ぐにゃリ 「台風」@佐賀

「屠られた羊」と「モラル・ハラスメント」。

 「心地良い」と「気持ち悪い」を同じくらいの量、抱えることは
恐ろしいくらい心と身体に負担がかかる。
「わたしはいったい、どうしたい」ということがわからなくなって、
そのわからなさにわだかまってしまっている。

 「知らない」、「分からない」で自分の身の回りを済ませることができたら
どんなに楽になるか、でもそうしない自分に対していろんな感情を
抱えすぎて佐賀へ向かい、開場前、ある人に電話をしてから
携帯電話の電源を落として、ハコに入る。

 客入れ音がなんだかベネズエラ調で、この音をスイッチにして
あるやぶさかでないことを考察し始め、気がつけば客席もぞめきはじめた。
なんて言うか、たまらない状態で物語に入ってしまう。

 さちんという書き手が「家出」で九州戯曲賞を取ったその足で
沖縄へ働きに行き、帰りに「台風」で足止め食らってた時に書いたから、らしい。

 ある中学校で働く3人の教師、そして生徒の「日常」を通して
「人間の尊厳」というものは壊そうと悪意を持てば簡単に壊すことができる。
・・・「集団を守る」と言う大義名分のために。
これが、「屠られる羊の必要性、もしくは必然性」というものであり、
手段のひとつとして「モラルハラスメント」に代表される
「嫌がらせ」というものを使うのだよ、
と言う陰湿なものをさらっと見せていた。

 なにを保ちたいのか、正直わからないけれど。
わからないが、そのことをはっきりさせるためにたまたまそうなっていた
「存在」を槍玉に挙げて、さいしょはからかって、次第に「人間の尊厳」へと
介入し始め、その集団への居場所をなくす、と言うか、潰して
「人間の尊厳」を粉々に破壊して、最後は陰湿なやり方で排除してしまう。

 廻りは黙ってみているしかない。
今度、「屠られた羊」にさせられる可能性がある訳で。
屠られた羊にならないように息を潜めて、
隙を見せないように生きているのだろう。

 がだ、そういったことが上手じゃない人が多少なりとも存在する。
そんな人を集団は見逃さない。
どんなに有能で、周りから好かれていようとも、些細な隙を探しだして
その部分を色々な「言い訳」で誇張して攻撃を始める。

 最近の世の中はそういう陰湿な殺気に支配されているから、歪んでいる。
この歪みや狂いについて言及すればするほど余計なトラブル、というものを
抱えてしまい「人生」が足止めを食らって疲弊してしまう。

 そうならないように閉じた空間に閉じこもって過ぎるのをやり過ごすことが
一番賢明かもしれないが、閉じこもると憤怒と憎悪が充満する。
ガスを抜くためには何かを壊すか、危険を犯して外に出なければならない。

 一体どうしたらいいのかわからないぐるぐる廻りが残る見後感。
スポンサーサイト

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

九州戯曲賞リーディング公演

「死」という「深淵」から「生」という「可能性」を覗き見る。



 今回の九州戯曲賞大賞作品、どう贔屓目に見ても、
ある意味カルトで、マニアック、そしてある意味ぶっ飛んでいる。
・・・「個性」というものがあまりにも強すぎて好き嫌いが極端に分かれそうだ。
こんな一癖も二癖もある戯曲をこれまたおーたさんとももせさんという
これまた一筋縄では行かない演出でリーディング公演を「ぶちかます」趣向。

「家出」 谷岡紗智
 さて、賞が決まって、「え、両方共知らねぇよ」と朝早くに
電車の中でTwitterかましていたら、ある人から早速返信が来た。

 ・・・このひと、「さちん」というひとだよ、私は見ていないけど
このホン、去年の春に箱崎のものすごく小さいハコでやっていて、
見た人によるとものすごい出来だったよ。

 この話を聞いて、佐賀で毎月ある「金ショー」と言う試みに
行ったことをなんとなく思い出した。

 演目と演目をつなぐ喋り手をやっていたような、
もしそうだとしたらあの頃からすごかった。

 確かに、選ぶ言葉のひとつひとつからして
「ものすごく頭が良くて、個性的」なものを持っていたが故に、
廻りとしっくり来なくて「学校」という場所に馴染めず、
それよりも少し自由なところに行っていた話をしていたな、そういえば。
 
 だから、「家庭も糞なら学校も糞」と言いながら
「安全、安心な逃げ場」というものが見つからず、
「援助交際」という「危険だけど落ち着く場所」へと
進まざるを得なかった毒々しさが端々にあるのか。

 この毒々しさをおーたさんがここ最近の「生体の生地」を
より深めていくために自分の体を使い、演劇以外の場所で
学んだ「試み」で見つけたものを使って「演出」という「解毒」をしていく趣。

 ・・・ものすごくお互いの「らしさ」が掛け算になっていた。
正直、女の子は腹を決めればアンダーグラウンドな所で
体を売ってお金を稼ぐことかできる。
そうして自分が「糞」と思う場所から離れることができる。
けれども、男はそこまで出来る勇気のない意気地なし。
だからかも知れないがただ導かれるようにひたすらに
ある高い山を目指し頂上へ向かう。

 なんて言うか、お話が進むに連れて「生きている」と「死んでいる」は
薄皮一枚の「儚さ」を持っていて、さらに「再び生まれる」という「営み」が
「死ぬ」と「生きる」という「営み」に見えないくらい極めて細い糸で
「つながっている」さまがありありと見える。

 
「憑依」 川津羊太郎

 GKKという熊本の戯曲書きが書いた作品をリーディング公演で
「お披露目する」という試みに演者として参加することで
大概の戯曲書きについて名前は知ることができた。
がだ、この人の名前は聞いたことがない。
もしかしたらゼロソーとか第七とコラボした高校生なのか、と
聞いてみたら、違う、という。
公演当日、経歴をちらと見たら大阪芸術大学という
「関西演劇」のメインストリームを形作るひとつを出ている、
という話を聞いてアンテナに引っかかってこなかった、
もしくは引っかかっていなかったことに納得する。

