謎のモダン館 「蠍城の麗人」

「あい」と「いとしい」。



 このカンパニー、初期から色々見せてもらっている。
白濱さんはそうではない、とは言っているが、「夢の遊眠社」やら
野田秀樹の「言葉遊び」を巧みに生かして、表演空間
そのものにもこだわりを見せた演劇を見せていたが、
今回は「素」に近い表演空間で、演者それぞれの技量を
十分に見て貰いたい、という腹づもりのようだ。

 その心意気が開演前の「黒滔々たる闇」としてきっちり見せている。

 白濱さんが一人芝居フェスティバル「INDEPENDENT:FUK」の予選に参加して、
不思議少年の大迫さんに次位で本選に参加し、相内さんにとっては
「最大の発見」だったらしく、11月のINDEPENDENTに「呼ばれて」大阪進出、
そこで関西の隠れた人材と「意気投合」してPERFECT-Styleという
大変面白い試みを自ら企画して、というここ一年で学んできたことや繋がりが
血となり肉となってこのカンパニーに「落とし込めて」行くことができたな、
と感じながら物語に入る。

  …なんていうか、すげぇ。
板の上にいる各演者が自分の持てるギリギリの力量でムーブマイムをして、
なおかつきちんと「からだ」でしゃべれている。

 ある「商店街」の「寄り合い」の場面をそうして作り、
一度モブ、という形で崩して、なめらかに「探偵事務所」の面接の場面に移行して
またモブで崩す、この「締まって、緩む」感じを上手く作っていくことで
見手を知らない間に現実から「不思議な世界」へと巻き込んでいく。

 世の中のえぐさと愛がこれでもか、と混められている
「嘘と真実で作られた」カオスという渦の中にわたしは生きているのだ、と
思い知らされてしまう世界を「ヤンキー」というある意味、「緩め」の「異次元」を
「現実」と「カオス」の両方の間に「緩衝材」として効かせて
更には世の中には「普通の人」と「魔法」という「高次元の伝達手段」を使って
「違う世界」にアクセスできる存在に分けられていて、知らない間に
お互い、せめぎ合っている、というところまで表現できている。
・・・これを中世ヨーロッパでは「魔女裁判」というのだが。

 「真っ直ぐな想い」は世の中には必要なのかもしれない。
必要だからこそ、そうした想いを持っている人が力を持って欲しいと望むもの。
けれども、実際、そうなってしまうといつの間にか「本来の想い」から
じわじわと「離れる」ようになり、そうなることで「本質」というものが歪み始め、
この歪みがいつの間にか「世界」を破壊してしまう。
・・・そんなことは厭だ、とは薄々わかってはいるけれど。

 「真っ直ぐ」だからこそ、「異質」なものと分かり合えることが難しい、とも言う。
けれど、力を持つ過程で自らを曲げて異質なものに理解を示せば示すほど
(もしかしたら、これが「捏造」というものの始まりなのだろう)
本質から遠ざかり、歪んでしまう、ということもそれなりにはわかっている。

 ・・・だったら、「本質」というものは一体全体、どこにあるのだい?
逆に「異質」なものはどこにあるのだろう?
もしかしたら、そうやって、「人生」という「領域」に境界線を引く、という動き自体が
「愚かなこと」なのかもしれない。

 更には、「人生」という「領域」には「あい」と「いとしい」しか存在していなくて
私自身、もしくは私の周囲にいる存在にこれらを与えている。
この「働き」を手放してしまったり、手放さざるをえない状況を
「死」というのかもしれない。
「手放す≒死」という状況を通じて、私たちは何かに気が付き、
そうなるように仕向けられるのだろう。

 そして失った「あい」と「いとしい」の残骸や残り香を
「からくり」を使い、感じていく。
・・・なんか、切なくて、油断も隙もない。

 チトセピアホール、遠すぎ、そして夜は迷路。
ダイエーが演目終わる前に閉店するから、外への出口がわからない。
けれども、最終の博多行き特急の時間は迫る。
慌てて出て、路面電車で浦上の駅に向かい、なんとか間に合ったから良かったものの。
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

rawworks 「素敵じゃないか」

わたしたちには「未知」なるものがあまりにも多すぎる。


 「コタツのある部屋」から真っすぐ歩いて通町筋、
上通りのアーケードを通って、ハコ近くのセブンイレブンで
資料のコピーを取り、時間がありすぎるので休憩コーナーでコーヒーを飲む。
もう時間的にいいかな、とハコに向かって、たどり着くと
「もう少し後になってきてね、近くに本屋もあるよ」と
言われたのでおとなしく向かう。
本屋に行くと、時間を忘れてしまいそうで、大変だ。
気がつくと、もうすぐ始まる、慌てて来た道を戻る。

 この演目は、数年前枝光アイアンシアターで
オリジナルを見たことがあって、その時の空間のつくりが
全体を白い布でおおったふんわりとした空間だった。

 今回はガラッと変化させて、見方によっては
モンゴルのゲルというテントにも見えるし、あづまや、
もしくは「ソフトな鳥カゴ」、さらには学校の校庭にあった
「遠心力」を楽しむあの遊具、さらには「5月祭り」の
メイポールダンスの御柱にも見えてしまう空間のつくりだ。

