劇団ショーマンシップ 「唐人歌舞伎・沈黙は語る」

まじで震えた。震えるしかない。

 そういえば、ある仕事で前回の唐人歌舞伎「午前零時の椅子」で
「中野正剛」を「福岡初の総理大臣」と「取り間違える」という
最悪の「しくじり」をやらかしてしまった。

 というか、「中野正剛」と「広田弘毅」を取り間違えるなんざ、
わたしもとうとうヤキが回ってきたか、と落ち込んだところで
今回、唐人歌舞伎の題材は広田弘毅。
速攻ネタにして頂いて、本当に救われました。

 というわけで、熊本から枝光アイアンシアター、唐人町甘棠館と
「24時間演劇状態」の締めくくり、というかクタクタの出し殻になって席につく。

 表演空間のつくりが廻り舞台を3つしつらえたシンプルな作り。
おまけに「音次郎」ラインでギンギラのムネトさんが客演でやって来た。
ついでに甘棠館ラインでガラパの松野尾さんも客演だ。
ああ、なんだかんだいってもみんな「つながって」いるなぁ。

演劇をする事でわたしが今まで生きてきた
「世の中」の見え方が変化したようだ。
この流れからしたら、この「広田弘毅」と「東京裁判」のお話は
今まで、社会の中で「タブー」としなくてはいけない事情があったのだな。

 さらに言えば、「福岡」と「玄洋社」のことも「重大なタブー」だったのか?
もっと言えば、「明治維新」から「西南の役」、
「日清・日露戦争」、「太平洋戦争」、
そして現代につながる出来事がもしかしたら
「巧妙に仕組まれた罠」のように思えてならない、故にタブーだったのだろう。

 世の中の見え方がダブルスタンダード、トリプルスタンダード、
おまけにもひとつクワドラブルスタンダードとなっていることが
わかっていたから広田弘毅は「沈黙」を選んでしまったのかもしれない。

 スタンダードに対して「沈黙」で回答することを選ぶまでのすべてを
「日系合州国人」という「日本人」とは少し異なる存在が解き明かして
行けば行くほど、「戦争の持つ本当の3つの目的」がじわりじわりと
色濃く見えてくる、ということについてわたしの震えが止まらない。

 人間、普通に生きていたら「戦争」というか「対立」が
ひどくなることなんてそうそうありえない。
人対人で「戦争」に当たるものが「殺人事件」で、
そこまで来たら「異常」といつもは考える。

 だとしたら「人間」のなりをした「獣」がその「異常さ」を隠すために
あるいはその「異常さ」によって「人間」から排除されないように
逆に人間を排除し返すために「戦争」というものを利用しているのだろう。

 だからこそ、この戦争で「生き残らなくてはいけない」存在が優先的に
殺され、「死ななければいけない」存在がいろいろな手を使って生き残ったことが
あまりにも切なく、悲しい。

 正しいって、いったいぜんたい何なんだろう?
「ゆるやかなファシズム」、もしくは「ゆるやかな独裁制」のほうが
人間は個々の力を最大限に使うことができる、ということは
この世は愚かでしか生きられないのか?
という問いをうっかり貰ってしまった見後感。
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だーのダンス 「女のとんがり」

「丹頂鶴」の生態をダンスに起こすと、こうなるのか。

 前の日、熊本でゼロソーを見学の後に飲んで、宿に戻って
少し書き始めて寝るが、部屋が乾燥しすぎてぱさぱさになる。
そうなるとうまく眠れず、悶々としているともう朝だ。

 寝る前に飲んで、食べているので朝ごはんはパス。
飲まず食わずで小倉行きの高速バスに乗り、ひたすら眠り込む。
後ろに人間がいるかも、と思うとリクライニングが倒せず、
座ったまま眠り、福岡ら近辺が異様に混んでいる様子を感じ、
目が覚めるともう北九州。

 小倉平和通で降りて、まずは北九州芸術劇場のチケットボックスで
「劇トツ20分」のチケットをピックして、お金と切符の手配をして枝光。
・・・えんやらやっと今週もアイアンシアター。