 と言うか、この人「映像の人」じゃねーか、
だから引っかかってこなかったのだよ。
それが何より証拠には、ももせさんの持ち味である
「メタリック」な生命音を効かせた中に
湧きだした「ト書き」という「言葉」が恐ろしいくらい細かい。
 
 この恐ろしいくらい細かい言葉を「映像」と言う形で
これでもか、とぶつけられると明け方に見た、
ある夢をありありと思い出す。

 ・・・わたしは天変地異が起こったあとの道を何処かに向かっていた。
その何処かは山を幾つか越えなければたどり着けない。
当然、いつも使う道は損傷があまりにも激しくて使えない。
ものすごく荒れている峠道があるのだが、途中で歩き道が
途切れている、けれどもわたしの歩みは止まらない。
気がつけば、こんこんと湧いている流水に自分から飲み込まれた。
その時と同じ感覚がまた、体の中に入って来やがる。

 こんな状況下でえぐいほどの「狂い」を延々と見せつけられると
正確な時間感覚と身体感覚それぞれがぶっ壊れてしまう。
・・・上の妹の義理母がかねてよりこころを壊していて、長い間入院していた。
で、やっとこさある年のクリスマス前退院することができたが、
なんか、ある日衝動的に首をつって死んだ、という出来事とほぼ同じことが
今、この板の上に繰り広げられていて、上の妹の幼い息子の目線や想いは
こうだったのか、という「戦慄感」がじわじわとのしかかってくる。

 さらに土地をめぐる「差別」と「被差別」、ここから派生する
いわれのない「憎悪」、または「諦め」から生まれる「憤怒」と
諦めに対する「憎悪」、これらが掛け算のようになって
自分で自分を壊してしまう、ということを「発見」する。

 この「連鎖」に絡め取られていく可笑しさ、悲しさ、
さらにはこの可笑しさ、バカバカしさを「断ち切る」ために
「ざまあみろ」と自ら死を選ばざるを得なかったつづら折りがえげつない。

ふたつを総括してみたら、
普通の人は「生」から「死」を眺めてああだ、こうだ言うのだが、
逆に「死」から「生」、もしくは「性」その先にある
「生まれ」(産まれ)を緩急自在に聴かせ、見せていることが半端ない。
半端無いから深淵に突き落とされるかのような重力感が恐ろしかった。

続きを読む

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ガレキの太鼓 「終わりなき将来を思い、17歳の剛は  空に向かってむぜび泣いた。オンオンと。」

知らないあいだに巻き込まれる。


 タクシーで「ながい宴」からアイアンシアターに戻ったら、
空間そのものが「内緒」になっていて、しばし雑談しながら待つ。
・・・学校の教室そのものになっているじゃねーか。
いつの間にか場の空気に馴染んで雑談の続きをしているよ。

 それにしても、この学校、フリーダムすぎる。
というか、自分の学生時代の「スタンダード」と現在の学校の「スタンダード」が
大きく違っているのかもしれない、ということをつらつらと考えていたら、
つい最近までよく見ていた夢のことを思い出す。

 もう、学校という場所から離れてかなりの時間が過ぎている、というのに
学校行かなくちゃいけない、けれどなにも宿題していないし、用意もしていない、遅刻しそうだ。
授業を受けるにしてもなんか色んな意味で「逆ギレ」をかましていやがる。
自分の心と体がひどく疲弊していた時、そんな夢を朝起きる前数時間の間に見ていた。
その気持ち悪さで目が覚めて、それでも疲れは取れなかった。

 人は心と体が疲弊すると日常と非日常が複雑に混ざった夢を見やがる。
なんてことを考えていたら、学生時代には感じることができなかった
フラットな心と身体で授業に臨んでいるわたし、というものを感じてものすごく新鮮だった。

 ああ、普通の人はこんなかんじで朝のホームルームから
最初の授業へと入って行くのだな。
で、流れが進むに連れてその時できなかったことをやるように
わたしの心と身体が動いていた、知らない間に。

 ここに本筋のお話である、「なにも言わずにさようなら」が絡みに絡みあって、
昔のわたしが非常にバイヤスかかりまくりだった、という
現実を残酷なくらい見せてくれる。

 さらに、数学、というできないものについて「できるふり」をするのは大変しんどい。
でも、そのふりをしなければお話が進まないわけで。

 これらそれぞれの状態を行きつ戻りつしていたら、
わたしが次第に「分離」していくではないか。
「物語の中にいるわたし」、「かつてのわたし」、「物語と過去を眺めている傍観者」に。

 この3つが反応し合うことで見えてきたことが、
自分自身の発達障害が社会通念で求められる発達から15歳遅れていて、
故に自分自身の高校時代は何もできなかった、悔しいけれど。

 ああ、今ここにいる私の感覚が社会通念で求められる高校時代の発達なのだろう。
そしてそれから先の発達も演劇に取り組んだことで何とかなった。
その中で暖かい関係性を手に入れることができたのかもしれない。

 不思議な体験だった。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

鳥公園 「ながい宴」

えげつないほどの「よい仕事」がいっぱい。


 「えだみつ演劇フェスティバル」の流れなのだが、いつもと違う場所であるようだ。
というわけでJRではなく、高速バスいとうづ号で七条のバス停に降り立つ。
演劇を始めた時に起こっていたもろもろごとを少し思い出して不思議な感情になっていたら
いつの間にか人が集まり、連れ立ってあるお屋敷へと歩いて向かう。

 ・・・なんなんすか、いったい。
ちょうどお昼時でうまく空腹を満たし切れていないところにええ匂いが。
ふと目をやるとそこにはお鍋がふつふつと煮えているではないか。
その廻りには美味しそうな料理が並んでいる。
けれど、お鍋のコンロ、ものすごい火の勢いだよ、この塩梅だと焦げてしまうではないか。
そんなことを気にしつつ、耳を傾けると聞こえるは本当の「生活音」。

 ふつふつ、ふつふつ、と煮えている鍋、整然と並んでいる食器たち、
食べられるのを待つ料理たち、あとは演者とともに酒、もしくは飯がやってきたら
物語がおっぱじまりそうだが、知らない空間で、はじめて過ごす時間、
しかもなにも起こらないことをやり過ごす、ということがものすごく緊張するとはなぁ。
 