 ものすごくおしゃれなんだけれど、演じ手にとっては
相当フィジカルを要求される「甘くない」空間になっている。
事実、ムーブマイムも空間のつくりに即している。

 えだみつでオリジナルを見た時は「ことば」と「からだ」の両方を
丁寧に、丁寧に「響かせていく」ように仕向けているから
物語の「春夏秋冬」の空気感をすごく感じることができた。
ここに「子供ができる、できない」の状況が現実的に絡んで
子供ってなんなんだろう?家族ってなんなんだろう?
ということをくっきり、はっきりと考えてしまった。

 今回は演者ふたりが半端ない「身体言語」を持っているし、
演出のみきてぃが「身体言語」を引っ張りだす技と術の
引き出しの数が半端ないほど多い。
この半端無さが掛け合わさって、オリジナル版では
「言葉」で「処理」していた部分までも「からだ」で喋っている。
「からだ」で喋っているからかもしれないが、
「春夏秋冬」の空気感、というものが不思議に感じられなかった。

 けれども、今回は季節感、というものを通り越して
「からだ」という「宇宙」を感じてしまった。
この「からだ」という「宇宙」の一つ一つがそれぞれ関係し合い、
影響しあう、ということが「生きている」というのかもしれない。
そんなことを考え、思わせる作りにまで仕上がっている。

 さらには「生きている」ということの全てには
「因果」というわたしのあずかリ知らないところが
絡んで、影響を及ぼしている、というところまでも
きっちり見せてしまっているところが正直、切なかった。

 こういうところをきっちり見せてしまうと世の中のあらゆることに
「自業自得」と言う言葉を安易に使う、ということが
実はものすごく恥ずかしいことではないだろうか、
そんなことを考えてしまうくらいにじみ出てくる「たましい」が
美しい、これこそが本当の「美しさ」なのだろう。

 こう言った「綺麗」ではない「美しい」に触れてしまうと
本来のテーマである「家族ってなに」やら「子供を授かるってなに」という
ことがどうでもいいや、そんなことはどうすることもできなくて
そうなったら、そうなった時にできることをすればいいのでは、と
思ったら、あらゆることが「解放」されたようだ。

解放されて、テンション上がり過ぎ、コーヒーの飲み過ぎで
帰り道、気持ちが悪くなって吐いてしまったのは内緒だ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

iaku 「エダニク」

「自分の庭」の境界線はいつも曖昧。


 自分は、こうやって演劇をしている他に生きていくために
ファミレスの工場で朝から夕方まで働いている。
仕事の内容は、午前中は深夜から早朝にかけて
各店舗に商品を出した後片付け、翌日の商品出しの準備。
午後は箱洗いとゴミ庫の掃除。

 ひと仕事終わって、ハコにたどり着き、いつもの場所に座る。
冷蔵庫のようなひどく寒い場所にほとんど一日いるわけだから
心と体の両方がものすごく硬い、カチカチに硬い。
どちらもカチカチに硬くなると、他者や物事に対して接し方、というものを
慎重にしないとものすごく大変なことになってしまう。

 工夫を学んで、演劇に活かし、活かしたものを仕事に落としこむ。
この繰り返しが5年間続いている。
ほんとによく続いている、大したものだ。

 このお話は食肉の解体工場のおはなし、ちょうど自分の仕事の前段階。
あの場特有の「寒さからくる心とからだのこわばり感」がよく出ている。
寒い空間でヘタすると大怪我しかねない労働環境で長時間働いて、
気持ちとからだを張り詰めた状況を「緩める」休憩時間。

 カップ焼きそばを食べたり、「切り替え」のやり方は人それぞれ。
そうして緩めようとした時に脳髄、どこかになくした、探せと言われたら
大変だ、さらには変なこだわりを持つ牧場の息子が余計なことを言って
そこにリストラの渦中の人が「脳髄テロ」を起こしてさあ大変。

 物語が進むに連れて、自分自身がついこないだまで体験したことを
「演劇を見る」と言う形で追体験していることに気がつく。

 ハンバーグ工場の仕事の中でリズムが揃わない、というか
最近、「ああせい、こうせい」と「態度」を強要する人が新しく入って来たり、
仕事の状況がそういうふうになってきたことが多くなり、心も体も疲弊していた。
・・・こうなったら仕事も、人生も楽しくなくなってくる。
ほんま、けったくそ悪い、やってられへん、と爆発飛び越えて
暴発させること数回、結果、事を荒立てて大変なことに。

 ・・・わたしも、わたしの世界において筋は通している。
けれども、「筋を通す」という行動が「自分の庭」の基準に於いてだから
こういう大変な事態になっているのかもしれないよと。
 仕事、というものは「個人」ではなく「集団」でやるんだろ、
その集団の中で「役割」というものがあって、その「役割」を
どう工夫してやりこなしていくか、が「働く」ということなのじゃないのかな。
それをいちいち「やってられへん」と荒立てていたらどうなる?

