快快 「六畳間ソーキュート世界」

「世界」は小さな「愛」で満ちている。

 それにしても、「まとも」に走れば鉄道は最強の交通手段だ。
九州島は人間でいう「背骨」の部分に九州道という高速道路が走っている。
そしてくじゅうと雲仙が「天使の羽」の部分、空気の流れ、雨の流れは
大体この背中にそって流れている。

 今回は背骨の丁度真ん中あたりに空気と雨の流れがもろに来て、
福岡は大雨、それも心が折れるくらいの。
事実、前日に予定していたルアーノデルモーズの
「誘拐されちゃったのかもしれない」をキャンセルせざるをえないほど
大変な雨だったわけで。

 その中を即座に判断しながら日田に移動するという荒業。
さらに言えば、終演後の日田から博多、福岡空港という移動のチェスを
やらなければならない、という問題が。
結果、早め、早めに動けて、まあ何より、雨の巣に巻き込まれて
一部区間で徐行があって9分遅れで日田に着く。

 まずはパトリアについて、軽くパソコンで
スカウティングレポートを書き上げる。
それから日田やきそばで飯、雑談しながらドアが開くのを待つ。
ドアが開いて、一つのアート空間のアプローチから
表演空間に入る。

 恐ろしいほどにシンプル。
真四角の素舞台、真ん中に箱馬がひとつ、
上手脇にマイクセットが一つ。
なんていくか、これがヨーロッパ的な「おしゃれ」というものなのか。
客入れ音はいわゆる「クラブ」で使われているアイスブレイクテクノかな。

 そんなことを考えているうちに男の演者がやってきて
いつの間にか物語が始まる。
「日常」と「非日常」が曖昧に「混ざった」ものが一発で固まって、切り替わる。
そのさまが、やっぱり、これが新しい演劇のスタンダードだったという感じ。
こまばアゴラ劇場と青年団、そこから派生したままごと、東京デスロック、
大池企画、うさぎストライプ、ガレキの太鼓、その他もろもろの流れの中に
快快もいるのだ、という発見。

 小さな「生活」の中で、自分のできることを積み重ねると
こんな素晴らしい物語ができるのか。
男は今流行の芸人、武井壮のキャラクターを演劇の文脈に乗せると
こういうふうになってしまい、女はこのキャラクターを
コンテンポラリーアートの文脈の身体と身体言語で受け止めている。

 この受け止め具合を見てしまうと自分の大切な人の想いまで感じた。
演劇を見て感じたことをわたしの大切な人はきちんと受け止めてくれるし、
大事な人も第三舞台の封印公演をタダ券もらって見たわけで、
このお話を見れば見るほど大事な人とこれから先の人生を生きていきたい。
だからこそ、いっしょに見ることが出来たらもっとよかったのに。
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劇団ぎゃ。 「ドッペル横丁の長い夜」

「演劇」とは、「居場所」を「作る」と見つけたり。


 ・・・腰がいたい。
ぽんプラザで非常口「四畳半の翅音」を見学して、
期せずして「伊佐錦」ではなく、「伊佐美」を程よく飲み、
エエカンジで寝て、起きて、さあ仕事だと思ったら腰が抜けた。
腰が抜けた、というか、疲れで腰が火を吹いた。
あまりにも痛いので少ししか身動きがとれない。

 けれど、ここ数年抱えていた心の重さは晴れたのだろうか?
そうであっても、なくても、信じてくれる人をとにかく信じるしかない。

 それにしても変な場所から大博多ホールがなくなる、という話を聞いた。
舞台構造、音響、椅子、その他もろもろにおいても老朽化は否めない。
そこのところに関して手を入れるとなるとかなりの銭がかかる。
ついでに耐震化の絡みだなんだかんだあってきついことはよく分かる。

 がだ、ビル運営側、ホール運営側の正式リリースが無いうちに
そういう話を吹聴するのは正直、反則だと思います。
お話がどう転ぶか、わからないのに。
劇団や、カンパニーには内々にお話があるけれど、沈黙。
それが一番賢い。

 駅にも近く、程よいサイズの箱なので、なくなるのはすごく残念だが。

 さて、今回は劇団創立10周年記念イヤーの締めくくり。
正直言って「ぎゃ。祭り」の様相。
受付のお姉さんやら、ホタルさんの着ているものが
過去の公演で使ったものの勢ぞろい。
いろいろな意味で思い出される、とはこのことか。

 この10周年記念イヤーの中でぎゃ。は「歌謡劇」という一つの
ジャンルを確立しつつあるようだ。
以前は「音楽の天才」がカンパニーにいて、その人の作る音楽に
乗せて物語を「奏でて」いたが、最近は演歌や歌謡曲の中から
「今回の一曲」をチョイスして、これをベースにして物語を作り、
いろいろな「アレンジ」という味付け、トッピングを施す趣。