 その緊張感を打ち破るように、栄枯盛衰というものの「導入部」が
最初の数分間にぎっちり詰まっている見せ方がすごい。
においや風の出入り、さらには木々や鳥の音によって物語自体が生きている。

 誰も見向きもしない「負」を「正」に変えて、結果、一財産作って立派にはなった。
けれど、「心」より「お金」を選択してしまったら人間というものは崩れてしまいがち。
この「崩れ」が家内面の「崩れ」となって、すこしずつつながりが切れてしまう。
そうならないようにいつもいつもお掃除をして、手入れをしているのだが。

 この崩れを見るのが嫌だから、と言うか自分たちが作り上げてきたものが
少しずつ壊れてしまうさまを見てしまうのが嫌だから男は外ばかり見て
「嵐」をやり過ごそうとしている。
女は男のそういった様を見るのが我慢ならない。
てか、「弱さを許すことのできない弱さ」に腹を立てている、ともいう。  

 こういった心のゆらぎや流れ、そして物語が生きているから
複数の時代が複線で並んでいて、さらには複数の生活がこれまた複線で並んでいる。
この複数、複線加減を目線の他に場所をこまめに変えていく「回遊性」と言う工夫を使い、
ある家族の親、子、孫の物語を通じて人生の「浮き、沈む」様がよく表現できている。

 さらには、タブーというものがいたるところに絡みついていて、
身動き取れないけれど、なにがどう絡まっているかわからない。
恵まれているからこその問題、そして修羅場を見せてもらった。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

なんばしすたーず 「はらぺこのもりのつづき」

なんというフリーダム、なんというガールズトーク。

 枝光アイアンシアターというところに来ると去年のことが一昨年のように、
今年のことが去年のように思えてしまうのです。
何時のことが一体今年のこと、と思えるようになるのか。

 それくらいわたしの身の回りで起こっていることが恐ろしいくらい慌ただしかったのか。
この慌ただしさをほぐすかのようにお茶が出てきた、というか飲み物や、食べ物に
「化学物質」というものが含まれていない、ということに有り難さ、と言うか安堵する。

 おまけに表演空間の日常と非日常を混ぜこぜにした空気でうだうだしていると
もう物語が始まってしまっている。
北欧系、というかカーディガンズの空気をまとった
おしゃれな女の子ふたりが「迷子」になっている。
「迷子」特有のぐるぐる回る思考、目的地は目の前にあるのに
目線の置き方がどうしたら良いかわからないのでひたすら同じ所をグルグルしている。
このぐるぐるとグルグルが重なれば、重なるほどいろんな思い出が湧いて出てくる。

 それにしてもなぁ、いったいぜんたい地下鉄の博多駅からJRに乗り換える時、
香椎、赤間、北九州方面と南福岡、二日市、鳥栖方面のホームを間違えるのか、
訳が分かんねぇや、と思っていたが「地理に疎い人目線」で地下鉄の案内を見てみた。
・・・あまりにも不親切だ。
方面のホーム番号まで書いたほうが間違いは少なくなるのだが。
「縄張り」の問題があるから深くは突っ込まないけれど。

 あと、福北ゆたか線ののりば位置がクセモノで、結果オーライで乗っていけば
結構遠回りで北九州、枝光方面に着くことができるのだが。
まあ、鳥栖や佐賀方面への「冒険」というものができてなによりだ。
・・・寄り道が人生で一番楽しい瞬間、ということもわかっているし。
ここにわたしのもつ「わらべごころ」が反応してなんとも言えなくなる。

 さらに、クリスマス前だからこそのサンタクロース協会の修行ネタから
うまく派生させたフリーダム過ぎるガールズトークがこれでもか、と繰り広げられる。
けれども姉はどう転んでも姉、妹はどう転んでも妹だから、愛しいというところがかいま見えるし 
そして、プロフェッショナルの舞台人の日々行う仕事や作業、生活というものが
じわりじわりと見えてきて、毎日が新しい発見と冒険になっている。

 仕事、というものをじっくり真剣にやれば毎日の生活は新しい冒険と発見の連続になるのだが。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

14+ 「ザ・ゾンビーズ ライジング」

もう、「世界」は壊れているのか。 


ゾンビもの、といえば最近、週刊モーニングという漫画雑誌をよく読むが
その連載ラインナップに「就職難!ゾンビ取りガール」(福満よしゆき作)と
いうのがあって、この漫画、今までにないスピード感なのですよ。
なんて言うか、作者の持ち味が妙にぬめっとするところがあって、
そこに緩急が付くとかなりのえげつなさを表現できるのか。
早く続きを読みたいぞ。

 そんなことはさておいて、正直、なにが正しく、なにが間違っているのか、わからない。
わからないからいまは「世も末」なのだろう。
そういうカオスの中に私たちは生きている。

 「馬鹿である」、、「馬鹿になる」
 「考える」、「考えない」、「考え過ぎる」
世の中、そんな言葉が飛び交ってはいるが、
そうであることやそうでないことの「境界線」はいったいぜんたい、何なんだろう?

 この境界線がものすごく曖昧になっているから、
ゾンビという「生きてて、死んでいる」状態にある存在が仰山いるんやな、
まあ、自分以外の誰かによっていいなり、というか操られていたら
「生きていて、死んでいる」状態になりやすいことがよくわかる。

 そんな人達に襲われたらひとたまりもなくゾンビになってしまう。
自覚、というものが全くないままに。
「私」というものを保つためにはゾンビからとにかく逃げなければいけない。
としたら「私」というものを保つためにはどうすればいいんだ?
もしかしたら、組織の中で歯車となって生きていくことは一体どうなんだ?