 それにしても、「縄張り」というものを一度決めてしまうと
この場所から動きたくなくなるものなんだな、という発見。
ついでに「そこ、俺の縄張りっすから」なんてことを
うまく言えないチキンであることも。

 まあ、ここはパブリックな場所なわけで、「縄張り」を
修正せざるをえないのかなぁ、ということを考える。

 そういうやりとりがあって、表演空間の中へ。
「とんがり」をやり過ごしながら席を探し、座る。
人は「とんがり」というものを使って「結界」を作りたがるのかもしれない。
空間自体はいつもの部分にテント風の空間をこしらえる趣。

 私事をうつらうつら考えているといつの間にか、全てが真っ暗になって
表演空間にある「白いとんがり」がすうっと「光の柱」になっている。
その「美しさ」にはっとさせられるとプレイヤーが入ってきて身体言語をぶちかます。

 白と黒、そして赤の塩梅がいい。
そして赤の「とんがり」というもので顔を「隠す」ことで
「わたし」という「ことば」を消し、一切の「個性」という
「感覚スイッチ」を落としてひたすら「何か」を語りかけている。

 この様子はわたしにとって「丹頂鶴」の生態に見えてきた。
なんていうか、「求愛する異性」が板の上に存在しないが、
「愛を何か、もしくは誰か」に求める「身体言語」がその場で表現されている。

 どうして丹頂鶴の雌は「ペアリングのダンス」を
するのだろう、そんなことを考える。
その思考にまた「私事」にまつわるもろもろが
くっついてきて、おまけに粘っこい何かが
わたしの心と体に絡みついていつの間にか意識が遠くなる。

 遠くなった意識を無理やり引き戻しながらまた遠くなる、
この繰り返しから抜けだして再び正気に戻れば、
いつの間にか「赤いとんがり」を顔から外して「丹頂鶴」から
「女性」に戻っていた。
 
 そして、ラスト、赤いトンガリを空に放つ、という動作を通して、
「女の喜び」にまで身体言語を昇華させた、とはこのことか。

 「不思議な問」をもらった見後感だった。
何かから私を護るためにとんがりだったのか。
男はとんがりじゃなくて「トゲトゲ」なのかもしれない。

 数日後、中洲のある橋の袂にある原田種雄という詩人を
記念した碑に書いてある詩を思い出し、「いたわる」ことを大事にしなければ。
そんなことを改めて感じ、思った。

ゼロソー 「つれなのふりや すげなのかおや」

松岡優子の「集大成」というものを見た。

 それにしても、「おや、まぁ」としか言えない。

 当初の予定はゼロソーだけを土曜の昼に行く予定だったのが、
九州芸術工科大学の「興行講座」が入ってきて、
月曜日と木曜日に 興行講座があるものだから
予定してたショーマンシップの日程を 動かさなくてはいけない、
それと前後して枝光アイアンシアターの
「だーのダンス」を うっかり入れてしまったので日程を再編成する。

 日程を再編成すると熊本県立劇場で面白い演目があって、
それにこないだお世話になった人が出ているんじゃないかな、
という話があって、ことばのパス回しをやる中で手配する。

 だったら行きを新幹線にしておけば熊本で乗り換えて水前寺、
県立劇場に寄ってチケットをピックして宿に行けばなんとかなる。
開演時間が20時半始まりというのはほんとうに有難い。

 ゆーこねーさん(とあえて呼ばせてもらう)が「舞台生活30周年」の節目らしい。
・・・てか、ねーさん歳いくつよ?
女の子に対して歳を聞くことが失礼だと知っている上で。

その記念公演「群」をきちんと見ておきたいな、と思ってはいるが、
一発目の「或星」は日程は無理すればなんとかなるのだが、
場所が場所で 新幹線使ってもどうにもならない状態。
二発目の「嫉妬」は一度予約するものの、
「ドイツ演劇に関するブレーンストーミング」が入ってきて、
おまけに「大砲の家族」と もろかぶりだったからどうにもならず。
今回、やっと行くことができて何より。