 今回の一曲は「お祭りマンボ」(美空ひばり)
これを生のブラスバンド、圧倒的な光で見せて、聞かされたら
気が付かないうちに物語に入ってしまう。

 それでいて、セリフで使うことばのこだわりがすごいし、
去年の演劇大学で学んだ「身体言語」の要素も徐々にこなれて
「ぎゃ。」の文脈で消化されている。

 見れば見るほど、こないだ見た京都のギアは
徹底的に「身体言語」で押し通した
「静」のエンターテインメントだった、
ということがよく分かる。
そして、ぎゃ。は「ことば」と「身体言語」のバランスは
まだまだだけれど、歌って、喋って、動いてにこだわった
「動」のエンターテインメントになっている。
こんなことを感じてしまった。

 それでいて「演劇」というものの力を伝える、という点で奥が深い。
ある日突然見失った、というか、姿を消した母を探して
「非日常空間」に迷い込む、
その空間はエンターテインメント、その中で生きていけばいくほど
楽しいのはわかっている。
けれど、楽しければ楽しいほど虚しさは膨らみ、
どうしようもできなくなる。

 だから、「どうしよう」を探す「捜索者」と
「何とかしよう」を作る「創作者」という
一見言葉遊びに似て、人間の尊厳まで踏み込んだ物語の作りになっていたのか。

 考えてみたら、演劇、というかエンターテインメントというものは
何を「まっとう」とするか判断に迷うところだが、
「まっとうな場所」に存在することを許されない、というか、
存在できない、もしくは自らの意思で存在することを
拒んだ人たちの「居場所」を作るために存在しているのではないかな、と考えた。
というか、「作る」ことは「探す」訳で、
また「探す」ことは「作る」ことと一体なわけで。

 だとしたら、意地悪な考え方で「作る」ことと「探す」こと、
それぞれをじゃまする輩の「居場所」を消す、というかなくすための
「演劇」という試みもありなのでは、なんてことをうっすらと考える。

 がだ、終演後の「ロビー挨拶」というお祭を見ると
そんなこと、どうでもいいじゃないか、という気持ちになってしまう。

北九州芸術劇場×北九州市立美術館  切り裂かれたキャンバス ~「マネとマネ夫人像」をめぐって

 「知的好奇心」をそそられる、とはこのことか。

 北九州市立美術館分館の前は当たり前のようによく通る。
今回は、初めてその中に入る。
この前に、これまた初めて小倉競馬場の場外販売だけど、
指定席というものに入ってパソコンでなんだかんだして
メディアドームで宮杯の場外を買い足しして、来たものだから
汗が吹いて嫌になる、おまけに汗が引いた体に美術館は寒かろうと
初夏に使い捨てカイロをもらう、それほど美術館は寒すぎるのか。

 それにしてもシャツ、アンダーを新しいものに取り替えたほうが良かったかな。
こういうことを考えつつ、美術館と劇場のスタッフが
お互いに「混ざり合う」様を見つつ、待つ。

 「本編」としての「演劇」を60分、本編に関連した情報を美術館の
学芸員さんがわかりやすくレクチャーするのに15分、
本編の「ネタ」になった絵を見るのに15分、よく出来たパッケージだ。

 パッと見、無機質なアトリエに絵が数枚ある表演空間。
美術館という「制約」を逆手に取って、最低限の作りにしている。
このことが却って知性、というものをそそられ、揺さぶられてしまう。
このそそられ、揺さぶり具合、どこかで見たような。
・・・そうだ、細野不二彦の「ギャラリー・フェイク」という漫画だ。
この漫画、美術業界の生々しさをそのまま素直に見せているが、
今回の演目はそれよりもえらくソフトにまとめている感が。

 「愛」まで含まれるのが「印象派」という絵画なのだろう。

「三角関係」だとか、よこしまな感情を物語を見る中で持ってしまったが、
最後、実際絵を見て、目の開き具合が不思議に「幸せ」だった。
切り離された「女」はピアノらしきものを弾いている。
この幸せな音色に心も体も委ねている、誠に幸せな昼下がり。

 ここにはやましいことも何もなく、シンプルに「愛」というものがそこにあった。

 「プラムの絵」だとか、色々前ふりで伏線を仕掛けて、
そこに、それらしき絵を混ぜて、「もしかして、未発見の絵か?」と
思わせて、実は純粋に絵が好きだった人はたくさんいて、
そのことを懸命にやることはとても尊いことなのだ、というところにまで持ってきた。

雨傘屋 「わが星」

人生という「人」の「営」み。

 日程を組んだのはあくまでも自分なのだが、それにしてもえげつない。
まず、雨傘屋が「わが星」をやる、ということを聞き、まずは日程を押さえる。
そこにガレキの太鼓が「のぞき見公演」というやつをやる、ということを聞き、
そこにハマるサッカーの日程は、と調べてみたらちょうどいい塩梅で
われらが愛媛対ヴェルディが味の素スタジアムである、
さらには愛媛のプロモーションで一平くんや三柑のぬいぐるみや
何やらが売っていて、それなら靴下か何かを「捕獲」して持っていけるし、で
大阪岸和田のサキトサンズ、その隙間に千林大宮でMAYと突っ込んでしまった。

 ひと通り終わって、というか、終わらせて東梅田駅前の
近鉄バス停留所に熊本行きの高速バスを待ち、乗って、
モンモンモンとしていたらもう熊本交通センター。
上のホテルで朝飯を食い、時間調整で熊本競輪場。
パソコンでスカウティングレポートを書きながら
函館記念の流れを追い、決勝の車券を買って外に出る。

