ノアノオモチャバコ 「胎内」

ガチ、もしくは、新しい「アングラ演劇」。

 なんともはや、すさまじい空間のつくりだ。
いつもの客席と表演部の中間、仮設の列が数列分入る位置に
主な表演部を作り、いつもの客席、ロールバックのまま黒い幕で隠し、
客席はいつもの表演部に仮設で作っている。

 この塩梅が「行き場」のない「密室感」具合を開演前から
作り上げられていて、「演劇の神様」が厄介な人に対して
「この場所に来ないで」とひっそりと、うまく指し示している。
・・・なんていうか、ああいうことをしたから「演劇の神様」は
その厄介な人に怒っているのかもしれない。

まあ、空気が悪いかもしれないが知らん振りをする。
終演後、声をかける人もいなく、逃げるようにその場を立ち去る
姿を見て、ものすごく痛々しく、可哀想で、哀れだなと。

 可哀想で哀れな様にぴちょん、ぴちょんと水音が客入れ音で
かぶさっていて、不思議な剣呑さを抱えながら本編に入る。

 第二次大戦数年後の混乱期、なにかしくじって東京から
逃げてきて地方の洞窟、というか防空壕に逃げ込んだ
闇商売で一旗揚げた男と女。

 この洞窟、というか、防空壕にはすでに復員兵という
「先客」がいた。

 まずはそれぞれの生々しい欲と俗をこれでもかと見せやがる。
これでもか、と見せていくから人間というものが生きていく上で抱える
ありとあらゆる「負の感情」がどわどわと吐いて、吐いて、吐き出して
吐き出した先の「えげつなさ」が見えてくる。

 「えげつなさ」に加えて、「強い」とか「弱い」とか、
「利口」とか「馬鹿」とかいろいろな立場が
入れ替わり立ち代りする半端ない緊張感の物語。

 ここに、「魑魅魍魎」という「身体言語担当」が
「ナマのからだ」を使ってうまく動き、
いろいろな打楽器を使って「ナマの音」を奏で、
演者の「ナマのからだ」と「ナマの声」を使って、
物語に強烈な「圧力」を加えている。

 さらには「出口」をなくした、という極限状態が
まじ怖いし、恐ろしい、とやけに迫ってくる。

 ああ、これが日本人、欧米人の「死生観」の違いというものか。

 本音を言えば、「おおごと」が起こったあとでも
「ちゃんと生きていかなければ」とは欧米人は言うけれど、
日本人、というものは何をもって「ちゃんと」と思うし、
「大事」が起こった後ほど「死」というものに
引き寄せられてしまう傾向があるのかもしれない。

 ・・・これを物事をわかった「振り」をしている人たちは
日本人、あるいは儒教的思考を持つ東アジア人は
「内向的」思考を持っている、とレッテルを貼る。

 この事実を踏まえていけば、
更に個々人の死生観の違いまで見えてきて、
この違いが生活指針の違いにまでなるのかという発見。

 これらたくさんの違いがグルグルと混ざって、
ありとあらゆる「負の感情」が、「罪」や「罰」が
加わって、混ざってしまうと、あら不思議、
全てが浄化してしまう。

 すべてが浄化すると同時にさあっと幕が開いて、
客席という「山」が現れ、そこを「這い上がる」ように
新しい人生が始まる、再生を選ばず、「獣の道」を歩むものもいるが。
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14+×劇団HIT!STAGE 「血の家」

「変化」って一体何やねん?

 本当に「演劇」というものは「ナマ」というものを求め、
要求される「芸術」だと強く感じた。

 「ナマ」の「からだ」を使い、「ナマ」の「こえ」を使い、
「ナマ」の「おと」と「ナマ」の「くうかん」を活かす。

 これらの「ナマ」というものを作っていくために
どれくらいの「労働力」とこの「労働力」に対応する
「お金」というコストを払えばいいのか。

 さらに言えば、「労働」という定義はどういうものなのか、
そしてこの「労働」という定義をどう変化させていくか。

 正直、これらの事柄について何をどうしたらいいのか
わからないところだらけなのだが、「やりたい」と
願っているからこそ、やるしかない。

 こういうことを開演前、ふと考えてしまう出来事が。

 ハコの中に入って、表演空間の上にある「枕飾り」を
見てしまうと、去年の今頃から12月、今年明けてまでの
わたしに起こった出来事がありありと思い出してしまう。

 ついでにみんみんみしみしと蝉の音、という客入れ音が
去年の夏まで父はこの場所にいたのか、
そして、暑いのが過ぎて秋が来る、
寒くなる前に遠いところに行ってしまった。

 わたしはそれから先の季節変化がわからなくなり、
いつの間にか寒くなり、いつの間にかぬくくなり、桜が咲いて、
散って、葉桜になり、いつの間にか暑くなって季節が一巡り。

 「喪失」ってこういうことを言うのか。
こんなことをつらつら思い出すともう本編。

 17年ぶりに娘、実家に帰還する。
というか、この父親、ものすごく「お盛ん」ですね。
「腹違い」の娘が突然遠いところに行ってしまった
父を弔いにぞろぞろぞろとやってきた。

 ぞろぞろぞろとやって来るとなんていうか、
空間自体がものすごくドロドロとしていて、
空間のどろどろが娘やその父、さらには母の「人生」が
持つドロドロ具合と掛け算になって、「わたしと家族」の
恐ろしいくらいえげつない「ダークな部分」がじわりじわりと
炙りだされてくる。

