ルアーノデルモーズ 「ゴールデン・ゴールデン・ポイズン」

「調べる」の先にある「何か」。

 そういえば、前回公演、行こうとして手配していたのですが、
財布を忘れ、しかも大雨で博多駅にたどり着いたのが
開演の15分前、「これは完全に遅れる」と門松駅で
来ない電車を待つ間にキャンセルの電話を入れる。

 家に帰り着いたらもう7時半。
翌日は日田で快快、ピーチに乗って、大阪へ向かい、
人の気も知らないでから新幹線と瀬戸大橋線を乗り換えて
高松、船に乗って直島で指輪ホテル、開場10分前に
大雨が突然来て、中止。

 ものすごく残念だったけれど、あるひとつの「旅」が
終わったのだな、という思いと、また「新しい旅」を始めよう
という思いがない混ぜになった旅だったわけで。

 けれどもなぁ、白白白、白一色でガラパのような「仕掛け」を
作られるとものすごくおしゃれで、さらには真ん中にある
バルコニーの具合がなんだか「わたしたちと住んでいる世界が違う」と
また「アウェイ感」がひどくなって、ため息つきたくなるほど
やりきれない気持ちになってしまう。

 ・・・「お家賃いくら?」てなことまで考えるともう本編。

 「幸せ」というものについて「疑うことを知らない」多勢に
背を向けた女がひとり、赤い傘を指して、佇んでいる。

 「疑うことを知らない」多勢は「政治」というものが持っている
薄っぺらい「ことば」に乗せられ、踊っている、否、踊らされている。

 ここからある意味、「ファッシヨン、あるいはモデルの現実」というものを
「楽園みたいな街」という「空間」に「落とし込んだ」物語に引き込まれる。

 引きこまれていくに従って、わたしは開演前にうっすらと
考えていたこと、いままで「そうなっていない」現実に対して
苛立っていたこと、両方がないまぜになり、「幸せ」というものと
わたしが今まで、どう生きてきたのかというふたつを問われてしまう。

 というか、わたし、あるいはあなたにとって
「人生のあるべき姿」ってなんなんだろう。
いままで「感性」で生きていたのかもしれない、
「理性」というものをうまく使っていなかったのかな。

 さらに言えば、あらゆることを「芯から」考えていなかったのか?
もしかしたら「上っ面」の部分しか考えていなかったのかもしれない。
物事ひとつをやるにしても「納得して自らやる」のではなく、
他の人間から「やらされて」いたのかもしれない。

 「納得して自らやる」事ができれば、「調べる」という作業の質が
変わってきて、見つけた「ひとつ」のキーワードから
知りたい情報が情報自体からわたしに「飛び込んで」来るのかもしれない。

 そういう状況がきちんと「板」の上で表現されている。
前々回は「おしゃれ」な男と女が「小金持ったら」こういう風に
生きていくのか、という「演劇」だったのだが、
場数を踏むことで「演劇」というものに
慣れてきたからかなんか、響き合っている。

 さらには「隠し味」として「ほXXxXX」という「ある物質」を
直に「ことば」として使うことをせず、
この物質が及ぼす影響をファッションモデルの
「現実」として見せている。

 恐ろしいくらい世間ずれしているところとか、安易に物を買い、
安易に恋愛から結婚まで持って生き、子供を産み、別れ、
意地を張ってシングルマザーとして生きていく様子として。

 さらには、「完璧」を目指してはいるが、それ自体がないことを
すでに知っているし、いま、そこに在る状況は「受け入れがたい状況」が
多いのだが、それを受け入れることで「大金を稼ぐことができる」ことを
周りよりも「いい暮らし」ができることを知っている。

 けれども、その暮らしは長くは続かない、
その事実もうっすらとわかっている。
うっすらとわかっていることに向き合うと「存在意義」と言うものを
根底から崩されてしまう、故に必死で隠してしまおうとする。

 本当は、肯定も、否定もできなくて、良いことと悪いことは
マーブル模様になっているのだが。

 「変化」とは斯くも「重い」ものなんだよなぁ。
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ゼロソー 「チッタチッタの抜け殻を満たして、と僕ら」