 それにしても熊本市内、公衆浴場やスーパー銭湯のたぐいが少ない。
前の日の夜からお風呂入っていないよ。
一度引いたところにまた汗が吹いて嫌になる。

 そんな嫌な状況で場所に着き、色々座るポジションについて
打ち合わせをする格好に、さらには函館記念、なんぼか取れていたことを知る。
理想は遠征で行った演劇の入場料分をその時期にある記念やら特別競輪で
稼ぐことができたらなんぼかいいだろうし、実際には1つ分はできていることもある。

 で、チケットを取りに行って、雑談していたら(以下略。
正直、見た瞬間、チケットを突っ返してそのまま帰ってしまおうかと。
缶バッジまで返すつもりが見当たらず、そのまま中へどうぞと言われたので。
・・・打ち合わせをすることでいい塩梅になっていた。
あとは「他人様」という形で存在を遮断して集中できるように
開演までの時間を使い調整すればいいわけで。

 まあ、この演目の元カンパニーままごと版は一度北芸で見ていて、
密閉させた空間で「黒滔々たる夜」と「星のさざめき」を感じながら
さざめいている空気の反響と残響を巧みに活かしたのが
「テクノ・ハウスミュージック」、星の動きはすなわち人の動き、
出会って別れて、というものをコンテンポラリーダンスの要素でまとめて
セリフはラップ、クラブ、そしてチャント。
・・・まさしく、これは新しい演劇、というかアートだった。

 がだ、今回の雨傘屋版は、きちんと「演劇」をやっている。
密閉もしていない、どこからか生活の音や明かりが漏れている、
反響も残響もない、テクノもハウスも感じられない、
まさしく、これぞアナログという空間、とはこのことをいうのか。

 だからこそ人生という「人」の「営」みがままごと版より
強く、そのことばじゃ物足りない、恐ろしく濃厚に出ている。
恐ろしく濃厚に出ているからままごと版はなにか中心軸があって、
その中心軸とそれぞれが紐のようなもので繋がっている感じがあったけれど、
雨傘屋版は中心軸も曖昧だし、それぞれが繋がっている紐のようなものも
強く感じられない、けれども、それぞれが何かでつながり、というか
影響しあうことで一つの「天体」を作り上げていく様子ができている。

 こわばっていたものが、いつの間にかほぐれて、帰りの高速バスに乗る。

WET BLANKET 「羅城門」

この「区域」はわたしの「国」。

 今までとは違い、恐ろしくシンプルな表演空間。
黒黒々、黒一色に「檻」のように細い棒がたくさん立っている。
さらには「ひかり」の使い方もうまくなっている。

 そういう空気で「天上天下唯我独尊」と言わんばかりの
コーディネーションをのっけからぶちかまし、殺陣とアクションは
「劇団新☆感線」、身体言語の使い方は「柿喰う客」、
ストーリーラインは芥川龍之介の同名小説をベースにして
隠し味は「ヤマタノオロチ」という日本の古典中の古典と
さらにはゲーテの「ファウスト」を効かせた疾風怒濤のエンターテインメント。

 スサノオをファウストとすれば、ヤマタノオロチは
メフィスト・フェレスなのだろーか?

 なんていうか、手塚治虫の「ネオ・ファウスト」もこういう感じで
物語を「第二次世界大戦終戦後」の混乱期、という空気でやりたかったけれど、
「導入部」も終わらせることなく自身の寿命が尽きてしまった、という現実までも。

 演劇をすることで取り組んできた、あるいはつながって学んできたすべてを出して、
「我々にしかできないこと」を確立してきた、とはこういうことを言うのか。

 今まで見られなかった「からだの美しさ」やら「からだのしゃべり具合」と
いうものがところどころに見えていて、
これまでこのカンパニーに感じていた新感線の完コピでもなく、
柿喰う客の完コピでもない、それぞれの要素を混ぜあわせた
「ハイブリッドな身体言語」というものを確立した感じを受けた見後感。

 本当はなんか夜見に行って、その前に何かあったのかなぁ。
けれども、昼何も入れてなかったようで、昼見て、注文していた背広を
博多阪急に取りに行っておとなしく帰ろうかと思ったら、
スワップ版もいかがですかと案内が。

スワップ版

 こういうような演目の組み方、柿喰う客が「乱痴気版」と
いう形で得意としているところ、そこをことばは悪いがパクったなと。
さらに言えば、柿喰う客も「通常版」と「乱痴気版」の二演目セット券を
売ってくれたらもっといいのに、なんてことを考えてしまう。

 身体や「身体言語」が違うと流し込む情報量が違うなと。
さらに言えば、柿喰う客の中屋敷さんとWETのとーいの
「背景とするもの」の違いまで感じてしまった。
中屋敷さんは青森の出身で、そのせいかどことなく
太宰治やら、「不識塔」というものの持つ「不思議な魔力」を持った
空気を背負っている感じがする。
 対してとーいは青ピンショーのように「ホストクラブ」の空気を
背負っている感じがする、あののりで丸が一個多いメニュー表をみ(以下略。

