ゼロソー×第七インター 「心中対決」

「古典」を「食べやすく」した、とはこのことか。

 ハコに入ると驚いた。
西鉄ホール、こういう演劇の使い方もありなんだ。
というか、そういう使い方をしたいがためにこういう手段を選んだのか。
まるで、「演劇」という「展覧会」、題材は「男と女の愛のもつれ」なのだろう。

 どうして江戸時代ってこんな「心中物」という「男と女の愛のもつれ」が
たくさんあるのだろうか、と言うか「自由恋愛」というものがあまりにも
ひどすぎる、とでもいうのか、さらには今よりも自由すぎる人々と
窮屈すぎる人々が交じり合った究極の「格差社会」だったのかもしれない。

 究極の格差社会では「理不尽」というものはあまりにも多く、
「私は生存してもいいのか」という問は頻繁にあったのだろう。
もしくは、「今を生きる」ことに手一杯で、先のことが見えなくなっている。
そう考えてみたら「私は堪えなければいけない」と思う時点で
江戸時代より恵まれている時間を生きているのかもしれない。


ゼロソー「曽根崎心中」
 パッと見、ファッションショーのような趣の表演空間。
おしゃれな空間にロックが効いている。
そんな空気で「人を殺す」ということはこういうことか、と
のっけから無表情でガチのギャル口調でぶちかまされたら
ある意味たまらなくなってしまう。
まるで「お人形さん」のような外見でやられるともっとたまらない。

 てか、今の状況に置き換えたらどこぞのお金持ちの坊ちゃんが
高そうなキャバクラ嬢か風俗嬢に入れあげちゃって、
その裏にいるヤバい方々に因縁付けられて「通帳と実印よこせ」と。
さらにはキャバクラ嬢や風俗嬢だって「本当の恋愛」をしたいときもある。
けれど、なかなかうまくいかない。
このうまく行かない感じが「剣呑」という静かで激しい争いになり、
「古典」という骨組みにすっぽりとはまってしまう。

 そういえば、「曽根崎心中」の曽根崎って、今で言う「お初天神」から
堂山町、さらには北新地あたりまでの範囲なんだよな。
で、生玉さんと言うたら大阪城近くの上本町に近いところだよな。
確かに、江戸時代の曽根崎ら近辺は湿地帯で、一つ道を外せば
葦畑、故に土地は腐るほどある、明治時代になって「埋めた田圃」を
市街地化してついた名前が「梅田」、という感じと生玉さんから曽根崎までの
あの近そうで近くない距離感までもきちんと表現できている。

 「欲」と「業」が濃ゆく、複雑に混ざって嘘の付き合い、
騙し合いがエスカレートして、嵌めて、嵌められて、
最後、死ぬしかない状況にまで追い詰められるさまが
薄皮一枚で江戸時代と今までもが混ざりに混ざって行くのと合わさって
「陰」と「陽」が混ざる様にまで般化してしまう。
そうなるとこんなにもおどろおどろしくなるのか。
だから、怒りや悲しみが古典というフィルターを通してまっすぐに伝わる見後感。

第七インターチェンジ 「品川心中」
 ああいった落語もアリだな。
まさしく「寄席」という表演空間。
最近、成田空港に着く飛行機を使うことがあって、
自ずと泊まる場所は上野になって、いつも使う場所の近くに
鈴本の演芸場があることがわかり、ああ、あの場所の空気とおんなじだ、
きちんと「結界」というやつが意識的にできている。

 そんなことを考えながらじわじわと物語に入っていく。
落語を「視覚化」するとこういう風になるのか。
さわりが始まり、空気感を紙にいろいろな形、筆跡、筆圧で書いた
文字をいたるところでばらまきながら一席ぶちかましている。

 そして、そのお話の中身を演劇でリプレイ。
遊女、今で言えばキャバ嬢に入れあげた男が生きるか死ぬかと
振り回される話で、ほんま、こういう商売は金と欲にまみれてしまうと
平気で嘘をつき、みんなを困らせてしまう、という点でいつの時代も同じだな。

 その嘘に振り回されて、翻弄されて、全てをなくしてしてしまう。
愚かって、一体全体なんなんだろう。 
愛って、一体全体なんなんだろう。
嘘って、一体全体なんなんだろう。
こんなことを考えてしまう。
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テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ギアver.3.00

「空気」というものをシェアする70分。

 だから、時間を感じさせなかったのだろう。

 きっかけはいつも小さなことから。
柿喰う客の中屋敷さんがとったシーズンの福岡演出家コンペ、
プレゼンテーション審査で少し気になる人を見つけた、というか。
まあ、外国での演劇修行から帰ってきて、どう「演劇」というものを使って
戦っていくか、というか生きていくか、という迷いはあったけれど、
「身体言語」を武器にする、という基本方針ははっきりと持っていた。

 その人のことがものすごく気になって、一度「仕事」を見てみたい、と
思っていたが、なかなかスカウティングの網に引っかからない。
で、ぽんプラザで手にしたギアのチラシを見てみたら。

