アルビレオ特急 「雰囲気のある死体」

美しい大人の悪ふざけ。

 父がどこかに行ってから初めての遠出。
初夏の雨傘屋以来の熊本。
あの時は東京でのガレキの太鼓から大阪、という流れで
えらく大変だったなと、この後も行く機会はなんぼかあったけれど、
ブレーンストーミングやらなにやらで行く機会が無かった。
さらには、父がああいうことになった、ということがあって
ここ数年、ものすごく慌ただしかった、なんだかんだに巻き込まれ、
積み重ねを一度壊して、再構築してこの作業がものすごく辛かった。

 さて、この積み重ねを壊して再構築する過程を次にどう繋げていくか。

 客入れ音、ドイツミュージックか。
ドイツと日本って、えらく雰囲気似ているなぁ。
「封建社会」という「都市文化」と「資本主義」という「反動文化」、
これらの問題が交じり合ってナチズムとなり、
薄気味悪い空気がなんかじわじわと来ているなぁ、そんなことを開演前感じる。

 というか、父が遠くに行ってしまう空間とほとんど同じ表演空間の作り。
違うのは「万が一」の時用の「一人部屋」ではなく、取ってつけでできた
「三人部屋」だったこと。
そういえば、こういう感じの部屋の隣に「説明部屋」があって、
そのまた隣にお医者さんとか、看護師さんの詰め所があった。
あの、重たく、苦しい空気の手触りを、わたしは忘れることができない。

 この空気の中で、熊本演劇の技量のある面子が
古き良き時代の「美しい日本語」で演劇をする。
それでいて、至る所に「大人の悪ふざけ」という「仕掛け」が盛り込まれている。

 板の上の「フリーダム」が過ぎている様子が「可笑しくて」、おかしい。
けれども、どこか美しいから、その裏にある切なさや哀しみが
じわりじわりとやってきて、自分が数週間前に感じたことと重なっていく。

 切なさと哀しみが重なっていくと同時に「閉じた世界」というものが
宿痾的に抱えている「稚気(チャイルディッシュ)」というものが
気が付くとその場にうずたかく積み上げられていて、
この積み上げられた「稚気」というものに真っ当な人間が
右往左往する様がそこにあった。

 この右往左往が「弱さ」から来る「不安」となって
一度入れば、二度と外に出られない「ソフトな牢獄」に囚われた
「入院患者」という「囚人」と「医師」や「看護師」という
「管理者のふりをした囚人」の相互関係、あるいは相互依存にまで化けていて
この化け具合が心と体の「ぶっ壊れ具合」となって、
コメディだけど怪談(ホラー)、になっている。

 ぶっ壊れた場を収めるために坊主が出てきて経を読む。
みんな、この後どうなったのか、誰も知らない。
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謎のモダン館中短編集 「影武者修行 他2篇」

不思議な感覚が蘇るとはこのことか。

 それにしても、連勤マジでヤバイ、連休もまじでヤバイ。
・・・とにかく、今日が何曜日か忘れてしまった。
というかなぁ、演劇の仕事をするためにハンバーグ工場の仕事の
有給をとることがものすごくややこしいことになってしまっている。

 ややこしいことになってしまっているから
仕事の取りまとめをしているところでは
あっちを削って、こっちは残してという作業をやっているから
ものすごく申し訳ない気持ちだ。
うまく調整がついて、演劇の仕事でも収入ができたらいいのだが、
それは自分「だけ」の望みであって、周りは「社会人」として云々と。
この落とし所を考えなければ。

『影武者修行』

 ここ数年、心の奥底に「引っかかっている」ものがある。
「正義」って、一体全体何なんだろう?
というか「正義の見方」というアホが「行儀悪い」とかいうものだから
正直、頭にきた、言葉自体もえらく汚くて、まるで自分の庭に猫の死骸を
投げ込まれた気持ちってこういうものなのか、えらい嫌がらせだな。
そんなことを感じながら本編に入る。

 「あなたの意思でここに来た」かぁ。
けれども、当の本人は「連れて来られた」と思っている。
ここからしても、「感覚のズレ」というものがものすごい。

 なんか「彼」の「身代わり」をやってほしいとのこと。
マッスル・タイガー?プロレスラーか。
そういう話、「アグネス仮面」という漫画で一度読んだわ。
がだ、追えば追うほど不気味な感覚にハマり込んでいく。