 ヘタすると「自発的な妥協」というものがゾンビへの入り口になっているのか?
就職やら、将来のことを考えて「行動」しろ、「行動」できない奴は馬鹿だ、屑だ、と言って
罵る輩がいるが、それって、「ゾンビになりな、楽になるぜ」と言ってることとおんなじだよな。

 そういうことが「学校」という「社会の縮図」を使ってうまく見せている。
この時代は「公平であるが故の不自由」と「不公平であるが故の自由」でできていて、
これら二つの落差から生まれる「人の弱さ」というものを巧みに使って支配されている、という発見。

 支配者の仕事って、ゆうこと聞いてくれるゾンビたちに対して
「仕事」や「役割」を与えることなんだよな。
この「仕事」や「役割」を「作る」ために「現実」を都合のいいように
「作り変えている」ことがわかれば、いま「グローバル化」なんて色々言ってるけれど、
本質は「全世界ゾンビ化」と言い換えられるのでは、と思わせる見後感。 

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

飛ぶ劇場 「機械が見れる夢が欲しい」

モノごっついエンターテインメント。

一歩足を踏み入れた瞬間、ここはファッションショーでもおっぱじめるのか?
という空気が流れ、その空気の中、もう「演劇」は始まっている。
見手にとって、空間の中に一歩足を踏み入れて、どこで見ようかと座る場所を
全席自由の場合は探し、指定席の場合どんな景色になるのか指定された場所を探す。
ここから演劇というものが始まっているのかもしれない。

 こうして見手と演じ手が曖昧に混ざった所であの人生ゲームをパチンコ屋のノリで
おっぱじまって、仕事が決まった、家族ができた、金の卵がどうのこうの、
海の見える家がどうのこうの、というやり取りを見て、聞きながらこんなことを思う。

 私はそういったところからはるか遠くの場所にいるのか。
というか、「物質的な意味」からは「身軽」なのかもしれないけれど、また別の意味で
何かを背負いすぎているところがあって、人生ってシンプルではあるけれどややこしい。
・・・だからこそ「好事、魔多し」なのか、とはっと気がつく。

 そうしていたら、いつの間にか物語が始まっていた。

 視覚、聴覚、おまけに触覚をフルに刺激されて、いろんなTVゲームの要素がこれでもか、と入ってやがる。
陽の光畑、ペコメン、なんかリアルとゲームが変な具合に混ざっていて、正直、遊び方、というか
人生のルールに戸惑ってしまう、戸惑ってしまうからその先に進めなくなる。

 進めなくなるのは癪だから、少し腰を据えてみようか。
・・・まずは「名前」を入れるんやね。
「名前」を入れたその瞬間、物語が疾走を始める。

 ああ、こうして人はNintendoDSやらPSP、そして携帯電話やスマートフォンで
ゲームやソーシャルゲームにハマり、日がな一日暇さえあればピコピコやるようになるのか。
「疾走感」と言うか「巻き込まれ感」が半端ない。

 それにしても、現在というものは「流行り、廃り」のサイクルがより恐ろしく早いわけで、
世の中に存在するありとあらゆる「仕事」というものがこのサイクルから外れないように
対応するため四苦八苦している、という現実があって、この現実を疾走すれば疲弊がひどくなり、
結果、現実から失踪中、という現代の病理がそこにあった。 

 さあ、次は何だ、と進み行けば今度はキリストさんの「最後の晩餐」だ。
ああ、Queenの"We'll rock you"ってそういうことだったのか、と納得して
さらにすんなりと演劇のセリフとして成立させてしまう、という凄みを見せつけてしまう。

 「ワイン」という「血液」を飲み、「肉」や「パン」を食らう。
その飲み方が、食べ方があまりにも汚ければ汚いほど「貪欲さ」というものが
より一層はっきりと現れる、現れれば現れるほど「キリスト再生」とは一体何なのか、
もしかしたら「ユダ」というものが「不浄」の存在であって、
浄と不浄の「ぶつかり合い」があの場所だったのか。
もし、そうだとしたら私たちは「汚いもの」を扱い過ぎているという
現実と事実を握りつぶして「ないこと」にしているのかもしれない。
で、この「あること」を「ないこと」にしているごまかしに耐え切れず、心と身体を壊した。
そういう「病」に対する「処方」として「ゲーム」というものを使った「現実逃避」になるのか。

 がだ、この「処方」されたものがあまりにも「バグ」という「間違い」ともいう「副作用」が
たくさんあって、というか、それだらけで、ひとつひとつ潰していけばいくほど
「人の弱さ」やここから派生する「現実の不条理」までもがじわじわ見えてくる。

 この塩梅が「単純な仮想空間」から「ものがたりのある仮想空間」、そして
「キネクティブな要素を持った仮想空間」を通り抜けて、たどり着いた先が
「アヒルレース」というここは別府ラクテンチか、という現実空間へと見手を運んでいく。
コンテンポラリー・ダンスというものを媒介として。

 なんか、劇場にいながら大規模ゲームセンターの全フロアを回った感覚を覚える。
シューティングゲームもあるし、beatmaniaも、ダンスダンスレボリューションもある、
競馬のゲームやデジタルポーカー、デジタルビンゴ、コイン落としという
賭博性のある台はないけれど、なかなか豪華で渋いセレクトだ。
・・・特に本物のアヒルを使ったアヒルレースは。

 そういったゲームセンターの賑やかさをこれでもか、と見せて
この賑やかさの裏にある「この思い、誰に向けて伝えたいのか」ということや
「この商品を誰に向けて作っているのか」ということが
わからなくなってしまったことに気がつく。

 何もかもがわからなくなった時代は世の中に存在するすべてがどれも「本物」となり、
逆にすべてが「偽物」となってしまうのだろう。
この事実を私達はまだ知らないだろうし、これからも知ることはないのかもしれない。
「生きる」ということが終わりを迎える、遠くもなく、近くもない「その日」まで。

 けれども、「終わりは始まり」でもあり、「始まりは終わり」なわけで。
また別の同じ「現実」というものが「新しい周回」として手ぐすね引いて待っている。
・・・なんか色んな意味でぞくぞくするやね。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

マニアック先生シアター 「裸でスキップ」

一献の盃は十年の知己に優る。
今宵の歓楽は明日への活力。


 このホン、北芸のリーディングセッションの選考会である部分を
作者の鈴木聡氏の前で読んだわ。
軽くこういうことをやっています、と雑談してから抜き書きで出して受けて。