 二つをまとめて見てみると本式版はラベルの「ボレロ」、
それに殺陣やら何やらのアクション付き。

 故に、からだや身体言語の使い方がモダンバレエ、
モダンジャズダンスの要素が込められている。

 対して、スワップ版はヒップホップダンスの身体と
身体言語できちんと「演劇」をやっている。
だから表演部の結界が多少違っていたのか、という発見。

下鴨車窓 「建築家M」

「異郷の地」に向かう、とはこういうことか。

 それにしてもちゃんと生きて帰ることができるのかな。
不安がゾワゾワとわたしの中に入ってくる。

 大博多ホールを絞りに絞った表演空間。
いつもの客席を使わず、舞台上に客席を作り、あえて座席の緑色を見せる。
表演部の真ん中にいろいろなものが重なっていて、結界としてドア、というか
窓が一枚、これが「まな板の上の鯉」というものだろうか。
この場所と状況だからこそ、まじで怖い。

 おまけにロビーからドアを通り、客席にたどり着くためには
さらにはビルの入口からホールロビーにたどり着くためには
数回「登って、降りて」を繰り返さなくてはいけない。
この「作業」が物語の世界で言う山を数個超えて村に来た感じが良くできている。
さらには大博多ビルの一階からホールまで全部階段を使えばもっと大変なことになるが
すごく楽しめただろう、とふと思う。

 
 不安、というものをしっかり受け取っていたらもう本編が始まっている。
この村、なんか「バスク」の血が入ってる、「フランス系」か「スペイン系」か
どっちかはものすごく曖昧だが。

 人里かけ離れた村に都会からやってきた建築家。
与えられた「仕事」はこの村の「村長公邸」を新築する、
その建物の設計をすること、ただそれだけ。

 それにしても、この仕事いろいろ「制約」が多すぎる。
というか、何故に「犬小屋」というものにこだわるのだ?
確かに「名犬ジョリィ」というお話でもあるように、バスクの人は
犬をものすごく大事にするのはよく分かる。
うーん、恐ろしく病的な「お犬様信仰」だ。

 その反面、「犬ハンター」というものもそこにいる。
この建築家と犬ハンター、そして村長の娘、という
「男と女の関係」というものがあって、人里かけ離れた
「閉鎖的な環境」というものの恐ろしさ、という空気が徐々に現れてくる。
村長の娘が持つ「若い女性」というものが濃く出ているからなおさら。

 建築家という「仕事」はある意味アスリート、ある意味アーティスト。
「施主」の要望をできるだけ聞き入れながら、「建築」というアートに
自身の「思想」や「魂」をぶち込んでいく。

 けれど、「施主」が要望を殆ど言わず、あれやこれやと
注文ばかりつけて「建築家」の仕事を妨げたらどうなる?
というか、犬は本当にそこにいたのか、もしかしたら、
「いないもの」だったのかもしれない。
その「いないもの、いないかもしれないもの」のために
「外の人間」が振り回されて、「わたし」というものをなくしてしまう。
「わたし」というものをなくしてこの村の「考え方」に「同化」して
外へ「出さない」ようにすることが狙いだったのかもしれない。

 けれども、外の人間は「仕事をする、お金をもらう」、
そして「次の仕事の場所へ向かう」、という流れで生きているのだ。
この流れで、よりよい仕事をしようとするが、突き返されてばかり。

 どんどんストレスが溜まってきているところに村長の娘も
「外の世界が見たい」と建築家を誘惑、というか誘って行く。

 そうする中で、「認識」というものを少しずつ、少しずつ
「変えていく」作業というものをわたしたちは知らない間に
やっているのかもしれないことに気がつくように仕向けられる。

 この「認識」というものを「変えて」いくためには「他者」の存在が必要。
けれどもこの「他者」の「使い方」を間違えたら「変えていく」どころか、
「変化の妨げ」になってしまう危険性がある。

 ・・・問題は「使い方」のさじ加減なのかもしれない。
大事なことは「当たり前」というものは「当たり前」ではない、ということ。
そして、わたしは様々なことの「全て」を知ることが出来ない。
この「わからなさ」と「分かり合えなさ」というものを理解して、
抱えなければいけない。

 このこと、枝光アイアンシアター屋上でのバーベキューで
ある人と話していた内容と重なっていた。
なるほど、「他人様教」とはこういうことだったのか。
傍目から見たら馬鹿馬鹿しいのがよくわかる見後感。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

最新旧型機 クロックアップ・サイリックス 「三一四二」

そぎ落とす。

 あらゆるところでひと捻り効いている。
客入れ音からして田谷力三とかの浅草オペラ、というやつだよ。
ここにプロペラ機のような空調音がぐおんぐおん響いて、
気楽な空の旅、というか、物語の旅へと連れて行かれる。

 白ヤギさんと黒ヤギさんのお手紙のお話、
出して、読まずに食べて、をひたすらに繰り返すわけだから
いつまでも本題の用事がわからない。
・・・だったら手紙を出さずに直接会いに行けばいいのだが、
お互いがお互いをどう思っているかで受け取り方が違うのだろう。