 表演空間、というか、全体の空気が「おとな」だ。
なんどでも言う、「おとなの空間」とはこのことか。
「わかもの」の持つ空気とはどこかしら違っている。

 その空気に「布団」が1セット敷いてあること、
という不気味さ、静かすぎるのにも程があるくらいの静けさ。

 音として鳴っているのは上の階からのドスンドスンという足音、
そして空調の作動音。
そういう中でホタルさんとの「身体言語」のやりとり、
見手同士のこれまたやりとりもみんなひっくるめて
ひとつの「演劇」が成立している。

 本編が始まるとこれまたすごい。
場面の転換はきららがよくやる「踊る衝立」をゼロソー流にアレンジして、
ゆーこねーさんのことばの回しはあるときはトーキー映画の女弁士、
またある時は心を病んだ女給さんの妄想、さらにはある詩人の妻、というように
いろんな「引き出し」の中身をこれでもかと魅せつける。

 基本線は3つの戯曲があるけれど、順番を決めて
場面転換という「インターバル」を挟まず、
それぞれの物語を同時進行で「走らせる」趣。

 このグルーヴ感が「林芙美子」とか高村光太郎の「智恵子抄」という
古典文学を物語の流れはそのままに「空気感」というものを
熊本の空気に置き換えたものと絶妙のバランスで混ざっている。
この絶妙のバランスに「イソップ寓話」がスパイスとして効いている。

 そして女の子の着ている洋服がゆーこねーさんのかつて通っていた中学校、
高校の制服から大学入学時に着ていたスーツ、県立劇場の仕事で着ていた スーツ、
そしてこれからそうなるであろう時に着る洋服、本人は稽古着の浴衣。

・・・これだけをとっても一人のある女性の「歴史」が板の上にある。

 そういうことを踏まえても「女の情念」ってまじでやばいし、怖い。
そのヤバさ、怖さをこの歳で体現できるなんて、
ゆーこねーさん、どれだけの修羅場を踏んできたんだい?

劇団ぎゃ。×クロサイ「縦横無尽」

一路平安!

 クロサイの親分たる川原さんが書いた戯曲を福岡の中堅どころの
劇団が「立体化」する企画の第二弾。

 それにしても、「週末の倦怠感」というものか。
仕事がいつもの様に終わり、博多駅に降り立ち、サンパレスの下にある
「博多扇貝」にまで向かおうとすると、変に体が動かない。
仕方がないから大博多ビルにあるサイゼリアで
体勢立てなおしてハコに向かう。

 表演空間が「横の曲線」を活かした格好で恐ろしいくらい殺風景。
こういう殺風景な空間で「わたし」と「他者」、そして「異者」の関係性を
「対外的な対立」で見せる他に、「内面的な対立」という形にまで昇華させている。

 使われている「ことば」や「題材」は「今の社会」というものを
うまく反映させながらメジャーどころを絶妙に外して、
恐ろしいくらいマイナーなところ、しかも意外性のあるところをうまく突いている。

 さらには、「クロスワードパズル」のことばが入ってくる感じが
「程度の高い・低い」において二面性を持っていて、
これが物語の最初から最後までを通してずっと問いかける。

 いや、まあ、「初花」という状態を知らなければ自然と出てこないよな。
「朝焼け」という状態は誰もが知っているけれど、「初花」には
まだ出くわしたことがない、寒くないからか、そこまで感性がないのか。

 なんていうか、こういうふうに「他者」のフィルターを通して感じると
川原さんって、ガチで「文学の人」だったのか、という発見。
さらにはゆきえさんも白玉ねえさんと組んでから隠していた
「文学の人」をほんの少しだけ出して、ここに「エンターテイメント」要素と
「身体言語」というものを効かせている。

 この「化学変化」が恐ろしいくらい複雑で、混沌とした物語を
ある程度「見やすく」していたのかなぁ、とふと思う。

うん、話は前後するが、ぎゃ。の最近の仕事を見ていると、
何か「役目が終わった」という感じがして、正直複雑だった。
この複雑な気持ちがより強くなって、「もうそろそろかな」と思っていたら
2014年8月に解散だって。
わたしは、これからがより良きものになるよう祈ることしかできない。