 「ドール・和田ちさと」。

 おお、この場所を選んだのか。
「身体言語」だけで押し通すエンターテイメントの話は
それとなく聞いていたのだが、まさかここに出ていたなんて。

 で、さらにスケジュールを調べてみると、土曜日メインの出演。
しかし、自分が関西方面に行く用事がなかなか見つからない。
そんなこんなで、演出家協会の総会があり、それだけじゃもったいないから、と
算段しているとちょうどいい塩梅に日程が引っかかる。
その後にもろもろの日程が引っかかり、今に至る。

 大変暑い中を京都三条に着いて、なんとか場所を探し、
座席券と引き換えて(このムーブ、関西的)、涼む場所を探すが
なかなか見つからず、妥協してハコの地下にあるカフェで
お茶、その前に久々に突っかかり。

 そんな事があっても、無事空間の中に入ることが出来て何より。
というか、「ハコに入る」という事自体がもうエンターテイメント。

 ・・・入ってみたら「飛ぶ劇場」という北九州の劇団が
門司の昔、サッポロビール工場があったその場所でやった
「工場S]という演目と同じ空気、というか、空間にお金をかけると
そうなるのか、という空気と作りだった。

 見手も、「エンターテイメント」というものを自然と受け入れていて、
なんか気持ちがいい、と思ったが、ゴニョゴニョ。

 ・・・いや、まじで凄すぎる。
パフォーマーというメインの存在がいて、ブレイクダンス、
パントマイム、ジャグリング、そしてマジック。
おのおのが持つ文脈を侵害することなく、それでいて「演劇的」な
ムーブやマイムも心得ている。

 こういう流れ、やり方でまずは「工場の始業」をひと通りやって、
古いからあちこちガタが来ている。
で、屋根から人気商品「ドール」の箱が落っこちる。
それを拾い上げてなんだかんだやって、1.2.3.と「ドール」が
「人間」になった時の驚き。
ここからあまりにも凄すぎる「超絶技巧」の応酬の始まり始まり。

 ドールが各パフォーマーに「触れた」瞬間、スイッチが入り各々の
技量を見せていく、まずはブレイクダンスで場を一気に暖めて、
パントマイムが熱を保ち、マジックで唸り、最後ジャグリングで
エネルギーがmaxになっていく。
 
 各々のエネルギーを誘発する、というか
挑発するドールのオーラも凄すぎる。
そのオーラがこれまたmaxになるのがあのダンス。
電飾が仕掛けられた衣装がこれまたなんとも言えない。

 これ、「空気」をシェアするエンターテインメントだわ。

 機械や人形が徐々に「人」になっていって、心を通わせるが
運命は残酷、工場そのものがどんどんと壊れていくさまを
凄すぎるくらいの密度を使い、五感に訴えていく。
古くから存在するものや事が衰え、カオスとなり、
ぐっちゃぐちゃにかき回され、怒涛のエネルギーとなって
見手に襲いかかる。

 気がつけば、一つだった世界が二つに分かれて
それぞれが新しい世界へと進みゆく。
「破壊と再生」の物語ではなく、「混沌から新生」へと
進みゆく物語が根っこにあったのだな、と
不思議な安堵感に包まれたカーテンコール。

 これは、この場所でしか出来ない演劇だ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

非・売れ線系ビーナス 「些細なうた」

三十一文字(みそひともじ)が見せる「方丈」と「豊穣」。



 新しく作り直している、とはこういうことなのか。
この「作り直した」結果がどうなっていくのか、見当がつかないけれど。

本当はこの演目が終わったあと、新幹線で広島まで行って、駅近くの
東区民文化センターでおちさんとこの仕事を見学しようか、と思っていた。

がだ、お金心もとないし、翌日はハンバーグ工場の仕事。
そういうことを思えば二の足を踏む、けれど、諦めきれていない。

 なんか、身の回りで弱ったことがあまりにも多すぎて泣きたくなる。
わたしのこれからをめぐるもろもろごとから目前の日程まで
うまくまとまらないし、くそみそに状況が混乱している。

 へんてこりんなノイズもわんわんわんと来て正直、しんどい。

 ・・・みんな、味噌もクソも一緒にして、平気な顔をしていやがる。

 そんなことを考え、スポーツの世界って、恐ろしいくらいの
「差別主義」に貫かれていて、「差別されている」という
ルサンチマンから来た行動や言動は怖い、ということを
蝉しぐれ、波の音、という客入れを聞きながら思う。
 なんか、恐ろしくぎゅっとしながらも「薄皮一枚」で
何かを見せている表演空間のつくりだ。 

 ここに、猫のように小回りの効いた女の子が3人、そして男の子。

 なぜ、男の子は「引きこもっている」のだろうか?
三十一文字に魅入られて、気がつけば迷路に迷い込んでいたのだろうか?