 「人生を捨てる」とか「記憶を消去する」とか
なんか穏やかではない、さらには「戦う相手」なんて言われた暁には
なにを一体どうしたらいいのか迷ってしまう。
さらには「予防正義」なんてことばが出てくるとどうしようもなくなる。

 これらのどうしようもなさを「いち記号」として一度受け入れてみると
今の世の中の物騒さ加減がこのお話の肝なのだな。
なんていうか、わたしと感覚が異なっている「異者」を
「やっつけなければ、やられる」という風潮が目立つよね。
これらの「連鎖」によって不幸な人が生まれているのもまた事実。
なんか、正気の沙汰じゃないよな。

 殺人やら、放火やら、高額宝くじの当選、しかも身銭切っていないという
「正気の沙汰ではない」出来事が次々連なって「悪い」と「良い」の境界線が
薄皮一枚でたわんたわんと揺らぎ、この揺らぎの末に生まれたものが
実は「復讐」という行為だったのかもしれない。

 こういうことに「至った」瞬間、わたしの脳裏にある画が浮かんだ。
・・・雨降る中、わたしは立っていた。
そばには誰かが倒れている、わたしの手にはど(以下略。
この画を頭に思い浮かべる瞬間はいつも「異者によって行く手を阻まれている」
そのさまをじっと我慢している、そんなことを感じていたら鳥肌立った。

『囚われのアスラン』
 意外性、とはこのことか。
スーパーマーケットのバックヤードで男が縛られている、
そこからなんか一筋縄ではいかない作りだ。
シリアスなところとコメディ、というか大ボケの組み合わせが絶妙。

 こういう「スーパーマーケットでの押し問答」は
自分もはつかいち演劇大学の「セリフを書いてみる」というセッションで
レジ前での押し問答として書いたことがあって、この「書いたこと」を
踏まえながら見てみると、自分、まだまだだなと。
特に「山と谷」がきちんと出来ていたらこんなに面白くなるのか。

 自分の書いたものにきちんと「山と谷」ができているだろうか?
そんなことを考えてしまった見後感。

『キャンドルが消えるまでは』
 なんかごゆい、ものすごくごゆい。
「うんちく」というもので「場」というものが結構持つものだ、という発見。
彼女のお誕生日、特別注文のバースデーケーキを前にして
今、ここで繰り広げられる状況に相応しくない「うんちく」がこれでもか、と
速射砲のように打ち込まれていく、それもかなり大げさに。

 「なぜ、仏教では洋ろうそくより和ろうそくのほうがいいのか」とか、
蝋燭の炎が持つ効能だとか、あなたはろうそく業界の人ですか、
といわんばかりのことばの雨あられ。
あふれんばかりの「会社愛」というか「業界愛」はよくわかる。
けれども、ひとつ間違えると「変態道」を極めてしまい、
周りの人がドン引きしてしまう、ここが弱点だな、気をつけなければ。 

福岡県大学合同公演2013「キレイ 神様と待ち合わせした女」

おもてなし、うらもなし。

 いや、まあ、やり過ぎた。
謎モダの方々と川端でモツ鍋、天神に戻って懐かしカフェで
それぞれズブズブと飲んだくれて、あとは訳がわからないまま
去年みたいにふらふらと迷い込み、気がつけばもう朝だ。

 というか、一年過ぎたら中洲、という街が「浄化」されていた。
去年までは「最後のお客さんが帰るまで」営業、という店がかなりあった。
特に南新地の「楽しいこと」をやるところは「日の出から日の出まで」という
勢いだったのが24時を過ぎたら「完全」に閉店してやがる。

 でもなぁ、珍しく心と体がグダグダになって、始発で家に帰り、
一度横になったけれど、変な塩梅で目が覚め、枝光の大猫座に
向かう準備をするものの、心と体が動かない。
しかたがないので間に合うギリギリまで家にこもり、休む。

 物凄くシンプルな表演空間。
おまけに漂う空気が「地下室」のような質感を持って、
生き延びることが容易ではない、「死」というものに
向き合わざるをえない、向き合わされている緊張感がそこにある。