 まあ、ごにゃぐにゃがあって、それより以前のこともあって
熊本のDrinKと言う場所にお世話になって月一日曜、熊本県立劇場に
福岡から通って、リーディングのトレーニングをやり始め、
この場所が環境としても、人間関係としてもしっくり馴染んで、その中でもみほぐされて
信頼関係が構築できて、GKKと言う企画で見手の前で自分を見せることができた。
がだ、なんていうか納得出来ない状況が幕が開く前、うんざりするほどあって、
開演直前に逃亡しようと荷物をまとめてそっと消えようとしたら、ある人に捕まって、
話は分かった、けれど、トレーニングを始めた頃は見ていられなかったよ、でも今はどうだ。
・・・そうだったのだろう。とはじめて腑に落ちた。

 まあ、無事演者をやりきって、その翌々日からハンバーグ工場での仕事が始まり、
いつのまにか土曜は休めるようになったが、日曜が休めなくなり、次の年のGKKは
前よりも演者として自分を出せるようになった。
しかし、演者として生きていくためにまとまった時間を使うことができなくなってきて、
「スカウティング」という形で生きていかざるを得なくなってしまったけれど、まあいいか。

 開演前の簡単な振り返り終了。

 それにしても、若い娘が飲んだくれて、あられもない姿を見せつけるのはなぁ。
しかも、自分の部屋に見ず知らずの男を連れ込んで、しかも自分の会社の寮に。
さらにはこの事実が理解できないほど泥酔するまで飲むことが(以下略。

 どうも、この会社は家具を作る木工所らしい。
朝から夕方まで椅子やらテーブルやら黙々と図面を引き、木材を切り、
組み立てて商品を作る日常なのだろう。
この日常だからこそ、そこから離れるとそれぞれが強烈過ぎるキャラクターで
傍目から見ればぶっ飛んだ行動をとりがちになるのはよくわかる。
このぶっ飛び具合を「寸止めの美学」で見せる塩梅がなんとも言えなくて、
ああしなくては、やってられない感じが大変良いのです。

 ついでに「職住接近」ってなんかいいよね。
さらには朝、昼、晩と三食まで会社の福利厚生で食べさせてもらえることはとても有難い。
がだ、そうして「生存」を大事にすればするほど経営が立ち行かなくなるのはなぜ?

 まあ、時代の流れが「平凡ではない」ということに価値を置くようになったともいう。
突き詰めると「平凡であればあるほど、居場所をなくす」時代になった、ともいう。
がだ、非凡を貫いて、その才(=差異)を酷使して成果を上げても心身共に疲弊はする。
疲弊を忘れて我をなくして呑んだくれたところに「平凡」が飛び込んできた。

 「人と違うことを平気でやることができる」人に平凡は憧れ、
「人と違うことを平気でやることができる」人は平凡に憧れ、それぞれが響きあって
流れのままに一緒になったけれど、それぞれがそれぞれのもととする世界が違えば
徐々にしっくりこなさが現れて、時間とともにひどくなり、また我を忘れる。

 我を忘れるところによりいやらしい人間がやってきて、利用して、木工所を乗っ取る。
その様が「働く人」に対して冷たくならなければうまく回らない世の中になった、
ということを思い出して、正直戸惑うのです。

 働く人、というものはそれぞれ不可侵の領域を持っていて、
その領域を知らない人に踏みにじられるとものすごくしんどい。
けれども、怒りを出したくても不可侵の領域によって生み出される
「誇り」が邪魔をいい意味で発揮して出せない。
それでもしんどいのは変わらない、次第に限界点超えて
超えた結果が「裸でスキップ」することだったのね。

 愛おしいが、切ないな。 

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

きらら 「こども廃業」

「大人」というものの概念を疑ってみる。


 表演空間の色目があまりにもポップ過ぎる。
鮮やかな白、とはこういうものかという色をベースにパステルの青とピンク。
・・・これ、クリーク・アンド・リバーが経営に参画して以来のサガン鳥栖じゃないか。
しかもアウェイ用の色目、考えてみるとアンブロって嫌味にならない色の置き方をする。
2014年ワールドカップ後にブランドが消滅するのが大変惜しい。
それにしても2013シーズンからのウォーリアの色目はなんかや(以下略。

 そんなことを思っていると表演空間を演者が上へ下へと細かく動いている。
動くことで空間自体が「びっくりばこ」のような仕掛けであることを
それとなく見せている仕掛けに感心してしまう。

 中身はぶっちゃけて言えば「アダルトチルドレン」の話しやら、「服従」の話しやら、
「大人」というものに隠された数多くのドロドロとした暗黒、というものをおしゃれに見せた。

 ・・・ふと思う、「おとな」っていったいぜんたいなんなんだ?
「日常」というやつを「自由」に生きることができるから「おとな」なのか?
「夢」と呼ばれる「理想」を追い求めることができるから「おとな」なのか?
 これらはしっかり捕まえておかなければ、いつの間にかそこにいて、
いつの間にかそこから消えてしまう。
しっかり捕まえることは簡単なことじゃない。
ということは、「おとな」を生きるということはとても簡単じゃない、ということ。

 そんなことを考えず、人生をより好みせず生きていくことなのだろうが、
わたしたちは不幸にも「世間」というものを知らず、もしくは「世間」を知りすぎてしまった。
知らなくても、知りすぎても、痛い目を見てしまうし、疲弊してしまうわけで。

 より好みせず、人生を生きてしまったら人道的に「踏み越えてはいけない場所」へ
足を踏み入れてしまう、その先に見えてきた「現実」というものは斯様にえげつなかったのか。

 その「えげつなさ」を隠して、と言うか「ごまかし」て、「大人でございます」と大きな顔をしても
なんか細かい所で大人になりきれていないじゃないか。
・・・隙間がない、といっていながら実際はものすごく隙間だらけだよ。
その隙間に付け込んでよりえげつなく、より「おとなのふりをした子供」がお金を作る。
そしてその隙間と別の隙間の間で大きなお金が動いてしまう。

 その様子を冷静に見つめるためには「こころ」が必要だ、という。
この「こころ」とはわたしのどこにあるのだ?
・・・あ、この問い、わたしが子供の頃よく抱えていたやつだわ。
大事に抱えて、こうして演劇というものに触れて暖めていたらひとつの結論にたどり着いた。
「こころ」というものは「脳みそ」という器官が創りだした「思想・思考」というものなのだろう。
だからこそものすごく硬くて、重くて、厄介だ。
他人は「考え過ぎ」だとか言うけれど、考え過ぎるほど「転がして」おかなければ
肝心なときにベストの「こころ」にならないわけで。

 こういったお話を真面目にやればやるほど重たくなって胃もたれのひどい見後感になりがちだが、
そこにあるものすべてがポップだからそういった胃もたれがないのです。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

時間堂「ローザ」@枝光アイアンシアター

本当に「革命」ってなんなんだ?