 炙りだされてくるのと同時にうっすらと、
時々はっきりと聞こえてくる「あの声」を聞いてしまうと
わたしが今まで「父」から与えられてしまった「罵り」というか
「呪い」というものを感じて、ものすごくいたたまれなくなってしまう。

 いたたまれなさ、というものを抱えてしまうと
「壮絶な殺意」まで心の奥底に湧き上がってしまう。
さらには「呪い、というか罵り」という扱いを受けてしまったが
故の心と体が萎縮して、ものすごく「歪んだ」人生を歩いてしまった。

 ・・・わたしの人生返せ、という恨みつらみ溜まるよね。

 恨みつらみが溜まってしまったが故に、DVの問題や、
「性的奴隷」の問題、も一つおまけの「高次脳機能障害」の問題
それぞれがまたグルグル回って、「自業自得」というところまで
くっきりはっきりと見えてしまうし、ものすごく粘っこい物語。

 それぞれ、「弔う」行動は違っていいのかも知れない。
とは言うけれど、正直、わたしは恨みつらみが重なって、
わたしを歪ませた人の「弔い」に行くことを拒否した、というか
拒否しようとした。

 けれども、物語の中で余りにも「過激な弔い」もありだ、
ということを知り、けれども恨みつらみをこらえて「人間の行動」で
その人達を「送る」ことで何らかの変化が起こり始める。
それはそれで、良かったのかもしれない。

ミジンコターボ 「ほらふき王女バートリー」

あたらしいところに進みゆく祝祭。

 ・・・流れてきてしまった、大阪へ。
「演劇」というもので勢いがついてしまうとどこへでも行ってしまう。
がだ、勢いが神経の毛羽立ちにつながり、いつしか剣呑さを
抱えてしまう。

 うん、この剣呑さを抱えて、飛行機に乗り、落ち着かないまま
関空、24時までになんばの宿に着かなければいけない、
さらには、演劇2本見た、という「異常興奮」、
もしくは「ハイパー・トランス」になって、いつの間にか関空に辿り着く。

 ・・・やらかしてしまった。
いや、電車の中は危ないわ。
下手すると取り返しの付かないことにまで行ってしまいそうだ。
収めるかのように宿に着いて、風呂に入り、ビール飲んでうとうとするが
落ち着かねぇや、ひとつ抜いて落ち着くともう朝の8時。

 慌てて飯食って、風呂に入り、宿を出て、なんばから梅田まで
御堂筋、というか千日前筋、心斎橋筋をひたすら歩く、
駅前ビルに入り、金券ショップの相場を確かめ。
・・・というかフォルランはすげぇ、桜大阪のオーナーズシート、
一番安いところ数列分、ある金券ショップ、束で出ていた。

 それから梅田の阪急を上から下まで見て歩いて、
新阪急に荷物を入れて、HEPに辿り着く。

 いや、まあ、あの時以来。
・・・良くない思いで抱えて街を行くのはあまりよろしくない。
あれから、いろんなことがあって、小さな戦争に巻き込まれ、
それでもなんとか認めてくれる、というか、出会いがあって。

 つらつらと思い出しているともう本編。

 極彩色がはじけてる。
というか、これがまさしく「おとな」のファンタジー。
「中心軸」がきちんとあって、この「中心軸」が「華」を撒き散らかして、
ボケて、突っ込んで、それでいて、踊って、歌って、
暴れて、清々しいほどエンターテイメントしてやがる。

 ここに物語の肝たる、「国家」というか「人間」の「原罪」である、
「生命の尊厳」を無視して争うことを楽しんでしまうこと、
本当は争うことなんてしたくないのに「魔法のランプ」という
「力」がそこにあって、願いを聞いてくれるというならば、
ついつい依存してしまう。

 本当は、そういった魔法はそのままでいられたらいいのに、
依存して、争うことを愉しめば楽しむほど魔法は消えて、
剣呑な世界になってしまう。

 その辛さ、苦しさが寂しさとなって、寂しさ故に
周りにホラ吹いて困らせて「かまって、かまって」と言っている。
このようすが人間の一番大切なところをグイグイと突いてくる。

 ほんと、わたしもそうなんだけれど、人ってほんとめんどくさくて、
素直じゃなくて、不器用だ、それでたくさんの人生をしくじった。
けれども、めんどくさくて、素直じゃなくて、不器用だからこそ
沢山の人と知り合い、関係を作ることができた。

 このことがわかっただけでも、休みとって大阪行って、
「最後の公演」、しかも大千秋楽に行くことができて、良かった。

 てか、福岡のぎゃ。と同じ年数で、時期は違えども同じ年に解散か。
エンターテイメントしてやがるところもおんなじで。

劇団goto 「情熱パウダー」

鎮魂のために何かをする。

 ユニット・ラビッツのアフタートークやら、いろんな人との
お話とか情報交換をすっ飛ばしてトイレに行き、われらが愛媛が
諫早で「変な負け方」をやらかして、「誰がいったいアホなのか」という
「不毛な論争」をわたしの中でやらかして、そのやらかしと
「ハイパー・トランス」状態が重なって、エレベーターに思わず
腹を立ててしまった。

 そういう変な状態を引っ張って久しぶりのぽんプラザへ移動。
「指定管理者」が交代して初めて行く。
2階のオフィス部分をすっ飛ばしてホールに向かう。
・・・ロビーに掛かってある時計とあと、ジュースの自動販売機が
コカコーラからヤクルト・キリンに変わっていた。
うーん、ミネラルウォーターがないのはちとしんどいな。

