非・売れ線系ビーナス×クロサイ 「漂白詩人」

「わざわい」の「はじまり」はいつも些細。
 
 なんともまあ、重たいものよ。
外がものすごく暑いのでどこか屋根があって、
空調が効いているところにハコのドアが開くまで立てこもりたいのだが、
なかなかうまくいかない、その中である仕事をやりこなし、ハコに入る。

 最近の非売れ、というか田坂さんは「近代古典」、それも「短歌」や
「詩歌」というジャンルから「文学の持つ演劇性」に着目しているなと。
この「文学のもつ演劇性」というものをきむかなが自らの持つ
「身体言語」というものを使って「演劇」に起こしている、そんな感じだ。
前回の「些細なうた」もそうだったわけで。

 そういう傾向に川原さんの「教養溢れる質の高い言葉」で書かれた
戯曲、という要素が程よく乗っかってしまうとどんな「化学変化」を
起こしてしまうのだろうか、というのが今回の趣向。

 ・・・のっけから持って行かれた。
「死か」から「鹿」、そして「詩歌(しか)」、
ついでに「詩人」から「死人」という風に「ことば」そのもののもつ
リズムがものすごくいい。

 この「リズム」で「穏やかな日常」から「戦争」という
「穏やかでない日常」というものが持つ狂気や混沌が板の上にある。

 なるほど、狂気や混沌を「洗い流す」が干した端からまた汚されて
また「洗いなおす」必要があるのか。
そういう繰り返しが続くとわたしの持つ何かが何者かに「染められて」いた。
故に「洗濯」は「選択」に通ずるのか、という発見。

 この発見に最近、私達の身の回りで起きている、起きつつある、
「穏やかではない」ことが「ことばの雨あられ」という形で表現できている。

 確かに「ことば」というものは必ずと言っていいほど
人を「傷つける」ことがあり、逆に人をその「ことば」で「助けること」もできる。
・・・だから、手段はどうであれ"goto"「行く」しかないのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、わたしが演劇というものに助けられ、
「行きたかったところ」の距離、というものをふと思う。
確かに「9年前」はそこから遠い場所に居た。
けれども今は少し近いところにいるのだろう。

 触発してしまうことばが生まれた。
スポンサーサイト

block 「キノコノコ」

「物語」という「解毒装置」。

 もやっとしている。
近づいてはいる、けれどもなんかまとまっていない。
まとまっていないから、状況をうまく回せていない。
しっくりこなさを抱えて話し合いに行き、それから小倉へ移動。

 なんていうか、昼間から空いている「ジャズバー」に
平日仕事休みの日に迷いこんで、「濃い」お客さんに混じりながら
ジャズを聞き、お酒を飲んでいるような感覚、とはこういうことを言うのだろう。

 オカルトというものが満載の喫茶店。
この場所で働こうとしている人のお話と昔、宇宙人に「攫われた」お話、
ふたつのお話が絶妙に絡み合ってフリーダムな日常、として
わたしたちの目の前に現れている。

 この「フリーダム」な日常を「物語」にしたいのだが、
何か心に「バリア」というものが存在して、そうすることを
「拒んでいる」存在が隠し味として効いている。

 故に、心の「バリア」を取り除く作業をする中で、
人に話したくないへんなことや嫌なことがじわりじわりと
「湧き出してくる」様子がなんともまあ、リアルすぎる。

 リアルすぎるから見ている自分が持っているそういう部分までも
炙りだされてきて、なんとも言えない気分になってしまう。

 「物語が生まれる」とはこのことか。
なるほど、「記憶」というものに関して、
「被害者」と「加害者」という存在の違いはかなり違うのだな。
「覚えている」と「覚えていない」というところで。

 その様子が恐ろしいくらいシュールで、しかも恐ろしいくらいえぐい。
いや、まあ、「レイプ」というものがこんなに怖いことだったとは。
だからそんなこと、してはいけないのです。

 本当に「まずい」思いをしてしまった時の悔しさや恥ずかしさを
こうして不特定多数の存在に「伝える」だけでもこの悔しさや恥ずかしさを
ほんの少しでも「和らげる」作用があるのだな、そんなことを感じた。

マニアック先生シアター 「妻の家族」

「家」という「磁石」。

 そういえば、この演目以降からラッパ屋の
北九州芸術劇場公演に行っていないことに気がついた。
うーん、主宰で座付作者の鈴木聡氏が某国営放送の朝の連ドラ
(榮倉奈々主演のやつ)のホンを書いたものだからチケットが取りにくくなって、
この演目と次の「ブラジル」までだろうか、北九州芸術劇場では小劇場で
金曜、土曜、日曜公演だったのが、いつの間にか中劇場で一日のみになってしまった。
そうなってしまうと日程の調整がつきにくくなって、さらには(以下略。