 三十一文字という迷路で過ごした男の子の物語を
ラジオドラマにする、という
奇特な人がいて、その打ち合わせのため
博多駅筑紫口・セントラーザ博多地下にある
ヌルボンガーデン博多という結構高いが
恐ろしくうまい焼肉屋で肉を食いまくる話があり、
この焼肉屋の作りがあまりにも迷路が過ぎて気がついたら
「私はなぜ引きこもったのか」という
もう一つの物語とこれまた薄皮一枚で繋がって、
「雨宿り」というスイッチで切り替わっている。

 どうやら、人は「居場所」をなくしてしまうと
簡単に迷路に迷い込んでしまう。
最近は不景気なものだから会社という居場所を
追い出されるか、自分から出て行くか。
自分で自分の居場所をなくさなくてもいいのに、
その場所が「まとも」じゃないから
出ていかざるを得なくなってしまう。

 てか、この世の中、「まともじゃない」から
不景気になっているのであって、
その現実から「まともじゃない」存在が
目を背けるための逃避行動で
「ごっこ遊び」を社会的・経済的レベルでやらかしている。

 鋭敏な感覚を持っている一部の存在は
その「ごっこ遊び」がとてつもなく厭だったから
「わたし」の中に「閉じこもる」しか道はない。

 日本の言葉、ことたまは三十一文字が土台として存在して、
この独特の調子、というかリズムを使って
「まともじゃない」ことを表現できているから
言葉、ことたまが持つ「方丈」と「豊穣」が重なって、
おまけに演劇をやる前に起こったもろもろごととも重なって、
いろんなことがじわじわと湧き出してくる。

 「大人」ってなんなんだろう?
世の中の「まともではない」ことに対して妥協して生きていく、というか
そういうことを「うけいれる」、もしくは「理性」というやつを会得することが
「大人」になる、ということなのかもしれない。

 けれども、理性に頼れば頼るほど現在というものは
前にも進めず、後ろにも戻れない、そういう状況が多くなってしまう。
そんな状況を「生き延びる」ための方法がもしかしたら「わらべごころ」という
「本能レベル」を受け入れる、ということなのかもしれない。

 そういったものがたわんで揺れて落ち着くべきところに落ち着いたら
いつの間にか、迷路から出ていた、降っていた雨は止んでいる。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ノコリジルモ 「トリツクシマ」

「美人という凶器」。


 最近、「右手のおともだち」で動画サイトを巡ることが多くなってきた。
エロの方向だったらそれなりに満足感はあるのだが、
接続したらウィルスの危険が、というメッセージがやって来て
内容いいのに見るのを踏みとどまるようになる時が多くなってきた。

 事実、そういうメッセージが出ていないときに接続したら
わけのわからん迷惑メールがこれでもか、と届きすぎてしまうし、
その内容があまりにも酷い。
このことをどこに相談したらいいのかわからなくなる。
警察なのか、それとも消費者相談センターなのか。

 そんな時はようつべで1990年台から2000年台頭までの
レースクイーンやら何やらの「綺麗なお姉さん」動画を見るようにはしている。
いや、もう破壊力抜群、その綺麗な体を薄皮一枚で見せつければ魅せつけるほど、
男の心はザクザクと傷ついて、その傷を「嫉妬」ということを初めて知った。
ほんと、「美人という凶器」はほんとうにあるのだな。

 がだ、あれから10年、20年経つわけだが、
このような美しさを見せつけた彼女たちは今、どこにいるのだろうか?
そんなことを開演前に考えているといつの間にか物語に迷い込んでいた。

 表演空間、これ、「個人所有」の「鍾乳洞」だよな?
ある程度危険ではない状況にある「天然の造形物」を「所有」して
その場所でパーティやら何やら「好き放題する」ことが「本当のセレブ」であり、
「本当の贅沢」なのだよ、みよしくん、と言いたくなる。
・・・あ、ゴミの始末だけはきちんとしなよ。

 というか、こういう「洒落にならない状況」をさらっと「美味しく」するのだから
最近のくまがい、なんかすごい、というか、えげつない。
で、くまがい自身が演者で入ると甘ったるくでどうしようもないお話を
代わりに小柳緑子という女の子の持つ「クール・ビューティ」できちんと見せている。
「美人という凶器」を今ここで、初めて見た。

 こういった洒落にならない状況にたまたま迷い込んだ
女の子が過ごした5日間のお話。
そういえば、みんな名前を呼ばないよな。
「からだ」でお互い話をしている、というのか、何なのか。
おまけに、みんな生きているのか、死んでいるのか、
はたまた、誰が死んでいて、誰が生きていて、ということが
結局薄ぼんやりとしかわからない。
そして、薄ぼんやりとしたまま鍾乳洞という迷路で過ごした
5日間が終わった、出ることが出来たのかどうか、
これまた薄ぼんやりとしかわからない。

 まあ、生きるということはなにかに「取り憑かれ」ることなのだろう。
ある人にとっては「見た目」に取り憑かれることであり、
またある人にとっては「結果」というもので、その「取り憑かれ」に
派生して「お金」やら「地位」やら、そういったものにもとりつかれている。
・・・「いきいそげ、とりつくしまはない」と言わんばかりに。

 そうして取り憑かれたら取り憑かれるほど、「世の中」という迷路に迷い込んで
一体何をどうしたら良いのか、正直訳がわからなくなって、しがみついた先が
「宗教」に取り憑く、取り憑かれる、という大変愉快なことに。
こういった愉快なことにイングランド文学の暗黒さと鍾乳洞の持つ湿り気
というものが混ざって何とも言えない空気感及び見後感。