 夏にぽんで見た時は物語を味わえなかった・・・正直言って。
最近、剣呑かつ、陰湿な空気を感じるとその場にいられなくなる。
自分は自分を何とかしたいのに。

 そういうなんだかんだを感じすぎて、ふと考える。
「普遍的」とはいったいぜんたいなんなんだろう?
あなたにとっての「普遍的」がわたしにとってそうではない。
逆にわたしにとって「普遍的」なものがあなたにとってそうではないこともある。
この二つの事実をきちんと飲み込めることができたらそれはそれで素晴らしいことなのだが、
現実の生活はこの二つの合間に挟まれ、悶え、そして苦しんでいる。

 その挟まれ、悶え、苦しんでいるグダグダ感を思い、枝光アイアンシアターおなじみの
子どもたちの集団が放課後、劇場に集ってなんだかんだしているところを見ながら
「わたしが演劇を欲していたあの頃」や「私は演劇にどう入っていったか」ということを
あれこれと考え、「結局、わたしは私の望んだ方向に多少なりとも歩けてはいる」と納得したわたしがいる。

 わたしと同様に板の上にいる演者も福岡公演よりもリラックスしていないか?
ゆるりゆるりとウォーミング・アップをしながら子どもたちと遊んでいる。
遊びながらも準備は十分できている。

 そうしてお互いがニュートラルな状態に入っていったところを見計らって
ふうっと廻りが暗くなり、静けさを打ち消すかのようにドスンドスンと音がした。
・・・ああ、これが「空気」が変わる、ということなのか。
 ローザ・ルクセンブルグ、という一人の女性が「殺された」。
福岡では「銃」によって殺された、と思い込んでいたところを導入部で
じわりじわりと「殴り殺された」ということが分かる作りになっていたが、
枝光アイアンシアターでは最初から「殴り殺された」という空気がそこにできていた。

 というか、「テロ」という行動を「演劇」で、なおかつシンプルに表現するとこうなるのか。

そして、彼女の「命日の法要」らしきものがあり、その場所での思い出話を通して
彼女に関わっていた多くの人たちが抱えている、もしくは抱えていた
「誰にも言えない秘密」というものがいつの間にか炙りだされている。

 革命だ、なんだと言ってもお腹は空く、人を好きになるし、嫌いにもなる、
綺麗なものは綺麗だし、美しいものは美しい、醜悪なものは醜悪だ。
そういった様々な感情が「自然な形」で表現されるとかんかくは 「解きほぐされて」しまい、
この結果、人間というものはどうやら二つの感覚を持っていることに気がつく。

 「変化」というものを「受け入れて」いく「開いている」感覚と
「変化」というものを「拒んで」しまう「閉ざされた」感覚のふたつに。

 このふたつの感覚が平衡を保っていることが一番理想的なのだろうが、
たくさんの状況や環境によってどちらか一方に触れてしまう。
その「一方に触れてしまった」、という「現実」を見ることで、
人は「敗北感」というものを抱え、こじらせて「無力感」にまで転じさせてしまう。
だから人間が生きていく、ということは結構面倒で厄介なのかもしれない。

 だからこそ、ローザ・ルクセンブルグはああいう風に立って、居て、振舞ったのかもしれない。
この面倒で、厄介な出来事の中でも、「女性」としての「わたし」を貫こうとすることで平衡を保とうとしていた。
この「わたし」を貫けば貫くほど世の中のあらゆる性別、民族、出自、立場を始めとした
「人間が人間を縛る要素」から自由でありたい、という思想が鮮明になってきている。

 ほんとうの「革命」とは、異性愛者も同性愛者も、金持ちも貧乏人もそれぞれに
役割や居場所があって、それらを侵さず尊重することなのだよ、とそれとなくわたしに教えてくれる。
だから、それぞれの”世界≒InterNational”を”変える=Change”するから
”Interchange”なのかもしれない。

 しかし、外の現実は男である、女である、異性を愛している、同性を愛している、
肌の色、出自、学歴、職場、職種、職業、居住地、なんだかんだとほんの些細な違いが多すぎて
その違いを自らが作り、自らが縛って生きている人が大勢を占めているようだ。
そんな些細な事に縛られると、考えが硬直し、考えが硬直すると生活が硬直する。
硬直すればするほど問題は深刻さを増し、自由である、もしくはあろうとする存在を圧迫する。

そういう恐ろしさを今回は空間のごゆさと、子供たちの「素直さ」で充分に味わえた。
ああ、ビールが飲みたい。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

マームとジプシー「あたしンち、通過のちダイジェスト」+北芸プロデュース 「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」

「喪失」、そして「再生」。

 旬のものはなるべく旬のうちに。
これ、人間生活に関わるものすべてに共通すること。 
 
マームとジプシー「あたしンち、通過のちダイジェスト」
 導入部が今、そこに存在する全てに「意味」が「隠されている」という観点で
やばいを通り越して、エグい、恐ろしいほどにエグい。
人は誰しも他者に覗かれたくない「無意識の扉」というものがあって、
いつもは強い意識というものによって厳重に守られてはいるが
こういう形で呼びかけられたら無意識のうちに扉を開けてしまうじゃねーか。

 こうしてうっかり開けてしまった扉から飛び出してきた、
いままで生きていた中で遭遇した「失う」という感情が
手を変え、品を変え、これでもか、という勢いで目に飛び込んでくる。