 こういうことを言い含められ、諭されたのだな。

 その後、作業しながら「わたしの至らなさ」を思い出し、考える。
どうして、「やりにくい」とぐずっているのだろうか。
理由は、「自分の世界」というか、「マイルール」というものを
他者から、もしくは他者に押し付け、押し付けられることがあって、
思いや考えを汲み取っていない、汲み取ることができないことについて
苛立ちを覚えていたのだろう。

 さらには人と人の間を感じ取る「アンテナ」が壊れてしまった人の
言動や行動をうまく処理できなかったり、「表現」を使って自らの
自尊心を保ちたい、自らを誇示したい人の攻撃までも処理できない。

 ・・・なんでそんなことするの?
それぞれのプライド、それぞれの「差別」がお互いを
邪魔していることに気がついてよ。

 そんなことが今まで積み重なっていて、さらにダメを押されたらそうなるよね。
ましてや、「庭のこと」をあまりよく知らない人から文句言われたら
これを無意識のうちにやられたらもっと暴発しても仕方がない。
働く以上はそこを堪えなければいけないのだが。

 そういうふうに感情を吐き出し、働ける状態になるまで「謹慎」と言う形で
心と身体を落ち着かせて、懸案を処理して、「培った技術」を次の世代に教える、
という「新しい役割」があって、また働き始める。
・・・そういうものなのだ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

unit96文字 「14歳の国」

「内面的」演劇と「外面的」演劇。


 どうして、この「物語」に「怒り」を通り越して、「破壊的」な感情を示した
「ヒト」、もしくは「存在」がいたのか、「あのとき」のわたしは
正直、わからなかった。

 この戯曲を数年前、「爆走蝸牛(現14+)」というところがアレンジして
公演を打った時、個々人の「感じたこと」の違いがもとで大変なことになった。

 テキストレジーの問題なのか、はたまた戯曲とその背後にある
「社会問題」との付き合い方に問題があるのか、色んな要素を考えてみた。
もしかしたら、わたしの言葉にも問題があったのかもしれない、ということまで
思い込んでしまって、悪い意味で「疑心暗鬼」が止まらなくなり、
半ば心を閉ざした感じになってしまった。
この状態を立て直してすこしずつ何かを取り戻し始めたのがここ数ヶ月。

 で、この戯曲をアレンジ無しのガチで演る、ということを何処かで知って
ちょうどいい塩梅に日程も空いている、よし行こう。

 さて、14+は不思議な時間、不思議な空間に迷い込んだかのような
表演空間で、ものすごく無造作、ものすごくドライ、そして言いようのない恐怖感。
自分はちょうどその時ハンバーグ工場の仕事がえらくハードで、肉体的にも、
精神的にも疲弊していたようで、ぽんプラザへの移動途中に
近くのネットカフェで「シャワー休憩」を取らなければいけなかったせいか
余計に「歪み」というものを感じた。

 今回の96文字版はオーソドックスに教室の作り、戯曲のト書きにほぼ忠実。
客席と表演空間を隔てる「結界」として本物の「鉄の鎖」を使っていることに
とてつもない「重量感」と半端ない「重圧感」を感じてしまう。
無造作でもないし、ふつーの湿り気、恐怖感、というものもあまり感じない。
自分も精神的にも、肉体的にも疲弊感、というやつがあの頃よりは薄れている。


 日常の生活でそれぞれが持っている「気に障る言葉」を無意識、
または意識(意図)的に周囲の他者に「ぶつける」というやり取りが
いらいらを誘発して、ところどころで「戦闘態勢」に突入する。
その流れを14+は「歪み」で見せて、96文字は「重さ」として見せたのかな。

 この「歪み」と「重さ」、という違いがもしかしたら、
「内面的」と「外面的」の違いにつながっているのかもしれない。
戯曲自体があの「酒鬼薔薇事件」を下敷きに書かれているせいか、
もしくは「閉塞感」というものを的確に写しているせいか、
言葉一つ一つの破壊力が半端ないから余計に感じる。

 14+は「内面的」な歪みを見せているから、空間自体に
「大したことはない」が充満してはいるのだが、 ところどころに
「危険」が潜んでいて、「狂気の中」で今日私たちは生きている、
故に「狂気」というものから生き延びていくためには
正気を保って生きていかなくてはならないというメッセージを貰った。

 逆に96文字版は「外面的」な重さだから、
空間自体に「自意識過剰」が充満している。
「自意識」というものと格闘しようとして、
結果どうしようもなくなるところまで見せた。
故に「あの出来事」は起こるべくして起きたのから、仕方ない。
というメッセージを貰った。

見比べて、落としこむことができて、「あのこと」の本質がまとまった。



 ・・・正直、なにが「自意識過剰」というのか、未だにわからない。
すべての感情、特に「マイナスの感情」をこれでもか、と
所構わずぶつける人がいて、そういった人に対して
「わたしは鏡」というふうに「ミラー・ゲーム」を仕掛けてしまう悪い癖が
もしかしたら「自意識過剰」というものなのかもしれない。

 さらには、無視のやり方が分からず、ミラー・ゲームを仕掛けたままだから、
自らの自意識過剰を鏡を通してみた相手はさらに逆上して、「態度が悪い」とか
「人生そのものが悪い、お前みたいに落ちぶれたくはない」とか
「演劇」とは関係のない所やことでさらに負の感情をぶつけてくる。

 わたしも、「認められたい、もっと称賛がほしい、ついでにお金も、地位も欲しい」
という鬱屈が潜んでいて、
その鬱屈から生み出された「自意識過剰」というものをすべてを得て、持っている人を
鏡にしてミラー・ゲームをやらかしていたのだろう。
さらに、やらかしているのが問題なのに、問題を棚上げして誰も信じられず、
自分すらも信じられないように自分で自分をわからないように追い込んでいるから
質が悪い、始末に負えない。
・・・その状態を「他人様じゃねぇか」と一刀両断することを
教えてもらうことがなければ今頃、どうなっていたことか、正直、怖い。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ポークパンダ三歳 「コタツのある部屋」