「森沢優」を追いかけて。

 ・・・気がつけば、私はいま、ここにいる。
それにしても、えらい長いタイトルだ。

 ゴム池のあったリトルスターホールから通町筋に出ず、
並木坂の方に出て、菊池電車の藤崎宮前駅、そこから
電車に乗ってひと駅で黒髪町駅、けもの道を抜けて通りに出たら
はあもにい、という「裏ワザ」を使う。
・・・えらく近いが、問題は電車の本数が少ない。
おまけに道が道なので、特に日が沈んだあとはおすすめできないルート。

 たどり着いて、終演時間を確認して、帰りの新幹線を手配して
ゴム池についてのスカウティングメモの続きを書きながら
ドアが開くのを待ち、中に入ると、1980年代後半の空気だった。

 客入れ音からして、わたしがかなり見ていたアニメで使われていた
曲ばかりで、いちばんツボにはまったのが「いただきマンボ」。
てか、「イタダキマン」って、タイムボカンシリーズの中で
いちばん「異質」だったような気がするのです。

 さらに言えば、アートワークス全てが時代を先取りしていたのかも。
「大人の事情」で今まで放送されていた枠を取り上げられて、
土曜日は土曜日だが、「夜7時半」という「春から秋にかけて」は
「不定期枠」という不利な状況に追い詰められ、結果とどめを刺された。

 けれども、この「世界」というものはまわりまわって小演劇の中に
「存在」しているのかもしれない、だからわたしは遠路を苦にせず、
色んな所に行って、見て、感じて、書いているのかもしれない。

 そんなことをうつらうつらと考えるともう本編。
お盆になるとそこかしこから集合して近況報告や、
思い出を話す、「生きている」人も、「死んでいる」人も、
そして「妖怪」という生きているのか、死んでいるのか、よくわからない存在も。

 いろいろな「存在」がそれぞれの「存在」を知ろうとする中で
「チッタチッタ」と呼ばれていたひとりの「知的障害」というか
「てんかん」という病気を持っていた女の子がかつてそこに存在していた。

 その女の子はとても無邪気で、傍目から見たらとてもうざくて、めんどいけれど、
まわりにいる、家族や友達が「垣根」や「隔たり」を作らず、
ごく普通に「接して」、「生きて」いる様子がそこにあった。

 お話の肝は、宅間孝行の「くちづけ」とおんなじ「知的障害者」の現実について
「性的な」ところに触れてはいないけれど、「外部の無関心や無知」が
「偏見」という「刃」となって「知的障害者とその周辺者」を傷つけていた
現実をリアルに見せてしまうからある意味ハードなお話。

 けれども、「1980年台後半」という時代が
「ジェンダーフリー」というかあらゆる意味で「ゆるい」という「フリー」と
言うものが存在していて、この「無意識な自由」が隠し味として効いている。

 この隠し味にわたしはクリーミィマミ、そして森沢優という「女性」の
事を無意識のうちに考え、思っていた。

 ・・・どうして、彼女は突然、わたしたちの前からいなくなってしまったの?
「さようなら」も言わずに、かつて使っていたたくさんのものだけ残して。
なんか、切なくて、辛い想いがわたしの中にもあって、みんなの中にもあった。
それぞれの想いが響きあって、こういう形になった。
故に色々な思い出が泉のように湧いてくる。

 本当に、わたしにとって「劇場」は「われらが家」だったのか。
そして「演劇人」というひとつの「家族」によってわたしはわたしになった。
こういうことを改めて考えてしまった見後感。

ゴム池 「無知と笑み」

「えげつない」の極地に辿り着いた。

 木の芽時、やっぱり酷いな。
体と心がものすごく調子悪い。
やらなければいけないことがたくさんあるけれど、
「交通整理」すらできやしない。

 おまけに、下衆くて狡い人を「やり過ごす」ことができずに、
棘というか心にナイフを突き立てて大変なことになっていた。

 そういう嫌な状況を滅多に使わない薬で抑えて、
「グラグラ来て」、「液状化現象」が起こるともう手がつけられない。
いつぞやは翌日仕事がある、というのにだらだらと呑んだくれ、
気がつけば下着一丁で風呂も入らず眠り込み、なにも食べず、
なにも持たず翌日仕事に行ってしまったわけで。

 こうなってしまってからわたしは「本当に、いままで何もわからなかった」という
ことがなぜだかよく分かるようになってきた。
・・・「言語化」ということなのか、そして「戦う」ということなのか。