例えば住む家を失う、家族や恋人という大事な人を失う、たくさんの大事なものを失う、
そしてほんの少し前まで続いていた様々な「出来事」を失う。
「失う」ということはその場所に「帰れない」ということなのかもしれない。
この「事実」を感じれば感じるほど私は打ちのめされるのだ。

 徹底的に打ちのめされて、結果、「負のエネルギー」というものを
じわじわと感じてしまうから、このエネルギーによって脳みそを揺さぶられて吐きそうになる。
この気持ち悪さがくりかえしでやってきて、だんだんうざくなってきそうな所で
最後の最後に「よいものや感情」がまだほんの少し残っていることに気がつくように仕向けられている。

 例えば、「道路拡張」に関わる立ち退きであるのならば、
結構な金額のお金を「補償金」と言う形でもらうことができる、という
ある意味「プラス」のこともあるんじゃないのか?
そこに目をつぶって「失った」ことを嘆くのもなぁ。
 けれども、人間の現実はなかなか「切り替える」ことを自らに許すことの
できない弱さをなかなか克服することができず、ウジウジしているさまが存在している。
この「弱さ」に正面から向き合っていくことができたらどんなにいいだろうか。

 その感覚を受け取って繋がる、と言うことは意識していなかったが。

北芸プロデュース 「LAND→SCAPE/海を眺望→街を展望」
 
 公演時間130分、長ぇな。

 私はどうやら海の底にいて、ここから何かを見ているようだ。
天井に船があって、その下の表演部に演者がワラワラと集まってアップをしている。
この塩梅が見手に物語の始まりをそれとなく教えてくれる。
・・・それにしても、バックステージから「本水の音」がサラサラと聞こえているようだが。
さらには「本水の音」に加え、水琴の音に耳を澄ませていると
気がつけば小倉の旦過市場から馬借、紺屋町近辺が持つ雑多な喧騒感が
そこにいる人の数だけ視点や観点をすこしずつずらした繰り返し、という形で再現できている。

 この視点と観点のずらし方、違えさせ方がマクロからミクロへと仕掛けられていて
視覚というものを介して何かが体の中に入ってくる。
ここにある意味「クラブカルチャー」から来るラップ、テクノミュージックによる
「グルーヴ感」というものが絡みに絡みあって聴覚というものを介してこれまた何かが体に入ってくる。

 そういうふうに「からだを使って」見るように仕組まれているから、時間の長さを感じない。

 ・・・なにかって、いったいなんなんだろう?
もしかしたら「わたし」それぞれが持っている「物語」なのかもしれない。
ここがそれぞれに持っている物語をこの場所に持ち寄って自身の持っている物語と
響き合わせながら見ているといつの間にか「思い出」という風が吹いていた。

 「思い出」という風に乗って私の感覚は劇場から、そして街から離れて
空と海へ向かい、さらには「死ぬ」というより深遠なものをうっかりとのぞいてしまった、
のぞいてしまったからそこに吸い込まれそうになった。

 が、ぎりぎりの所で「生きる」ということに掴まっているからこうしてここにいる。

 この二つの物語を通して「喪失」と「再生」を同時に感じることにぞくぞくした。
同時に感じて、そくぞくする、ということは、同時に私自身に向きあう事でもあるのだろう。
さらには、わたしが負ってしまった過去の傷にも向きあう、ということなのかもしれない。
・・・ものすごくしんどいし、ものすごく大変だけれども、そうしなければ前にも後ろにも進めない。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

劇団go to 「タンバリン」

つよいはよわい、よわいはつよい。

 演劇も、ボクシングもシンプルだ。
そんなことを強く感じる表演空間を作っている。
面積も、エプロンの高さも、ストレスなく目が届くように作られていて
まるでロープの張られていないリング。

 さらには技術指導という形で”sparky-K”、もしくは「鬼塚勝也」の名前を聞くとは。
現役引退後博多の呉服町あたりでボクシングジムを開いている、という話を聞いたことはあったが
こういう形で「演劇」の中に入ってくるとは思いもよらなかった。
まあ、あれから結構な時間が経ったけれど、無事に積み重ねることができて何より。

 ごとーかおるさんもごとーかおるさんだ。
前いたk2t3を離れて、新しく「自分の庭」たるgotoを立ちあげなければいけないほど
「表現したいこと」が漲りだして、このマグマがかなりのエネルギーで、ものやことが
ギリギリまで「リアル」を追求し、ここにおしゃれな感覚を加えてきた、という作りになっている。

 演劇をやり始めてから、ボクシングやレスリング、柔道を始めとしたすべての格闘技は
「コミュニケーション・スポーツ」である、ということがわかってきた。
見る人にとっては「単なる殴りあい、組み合い、投げ合いじゃねーか」と思う人もいるけれど。
がだ、「格闘技」をそういうふうに「単純」な形で捉えるのならば、死人が大量に出てしまう。

 それほど危険なことなのに、稀な形でしか死人が出ないようになっているのはなぜだ?
・・・「コミニュケーション」の要素がここで大きく関わってくるのですよ。
人は誰しも「本能」だけで動いているわけではない、かと言って「理性」だけでも動いているわけではない。
「殴る」や「蹴る」、そして「組む」という「身体言語」というものを使って相手と「会話」をしている。
この「会話」をより良くするために身を削るほどの修練や鍛錬を「生活」としなければならない。

 だから格闘技は突き詰めると哲学へと変化していくのかもしれない。

 そうなるまでの過程をふつうの生活を生きている、普通の女性に落としこむとこうなるのか。
ボクシングという「身体言語」を教え、教わることでお互いがお互いを変えていくさまが心地よい。
けれども、ここに派生する「変化」というものは若ければ若いほどリズムやスピードをもって生まれては来るが
年を取ればとるほどリズムやスピードがゆっくりなものになり、不思議な焦りが生まれる。
「懸命にやっていてもそれなりにしかならない」故の「前に進んでいないのでは」という辛さ、ともいう。
 この辛さに「現実の生活」という「過酷」が重なれば「新しいこと」がうまく体になじまなくなる。

 心が折れそうなほどしんどいけれど、他者とボクシングで会話をするという希望が支えていた。
けれども、寄る年波はその希望を容赦なく打ち砕いたけれど、「出しきった」充実感がそこにあって
歩みはゆっくりだけれど、また「新しいわたし」へと進んでいくのだろう。

これは、ある意味、「誕生の物語」とも言い換えられるのかも。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

集団:歩行訓練「不変の価値」

お金を稼ぐって、なんなんだろう?お金を使うって、なんなんだろう?