 もしかしたら「昔の美女」は「業」というものを背負って、
取り憑かれて、「今」を生きているのかもしれない。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

演劇集団非常口 「四畳半の翅音」

 「呼ばれる」、ということ。

 物語自体も、そしてこの物語にたどり着くことまでもが
果てしない道のりを経て来てしまった。

 本当は博多から新水俣まで新幹線で行って、そこからバスに乗ったほうが良かった。
けれども、このルートを考えれば、考えるほどわたしの心はざわざわする。
言葉に出来ない不思議な感覚とはこのことなのか。

 というわけで、高速バスのフリーパスを買い、別府に寄って一度中途半端に
ネジを緩め、博多に戻って14+を見学し、その足で熊本に向かい、通町筋の
ネットカフェでまんじりとしない一夜を過ごし、ご飯を食べて熊本から新水俣まで新幹線、
それからバスで伊佐に向かう。

 ・・・なんか、この戯曲が実演に向かう道のりもそんな感じだ。
そういえば、島田佳代、という書き手を知ったのは九州戯曲賞だった。
この「四畳半の翅音」の一つ前の戯曲が優秀賞に残り、「この人だれ」状態で
FPAPの人がこういう人ですよ、と「しまだのあたま」持ってきて、
読んでいるとちょうどいいタイミングで鹿児島演劇見本市の案内が。
こうしてわたしは鹿児島演劇と非常口を知ることとなったわけで。

 始めて見本市で非常口を見たときは、「生きる」という感覚がミシミシと
音を立てるってこういうことなのか、なんてことを考えるくらいに
戯曲の精度がものすごかった。
演者のクオリティは長期的に見てみよう、という方針とともに。
で、その次の年、この戯曲で九州戯曲賞をとったことを
鳥栖対愛媛FCの試合前、ベストアメニティスタジアム上層スタンドで知る。

このことを知った時の第一声が「早く実演で見たいぞ」と。
戯曲賞の特典でまどかぴあ、九州・福岡のメンツでリーディング公演するのは
わかっている、問題は、いつ、どこで実演するの、やるとしたら今でしょ。
今でしょ、と言えるくらいに多くのことが練られて、いいタイミングになってきた。


 福岡と鹿児島市内でリーディング公演を見た時は「広い空間」なのか、
それとも「狭い空間」なのか、自分が「文字から空間を起こす能力」の無さ加減が
ひどくてよく把握できなかったけれど、こうして、実演という形で空間を立ち上げると
物凄くシンプルで、さらにぎっちりしている表演空間だった。
さらには、ここにたどり着くまでの道のりが物語の土台となる「特別隔離地域」に
向かう様子を彷彿とさせる塩梅で、恐ろしいくらい濃密になっている。

 リーディング公演では、どうしても字面や言葉で
物語の背骨や背景を「見て」しまいがちになるのだな。
というか、そうでしか見えてこない、ともいう。

 故に物語を追えば追うほど、口蹄疫、鳥インフルエンザ、ハンセン病、水俣病、
福島第一原発の放射能、東日本大震災、広島、長崎の原子力爆弾、太平洋戦争、
満州国・朝鮮・台湾・中南米移民、白虎隊、さらには穢多と非人という
私達の奥底にある「仄暗い差別」というものが一直線上に繋がって、
人間、というものは私達とは違うものや事、あるいは人に対して拒絶しやすい、
拒絶すればするほど人は人でなくなる、ということがじわじわと来た。

 これが実演という形で「命」や「魂」が入ってくると、
「差別」というものは過去にも、現実にも存在しているし、
未来永劫なくなることはないだろう。
人は基本的に「変わる」ことが難しいという理由で。
その事自体に対して良し悪しをあーだこーだ言うのは無益。
人は変わることができなくても、それなりに生きている。

 この事実を感じれば感じるほど東日本大震災でうんざりするくらい唱えられた
「絆」という言葉が紙よりも軽く、薄っぺらい言葉に聞こえてしまう。
そんな言葉では論じることのできない、「繋がり」と「縁」に「呼ばれる」様が
凄く出てきていて、この様子が重厚感のある人間関係として見えてきた。

 これ、昔読んだニック・ホーンビィの「マラボゥストーク」の狂気感だよ。

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劇団鹿殺し 「BORN SONGS」

やっぱり、人生はプロレスだ。

 迫力がすげぇ。
そんなことを感じさせる空間のつくり。
「程よい視点」とはこういうことをいうのだよ、みよしくん。
音や空気の圧力が人生そのものの塊になって襲ってくる。
しかも、情け容赦ないくらいの量と密度で。

 音や空気、そして人生の圧力が情け容赦なく襲ってくるのを
必死で受けていると、主人公の名前「辛島タエ」の意味がよく分かる。
・・・要するに、「辛いことに、耐えよ」というわけだ。 

 本当に私達が生きている、ということは辛いことだらけだよな。
自分の外では賑々しく派手にやってはいるが、一つ深いところに入ると
「流行り、廃り」というものに激しく揺さぶられて大変なことになるのだろう。

 この世の中の流行り、廃りというものが
プロレスの橋本真也や三沢光晴の「死に様」といっていいのかわからないが、
死ぬ数年前に起こった彼ら人生の出来事が色々とちらついていやがる。
このお話が土台となって、ここに「テニスの王子様ミュージカル」やら
「鼠の国」、「スーパー戦隊」、その他もろもろのコンテンツを使って、
皮肉というものをたっぷり効かせたパロディとして見せている。

 そうしてタエが耐えて行けば行くほど、人生を走れば走るほど、
さらには持てるものを出していけば行くほど、周囲を巻き込んで、
あるいは巻き込まれて恐ろしいくらい大変な目に遭う。

 タエ自身も周囲以上に大変な目に合っているのだが。
それでも彼女は運命を受けに受け通し、自身を出しに出し通す。
こうして骨と血と肉を作り上げ、たくさんの無念を背負って生きていく。

 この話を見ていたら、自分が人生の迷子になっていた時に
えりこねえさんから貰った言葉を思い出す。
人生、誰し何かしら努めを持っていて、
この勤めというものを果たさないと死ねないと云うらしい。
そのことを聞いて、私は不思議な安心感をもらった。

テーマ : 演劇
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14+ 「真如極楽 こころとかたち」

人は誰しも「形」と「心」の片方しか持つことができない。


 一度福岡を離れて別府へ行き、スイッチを中途半端に切って、入れて
この場所に時間ギリギリで着く。

 ハコのなかに入り、ふと考えた。
世の中のありとあらゆる「宗教」は相互に「混ざっている」なと。
お互い、鋭く差別があるし、鋭く救世感、というものもある。
それぞれの宗教の持つ要素を一つ一つ確かめてみたらえらく面白いことになりそうだ。
排他志向か、受容志向か、内向き志向なのか、外向き志向なのか、
偶像崇拝の傾向があるのか、偶像否定なのか。

 そんなことを考えていると物語が始まった。
なんか、日本とコリアンって、どこか同じなんだけれど、
細かい所で違っているんだよな。
特に「おとむらい」というところで。
・・・いつからコリアンは日本というものを「否定」していたのだろう?
大昔はテレビコマーシャルとか、いろいろなものに「日本語」が混ざっていたし、
日本の資本があからさまに混ざっていますよ、アピールもあったわけで。
ここを緒に不思議な物語へと更に降りていく。

 仏師とその弟子二人、そして仏師の娘。
「三角関係」が2つできている。
弟子は己の中に「形」を見たのか、それとも「心」を見てしまったのか。
娘は「心」と「形」の「均衡」を取りたい、と思っていた、というか
「心」と「形」という枠組みを全部取っ払って自由でありたい。

 それぞれの思いがグルグルするさまを見ていると、
この世というものは「形」でできている、というか
無限に膨らむ「心」というものを「形」が押さえつけているのかもしれない。
結果、心はもくもくと「形」の外にはみ出して厄介なことになってしまう。
このはみ出して、厄介なものが「欲」というのだろう。

 「形」にこだわればこだわるほど、「欲」というものに苦しみ、
更には、「欲」というものから出た汚れにまみれた
「災い」というものがよく出ていた。

 この様を見て、なんか、不思議なものを感じた。
14+、というか「爆走蝸牛」は「今現在生きているわたし」の持つ
「いたたまれなさ」というやつを「博多の言葉」でやっていた。
切り口は違うけれど、テアトルハカタ、というところも
こういう演劇をやっていて、自分はここを「入口」にして演劇へと入っていった。

 福岡演劇フェスティバルの「演出家コンペ」の特典として
「14歳の国」という「酒鬼薔薇事件」を意識した戯曲を
再編成した「14+」という作品をやった。

 その中で「いたたまれなさ」というやつを徹底的に研いで、
見手に差し出してしまったらえらく大変なことになった。

 徹底的に研がれた「言葉の刃」によってひどく傷ついた人達がいて、
素直に「こういうことがあってしんどかった、しんどいのにこのお話は堪える」と
いえば、どうってことなかったのに、この状況で使うべきではない言葉を使って
「これでも喰らえ」と福岡の演劇に対して仕返しをした。

 演劇に「のめり込む」ことで仕事や人生を失って、そのもやもやを晴らすべく
自分なりの「演劇道」にのめり込むことでこの失った痛みを忘れて、
というのはよく分かる。
けれども、方法論が違う人間に対して「殺意ある言葉」で易ある言葉を
吐かれても、誰も聞かない、むしろ反発しか産まない。
だから、その人たちから人が離れていった、というのに。

 正直、かわいそうとも思えない。
かわいそうと思ったら、わたしの性根がかわいそうだ。
こんなかわいそうな人間に「死ね」と暗に言葉を投げかけられたら
嫌になる、だから自分は一度前の名前を自分で「殺した」のだ。
正直、辛くて、しんどくて、悲しかった。

 自分にも至らない点は多々あることもわかっているし、
なんとか改善しようとしはいるが、元々の人間が違うから
どうしようもないところはある。
其のところまで私は他者を否定しようとしないのに
その人達は其のところまで否定した、むしろ拒絶した。

 このことに対して、無視することも、ましてや殺すことも出来なかった。
ただのらりくらりと交わしながら、心のなかではどうしたら良いのかわからなかった。

 それでも、毎日仕事に行って、演劇を減らして、心と体を休めて
できることを何とかやりこなしてはいた。
自分なりの「演劇の使い方」を練り上げるためにスクールにも通ったし、
演劇大学で演出助手のまね事をして、その流れで演出家協会に入った。
少しずつ、心をひらいて、仲間ができつつある。

 そんな流れが14+にもあって、韓国演劇との関係性とか
身体言語の方向性、というオプションがついてきて、
なんだかんだあっても、一つ段階を上がっていった。

 正直、演劇をやめよう、と思ったこともあるかもしれない。
けれども、演劇によって助けられている。
そして、たくさんの物や事、人とつながっている。
これを元にして新しい何かを作りつつある。

 あなたも痛みを乗り越えた、わたしも痛みを乗り越えつつある。
ただ、それだけ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

劇団ぎゃ。 「エンデの時間稼ぎ」

「ファンタジー」と「メルヘン」。


 えっ、ひと月も「演劇を見る」というところから離れていたのか。
鹿殺し×ガラパ「作戦会議」やら14+の「友の会」、
はつかいち「演劇大学」と次の展開への「仕込み」というやつを
それとなくやってはいたが、現場へ行くのは本当に久しぶりだ。

 けれどなぁ、「仕込み」というやつをきちんとやれてはいるが
私をめぐる状況は良化どころか、良化の兆しすらも見えてこない現実。

 お金のこと、演劇と表現についての私が持っている技量の足りなさ具合、
人付き合いを始めとしたいわゆる「社交」のこと、
更には「わたしの人生」について
きちんとしなければいけないことがあまりにも多すぎる。

 そこで見えた弱点として、
他者との関係を作っていく過程で心を開いて行く状態が
あまりにも時間がかかりすぎる。
身体反応の回路、取り違え多すぎ、反応悪すぎ。
そんなことをはつかいちの演劇大学で強く感じてしまった。

 このことはさておいて、椎名林檎調で「黒ネコのタンゴ」というものを
客入れ音でかまされたら、ほんまたまりませんわ。
・・・「ファンタジー」と「メルヘン」は表面的には同じかもしれないが、
実は大きく違うのだよと年明けてすぐ、えだみつアイアンシアターで
あった平松さんの「スクール」で教えてもらった。
わたしが今、そこにいる「現実」というやつに「物語」から帰ってくることが
できるか、できないか、が違いとなっているらしい。

 そういう「線引き」が開演前の空気からよくできている。
できているから「とっておきのお話」というスイッチが入ると
いつの間にかミヒャエル・エンデの持つ不思議な世界に引っ張り込まれる。

 このカンパニーの持ち味は高いレベルの歌謡を軸にしたエンターテイメント。
そうであるがゆえに「身体言語」の甘さ、というやつが大きいハコで演るようになって
課題として出てきた感がチラホラと出てきた。

 この課題を福岡演劇大学で羊屋白玉女史に付いて「場違いな赤」という
初期の短編をテキストにして、白玉女史の持ち味であるおしゃれさや身体の使い方を
ええ塩梅に取り入れた成果が出てきていた。
それが何より証拠には、みさかがやけに美しくなっていやがる。
いままではさほど感じられなかった「エキゾチックさ」というものを兼ね備えた
「身体言語」で見せつけている。
 
 お話の中身は無念のまま死んでしまった人が持っていた「景色」という
絵の具セットを託された少年がこの絵の具セットを使って「わたしが望む世界」と
いう一つの絵を書いては見たけれど、この絵に書いた「欲」という登場人物に
世界を乗っ取られ、取り戻しに行く「冒険記」。
見終わった数日後、ユーチューブなつかしアニメのオープニング動画を
見ていたら「ジムボタン」というやつに妙に引っかかる。
へえっ、「ジムボタン」って、エンデの作品だったのか。
で、ゆきえさんのやった機関車はエマ号だったのね。

 というか、これ、自分がアニメというものを一番最初に感じた作品の一つだよ。
あと、デビルマンとアストロガンガーが朝、目覚めた時かかっていて、うん。
けれど、そんなことを感じさせる暇を作らせないようにきっちりと作り込んでいる。

 確かに、お金、というものは価値がある。
価値があるが故に「貯めこんで」しまいがちなのだ。
けれども、価値あるものを貯めこめば貯めこむほど「欲」というものが
際限なく増殖し、「欲深」という怪物を内面深く育ててしまう。
この「欲深」という怪物は不特定多数の他者に多大なる害をもたらしてエライことに。

 どうしてだろう?
もしかしたら、「バランス」の問題なのかもしれない。
「バランス」というものは「流動性」と言い換えられることができるのかもしれない。
「得る」と「失う」は薄皮一枚で均衡を保っていて、どちらか一方に偏ると
大変なことになるのだが、目に見える、もしくは形になりやすい存在は
こういった「流動性」を簡単に崩しやすくなる。

 けれども、時間のように目に見えないものはちょっとやそっとでは
「バランス」というものは崩れず、「流れ」という「流動性」に任せるより他はなく、
このことが「平等性」というものにつながるのだろう。

 ものすごく深いことをサラリと見せている、ということに凄みを感じた。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

風琴工房「国語の時間」

「誇り」というか、「アイデンティティ」を尊重する、というのは大変難しい。

  このカンパニー、いちど見たかったのだ。
こりっちの「春の舞台芸術祭り」初回最優秀賞。
その公演のチケプレに見事外れて、おまけに身動き取れず。
というわけで、遠巻きに見て、縁がないなぁと。

 そんなこんなで今年の年始め、枝光アイアンシアターで
「演劇の使い方」についての考察を深めるなんだかんだが
泊まりがけであって、そこに制作のお姉さんがいたわけで。

 ・・・演劇時空の旅の予定も飛んだし、当然劇王戦も、
さらにはお金が心もとないなぁ、もう少し早いタイミングだったらと
最初は尻込みしていたがお姉さんが是非に、と何度も言うから
平日日程にして[以下略。

 というわけで来てしまった。
こういう形で行くことになるなんて思いもしなかったのだが。
まあ、改めて「何はなくとも全ては縁」ということを
思い知らされる、というか感じてしまう。

 まじですげぇ。
客席に足を踏み入れた瞬間、奥が深く、天が高く、おまけに意図的な穴のある
ものすごく手の込んだ表演空間が存在していた。
この表演空間「だけ」でもこの演目を見る価値はありそうだ。

 制作のお姉さんからチケットを取ったので席の周りには
「関係者」らしき存在がうようよいらっしゃる。
おまけに一列斜め前には古田敦也氏の奥様が。
・・・「演劇マニア」だというお話はそこかしこから聞こえていたが、
実際そうだったとは、さらには自分のメディアで演劇のことを
お話しているのかな、と思っていたらこりっちにも書いているらしい。

 それにしても東京のこういうところにたむろっている
「関係者」って、なんか剣呑な空気をまとって、甚だ居心地がよろしくない。
些細なことに対して神経質、というか、他者を許さない態度をとりがち、というか
他者の良いところを見ず、悪いところしか見ることのできない可哀相な方々が
演劇作るとどんな作品になり、その作品を見てどんな感想を書いて、
それを普通の人が見て、読んで、感じたら・・・あとは何も言うまい。

 見る前からなんかげんなりしたところに重厚なオーバーチュアから
本編が始まる、というだけでも「ホンマモンの演劇」というものを
見ている、という気持ちにしてくれる。

 1940年、7月、京城のとある小学校から物語は始まる。
夏休み明けてから始まる教育実習の準備のため一人の女学生がやってきた。
名前からして現地の人だが、とても美しい、それも異なった文化の人が
学んで、話す言語の美しさだ。
そして、東京から朝鮮総督府に赴任してきたある役人とたまたまつながることで
生まれた関係、というものを縦糸に、「植民地支配下での言語教育」というものを
横糸にして「にほん」と「コリアン(チョウセン)」の非常にデリケートな関係を
じっくり丁寧に、しかも生々しく見せている前半部分。

 10分間の途中休憩を挟んで後半部分は更に物語が加速していく。
生まれ育った環境、というものと先天的な「才能」というもの、
更には「社会」という状況が絡みあい、うねりあって個々の
「人生」というものが作られ、関係し合い、翻弄されるさまがなんとも言えない。

 この様を見れば見るほど「創氏改名」とか、「方言札」のように
「強いものが弱いものに対して服従を誓わせる」行為として
「文化を揃える」行為はこの時期、世界中、どこもえげつなくやっていた。
「にほん」も「チョウセン」の他に「タイワン」でもほとんど同じ事をやっている。

 なのに、「タイワン」は喜んで「文化を揃える」道を選び、
「チョウセン」は「文化を揃える」ということに対して「嫌悪」や「憎悪」に近い
反応を示すような道を選んでいる。
この違い、というものは一体何なんだろう、そしてどうしてなのだろう。
そういった疑問、ということを考えさせられるように持っていかれる。

 …愛、なのだな、結局は。
何に対する愛なのか、誰に向けられた愛なのか、という違いはあるが。
この「愛」の違いと関係のすれ違いがこれでもかとうねりを見せていく。
うねればうねるほど「居場所」と「愛」が「自己」を作る、というところまで
持って行かれてしまうではないか。

 「居場所」がなければ、肩身の狭い思いをしなければいけないし
そうならないために「同化」の道を選んでみても、二重、三重の「差別」と
いうものが邪魔をする、だったら危険な道を選んで「同化」することができた。

 しかし、差別による憤怒と憎悪は「同化」によって新しく生まれた
「アイデンティティ」というやつを容赦なく剥ぎ取っていく。
そうすることでむき出しになった「地」というものに耐えられなくなり、
反動で死ぬことを選ぶ人もいれば、本当の愛国心に目覚めてしまう人もいる。

 逆に居場所のある人はちょっとやそっとでは「同化」できない。
自分をより良く「表現」するための手段として言葉を使うことができた。
多分、この違いだったのかもしれない。

 このことはまわりまわって、これからの日本の姿かもしれない。
アメリカ合衆国の「51番目の州」になって、こんなことを「支配する」側ではなく、
「支配される側」になって、こんなことや思いを「経験してしまう」、
そんなことを考えた。
歴史とは斯様に皮肉なものだ。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

ピロシキマン 「場末感観。」

飲んでいないのに、脳みそが二日酔い。

 さんざん飲んだくれて、うっかり足を踏み入れてしまった
飲み屋特有のぐだぐだとした空気だよ。
なんていうか、恐ろしいくらい粘っこくて、
これが絡みついたら言われるがままに座って、
おてふきもらって、一口目を飲まなければ解放されないあの倦怠感。
・・・こりゃ、やばい、と思って早々に退散できたら正気が残っているとも言うが。

 がだ、身も心も淀んでいて、「飲まなきゃ、やってられない」状態になると
つい、ふらふらと入り、1セットで切り上げて、また他の店へと「河岸」を変えに行く。
だんだんと気持ち悪くなって寝床に帰り着くが、便器と友達にならなければ
うまく眠れない、眠れないから起きられない、起きても朝ごはんがうまく食べられない。
お金もなくなるし、色んな物もなくなってしまう。

 それなのに、どうして行くのだろう?
・・・なんていうか、わたしたちは皆「さみしがりや」にできている、としか言えない。
わたし以外の「異なった感覚」を持った存在とコミュニケーションを取ることを
楽しんでいたのかもしれない。

 こういう男と女のうだうだとしている関係が進んで、というか
高まっていくといつの間にか「帰ってください」ということを言えなくなり、
相手は「関係性」に甘えていい塩梅で切り上げて帰ることをしなくなって
気がつけばこの場所を「我が家の居間」にいるように振舞ってしまう。
 
 よそから来た者にとっては厄介で気味の悪い空間だよな、これ。
そんな空間にこれまた北の方の漁村から都会に「人探し」に
やってきた方々がわけわからないし、クドいことをやらかして
ただでさえ尋常でない空間が揺さぶられてある意味、フリーダム。

 フリーダムなんだけれど、哲学的なんだよな。
ある意味「単純」である意味「複雑」、この2つが時と場合で
グニグニと混ざっている、という状況。
この状況を「そうじゃない」と思い込まなければ、やっていられない時もある。

 けれども、その思い込みが長く続けば続くほど
自分がいつの間にかなくなって、正直自分という現状と
現状下での存在が嫌になる時があるわけで。

 その嫌になった状況から何とかしたいがどうしたら良いかわからない、
ただひとつわかっていることは「知らなくていいこと」は存在する。
このわかっていることを頼りに次に進もうと思わせる見後感。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

UNIT恋愛体質 「FAKE」

「厳しさ」は「醜さ」の裏返し、なのかもしれない。


 世の中にはびこっている「こうであるべき」というものを
意図的、というか、なんというかぶっ壊しているなと。

 表演空間すらも客席と正対して、という定石を飛び越えて
客席と斜め、という「位置」というものから何かを
込めているのではないだろうかと考えてしまう作りになっている。

 それにしても、客席にはやけに目立つ若いのが多い。
そういう目立ちすぎる、それも悪い意味で目立つ若いのが
自己顕示という剣呑な空気をまとって目の前にいると、
どうも気持ちが悪い、更に視線を遮られると
演劇を見る前から「しんどさ」というものがボディ・ブローのように
ジワジワ来るのです。

 この時、エリック・カントナはどのような強さで話し始め、
どんな息の使い方、しゃべるスピード、更にはどう振る舞うのだろうか?

 そんなことを考えているともう本編だ。

 本編は、柿喰う客の文脈でサスペンスドラマをやり、
そこにアキバ系のヲタ芸と変態でグリム童話を混ぜ込んでいる。

 こういうふうに「昔話」というものを見せつけられると
わたしたちに近い所でそうそう「大事件」という「非日常」は起こらない。
けれども、わたしたちの心と体は「大事件」という「非日常」を
奥底で望んでいるのではなかろうか、と考えてしまう。

 「捜査」という「お仕事」にかこつけて「デート」ですか。
大変お気楽極楽ですなぁ。

 そういうことは置いといて、こういう目線で「グリム童話」を見てしまうと、
理由はどうであれ、かなりひどいお話だな、と感じてしまう。
「童話」というか、「物語」というものは大抵の場合「めでたし、めでたし」で
終わってしまいがちだが、そうして終わってしまったとしても、
物語でも、現実でも、「その続き」は存在している。
その続きが「めでたし、めでたし」から来る「幸せ」というものを
「こじらせた」トラウマ、というものに化けて、非常に気持ち悪い。

 この「気持ち悪さ」を何とかしたいがゆえに「めでたし、めでたし」というものを
「悪意のこもった変態」というものを使って「抹殺」しようとしたのかもしれない。

 悪意のこもっている変態ほど質の悪いものはないけれど。
それを使わないと不都合なことが何かあるのだろう。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

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