 井上ゴムといけだみきのありそうでなかった取り合わせ。
ゴムさんの「公序良俗スレスレ・ギリギリ」の戯曲に
みきてぃのある意味「おフランス風味」のアートワークス、
そして精密で緻密な「身体言語」と「少女趣味」が混ざるとなんか怖い、
・・・けれど面白い。

 空間と時間がお洒落に「存在」してるから、
さらに一つ一つの「身体言語」がしっかりしているから
戯曲の持つ「えげつなさ」と「カオス」というものがより一層強く出ている。
というか、この世界観をものにするためにみきてぃ、ネットでエロ動画見てたのね。

 そういう状況でお話を追っていけば追うほど、心と体が疲弊した時に
ご飯を食べたらいつの間にか眠り込んでいて、外で起こっている
ごくごく微細な地震に心と体が「共鳴」してしまって
「液状化現象」を起こしてしまう。
この言いようのない「恐ろしさ」と現世の持つ「尋常のなさ」が
空気として板の上によく表現できている。

 「何もわからない」なのか、「何もわかっていない」なのか、
それすらもわからないから、笑ってごまかしているのかもしれない。 

 がだ、「わたしはひとつの宇宙である」、または「あなたもひとつの宇宙である」と
ある意味「真理中の真理」をなんとなく、もしくは知らない間に知っているから
「真理中の真理」を知らない、もしくは知ろうとしない周りからおかしがられ、
知らない間に排除されて、孤独になっても孤独であることを知らないから
笑いながらわたしを生き続けていたらとんでもないところにたどり着いてしまった。

 人間、「得意の絶頂」という時はほんの少ししかなくて、そこに辿り着くまで、
または「得意の絶頂」を通り過ぎたあとの人生、両方がものすごく長い。
わたしたちは、一体どこにいるのだろうか、そしてどこに向かっていくのか、
助けられているのか、助けているのか、傷つけているのか、傷つけられているのか、
あらゆることが正直わからないけれど、わたしはわたしの「人生」を生きていく。

 まず、生きたいのか、死にたいか、意思を決めて、
生きたい人たちはその人たちと連帯する。
死にたい人たちは、もうどうでもいいや。
・・・この事しか思いつかない。

北九州芸術劇場 「劇トツ×20分」

世代間抗争、開始。

 鹿児島でmokeのスカウティングをして、色々雑談して、天文館まで歩き、
競輪の場外車券売場で新幹線後の博多小倉の電車の手配。
なんか、心と体が疲弊しているらしく、なにもできないまま路面電車に乗り、
鹿児島中央駅、なにも食べる気力もなにもなく、ポテトチップスとサイダーを
買って、乗って、食べて、うとうとしていたらいつの間にか博多。
博多からソニックに乗ると、スイッチが入り、スカウティングレポートの
書き出しをそろそろと始める。

 小倉について、駅上のステーションホテルに初めて泊まる。
あの長い廊下は梅田の新阪急ホテルを彷彿とさせるが、
部屋の広さは大阪福島のホテル阪神そのもの。
窓の眺めは淀川ではなく、小倉の製鉄所だったが。

 お風呂に入り、パソコンを立ち上げて人心地ついたら
外に出て、飯を食うことにしたいけれど、どこで食べるかわからない。
白頭山の100円ビール、飲んだくれたいが、場所見つけた、
でも、なんか、存在していないことになっているらしい。
おまけに前の日、鹿児島屋台村でズブズブだったので現金も心もとない。
故に鉄なべで酢モツと餃子、そして鯖のジンダ煮。

 程よく飲んで、食べて、宿に戻って書きつつ、湿気対策をしつつ、
「おんな酒場放浪記」を見ると、もう眠くなる。

 朝起きて、体温めて、朝飯食いに行くと、食事会場の空気が
恐ろしいくらいリアルに「彼の地」のそれと同じだった。
「食事」をする、ということがこんなに「人生」を表現しているなんて。

 宿を出て、京町銀天街をウロウロして、コーヒーを飲むと
「いまたかとゆかいな仲間たち」が賑々しくお仕事をしていた。
気になってしかたがないけれど、とりあえずスカウティングレポートを書く。
けれども、テーブルの具合で、光学マウスが的確に捉えてくれない。

 仕事にならないから、いまたかにご挨拶して、
つじりというお茶屋の中にある日本茶カフェでグリーンティー飲みつつ
スカウティングレポートを書く、なんとか書き上げて、ありがとうダンスを
こっそり踊って、北芸に向かう。