それが愛なのか、うん。


 えげつない、ぶっ飛んでます。それでいてすげぇ現代アートが効いていて、哲学的。

 「倉庫」の構造をよく生かしている表演空間だ。
外の様子は春が近づいているとはいえ、まだ冬だ。
なのに客入れ音は蝉の声、だけれどこたつ、その上にウィスキーの瓶が置いてある。
本棚には柔らかい本から恐ろしく硬い本、どこでもドアのような扉があり、
「絵描き」らしくイーゼルがある横にノートパソコン。
そこに存在しているすべてがシュールさを醸し出している。

 ここに前説なのか、何なのか、飛ぶ劇の大畑が美しいがこ汚い感じで
マネージメントのこととか、ギャラや交通費という「お金の問題」で
ひと通り悪態突いて、強制退場をかますボードビルショー、
またはスタンダップで場を暖める、というかドン引いたところで
「不幸中毒」のお話に突入する。

 まずは「性的欲求」というものを夫婦漫才でぶちかまし、
ここに精神的に壊れた、そのことを隠すために呑んだくれるという生活が
絶妙の複合具合で見せつける。

 この複合具合があまりにも恐ろしく、恐ろしいがゆえに
「現代アート」というものが見手によっては難しいものになる、という
ひとつの現実まで見せている。
・・・要するに、こういうたぐいの芸術はシンプルかつ、単純な「人の営み」と
言うものを回りくどく、ややこしく「こねくり回して」いる、ただそれだけ。
この「こねくり回したもの」が価値を持って、
大金を運んでくる可能性があるのだからこれはこれで大したものだ。

 この可能性、という「胡散臭さ」にヒッピーという「胡散臭さ」が加わって
犯罪ぎりぎりのぶっ飛び具合に変化する。
さらには暴力の果てしのない連鎖とやり場のないエネルギーが
ぐるぐると「永久運動」を起こして「アート」というやつがよりえげつなくなってくる。

 人は皆、誰かのせいにして、誰かに寄りかかって生きているのかもしれない。
がだ、根っこに「私は悪くない」という「開き直り」が積み重なるとどうなる?
「私は悪くない」という「開き直り」は「みんな、誰かのせいにして」に繋がり、
結果、「みんながみんなに寄りかかっている」という現実が生まれる。

 だから、「わたしがあなた」となって「あなたがわたし」となってしまう。
・・・気がつけばいつの間にかふわっと「わたし」と「あなた」を隔てる
「境界線」、もしくは「結界」が崩壊してさらに混乱してしまう。

 これが「茶番」だったら始末におえないけれど。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ナカフラ演劇展 Dプロ

「家族でお食事ゆめうつつ」


 恐ろしいテンポで「シラノド・ベルジュラック」と言うお話をやらかしたら
こんなに悲惨で凄惨過ぎる「恋の物語」になってしまうのか。
というか、この時代、社会が「失った」ことやものがあまりにも多すぎる。

 いや、まあ、どうやっても、どう転んでも人と言う生き物は
どこか足りないところがあって、その足りない者同士が
「浅い知恵」を発揮しあって「きらい」という「拒絶」を示すために
行動したら人の道として「残酷」なものに変化してしまった。

 「拒絶」したことで、「拒絶」された存在に赤っ恥かかせて
居場所なくして自殺に追い込むように仕向けるのはさすがにえげつない。

 ああ、これが「悲劇」の前に起こる「喜劇」なのか。
または目の前にある「大きな喜び」のあとに待ち受けている
「永遠に続く深い悲しみと苦しみ」というものなのか。
そんな重い、想いがいつの間にかふわっと浮かび上がるのが切ない。

 この切なさが次の演目と重なって、人、というか生き物は
生まれて、生きて、死ぬ、というサイクルを繰り返して、次に繋がる。
このことを年相応のスピード以上の速さで見せる「タイム・マジック」の
密度がものすごく濃くて、最後のクリスマスソング合唱の場面で安堵してしまった。

 この「演劇展」、貫かれているのは「人生」というメカニカルかつ
ロジカルな「哲学」だったのかもしれない。
「人」を見る、と言うか「人」を見せていることとあわせて
演劇のひとつひとつが「アート」にまで発展していた。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ナカフラ演劇展 Cプロ

「ズー・ヴァリエーション」


 「死ぬ」とはいったい何なんだろう、「生きる」とはいったい何なんだろう。
さらには「殺す」とはいったい何なんだろう。
このような硬くて重苦しい問いを「セレクトショップ」という「おしゃれの動物園」を「場」にして
「リーディング」という形式を使い、考えてみた。

 ・・・「死んだ」という連絡が入った時、物語が勢いを増している。
勢いがつきすぎているから「私の話を聞いて」という「主張」が
暴力的にエスカレートして、行き着いた先が「あなたたち、わたしの話を聞かなかった、
 だからあなたたちを精神的に殺します、覚悟してね」というオチが怖さを増してくる。

 「私は死んだことにして」という言い訳をすることが一番いけないのだが。

「きいてごらんよ、ひばりのこえを」


 「北風と太陽」を思わせるやり取りだ。

 山小屋、という場があって、その場にものすごく歳の離れた夫婦が住んでいる。
夫は頭のネジが数本外れていて、精神的にも不安定。
妻はそれが我慢できなくて、それでも逃げるのが難しいがゆえにこらえている。
ここに外から若い男がやってきて、その場から逃してあげる、と言われたらどうなる?