 というか、この「変化の流れ」にいつの間にか
わたしも巻き込まれていたのか、「小さな戦争」が福岡の演劇業界、
特にわたしのあずかり知らないところで起こっていて、気がつけば
その「流れ弾」を喰らって、何かしら血を流していたのかもしれない。

 うん、正直、人と人とがそれぞれの「生き方」のテーマの違い、
あるいは「背景としているもの」の違いによって激しくぶつかり合うと
ハンパねぇな、ついでに血を見ることが多々あるんだな、と。
 
 その「血を見る」状況下で、ごとーかおるは九州戯曲賞を取った。
取ったおかげかもしれないが、彼女のことば、そして「身体言語」
それぞれがより一層切れ味を増している。

 ・・・それにしても、美味そうなカレー屋だ。
この後、飛行機で関空に行かなければいけない、
その前に博多駅でご飯を食べてから移動する、
故にどこで何を食べようか迷ってしまうではないか。 
てか、お腹が空きすぎてたまらない。

 お話の肝はとある街のとあるカレー屋さんの「細腕繁盛記」。
いつものように野菜を刻み、スパイスを炒め、だしを取り、
カレーのルーを作り、ご飯を炊き、お客さんを待つ。

 そんな単純な出来事を何故か「取りつかれた」ようにやっている。
いったいぜんたいどうしたんだろう、そんなことを思わず考えてしまう。

 物語が進むに連れてリアルの部分と、「だったらいいのにな」という
願望の部分、「見てはいけない、と目を塞いでいる」部分、
目を塞いでしまったから起こってしまった「わたしは一体何してる」と
いう「自らを責める」部分、が同時に動いている、継ぎ目なく。

 ・・・なるほど、交通事故で家族全員死んじゃって、
ひとりだけ「生き残った」、そういうことだったのか。
その「背負っている」無念があまりにもでかすぎて、
この無念を振り払うためにカレーを作り、たくさんのお客さんに
食べてもらう、その「鎮魂の儀式」を10年も続けてきたのか。

 その「儀式」の中でいろいろな苦くて辛い出来事が
混ざって、そして苦さやからさを長い時間寝かして、慣らしてみたら
不思議な、それでいて深い味わいの「スパイス」になっていた。

劇団ユニット・ラビッツ 「ラッキー☆アイランド」

物事の奥にある「何か」を通り抜けなければ「喜びの歌」は歌えない。

 わたしたちは「あの日」以来、「尋常ではない」空間と時間の中を
生きている、「のかもしれない」という言葉は敢えて付けない。

 現実、わたしも去年の10月、わたしの父がどこか遠くへ行く前の
週末以降、名古屋から東に行くことができなくなった。
なんていうか、それより前、関東に行った時、妙な胸焼けや
心臓のチクチク感を抱えて福岡に戻り、立て直すのに苦労したことが。

こういうことが多々あって、「危機本能」が働いてしまった。
本音を言えば、食べ物にも、水にも気を配らなければいけない。
しかし、現実にはなかなかうまくいかねぇや。

 ・・・うん、もろもろごとをハコの中に入り、防護服と
大震災の写真たちを見ながらつらつらと感じると本編。

 物語のベースはある作り酒屋の兄弟が「酵母菌」の着いた
米麹を作る箱と飼い犬を救うために避難区域へと入り、
監視の目をかいくぐりながら米麹を作る箱は取りにいけたものの、
飼い犬を探そうとしたら時間軸がどこかで曲がって知らないところへ。

 昔、放射能の害を真正面から見つめた画家と
取材中のテレビスタッフもそれぞれの時間軸がどこかで曲がって
同じところに放り込まれた。

 あらゆる意味で「前提」が大きく揺さぶられて、
揺さぶられた結果、壊れて、その隙間から「命や心より金」という
人間が元々もっている醜く、汚い部分がじわじわと染み出してきて
そのままどころか、どんどんひどくなってきている。

 その酷さをわたしたちは「生きるべくして生き、死ぬべくして死ぬ」と
言い訳して生きていかなければいけないほど、気持ちしんどい。
・・・ものすごく面倒だ。

 この面倒さが真ん中あたりの一つ一つはなんか緩い、
もしくはぬるい、というかへんな冗長さと重なってなんか厭だった。

 けれども、追いかけていけばいくほど、板の上にある全てが
「困難」というものに対して「普段着」で立ち向かい、戦っているさまが
見えてきて、第九の「喜びの歌」がそのさまを支えている。

 昔、わたしは第九の「喜びの歌」の歌詞について
「ほんとうの意味」を偶然、知ることができた。
「本当の幸いを見つけられたもののみが集まって喜びの歌を
 歌うことができる、そうでないものは泣きながらその場を離れよ」と。

 要するに、あらゆる「困難」に立ち向かっていく事ができた
者「のみ」が「生の喜び」を感じることができる、ということなのだ。
これがベートーベンの「交響曲第9番」全体を通しているテーマなのだ。

 すべての困難に立ち向かう人々に幸あれ!!