 今回、チケットに関してしくじりをやらかす。
「切り取り無効」の副券を知らない間になくしてしまっていた。
・・・まあ、「折り曲げる」と破れやすくなるのか、という発見。
にしても、北芸、今のチケットサイズは大きすぎる、いまさらだけど。

 こういう「対バン形式」の演劇は吉本興業が絡んだ
「E-1グランプリ」から始まって、「カラフル」、そして「劇王戦」、と
時間、表演空間、人数、審査方法とフォーマットが整備確立して、
ひとつの「パッケージ」として完成を見た。

 このパッケージの様子がプロレスというパッケージと
重なるところが多く、口の悪い人間がプロレスを「演劇」と
言うのもよく分かるくらい、親和性が高いのか、という発見をすると
もう本編だよ。

 今回のラインナップはC4という北九州の隠れた逸品、非売れという
E-1グランプリを知る猛者、そして「九州若手規格・ムニムニ」という
試みから不思議少年とブルーエゴナクが登場、ここに前回、
長崎宝町ポケットシアターの「ワンコインウィーク」という「ハウスショー」で
鍛えた成果を携えて劇トツを勝ち抜き、劇王戦、チャンピオンまで
あと少し、というところまで駆け上がったフーズに挑戦する趣向。

 この試み、出演順のアヤが以外にも効いてくるんだよなぁ。
けれども、効いてくる、と思って「駆け引き」というやつをした時点で
「評価の外」に置かれてしまう、とにかく「現時点、ガチの実力」を
出していかなければカンパニーとして次も、先もない。

劇団C4(北九州)

 ここ、久しぶりに見るんだよなぁ。
なかなか日程や、時間が合わなくて、気がつけば数年ご無沙汰だ。

 お話の肝は「高齢者隔離法」、またの名を「姥捨て山法」で
「高齢者収容所」に自ら入ることを選んだ母とその娘のなんだかんだを
「たまごやき」という料理に込めた、ただそれだけ。

 なんていうか、「毒の棘」があちらこちら、気が付かないところに
突き刺さってしまっていて、しかもたくさん刺さっていて、
「最後の20分間」までには全てを取り除くには難しい。

 結局、最後まで取り除けなかった「毒の棘」から
じわりじわりと毒が回って、周囲にばらまかれてしまってる。
毒を食らうの嫌だから人のつながりを切ろうとしているが、どうなんだろう。

 所詮、国家というものは「第三者」なのかな。

F's Company(長崎)

 「リア充」に嫉妬する「コミュ障」のお話。
わたしもそうなんだけれど、全体的に
「アーティストとその周辺にいる人々」という人種は
根暗な性質を持ってるらしい。

 この根暗な性質をどうにかしたいから何かを「つくって」、
わたしを「晒して」生きていく道を選んでいるのだろう。

 そういう観点から見てみると「リア充爆発」てな
「テロ行為」を企てることすらも悲壮感どころか恐ろしく
楽しそうじゃないですか。

 まあ、こうして「同士」がいて、どういう形でも気持ちを
通じ合わせることができる。
これが「幸せ」であり、「リア充」なのだろう。

 となると、それぞれの言葉の定義がわけわからなくなる。
この落差で見せるのかな、けれども塩梅を中途半端で調整したのかな。
・・・正直、フーズらしからぬ仕上がり具合だった。

非・売れ線系ビーナス(福岡)

 「おんなのこのじんせい」。
これを「コンテンポラリーダンス」のリズム感をベースに、
「謎」を「掛けて」は「解いていく」、夢の遊眠社と
野田秀樹風味で見せる趣。

 それにしても、きむかな、まじでかっこよく、そしてかわいい。

 「おんなのこのじんせい」の中で追いかけるものが
「匂い」という「おとこ」から「蝶」という「何か」、あとなんだ。
細かく、細かく切り替わるのはいいことなのか、何なのか。

 「おんなのこのじんせい」、なのか、
「おんなのこ、たちのじんせい」なのか。
「おんなのこ、それぞれのじんせい」なのか、
みんなまとめてなのか。

不思議少年(熊本)

 初めてこの「短時間・少人数」に挑戦したムニムニでは
「知的障害、もしくは発達障害」を抱えていながら絵を書いて
お金を稼ぐ妹とそれをマネージメントする姉の間に沸き起こる
「狂気」をこれでもか、これでもか、と見せ、「美の生まれる瞬間」を
創りだしやがった。

 それからこのカンパニー、倍じゃない、乗の早さで
「実力」をつけ、熊本を飛び出し、宮崎、福岡ぽんプラザと
ツアーまでやって、熊本の若手企画「dengeki」で図抜けた力を見せ、
この「劇トツ×20分」に参戦してきた。

 ああ、「バレエ」という「身体言語」で「海」と「海で起きた出来事」を
表現するとこんなに美しいのか、という時点で「つかみ」はOK。

 ここからある意味、「海とともに生きることになった」一人の女の人が
生まれて、生きて、死んで、次に繋がるさまを「美しい身体言語」を
使い、板にある空間と時間が丁度いいバランスで揃えられ、
「人生というものは油断も隙もない、けれども不思議である」、
「恐ろしいけれど、この恐ろしさ、というものがとても楽しい」という
「ひとつの物語」として完成させやがった。

ブルーエゴナク(北九州)

 ムニムニでこのカンパニーを初見、というか
あなさこを初見した時、正直、驚いた。

 いや、まあ、「千年女優」で「見る姿勢」というものをなんだかんだと
陰で悪口叩かれているのをうっかり見て、聞いたことで、
嫌な気持ちになった事も重なって、「開演前のご挨拶」に
過剰反応していたのかも。

 見てみると、ものすごくおしゃれで、その時は「異性愛」と「同性愛」、
そしてその中間のグレーゾーンという「複雑な状態」で起こっている
「セックス」というコミュニケーションのお話をエグく見せている。

 以後の演目も、このテーマがずっと存在していて、角度を変えていつの間にか
「社会の闇」というものをある程度詳しく、わかりやすく見せるか、という
方向性を作り上げて、これまた「劇トツ×20分」に参戦してきた。

 ・・・正直、反則っす。
「男子の女装」というやり方で全てを持っていきやがる。
この全てを「持って行かれた」状況で「おんなのこの危うい友情」が
隠し持つ「陰湿さ」というか、ドロドロ具合が「サプライズパーティ」を
企画した、してくれなかった、というシチュエーションに込められている。

 これが全て女の子だったらすべての感情をオブラートにくるんでみせる、
くるんでみせるので、別の意味でより陰湿だし、ドロドロになる。
けれども、男の子はそういうフィルター全くない、ないからすべての感情が
ストレートに見えてしまう、だからえげつないのだ。

 ひと通り見て、審査員の講評を聞いていたら、
今まで忘れていたことをふと思い出してしまった。
20分、というか30分という短い時間を「演劇」としてどう使うか?
「長い物語」の「どの部分」としてなのか、
それとも「ダイジェスト版」にするのか、「完全パッケージ」で
見せていくのか、そこのところをはっきりしなければマズイよな。

 料理で言えば、「もっと食べたい」と思わせるのか、
「これでもう満足」と仕掛けていくのか、そしてどちらを望んでいるのか?

 このふたつをわかっていたのか、いなかったのかが差につながった。

演劇ユニットmoke 「葉桜/屋上庭園」

岸田國士という「珠玉」の連なり。

 そういえば、演出者協会の総会にご挨拶がてら顔を出そう、ということがあって、
その前の週にある鹿児島演劇見本市に行くことができなくなった。
非常口「四畳半の翅音」で伊佐に行って、帰りは鹿児島市内経由で
福岡に向かって以来の鹿児島です。

 これまた久しぶりにドーミーインに入って、パソコン立ち上げて
お風呂やご飯の前に「天誅」の最終回をだらだらと見て、初動が遅くなって
鹿児島屋台村をいくらかハシゴする。
・・・いや、まあ、芋焼酎本物は旨いわ。
そしてツマミも旨い、気がつけば焼酎グラスが手元に。

 翌朝、ものすごく心配したが、変に残ることなく
朝ごはんを食べ、外に出て、まずはハコ探し。
お金おろして見つけて、吹上庵でそば食べて、天文館をウロウロする。

 さて、時間になったのでハコへそろそろと参ろうか。
なかなか風情のある場所にぽつんとくまのぬいぐるみが。
そして客入れ音にかぶさるように本水の音がうすーく、うすーく流れているようだ。
空間を総合して見ると、あらゆる意味で、「お洒落な」作りになっている。
「お洒落な」作りだから大正、昭和初期あたりの空気感を持つ岸田戯曲を
現在、平成の世に「寸法を直した」趣。

 そういうことをつらつらと考えていたらもう本編だ。

【葉桜】

 実は、この公演のスカウティングが終わって、そのまま直に北芸「劇トツ20分」へ
向かうことにしていたら、大切な人が月に一度のデート日程を設定してきた。
・・・仕方ないから元々の前泊日程をキャンセルしてあれこれ思案していたら、
数日後、突然用事が、とか言われて、ぶっ飛んだ。
まあ、そっちのほうがええ塩梅で日程やら何やらが整った分良かった・・・のか?

 そんな空気と、庭先、あるいは縁側で母と娘の会話が。
ふむふむ、なんかお見合いがあって、乗り気なのか、どうなのか、両家足並み揃わず。
男は男で、女に対してなんだかツンデレかましている、というか
あまりにもシニカルがひどく出ていて、女はそれを不安に思っている。

 この「疑心暗鬼が止まらない」状態が重ねに重なって、
正直わたしを「なくしている」。

・・・どうして、わたしは、わたしをなくしているのだろうか?
物語はその「なぜ」を解き明かすように練り上げられていることが
じわじわとわかるように出来ている。

 まず、「好き」なのか「嫌い」なのかはっきりしていない。
・・・仕方ない、それが「お見合い」というものだから。
「信じあっていれば、大丈夫」とはいうが、
若いので何をどう信じればいいかわからない。
ついでに、「わたしには何もできない」、まで
くっついてしまっているから余計にややこしい。

 もしかしたら、「本当の気持ち」に触れることが、
少し怖いのかもしれない。
でも、触れなければ前にも、うしろにも進めない。
進むために、「むかしのわたし」と「いまのわたし」を対面させて、
「これからのわたし」を見つける、というか作っていくのだろう。

 てか、父親を突然なくしたことに始まる、
「身の回りのあらゆることが急に動き出した戸惑い」とはこういうことなのか。
何時の世も、物事が動くときは動くし、止まるときは止まる。
そういうことなのよ。

 さらに言えば、物語を追えば追うほど、「葉桜」という題名の意味が
「満開の桜」を「女の盛り」とすれば、「美しさ」という「花」が散り、
「地味」な葉っぱが茂った「その後」をどう生きようか、というふうに取れてしまう。

・・・ほんと、正念場、だな。

【屋上庭園】

 「死に活路を求める」、ですか。
あるデパートの屋上庭園に二組の夫婦がいる。
人生という波をうまく乗り切っている男と乗り切っていない男。
言葉の置き方や立って、居て、振る舞う様子が見事に違う。
ある意味、「自由」というものを手に入れるとお金に困るし、
お金に困らなくなると今度は「自由」がどこかで制限される。

 なんというか、そこはかとなく重たい、重たすぎる空気が。
その空気を背負って、生きていると傍目から見ればしんどく見えるよね。
しんどいから人の好意を素直に受け取れないし、下手なプライドだけが
増幅して、生きれば生きるほど辛く、苦しくなってしまう。
・・・その行き着く先が「死ぬこと」なのかもしれない。

 「死ぬこと」もできず、ましてやあらゆる意味で「やせ我慢」や
「妥協」もできず、そんなどうしょうもない男を心から支える。
・・・これが「糟糠の妻」というものなのか。

 とにかく、無条件の愛があるから「信じる」ことができる、
「無理だけはしないでね」と心からの言葉を掛け、
曲げないで、けれども、奮起して、と言われたら
まじでやばい、心に刺さってしまう。
これで人生立て直すことができなければ、
男じゃない、本当に死ぬしか道ないよな。

 いろいろ縁あって、岸田國士戯曲を見る機会ができた。
これら戯曲作品群を追って見れば見るほど、
「恋愛」ってなんなんだ、「結婚」ってなんなんだ、「夫婦」ってなんなんだ、という
共通した「テーマ」をもって、それぞれがひと繋がりになっている。

 だからこそ現代の空気とも親和性が高いのか、という発見。

KVA 劇団MiMIC「くちづけ」

「強さ」とは、ありとあらゆる「弱さ」を飲み込んで静かに微笑むこと。

 日程を入れなかったのか、それとも状態が良くなかったのか、
あおきりみかんを見に宮崎に遠征して以来の演劇です。
 
それにしても、宅間孝行と「東京セレソンデラックス」、一度しか見に行っていない。

  TOKIO長瀬と相武紗季の「歌姫」がテレビであった時、
「そういえば、セレソンデラックス、福岡でやるとしたらどこの仕切りかな」という
ギリギリ「興行サイド」に踏み込んでしまうお話を
ある人とやりとりしたことがあって、
この流れでキャナルシティ劇場であった時、なんとか見に行くことができただけ。

 解散公演も、それに続く公演も、日程が合わない、というか、
なんというか、なかなか行けずにいる、さんざんつついた割には、反省せよ、自分。

 というわけで、宅間孝行戯曲とごとーかおるの取り合わせに心惹かれ、
おまけに仕事は定休日、心と体の調子を戻す「リハビリ」にいい塩梅。
だったら、行くしかないでしょ、ちょうど話し合いで外に出なくてはいけないし。

 当日、少しウロウロして、ハコについて、
ポジション、どう取るか思案して落ち着くと
「平土間だけど、元版とほぼ同じ開演前の空気」と
いうものができていた。

  客入れ音も、何か元版だったらこういう曲を、
こういう「薄さ」で流すのだろうな、
そして元版だったら最後のカーテンコールの曲は
陽気にサンバでも流すのだろうと、「ああ、ビール飲みてぇ」と昼間から、
さらには演劇の前に 不謹慎なことを思うと
いつの間にか、もう本編に入っていた。

 お話の肝は、ズバリ「知的障害者の生活と性」、という
普通ならば おっかなびっくりで触れて、感じて、
その結果「大変なことになってしまう」事柄を
「ごくごく普通の、どこにでもある出来事」という調子で見せている。

 故に、「社会の縮図」というものがくっきりはっきり「板の上」に再現されていて、
その「再現具合」が妙に生々しいので、
「現実、いま、その場所に生きているわたし」にとっては
時折、考えこみ、呼吸を合わせ、呼吸を外しながら
いつの間にかお話と「同化」している。
 
 人によってはあまりにも重すぎるお話を宅間孝行という人は
「寄り道に寄り道」を重ね、「笑い」というオブラートにくるんで
見せるのが上手いのだな、 そして、「笑い」と「重い物語」のギャップ、
というか「落差」で見手を「感」じて 「動」かしてしまうのだな、
という発見をうっかりしてしまった。

 で、ごとーかおるはそのオブラートを削ぎ落して、「本質」そのものを
これでもか、これでもか、と生々しく見せやがる。
その演出に必死で喰らい尽くせた演者、スタッフ、すべての
技量の良さに凄み、というか、恐ろしさを感じた。  

 恐ろしさを感じたが故に、こんなことをふと考える。

 ・・・うん、実は、ここ数年、これとほぼ同じことに悩み、苦しんでいて、
正直、生きていったほうがいいのか、
死んでいったほうがいいのか、わからない時があまりにも多くて
「そうである人」と「そうでない人」との軋轢がひどかった。

 で、「感情の爆発」という「発作」が起きたり、
露骨に特定の人物を避けることがひどくて、まあ、いろいろあった。
それで余計に生きるのが辛くなって、
いっその事安楽死施設ができたら行きたいなと。

 少し落ち着いて、「根本」から考えてみた。
「根本をなしているもの、考え方」は一体何なんだろう。
それぞれの「根本」について「共通」しているところと
「違っている」ところは 一体何なんだろう、
「その違い」を「寛容を持って受け入れたい」けれど、
「受け入れがたい」ところはどうしてそうなるのだろう。

 一つの結論に辿り着いた。

  わたしは「下衆」で「ずるい」奴らと同じ空間にいることがいちばん厭だった。
けれども、普通の人にはそういうことを話してもわかってもらえない。

 だって、この「下衆くて狡い奴ら」は「利用」するのがものすごく上手で、
自分が「イヤダイヤダ」といえば言うほどその人達の有利なようになって、
ひどい目を見るのはいつも自分、というふうになるから、頑なになるしかない。

 頑なになるしかないから、いつも周りを怖がらせてしまう。

おまけにからだが大きいからもっと厄介だ。
 ・・・本当、どちらのほうが「まとも」なのか、正直わからないや。

  苛立っていても、全てを飲み込んで、いつも静かに微笑んでいられたら
わたしは「強さ、優しさ」をものにして、一つ上に行けるのかもしれない。
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