 こんなことを考えていると、オクラホマ・ミキサーを使って
社会における「排除」のメカニズムをこれでもか、と見せ、
「排除された」人間が強く見せる「殺意」、殺意を見せると
余計に排除する側が「怖い」という感情を巧みに使って、さらに排除を仕掛ける。

 そうだとしたら「働かざるもの食うべからず」とはいうけれど、
ここでいう「働く」とはそこにある「権力」というものに「服従せよ」ということか。
そうすることが嫌、というか肌に合わないとかなり辛い。

 そうした「居場所のない」人のために「お山様」での修行があるのだろう。
話には聞いたが、ものすごく過酷らしい。
この過酷さが今までからだに染み付いた「良くないもの」をそぎ落とすのだろう。

 修業の「そぎ落とし加減」が花輪和一の「みずほ草紙」という漫画に似てはいる。
この漫画の「修行具合」は「お山様」で一冬こもって、
お山様の声を聞く、という中身でそれはそれはとても不思議なことが
起こり続けるらしい。

 それくらい過酷で、理不尽、これが修行、というものだろう。

 けれど、このお話は「祖母を山に捨てる」という一連の流れが
「修行」という形になっていて、「良くないもの」のそぎ落とし加減が
ものすごく緩やかになっているが、そこには「希望」に代表される
「明るいもの」を排除している。
緩やかだけど、厳しさがチラチラとちらついているけれど。

この塩梅が人生、甘くないけどとにかく生きろ、生きたら何とかなる。
というふうに化かせやがった。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

万能グローブガラパゴスダイナモス 「星降る夜になったら」

やっぱり、「死ぬ」も「いきる」も勢いだ。

 …この演目に辿り着く前、わたしの精神的にも、身体的にも状態、最悪だった。
さらには人間関係、崩壊寸前、故に演劇とハンバーグ工場の仕事が
うまく回らなくなっている。

 次をどうするか、どうしたいかわからない。
日曜日にいろんなことが集中して、何も出来ない、というのがこんなにつらいとは。

 ああ、このままだと自殺するしか道はないのかなぁ。
そんなことをうじうじ考えていた。
がだ、そうだとしたらやり残しがたくさんある、ということに気がついた。

こりっちに書かなくなって溜め込んだスカウティングレポートを書き終えたいし、
広島であおきりの鹿目さんに教えて貰ったことを使って、
ある程度の長い戯曲書き終えて九州戯曲賞に出してみたいし、
やることまだまだたくさんあるじゃないか。

 それにしても、客席をよくみてみると「新しい客層」が結構多い。
イムズホール、というところの「特性」もあるようだが、
音楽のライブに行く、という感覚でガラパの演劇を見るという感じになっている。
andy-moriとの「対バン」という試みがいい意味で効いている。

 ペンションなのか、レストランなのか、ものごっつうおしゃれな空間だ。
まあ、貸し別荘にしても、こんなにおしゃれで高級そうなところに
行ったことがないから余計、戸惑うのです。

 天井をふと見やれば、星の装飾がキラキラと輝いている。
ついでに今回もかなり仕掛け満載だ。

 そんなボリュームたっぷりの空間でボリュームたっぷりの人生を見る。
生きて、別れて、出会って、くっついて、裏切って、裏切られ、傷ついて、死んで。
板の上になかったのは妊娠して、生まれる、というところだけ。
こんな、ボリュームたっぷりに人生を見せてもらったらいろんなことを考えてしまう。

 ・・・なんていうか、そろそろ新しい段階に入っていくのかな。
それが何より証拠にはいろいろな所で変わり目、というものを
体感、というか、実感している私がそこにいた。
そうやって、わたしも変化している、あなたも変化している。
変化していないのは誰だ、と言わんばかりに。

 こんなことに直面すればするほど、考え方や人間としての
なんだかんだが違う人とうまく揃えることができにくくなり、
物事を続けていくことが難しくなっている。
この難しさがわたしを活かす、という点で妨げになっているのだろう。
まだ、私はこのことをうまく解決できてはいない。

 それでも生きているじゃないか、もし死んでしまったら
「予定」のまま終わってしまう、それはそれで少ししんどいよなぁ。
宴の真の主役が妙に大人びていたからなおさらしんどいわ。

 出会えば、いつかは離れるし、別れる。
踏み込めばその分忘れてしまいやすくなる。
忘れる、ということが平気になる、ということがとても悔しくなる。
逃げれば繰り返すし、立ち向かうとごまかしやすくなる。
知らないふりをしていても、なんとなく全てを知っている。

 それはそれで、みんな、前に進んでいる。
「前に進む」熱を帯びた物語、バルコニーの扉を開けると
すっと冷気を感じた、これが明け方の空気なのだろう。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

んまツーぽす 「いっすんぼうし」

フィジカルの強いエンターテインメント。

 ものすごくフリーダムな空間がそこにあった。
こんなに大きなバランスボールがあり、その他にもいろんな生活必需品が
大きな寸となって並んでいるのを見ると、えらく驚いてしまうのです。

 そして見手の集団にガチの体育会系を思わせるジャージのお姉さんが
わらわらわらとやってくるとなんていうか、「異質な演劇」というものが
これから始まるのだな、という気持ちになってくる。