劇団うりんこ 「妥協点P」

わたしの敵は、外にはない、わたしの「中」にある。

 ものすごく大変だ、というか、大変になってきた。
あれ、2枚はすごくしんどい、さらに堪える。

 さて、ものすごく広いイムズに物凄くシンプルな空間を
しつらえた趣、その後ろにだだっ広い空間が
これまた半端ない空気の塊をもって、今、そこに、存在していた。

 この空気の塊を見ながら、ああ、これからわたしとわたしの周りが
さらに動き始めるのだな、その準備を始めていく。
いくところはいかなければいけないし、そのためには
絞るところは絞らなければいけない。

 まずは4年掛けて「居場所」を固め、「方針」を固め、
「方法論」というか「やり方」が決まり、その中で浮いたり
沈んだりしながら一つの形を作るのだろう。

 お話の肝は「高校の文化祭でやる演劇」をめぐる考察。
学校、という「同調」を強く要求される集団に違和感を
感じることのできる、または違和感そのものを
「表現」することのできる「女子」が「戯曲」という
「爆弾」を集団に「投下」した。

 投下された「教師」という大人たちは自分たちが
今まで「信じていた」ことに沿った「書き直し」を命令する。
「女子」はのらりくらりと時間的にも、内容的にも命令には応じる。

 このやりとり、というか「心理戦」が「同調圧力」という
ものによってガチガチに硬直してしまった「感性」というものを
これでもか、これでもか、と揺さぶっていくように仕向ける。

 がだ、硬直化した感性で心地良く生きてきた人間は
こうして「揺さぶられる」ことは自分の根っこに大きく関わること、
自分の根っこを揺さぶられた結果、「生に関わる疑問」を
生じさせたらえらいことになる。

 故に、「芯に問われていることはなにか」を知ろうとせず、
「生活空間で起きた瑣末な出来事について論じる」という
「妥協」しかやらない、てかできない。

 しかし、硬直化した感性を揺さぶって壊す、ということは
「生に関わる疑問」に答えることから始まるのだろう。
この疑問に応え続けた結果が「芯に問われていることはなにか」を
求めていくことにつながる、ここには「逃げ」という「妥協」は
一切存在しない、と言うかできない。

 次元が違うから、話が噛み合わないんだよ。
話が噛み合わない同士が不毛の論争をするから
時間だけが過ぎていく。
しまいには「うずまきポテト」を売る、というところにまで
いろいろな意味で追い詰められる。

 この様子を見れば見るほど、「日本という国を学校にサイズダウン」した
場所で起きたお話、ということがじわじわと見えてくる。

 だから、日本という国は「可哀想」と世界中から言われるんだ、
という「無言の現実」を思わず受け取ってしまう。

 「自由」って一体何なんだろう、「不自由」って一体何なんだろう、
これらの「何なんだろう」に対応して「表現」は、あるいは「演劇」は
何ができる、というか、どうしなければいけないのか。
突き詰めて言えば、わたしたちはわたしたちの心のなかにある
「同調圧力」がわたしたちの「妨げ」となっている。

 「表現」や「演劇」はこの「同調圧力」を破壊して、
様々な思いや考えをグルグルかき混ぜて、ぶつけあうための
「触媒」になることがこの問いの答えになるのかもしれない。

アントン、猫、クリ

一日「1万数千歩」の生活感。

 福岡演劇フェスティバル開幕。
というか、久しぶりに「戻ってきた」、本格的にという感じだ。
この数年間、諸々の事情があって、「スポット参戦」という形で
所々にしか行っていない。

 ・・・口開けのテープカットに行って雑談して移動。
結局、もう「気にする必要」はなくなった、ということか。
わたしにとって「害」になる物や事は自分から近づかない、それで良い。

 本当に、「始まり」ってやつは色々とあるよな。
良いことも、悪いことも、面倒なこともどっさり。

 そんなもろもろごとを思いながらハコの中に入る。
ものすごく贅沢で、客入れ音からしても「ソフトなクラブ」という感じだ。
こんな状況で演者が見手と同じタイミングで入ってきて
表演部で心と体を温めている。

 見手も見手で心と体を温めているといつの間にか、もう本編。

 「篠田千明」という「クラブの箱主」が「毎日の生活」という
「路上の現実」を「自ら経営するクラブ」でぶちかましていると
ものすごく高負荷な作品になってしまった。

 ・・・演者にとっても、見手にとっても。
故に、毎日の生活が細部まで恐ろしいくらいに迫っている。
目を開ける、立ち上がる、歩き出す、外に出る、外に出て、
触れる全てのものを通り過ぎ、「出来事」までも通りすぎる。
そして「猫」と出会い、立ち止まる。
立ち止まったあと、またいろんな場所を通りすぎていると
携帯電話から力強い音と振動が聞こえてきた。

 今まで見た「全て」は夢だったのか?
「目覚まし」で我に返り、自らの「生存」を確認するルーティンを
始め、顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、ご飯を作り、ご飯を食べ、
外に出るしたくをして、外に出て、何かしら用事をして、
家に戻ろうとするとどこかで鍵を見失ったらしく、ベランダから
入ろうとしたところで「出会い」が生まれ、なんとか家に入り、
お風呂に入る、ビールを飲む、うとうとする・・・。

 いつものような一日の繰り返し。
この中に「猫」という存在がいつの間にか入り込み、
「違う日常」が平行してじわりじわりと動き始めている。

 こういったものを身体言語と地の声、そしてボイスパーカッションで
やるものだから、すげぇシンプル。

 シンプルだからやること、見えることに「名前」が一つ一つ
付けられて、意識してしまう、取りこぼしの無いように
集中が高まって、ハイプレッシャーな状態に連れて行かれて、
すげぇテンションが上ってしまう、上がりすぎて落ちた。