 夫は夫でああいった罵詈雑言を吐いてはいるけれど、
本当は一人でいることが怖くて仕方がない。
だから、妻に「しがみつく」ことを選んでしまいたくなるが、
妻は夫にしがみつかれることを拒否している、だからそうなるのか。

 その場から逃してあげる、と言われて心のスイッチが切り替われば
まともな人間は外へと逃げてしまい、残った「こわれもの」同士が
慰め合うように酒を酌み交わす。

 この哀れさを引き継ぐかのようにマクベスの超短縮編へとなだれ込む。

 ヨーロッパやアメリカの文化は「殺人」という行為が当たり前のようにあって、
このことを基礎とした文化だった、ということをうまく見せていく構成がさすが。
わたしたち、日本文化の中にはない文脈だった、ということを思い知らされる。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ナカフラ演劇展 Bプロ

「サマーキャンプ」 


 「スピードの中身」を「論理の飛躍」から来る「飛行行為」と
人の営みを捉えるのならば、この「サマーキャンプ」は
「ものすごく地に足が着いた考え方」から来る「山を登る行為」と
人の営みを捉えた趣として、それぞれ対を成す作りになっているのは
偶然なのだろうか?

 人生の営みにおいて困難や艱難辛苦に対してどう私たちは
アプローチしていけばいいのか、正直、わからなくなるのです。
安易に「切り捨てる」アプローチを主に選んでいくのか、
それとも熟慮の末ベストもしくはモア・ベターを選んでいくのか。

 このことを考えることは「犠牲」とはいったいぜんたいなんなんだろう?
「犠牲」を「外れクジ」と考えたらそれなりにしかならないけれど、
もしかしたら考えようによっては現時点では「犠牲」であっても
何かの拍子で「当たりクジ」に「化けて」しまうかも知れない。
ヘタすると現時点の「当たりクジ」が何かの拍子で
「大きな犠牲」になることのほうが多いかもしれないが。

 化けるか、化けないか、その違い、と言うか「分かれ目」が
「生きる」ということに対してきちんと向き合い、筋を通しているか、
いないか、の違いが大きく関わっているのかもしれない。

 私たちは生きているからもがいて、あがいていて、
苦しいけれど「生きている」ことに向き合って、筋を通しているのだろう。
この行為の先に新しい世界があり、新しい自由もある。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ナカフラ演劇展 Aプロ

前衛的な試み。


 私たちは演劇だけでなく、生活のあらゆる所で「誤意訳」というものを
体と心、さらには他者や物事に対して「やらかして」いるのだ。
というか、私達が心や体で「受容」した「情報」というものを元来の性格や
過去の経験、その他もろもろで培った「文脈」で咀嚼していく。

咀嚼したものを「気づき」と言うかたちで消化(インプット)されて、
これが「身体言語」というものへと変化する。

この変化したもので他者や物事に対して働きかける(アウトプット)するときに
「誤意訳」というものを起こし、「誤解」という反応が起こってしまう。

 メカニズムのお話はここまでにしておこう。

 前座、日毎に交代ではなく、二本立てだったのか。
いぐちさんはいろんな場所で出くわすが、単独の仕事は始めて見た。
天神界隈でやっている演目をそのまま持ってきて「ツボにハマる」れば
なるほど、そういうこともありだな、と唸らされる。
あとは音とセリフが「かぶってしまう」ところをうまく調整出来れば。

 高校生の「ネット依存」のお話は自分がかつて「ヤフー知恵袋」とか
「教えて!goo」というものを使って持っている「知識」や「情報」をシェアする行動を
やっていたけれど、ある特定の人達が「場を荒らす」行為によってまともな人間が離れる
様子をこれでもか、と再現できている。

「スピードの中身」


 「机上の空論」の成立過程をシンプルかつスピーディにまとめている。
そのことがすごいを飛び越えて、正直、えげつない。
世の中に存在する、ありとあらゆる「クリエイティブ系」というものが
すべて「机上の空論」に「化けて」しまったが故の「八方ふさがり」という現実。
さらにはもともと「意味」のない言葉に「意味の無さ」が塗り重ねられて
無駄に時間だけが「浪費」されていく。

 こうして、こねくり回された「科学の進歩」と呼ばれる「机上の空論」が
いろいろなエネルギーを適切なところに運ぶことを妨げている、と
言う事実に苛立ちながら話を追ってみる。
その様子がまさしく飛行機が離陸して、高度を稼いでという様子と似ている。

 するとふとしたタイミングで「折り合い」という瞬間を見てしまった。
これが、高度を稼ぎながらも、何かの要因で失速して、墜落した、という形で。
どんなに科学が進歩しても人生、いつかはしくじる。
この「しくじる」と言う全ての「現実」に対して科学はどうしようもできない。
だから机上の空論に逃げるしかないと言う流れを通して。