 機銃掃射の音がどこからとなく聞こえ、水の音が聞こえ、足音までも聞こえる。
地下は湿気が多いから食べ物の保存も難しいし、健康も守れそうにない。
故に、長くとどまることは難しいが、無理に外へと出ようとしたら
「交戦状態」に巻き込まれて命を落としかねない。
非常に難しい状態でジャンの音が響き、どこかで火の手が上がったことを
それとなく知らせて、物語の世界へと見手を誘う。

 そういえば、この演目の「本式」、主演は奥菜恵だったよな?
あと、その他の座組は誰が入っていたか、ということを思い出そうとするが
なかなか思い出せないことに気がつく。

 なんていうか、今の日本でもあり、そうでもない世界のお話。
板の上のように露骨な民族闘争というものは現実の日本には
起こっていないけれど、陰湿な民族闘争は日常的に起こっている。
その状況下で「生き延びる」のはたやすいことではない。

 強くならなければ殺され、食べられてしまう。
殺されたくなかったら、食べられたくなかったら、
自分以外の誰かを殺して、食べていかなければいけない。

 そして、殺して、食べていけば行くほど心のなかに
「欲」というもの」がどんどん膨らんできて、「豊」にはなるが
反対に「執着心」という「醜さ」がセットで膨らんでくる。

 これらの様子が日本刀ではなく、鉈の切れ味で見せている。
故に、あらゆる繋がりが薄皮一枚で繋がり、
「浄と不浄」、「善と悪」、「正と邪」、そして「生と死」というものが
どちらにも転び、混ざっている「バランス感覚」が持っている恐ろしさが
じわりじわりと迫ってくる。

 この恐ろしさにおののいて一度引きこもるものの、
「他者には頼れない、自らでケリを付けなければいけない」と
まっ裸になって出てきた様は、まるで天の岩戸。
すべてを吐き出し、行き着く先は「無一物から始まり、無一物で終わる」という
一つの真理だった。

劇団goto 「お皿の話」

たどり着いてるのか、いないのか。

 「タンバリン」を見て、その次の「Listen」は体調の問題か、
日程の問題かはっきりしないが要は、見逃した。

 最近、見逃した、ということがあまりにも多すぎて、
そのことからしてもわたしがここ最近あらゆる意味で疲弊しすぎていたのかな。
こういうことをつらつらと考えながら、開演前のえらくシンプルに机と椅子、
そしてその他もろもろがある表演空間を眺めている。

 というか、小泉八雲、というか火野葦平の「怪談もの」を
「教育番組」という形で「ドラマ化」する、ということ自体が
人によっては「ツボ、突いているな」ということになるし、
または「なんか、マニアックだな」と受け取ってしまう可能性もある。

 昔はこういう「文化」にお金が使われていたかもしれないけれど、
今は「文化」が「分散」してしまって、お金も分散したがゆえに
少ない予算と人員で回していかなくてはいけない苦労がたくさん。

 そんな苦労の中で「女優」という誇り高き存在、
コンテンツを安易に作らず、コツコツ丁寧に作っていこうとする
「職人魂」、この掛け合わせがものごっつい。

 このものごっつさが英語の暗号性と日本語の繊細な感情表現の
対立、対比が噛み合って、不思議な人間関係の物語になっている。

 お話が進めば進むほど日本語って物凄く「豊穣」なんだよな。
というか、この「ことば」の背景にある「日本人」という「生き方」が
「豊穣」だったのかもしれない。

 対して、これを文化の違いというのかもしれないが英語は
「伝える」という意味では物凄くシンプル、だからこそ実用的。
故に、世界中で広く使われるようになった。
けれども、そうなったことで「犠牲」となったものがあるのだろう。
「人」としての生き方の中で生まれた「何か」というものとして。

 わたしたちはいったいぜんたい何のために「結果」を出そうとしている?
というか、何とために、そして誰に対して、もしくは誰のために
「評価」というものを欲しているのか?
その先を知るのが怖いからずるずると「続けて」いるのかもしれない。

 けれども現実、というものは「やる気」だけではなんとかなるわけではない。
何とかならなくても真っ向から「ぶつかる」とか、手は色々とあるのだが。

 いろいろな手を変え、品を変えて「現実」という皿を数える。
足りない、足りないいうて、探して、見つけたけれど、
実はこの「最後の一枚」というものが「プライド」というもので、
本当は残したほうがいいのかもしれないが・・・。

九州戯曲賞リーディング公演 「タンバリン」

We are the Champions of the"World"!!