 この「意識」というものの層が重なってしまうと「街の空気」が
箱のなかにいても肌触りやにおいまで蘇ってくる。
わたしが毎日家から仕事場まで「歩いていく」1万数千歩の中で
感じる全てが。

 その中で、ある者にとって、好きもいれば嫌いもいる、
この様がアントン=猫=クリにどう接してきたか、その様子が
猫の目線でどう見えたか、という要素も重なってなんとも言えない。

 服を着替えるように動きを違えさせるとなんとも言えない感覚が。

演劇ユニットオシラス 「フォージョーキ」

とにかく、みんな、人生抱えてる。

 イエスタデイワンスモアのち、「情報交換」と頭を下げ、
天神バスセンターまで歩く、途中の大黒屋で回数券のバラを
1枚だけ買う、産交車に乗った時のことを考えて。

 ニモカとか、スゴカとか、オートチャージはどのタイミングなのか。
改札を出た時、1000円以下になった時入るのか、
改札を入るとき、1000円以下だった時入るのか。
これがバス乗車だったら降りるとき払うからその時に入る。
そんなことを考えていたら、ちょうどいい塩梅で
熊本行きのスーパーノンストップ便、しかも西鉄車。
あとは、与信枠との兼ね合い。

 良いポジションが空いていて、スカウティングレポート書きつつ、
ラジコのエリアフリーで甲子園の阪神対巨人をABCラジオで聞く。
阪神にとって、春先の土曜日曜デーゲーム巨人戦は「鬼門」だよな。
まあ、その鬼門を何とか乗り越えた、というかなんというか。

 みんな、「バイオリズム」というやつを知らなさすぎるし、
知っていても変にやきもきし過ぎだよ、と考える。
あらゆる生き物は「浮けば沈む・沈めば浮く」、大きく捉えても
小さく捉えても、故に細かく考えないといけないのだが。

 ・・・なんとかオートチャージ、入金できた、怖い。

 熊本交通センターについて、ハコを探して、いい塩梅で見つかると
ちょうど16時の回が終わった時、バツが悪いんで道を引き返す。
それにしてもお腹すいた、けれども食べるものがない。
仕方がないのでスターバックスコーヒーで、パソコンやりながら。
・・・落ち着かねぇや、心がざわざわしてやがる。

 ざわざわしたものを抱えながらモバイルルーターの
案件についてドコモに行って、少し話す。
・・・5月でひとくぎり、と思ったら6月だったか。
さらには料金プランが6月から大きく変わるらしい。
本当はプレゼンやら、打ち合わせにはパソコンよりも
タブレットのほうが機動力あっていいとは思うのだが、
なかなか装備を整えるの、うまくいかないや。

 ざわざわが、雨のお陰で増幅している。
それでもなんとかハコにたどり着き、壁にもたれて
外の景色をじっと見ている。

 うん、この熊本市中央区練兵町、呉服町というところは
ものごっつうレトロだ、というか「近代都市遺跡」の趣。
がだ、この「近代都市遺跡」というものが「再開発」という流れで
片っ端から取り壊され、下衆い「高級ホテル」や
これまた下衆い「高級レジデンス」、ついでに下衆い「高級商業施設」や
下衆い「コンベンションセンター」に熊本交通センターがくっつくらしい。
・・・「下衆の極み」に正直悲しくなるわ。

 そんなことを考えていたらもう本編だよ。
物語のベースは鴨長明「方丈記」、これを今現在に「翻訳する」趣向。
鴨長明のときは「破壊」というものが目の前にあって、
人も、その心も破壊されている様子と背中合わせに生きている。
この「悲惨すぎる状況」の観察者になるために「方丈の庵」を
建て、引きこもることを選んだ。

 さて、それから数百年経過した平成の世はどうだ?
「破壊」というものが目の前にはないことに「なっている」。
しかし現実には「破壊」というものは見えないところに存在していて、
見えないが故に人も、その心も「破壊」されてはいるのだが、
その様子がまったくもって見えない、というか見えなくなっている。

 そういう様子が「インターネットの出合い系ツーショット」での
「チャット」という「会話」を通してうまく表現されている。
表現されているから、男はえげつないほど醜く、おぞましい。
対して、女は恐ろしいくらいに美しく、エロかった。

 これらの対比が出来事の裏にあるドメスティック・バイオレンス、
ここから派生してストーカー、さらには子供の「無邪気な暴力」という
「人が生きていく上で起こりうるダークな部分」というものが
じわりじわりと「炙りだされて」いく。

 そのダークな部分を感じれば感じるほど、自分が12年前までに
通りすぎたことを追体験して、感じた感覚がいつの間にか蘇った。
うん、心と体がいつの間にか壊れていて、いままでの生活を
立て直すことが難しくなって、気がつけば居場所なくなった。
居場所がなくなれば、その隙間に「闇」が忍び込み、お金も時間も、
さらには私も奪われた、そんなことを思い出した。

 こういうやばい状況を演劇というものが救ってくれたのか。

 ついでに、父が一番最後に元気だった時の「最後の言葉」が
「被害者も加害者も大変」だったな、ということも思い出す。
わたしの近所で起こった「誘拐殺人事件」の当事者が
どうのこうのとネガティブな話があって、そうなのかと。

 みんな、知らない間に色んな物を抱えているのか。
これが、「生きている」ということなのだろう。
とても重すぎて、心が揺れて乱れちまった。
・・・すまない、みきてぃ。

豊永英憲・中村雪絵 「イエスタデイワンスモア」

明日への活力。

恐ろしく久しぶりのあんみつ姫劇場だ。
この場所はショーパブなので、テーブル付きの席があるのは
非常にありがたいが、あまり知らなくて、空気の違う人達と
「場所を共有する」ということがすごくしんどい時がある。

 それにしても、昼間という「日常」から「非日常」に入り込むのは
不思議な感覚というものが絶妙のリズム感で入ってくるのだ。
客入れ音からしてもラテン系、というかエンリオ・モリコーネ調の
音で、なんていうか、昼12時から開いている昔ながらの
キャバレーの開店時とはこういう空気なのか、と唸ってしまう。

 そこにゆきえさんとひでが「場を暖めに」来た瞬間、
「ここは味園ユニバースかよ!」というツッコミと
それはそうと俺も天神の「角屋」で一杯引っ掛けて来れば
よかった、でもこれは仕事だからお酒はダメよ、日も真上だし。

 ホンマに、エンターテイメントだわ、これ。
福岡、熊本を代表する演じ手ふたりと戯曲書きたちが組んで、というか
演じ手それぞれが持っている「身体言語」というものを如何にして
引き出していくか、という試みが6本。
これらをテンポよく、絶妙の早さと緩急で見せている。

【1本目】

 ・・・30歳で「ジャニーズJr.」っすか。
そういう人どこぞの偉い人のガキか孫だから「ジャニーズJr.」に
入ることができたくっそ生意気なやつとの「やりとり」。
「後ろ盾」があるか、ないかで人生って大きく変わってくるのだな。
うん、才能も、努力も「後ろ盾」という存在の前では無力、
実に無力だ。
笑わせながらもそういう虚しさが見えてくる。

【2本目】

 最近、みきてぃなんか吹っ切った、というか、
リミッター解除した上でフルスロットル、大丈夫か?
「生」と「死」ギリギリにいる男と女、何か「気まずい」ことがあって
女は飛び降りて脳漿炸裂、男は頸動脈突き刺され。
そんな状態で「お迎え」を待っている。

  「どうして死んだのか」という事情をひと通りやったら
「赤い手紙」がやってきた、「来世でのお沙汰」が書いてある。
「生きたくない」という方に「生きろ」と、「生きたい」という方に
「生きるな、別の領域に行け」と言いやがる。

 ・・・これが「試練」というものか。
試練というものをなんだかんだしてじわじわと
「運命」を受け入れて、次のところに辿り着く。
その過程と現場にいることが楽しいのだろう。

【3本目】

 口直しに「プリテープ」という映像ですか。
ああ、これが「恋」の始まりで、
もっと進めば「愛」になるのですね。
田坂さんも、こうしてよ(以下略。
にしても、あのオチはあまりにも過激すぎる。

【4本目】

 「ヘレン」だったっけ、「カレン」だったっけ。
彼女もゆきえさんみたいに「ヨゴレである」ことを許せたら
もう少し長く生きることができたのにね。
現実は、「スターであろうとする」わたし、というか
周りが「わたし」を「スター」に仕立てていて、
それ以外の「わたし」になることができない。
この悲しみをこてこての関西調でやられるとたまらないや。

【5本目】

 泊さん、こういう「セックス」も書けるのか。
というか、なんかものすごく切ないっす。
こういう「恋」から「愛」、そして「生きる」、というサイクルを
どう回していくか、人生の中で苦心惨憺していると余計に。

 ・・・うん、その先にある「終わり」のひとつとは思うけれど、
「続けること」で生じる「ストレス」が悪い影響になる、
そうなったことで離れざるを得なくなる、というのは悲しい。
なりたくないからまた人生を苦心惨憺して、の繰り返し。
ああ、結婚したい。

【5本目】

 人それぞれ、「命の時間」は違うのだな。
止まっている時間と動いている時間の差、というか
違い、というか、落差というものが「忘れる」という
ことなのだろう、どうして死んじゃったの?

 「心」はあくまでも「心」そのものであって、
そこには良いも悪いもなく、フラットに流れている。
流れ自体も「終わり」という「区切り」があって、
また別の時間が始まる。

 これがムネトさんの「形」なのか、という発見。

 それぞれの演劇に対する「愛」と
男と女の「愛」がふんだんに盛り込まれている90分。
しかもあんみつ姫というハコだからものすごく楽しいし、
「愛」というものをエンターテイメントでシンプルに表現した。

 ・・・いや、まあ、ひと月前に「たんたん」という場所で、
この演目のこじんまりバージョンを見て、飲んで、食って、
調子こいて自分も矢野顕子の「David」を歌い、
B'zの「ultra soul」で火をつけて、きゃりーぱみゅぱみゅの
「つけまつける」で延焼させたことをこっそり思い出す。

西南学院大学演劇部 「decoretto」

戯曲を「着こなす」とはどういうことなのか。

 この戯曲、ぶっちゃけて言うと、中村公美、という
一人の女優の「ために」書かれた、いわば「完全オーダーメイド」。

 故に、シンプルだけど、美しいという彼女の良さを
最大限に味わうための戯曲、ともいう。

 この戯曲の他に「gift」と「apartment」という戯曲で
「三部作」を構成していて、根底に流れているストーリーは
ものすごく深い。

 それにしても、西南学院大学演劇部は「攻めた」作品セレクトを
部の伝統にしているよな、いつぞやは北芸プロデュース作品の
「冒険王」をやり、つい最近は野田秀樹ばかりやっていて、
それが卒業したら「そめごころ」いう劇団となって、
前回は「クロノス」ときやがる。

 やるよ、という話を聞いて考えた。
・・・戯曲、というものは「オーダーメイド」であるべきなのか、
それとも「レディーメイド」であるべきなのか、という問を。
九州戯曲賞の受賞傾向はこの問を強く感じてしまう。

 この戯曲を「実演」するところが現時点で持っている
実力以上を引き出すことができる「ことば」や「状況」を
作っているか、否か、ということなのだろう。

 そんなことを考えつつ、お行儀のあまりよくない
どこぞのガキに少し苛立ちながら本編に入る。

 物語の肝は「歳を取り過ぎた眠り姫」がなぜそうなったのか。
「孤児」という傷、「殺人」という傷、これらのえげつないことを
直接に見てしまったから、経験してしまったから、
「経験したあとの人生」というものがとてもつらいことが
わかっているから「眠り続ける」ことを選択したのだろう。

 故に、なにか意識に「深く」入り込んでしまう、「不覚」にも。

 そして、「3つの現実」が薄皮1枚で繋がっている物語が持つ
くどくてヘビーな状態を「童話」のシンプルさで薄めて
見やすくした趣。

 「レナードの朝」という映画が元ネタだ、というところを
ぎりのぎりまで見せない工夫はさすが。

犯罪ってなんだろう?
裁判ってなんだろう?

いろんな問いがぐるぐるしてた。

 しかし、西南学院大学版はまだまだそこまで出せる技量が
なかった、なかったから物語をちゃんと「なぞる」だけで
一杯一杯という感じだった。

 けれども、capri版を見た時はあまり感じなかった「エーテル体」と
「アストラル体」の織りなす、人生の「いたずら」のもつ不思議さや
おしゃれな「意地悪」というものがうっかりと見えている。

 人間って、「肉体」と「霊魂」がセットになって「生きている」のだろう。
そして、「肉体」と「霊魂」が切り離された時、本当に「死ぬ」のだろう。
その切り離されるギリギリで繰り広げられるお話だったのか。

 やっぱり、LOVE&peaceの型はひとつだけじゃない、
いろんな型があっていいじゃないか。

 その「見届け人」があのふたりだったのかもしれない。

Hall Brothers 「かなしいしあわせ」

淡々とした「日常」にある「諦念」と「綻び」。

 「ことば」のひとつひとつが鋭くて、心に突き刺さる。

 あたらしいシーズンが始まった。
火曜は「紺屋夜会」と言って、「紺屋2025」という「アートの屋台村」で
年に一度の「オープンデイ」、1000円のチケットを買って、
ワインを飲みながら近況報告やら、情報交換、その中ですんごい人とも
話し、というかパス回しができて何より。

 水曜は久しぶりのホークス戦をドームで見る。
・・・あまりにもグダグダで、ヌメヌメとしていて、
しかも「いつも私達をせせら笑っている連中」にやられて
負けちまったものだから頭にきたが、必死でこらえる。
そして木曜から金曜、ここに来て、見るまで考え続けていた。

 こうしてわたしは演劇を見て、書いていることで
演劇とその周辺にいる人たちを「励ましている」ことに
なっている「らしい」、故に、最近その「成果」というものをちらほらと
演劇「以外」の場所で見て、感じることが多くなった。

 けれどもなぁ、そうやって「ことば」を書いているわたしの「現実」は
いったいぜんたいどうなっている、と周りを見渡してみたら、嫌になる。
なんか、働いても、働いても、ずるくて汚い人たちにいろいろなものを
奪われて、時間と労働力は磨り減り、ギャラもまだまだ安すぎる。

 故に、これからわたしがやること、いろんなことを固めてしまうには
いい時間帯だ、とたくさんのところを回る必要性が出てきた。

 ・・・年度末の「なんだかんだ」を抱えてハコに向かう。
これ、楽屋内に調理の出来る場所や冷凍冷蔵庫があれば
「なんだかんだ」が詰まった箱を「差し入れ」として渡せるのだが。
シゲキバはそうできない模様なので一度預けて中に入る。

 うひょっ、「カフェ」そのものの空間に客席をしつらえて、という
表演空間だよ、客のいる方に「海が見える」というわけか。
なんか、はいる前、はぎわらが「お手紙」の件でなんだかんだ
言うてたが、むしろこっちが恒例の「直筆」がなかった分
えらく心配したのですよ。

 深いソファと浅いソファ、ナチュラルな食卓セット、
ナチュラルなカウンター、最近、西区はそういうおしゃれなところが
ものすごく多くなった、正直、福岡市内、どこに住めばいい塩梅なのか
わけがわからない、「あの問題」があるからなお余計に。

  「開店前」というか、「開演前」の「日常」から三々五々
「非日常」へと集っていく様を眺めているともう本編。

 まあ、このカンパニーがずっと前にやった「65%悲劇」という戯曲を
現在の「劇団的状況」だとか、「社会情勢」などを加味して
「新たに書きなおした」とは幸田さん、言っているが見方の角度
次第によっては「裏の物語」と見ることもできる造り。

 まあ、いろいろな「恋愛」の形があって、「結婚」の形もある。
それとは逆の「別れる」というか、「ほころび」の形も存在する。
これらを全部まとめて、生まれて生きて死ぬ、という
「生活」がそれぞれ存在する。

 ただひとつ、わたしはわたしを「生きる」ことしかできない。
この「わたし」が周りから見て悲劇的で、悲惨で、滑稽で
あったとしてもその「わたし」を生きるしかない。

 やりたいことを「あきらめている」ように見えて
日常の「誰にでもできること」から積み重ね、
「諦めることをやめる」ことからやりたいことに
再びつながるのかもしれないよね。

 ・・・ということが「わたし」を苦しめているんだよな。
「わたし」を生きるって、フルパワー仕様でいくことが
「当たり前」という風潮に「洗脳」させられているのかもしれない。
その「洗脳」を前提に「人生の多様化」といわれているから
なんか言葉に出来ない「違和感」というものが常に残る。

 今回はその「違和感」というものをキッチリ「形」にして
もしかしたら、「幸せ」は何らかの「悲しみ」とセットなのかも。
故に、100%「やりたいように」できることはない。
そういうことを受け入れて、初めて上の段階へと
向かうことができるのだろう。

village80%【2本立て】 「あ◯うめ」/「私の輪郭」

女流文学シリーズ。
 
 ・・・またしこたま呑んだくれていた。
気がつけば終電車はとっくの昔に出ていた。
タクシー乗るにもお金がなぁ、故に久しぶりにネットカフェに立てこもる。
下着のシャツとパンツだけで少し寒い中をうとうとしてしまった。
で、仕事に行く時間帯にいつもと逆の道を歩くのは新鮮だ。

 家に帰り着いて、お風呂に入り、寝て、起きて、
それでもからだがすぐれないから昼の予定を夕方に変更。
・・・これで数時間余分に眠れる。

 ん、17時半開始なのだが、感覚が16時半開始と言っている。
気がつけば、早い時間帯に間に合うように家を出る。
場所見つけて、いい塩梅に時間を潰せたからよかったのだが。

 ハコの中に入り、いろいろ見てみると、雑居ビルの6階で、
20人入るといっぱいのところだ。
なんか、「ぽんプラザ」をめぐる「不穏なお話」をうっかり聞いたせいか、
「ぽんプラザ」に替わる「公演場所」をどこのカンパニーも探していて、
その「隙間」に「シゲキバ」がハマった感じ、という印象を受けた。

【私の輪郭】

 これまた白一色の空間にテーブルがひとつと、
その上に何か、色んな物が載っている。
周りには折り鶴がたくさんいる。
客入れ音としてとあるラジオ番組がうすーく、うすーく流れている。
というか、最近のラジオ、特にAMラジオは「プロパガンダ」が強すぎて、
こういう「音楽に特化して、しかも全方位対応」といった
所謂「音楽の入り口」的な様子がなくなりつつあるようだ。

 そんなことを考えていたら「生活」のリズムと空気感を背負って
ひとり、演者がはいる、そしてレポート用紙というか便箋で
鶴を折っている、「書くため」の紙をわざと折っている。

 義理の姉妹、お互いがお互いを生きている。
・・・忙しいことは、いいことだとは言うけれど、
普通、というものはやっぱり危ない、ストレスもしかり。
そういうことを感じていて、心が折れそうになった時、
会いに行く模様。

 結婚から、妊娠という段階をうまく通れなくて困っている
夫婦になんかちょっかいを掛ける、というか、ツッコミを入れる。
こういった様子が「よく喋る」という状態を通してそこにいない、
もしくは「よく喋らない」人物の「輪郭」というものを少しずつ少しずつ
「確かな」ものにしてきている。

 それにしてもADHDとか、発達障がいとか、観察力というか
洞察力がものすごい、ということがはっきりとよくわかるムーブマイムだ。
故に、「異質」だから「間」が持たないのかなぁ、
そういうことも考えさせられるという作りになっている。

 この作りによって、物語が実は「道ならぬ恋」の「対立関係」で
「知っているけれど、その現実を知りたくない」女と
「本当はヤッているけれど、体面上ヤッていない」と言わざるをえない
女の心理戦にまで昇華してしまっている。

 ・・・「帰ってくること」を「祈っている」ために鶴を折っていたのか。
なんか、少し、怖い。

【あ〇うめ】

 やっぱり、「ダンサー」、それも「コンテンポラリーダンサー」が
「戯曲」というものを書いて、演出するとそうなるのか。

 尋常じゃない状態を「恋するフォーチュンクッキー」で
「ごまかす」様を見せて、つぎはプロレス、
それも「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」という珍しいものを見た。
台詞回しはしりとりをうまく使って「愛の会話」を表現。

 ラブホに入って、セックスするとき、ひんにゅーと思わせて、
実は「でべそ」だった、彼女はそれをコンプレックスにしていた。
そのことを強く感じたあと、どうやら妊娠しているようだ。

 そのやりとりから「産ませたい男」と「殺したい女」、
気がつけば男は「二股」かけていたらしく、別の女と姿を消した。

 ・・・わたしはいったいぜんたいどこからきたのだろう。
あなたはいったいぜんたいどこやらやってきたのだろう。
ルドルフ・シュタイナーの言葉がやけに身にしみるところに
女が「運命に」振り回され、今、今、今、という「プレッシャー」に
押しつぶされ、それを親が救出して、という物語を
「身体言語」で目一杯動かし、「ぎゃ。」や「非売れ」のような
「歌謡劇」で隠し味を聞かせた、という趣。

 うーん、層が厚くなった。
プロフィール

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Author:itumo25254you
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