宇都宮企画 「うみのいきもの」

「純粋な自由」と「制限のある自由」。

 恐ろしく疲弊している。
先週末夜行バスで岡山、高速バスで高知、
一休みして演劇のトレーニング。
トレーニングが月曜まであって、交歓会で飲んで、
火曜日朝早く広島行きのバスに乗り、新幹線で福岡。

 家に帰りつき、月イチ病院のちハンバーグ工場の新年会。
明日仕事だというのに遅いタイミングで飲んでしまっている。
ああ、またやっちまったよ。

 高知でも帰ってきてもなんかからだが落ち着かない状態で
演劇したり、生活していると、なんか「キチン」とできていない。
これがものすごく悔しい、腹が立つ。

 そういうもやもやを抱えてしまうと起きるの大変。
引っ張って、ギリギリまで家から出るのを伸ばしてしまうともうこんな時間。
枝光アイアンシアターにたどり着くのが本当にギリギリだ。
おまけにトイレ行きたいけれど、行ってない状態で、まずは出すものを出す。
落ち着いて席についた途端、じわじわと本編が始まり、
気が付くとわたしは物語に「居る」。

 ・・・やられた。
動き、「身体言語」の使い方、が劇団鹿殺しのそれらだった。
「物語」の入り方までも、違いはこれらすべてを動かしていく速度のみ。
それが何より証拠には板の上に菜月チョビねーさんによく似た存在がいた。


 演劇を始めて、「世の中の見え方」がじわじわと変化しているようだ。
特に「純粋な自由」と「制限のある自由」は同じ「自由」でもかなり大きく違うぞと。
というか、わたしたちは「生きて」いかなくてはいけない、
「生きて」いく、ということは何かしら「食料」、乱暴に言えば「餌」を
何処かから「得て」、「食べて」行かなければならない。

 「純粋な自由」は自分の力でその餌を取って生きている。
「制限のある自由」は自分以外の「何か」から餌をもらっている。
この「違い」が知らないうちに板の上にあり、やっぱりそうかと唸らされる。

 故に、時の権力者は自身につき従う存在に「餌」を与えるため、
「純粋な自由」を求める存在との「交流」を絶たなければいけない、と考える。
このシンボルが「海」と「壁」だったのかもしれない。
さらに言えば「海」と「壁」の「緩衝帯」として
「旧市街」という「廃墟」が存在している。

 この曖昧な「世界」に発達障がいと高次脳機能障がいを持っているかもしれない
男の子と女の子がうっかりと「入り込んで」、「純粋な自由」と「制限のある自由」
両方の世界を行ったり来たりしていたらえらいことになってしまった。

 どんなに自由を制限しても、どこかに必ず穴がある。
この「穴」は人によって開いているところが違っていて、
気が付かなければそれはそれでいいのだが、気が付いたら
ものすごく気になってしまう。

 気になってしまうとこの穴から自由へ侵入して、
最終的には「別の自由」へと脱走する様がうまく表現されている。
「単調な世界」より「多種多彩な世界」で生きることを欲することも。
さらにはこういう希求は日常に押しつぶされて「忘れて」しまうのかもしれない。

 だれかが自分にしかない「自由への穴」を見つけて通ってきたら
他の大勢にも伝染して次から次へと「個人」ではなく「集団」で
「脱走」してしまう、これこそ「リビング・レミング」なのか。
その様子が、正直、怖いし恐ろしすぎるのです。

DULL-COLORED-POP 「アクアリウム」

もがかねば、前に進まない、というけれど。

 開演前、ハコの中に入ってみると、「みっしり感」というものが
「すごい」というものを飛び越えて、「えげつない」レベルにまで
高まっている、表演空間を「黒い幕」で全部囲っているからかもしれないが。

 今回も恐ろしいくらい強行スケジュール。
この演目をぽんプラザで見学したのち、キャナルシティの
高速バス停から岡山まで夜行バス、それから高知で演劇大学、
帰りは広島経由で福岡まで戻って、月イチ病院、
ハンバーグ工場の新年会。

 ごちゃごちゃと荷物をぶち込むが、肝心要のスカウティングレポート用の
下書きノート、と言うものの最新版を忘れその一つ前を持ってきている。
まあ、余白がそれなりにあったから何とかなったけれど。