 ・・・元銀行、という空間をうまく生かしやがる。
というか、前の年のちょうど同じ時期、この演目の初演を福岡で見た。
ちょうどVillage80%というカンパニーといわゆる「対バン」形式の演劇という形で。
その時はうまくお話に入れなかったな、うん。
どうしてうまく入れなかったのかなともろもろごとを思い出していると
ロビー近くで「お金のやり取り」という「演劇」が始まっていたことに気がつく。

 そのやり取りを耳で追いながら、まず「商品」ってなんなんだろう?
というか「もの」だよね。
 大体、ものというものはそれ「単独」で存在するならば、自ら動くことができない。
「こと」と「ひと」が「もの」に介在・介入しなければ「価値」と言う形で自らを表出させることができない。
その作業の「プロセス」がじつは「商品」というものなのだろう。

 この前提を携えて「演劇」を一度解体してみよう。
解体してみたら驚いた、改めて驚いた。

 演劇という「商品」が今、ここにある。
私たちはこの商品に「入場料」という対価を支払い、「参加」することができる。
いま、ここに参加するため、支払ったお金が2000円。
それがフルハウス60人で1ステージあたり12万円、これが3つで36万。
ここから必要諸経費を差し引かなければいけないわけで。
場所代、設備使用料はえだフェスの絡みで無料、としても現地までの移動におおよそ3万、
テクニカルサポートに8万、宿とメシ代で5万、広報経費として6万、記録経費として5千円、
輸送経費に3万5千円、舞台経費に2万3千円、音響、映像経費に3万5千円。
差っ引きに差っ引かれて一人頭に直すと1500円なり。
残り500円が「利益」というか、「物語」に「参加」するための「参加料」だったのか。

 「傍観者」としてこの物語を感じたいのならば、この500円を「ネコババ」しても悪くはない。

 しかし、これから「演劇」という「商品」をどう「提供」するのか、を見ていくわけで。
そこに携わっている人々の心の声がじわじわと聞こえてくるともっと聞いてみたい、
さらに知りたい、となればこの500円をネコババできるわけがなく、
物語に参加する=参加料を支払うタイミングを伺っている。

 この行動を入口にして「演劇」というものから「経済活動」の本質へと
じわりじわりと進み行き、労働とそこについてくる収入、そして支出の関係性、
さらには「経済活動」が時代によってどう移り変わりが進んだか、というところまで見えてきた。
 これが「お金から社会を見る」感覚、というものなのか。

 サッカーのJリーグもこういった形で「試合」という「商品」を提供していて、
違い、といえば集まるヒトも、扱うお金も桁違いに多い、ということ。
扱うものや事が多すぎて、質や量にばらつきが目立つと「クラブライセンス」という
形で「管理」しなければ大変なことになってしまう。

 こういったことを考えつつ、ひと通り経済と時代を見たあと、
街に出て500円でなにができるか、500円でなにをやったかという
「現実」を見たことで「社会」を立体的に深く見ることができて、
演劇やサッカーはだんだんと「社会」に必要とされてはいるが、さらに求められるには
いろいろとやらなければならないことが多いな、と言う見後感。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

Capri  「apartment」

「ことたま」という「魔法」。


 魔法、というものを直で見た。とはこのことだろうか?
ラジオやらなにやらでお世話になっているばばさんを初めて生で見るが、
ひとつひとつのパーツがでかい、そして懐もでかい。
もしかして、自分がメディアの世界にいるか、彼女が堅気の世界にいるかしたら
好きになっていたかもしれない、それくらい安堵するのだ。

 けれども、わたしという「人生」に彼女は居るのだろうか?

 そんなことを感じながら表演空間へ。
今回はどうやら「高い場所」に「プライベート」な空間を作り、
「低い場所」に「パブリック」な空間を作る「二重の構造」に仕立てているようだ。

 「数式」をめぐる「愛」の物語と「愛」を「ロジック(論理)」とするならば
ロジック(論理)で愛、というものを語ることができるのだろうか?
もしかしたら「愛」というものは「パッション(衝動)」であって、
「ロジック(論理)」ではないのかもしれない、「人生」がロジックであるならば。

 故に、パッションというものは不確定要素となることが多々あって、
ロジックの「隙間」に飛び込んで「化学変化」というものを起こしてしまうのかもしれない。

 これが「恋愛」という「魔法」の正体なのだろう。

 だから、右手にパッション、左手にロジックという反町康治の言葉は正しいのかも。

 ここに、パブリックとパーソナル・プライベートがマーブル模様に混ざっていて、
というか混ざり合うという感覚すらもわからなくなってしまうから
「生きている」という熱が生まれ、他者に働きかける。
この働きかけが「出会い」となり、出会いが積み重なって「わたし」は「わたし」となる。
おしゃれな仕掛けとして「サンドイッチ」という食べ物が存在するわけだ。

 ノーベル賞をめぐって引っかかるもろもろ事に関して、
「あなたが引っかかるところはことたまの良し悪し」だったのだろう。

 「生きている」という熱が「言葉」にはあって、他者に響かせることなく
自らの中に飲み込んでしまわせるとそりゃ苦しくなるだろうよ。
この苦しさを抱えて毎日を積み重ねている。
もしくは果てしない「つづく」の積み重ね、というのかもしれないが。
 このつづく、に異質なものがたまたま入り込んで狂いが生まれるから
良きにせよ、悪しきにせよ、何らかの反応が生まれる。

 ここで生まれた魔法の言葉は本当は言葉自体が魔法なのだろう。だからこそ軽々しく扱えない。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR