非・売れ線型ビーナス 「恋するマリールー」

愛と恋の三段跳び。

 このホップ・ステップ・ジャンプの行き着く先はどこへ行くのだろう。

 わたしにとって「行き着く先」になるであろう、大切な人に会いに行く。

 まあ、なんだかんだあって、付き合って7年位になるのかな。
そろそろ結婚して新しい人生を踏み出したいやね、と
常々考えてはいるが、こっちはハンバーグ工場の収入が
上手いこと行かなくて、演劇の収入も心もとない。
相手は相手で某インターネットプロバイダの電話応対から
ケーブルを引っ張っていくための電柱探しやら次から次へと
抱える仕事が増え、私生活のことでも大変だ。

 ほんと、田坂さんが結婚する、と聞いた時マジで切なくなってきた。
・・・俺たち、このままズルズルと行ってできないまま終わるのか、と。
そうだとしたら本当に嫌で嫌でたまらない、という気持ちをさる人に
伝えたら、ある人は「ことばや法律に頼らない愛って最高ですよ」と
言い、きむかなは「焦らずゆっくりやれば、何とかなりますよ」とか
言われた。

 まあ、そうなるまでにいろいろ段階はあるだろうし、
「月に一回、会いに行く」という約束も何とか果たす、と
いうことも段階のひとつでもあるわけで。

  まさに、「愛のために死ぬのなんか大変じゃない、
        愛のために生きることに比べれば」だな、と
大切な人との短い時間を過ごすたびにこの詞を噛みしめている。

 はい、私事はここまでにしておこうか。
それにしても、「ロシア語」というか「キリル文字」がぎょうさんある、
ものすごく、凝った表演空間やね、FUCAというところの
通常客席部と表演部を入れ替えるだけで景色、というものは
ずいぶんと違うのかという発見を感じながら、少し苛立って本編。

 「アカイイト」というものを引き寄せながら様々な邪魔を
通りすぎて、ふと出会ったら「ある存在」に繋がりを断ち切られる導入部。

 いったいぜんたい、何年間、周りから「隔絶された」島というものに
閉じこもって、ごくごく近くの存在にしか心を開かない、開けない。
まあ、「インターネット」というものを使って何とか働いてはいるが。

 ごくごく近くの存在が彼を「心配そう」に見守る、というか
何かしら「監視」していながら色々と「世話」を焼いてはいる。
そんな「生きている」やりとりを見ていると赤一色のアンドロイドが
いつの間にか、そこに「存在していた」。

 なんというか、一度、この物語を「年表」というものにして
まとめておかなければいけないのだが、「グレーター・フクオカ」を
めぐる各区、各市それぞれが抱える「利益・利権争い」やら
「格差」というものからくる「差別問題」があちこちで勃発して
ソフトな「暴動」が頻繁に起こり、結果、「安全保障条約」で
利益保証を行い、「自衛協」という「民兵組織」まで作っちまった。

 がだ、「トロイの木馬」とか、「獅子身中の虫」とはよく言ったものだ。
見えないテロリストは「組織の中」にいるもので、気が付かないうちに
というか「何かしら」手がかりをちらりと見せて仕掛けやがる。

 この「仕掛け」がじつは「マリールー」というネットアイドルで、
「市政だより」に「マリールー」という存在が何かしらやりますよ、
と書かれていれば、それは「近日中に某所で爆発テロあり、注意せよ」
のサイン、というか知らせになっているのだろう。

 「血のどんたく」という尋常ではないことの当事者は
このことを知ってしまったから「ネット娼婦」という仕事を使って
「マリールー」という「見えないテロリスト」に接触しようとする。
・・・いったい、あなたは何のために不特定多数の市民を殺すのか?

 本当は愛する人を死なせたくないし、危険な場所へ行かせたくない。
けれども、それ以外の人間にとってはそんなこと知ったことか。
という「愛」という狭くて閉じたつながりしかできないから、
戦争っていうものは人心を歪ませるよな、ということが
田坂さんの「戯曲」を書く上で貫かれているテーマがあった、という発見。

 ここにきむかなのなんともいえない「女のエロ」がかぶさって
「恋愛」というものが気が付かないうちにホップ、ステップ、ジャンプと
より高いところに連れて行き、そこにはなんとも言えないことが
待ち構えていた。
あなたは、わたしをそこで見つけ、続いている。

 物語の流れは「そう遠くない」でグレーター・フクオカ対チクホウチクゴ連合軍、
さらにはキタキュウシュウまで巻き込んだ戦局へと発展し、
おまけにグレーター・フクオカの中でもハカタとフクオカという
「内戦」まで抱え込み、まさに「戦争のコンビニエンス化」が進んでいる。
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WET BLANKET 「新・幕末純情伝」