 それにしてもツイッターやらフェイスブックというもので
見学以前、以後のもろもろごとについてオーダーというやつが
うまく出せるようになってはいる。
見学の後、遠くに移動するための手当をするために
いろんな「ことばのパス」が回せるようになった、ともいう。

 こういうことをつらつらと考えていたら、いつの間にか空気が変わって
前説で心をほぐされていると、グレコローマンスタイルという福岡の劇団、
ここの看板俳優、山下晶氏を彷彿とさせる「熱量の高い」刑事さんが
一席ぶちかますようにお話の「背骨」を伝える。

 伝えきったと同時にすべてを覆っていた黒い幕がさっと落ちて
かなりおしゃれなシェアハウスの共用部分が目の前に現れている。
真ん中、目の前にはリアルに魚が泳いでいる水槽。

 季節はクリスマス、シェアハウスの住人が集って、
楽しくやろうとするところから始まる。
この場所、なんか一筋縄ではいかない様子。
若い、商社づとめの女の子が結構広めの一軒家を借りて、
「友達だ」とか言ってほぼ見ず知らずの人を誘い込んで
「共同生活」を始めた、それだけでもヤバイ感じ。

 その誘いに乗った方々もある意味ヤバイ。
なんていうか、「社会」から弾かれて、
ありとあらゆる「居場所」をなくした若者とは
こういうことを言うのだろう。

 「居場所」をなくした若者たちを「居場所のある」方々が「働け、働け」と
責め、「だめな奴は何をやってもだめ」とさらに責める。
その様子が「世の中の断層」というものをこれでもかと見せつける。

 ・・・みんな、たまたまじゃないか。
たまたま「居場所」が見つかって生きているだけの人間が
たまたま「人間関係」というものに難があるだけで「居場所」を
なくした人間を責める、正直、戸惑うのです。

 この戸惑いを「演劇」という言葉に「もがきながら」起こすさまと
さらには「酒鬼薔薇事件」、「秋葉原歩行者天国通り魔事件」という
リアルが混ざり、いわゆる「Z世代」の「噛み合わなさ」とか、
しんどさがじわりじわりと伝わってくる。

 この様子を見ていると、わたしもこういった鬱屈をいままで抱えて生きていた。
そんなことをふと思うのです。
そういえば、12年前、わたしも「人間関係」に難があってある仕事場を
やめさせられることになった。

 というか、いったいぜんたい「まとも」ということがどういうことを指しているのか
まったくもってわからないが、わたしにとって、いまいる場所が「まともじゃない」と
心をよぎったその瞬間じゃなくて刹那、その場所にいることを「拒否」してしまうし、
「拒否」してしまうからうまく人間関係ができなくなるし、当然のこと働けない、
日常生活もできなくなってしまう。

 そうなるとなにか犯罪や問題を起こして「刑務所」や「精神病院の閉鎖病棟」という
「異所」に永遠に隔離されることを強く願い、もしくは自殺を強く望む。

 故に、殺人衝動が夜中ごとにやってきて、家の台所から包丁を持ちだし、
自分の部屋に隠し持って居て、それを見かねた母が近所の墓場に連れ出して
「警察行く、行かない」という話を散々して、自分の抱えている噛み合わなさや
しんどさを吐き出すことでなんとか生きていて、また何らかの拍子で蘇り、
また母と話し込む、その繰り返しだった。

 それから飲んでいた薬を切り、「話すこと」で光を見出す方針を
始め、その流れで演劇に戻って来て、わたしを出していくすべを見つけ、
そうしてわたしはわたしを救っていったのかもしれない。

 この様子は水槽にいる魚たちと同じかもしれないね。

Wet Blanket「見るなっ」7月公演

「2つ足できちんと立って、生きている」。

 ふうっ、満席の高速バス、それも二人がけの窓側、というのは
さすがにしんどい、クタクタのだしがらになりつつ唐人町に向かう。

 本当は行程の半分だけ寝ていたらいいのだが、
「書きたい」スイッチが頭のなかで入っていて、
気がつけばパソコン立ち上げて、ルーター立ち上げて
だかだかだかと書いて、少しだけ目をつぶれば鳥栖。