 その隙間にマニアック先生シアターというところが
表演空間の寸法が小さいことと、ハコの制約で「本水」が使えないという
二点さえ除けばかなりの精度と密度で鈴木聡戯曲をやりこなすところを
見つけて、今に至る。

 この幅の広さ、あじびホールでないと出せないよな。
天は北芸のほうがあるから屋根まできっちり作りこむことはできないけれど
逆にとらえると「物語」というものに集中できる作りになっている。

 そんなことを考えつつ、今いるところは冬、板の上では夏。
「ハハキトク」の知らせを聴いて駆け込んでみたものの、というところから
物語に雪崩れ込む、とはこのことか。

 どうやら、この家は「女系家族」らしくて男の居場所が少ないようだ。
故に「遠くに生きたい」と言ってはいるが、家の都合で行けない。
傍目から見てもなにかしんどいよなぁ、「フリーダム」なまわりを見れば見るほど。

 「フリーダム」な方々を見れば見るほど、とはいうけれど
そのフリーダムな方々だって「幸せ」って一体何なんだ?という
永遠の「宿題」を解決できずにいる、という現実がある。

 「幸せ」って一体何なんだ?という問いは生きていく中で
大変厄介な問いで、真剣に答えを出そうとすればするほど
世間と「感覚」が違っていって、なんていうか「余所者」という気持ちになる。

 わたしは「何者」から十分すぎる「餌」を「貰って」生きていくことが
「幸せ」と思うのか、それとも「自分」でなんとか行きていけるだけの
「餌」を探して、取って生きていくことが「幸せ」と思うのか、その違いを
知ってしまったがゆえのなんとか、なのかなぁ。

 その「知ってしまったがゆえのなんとか」がもたらす「身体的反応」と
いうものを「脳科学」の観点で説明する。
 ここに「なりはロックだが、音はフォーク」やら
「落語のリズム」、さらには「プロレス的展開」が絡みに絡み合って
「知的程度の高い」物語に仕上がっている。

 「フリーダム」な方々に腹を立てて「家出」をするけれど間が悪く
身ぐるみ剥がされて命からがら家に帰り着いた。
しかし、身ぐるみ剥いだ人が「シメシメ」と思って道を行ったら
雷に会って死んじゃった、なんともまあ理不尽だな。

 けれども、この理不尽なことを通して、「家」というものが
「不思議な磁力」を持っていて、この力がわたしたちを
「つないで」いたのかもしれない。
この「極普通」なことに気がつく、これが「幸せ」というものか。

鈴木ユキオ+金魚 「Waltz」

既視感。

 最近、コンテンポラリーダンスというものを見ていると、
「最初の数分間」というものが眠くて眠くてたまらない。
どうしてだろ、そんなことをよく考えてしまう。
体調管理がうまくいっていないのかもしれないし、
もしかしたら別の理由があるのかもしれない。

 そんなことを考えつつ今回は見ることにしよう。
にしても、「黒滔々たる空間」とはこういうことをいうのか。
「サイトスペシフィック」なんて言葉を使ってみたいが、
そう言ってしまうとわたしの持っているものの「底の浅さ」が
わかってしまうからものすごく嫌だな。

 こんなことを考えていたら夜の帳が降りるかのように
じわじわと客電が落ち、また新しい朝が来るかのように
物語の「灯り」がそこにできている。

 あれっ、空間の奥行きが深いはずなのに、
60人ポジションの最上段に座っているはずなのに
手元すぐ近くに「身体言語」が存在している。

 なるほど、わたしの身体言語とあなたの身体言語は
小さいところで「違っている」ということなのか。
この小さい違いを掴み、「マイルール」というものを整理すればするほど
「身体言語」というものの凄さと、その凄さを殺さない「言語」の混ぜ込み方、
あと、「身体言語」と「言語」のバランスと諸々の事柄に対するコントロール。

 こんなことを感じていると暗くなったり、明るくなったり、
男と女の寄せては返す不思議な関係というリズムを感じていると
ある一つのことに気がついてしまった。

 最近のコンテンポラリーダンスは「睡眠」のリズム感で作られている。
いや、まあ、最近、新しく携帯電話を買い替えて、
そこに「睡眠のリズム測定アプリ」をぶち込んでみると
これがまあ面白いことになっていたからかもしれないが。