 なんだかんだと見ていたら、演者、というか、
関係者が知り合いに声をかけて見手と演者が「混ざる」位置の
調整を始めている、これが「ポジション」に呼ばれる、ということなのか。
正直、「呼ばれる」ことが出来なければ、何も出来ないよな。

 客入れ音もなにか演劇とは違う、スポーツの試合のような感じ。

 まずは、バランスボールを巧みに使い、陸上のハードル飛越のムーブを使い、
「アスリート」の凄みをこれでもか、と見せていく。
そして、あるやり方で「お姫様」のコンテンポラリーダンサーを
「呼び込む」ところから「演劇」と「アスリート」が激しく融合していく、
その様がなんとも言えない。

 融合していけばいくほど、見手までも巻き込んですごいことになっている。
さらには、「演劇」をすること、という現実が映像で混ざっていくと
自分がかつて感じた「暗黒」というものを感じてしまった。

 そういえば、子供の頃の自分って、「暗黒」の中に生きていたのだろう。
「社会」という「集団」に巻き込まれて、なかなか馴染めず、光が見えない。

 その光を見出すためにあの頃のわたしは「演劇」というものを
欲していたのかもしれない。

 こういうことを考えながらも、一つ一つの要素にアメコミが入り、
精度も密度も恐ろしく良い、これを野田秀樹は「エッグ」という
演目で「演劇」という文脈に落とし込もうとしていたのかという発見。


 さらにはわたしはこういうことを演劇に翻訳したうえで、
実生活に翻訳して落とし込んでいる、そして伝えているということがわかった。
この発見をさらに広げた上で、また新しく見てみたい。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

最強の一人芝居フェスティバル 九州版「INDEPENDENT:FUK 13」

「あたらしい何かを生み出す魔法の箱」。

 この試みを始めて見たのは、おーたさんが挑戦した時だった。
興行のやり方も、それぞれの演目のクオリティも少しづつ「進化」している。
例えば見手を「物語」の世界に入れていくスピードが
昔は九州で10秒、大阪で5秒、東京で3秒。
それがいまではどこも5秒から3秒の間で
「入れる」ことができるようになった。
このこと以外にもあらゆることがじわじわと変化している。
「変化」を作っているのはこの試みなのかもしれない。


[A block]
「武家屋敷顛末奇譚~なまけもの五平」
出演:青山郁彦サイト×脚本・演出:白濱隆次(謎のモダン館)

 民放テレビから「新作時代劇」というものがジャニーズによる「必殺仕事人」と
あと数本、それも一年に一本出来ればいい、という時代になった。
適切な技術や所作を教え、伝えることができなくなりつつある。
こんな状況を鑑みて、誰かが言った、「時代劇は死んだ」と。

 けれども、この演目を見て感じた。
「時代劇はまだまだ生きている」と。
濃ゆい、とにかく濃ゆい、時代劇の持つ各要素と技術や所作が。
今や、こういったジャンルはテレビで見るよりもこういった旅芝居、というか
大衆演劇場に行って見たほうが結構クオリティ高いぞ、という発見。

 いろんな場所、いろんな客と「格闘」してきた末に掴んだ、
身につけた「身体言語」というものがこんなにすごいとは。
ここに白濱さんのこれまた濃ゆいことばが重なって
「新しい時代劇」とはこういうものじゃないのかな、という提示ができている。

 この「新しい時代劇」で「適切なときに適切なことを行う」ということが
いかに大変で、それでもやらなければいけない。
もし、「適切なときに適切なことを行う」ことが出来なければ
身の回りのすべてを失ってしまう、失ってそのことに
気がついたとしても、それはなまくらと同じ。

夢や希望を失うことがこんなに辛く、きつい。

 がだ、そのことを「復讐」という形で埋めようとしても
当事者はいずれ死ぬ、だとしたら別の方法が
あっただろうに、と感じてしまう見後感。

「ヴァニシングポイント」
出演:椎木樹人(万能グローブガラパゴスダイナモス)×
脚本・演出:竹内元一(サンピリ)×原作:奥山貴宏

 「鬼気迫る」とは、こういうことを言うのか。
とにかくほとばしっている、「生きる」と「死ぬ」という正反対の二つが。
あるエッジィなライターが志半ばでがんに倒れて、その病と戦い、
受け入れていく中で、わだかまりのあった友との意外な形での和解、
これらの一つ一つがアーヴィン・ウェルシュのような
恐ろしいくらいハードな文体で迫ってくる。

 けれども、流れを一つ一つ追っていくと「がん」というものは
いったいぜんたい何なんだろう、とふと考えてしまうような出来。
なんか、じわじわと「がん」というものは体中の毒を集めて、処理する
「生理的行動」であって、ああいうふうに酒だ、ドラッグだ、
なんだかんだやっていたらタバコ吸っていなくてもそうなってしまう。

 そこにうまく気がついて、自分と向きあえば、と
「自然の摂理」系の方はおっしゃるのですが、うーん。
「向き合い方」というのも人それぞれなのかなぁ。
結果、寿命が長いか、短いかだけでは何もわからないよな。
「人はそれぞれ、そうなるようにしかならない」訳で。

 この演目が終わったのち、色々話す。
いや、まあ、自分の父も今、こんな状況で洒落にならねぇや。
8月の頭からまた入院だよ、てなことを話して家に帰ると、
抗がん剤やら、痛み止めの毒が脳みそに回って、
野多目のがんセンターから近所の大きな病院に転院して、
集中治療室に運ばれた、意識などはしっかりしているけれど。

 ・・・このお話とまま、おんなじ状況じゃねぇか!!