 気がつけば福岡市内、天神についたらもう唐人町。
一息ついてかんとうかん、ここで「あること」に気がつく。
そうだ、本日から野田地図の「MIWA」メール会員先行予約開始だった。
スマートフォン立ち上げて、ひと通り作業をするが、どうするかまだ迷うが
鹿殺し「無休電車」と日程を重ねる、という方針で予約の手配をする。

 これがすべての始まりだった。

ひがしますみ編 「救いたかったのはわたし」

 「非力でごめん」と言われたらなんか切なくなるじゃないか。
近所でたまたま拾ってきた子猫とわたしの3ヶ月。
からだが弱っている存在を何とか大きくしたかったが、
今の状況では、そうできるための時間的、金銭的余力がなかった。

 わたし自身の生活をより良くしなければ助かるものも助からない。
結局、そのことを知らなくて、「無力感」を知ったとしても
この「無力感」を打破するための考え方、方策を持っていない。
考え方、方策を持っていない苛立ち、「失う」という寂しさ、
悲しさ、悔しさ、色んな感情が当人の心のなかでないまぜになってる。

 そのないまぜになったわたしを救うのはわたししか居ない。
まずはわたしを「生き延びさせる」ことがその糸口になる、
このことを思い知らされて、さあどうする、という気持ちになっている。

 悲しくて悔しくてやりきれないけれど、前に進むしかない。
生きるってこの繰り返しなのだろう。

 このないまぜになった「複雑な感情」を傍で見ていると
「かわいそう」という感情を当人に浴びせかけてしまいがちになる。
・・・結局のところ、当事者にしか本当のことや感情はわからないのに。

さかまきよしえ編
「現在、会社で働くのはこんなに困難なのだ」

 思うに、今の企業って、人を育てる、活かす、というよりか
人を壊していることが多いのではないだろうか?

 彼女、演劇で培った技術を活かして社会で働き始めたのだな。
この一部始終を「野球」に置き換えてしかも「投手」と「打者」の
対戦、という形で表現した。

 いろいろな「世の無常」があるんだなぁ。
「誰の責任でもない」事情というものをいちばん末端の人間が
「矢面」に立って、矢面に立つからミスも多くなる。
そうなっちゃうと容赦なく交代。

 なんか底意地悪い、というか、当たり前なのかもしれないが。
こういう環境、自分だったら気分が悪くなってうまく働けない。
「会心の一球」を投じてもギリギリ悪いコースに取られてばかりじゃ
なかなかうまくいかない、でもそうなるには原因がある。

 それは、もしかしたら「自意識過剰」から来る力み過ぎかもしれない。
お前なんか、誰も見ていない、けれども「生きている」。
「生きている」からみんな「信頼している」、だから周りを信頼しろ。

 ここがわかればわかるほど意識、というものが変化している。
意識が変化すればコントロールも定まるし、会心の一球が
少しずつ少しずつ多くなってきた。

 「野球」に置き換えて、ではなく「クリケット」、もしくは「フットボール」に
この様子を置き換えてみたら、どう変化するのだろう?
またいつか、演劇に戻ってこいよ。

 このカンパニー、気がつかないうちに層が厚くなっている。

F'scompany 「いきばなし」

「選ばれる」とはなんぞや?

 ものすごくバタバタで仕事を片付け、電車に乗る。
最近、なんていうか、こんな日程が多すぎる。
もう少し余裕を持って日程の組み方できないものか、と思うが
「午前中で仕事を上がらせてください」をいう
タイミングが掴めない、とも。

 そういえば、サキトサンズ以来の長崎行きだ。
本当は「素敵じゃないか」長崎公演も行くようにはしていたのだが、
心と体の調子も芳しくなく、懐具合もさらによろしくない。
というわけでギリギリのタイミングで行けません、と連絡を入れた。

 「社会人として演劇を続けろ」ですか。
自分が感じていたことと真逆のことをその後に「素敵じゃないか」の
担当制作さんから投げかけられると正直、戸惑った。
「見に行くことができない人」の助け、もしくは目になるのも
多少はあり、なのかなぁ、「皆のため」と「わたしのため」が
マーブル模様になっている。