 睡眠のリズムで「如意と不如意」を表現してみたら
以前、自分が不安定なときに寝覚めの悪い夢をよく見ていたな、
まさしくそういったたぐいの夢で、しかもリアルで見た。
「恐れていた」ものから逃れようとする感覚、
「からだのある部分を喪失」してしまうことを「恐れる」感覚、
そういうものが直に蘇ってくる。

劇団きらら 「踊り場の女」

「怖い」を「怖い」と素直に言ってみる。

 この一年、とにかく「築」の一年だったよな。
父はあっけなく「遠いところ」に行ってしまうし、
自分も自分で方向性の変換を図らねばならなくなったわけで。

いいことか、悪いことか、正直わからない。
「家を出て、自活しなければならない」という「縛り」というものが
綺麗さっぱりなくなって、逆に「集まる場」を残さないとな、という思いが
だんだん生まれてきた。

 この「集まる場」を作っていきたい、という思いを土台に
今後の人生を生きていくのかなぁ、なんてことを考えているともう本編。

 「星の王子さま」以降のきららは「フランス風味」というものを
隠し味として空間のつくりや物語の作りに加えつつある。
この「隠し味」が程よく混ざった中で「無縁社会」というものを見せ、
そして、「無縁社会」の周りにある「過干渉社会」まで精度の高い
「身体言語」で見せつけられるとあらゆる人生のもろもろごと、という
「リミッター」が解除されて自由度が増すとこのように「物事」は見えるのか。

 というか、いけだみきって、リミッター解除すると西原理恵子のように
「信じられないところ」にまで見手を連れて行くことができるのか。

 人生の中で起こりうるありとあらゆる「怖い」というものに
はっきりと「怖い」といえないタブーが人生のトラブルに
繋がっているのかもしれない。

 「怖い」と素直に言えないから、「所属」や「帰属」のもとでの「自由」を
「自由」と言っているのか、その自由の中で生きている人が「怖い」と素直に言える
「存在」を疎ましく思って、ああいう「ことば」を発してしまうのかな。
そんなところまで考えてしまうようにできている。

 「幸せ」って一体何なんだ?
「成功」って一体何なんだ?「失敗」って一体何なんだ?

 こういうことを思えば思うほど
「人生とは思うようにならない」とはよく言ったものだ。
わたしの意図しない方向にしか物事は運ばず、
そうなるようにしかならないようにできている。

 「縁」というものを残したい、と思えばいつの間にか「切っていく」方向になる、
逆に「縁」というものをうざったく思って、切りたいな、と思えば思うほど
この「うざったい縁」がしつこく残るようになっていて、大変面倒だ。

 けれども、「生きたい」と思っているのだったらうだうだいう暇なんかない。
面倒なものを引き受けるだけ引き受けて生きてやる。

「川上音二郎・貞奴物語」 博多座

 「博多演劇」と「第二の道」を模索し続ける。

 「博多演劇」を作った「テアトルハカタ」と「あたらしい博多」を
日本中に知らしめた「ギンギラ太陽’s」が掛け合わされて、
すべての根源である「川上音二郎」という人物の生涯を表現した趣。

 この事自体が大変不思議な、不思議な縁、というか、
川上音二郎がいなければ、テアトルハカタはなかっただろうし、
テアトルハカタがなかったらギンギラ太陽’sはなかったのかもしれない。
そして、これらが居なければ、私はこうして、この場所にいない。

 さらに言うと、自分と同じ高校の同級生が今もなお板の上で戦い続けている。
高校の時からずっとテアトルハカタの中でやって、独立してなんだかんだだから
大概キャリア長いなぁ、あの場所で勉強ばかりやっていいところに行った奴らよりも
正直すごくて、尊いものだ、と思う。

 そういうことを考えているともう本編だ。
てか、こういう「花道」の使い方もありか、という導入部。
「野辺の送り」というものをああいうふうに表現したか、
なんていうかものすごく切ない空気をかき消すかのように
天井から音次郎さんが登場して物語る。

 このお話の最初から最後まで流れているものは
「平等とは一体なんぞや」という問いかけなのかもしれない。
「機会の平等」を大事にするべきか、それとも「結果の平等」を
大事にするべきか、それとも「平等」なんて端からない、
それならば、どうやって「与えられた」人生を生きていくのか。

 言えることはただひとつ、「どういう形であれ、切り拓くこと」が
一番大事なのかもしれない、「成り行き任せ」という選択肢もあるけれど。 
というか、今も、むかしも「にほん」そのものが実は「成り行き任せ」という選択肢を
望んでいるのではないのか、てなことをじわじわと考えるようにできている。

