくよい。
コンテンポラリーダンス、というか、舞踏、というか、それぞれのリズムの入り方
息の入れ方、揃え方、何もかもがすごい。

 自分自身もこういう集団の動きを「福岡舞台計画」と言う形で
舞踏の体捌きを使って演ったのだが、自分が空気を出し、周りの空気それぞれを
同時に感じ取ってその空気を返しながら新しく動く、ということができていただろうか、
もしかしたら、私は空間の中で「ひとりよがり」になっていなかったのだろうか、
そういう疑問が板の上から私に投げかけられてくる。

 板の上では演者それぞれがそれぞれの「空気」を出して、受けてという
やり取りをすることで連動性が生まれている。
「恐ろしいほど動けている」とはこのことなのだろう。
ある場面では個々に「意思」というものを持っていたのが、
別の場面ではこの「意思」というものが砂時計のようにサラサラと積み重なって
一つの「意思という巨大な塊」となって見手に襲い掛かってくる。

 最初は東京でボチボチと流行りだした「シェアハウス」で共同生活をしている
若者の生態、というところからじわじわ、じわじわ床下浸水のように
「混沌(カオス)」と「嗜癖」・「共依存」という「心の病理」がまとわりついてくる。
ここに、もう一つの「物語」が絡みあって、「幸せ」って一体何なんだろう、と
もしかして世間一般論の「幸せ」は疑ってかからないといけないのでは。
そして、東京という「生き物」は「欲望」と「エゴ」を餌にして大きくなったのかもしれない。

そうだとしたら、欲望とエゴがとことんまで膨らんだ今の状況は
恐ろしく危険で、崩壊寸前だとしたらどのような形で終わり、
新しい始まりはあるのか、ないのか、正直、わからなくなる。

ブロック 「ハハ。」


なんかよぉ、切ねぇわ。


 てな具合に泣いている。
本当はこの演目を見学したのち、北九州空港まで行って
スカイマークの羽田深夜便に乗り、羽田空港の中にある
簡易ホテルを実地見分して、それからパルコの野郎版露出狂、
アゴラでの笑いの内閣、泊まって成田から飛行機で福岡、
その足でぽんプラザでアマヤドリ、天神でフーズ、という日程。

 日程をあらかた固めて、手配したあとに人生の転機が
ぞくぞくぞくとやってきて、心が痛くて、しんどい。
これが「得体のしれない不安」というやつなのか?

 というわけで、変なタイミングであちこちにキャンセルの連絡を入れて、
ブロックと、アマヤドリ、フーズにまで日程を整理整頓すると
だいぶ落ち着いて、落ち着いたところにハンバーグ工場の
「あなたと会社の理念をすりあわせて見ませんか」というか、
社会保険に加入していたら、来い、という案内が。
整理整頓した日程にピタリと入る丁度いいサイズ。

 前置きはそれくらいにして、住所とスマートフォンさえあれば、
大概の場所は迷わずたどり着けるやね、という発見をしながら
ハコのある場所にたどり着く。

 寺田さん、今回も表演空間から色々と「工夫」を仕掛けてくるなぁ。
うーん、「股」というかあれは「膣」だよ、と軽く空間にボケをかましてみる。
シュール、というか、なんというかものごっついわ。
ついでにエロビデオ屋、というかエロを生業とする
空間独特の匂いまできちんと再現されている。
この空間と匂いにわたしの心はくすぐられ、良からぬことを考えてしまう。
・・・ああ、やりたい、早急に「やりたいリスト」というものを作りたくなってきた。

 そんなことをうだうだと考えていたら、前説が無表情な感じであって、
「個性的な美しさ」というやつを見せつけながら本編が始まる。

 グルグル廻り、というか、モッシュ感がなんとも言えず、
加えて、飛ぶ劇特有の「耳に対する感性」の良さを十分に生かした導入部。
精子は語る、から不妊治療に取り組んでいる夫婦、
その兄弟夫婦らしきもの、という存在を通して、
いろいろな男と女の関係を見せていき、これから生まれ出る双子の物語が
これらの関係に絡んできて、さらには「福知山線の事故」を連想させる出来事が
挟まってきて、「突然消える」ということがあるから、人生の油断や隙の無さがじわりと。

 死んだら、一体どうなるのだろう?
わたしという肉体は消滅するのはわかっている。
病気で死ぬにしても、事故で、あるいは天変地異で死ぬにしても。
問題は、わたしという魂はどこへ生き、どのように成るのか、がわからない。
なんか、どっかで聞いたのだが、寿命を全うしたら魂は次に進み、
事故やらなにやらで寿命が全うできなければ魂は石となって
二度と次に進むことができず、その場所に「怨念」となって……らしい。

 いろんな「生きる」や、いろんな「生まれる」、さらにはいろんな「死ぬ」を
こういうふうにこれでもか、これでもか、と見せつけられるとざわざわするのです。
なんつーか、男の弱さと女の強さを寺田さんがうまく女に「化けて」、
半ばヤケクソ気味にMetisだったっけ、「母賛歌」を歌って見せていると余計に。

 いつの間にか、もう少し自分自身とその周りを
大事にしなければいけないな、と考えている自分自身がいて。
けれど、現実は憎たらしい存在に対して
安易に「事故で死んでくれたらいいのに」てなことを
平気で考えている、実際にそうなってしまったら、
かなり大変なことになる、というのに。
斯様に人の機微、というものはややこしい。

 このややこしさを抱えて小倉魚町の魚民で、食って、飲む。
モバイルクーポン見せているのに、割引にならなかったことに
若干の怒りを抱えつつ家に帰る。

テアトロこじーら 「あゆみ」

半辺天。


「天」は「男」と「女」が「半分ずつ」支えあって成立しているのかもしれない。

 というか、6月頭に「九州演劇人サミット」という
九州で演劇をしている人々が集って、新しいシーズンのおおまかな方針を
公式、非公式を問わず話しあう、という試みに顔を出すまえに、
自分がどれだけ九州を回ってきたか、調べてみた。

 ・・・このシーズン、佐賀だけ演劇のスカウティングに行っていない、という発見。
ステージマロの「金ショー」だとか、結構面白い試みはあるけれど、足が向いていない。
そういえば、本谷有希子の「遭難、」を福岡ではおーたさんの演出で、
熊本では石田みやの演出でそれぞれ見た、熊本と同時期に佐賀でもZiシアターの辻さんが
演っていたのだが、残念ながら九州新幹線の全線開業前だったようで、
熊本から佐賀の移動に骨が折れる、故に佐賀を諦めた。
そんなことをチラホラと思い出す。

 さて、前置きはこのくらいにして、本題に入ろうか。
この4ヶ月前、福岡演劇フェスティバルの口開けとしてこの演目が
オリジナルであるままごと版でやっていた。

 「路上の現実」をイメージした両面座席の
恐ろしく歩きやすいマット敷、という表演空間。
客入れ音はなく、「無音の音」をそこはかとなく楽しんでいると
ふっと姿形の違う女の子8人が表演空間の中に入り、
客席の空気を感じ聞きながら自らの身体の中にある言葉を
感じ聞くように少しずつ心と体をほぐして物語に入っていく。
その時の表演空間が「正方形」だったのに対して、
今回は男と女がちょうど半分半分で、表演空間は円形。

 この「形」の違いは「人生」の違いだとしたら、
いったい、どのように違って見えるのだろうか?
空間の響きの違いがどう人生の響きに変化するか、
目を凝らし、耳を澄ましてみよう、心をゆったりさせて。

 まずは「娘と母」の物語、それから「娘と同性の友達」、
次は「初恋」、それから親元を離れて、別の人生を始め、
その中で結婚して、子供を産んで、母親を失い、
また同じ人生の「あゆみ」を力強く、しかも淡々とした
「繰り返し」という「直線」でままごと版は見せている。


  対して、佐賀版は「娘と母の物語」を飛び越えていって、
ものすごく素朴な「混声合唱」で「人生」を歌い上げた趣きに着地した。
人間自体の息の入れ方から心の入れ方、いろいろな「歩く」がそこに存在して、
故に、より多彩な「人格」というものがかぶさっていく。
さらに、演者それぞれの「人生」まで混ざってきて、ままごと版にはない
「響き」(「和諧」、ではない)が存在し、見手のそれらと重なり、混ざり合う。

 ままごと版の「あゆみ」を見て、正直、女の子が羨ましくなった。
・・・だって、男の子は結婚して子供を「育てる」ことはできるけれど
子供を「産んで、育てる」ことはできないわけで。
がだ、私たちはおなじ場所に存在しても生きているから
感覚が違い、感覚が違うからものを見る角度が違う、それでいいじゃないか。

 世間一般が常に言っている、というか要求する「成功」というものは
このような「あゆみ」から離れたところにあるのではないだろうか?
こんな疑問を抱えながら物語と私の周りを複線化して眺めてみると
「もの」や「お金」、そして「仕事」に恵まれれば恵まれるほど
この「繰り返し」という「直線」から離れて、逸れていくさまが
ままごと版はじわじわと見える。

 佐賀版はこれまた、そんなの、どうでもいいじゃないか、と
「人生」のひとつひとつが「受け渡され」、「受け継いで」いく様子を
丁寧に、丁寧にやっていくから、「平凡」であることがなんと幸運なことで、
なんて幸福なこと、という「喜び」が輪になってグルグル回ってる。

 「シンプル」って、いったいぜんたい、何なんだろう?
「持っている」とか「持っていない」、さらには「格差」なんて
生きている、ということの前ではそんなことは無意味にさえ思えてくる。

 リズムが揃っていようが、ずれていようが、迷いながら歩き、生きてる。
・・・それでいいじゃないか。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
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