 まあ、仕事もきちんと「務め」を果たし、演劇もきちんと「務め」を果たす。
心がチクチクすることもあるけれど、それでいいのじゃないのかなぁ。

 表演空間がこないだ見たガレキの太鼓のぞき見公演「風俗店版」を
彷彿とさせる、というか風俗店というものがシステム化すると、
こうなるのかという出来に不思議な感覚の客入れ音が鳴っている。

 うーん、「結界」というものができていい空間だ。
・・・なんか、ある病院の医局なのだろうか、患者を番号で呼ぶのもそうだし。
面接、というからある薬か治療法の「治験」についてなのかな。
それにしても、この「治験」、恐ろしく人気があるんだな。

 というか、「細胞再生技術」を応用した世界最新鋭の
「整形手術」に関する治験だったのか。
まだ「治験」だから不都合を整えるために時間が掛かる、
故に出来る人数は少ない、けれども藁にもすがる思いを持つ人が
多いので競争率100倍、大変だな。

 競争率が多い、ということは「面白半分」で
受ける奴も多少なりともいる。
しかも、無料どころか、結構な額の「謝礼」まで
もらえるのならば尚更。

 というわけで、「ほんとうに必要としている」人と
「何らかの理由で必要としていない」人を
選別する必要があるわけか。

 かくして「わたしはこの治療を必要とする」から選んで、という
周囲を巻き込んだ「心理ゲーム」が始まる。

 この「心理ゲーム」で使われることばの切れ味がすげぇ。
「ブラフの掛け合い」という奴をこの場で初めて見てしまった。

 「掛け合い」というものを通してそれぞれに存在する
「考え方」の違いや「人生」の違いがじわじわと見えてきて、
言葉遊びの要素が隠し味、いろいろな「影」や「汚れ」を受けて受けて、
最後の「実は私が」というドンデン返しが半端ない。

 道化は辛いよな。
けれども、外見を「変化」させてしんどい過去や
なにやらを「消去」するために「整形手術」はあるのだろうが、
「心持ち」を「変化させる」ことができなければどうにもならない。

henhouse 「しろいとりにげた」

 とにかく、シンプルに「おしゃれ」とはこのことか。

「山笠渋滞」に引っかかり、川端通で洒落にならん、と地下鉄に逃げて
恐ろしいくらいギリギリでハコに辿り着く。

 まあ、「至らないところ」はお互いにあった、という結論。
最近、「殺気」というか、「殺意」というものをわたしに誰かが振りまいたり、
わたし自身が撒き散らかしたりして、尋常じゃないことが多々多すぎた。

 さらには、この振りまかれた、というかぶち撒かれた「殺気」やら「殺意」を
浴びてしまうとろくな事にならないことがわかっているからこそ考えてしまう。

こういうことをつらつらと考えていたら、もう本編。
そういえば、自分が演劇のスカウティングを始めた時、
おーたさんとこの「試演会」で一度見たことがあることを思い出す。

ある「学生寮」で青春を過ごした芸術系の「ぶっ飛んだ」女の子たちが
数年ぶりにその場所へやって来た。

 どうして、忌中の「鯨幕」を掛けているんだい?
不幸事があったとしても、一体何が起こったのだ?
謎、というものがじわりじわりと膨らんでいく。

 おまけに、この学生寮は地盤が緩んで半分使い物にならなくなった。
故に取り壊して次の月には跡形もなく消えてしまうらしい。
「建物」というかこの「空気」にお別れをいうために集まってきたのだろう。

なんていうか、おーたさんとこの試演会では感じることの
できなかった「女の子の友情」と「滞ってた感情が再び通う感覚」、
「言葉は人を簡単に殺す」感覚が次から次へとやってくる。
このことがもしかしたら、「年をとる」ということなのかもしれない。

 いろんな「女の子」の人生が板の上にあり、通ってきた道、というものが
演者の持つリアルの人生と重なり、さらには見手の人生とも重なる。

 重ねて思うに、わたしは「不器用」なのかもしれない。
「他人様」は邪魔ばかりする、変な「電波」出して
「ノイズ」というものがひどくて、その中を生きていかなくてはいけない。
そんな「自分」しか見えていない「他人様」を見て「わたし」は
一体どうなんだ、ということを考える。