 ごとーかおるさんもごとーかおるさんだ。
今までいた劇団を離れて、新しい劇団を立ちあげなければいけないほど
「表現したいこと」が漲りだして、このエネルギーを戯曲という形で
原稿用紙に文字でぶつけた。
 ぶつけた結果が「九州戯曲賞・大賞」だったのか。

 ギリギリまで「リアル」を追求し、ここにおしゃれな感覚を加えるという
戯曲の作りになっているから出演する演者にボクシングの技術を
「インストール」してからこの戯曲を「作品化」という形にしてしまった。

 驚いたのは技術指導という形で”sparky-K”、もしくは「鬼塚勝也」という人が
こういう形で「演劇」の中に入ってきたこと。


 この物語を高山力造という福岡で一味違う「身体言語」の持ち主が
どう扱って、あたらしい化学変化を見せるかが今回の肝。


 演劇をやり始めてから、ボクシングやレスリング、柔道を始めとした
すべての格闘技は「コミュニケーション・スポーツ」である、と
いうことがわかってきた。
ついでに、演劇は「コミュニケーション・アート」なのだが。

 人は誰しも「本能」だけで動いているわけではない。
かと言って「理性」だけでも動いているわけではない。
「殴る」や「蹴る」、そして「組む」という「身体言語」というものを使って
相手と「会話」をしている、ということはもしかするとわたしたちも日々の労働で
「黙々と働く」という行動を通して格闘家と同じことをしているのかもしれない。

だからこそ、この「会話」をより良くするために
身を削るほどの修練や鍛錬を「生活」としているのだろう。

 故に、「格闘技」は突き詰めると「哲学」へと変化していくのかもしれない。
このことは「嘘」や「ごまかし」というものを「排除」する作業を必要とする。
というか、「嘘」や「ごまかし」というものは一体どこから来る?

 このことを突き詰めたらある一つのことに辿り着いた。
「建前」と普通に呼んでいる
「しゃべる」言葉や「文章」などで「表現」する言葉と
「本音」と普通に呼んでいる個々の「からだか発している」言葉の
齟齬、というかずれ、溝、が「嘘」や「ごまかし」になる。

 というか、やっぱり「本音」も「建前」も戯曲の中には「残って」いたか。
goto版では女性4人芝居で、「からだの中から出た本音」のセリフ部分は
きちんと言葉にしていたけれど、異性たる「男」のセリフ部分や、
「建前」のことばを「タンバリンの音」で表現していて、その具合に唸らされた。

 高山力造版は「本音」担当と「建前」担当を分けて、
「建前」担当に「仮面」を付けさせて「からだ」で喋らせる仕掛けにした。
タンバリンの音は「本音」と「建前」のズレや齟齬がもたらす
「心のさざめき」として使っている、ここにも唸らされてしまう。

 「本音」と「建前」の齟齬やズレを「消していく」過程を
ふつうの生活を生きている、普通の女性に落としこむ。

 この心が折れそうなほどしんどいことや
他者とボクシングで会話をするという希望、
寄る年波というものが「その希望を容赦なく打ち砕いたこと、
嘘をつかず、ごまかさず「出しきった」充実感、
「恩師」でもあり「血は繋がっていないが、母」でもあるという繋がり
それぞれをを再確認し、歩みはゆっくりだけれど
また「新しいわたし」へと進んでいく。

万能グローブガラパゴスダイナモス 「ナイス・コントロール」

7日が一日、という時の流れ。


 この二年間、えらく大変だった。
まず、14+をめぐる厄介な人が巻き起こした「論争」にも値しない
いいががりに関与するつもりもなかったのに、自分が熊本雨傘屋で
やらかした不注意により、心理的に負荷のかかる形で巻き込まれ
やばい、演劇をやめようとガラパのチケットを返しにイムズホールに
向かったが、はしりさに「やめるな」と諭されてとりあえず続けることにした。

 けれども、厄介な人はわたしのあずかり知らないところで
陰湿により陰湿にいいがかりという攻撃を続けていたらしく、
その一年後、拒絶していたのに何かをかいくぐって直接攻撃が来た。
一番最初の攻撃の時、直接来たら「例のサイト」に今まで書いていた
演劇に関わるすべての文章を消去する、ということは決めていた。
決めていたとおりにすべての文章を消去して、「受け皿」を作り、
一連の出来事をあるところで吐き出して、出るところに出る、という
覚悟を決めて、あとは自分のペースでやり始めた。

