F's company 「本当ノート」@大分

ものすごく、フリーダム。



 台風、それも風台風がひどくてJRが止まってやがる。
仕方がないのでネット予約をみどりの券売機で引き換えて、
みどりの窓口で払い戻しの処理をしてもらう。
それからバスターミナルに行って、すぐのバス残り一席を
ギリギリでとってえんやらやっと別府に向かう。

 宿に入って温泉に入り、ひと通り作業をしたらさあ大変。
調整できても焼け石に水、という塩梅になってしまい、
これから先のことについて締め付けられるような心配をかかえながら西大分へ。

 今回のツアー会場は昔、大分から松山経由で神戸に向かう
ダイヤモンドフェリーの埠頭にあった倉庫を改造したイベントスペース。
長崎での宝町ポケットシアター、福岡でのgallery konyaのような
「恐ろしいほどのぎっちり感」がなく、不思議な広さと天井の高さで
物語と空気を感じることで、細かいところまで捕まえることができる。

 導入部、ぎっちり感のある場所だとなんかわからなかった
モッシュ感のある?ムーブマイムが意図を持った
イリュージョンになって、いい案内として日常の感覚から根こそぎ持っていかれた。

 で、日常から離れた「空っぽの」感覚で男と女の「なんでもない、普通の日常」を
付かず離れず、淡々と見せていく。
この淡々としたところに「妄想ノート」と「本当ノート」の存在が絡んでいき、
気がつくと「わたし」が「死んで」いるのか、はたまた「あなた」が「死んで」いるのか、
いやいや、「わたし」も「あなた」も本当は「生きて」いるのかもしれないし、
「死んで」いるのかもしれない。
こう言った「ほんとう」のこと「だけ」を知ることはとてもしんどく、骨が折れる訳で。

 だからこそ「ほんと」も「もうそう」も、そして「あなた」も「わたし」も全てまぜこぜになって
一つの「宇宙=コスモ」という「螺旋」として存在しているのかもしれない。
その様子を司る存在が各公演地のゲストプレイヤーがやっていて、その風味がなんとも言えない。

 物語がちゃんとからだに入る寸法につくられている。
だから、生きると死ぬが混ざっている感じがよくわかるともいうが。

 この「螺旋」の中では「ほんとう」も「もうそう」もない、「正しい」も「正しくない」もない。
ひとつ言えることはそれぞれのものや出来事は「記録」というかたちで保存されている。
その保存されているものを見るのも見ないのもそれぞれ自由、このことを知ってふたたび日常に戻る。
そうして見たいつもと同じ景色は知らずに見た景色と違って見えるのだろうか?

それぞれの違った景色を見る「旅」がわたしの場合、大分で終わってしまった。
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万能グローブガラパゴスダイナモス 「この中に裏切り者がいますよ」

「情」に棹させば、流される。
「知」に働けば、角が立つ。
「意地」を通せば、窮屈だ。  
 兎角、この世は住みにくい。




 ロングラン公演の前後半日程を一回ずつ見たが、
前半日程のある日に起こったオープニングムービーでのスクリーンの不都合が、
ガラパらしくない出来事だったわけで。


 そんなことはさておいて、かつて、夏目漱石先生は「草枕」の冒頭で
表題のようにおっしゃっている。
この一文にはたくさんの感情がない混ぜになっていて、自分は好きなのですが。

 ここに、おもしろくて、楽しくて、懐かしくて、そして切ない表演空間ができている。
・・・筑後地方に古くからある農家の造りが空気までもぽんプラザの板の上に存在している。
そういえば、体捌きのお師匠さんの助手がこういう所で単独公演をするからおいで、と
福岡から西鉄電車に乗って大善寺、そこからひたすら歩いたがなかなか着かず、
途方に暮れた所で(以下略。
はじめて「福岡」でもない、ましてや「北九州」でもない、「筑後(または久留米)」という
ある意味、異質な空気を感じたことをポロポロと思い出してしまう。

 「アート」というものを形成する要素がそこかしこにあるけれど、
「そこにある」事自体が「謎」というもので隠されていて、
パッと見ではわからないように仕掛けられていることに心底驚いた。

 思い出を感じていたら、よこやまの「話芸」によって物語の中へといつの間にか入っていた。
まずは、登場人物の頭数を数えてみる。
・・・そうしないと「この中に裏切り者がいますよ」という
キリストの「最後の晩餐」を彷彿とさせる題名となんだかんだを知りたくなるじゃないか。

 色んな所へ行って感じていることなのだが、「都市化」というものは
いつの間にかこんなにも小さすぎる農村にもじわじわと侵食が始まっていたのか。
その象徴が牛丼屋であり、コンビニ、さらにはショッピング・モールなのだろう。

 この侵食について、もしかしたら「農村」というものは「都市」というものに
「飲み込まれる」ことをある部分では「拒否」しながら、じつは「そうなる」ことを
「心の奥深く」で「望んでいた」のかもしれない。
そんな空気が物語の中盤から静かに層をなしている様がじわりじわりと見えてくる。
この「積もり具合」がラスト近くの「開き直り」につながるのだな、と。

 がだ、心の奥深くで「飲み込まれる」ことを「望んで」いたからこそ、
実際に「合併」と言う形で「飲み込まれてしまった」時、様々な不都合と
不自由さというものがじわりじわりとやってきて、「こんなはずではなかった」とか、
なんだかんだと恨み事をついつい口走ってしまうことが多々あるのではないだろうか?

 だからこそ「村おこし」というものをわざわざ使って「これで、いいのだろうか」という
「疑問」を投げかけていたのであって、その投げかけ方が「ホラー」や
「ご当地アイドル」、「B級グルメ」というやり方を使った、ただそれだけ。

 こう言った「問い」の投げかけ具合が物語の深いところに隠れている
「レジスタンス」というものまで変化させているところがさすが。
問題は「レジスタンス」というものの「やり方」となにに対しての「レジスタンス」なのか。

 自分自身も経験あるけれど、「わたし」という存在は自身の「本当の役割」というものを
「全う」しなければいけない、ということはわかっているけれど、この時代では
若者が「本当の役割」というものをなかなか全うできなくなっている現実がある。
その「妨げ」となるものやこと、そして存在に対してレジスタンスを起こしていた。
 これは「生きる」ということについて、なにをどうしたら良いかわからない「迷い」とも言うけれど。

 迷い続けてわかったことは「変化」というやつを「受け入れる」、あるいは「拒否」する
もしくは「態度を保留する」という選択肢をそれぞれが持っていて、
「その選択肢を選んだ」ことで良くもなるし、悪くもなる。
それは心のなかで「処理」することであって他者が踏み込む領域じゃない。
他者がうっかり踏み込んだ上で発せられた言葉は「取ってつけの理屈」となり、
少しずつ「本質的なもの」からずれてしまうことが多々あるぞと。

 というわけで誰かが「疑問」を命がけで投げかけなければいけない。
その「疑問」を通してそれぞれが心のなかにある「通念」や「常識」を
外に向かってえぐり出すように仕向けられ、そのえぐり出し作業によって
それぞれがそれぞれの立場で考えぬいた「結論」が一番尊いのだろう。

 がだ、面をよくみてみると「裏切り者」ほど他人や他者の「疑問」に依存しやがる。
そんな空気がよくわかる、てか「もたれかかる≒共依存」を選択してしまっているよな。
こんな「だらしの無さ」を「正しい」というのなら、喜んで「抵抗」するしかないのだ。
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