命は短し、恋せよ、愛せよ、懸命に生きよ、わたしたち。

 「いつか、こうへい」だから「つかこうへい」なのか。
それにしても、人類において「自由」っていったいぜんたい
何なんだろう、「平等」っていったいぜんたい何なんだろう、
これらのことを「被差別者」と「差別者」の観点から命をかけて
わたしたちに語りかけたかったのだろう。

 公開稽古の時点でとーいはとーいらしさと
つかこうへいの思いのどちらも盛り込みたかったのかも。

 そういえば、「桂小五郎」を使って
「泥を喰わなければどうにもならない」という開き直りが
「泥を喰っていた過去」を忘れてしまったという、気がつけば
「被差別者」から「差別者」にいつの間にか立場が変わっている
エピソードにも尺を取っていたわけで。

 がだ、つかこうへいの言いたかった「差別者」と「被差別者」の
関係性まで盛り込むとしたら恐ろしいくらいの密度と精度で
やっていくのか、時間自体をかけていくのか、そのどちらかしかない。

 さあ、本番の時、どうするか、そんなことを考えていたら
チケット手配に出遅れてしまった、という現実がそこにあった。
辛うじて追加販売に間に合ったものの。

 まあ、この時期は心と体の調子がよろしくないことと、
ヤフオクドームの交流戦、しかもタイガースと、そこに行こうか、
別府の開設記念競輪、別府温泉保養の旅を兼ねて本場にいくか、
サテライト中洲でボチボチやっていくか、
このふたつを前提として考えていた、故に夜の非売れまで
時間を空けていたことに、とも言う。

 そういったことをすべてぶっ飛ばして、万難を排して行くようになるとは
やっぱり、いつの間にかすごくなったわ。

 事実、凄くシンプルな表演空間で、いろいろな「立場」や「性質」が
生きている「空間」でクロスオーバーして「社会」は成立している。
そんなことを感じさせてしまうくらい、「差別者」と「被差別者」、
各々が見ている「世界」は斯くも違うのか、ということが
板の上に存在している。 

 新撰組って、実は「被差別者」が今現在の境遇から
「抜け出る」ために自らを「変化させていく」行動のひとつであり、
この「被差別者」が起こした「変化していくための行動」を
「差別者」が自らの「支配」を「さらに強化していくための行動」へと
「利用」していったことをうまく見せている。

 ・・・いいトリミングの塩梅だ。
だから、「差別者」は「支配」というものを盤石にすれば
「被差別者」の「変化」を「テロリズム」と切って捨て、
「掃除」という「排除」をやってしまいがちなのだ。 

 ゆえに、自由とはあらゆる縛りや制約を取り除く、ということを
知っている「坂本龍馬」という「女性性をもった男性」がいて、
「沖田総司」という「男性性をもった女性」がいて、
この「混ざり具合」から来る「自由」と「平等」の体現が
「男性性をもった社会」と「女性性をもった社会」の対立軸と、
「差別者」が持っている「女性性」がいかに社会を変にさせているか、
「被差別者」が持っている「男性性」がいかに自らを滅ぼしていくのか、
さえも眼の前にさらけ出されている。

 「命短し、恋せよ乙女」、「命短し、故に懸命に生きろよ、若者」
というメッセージをもらった見後感。

Gongter_DA 「Foolish」

「解放」というものを突き詰めていけば、
究極の結末は「自死」。


 もう、「一区切り」なのか。
福岡演劇フェスティバルの内容や広報について論じること、
突き詰めて、「演劇」というものについて深く触れ、その結果を
論じることは論じる個々人が「どう生きてきたか」というものを
あからさまに表明することとおんなじことなのだ、という発見。

 内容の濃い、薄いだって考え方や工夫次第でなんとでもなるし、
要は、おおまかな「イベント」の枠組みさえ目の前に「存在」しさえ
すればあらゆる意味で「参加」しているし、「参加」出来ている。

 「参加」しているし、「参加」出来ている中で、その中にいる人々が
数多くの「意味」や「情報」を作り、数多くの「意味」や「情報」の中から
取捨選択して「物語」を織り上げていく。
織り上げた「物語」を「共有」して、次につなげて響きあっていく。

 こんなことを考えていたら、「支援」と「伴走」の違い、というものが
これから先、大きな意味を持つのではないのだろうか?

 あの厄介な方々は福岡の演劇にとって「支援者」であろうとした。
マヤ北島氏やねーさんやみさか父、そしてわたしは
福岡の演劇にとって「伴走者」であろうとしている、
ただそれだけだったのだな。

 それはさておき、「身体言語」というものを「感じる」ために
作られた空間やね、ぎりぎりまでそぎ落とせるものは削ぎ落とした。

 身体言語で押し通すエンターテイメントは京都というところで
「ギア」というものを見てきたことがある。
そこではハコの壁沿いに薄型テレビがついていて前説を
「ギア語」という日本語、英語、中国語、ハングル、
その他もろもろの言語を敢えてちゃんぽんにしたことばで
・・・まあ、「字幕」で詳細は説明している、これが唯一のセリフ。

 「ギア」は「ロボット」の死から生をパントマイムとジャグリング、
ブレイクダンスで表現していて、これをじっと見つめて、表演空間の隅々に
アンテナを張る作業をすればするほど恐ろしく疲れて、「気を失う」
事が多々ある、そうならないための「テクノロジー」という存在なのか。

 そうそう、ガチの「身体言語」といえばぴぃきぃ*ぱぁくぅの知春さんも
大したもので、「テクノロジー」という存在を全く使わず、
アンテナを張る作業をストレスなくできるように仕向けてくる。

 この「Foolish」はルコック・システムという演劇的ベースを
使って「身体言語」を見せている、しかもガチで。
前説での「バカバカしい」ムーブ、男がふたり「女性ファッション誌」を
もってなんだかんだするところから本編に引っ張り込まれる。

 睡眠薬大量に飲んで死にたがっている「男」、
首をつって死にたがっている男、手首を切って死にたがっている女。
それぞれの自殺の理由がそれぞれにあった、ということが
じわりじわりと炙りだされていくことが前半部。
・・・もしかしたら「三角関係」のもつれ、ということなのかも。

 「三角関係」のもつれ、という「自殺の理由」が炙りだされて、
「愛国歌」の変調が流れて、その音に忠誠を誓うところから
「自由」っていったいぜんたい何なのか、という問が始まる。

 まあ、ありとあらゆる「こだわり」から、ありとあらゆる「制約」から、
ありとあらゆる「縛り」から、「解放」されることを「自由」というのだろう。
そして、これらからの「解放」を突き詰めていけば、
「自分で自分を死に追いやる」ことが最善かつ最良のやり方なのか、
という「現実」に戦慄してしまう。

 だとしたら、わたしたちを縛る「縛り」ってなんなんだ?
「国家」なのか、「民族」なのか、「性別」なのか、それとも「恋愛」?
この板の上で存在していたのはこの4つだけか、「経済」という
「縛り」が板の上に存在しなかったのはもしかしたら「経済」という
ものは「生きる」ということでは「おまけ」ということなのかも。

 ・・・「おまけ」が「メイン」を破壊するパワーがある、とも言うが。

 それぞれの「位置」や「立場」から生じた「縛り」を
壊すために暴れに暴れて、ヘトヘトに疲れてしまうと
「死ぬこと」なんてすっげぇバカバカしいことに変化してしまう。
もしかしたら、全ては「悪夢」というものを起きながら
見ていたのかもしれない。

 人は元から「愚か者」なのかもしれぬ。
「日本」とか「アジア」とか「欧米」とかそういう「縛り」をわざわざ
作って、その範疇で優劣を論じること自体が「愚か」だという意味でも。

劇団tempa 「ダブリンの鐘つきカビ人間」

「欲」と「嘘」はいつも仲良し。

 そういえば、前の年、ここが大きいところに進出した時に、
どうして行かなかった、あるいは行けなかった、のか。
どんな出来事が起こって、どう生きてきたのか、訳がわからない。

 この演目を含んだ「G2プロジェクト」は大分日田の劇団ソングライン
というところが半ば得意、というか、毎年一回、「ひた演劇祭」で
このシリーズを「持ち演目」として何かしらやっている。

 ひた演劇祭は、その他にも「招聘カンパニー」が最新鋭の「身体言語」を
福岡よりも早く、枝光よりもやや早くのタイミングで見せてくれる。
ここがいちばん凄いところなのだが、厄介な、あまりにも厄介な人と
一日中同じ場所で、同じ空気を吸うことで心を壊してしまう。

 故に、程よいタイミングで日田から福岡へ帰るため、
ソングラインに行くことができない、それはそれで残念だ。

 G2プロジェクト自体もわたしが演劇を始めた頃、西鉄ホールより
タダ券貰って「キャンデーズ」という「石けん工場」と「ラジオ」を
めぐる甘くて、切ない「おとなのメルヘン、もしくはフアンタジー」と
いう演目以外全く見ていない。

 ・・・須藤理彩の「ガタイの良さ」に驚いた、女優という商売は
あれだけ「強いからだ」を持たなければたたかえないのか。
ファッション誌に出てくるような華奢では止まる演技はできても
板の上で、あるいはカメラの前で「他者の目」がたくさんある場所
だったら何もできない、させてもらえないよな、という発見を
したことが思い出話。

 うーん、15時半開始で途中休憩がどこに入るかわからないが
終演は18時過ぎ、なんだかんだしていたら19時10分発の
福岡行き最終の高速バスに間に合わない。
その旨、挨拶がてらおちさんに聴いてみると、大丈夫、という。
「間に合う」というならば、信じるしかない、と腹をくくる。

 腹をくくる、あらゆる感覚を板の上に落とし込む、
そのための準備をやっていると、なんだかなぁ(以下略。
いつものtempaはそう言うのなかったし、この部分だけが
tempaではなく、G2プロジェクト、あるいは商業演劇だった。
・・・大概行儀の良くないわたしが言う義理ではないが。

 不思議な違和感を感じながら本編に入る。

 前半部、G2って、「中性的な要素」を持っていたのか、
物語が「男性性」と「女性性」が曖昧なまま存在していて
時と場合によって「男性性」と「女性性」のどちらかが
寄せては返す強弱具合で板の上に現れている。

 どうも、お話のベースは「ノートルダムのせむし男」だな。
「ノートルダムのせむし男」は「先天的奇形」だったのだが、
「ダブリンの鐘つきカビ人間」は原因不明の「病気」による
「後天的奇形」によって起こった不都合、それだけの違い。

 違いそれぞれを見つめるおちさんの「女性的な要素と視点」が
うまく絡んで「違い」から派生する「差別と嘘」というものを
くっきり、はっきりと見せていくのが前半部の肝。
この肝に現代から「迷い込んだ」、「男と女」がドラゴンクエストを
はじめとしたRPGというものをプレイする、それを見る、という趣。

 後半部は「後天的奇形」によって「正直者」になった
「大嘘憑き」と「後天的奇形」によって「大嘘憑き」になった
「正直者」による「不器用」だけれど、「本当の恋」という
物語の肝があって、肝の周囲に「欲」と「うそ」という
「人間の原罪」というものがグルグルと絡みつく「気持ち悪さ」、
その気持ち悪さを断ち切る、というRPGを「プレイ」する感覚、
その「プレイ」というものを見手は客席の方で見ている。

 「欲」と「嘘」はいつも仲良しでこの仲良しぶりが
「世界」をある方向(善悪はここでは問えない)へと連れて行き、
退っ引きならない事態へと気がつけば連れて行かれる。
こんな事態をご破算にし、すべてを中和する塩梅は
梨木香歩の「裏庭」のように「生と死」の両方を抱き寄せて高みに
ひっぱりあげて、「喜捨」という形で見せた。

 さらには最後のオチとして聖書の裏読みを持ってくるなんて。
というか、聖書というものは肝腎なことが全く書かれていない、
てなことに今更ながら気がついた。
もしかしたら「この世」と「あの世」では「善悪の観念」は
結構倒錯していて、「あの世」での「善悪の観念」を宗教として
教えられていたのかもしれない。

 このことは今まで「どうだろう」という「認識レベル」だった
けれども、これを見ることで「そうなんだよなぁ」という
「認識レベル」にまで上がってきた。

 だからこそあの「市長」は「嘘」をついて皆を「扇動した」罰、
として「この世での永遠の命」を得た、と「死」という形で
「あの世」に行きたくても、死ぬことすら許されない、
「魔法の剣の奇跡」だって「私利私欲なく使用する」ことが条件な
ものだから起こりようがない、ひたすらに罪もないものを殺して
殺して、それでも自分「だけ」生き続ける、これこそ惨めで酷い罰はないな。
ということを強く感じることができた見後感。

クロックアップ・サイリックス 「#」

とにかく生きよ、生きたらわかるさ。

 うーん、色々と考えてしまうよなぁ。
正直、二度ならずとも三度までも厄介なところに
出くわすのは非常にしんどい。

 やっぱり、盗み見られているのかな。
・・・そんなことを考えているよりも、わたしの「生きるテーマ」を
より良く突き詰めなければ、そんな感じだ。

 まず、題名、どのように読めばいいか、少し苦しむ。
まあ、「シャープ」とは読めることができる。
もしかしたら「いげた」かも知れない、そこから派生して
「アスタリスク」、というところまで行き着いて、
・・・それって「米印」のことじゃね、ああ、「学のないわたし」って
本当に厭だ、と自分で自分に呆れ果てている。

 それにしても、「近未来」というものと「逃げ場なし」というものが
混ざると、なんともはや「えげつない」空間になっているよな。
パッと見、世界初のフルCG映画「トロン」というものを少し思い出す。

 思い出したらいつの間にか、逃げ場のない空間に
男がふたり、女もふたり、存在している。

 まずは「逃げ場なし、からの脱出」という今流行の
体験型ゲームの「導入部」を彷彿とさせる始まりの部分、
ここで「他力本願」という日本人、もしくは人間そのものの
「宿痾」というものをこれでもか、これでもか、と見せている。

 なんていうか、人生、というものは「問題」もなければ、
「答え」も、それに付随する「ヒント」というものも存在しない。
というか、わたし、それともあなたが今まで生まれて、生きてきた
「全て」が「問題」であり、「答え」であり、「ヒント」というものが
くっついてくるのではないだろうか?

 そんなことを知るには人生、というものはとても「短い」かもしれないし、
さらにいえば、感じるためにはとても「長い」かもしれない。

 この「短い、長い」をある会社の「追い出し部署」と
「サービス残業」の現場、というある意味「社会の縮図」を
板の上で表現した、しかも生々しく。

 この生々しさに芥川龍之介の「蜘蛛の糸」とアントニオ猪木の「道」、
という文学的ベースに、「クロスワードパズル」を隠し味に効かせて
「プロレス」という「身体言語」、特によこやまが男の「蹴り」を
キャッチして、そのまま足関節技に持ってくるところが秀逸。

 どこから見てもものごっつい「人生のややこしさ」がそこに在る。
「人生のややこしさ」を抱えてまた「逃げ場なし、からの脱出」に
戻り、「他力本願」から「自力本願」へと変化したけれど、
変化してしまったおかげでまたややこしい「何か」を抱えて
「何か」を解決するためにまた「他力本願」へと先祖返りを果たす。

 本当に、浅ましさや、醜さまで全てひっくるめて
「わたしはわたし」であり、「あなたはあなた」。

 これらすべてをまとめればそれぞれの「人生」というものになる。
そこのところを知って、どう動いていくかで、何もかもが
大きく変化するのだろう。

・・・そこのところがわからずに、「知識だけ」でツイッターやら
フェイスブックという「場所」で「社会」というものに対して
喚き散らす「知識人」ほど「浅ましく」、「醜い」ものは
ないなぁと感じた見後感。

ttu 「おやすみカフカ」

「哲人」は紙一重で「狂人」というのかも。

 隙を見せると、背中からずぶりと刺される。
というか、「あの時」はまさしくそうだったわけで。
世の中には気に入らない存在、というものが少なからずいて、
その存在の前では粗相ができない、もし「やらかして」しまえば
ありとあらゆる手段を講じられて居場所すらも潰そうとする。

 そういう事態に対して、わたしはどう対応したのか、
「理性」と「情緒」のさじ加減はどうだったのか、
考えさせられる出来事がこの場所に辿り着くまでに
次々と起こっている、わたしの身辺で。

 次々と起こった出来事にうまく対応できたか、否か、
正直、よく分からないや、「寄せ付けない」ことが
できていない分なおさら。

 そんなことをつらつらと考えて、中に入る。
・・・ものすごくゆったりとした作りのバーというか
喫茶店のような、ものすごくシンプルな表演空間と
空気の作りになっている。
ああ、こんな作りだったら「エレベーターのない4階」でも
公演が打てるよなぁ、うん。

 それにしても、福岡の財団主催公演での「ほたるさん」、
制服、というものを揃えたのだろうか、とてもいいかんじ。

 そんなことをつらつらと考えていたら荒涼たる「どこか」へと
無理やり連れて行かれる、そんなことばがふさわしい。
さらにはざわりざわりと暗闇の中、どこかで声がする。

 この感覚、わたしが以前何かで苦しんでいた時、
働くことに疲れ果て、動くことに疲れ果て、ことばにすることに疲れ果て、
考えることに疲れ果て、最後には生きることに疲れ果ててしまった。
そんな時にリアルで感じたひりひりするような、あの感覚を思い出す。

 あの頃は何もかもに疲れ果てて、何かが終われば、
否、何かが一段落すると横になって、潰れるように眠り込む。
というか、横になって、目をつぶれば身体自体が
ズブズブと「沈み込んで」、気がつけば時間が過ぎていた。

 もしかすると、「睡眠」というものはあちこちに拡げすぎて
収拾がつかなくなった「わたしの思考」というものを一休みして
「整理する」、パソコンで言うたら「デフラグ」と同じことなのかもしれない。
そうしなければいけないくらいわたしも、カフカも、一日中
脳みそ使っていたわけか。

 この感覚に、わたしがはじめて「変身」で
カフカを初めて読んだ時に感じた「剣呑さ」というものを加えて
混ぜたものが板の上に存在している。

 まさしく、刃物を背中に突き付けられる、
あるいは拳銃を背中に押し付けられる恐怖感とはこのことか。
脳みそが疲弊している時、こういう生々しい夢、見てしまうんだよな。
片足をなくしたり、誰か憎んでいる存在から追いかけられたり、
とにかく散々な、殺されるギリギリではっと我に返る。

 どうしてそんな夢を見てしまうのだろう?

 血を分けているはずなのに、何故か「分かり合えない」
父と子の親子関係やら、様々な人間関係から派生した
あらゆるトラブルを「感情的」というか「情緒的」に
解決してしまったが故に起こしてしまった「間」の悪さ、
・・・これを誰かは「間」抜けと説明してくれた。
この伝でいけば、わたしもカフカも「間抜け」な人生だな、おい。

 そんなこんなで、わたしのやばい過去や思いまで炙り出してしまう、
見たあと、手汗が酷い。

プロジェクト大山 「御開帳」

アラサー世代の女の身体言語は美しく、そしてエロい。

 うっあー、という感じだ。
ドアから表演空間に入ると、ミラーボールがキラキラ光る、
全体的な明るさはなにか薄ぼんやりしていて、場末の飲み屋に
迷いこんでいる、それにしても油物を食べてしまうと
体中から揚げ物油の匂いがするようになった歳になっていた。

 このカンパニー、アートワークスからしてキャッチーで
セクシー、それでいて「無手勝流」、あるいは変幻自在、
というものを流儀としていることが良くわかる。

 ・・・なにか、「コンテンポラリーダンス」というものを使って
「エンターテイメント」というものをぶちかましような雲行きだな。
こういうことを考えていると、高校時代、「最後の音楽の授業」が
「成果発表会」というもので、そこでわたしが「歌」というものを使って
「エンターテイメント」というものをぶちかまして、
締めに担当の先生によるショパンの「革命ソナタ」をピアノで弾いて
という、なんとも言えない状況をつくりだしたことを思い出すと本編。

 真っ暗になり、パッと明るくなって、上半身を赤い膜で「隠して」
ポアント(つま先)の芸を見せつけられると、クラシックバレエという
確かな基礎技術が乗っかっている上での身体言語に圧倒される。

 この長年鍛えあげられた、圧倒的な「身体言語」で
「女性」という存在が何を思い、考え、生きているのか、と
いうものを見せつけられると、全てが美しく、色っぽいのを
通り越して「エロス」というものをこれでもか、と魅せつける。

 これがまあ、光と影の塩梅までもが絶妙だからたまらない。

 「たまらなさ」というものを感じれば感じるほど、
「男」と「女」という「特質」は「独立した存在」ではなく、
「わたしという存在」に併存して、時と状況によって
細かく、細かく「変化させていく」ことが本質なのかもしれない。
そんなところまで行き着いてしまう。

 問題は「内面的変化」と「外面的変化」のギャップ、というか
落差、というものをどう考えていくか、「内面的変化」を
「隠す鎧」としての「外面的変化」に対する考察をもう少し深めたい。

 けれども、隙を見せると背中からずぶりと刺される感覚で見るのは
少々、辛く、生きた心地がしなかったが。

演劇ユニットそめごころ 「Death Disco」

「体制」と「反体制」。

 これらそれぞれの目から見える「世界」は当然だが、
違って見えている、否、見えてくる。
ましてや、「生きること」、「死ぬこと」の定義さえも大きく違う。

 ・・・「新幹線」という選択肢を事前に選んでよかった、という
展開だ、エゴナクののち、18時開始の甘棠館にたどり着くには
新幹線しかなく、しかも、乗り換えのタイミングに恵まれた、とは
このことか、唐人町の駅を降りエゴナクで感じた剣呑を振り切ると
受付に緑子がいて、なんだかんだと安堵する。

 それにしても、あたらしい甘棠館の使い方だ。
普通、客席の方を表演空間にして、最上段一列分と
いつもの表演部を客席にしている。
なんだか、浅目のプールでやっていることをプールサイドで
「眺めて」いる、そういう雰囲気であり、趣だ。

 プールの真ん中には浮島がひとつ、そこに一人板付きで居る。
もう一人はプールを細かく動きながら見手とコミュニケーションを
とっている、まさに安上がりで個性的な空間だ。

 そういえば、この演目のさわり、えだみつアイアンでの
「ふくおかプレ学演祭」で見たことを想い出す。

 うん、あの時は東日本大震災の「津波」と
太平洋戦争末期の「対馬丸」というふたつの「事件」から
生きている、ということは 「始まる」から「終わる」のだ。
けれども、「終わる」の先にあるのは一体何なんだ?
という「げんじつ」を「戯曲の生まれる」苦しみという「ものがたり」と
よく混ぜあわせて「おとなに見捨てられた子供」というか
「国家に見捨てられた国民、あるいは人間」という物語に仕立てあげた。

 その尺が大まか30分と少し、きちんとした公演にするには
あともう少し尺が必要だ、そうするとフクシマの原子力発電所事故、
その事故に関連する放射能問題、さらには様々な社会運動とその妨害、
寄せては返すたくさんの現実、加えて1940年に開催される「はず」だった
幻の東京五輪、2020年に開催される「かも知れない」東京五輪、
もっと突き詰めて「なぜ、これらの出来事」が起こったのか、
その原点まで今回は自由に時間を動かしている。

 さらに言えば、野田地図に近い身体言語の使い方で
この自由な時間をうまく見せているのはさすが。

 故に、東京五輪の件を感じているとはたと感じてしまう。
この部分、野田地図の「egg」とほとんどおんなじじゃないか。
野田地図は戦後日本が抱える原罪のひとつである「731部隊」を
ベースにして、ここにスポーツのお話を混ぜた、そして
このお話の扱い方が一部で物議をかもした、という話を
うっすらと聞いた。

 故に、野田地図の「egg」を見なかったわたしに怒りを覚えた。
だって、見なければ本当のこと、書けないじゃないか。

 それでもあえて言うならば時代と事件を飛び越えて「本質」を
反体制派の目線で見せようとしている。
これが「野田秀樹」の原点、なのかもしれない。

 がだ、彼は元から「体制派」だったのか、いつの間にか
「体制派」に行ってしまったから「時代」というものを
作っていったのかもしれないが。

 もしかしたら、この「変化」を抱えたがためにほんとうの意味での
「ダークな部分」に触ることができず、というか触ることを許されず、
敢えて曖昧な形にしてしまったのかもしれない。

 がだ、そめごころは「若さゆえ」なのかもしれないが、
この「ダークな部分」にぐいぐいと触っている、ここに戦慄した。

 戦慄したことで、「あの人達」がああいう「非道いこと」をするのは
「何か」に対して「復讐」をしたかったのだろう、
それにしてもなぜ「復讐する」のか、否しなくてはいけなかったのか、
そんなことをつらつらと考えていたらひとつの答えにたどり着く。

 「地球上のすべてのいきもの」、あるいは「自然の摂理」
というものに復讐を果たしたかったのかもしれない、ということに。
何故かといえば「死にたくない」から、さらに言えば
「順番譲りたくない」からああいうことができるのだな。

 けれども、生きているから必ず死んでいくわけで。
それを踏まえた「選択の自由」が存在して、それを選びながら
生きている、あるいは死んでいくのだ。

万能グローブガラパゴスダイナモス 「レモンサイダー・バカンス」

マジでプロレス、あるいはヲタ芸炸裂。

 福岡の演劇業界の地の力を上げる、という意味で
ぽんプラザの指定管理者が入れ替わったのは後々いい方に
転ぶのではないだろうか、ということを開演前に思っていた。

 猫も杓子もぽん、という選択肢だったものが
演る演目にあった空間の選択肢が結構増えてきたし、
空間の選択肢が増えたことで空間にあった演目や
戯曲の選択肢が増えている、この件に関する当事者には
辛く、苦しい事にはなったけれど。

 次は「以心大同」、というものを目標としなければ。
そのためには、何をしなければ、さらには「孤独」に戻るかどうするか?
問いが今も続いている、うん。

 さて、今回は全日程「開演前イベント」というものがあるので
表演空間というものを見えそうで見えない幕加減で隠している。
見えているところからチラチラと見てみると、(以下略。
・・・子供にも優しい、というか稚気にあふれた喫茶店だな、おい。

 うむ、前置きが長くなったが今年のガラパは
新作、というものをやらず、「ガラパコレクション」という趣で
過去作品の中で人気のあったもの、というか再演の希望が
高かったもの上位4本を密度よくやってみる。

 今回の演目の初演時、わたしは演劇、というものを始めたばかりで
まだ、ガラパというものを知らなければ、何の関係もなかった。
というわけで、この「ガラパコレクション」というものを通して
わたしもいろんなことを思い出し、考えて次につなげていくのだろう。

 けれども、最前列に近いところで80分間ノンストップで
意味は無いけれど、恐ろしく圧のある「演劇」というものを見ると
開演前に考えていたややこしいことを忘れてしまい、
非常に楽しいを通りすぎて朗らかになってしまうのです。

 物語の肝は「ふのわるか」・・・と言われても福岡の人間にしか
この言葉はわからないか、「タイミング」が、というか「巡り合わせ」が
悪い、と普通の人は云うのだけれども。

 この「タイミング」とか「巡り合わせ」というものの「悪さ」から
生まれてくる「よろしくない事態」、まあ、これらは
「自らを素直にする」ということでかなり防げるのだが。

 この「よろしくない事態」が雪だるま式に膨れて「尋常では無いこと」、
さらには「尋常では無いこと」が掛け算になると
「シャレにならないこと」へと次第に変化する中で産まれた、
欲が深くなることによって視野狭窄に陥ってしまう人間の悪い癖。

 この悪い癖を目の当たりにしてしまうとわたしは戦慄する。
ついでに、シャレにならないことが積み重なってしまうと
すべてを「ご破算」にしなければ物事は収まらない。

 すべてが「ご破算」に至るまでの経緯をプロレスとヲタ芸の
複合技で見せているから物語の破壊力が半端ない。

 さらに、破壊力ある物語に効かせる隠し味はロックでパンク。
いや、まあ、ロックでパンクな女の子を見るのは楽しい。
・・・男女のお付き合いは、まあ、遠慮したいが。

ブルーエゴナク 「交互に光る動物」

結構ヘビーな「クラブ系演劇」。

 ひとつ、「実験」というものをしてみる。
というか、このカンパニーを「鬼の生活」という演目で始めてみた時、
いわゆる「クラブ」というものの空気を演劇の方に「持ってくる」と
こんなふうになるのか、ということを感じ、さらに男肉ド、ソレイユという
更に突き詰めたところまで見て、こういうたぐいの演劇は
「お酒」入れてみたらどうなるんだろうと。

 というわけで、福岡公演、西鉄ホール近くの「角屋」という
立ち飲みの居酒屋でビールは演劇前にはキツ過ぎる、
それならハイボールはどうだ、と飲んでみたら、いつの間にか
駆けつけで3杯、脳みそゆるゆるで西鉄ホールにやってきた。

 そうしなければいけないほど心も体もしんどかったのか。
道理で小便頻繁に行くはずだわ。

 初見の「鬼の生活」では尿意が途中でひどくなって(以下略。
春先は「冬のからだ」から「夏のからだ」に変化する入り口だから
汗、というものが出にくくなっている。
だからこそ、この時期の演劇の仕事は「水分コントロール」、
そして花粉症対策が重要になっているという発見。

 西鉄ホールでの表演空間は昔飛ぶ劇場がここでやった
「正しい街」とほぼよく似た作り、違うのは飛ぶ劇は長方形の
対面座席だったのがエゴナクは正方形の四面座席。
ここに客入れ音でテクノがガンガン効いていたら
開演前からわたしの脳みそはトランス状態。

 トランス状態があまりにも効き過ぎると物語が
より一層重く入ってきて、処理できる能力に限りが出てくる。
処理能力を超えるといつの間にか頭のヒューズが飛び、
気がついたら結構いいところ。

 わかったことは「路上の現実」というものは
わたしたちの創造をはるかに超えた「えげつなさ」なのか。
えげつないが故に美しいものは、より美しく見えるのだろう。

・・・そんなあやふやでレポートを上げられるか、自分。
上げられないだろ、自分、ということでその夜に
枝光アイアン公演のチケットを手配する。

 西鉄ホールよりものすごくぎゅっとした空間だ。
さらには外で聞こえる「生活の音」と中で聞こえる「演劇の音」が
なぜかしら混ざって、不思議な響きを作っていて、ここに「クラブ」という
ある意味「アシッド」な空間が存在している。

 真っ昼間のまったりした空気でそういう空間にいる、という
不思議な違和感というか、なんというか。

 そんなことをつらつらと考えていたら須藤元気とニューワールドを
彷彿とさせるコーディネーションから本編に入る。

 「元夫婦」というか、「夜鷹とその客」、「ヒモとヒモに貢ぐ女子大生」、
「一緒に生活はしているのだが、結婚に踏み切れない男女」、
「カルト宗教にハマる女と飼われている男」、これらの男と女が
織りなす「関係性」と「自覚していない精神病患者」と「チンピラ」が
「関係性」に「介入」することを通じて、様々な「狂い」というものを
これでもか、と見せている。

これらそれぞれの「記憶の断片」を繋いで、壊すという繰り返しが
わたしと云う「物語」だったのか。
「物語」を路上の現実と生活を加えて板に落とし込むと
これらの「闇と病み」が福岡の時よりくっきりはっきり見えていた。


 物語がヘビーでえげつない、そして怖かったから、
終演後、福岡でも、そして枝光でもいろんな人に会えたことで
なんか良くわからないが、「わたしは孤独ではない」と思った。

 ・・・結論、開演前に酒は飲むもんじゃない。
あくまでも演劇はわたしの「仕事」だからこそ。
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