 ついで、演劇大学福岡に参加して、ある意味「試験に受かった」という形で
あるところの会員、という形で足場を作り、いろんな繋がりや発見をもらい、
例のサイトにまたボチボチと書き始めるようになった。

 そうして自分の近辺が落ち着いた、と思ったら、大変なことが。
・・・いや、まあ、最近、「かゆいかゆい」と父はこぼしていたけれど。
今年の春、泊りがけで何かあった時に体調を崩したらしく、
下の妹の旦那さんと病院に行ったら膵臓にがんができていて、
それが肝臓にまで転移し、どうしようもできない、余命10ヶ月。
こんなことをさらっと自らの口で言うなよ。

 あとは奥山貴宏の「ガン漂流」三部作とほとんど同じ、というか
抗癌剤が効かない、打つ手なし、というところに脳梗塞を起こして
その治療に20日かかり、この間がんには手を付けられず。
その隙にがんは脊髄にまで転移し、髭剃りの時にできた
カミソリ負けがかさぶたにならないくらい免疫が落ちていた。

 あとは坂道を転げ落ちるように体力は衰え、
気力だけは最後まで残っていたけれど、
10月15日、午前4時52分、どこか遠くに行ってしまった。
 
 これが前作「星降る夜になっても」で薄ぼんやりと感じていた
わたしのあずかり知らないところで起こった変化のすべて。

 こんなことを考えつつ、表演空間を眺めてみる。
ベースは親富孝通りにある「屋根裏 獏」というアートな方々が集う場所。
この場所にガラパらしく「音楽」というものを溢れさせた作りになっている。

 本編が始まると、なんか、今までのガラパではない。
記念写真を撮っている様子があり、足元を見ていると、みんな裸足だ。

 「またこの世で」、一体何があったのだ?
そういえば壁には時計が沢山あるけれど、みんな11時で止まってる。
・・・「現世への扉」、「あの世への扉」、記録が残らない、なんか尋常じゃない。
さらには、「ファミコンのコントローラー」というものでポチポチっと
「投票」して、「全員一致」しなければ次には進めない。
この「投票」、チャンスは7回あるらしい、オプションとして
「スーパーなコントローラー」が投票の機会を一回飛ばしすることと
引き換えに使えるらしい。

 この感覚、どこかで感じたような。
まあ、はっきりと掴み取れたが、もう少し話を進めてみよう。
それにしても、水が出てこないのはどうしてだ。

 登場人物の自己紹介をしてみると、みんな若いな。
これからメジャーへの階段を登りはじめたアーティスト・アイドルと
そのマネージャー、マネージャーの夫とその同僚、
アーティスト・アイドルを病的に追いかける
ある意味ストーカーと間違われやすい男、美容業界、とはいうけれど
新興宗教団体の教祖と弟子、という関係の男と女、
プロ野球選手、それも育成と彼をひたすら「応援する」男。
そして謎の男が一人。

 最初のうちは早い段階で「全員一致」して「生き返りたい」と思うのだが、
なかなか「全員一致」にたどり着けない。
たどり着けないから、人間の心理として「犯人探し」をはじめてしまう。
この「犯人探し」を通して、それぞれの「リアル」がじわり、じわりと見えてくる。
このジワリジワリ具合が「記憶の手触り」と重なって
もっと近くにいるような気持ちに。

 大変きつい「心理ゲーム」によってそれぞれが生前隠していた
「欲」がむき出しになり、「世間体」というものが「欲」を「エゴ」に
変えて、にっちもさっちもいかない様として見えてしまっている。

 やっぱり、「あのこと」だったか。
中津川の演劇大学から名古屋で一休みして福岡に帰り、
うとうとすると電話がなって、から今そこにいる出来事の手触りが
板の上にある物語と重なっていやがる。

 父が本当に危ない、という連絡を聞き、全員が磁石のように
引き寄せられて、がんセンターの病室に、それから霊安室、
家に父が「帰ってきて」、葬式屋さんがやってきて、さくさくと物事が進み、
お寺さんがやってきて、枕経を読み、一晩過ぎて斎場に行って
納棺、末期の水を取ってお通夜、葬式、火葬場、骨上げをして家に帰る。
それぞれの出来事が、「逝く者の視点」としてよみがえる。