「初恋、奔る」
出演:イトウエリ(手のひらに星)×脚本・演出:勝山修平(彗星マジック)

 今の状況、この国はものすごく先がない、
だから才ある若者はとっととこの国に見切りをつけて外国へ向かえ、
時代はグローバルだ、とか言ってるけれど、おいおい、と思う。

 一人の女が、一人の男を好きになる、ということで
「命がけ」ということを学び、本当に命をかけて「生きていく」お話。
ここに、野球や、インド、パキスタン、アフガニスタンという
「危険地帯」を体験するお話や、生死の狭間を「生き延びる」お話、
生き延びて次につなげていくお話に触れることで
いろいろな世界や社会が混ざってくる。

 グローバル、なんていうことを言う前に、まずは足元だろ、
足元を「恋愛」ということでも固めておけば、
こういう「日本脱出」のやり方もありだぜ、と教えてくれる見後感。

[B block]
「2」
出演:冨川優(不思議少年)×脚本・演出:大迫旭洋(不思議少年)

 「性少数者」あるいはLGBTという言葉が小さな声ではなく、
大きな声で語られるようになったのはツイッターやフェイスブックのおかげかも。
ディズニーランドの結婚式にまつわる話とか、新婚さんいらっしゃいという番組に
男子同姓愛「夫婦」が登場したり、そんな流れの中でこのお話は生まれたのだろう。

 「男が男に恋をする」ということをこんなに生々しく表現できるとは。
アダルトビデオの世界のように「装飾されていない」、
単純に「好きな相手は同性でした」とすんなり語られたら「参りました」というしかない。
特に異性に惚れられて一緒に住むことになったが、違和感を感じて、という所では
「自分の彼女」というものに対していろいろな事を考え、彼女の思いを改めて知った。

・・・「ちゃんとする」って一体何なんだろう、
    自分、「ちゃんと」できているのかな。

 ここから「紅を引く」ムーブでスィッチを入れて同性愛の現実がほとばしる。

 このほとばしりを見ながらほそかわたかよしという
ある男子同姓愛者のことを考え、「どうして男子同性愛」というものを
選んでしまったのか、いろいろなことや背後にある事情を考える。

 生育期に何らかのトラブルとストレスを意図せずに抱え込んで
結果、精神的に不安定なものを抱え込んでしまったから
この不安定なものとの均衡を取るための行動の一つなのか?
しかし、同性愛というものはある一定以上の「階層」からしか存在しない。
ある程度金持っていて、肉体を使う労働よりも頭脳を使う労働に多く見られるよな。
フレディ・マーキュリーの初期なんか魔夜峰央の描く美少年にヒゲ生やした感じだし。

 あと、こういうふうに苛立ちや背景を素直に出してくれたら
「挑発的な物言い」なんてしなくても済むだろうに。
そして、LGBTに対して嫌悪感や憎悪の念を抱かずに済むのに。

「悲しまない人」
出演:富田文子(劇団ぎゃ。)×脚本・演出:中村雪絵(劇団ぎゃ。)

 「歌謡劇」というジャンルを確立したな。
今回の歌謡曲は「飾りじゃないのよ涙は」(中森明菜)。
この名曲を演者の持つ身体言語でうまく表現した。

 人生の中で起こる「良きこと」と「悪しきこと」が代わる代わる
やってくる様がなんとも言えない。

 才能をうまく生かせない、才能をうまく生かせたとしても
「良き事、魔多し」で道を絶たれて、普通に働いて、道を外れて、
結婚して、子供産んで、育てて、また働いて、アーティストになって、
別れて、また働いて、人生を終わる間際にすべての根源と出逢い、
一区切りつける、という流れ。

 「悲しまない」ではなく、「悲しみをぐっとこらえている」。

「悲しまない」というのならば、生きている上ですべての感情を排して
無機質に生きる、ということであり、ここには「人生の浮き沈み」なんて存在しない。

 そっちのほうがたくさんの「良きこと」と「名」と「銭」を手にできるのだが。

 けれども、「悲しみをぐっとこらえている」から
「人生の浮き沈み」というものが生まれ、
そうなることで実人生は何も得ることが出来なかったかもしれない。
がだ、こっちのほうがえらく色とりどりの人生を送れているじゃねーか。

 それでいいのだ。
演劇大学で羊屋白玉女史と組んで以来、ぎゃ。は
コンテンポラリーダンスのトレーニングを取り入れているのか、
はたまた演者が元々コンテンポラリーダンスをしていたのか、というくらい
からだがさばけている、という発見。

「悪徳商人レヴォリューション」
出演:浅田武雄(O.Z.E@大阪)×脚本・演出:青木道弘(ArtistUnitイカスケ)

 こういう「視点」で「時代劇」を取り入れた、というか
「時代劇」を現代の視点で「翻訳」したらこんな風になるのか。

 時代劇の敵役「悪徳商人」を現代でいうところの「ブラック企業」としてみたら
今、現実に起こっているすべてが腑に落ちた、というか。

 結局、好きでこんな汚いことやっているわけじゃないんだ。
最初はまっとうに仕事をしていたとしても、「与えてばかり」だから
なかなか自分のところに「残らない」、そうなるとだんだん嫌になる。
嫌になると良心、というものが破壊されて「まっとうでない」ものに
しがみつき始める、そうすると「もらう」ばかりで「与えよう」としなくなるから
だんだんと自分のところに「残る」ようになる。

 「残る」ようになればなるほど「欲」が増えてきて
いろいろな手が使えるようになる。
さらにどんどん色んな物が手に入る。
手に入れば入るほど失ってしまう、ということが恐怖に感じるようになり、
更に危ない世界に手を染める、そして成敗される。

 こういうふうに角度を変えてみてみると、世の中で起こっているすべてが
実は大きな「間違い」の上に成立しているのだなぁ、と感じてしまう。

 「商売」ってなんなんだろう?
「勝ち負け」ってなんなんだろう、「働く」ってなんなんだろう?
そんな「本質」をわかっていないからありとあらゆることが「嘘」に思えてしまう。
その本質を知るに私たちは、もう手遅れなのか。


 今年は「どっちみち、人は死ぬのだ」という前提があって、
その前提で「私達はどう生きる」、という視点でたくさんの「生きる」を見た。
これらの「生きる」を見て、感じて、どう生きていくか、ということを
それぞれが考えることができるように仕向けられている。

 あなたにとってそのやり方、考え方が「有用」だったとしても、
わたしにとってそのやり方、考え方が「有用」だとは限らない。
「本当のこと」がわかったとしても、そのことが良いこととは限らない。

 答え、目的は各々がすでに持っていて、このことだけは尊重しなければいけない。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

極東退屈道場 「サブウェイ」

「都市生活者」や「電車通勤者」の日常と憂鬱。

 仕事が終わって、演劇に入る前に時間を埋めることが苦手だ。
故にその場所に早く来すぎて色々と面倒なことになっていたらしい。
そういうことが話題に登って慌てる、慌てる。

 最近は中洲の場外車券場が昔玉屋百貨店のあったところにできて、
ナイター競輪をそれとなく眺めたり、時々お金を賭けたりして
その合間に演劇の文章を書いたり、データを纏めたり、
そういうことができるくらいの設備ができて何より。

 こうして時間を埋めてあじびホールに向かい、中に入る。
空間の作り方がすごい。
ミソは天井に2本、平行に這わせている白いロープ。
線路の幅と見立てればホームの下から「覗き見る」ように、
それぞれの白いロープを架線と見立てると運転手の眺め、
時々光の塩梅が車掌の眺め、といろいろな視点を開演前から見せてくれる。

 劇団きららのような「身体言語」、それでいて精度と密度がすごいもので
月曜日から土曜日の地下鉄とその近辺で起きている出来事を表現している。
ここに、大阪の地下鉄路線図と、さらに駅の名前とそこにあるランドマーク、
さらには他路線の乗り換え塩梅、というわたしの持つ記憶と重なると
物語が加速度的に膨らんでいく。

 基本方針は「天地創造」の物語。
月曜日から金曜日、土曜日、日曜日、そして新しい月曜日。
それぞれの曜日にそれぞれの「生活」という物語が存在していて、
物語同士が「キーワード」でつながっていて、リレーしていく。
「月曜日の殺気」から「火曜日の蔦屋」、「水曜日のアメドラDVD]、
「木曜日の自転車」、「金曜日のぱど」、「土曜日の吉川英治」
「日曜日の北島三郎」というように毎日違う「創造」という物語が出てきて、
そこにスパイスとして森田芳光監督の「家族ゲーム」という映画が効いてくる。

 「生きている」ということは楽しい事なんてほどんどなく、
厄介で、理不尽で、糞みたいな面倒事ばかりで嫌になる。
ちょうど、地下鉄のホーム、白線ギリギリを歩き続けていて、
気を抜いたら走ってくる電車にはねられる、そのほうが楽かもしれない。

 もしくは、厄介で、理不尽で、糞みたいな面倒事を
引き受けない立場になるためにわたしを消して「忠実な軍人」になる
という選択肢も見方によってはものすごく楽になるのかもしれない。

 しかし、わたしを消して、「忠実な軍人」になることは
なにか、「軸」というものを失うことにつながるのではないだろうか?

 わたしたちが生きている「天地」と「物語」の創造者は第三者じゃない、
わたしであり、あなたである、ということをファシズムのプロパガンダ映画の
撮影を通して見せている、という隠し味がすごく効いている。。

 わたしが日常を生きる様子と、こういった身体言語を重ねて見て、
「わたしはひとりじゃない」という感覚がふと沸き起こる。

テーマ : 演劇
ジャンル : 学問・文化・芸術

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