 というか、「にほん」、という「仕組み」は
「考えないこと」を前提にできているようだ。
そういうふうにできているところに「居場所」がないから
どんなことをしてまでも「居場所」を作らなければ
この世に生まれた意味が無い、と思う男と女がくっつけば
「演劇」という素晴らしいものやことが生まれた。

 けれども、周りは「急いては事を仕損じる」という。
音次郎たちのやることなすことにそういえば言うほど「にほん」という「仕組み」が
「考えないこと」によって成立していて、ただ「目先の欲」にのみ
動いていくことが素晴らしい、とは言わないまでも「正しい」とされている
仕組みなのかもしれない、という「本当」が透けて見えてくる。

 それでも「第二の道」を命かけて模索していったからこそ、
今、こうやって演劇は存在するし、オッペケペ節だって
「ラップ・ミュージック」という形で存在しているのかもしれない。

 初演はギンギラ太陽’sの「エンターテイメント」要素が強く入って、
「人生」をあますところなく伝えた感があったけれど、
再演ではテアトルハカタが持つ「博多演劇」の要素が強くなって、
「ガチの演劇」というものになっていた。

終わって、天井をふと見やると、またいつもの様に空から見ていたよ。

西南学院大学演劇部 「クロノス」

Kosmos

 本家キャラメルボックスがやってたものは見たことがない。
というか、キャラメルボックスにまで食指が動かないわたし。

  けれども、風三等星版を見た時、過剰すぎる「感情の爆発」というものを感じて、
キャラメルボックスはこれでお客さんを「泣かせるのか」という発見があった。
なんていうか、「演者の創りだす」、もしくは「戯曲が醸しだす」熱量や圧力が
いわゆる「完全パッケージ版」であっても半端無く、そのエネルギーに「アテられた」見後感。

 今回は女性の演出家が味付けしたらしく、その所為なのか
「物語」に対する理解と入りは深いんだけれど、恐ろしいくらい冷静だった。
けれども、空間のアートワークスはものすごいおしゃれ。
ああ、キャラメルボックスが女性に受ける某高級腕時計ブランドとコラボして
作ったクロノス・ジョウンターはこういうものになるのか。
がだ、「演者の醸しだす」熱量や圧力、「戯曲が醸しだす」熱や圧力が
男の人が演出するものよりも半分のパワーしかなかった。

 これが俗にいう「ジェンダー(性差)」というものだろう。

 だけれど、熱量や圧力が半分だったからこそ
「事故に因る喪失」は恐ろしすぎるほどの悔恨を残すんだ、という
現実の生々しさが半端じゃない。
だから自分の関わる総員を欠けさせたくない、という気持ちになるのです。

 けれども、「人は生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬ」という現実もある。
この「現実」に抗うかのように彼はクロノス・ジョウンターで
時空を超えた「旅」をする。

「現実」を受け入れたら「別の人生」というものが開けていたかもしれない。
がだ、この現実を受け入れる=彼女を助けることを諦めたら
彼は「人を想う心」というものを否定してしまう。
そのことがとても、とても許せなかったのだろう。
だから、身も心も削って、さらにはなにもわからない人間の妨害まで受けながら、
わたしという「宇宙」の起動の歪みや浮き沈みによるズレや飛びに負けず、
何度も、何度も「挑戦」していく。

 正直いって、この物語、ウザいと思う。
マジでぶん殴って、時空を超えた「旅」をやめさせたいとすら考える。
「苦しみ」というものが倍でやってくることでも耐えられないのに、
これ、「苦しみ」が倍ではなく、乗でやってくる、もっと耐えられないよ。
がだ、もしかしたら「生の歓(よろこび)」というものも
乗でやってくるのかもしれない。

 さらには苦しみも歓びも超越した「そうしたいから、そうしなければいけない」
私はこうして、この場所に向かう、という覚悟があったから、
好意的に見た人は歓びを受け取り、否定的に見た人は苦しみを受け取ったのだろう。

非・売れ線系ビーナス 「そう遠くない」

「貨幣の匿名性」をめぐる考察。

 博多リバレインの地下にこんな風情のあるハコができたとは、驚きだ。
おまけにハコ主がアクティブ・ハカタという博多演劇の流れを引くところ。
ショーマンシップといい、ここといい、「自前のハコ」にとことんこだわる。
というか、テアトルハカタ以来の里帰りができてまあ何より。