 結局、人間って「生きることを望む」のか、「死ぬことを望む」のか
「どっちつかざるの成り行き任せ」なのか、これらが「三角関係」になって
ぐるぐる回りながら毎日を生きていて、ぐるぐる回りながら
「あの世」と「この世」の間にある「つどい」に足を踏み入れる。

 ・・・だから7日、というか7回なのか。
こういうふうに父も場所は違うかもしれないが同じことをやっているのかもしれない。
その「意識付け」として今は簡略化の流れで骨上げのち初七日法要となりがちだが
自分のお寺さんは、「そんなことやめてくれ、きちんと一週おいて」といった。
で、初七日法要から7日毎にお寺さんがやってきて、
家族総員で経を読む、説教を聞く、この繰り返し。

 そうすることで「次に進む」という思いを揃えたら
「ナイス」という言葉とともに縄梯子が降りてきた。
その先に何があるか、見当はつかないが。

野田地図 「MIWA」

「歴史」と「人生」の旅人になった130分。

 ここ最近、世の中にある全ての物や事が「彼の人」に、
否、「彼の人」へと引き寄せられつつある、というか引き寄せている。
・・・こんな話を当の本人がうっかり耳にしたら「言葉使いに気をつけなさい」と
あの上品かつ、重みのある口調で言われてしまいそうだが。

 自分を東京という「感性の戦場」に引っ張り込むきっかけを作った
あるノンフィクションライターさんが久しぶりに出した本も
「彼の人」のことを扱った内容だったし、自分も自分で「彼の人」の
精神空間が傍らに存在している日常を生きている感じがする。

 ・・・そう、「彼の人」の名は「美輪明宏」、またの名を「丸山明宏」。
池袋に行って、そういうお話を見に行くように「縁」というものは
「仕向けられていた」わけか。

  北九州芸術劇場というところは大きいハコ、中くらいのハコ、小さいハコの3つに
分かれていて、大きいハコは「ホール」、中くらいのハコは「シアター」、
小さいハコは「プレイハウス」と英語で表記されている。
しかし、東京芸術劇場は大きいハコは「ホール」、中くらいのハコが「プレイハウス」、
小さいハコは「シアターイースト」と「シアターウェスト」。
どこがどう違うのだろう、と考えながら、開演前の変な重圧感を感じることなく
アシッド感の強そうな客入れ音を聞きながらいろんなことを考えているともう本編。

 これって、「精子」だよな、「受精」だよな。
「踏み絵」という形はとっているが、「リボンの騎士」の冒頭部、
神様がこれから生まれいづる魂に「男性」か「女性」か与えるところを
野田秀樹の「感覚」でやるとこうなるのか。

 「リボンの騎士」は「お家騒動」という「戦場」に「武と剣」で戦いを挑む。
対して「MIWA」は「日常」という「戦場」に「音楽と歌」で戦いを挑む。
さらには「不思議の国のアリス」という「果てしなき追いかけっこ」や
「鬼という相手のいないかくれんぼ・鬼ごっこ」というふたつの「虚構」があり、
この2つの「虚構」を包み込むようにイエス・キリストの誕生、
「三島由紀夫」と「赤木圭一郎」というそれぞれの「リアル」が存在している。

 かつて、自分は越路吹雪の歌を「鉈の切れ味」と表現したことがある。
そして、今回は美輪明宏の歌をあらゆる意味で「斧の切れ味」と表現したい。

 だって、一つ一つのことばや物語を感じるとき
「奥歯」に力を込め、手をぎゅっと強く握り占めているほど
心に引っかかる「切れ味」の「重さ」が半端ない。
切れ味も、重さも半端無いから、気がつけば自分の心の傷に
自ら指を突っ込んでいた感覚がする。

 さらには、「強さ」というものが生み出す「毒」と
「チャイルディッシュ(稚気)」が「男」という存在そのものを
滅ぼしてしまうのか、という「事実」までも見せつけられる。

 時と場合によっては「チャイルディッシュ(稚気)」
というものは魅力的に映ることがある。
しかし、ある時期を過ぎてしまえばその魅力が
通用しなくなってしまうことが多い。

 いつかはわたしのかたすみにある「稚気」を棄てる覚悟を
持たなければならないのかも。
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