 多分、そういう「人間の持つ不都合」を「感じ取りすぎる」という
変な癖があって、この癖が面倒、と思われているのだろう。
けれども、「演劇」をすることでこの変な癖や面倒さを
引き受け、受け入れてくれる存在が多少なりともいる、
ということもわたしは理解しなければいけない。

 こういったことを踏まえて物語に戻ると
「かわいそう」に「しがみついている」、ということと
「かわいそう」に「しがみついている」から後悔を延々続けていて、
この後悔はわたしが死ぬまで続くのかもしれない。
故に「わだかまり」を「溶かす」ためにやることはやらなければいけない。

田原工業高校 「二万七千光年の旅」

「演劇」という砥石で「狂気」を「砥ぎだす」。

 あけ・・・そうだ、去年、父がどこか遠くに行ってしまったから
このフレーズは使えないんだよ。
というわけで、「今年もよろしく」としか言えない私がいる。

 去年と同じように今年も1月4日から演劇始め。
違うのは去年は福岡市内、キャナルシティ劇場でギンギラ太陽、
今年は枝光アイアン、というところ。
・・・というか、去年はその次の週に平松さんのトレーニングキャンプが
枝光アイアンでしかも泊まりがけであって、そこから「固まって居たもの」が
ボロボロと剥がれて、結果的にこりっちへと戻り、中津川の演劇キャンプへと
つながってしまったのかな、とふと思う。

 それにしてもパソコン買い換えたが、マウスの調子がよろしくない。
今まで使っていた光学式マウスはケーブルが断線しているらしく
時々光の塩梅がよろしくない、故にその前のボール式を使うが、
微妙なコントロールが効かず、イライラすること多し。
だとしたらあたらしいものを買うしかないよな、と考えるが
考えた途端、出不精に。

 というわけで、ちょうどいい塩梅で土曜日が夜のみの公演、
その前に用事ができる、と踏んで小倉へ向かう。
北九州芸術劇場のチケットオフィスで「彼の地」のチケットをピックする、
そして西小倉駅まで歩いて、ヤマダ電機に行くが、なんかしっくりこない。

 仕方がないから枝光まで電車で行ってアイアンシアターに着いて、
思案してから八幡のイオンまで歩いて、その先のベスト電器に向かう。
そこで光学式、ワイヤレスマウスを買い、イオンに戻って設定して早速使う。
いや、まあ、すごいですわ、と驚いてアイアンシアターに戻る。

 ドアが開くまでロビーという名のパブリックスペースでなんだかんだやって、
小さく挨拶してポジションに着くことにしよう。

 うまい空間の使い方だ。
野田秀樹の世界、というものが枝光アイアンシアターに出来ている。
さらに言えば、そこにある一つ一つが前衛アートというものになっている。
客入れ音も、夢の遊眠社や野田地図のように70年台、80年台の
ガチ「歌謡曲」を使っている、いつも感じる空気、というものは安心感がある。

 この空気感で前説という「漫才」が始まる。
「漫才」のネタからしてギリシャ神話をわかりやすくアレンジして
物語、というものの「緒」をそれとなく見せている。

 「緒」が見えたらあとは奥の深い「欲」と「リビドー」の世界へようこそ。
日露戦争から日本二十六聖人、ロシア正教会、カソリック教会、
幸福の黄色いハンカチ、ではなかった幸福の黄色い半ズボン、
エデンの東、西方浄土ともう何でもありのフリーダムな世界。

 さらには両性具有という感覚や、「異常」と「日常」、「死」と「性」、
突然何かが終わる、という「切なさ」を通して「美しい」と「醜い」、
「良い」と「悪い」、そして「モラル」と「インモラル」の間にある
グレーなところがくっきりと見えている。

 野田秀樹という「道具」を永山さんが「演出」という「砥石」で
砥いで、「手入れ」をしてみたら、うっすらと隠れていた「狂気」と
いうものが研ぎ出されていて、ものずごくゾクゾクした見後感。
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