 そういう「折り合い」がわかれば対策のしがいもある。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

生前葬 「笑って!タナトスくん」

「生き急ぎ感」というやつがところどころに満ちている。



 「20代」というものはみんなどこかで「生き急いでいる」、自分もかつてそうだった。
20代のうちに何かを成し遂げて、30代では成し遂げたことを軌道に乗せて、
40代では・・・とかそんなことを考え、思っていたが現実は甘くなかった。

 自分は20代、そう考えれば考えるほど泥沼にハマり、心と体を壊して30代に突入、
30代の入り口で「演劇」というものに出会い、その場所で悪戦苦闘して
なんとか居場所が見つかって、ちょうどいい塩梅になったらもう40だよ。
・・・いったい、どうなるんでしょうね。

 そんなことを考えながら天をふと見やれば星々が光り、
板の上には今日の出演者の「写真」と言うか「遺影」が飾られている。
・・・いくら「演出」とはいえ、生きている人間を死んでいる、というのは
大変つらい、と言うか、ものすごい「喪失感」を感じてしまう。

 1時間40分で男と女が生まれて、生きて、と言うお話をものすごくえげつなく、
しかも圧倒的に赤ちゃんの頃からキレキレのダンスとムーブマイムでぶちかましている。
マルチ商法に引っかかる、もしくは引っ掛けるお話が出てきたり、
芸術と才能の不思議な関係から、果ては縄文人と弥生人の違い、
ドメスティック・バイオレンスのお話やら、いわゆる「レミング」のお話まで多種多彩。


 しかも、ひとつひとつの情報量が半端なく、
見手に伝えるための圧力とスピード感まで半端ない。
半端無いから、「行き詰まり感」というカオス、その先の「幼児戻り」まで行き着いて、
気がつけば、「現実」と「非現実」の境界線ぎりぎりのところまで私を連れて行く。

 ・・・これがお客さんと演者の「薄皮一枚」の境界線の問題、というものだったのか。
いや、バナ学のこととか、INDEPENDENTのことで、「お客さんと演者の境界線」を
あってないようなものにしている危険性が、と言う話を多々聞いていて、
もしかしたら、この演目でもあえてなのか、何なのか、よくわからないが
「薄皮一枚」に見手には見えない「穴」か「切れ目」を入れて、
そこから何かをするのかな、と思った。
実際はそんなことをすることは全く無く、「薄皮一枚」を最前の客席一列分だけ
あるタイミングで、圧力かけて前に押し出した、そんな感じだ。


 若者の発想力を使って「死ぬ」ことから「生きる」ことを見てみたら、
なんか、世の中にいる「ある特定の人種」というものは「死」というものを
美化して、ひとつの「ショー」として見せやがる。
と言うことはこいつら、「生」と「死」の狭間を自由自在に動かして遊んでやがる。
自分たちは「生」と「死」というものに対してある程度の線引きをする文化に生きている、というのに。

 あとに残るは、たくさんの「同情できる」と「同情できない」という
感情の矛盾ががぐるぐると脳みそを巡ってやがる。
さらには、自分自身の女性の好みが「濃ゆい」美人だったことを
にかいどーとーこを見て思い知らされる。
・・・スタイルいいし、「身体言語」の「アタリ」もドストライク。
気がつけば、(以下略。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

(劇)池田商会 「イゼベルの一生」

「愛」って、一体何なんだ?


 2時間50分(内休憩10分)、な、長い。
前回の瀧猫屋は2時間50分で休憩なし、それを大博多ホールの
あの椅子では恐ろしくしんどかった、というわけで、
途中に休憩があるのは有難かった。
 それにしても、会場が20分押し。
初日、というものはそういうものなのだ、とはわかってはいるが
終了が22時超えてしまう、下手するとビル自体の閉館時間だよ。
おまけに、空きっ腹抱えて家帰るのしんどいぜ。

 そんなことはさておいて、本当に瀧猫組は「福岡発大河ドラマ」の味わいだ。
隠れた歴史、からの題材セレクト、内容のフォロー、作劇、画の作り・・・。
「余計なこと」を考えさせずに最初の数分で「見せる」のがうまい。

 わたしたちにとって、「宗教」とは、「信仰」とは、
「関係」とは、そして、「愛」とは、ついでに
「父性」と「母性」の違いはいったいなんなんだ?

 日本という場所と民族は「無宗教、無信仰」だとか仰る方々が存在する。
・・・そうじゃなくて、「道端の草花にも神が宿る」という「自然信仰」が強く、
この「自然信仰」を行動の規範にしてきた、ただそれだけ。

 がだ、この自然信仰ってやつは「たたかう」こととあまり相性がよろしくない。
「戦う」、ということ自体がその行動に関わったものすべてを傷つけ、
この心の傷は荒みにまで高まり、あらゆる所で不足や欠乏を起こしてしまっている。

 そういった「心の隙間」に入り込むことがキリスト教ってほんとうに上手いな。
というか、「キリスト前」から「キリスト後」のときは「自然信仰」の一面もあった。

 けれども、ローマ帝国の「偶像信仰」(これこそ「他人様教」の始まりだな)による
迫害から自らを守るための手段として「カソリック」という
「システム」を作り、これに「反発(≒抗議)するもの」という
「プロテスタント」が対立軸として現れ・・・。
このことからしても現在のキリスト教、というものが「争い」に特化した宗教だ、
ということがよくわかるようにお話が作られている。

 ・・・だから、あんなえげつないことができるのだよ。
このえげつなさが「狂い」となって、狂いが高じて争いとなり、
争いの中ではどんな狂いも真っ当に「見える」ことが一番恐ろしい。

 さらには、人間という存在は「こころ」と「お金」どちらかしか選べない。
両方を持つことは存在のスペック上、無理だった、ということを
「こころ」を選んだ存在と「金」を選んだ存在の「対立関係」で見せている。

 この対立関係が「信仰」の違いなのだろう。
この違いが「他者」を赦せない「恨み」や「妬み」の感情につながって、
行き着いた先が「暴力」という「愛情表現」となり、魂が狂ってしまったのだろう。

 故に、魂がまともならば「邪なもの」と払いのけようとするものを
狂ってしまったから安易に受け入れてしまう。
これが俗にいう「洗脳」だったのか、という驚き。

 イゼベルさんは実家が神職というこの時代ではある意味
「超能力者(エスパー)」の家系だった。
だから、このキリストのもつ「洗脳」のメカニズムを本能的にわかっていて、
そういった「邪さ」を感じ取り、「夫婦」なのに夫を「拒否」してしまった。

 結果的にこの信仰の強さが大友の家を救ったのだが。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

サキトサンズ 「梨の礫の梨」

「隙間」からいろいろな人生が見える。

 ・・・まじで突き刺さる。
始まる前から空間のつくりでまず唸らされる。
恐ろしいくらいにギュッとしたスタンドバーとはこういうものなのか、
一度こういう場所でゆっくりとお酒飲んでみたいな、という空気ができている。
 テーブルの上にはマッカランの10年もの。
少し高いかもしれないがどこぞの「国産」ウィスキーとは違い、
酔いの「抜け」がいい、それに氷の入ったグラスが二つ。

 客席をふとみてみるといろんな人生を持っている人がいる。
そういった人生のうろうろ具合やらぐるぐる具合が客電の明るさと重なって
「切ない明暗」と言うかたちで見えてくるのだ。
この「切ない明暗」というものを抱えて物語に入る。


 まずは「拒絶」のお話と言うマクラから絶妙の話芸が炸裂する。
電車の中って、いろんな拒絶が漂い、なぜかしら火花が飛んでいるなと、
毎日家から長い時間電車に揺られて仕事場へ向かっていると感じてしまう。
けれども、これらの「対立」に対してささいな衝突はあるけれど、
これがもとで傷害事件とか殺人事件が起きた話をなかなか聞かない。
ということは、みんな、いろんな拒絶を受け入れてはいるのだろう。

 本当は、自分だって電車に乗った時、自分の隣の空席に
カバンなり、自分の荷物を置いて「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う
ある種の「意思表示」をしたいのだけれども。
板の上では逆に「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う「意思表示」に
抗って、というか抗おうとして、結果降りたかった駅で降りることができず、
実は、抗っていた、抗おうとしていたのは「わたしの自意識過剰」だったのかもしれない。
その考察を裏打ちするかのように「座席の譲りあい」と言うケースまでも
絶妙の話芸で「聞かせて」いる。

 気がつけば、「自意識過剰」をめぐるひとり酒から「本当は今、そこにはいない」誰かとの会話、
過去に起こった、どうしようもならない、もしくはどうしようも出来なかった出来事についての考察、
突き詰めたら母が突然わたしの目の前から消えたからこんなに大変な目にあった、
責任取ってくれ、と「見えない」母に対して言い寄ってくる。
ここにフェデリコ・フェリーニの「道」という映画と思われるお話が重なってきて、
「運命」に対してどうしようもできないわたし、とそれでも受け入れて生きていこうとするわたしが
一つの体に入っていて、その相反する思いがいつもいつもぐるぐるしていて、
ぐるぐるがひどくなるとお酒を呑んで、毒を吐かなければ、やってられない。

 過酷な状況を何とか無理やり生きてきたけれど、疲弊は相当なものだった。
なのにあなたはそこから逃げた、私は逃げられなかった。
けれど、私はもっと、もっと、耐えてやる、という思いが最後のマッカラン2本に現れていたのだろう。

 こんな状況を自分自身も生きていて、重たくて、嫌になって、正直死にたかった。
この演目の長崎公演から岸和田公演までの間でその重い想いをすべて吐き出して、
正しいやら、自意識やらというものはすべて「他人様」信仰であって、
その信仰に縛られているから余計しんどいことになっているのかもしれないよ、という
教えをもらい、ネガティブな思いや思考が少しでも湧いてきたら「他人様じゃねぇか」と
つぶやいて、遮断することで目の前のことに集中することができた。

 色々な思いがいろいろな変化をした様子ってこんなかんじで、
変化した先に見える「景色」とはこういうものだったのか。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ガレキの太鼓覗き見公演 「風営法違反編」+「おくりびと編」

…エロもいいが(以下略。 

ん、まあ、枝光アイアンシアターでこういう「演劇」に遭遇したから、顔を出したくなったわけで。
舘そらみ、という女の子はなんていうか、たくさんの引き出しを持っている。
アイアンでの学校のお話でいろんなことを思い出して、翌日出して受けてをやって、
その流れで今度やるよ、なんていわれた暁には万難を排して言ってしまうわたしを断罪せよ。

 そういう日程を組むと、てかその前に熊本で雨傘屋というカンパニーが
「わが星」を独特の味付けでやる、という日程が一番最初に入ってきて、
次にガレキの覗き見公演が入り、さらにはサキトサンズの岸和田公演がやってきて、
ツイッターでSun!!さんがわれらが愛媛の「あの蛙」がどーのこーの言っていた、と言うことを思い出し、
さらにはMayのきむ・ちょりも見てみたい、という流れで珍しく恐ろしい日程になった。

 金曜日の夕方、仕事が終わって、スカイマークの成田便で東京に向かう。
数ヶ月前は18時55分発だったのが今回は18時35分発、荷物のピックアップをしても
なんかいい感じ、上野行きのスカイライナー、ええ感じで間に合うが問題が。
・・・京成成田空港駅のスカイライナー乗車券売り場のクレジットカードリーダーが
なんか、新式のクレジットカードに対応していないらしく、貴重ななんだかんだを(以下略。

 で、まっすぐ上野について、書いて、飲んで、寝る。
起きて、まずは新宿へ、それから小田急にのって代々木上原にはじめて降り立つ。
事前にもらったメールを元に待ち合わせ場所の確認をして、何か喰って、トイレに行って、
待ち合わせ場所で何かを眺めながら待つ。

 待っていると、「謎の人」が現れてあるマンションに連れて行かれる。

「風営法違反編」
 足を踏み入れたら、まじでごゆい。
・・・流れてくるにおいがああいった風俗店の「におい」そのものだった。
で、お風呂場からぴちゃぴちゃとシャワーの水の音、それを聞くと
ああ、おれ、また、やばいことしている、ごめんなさい、お母さま、という気持ちになってしまう。
うん、つい最近まで演劇の仕事行って、そのあとの心と体の寂しさを(以下略。
で、気がつけば(以下略。それで母に大概迷惑をかけたわけで。
こういったことを踏まえて物語を見ると実に興味深い。

 「新婚プレイ」を好むお客さんのダラダラ具合にやられた。
そのやり取りを暇している別の女の子ふたりが
ガールズトークをしながら聞いている、と言うか、
感じていることが、まずありえない。
というか、この風俗店、結構コストを掛けずにやっているようだ。
お客さん同士、またはお客さんに付いている以外の女の子が見えないように
最新の注意を払うのがこのお仕事が心がける一番のことで、
隠しても隠し切れない、というのがなんともまぁ。

 お金が必要なのに「女の子の日」というもので働いてはいけない、
それならお金貸して、とは言うけれど、まあなんだかんだと条件をつけて。
働けないなら「研修」というものでもしましょうか。
これらがあまりにも生々しくて、おまけに売れっ子の女の子が
お客さんに対する顔とボーイさんなどの男性従業員に対する顔を
うまく使い分けている様子もなんかすごい。

 で、店長も店長でなにか大変なことがあるらしくそわそわしている。
さらには、仕事を離れた所で恋愛、というものが発生して
「風俗で働いている」ということを彼氏に上手く言い出せずにいる、
さらにはここ数ヶ月生理がない、もしかしたら(以下略。
あと、何があったか知らないがあることないことをネットに流すば(以下略。

 そんなこんなで見えないカオスが重なっているところに「厄介な客」登場。
最初はセクキャバ風味で時間を稼ごうとするが、気に入っているのか、
扱いやすいのか、「本番行為」というものに持って行こうとする。
それを止めにかかる、という「修羅場」寸前で強制的に帰させられる。

 ところどころに匂う人間の駆け引きがものすごくドキッとする。
物足りなさ、というのも調度良い。

「おくりびと編」
 ・・・まじで泣けた。
自分自身が今後、こういう状況になることがわかっているからかもしれないが。
いや、まあ、ここ数年、父がとりあえず元気なのだが、気持ちが安定しない。
なんでかな、なんでかな、とか悩みながら日常を送って、どうも我慢ならなくなって
妹の旦那さんと一緒に病院に行ったら・・・(以下略。

 こんなことを抱えて、少し手放してこのお話を見る。
これまた生々しい「生活感」だ。
ある日突然父が倒れた、と言うかなんかおかしいね、といって見てみたら
息をしていない、病院に運び込まれたらもう手遅れで。
それだけでもバタぐり返しているのに、これからはじまる通夜やら葬式の
手配がまだ整っていない、という状況に突然飛び込む格好。

 寝てないし、慌ただしい、おまけに満足に食べていない。
これだったらちゃんとした考えがわくはずがない。
そういった考えの混雑具合が外から入って来た人(婿とも言う)が
入ってくることで整理ができて、とにかくシンプルに、という方針が決まり、
方針が決まるといろいろな感情や、思い出が湧き出してきて
この思い出や感情を「手紙」と言うかたちで整理を始めた所でまた帰される。

 自分は、まだ時間があるとはいえその時どうできるのか、正直わからない。
いろんな感情がないまぜになってどうしようもできなくなるのかも。
理由はわかっている、けれども長年の怨念はどうしようもできない。

 これ、4演目をやっていて、その内2つを見たのだが、
それぞれが面白く絡みあって、「人生」を表現できている。
お金と時間に余裕があれば4演目通しを目線変えて2回見たい、と思った。

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