 表演空間、屋根裏獏、というかブラジレイロってこんなかんじなのかな、
という作りで客入れ音がジャズなもので、仕事終わりの疲れたからだに
とろとろと効いて本編に入る前に寝てしまいそうだ。

 いや、まあ、正直いって、戯曲の破壊力が結構ある。
土台はある喫茶店に集う人間模様なんだけれど、
なんていうか、ここまで表現していいのかな。
いろいろな面で「タブー」というものにギリギリ踏み込んでいく感じ。

 この端的な例が、「電子マネー払いとポイント」の
関係性に現れているのかもしれない。
この物語の住人たちはこの店の支払いを「現金」ではなく、
地元系鉄道ICカードで済ませている。
・・・しかも、「記名式」のカードを使って。

 途中からやってくる「よそ者」も最初は別の地区の
ICカードを使っていたが、「馴染む」に従い地元のカードを使う。
ここに「薄気味の悪さ」というものがうっすらと。

 なんていうか、「ポイントを貯める」ということと引き換えに
「わたしはここにいて、こういうものにお金を使った」という
「情報」を差し出している、その情報を使って奴らは
なんか企んでいるのかもしれない。 

 この「無意識に情報を差し出す」危険性に対比した
「現金」というものが持つ「匿名性」、そして「匿名性」というものが
あるから奴らはなんか「現金」というものを使わせたくないのだな、
という「企み」までもが見えてくる。

 結局、日本中、あるいは世界中いろいろな問題が起こっていて、
その問題を利用して、いい思いをする奴もいるし、
理不尽な扱いを受ける人もいるし、なんの影響も受けない人もいる。

 こういった「世界」や「日本」の問題を
「福岡」というサイズにまで圧縮してしまうとこうなってしまうのか。

 日頃、ニュースなどで見聞きした事柄に対して「痛み」や「辛さ」
というものは「所詮他人ごとだ」と感じることが多々ある。
がだ、これらの「他人ごと」が手許に引き寄せられると一体どうなる?

 もしかしたら、わたしたちは「出来事」というものの
重さ、衝撃が半端じゃないということを通して、
ありとあらゆることやものが「薄皮一枚で在る」を知るのだろう。

 この「存在する薄皮一枚」のバランスが崩れることで
わたしたちの世界は大きく変容してしまう。
「革命」とは一体何なんだ、「民主主義」とは一体何なんだ。

不思議少年 「東京ジャングル」

わたしにあなたはなにを求める、あなたはわたしになにを求める。

 熊本から佐世保まで高速バスに乗って何回か移動したが、
今回は初めて佐世保から熊本へ高速バスに乗って移動。
ちょうどいい時間帯で柿喰う客があって、終わったタイミングで
熊本行きの高速バスの便がある。
しかも、使う車が夜行車の流用なので居住性最高。

 交通センターでバスを降りて、ハコが開くまで街をウロウロ。
お茶を飲んで、文章を書こうか、と考えたがちょうどいい場所がない。
というわけであっちふらふら、こっちふらふら。
お風呂にも入れず、食べるにいいものがなく、仕方がないからハコに向かう。

 それにしてもすげぇ空間のつくりだ。
客席にはいろんなポジションに色んな種類の椅子が、
当然のことだが、すわり心地もそれぞれ違う。

 熊本の若手って、なかなかエッジィな演劇をやらかしてくれる。
と言わんばかりにむき出しの「ジャングル」な表演空間、
客入れ音はアフリカンの効いたテクノフレンチ、もしくはフレンチポップ。
使う色目は黒と白、さらには立って、居る様がものすごく絵になる。

 「ゴジラが東京を蹂躙する映画」から本編が始まる。
昔から「地方」という場所はなにもない、なにもない、とにかくなにもない。
なにもない場所で生まれた若者は希望をどこに見出すのだろう?
「ある」ところに行って、希望を見出したい、否、見出すしかない。

 けれども「どうしたい」のか、よくわからない、おまけにアテもない。
あるのは「わたし」というものを「わたし」を使って表現してみたい、
このたった一つの「希求」というか「欲求」を携えて若者は都会、
特に東京へと向かうのかもしれない。

 この「希求」と「欲求」を携えた「むかし」のわたしたちと
「いま」のわたしたちが「同時多発的」に走りだす、走っている様子を
絶妙の位置取りで見せている。

 正直、こういう「事例」をやらかした身内がいるので他人ごとじゃない。
いや、まあ、母方の姪っ子が歯科助手の学校に行って、他の同級生は
もう進路が決まっているのに、その子だけどこも行くところが決まっていない、
というかあえて決めなかった、理由は「希求」と「欲求」を携えて
東京に行った彼氏の後を追いたかった、という話をうっすらと聞いた。

 おまけにあの子は結構きれいなものだから、もりおかのように
風俗の世界で働いていたのかもしれない感じで、さらには
なんだかんだあって「結婚しました」という手紙を見たら(以下略。

 「恋愛」とはなんなんだろう、「依存」とはなんなんだろうな。
「セックス」というものを求めるのか、それとも「精神的なサポート」を求めるのか。
この違いをうまく理解してあげないとすれ違ってしまうのだろう。
多分、わたしの彼女は「精神的なサポート」を求めていたのか、という発見。

 才能を見出されて道が開けたが、
父が倒れて、亡くなったことで「現実」というものを見せつけられ、
「現実」を生きようとするがなかなかうまくいかない。

 その場に残るは「お互いがお互いにしがみついている」関係のみ。
本当に、男って、情けない生き物かも知れない。

 この情けなさを受け入れて「やり直した」のか、「別の道を歩き始めた」のか、
どちらにも解釈できるラストやね。

柿喰う客 「ながぐつをはいたねこ」

「見た目がいちばん」という「ハッタリ」。

 それにしても、見ず知らずの他人の子供を預かることが
こんなにしんどいとはなぁ。
いや、まあ、11時開始だから遅れないように前日仕事終わりから
佐世保に入り、うだうだしてから久しぶりのアルカス佐世保。
ご挨拶してチケットを取りに行って、並んでいるとちょうどその日が
NHK交響楽団佐世保公演の先行予約日。
このチケットを買いに来がてら孫連れて見に来たのだろう。

 がだ、列がなかなか消化できず、そういう事情から預けて、
気をもみながら中にはいり、席を探して待つ。

 そんなこんなしていると用事を終えて戻ってきてまあ、何より。

 表演空間ではメイドの格好をした女の子が猫のようなムーブ・マイムを
やって、場をセクシーに「温めて」いる。

 こういう様を見ていると「猫」という動物が「セクシー」という文脈で
愛している人がいるのだな、ということを改めて感じてしまう。

 本編45分になんだかんだが加わって実質一時間と少し。
その中で「世界の名作」と「最新鋭の演劇」の融合を見る、という趣。

 気が付くといつの間にか「異次元」というものに引っ張り込まれた。

 というか、このお話、ざっくり言うと「人は見た目が9割」ということと
「拾ってもらった恩義を過激なやり方で返した」ということなのです。
その過程で起こった「まやかし」や「マジック」というものを猫が逆手に取って
「所有」とは一体全体何なんだろう、「イメージ戦略」とはどうすべきか、
ということまで見手に問いかけてくる。

 うーん、「ながぐつ」ひとつで「レジスタンス」が成立するとは
ホンマに「名マネージャー」だな、そして名マネージャーは
「太鼓持ち」の芸もある意味必要なのか、よいしょっと持ち上げて、
はしごまできちんと外しておかないと「奪う」ことができないのか、と
「文化」の違いを見せつけられるとなんとも言えない。

 こうして土地も、何もかも「奪った」あなたは
これから「あたらしい試練」が始まるのに、
どうしてながぐつを置いて行ってしまうの。

 猫にとって恩義を十二分に返した、それだけでよかったのかもしれない。

 「いま」と「むかし」が絶妙に混ざっていて、
この混ざり具合が人間の滑稽さやら何やらをうまく表現している。
あと、子供たちとのコールアンドレスポンスがすげぇ。

 こういう「ぶっ飛んだエンターテイメント」を見て育った
佐世保の子どもたちが「演劇」というものをやると
どんなものを作ってしまうのか、正直恐ろしい。

Hall Brothers 「となりの田中さん」

「努力のやり方」はひとによって違うのかもしれない。

 ここ数年、自分はハンバーグ工場と演劇の仕事で悩んでいた。
「わたし」と「他者」と「異者」の関係性、というものについて。

 演劇の仕事だったら、今現在の「わたしのしごと」についてしつこく
「良くない」言葉を吐きかける厄介な人がいて、ハンバーグ工場に
働きに行けばなんか「自分の世界」をだらだらと話している人がいて、
「お願いだからわたしの人生を邪魔しないで」と叫びたくなる。

 このことに対して叫ぶことなく、
月いちで考え、話して演劇とハンバーグ工場の仕事に活かして
いくようにひとつの流れができつつはある。

 そんなことはさておいて、久しぶりにぽんプラザ。
あの空間にまさしく「フラット(集合住宅)」を作ることができている。
さらには調度の塩梅が「四者四様」の生活具合。
しかもこの空間に存在する苗字がすべて「田中」姓。
当たり前すぎる苗字だからか、どこか尋常ではない空気が冒頭部から。

 当たり前すぎることなのだが、苗字が同じでも「人生」が違う。
逆に言えば「苗字が同じ」だから「人生の違い」がくっきりはっきりと見える。
さらには「空間の基本的なつくり」が「フラット(平等)」だから
これらの夫婦が「どんな人生を歩いて、出会って、くっついたか」が
うっすらと見えてくる。

 人間って、「違い」というものがうっすらと見えてしまうと
その「違い」がどういうものなのか気になってしまうものだ。
次に「違い」というものを知りたくなって「相手」の「生活」に
土足でじわじわと踏み込んでいく、そして「おなじ感覚」を持つ
「他者」なのか、「違う感覚」を持つ「異者」なのか選別をしてしまう。

 選別をしなければ対策の立てようがないことはよく分かる。
けれども、「わたし」がどういう人間なのかわからないままだと
「境界線」の引き方について精度と密度が曖昧になってしまう。
目の前の人はこういうふうに立って、居て、振舞っている。
けれども、私は同じ状況ではこういうふうに立って、居て、振る舞う。
その違いを掘り出してくれる人がこの空間には居ない。

 居ないから問題に対するアプローチ、責任の所在が
ぐちゃぐちゃになって結果、「コミュニケート」しているつもりになっている。

 ああ、この空間にいる人達はあらゆる人生の状況で
この「コミュニケート」しているつもりになっていて、
その中で「変わるふり」をして、今まで生き続けていたのだな。

 「変わるふり」をしていると心と体がしんどくて、そのしんどさを
紛らわせるために仕事にこだわり、人生にこだわり、
宗教にこだわり、とにかく、目の前にあることにこだわってしまう。

 目の前のことにこだわっているから「我」と「他者」と「異者」の
関係について「境界線」を曖昧にして、色んな意味で
追い込んでいることに「気がつかない」ところまで見せていた。

 どういう形であれ、みんな「懸命」に生きている。
「懸命」に生きていることを忘れて「他者」はともかく、
「異者」に対して「変わる努力」を「強要」するために
ああだ、こうだ言うことはあまり良くないのかもしれない。

 もし、言いたいのならば、「我」もそれ相応の「努力」をせにゃならぬ。
それ相応の「努力」をしていたらなにも言えない、ということでもあるが。
 
 
何にしても「強要」は良くないのだろう。

飛ぶ劇場「工場S」(再演)

生と死が混交している空間に「帰ってきた」、とはこのことか。
 
 最初足を踏み入れた時、そこにはビールの匂いが残っていた。
しかし、建物の「響き」、演者の「響き」、見手の「響き」、
あと、街の「響き」が良い感じに重なって、
「ここでしかできない演劇」によって空気が入り、混ざったおかげで
少しずつビールの匂いが消えている。

前に同じ演目を見た時は終演後、北九州空港から
東京行きのスカイマークに乗らなければいけなくて、
大雨の中、時間との戦いになって物語をざっとしかつかめなかった。
開演前、上演時間についての細かいところを聞いて、然るべき手を打ち、
バタバタして移動したものだからアンケート出し忘れたり、さらには
鉛筆を黙って持っていた、こないだの大砲の家族の時まで。

 おまけに東京着陸寸前に尿意切迫感がひどくなって(以下略。

 ドアが開いて、客席に着く前に、ひと通りビール工場の
跡地を見てまわる。
なんて言うか、未だ、生々しい。
そんな空気をもらって、地下にある「秘密基地」のような
奥の深い表演空間にたどり着く。

 このお話を見たあと縁あって、京都でロングラン公演をしている
「ギア」という「身体言語」を使ったエンターテイメントを見た。
まさしく、この「工場S」とほぼ同じ空間のつくりだ。
違うのは表演空間の天が工場Sよりも高くて、
巨大な扇風機があって、通路の切り方、そんなものか。

 で、開演前にこのビール工場で働いていた人を
招いて物語の暖機運転とその場所に携わっていた
すべての人々に対する「リスペクト」の意味を込めた
軽いおしゃべり会、工場での休憩時の雑談から
始業のベルが鳴り、リラックスして物語が始まる。

 初演時感じたのは、「労災事故」で突然、人生を「失った」魂がそこにいて、
生きている、働いているからいろんなことがあるけれど、
…………まあ、嬉しいんだ、働ける、ということは生きていることだから。
けれど、自分の領分を超えて扱うものが大きくなればなるほど
「事故」の規模は大きく、ひどくなって「死の世界」と隣り合わせになっている。

 それが「三角関係」であり、どこかでふっと気を抜いた、ということなのだろう。
そういう「緩み」がじわじわと心と体を蝕み、気がつけばM地区の工場S にいた。
「何も生み出せなかった、生きているときに」という後悔と共に。

 そういうことになってからではもう遅い。
だからいつも「だ」を日常生活に込めて、その込めたことを
どう自分の与えられた場所、仕事、役割で表現していくか、を
最近、よく考えるようになった。
この「わたし」を出しきって表現したことが「生きている」ということになり、
この「生きている」の積み重ねが「ものがたり」なのだ。

 「ものづくり」と「ものがたり」の魂がじわじわと効いていて、
「時間」と「時間にまつわる面倒事」を忘れされる魔法まで効いていた。

 こういうことを考えながら人生を生き続け、父が「人生を終わる」様子を
見続け、厄介な方々にいろいろ言われながらも、理解してくれる人に恵まれ、
たくさんの関係性が生まれ、化学変化が起こった上で物語を見る。

 これは「四十九日」の物語だったのか。
「死」から「生」を見ると執着が存在して、この「執着」というものが
いろいろな面で「妨げ」になっているのだろう。
この「執着」を「想い出」という物語にして手放した上で
昇華させる、否、させなければいけない。
父を亡くしてからこの作業を毎週火曜日していた。
そして、この演目を見た翌日に全て終わった。

劇団鹿殺し 「無休電車」

さあ、次を始めようか。

 青山円形劇場が近い将来なくなるらしい。
ものすごく惜しいよな、どうしてあの輩は「文化」というものを
「目の敵」にするのだろう?

 というか、東京で初めて演劇を見た場所がここなものだから
余計切なさや、寂しさというものを感じてしまうのです。
久しぶりにこの場所に入ってみると「狭さ」というものに驚いた。
縮こまって見ていたのか、何なのか、訳がわからなくなる。

 客入れ音から「大阪」があふれている。
大阪があふれている中で今までわたしが歩いてきた道、
出会ったことやもの、そして人がいろんなポイントで重なって
たくさんの「化学変化」というものが起こっていたのかも知れない。

 どうやら、人生、というものは競輪のように「ライン戦」で行くしかない。
がだ、競輪と違うのは「事の次第」によっては先行していかなければいけないし、
先行している人たちを守るために後ろで「仕事」をしなくてはいけない、
さらに言えば、次に繋がる布石、というものも打たなければ。

 こういうことを考えながら本編に入る。

 劇団そのものの「自叙伝」だったのか、これは。
なんていうか、物語の世界は「阪急電鉄」の文化が
これでもか、と込められている。
チョビねえさん、大学は関西学院大学という
これまた「阪急文化」のまっただ中にいたわけで。
だから「楽隊」を入れるになんの抵抗もないわけか。

 いや、まあ、関西の吹奏楽イコール阪急電鉄、阪急百貨店と
いう印象がわたしにはあるのです。
ここに宝塚歌劇が入り、本当は阪急ブレーブス、
オリックスブルーウェーブが入るはずが、
「金の亡者」に対抗して「急神合作」をしたせいで、
ここに阪神タイガースが「混ざって」しまっている。

 そういう文化を「土台」にして伊丹の飛行場、騒音問題で稼いでいた
とある工務店が関空に変化していく中でうまく稼げなくなって、
この文化の中で「生きる」ことが難しくなり、阪急電車に飛び込んで。

 それでも大好きだった「演劇」に対する「無念」というものがあって、
この無念を生きているものに託して、繋げたら「東京に出る」という
ひとつの形になってしまった。

 「共同生活」をしながら「路上」で「演劇」をすることで修羅場を踏み、
お金のことや、機会のなさに苦しみ、一度は諦めようとしたが、
ということをこの劇団が歩いてきた「リアル」と混ざって不思議な感じ。

 「背負っている」とは何なんだ?
「戦い続ける」ってなんなんだ?
それよりも、何よりも「生きる」ってなんなんだ、「死ぬ」ってなんなんだ?

 まあ、今の状況、しんどいことばかりかもしれないが生き続け、
「まっとう」に戦い続けていれば誰かがあるべき方向に導き、助けてくれる。
とにかく、目の前にあることをやりこなしていくしかないのだ。

 自分も今同じ状況下を生きていて、身につまされる。
けれども大丈夫だと背中押された見後感。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR