最強の一人芝居フェスティバル「INDEPENDENT:FUK14」

凄いけれど怖い。

 今年もやって来ました。
いろいろな意味で演者の持つ「地の力」が問われる
「魔法のおもちゃ箱」というものが。

 より一層「攻めた」演者を揃えた、毛色の違うラインナップ。
大分のところは全く知らないわけで、あとこぱる親子やら
そめごころ、14+と言葉悪いが「えげつない」ところを突いてきた。

 徐々に「演劇の興行」から「プロスポーツの興行」へと
客入れ音の作り方や、演者の入り方、ありとあらゆるところが
進化、というか変化している。

 いまどきのアイドルの音が外の湿気がいい塩梅に取れた、
スッキリとした澄んだ空と相まって、夏がやってきた。


[オープニングアクト]
OPA1「或る棋士の肖像」
出演:鈴木春弥(演劇ユニット永久磁石)×
脚本・演出:工藤菜香(演劇ユニット永久磁石)

 「将棋盤」が陰の主役なのだがうまく視点がそこに集中できない。
集中できないところに演者が入ってきて、ワイシャツを着、
ネクタイを締める、そしてジャージの下にズボンを履き、
トートバックを持つ。

 「プロ棋士」という商売は日本で、あるいは世界で
一番過酷な商売だと思う、そこにたどり着くまでも、
たどり着いてからも。

 まず、奨励会というところに入ってその中で年間とおして
総当り戦を戦い、初段戦、二段戦、三段戦と勝ちあがり、
四段でようやくプロとなり、C級戦、B級戦、と勝ちあがり
年間10人しか戦うことができないA級戦、そこの一位が
本当のチャンピオンである「王将」と七番勝負をする。

 上がったり、落ちたりがそこにはあり、
そして「年齢制限」という最大の難関が存在する。
ある年齢までにその位置に行かなければプロへの道を
「自動的に」絶たれてしまう、というものが。

 その中で生まれるたくさんの葛藤、辿り着くまでに
得たものと喪ったもの、これらをプロフェッショナルの空気を
使わずしてプロフェッショナルの持つ、
ほぼすべてを表現した。

 人は誰しも、「成し遂げられなかった」無念を背負って
こつこつ、こつこつ毎日を戦い、生きている。
それしかできないもん。

[Aブロック]
●「明朗、暮らしゆく」
出演・脚本・演出:上田奈津美(Drama Art Unit Beauty-pool)

 身内が入院すること、特に「死ぬことが目前に迫っている」と
なんか、恐ろしく切ない、というか今まで生きてきた時間、と
「最後の時間」がじわじわとシンクロして、わたしの母も
父に対してこういう時間の使い方をしたのかな。

 わけのわからん「正面衝突」をして家から疎遠になったり、
なんて言えばいいんやろ、良好な関係を作ることができたり、
いろいろな人生が見えてくると、わたしの人生を考え、
父との関係、母との関係、今後のわたし、いったいぜんたいどうなる?
そんなところにまで不思議に引きこまれていく。

 これを見た数日後、「もう、赦してやりなよ」と天の声がした。
私に辛くあたった人々に対してもう、赦してやりなよと。

うん、そうだねと言ったらなにか軽くなった。
それがいいのか、よくわからないが、そうすることにしよう。

●「トルコライス ラプソディー」
出演・脚本・演出:村上差斗志(14+)

 きっつい仕事をようやらやっと終わり、近くの洋食屋で
飯でも食って帰ろうか、にしても近頃の若いもんは反応悪いのぉ。
おっ、トルコライスがメニューにあるじゃないか、なになに
とんかつをチキンカツに変えることができてしかも100円引き、という。
こうして「マクラ」を緻密に作り、RockerとLockerをくすぐりとして
「トルコライス」をネタにした「動きのある落語」になっている。

 「ガリバー旅行記」やら「ピノキオ」やら童話、寓話、
いろいろな日本の古典文学、さらには個人的な思い出が
程よくミックスされた「大人の童話」になっていて、
最後のオチが「一炊の夢」になっていることがなんとも言えない。

●「10周年孤独乱交パーティー」/from大阪
出演:一瀬尚代(baghdad cafe')
×脚本:山本正典(コトリ会議)×演出:泉寛介(baghdad cafe')

 白、白、白一色。
美人が白い風船膨らまして「おまた」に入れて、「破裂」させる。
こういう傍目には「変態」と見えることをいともあっさりとやってのけたら
却って、というか結構清々しい。

 というか、こういう「性的行為」を目の当たりにすると
セックスしたい、ということを強く感じてしまうじゃないか。
「クンニリングス」こそが(以下略。
この「性」という業によって周りの人を傷つけ、殺してしまった。

 けれども、わたしはこの業を生き抜かねばいけない、
どんどんどんどんやってくる業をこれでもか、これでもか、と
受けて、受けて、受けていく。

 「業」を生き抜いていく、とはこういうことなのか。

[Bブロック]
●「優しくない手」
出演:田崎小春(万能グローブ ガラパゴスダイナモス)×
脚本・演出:田崎尚登

 ガラパの「レモンサイダー・バカンス」でこぱるを初めて
「ちゃんと」見ることができたのだが、いままでの福岡の
演劇業界の女の子の持つ「身体言語」とは少し違うなと。

 うん、体の線がものすごくエロい、ムーブ・マイムもすごくエロい。
特に「レモンサイダー・バカンス」最後らへんの「真珠の首飾り」の
ムーブ・マイムが「性的なもの」を喚起するに十分すぎる。
それくらい生々しいのです。

 そういう流れで「少子化」を克服する一つの手段として
「マジック・ホール」という穴にペニス突っ込んで「抜いて」もらうという
昔、「歌舞伎町」とか「中洲」にあったらしいお手軽風俗で
「精子バンク」のネタを採取する、という一石二鳥のお話。

 ここではたらく女の子の喜怒哀楽、そして「実らぬ恋愛」が
突然蘇ってどうしたら良いかわからない戸惑い、
水商売や風俗で働く女の子は多かれ、少なかれ、こういう思いを
抱えて毎日を生きている、そういう話を直接、間接的に見聞きすると
さらに生々しくなるのです。

●「ノクターン」
出演:田島宏人×脚本・演出:石田聖也(演劇ユニットそめごころ)

 ああ、野田秀樹が書いた「一人芝居」、特に男のやつを見てみたい。
そういう空気感で、「学生運動、連合赤軍」と「ニート」という
時間と歴史的空間がかけ離れた出来事を「焦燥感」という
「共通項」でまとめ上げた趣。

 昔もいまも、「焦燥感」というやつを若者というものは
常に抱えている、それを抱えているうちは「おとな」ではなく、
まだまだ「若者」なのかもしれない。

 がだ、この「焦燥感」を抱えなければうまく前に進めない。
これに「正しい」という言葉を頭に付けたいけれど、
「正しい」という言葉の定義、というものがますますわからない。

 「責任感」と「無責任感」という相対する感情が
クロスオーバーして爆発するさまを見れば尚更。

●「安土町歌集」 / from大阪
出演:林裕介(劇団自由派DNA)×脚本・演出:谷口はるか(悲願華)

 演者の「身体言語」というやつを見て、うっかり感じてしまった。
この感覚、「柿喰う客」の玉置玲央を大阪のINDEPENDENTで
見た時とほとんどおんなじ身体言語だった。

 この身体言語で一人の男が「父」になり、覚悟を背負い、
子を育て、妻を送り、新しい家庭を作るまで子を育て、
父として人生を終わる、という物語を三十一文字のセリフを
スパイスにして表現している。

 というか、橋下が大阪の市長になる以前は
こういう思いを詩歌にして路上で見せて、売っている場所が
梅田の高架下、なんばの地下、天王寺公園とたくさんあった。
そういう空気感をうっかり感じると私自身いったいぜんたい
何なんだろう、これからいったいぜんたいどうなるんだろう。

 ものすごく切なくて、しんどいわ。


 今年の取り合わせはどうやら「人間の持つ業」を
いろいろと角度を変えて見せている。

 人間の抱える「業」っていったいぜんたい何なんだろう?
この抱える「業」を何とかすることが「人生」というものなのか。

 故に、自分の身の回りで起きた様々な出来事や
これらによって想起される感情がじわじわとにじみ出てくる、
それがなければわたしはとっくの昔に死んでいたのかもしれない。

 そんなことをつらつらと考えては見るが、
そうすればそうするほど「業」という「蜘蛛の糸」に絡め取られて
ややこしいことになってしまうよなぁ、ふうっ。

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鹿児島演劇見本市2014(序)

次なる戦いへ、踏み込め。

 Hit!Stageを見たあと、薬屋に行き、カミソリを買い、
何を食べようか、何を飲もうかウロウロしていると
もう駅前だ、おとなしくそこで飲んで、食べて
宿に戻ってゆっくり休むと、もう朝だ。

 ご飯を食べて宿を出て、駅の中にあるファミリーマートで
久しぶりにスポーツ新聞とカフェフラッペを買い、
あたらしいポイントカードのポイントがどうのこうのいうてる
というか騒いでいるバカを横目で見て、ホームに上る。

 まずは特急みどりで新鳥栖までまったりと移動する。
まったりと移動しながらあたらしい装備たるタブレットの
使い方、というか、音楽検索を使いながらゆっくりしている。

 がだ、車内が何故かものすごくウザい。
ああ、「世間」というものは「連休」というおやすみなのか。
このウザさにがっくりしていると新鳥栖駅に着き、
絶妙のタイミングで新幹線がやってきて、乗り換える。

 それにしても新鳥栖すぎると移動通信体の電波が
なかなかうまく入らない。
入らないから目をつぶってグダグダしているともう鹿児島中央駅。
去年までは市営バスに乗って鴨池なのだが、今年、来年と
「国民文化祭」のプレ事業という「前景気付け」で少し離れた
谷山、というところへ向かう。

 JR指宿枕崎線で行ったほうが色々と都合がいいのだが、
新幹線に対応する乗り換えの便が「指宿のたまて箱」、
そこまで指定券、用意出来ていないよ、そのあとは30分後。
だとしたら、路面電車でまったりと移動する。

 谷山の街、というところは50年位までは「谷山市」と言って
鹿児島市と違う行政区分だったらしい。
電停からホールまで「谷山街道」を歩いては見るが、
マンホールや、水道の弁ふたなどに「谷山市」が
存在した跡が全くない。

 「北九州市」に組み込まれた「小倉市」の跡だって
探せばきちんと見つかったのに、なにか訳があるのだろう。

 そんなことをつらつらと考えながらサザンホール。

 さて、今年の見本市は非常口も、鳴かず飛ばずも、上町クローズも、
テアトル火山団も、いぶきも、さらにはLOKEも参加していない。

 なんていうか、これからの鹿児島演劇を「作っていく」
可能性のある面子を揃えてきた。

 いつもは100人程度のハコでやっている若手に
800人、うしろ半分を削って400人の広いハコでやらせてみて
地の力をつけてみよう、という試み。

 やろうとしていることも、熊本の「dengeki」や
北九州芸術劇場の「劇トツ!!」を視野に入れている。
さらにはその先の「劇王戦」や「カラフル」までの道のりまで
レギュレーション、というもの込みで意識させる
仕掛けどころがたくさんある。

 見手にとっても、鴨池4階の市民ホールの平土間と違い
きちんと客席に段差があるので恐ろしくストレスを感じない。
国文祭が終わってもこのサザンホールでずっと見本市をやってほしい。
それが無理なら照国の中央公民館でもいいから。

さて、次から各参加団体についてお話をしようか。

劇団HIT! STAGE「Case4 他人と自分」

「家」という「暗黒」、「社会」という「地獄」。

 商売道具のスカウティングメモノートを忘れた。
更には今月の払いが全然うまく行かなかったらしく、
より大変なことになった、正直吐きそうで、今後を本気で考えなければ。
これらの変なもやもやを抱えつつ、ハンバーグ工場の仕事を切り上げて
高速バスで佐世保に向かう。

さて、この演目を見る前、ある話し合いで「2次元の思考」と
「3次元の思考」というものが存在していて、
更にはこれらの「思考」を「土台」とした「文化」というものが存在している。

 故に、私達が生きている中での「出来事」という「データ」を
どう「受け取って」いるかの「違い」が
いろいろと厄介なことになっているのだ、という発見をしてしまった。

 今回のハコは昔、映画館だったところをライブハウス、というか
フリースペースにしていて、床に不思議な傾斜が付いている。
この空間にものすごくシンプル、というか
あまりにもシンプルすぎる、正方形と長方形の椅子、
真ん中に三角柱の骨組みだけの表演部。

 ここに「人形」のように女の人が3人、「止まって」居る。
なんていうか、「シンプル」と「無造作」が薄皮一枚で存在している、
とはこのことをいうのだろうか。

 このカンパニーの座組、というか、主な面々は
外面的には女性なのだが、それぞれの「内面的な性」が
微妙に「男性的」に振れている人と、「中性的」に振れている人、
そして微妙に「女性的」に振れている人、というように上手くバランスが
取れて、戯曲的にもこのバランスを巧みに使い「位置」と「役割」を
作ることができている、ということを感じているともう本編。

 ・・・「身体言語」というやつをきっちりと見せている。
見せているから、「ある場所」から目的地である
「ベルハウス」までの道のりから玄関のドアを開ける、という
一つの「手続き」あるいは「手順」の描写の細かさ、さらには
「手続き」や「手順」に込められている情報量が半端ない。

 なんていうか、普段の生活の「情報量」というものは
「縦×横、たまに×高さ」しかない、ここに「×奥行き」という
「情報」が入ってくると尋常ではない「情報量」によってもたらされる
「思考」が持つ「落差」が半端ない。

 半端ない「落差」に戸惑う女性、が板の上に存在していた。
これが「2次元」から「3次元」へと感覚が
引っ張りあげられる、ということか。
ある意味、ものすごくしんどいよな、というところに
「一週間泊まりこみでわたしの分身の訓練をしてね」と来た。

 ・・・「たにん」を「わたし」にする、なにか尋常じゃない。

 その尋常じゃないことを受け容れざるを得ない「人生の事情」が
あって、この事情を「日常」というムーブに移行すればするほど
わたしはいったいぜんたい何を望んでいたのか、
その「望んでいたもの」を手に入れることができなかった。
そういう「行き違い」によって「好意」は「悪意」へと変化して、
この悪意はウィルスのように広まり、侵され、壊れる。

 この一部始終を将棋でいうところの「感想戦」のような
「シアタータンツ」でこれでもかと見せつけてしまう。

 それを見ていると、いままで「望まれる人間」、
「望まれる人財」になろうとしてわたしはわたしを「急き立てて」いた。
そうしてしまう根源である「わたし」が持つ「弱さ」と「無所有」に
向きあえば向き合うほど、さらには現実に向きあえば向き合うほど
「わたし」は「わたし」という存在を否定してしまう。

 否定から生まれた「揺らぎ」と「頼りなさ」というものが
「望んでいたもの」を手に入れて、「人生のシナリオ」通りに
生きる、ということはもしかしたら「生きる」ではなく、
「わたし」というものを「ひけらかして」いるように思えるのだろう。

 その思いは空白となり、この薄暗いものを照らす道標という
「恋」にわたしをなくし、迷子になってしまった。
 
 迷子になったひとりはさんにんであり、さんにんはひとりだった。
よきにせよ、あしきにせよ、「せかいはわたし」であり「わたしはせかい」
・・・だから「ベルハウス」ではなく「ヘルハウス」だったわけね。

福岡女学院大学在校生×OG特別公演 「Tenjinki(天神記)」

「三十一文字」を緩めた言葉が
ツイッターの「140文字」なのか。


 「福岡女学院」を出た女の子たちの「赤」にまつわる伝説が数多い。

 まずは、ここの高等部を中退して東京に行った
某女優が「凱旋」してきた時の格好が
「赤いコートに赤いスーツ、駄目押しに赤いハイヒール」だったという話を
事あるたびに母から聞いたり、
田坂奥の「赤い靴のなんたらかんたら」とか、
とどめは猶本光の筑波大学進学のため浦和「レッズ」レディースだ。
・・・この伝で行くと、「まだ、あるだろ」という気持ちになる。

 そんなことを考えつつ、あまりにも私の家に近いので、
「お金を下ろす」というルーティンをすっ飛ばし、チケットをピックした後に
財布にある現金の少なさにビビって一度来た道を
コンビニに向かって歩く、その歩くさまを母に「抜かれた」らしい。

 無事にお金を下ろし、安堵してハコの中に入る。
普通のシアタースタイル、板のど真ん中に八角形…じゃなかった
五角形のコーナーロープも、ましてや金網もない「リング」がひとつ、
囲むように「控えの椅子」が存在している。

 客入れ音は「博多磯貝」という居酒屋チェーンの各店舗で
かかっているような音で、あの店の雰囲気やら何やらをふと思い出す。
というか、客席の空気がアメーバのようになんだかぬめっとした
ある意味、コミュニケートできていない空間に戸惑っていると
表演空間に黒一色の演者が三々五々表演空間に入り、
体と心を暖めつつ、整えている。

 身体のサイズが大きいのやら、小さいのやら、太いのやら細いのやら
それぞれ違う、それぞれ違うから身体の使い方も違う、
身体の使い方が違うから身体の起こし方、入れ方が違う。
さらに言えば生きてきた「人生」すらも違う。
それぞれの「違い」をもった「人間」という「楽器」が自ら集い、
これから「演劇」という「交響楽」をおっぱじめようとしている。
 
 「きむかなスタイル」という演出、あるいは「コンダクト」で。

 さて、「菅原道真」が「太宰府」に流刑するきっかけとなった
「えげつない」出来事を、きむかなが持つ一味違う「エロ」と
「身体言語」の「掛け合わせ」、さらにはオール女子で演ると
どうやら「過激な宝塚歌劇団」になってしまったくらいに
すべてが「濃厚」である。

 これを見ると、宝塚は「世間の常識」に洗われて
「世間」というものに沿った「認識」と「意識」で動いている。
・・・「食べていく」ためにはそうしていくしかないのだが。
この集合知が「すみれコード」というものか、という発見。

 お話も空気の作り方も歴史解釈も、所謂「一般的常識」をぶっ壊して、
「飛び越える」を超えてしまうと妙に納得するのだな。
今も昔も人生の様々な場面で「女性という性」は「知」に働いてしまい、
「男性という性」は「情」に棹さすか、「意地」を張って
「窮屈」に生きてしまうのかもしれない。

 というか、「日本」という「システム」は意外と、以外にも
「女性」というか「女性という性」が「支配」というか「中心軸」に
据えて存在している、ということを「権力争い」の中で見せている。

 だから、「宮廷」の中で起きた出来事、「出来事」を起こした
「人間」が男性でも、女性でも、「外見上の性」をそのままそっくり
逆に入れ替えても「違和感」というものはさほど起こらないのだな。

 「外見上の性」が「女性」であっても、「内面的な性」を
「男性」として立って、居て、振る舞えば「男性性」で生きていて、
逆に「外見上の性」が男性であっても「女性」として立って、居て、
振る舞えば「女性性」として生きている。
・・・本当はそれぞれの中にそれぞれの「性」が「併存」して、
時と場合に応じて自由自在にコントロールしなければ、
ということがどうやら「世界の潮流」らしい。

 けれども、日本という「システム」は「両性併存」を望まない。
・・・だって、大宰府に菅原道真を「流刑」させた「藤原氏」というものが
あまりにも「女性的」で、手を替え品を替え、姿を変えて
この21世紀まで生き続け、この国を「支配」している。

 ・・・ほら、「日本の支配階層」を形作る人たちの顔をよく見てご覧。
「男」という外面の中に「女性」というか「女性という性」を
「飼って」いるだろ、だから普通の人々からみたらやることなす事
すべてものすごく気持ち悪い。
逆に「女」という外面の中に「男性」というか「男性という性」を
「飼っている」から妙に猛々しくてこれまた気持ち悪い。

 その気持ち悪さを紀貫之は「おんなもすなる・・・」という形で
「土佐日記」に反映し、意地を通した菅原道真は「気持ち悪い人々」から
「祟られるから、怖い」と「天神様」として祀られる。

 こういう「残念無念」を始めとした「もろもろの感情」を
三十一文字に込めたのが「和歌」であり、
十七文字に縮め「季語」という縛りを加えたのが「俳句」、
少し脇道にそれて「川柳」、「狂歌」、というものになったのか。
さらには三十一文字やら十七文字は「全角」で情報量が多い。
情報量が少ない「半角文字」で効率的に「意味」を伝える
「試行錯誤」の結果がツイッターの140文字にまで辿り着いたのか。

HANARO project vol1. 福岡/釜山 劇団・作品交流

日本と韓国、福岡と釜山。
少しずつおんなじで少しずつ違う。


 ハンバーグ工場の仕事を終わって、博多駅からバスで
薬院にダイレクトで到着。

 薬院、というと「福岡麺通団」なのだが、今回の場所は麺通団と
通りの反対側、けれどもわたしは「麺類の口」になってしまっている。
そういえば、場所の近くに番頭さんやらさかせがうまいうまい言うてた
うどん屋があったな、寄ってみるか、と思ったら音楽ライブのため
今日の夜の部、うどん、そばの提供はなし、18時から開店。

 でも、わたしの口はより一層「うどん、そばの口」になっている。
・・・仕方がない、薬院といえばウェスト一択。
冷やしのおろしぶっかけそばに今回はちくわ天で落ち着かせる。

 そばを食いながら今回のトータル興行時間について考える。
そういえば、「四畳半の翅音」はガチで演ると90分だよな、
韓国側の戯曲も90分サイズのものを持ってくるとして
そうなると180分の興行になる、とすると19時半開始で
・・・終わるのが22時半?こりゃ大変だ。

 そんなことを考えつつFUCAへと歩き、その中にある
カフェでまったり茶などしばきながらメモを作り、
その中でもそもそと雑談する。

 今回の趣向については主催者発表を引用することがベストかな。

"福岡と釜山の文化交流事業として、
福岡側は2011年釜山日報新春文芸戯曲部門当選作品
『クリスマスに30万ウォンと出会える確率』(作:オ・セヒョク)を、
釜山側は第三回九州戯曲賞大賞受賞作品
『四畳半の翅音』作:島田佳代(演劇集団非常口)を
それぞれ製作し、福岡・釜山で同時に上演致します。"
(引用終わり)
 
 「釜山日報」いうたら福岡でいう「西日本新聞」で
福岡市総合図書館にも1階の「新聞閲覧室」ではなく、
2階の外国書籍コーナーに置いてあって、昔はよく読んでいた。
「広州日報」や「北京晩報」を読むついでに写真だけ眺める、
ついでに広告も、という感じだが。

 となると、「西日本文学賞」の「戯曲部門」というやつが
釜山にはある、ということか、目からうろこやね。
規模やレギュレーション、そして賞金「総額」はどんな塩梅なのだろうか、
すごく気になるがハングル、という壁がなぁ。

 九州戯曲賞も、すこしずつ「ステイタス」というものが上がりつつある。
規模、というか、参戦数は公表していないから掴みようがないが
ツイッターやら何やらで「一次審査」通過したが「最終選考」には
引っかからなかった、個別選評読んでる、という話をちらほら聞く。
レギュレーションは前シーズンに九州「在住者」が「書いた」30分以上の
戯曲(400字詰め原稿用紙=1分換算)のみ、賞金は大賞50万。

 こういう風に「九州戯曲賞」というものを媒介にして
「戯曲」という「言葉」をまずは「音」として「立ち上げ」て、
次は「角度」を変えて「音」にする、さらには「演劇作品」として
「立体」となり、とうとうわたしたちと「違う」感覚で「立体」として
「立ち上がる」様子を見る。

 いろいろな意味で、「演劇」という「旅」が始まり、そして続いている。
願わくば「戯曲」という「言葉」の奥底にある「何か」を共有できたら
この「旅」にも意味がある、と思えるのだろう。
 

 そんなことをじわじわと考えたらもう本編だよ。

「四畳半の翅音」

 この戯曲を気がつけば、一年以上も追いかけていた。
まどかぴあリーデイングから鹿児島リーディング、
「立体」に立ち上がった様を非常口の本拠地伊佐で見て、
さらには福岡でブラッシュされたものを見た。

 その流れと自分が持てる限りの
「韓国という場所で起こりうること」を総合してみたら韓国国内でも
このお話で語られる「差別の集合体」が存在していて、
「光州事件」はこの差別が為した「事件」だった。
「新羅」と「百済」の関係性やら「両班」と「白丁」までは行き過ぎかな。

 少しややこしいことをつらつらと考えてみると
現実に立ち上がっている表演空間からびっくりする。

 これが、釜山の、そして韓国の「四畳半」なのか。
というか、この部屋、もしかしたら「オンドル部屋」だよね?
タンスも、鏡台というか文机も、そして流し台の作り、
飲み物を入れるグラス、焼酎の瓶、さらには「ベビーチーズ」。

 日本と韓国は「生活様式」からして似ていて、似ていない。
たぶん、「家事」という「労働」を「立って」やるのか「座って」やるのか
という違いがそう見せるのかもしれない。

 そして、「貧しさ」というものが日本は何かしら「隠匿」されていて、
韓国は逆に「貧しさ」というものが「開き直り」になっている。
この「四畳半」の空気を感じていたらわたしが演劇を始める前、
心と体を壊したあの空気と、時間と、出来事を思い出して、
正直、吐きそうだ。
・・・ああ、これが「吐きそうなほど、懐かしい」なのか。

そういう空気の中で「選別する・選別される」から
「選別する・選別される」ことで生じる「淘汰」を「能動的」に
生き延びるのか、「受動的」に生き延びさせられるのか、というお話を
大胆不敵に「交通整理」して、「生きることへの祈り」を込める
「マダン」という韓国独特の演劇ジャンルで味付けした趣。

 この趣だから、「生かされる」から「生きる」に人生の方向を
切り替える「悼みの作業(グリーフ・ワーク)」を通して
あたらしい「生」というものを見つけ、進みゆくお話に特化させた。

「クリスマスに30万ウォンと出会う確率」

 色々思い出してみるとガチの「韓国戯曲」というものの「実演」は
初めて見るのだな、ということにうっかりと気がつく。
菊沢さん(野田地図のアンサンブルでお馴染み)の引きで
トゲピを見たり、きむ・ちょりのMAYは見たけれど、
純粋に「メイドイン・コリア」で「演劇」という「万国共通」の
「身体言語」を見るのははじめてなのかもしれない。

 不思議な「幕」で覆われ、そして周りはさざめいている。
・・・「嵐」の前の「静けさ」というものはこういうものなのだろう。
幕がすうっと「取れる」と3つの箱馬、という椅子。
周りにはぬいぐるみやゴミ、もしくは食べ物。
箱馬、という椅子の目の前には「ディスプレイ」を模した幕が。

 ここに、何か訳あって離れ離れに暮らしている「家族3人」、
クリスマスに諸々の事情で「30万W≒3万円」を
それぞれが必要としている。
父は日本、特に九州より恐ろしく「寒い」ところで
「生命線」の「ガス」が止められてさあ大変、
母は警察に支払う「袖の下」、息子は「女の子」と遊ぶお金。

 けれども、みんながみんな「10万W≒1万円」しかもっていない。
持っていない、ということを正直に言えばいいのだが、
なんて言えばいいのだろうか、「見栄」というか「意地」といえば
いいのだろうか、「変なプライド」が邪魔をしてうまく言い出せない。

 それどころか「取らぬ狸の皮算用」までおっぱじめてしまい、
グルグルと身内でお金を回している、この事実に気が付き、
三者三様の「欲」と「己の馬鹿さ加減」というものを
それぞれが自覚する。

 こういうお話がMMSTにかかると
ヨーロッパ文学的に「化けた」、というかエッジィな「現代文学」を
「装丁」で見せる、というか読んでいく、にまで持っていく。

 アーヴィン・ウェルシュの「トレイン・スポッティング」や
「マラボゥストーク」のように毒々しくはないが、
「人間って、ものすごく欲の皮が突っ張っていて、なんというか
 くそったれ、だけどなにか愛しい」という空気が戯曲から出ていて、
この空気を文字的にも、音声的にも「マルチ・リンガル」で見せる。
これ、やりようによっては凄い可能性が。

 ・・・一本あたり60分、120分興行だったのでまあ、何より。

謎のモダン館「BLACK・GATE」

ノイズの中から「人生」を探す。

 これもまた人生の修行なり・・・か。

 今月は有給の残機がなぁ。
というわけで今回の謎モダと再来週金曜のヒトステは
午前中でハンバーグ工場の仕事を切り上げ、長崎へ向かう。

 え?フーズの長崎公演も行けたのでは、とおっしゃるが
まあ、土曜の回が夜しかなく、チトセピアホールから
ダイエーが閉まったあとに外にでることが迷路のように難しく、
難しさゆえの「タイムロス」で最終の博多行き特急に乗り遅れる
リスクを考えたら広島公演、新幹線広島駅至近の立地には
とてもとてもかないませんわ。

 にしてもなぁ、前の日が北九州本城で
久しぶりのうぃあーえひめ。
本城のメイン個席部分はある意味「社交場」になりつつあるし、
おまけに濃ゆい場所だな、うん。
で、帰り着いたのが22時過ぎ、珍しく焼き肉とご飯中心に食べて
家についたのが23時過ぎ、胃腸を落ち着かせて寝たのが1時過ぎ。

 そうしてもいつもの様に朝5時に起きて、下のソファでまた寝てる。
いつもの様に仕事へ行き、切り上げて大雨の中、電車に乗って博多駅。
特急の便を改めて確認すると12時55分発ではなく、13時55分発。
博多阪急の地下で何かしら買って食べてから乗ることにしよう。

 食べて、13時55分発の特急に乗るとそれはまあ嫌な空気。
ついでに恐ろしく眠いし、目をつぶっていたらもう長崎。
長崎は恐ろしく雨が降っていた。
その中をメルカつきまちまで行き、時間が余ったので
浜の町のスターバックスでしこしこレポートを書く。

 さて、今回はえ+のスマートチケットを初めて使う。
まあ、決済とか、すごく楽なんだけれど、いろいろな意味で
改良、改善の余地が在るかなぁ。
ホールがタブレットでの決済装置を持てばいいのか、
いくつかの劇団の制作で「決済組合」を作って
装置を共有すればいいのか、色々考察し、いろいろな変化を
そこかしこに感じているともう本編。

 というか、開演ギリギリで子供つれてきた客が
ある程度埋まっている客席の空きを探し、
入口に近いあのポジションを開けてもらう一連の流れが
なぜか、ひとつの「演劇作品」となっていた。

 ある地下室に何か、人が集まっている。
「黒い手帖」というものをもって。
人間としての「駆け引き」がありつつ、
小説家と女の人との会話という物語が
同時進行で進んでいく。

 「十三夜」、10分間しか聞こえないラジオ、
ノイズの中に聞こえてくるかすかな声を、言葉を探す。
・・・もしかしたら「あの世」と「この世」は「片方向通信」なのか。
「あの世同士」、「この世同士」は当然のことながら
「双方向通信」なんだけれど。

 そのことを確かめるため、ひとつ実験をしてみよう。
まず、仕掛けとしてネットの中で「ある掲示板」を作って
不特定多数の人をおびき寄せて、その中からある特性を
選んで、「黒い手帖」を「偶然を装い」渡して実験を始める。

 最初は「お金」という餌を使っておびき寄せようとした。
けれども、「どこか正しくて、どこか間違っている」言葉の拾い、
と言うものからそれぞれがそれぞれの「喪った痛み」を
「語る」ように持っていかれる、ある意味、面白い、そしてしんどい。

 あれっ、こんなこと、ツイッターやフェイスブックで起こっている
こととなんだかおんなじではないだろうか、そんなことをじわじわと。
板の上では「のいず」という「意味のない音」から「音声」としての
「言葉」を拾う、わたしたちはパソコンで「タイムライン」という
「言葉の流れ」から「文字・文章」としての言葉を拾う。

 さらには「意味のない音」や「言葉の流れ」に紛れて
私達自身も「喪った痛み」や「喪った怒り」など
無意識に「へんてこりんな感情」を流している、かも知れない。

 人間として「生きる」ということは「最大の修行」なのだろう。
わたしたちはどのように生まれて、生きて、何を手に入れ、
何を失い、その結果、どのような立ち位置にいて、役割を果たした
結果、どんな「因果」を次に背負うのか、「審査」されているのか。

 だからこそオカルティズムというか全ての「芸術」と
インターネットを始めとした各種テクノロジーは
使い方次第で「魂の救済行為」にもなるし、
逆に「魂を抹殺する行為」にもなる。

 「なぜできない」と「責める」よりも
「できることでやれる役割、立ち位置」を「探す」ように
仕向けるように対し方、接し方を考える。

 そういうことを考えずにただ「我が身の至らなさ」を
不特定多数の人に「ノイズ」や「タイムライン」という
ものに紛らせて、喚いて、不満をぶつけるのは・・・ね。

 あなたはどのように現実や、テクノロジーに向き合っているのか
強く問われているんだよ、喚けば喚くほど次に踏み出せない。

 喚くより、吐き出そうよ、みんなに届くような「言葉」を使って。
嫌なところも無理やり見ることになるけれど、
見ることで「わたしは何に痛めつけられたか」ということもわかるし、
より良くするきっかけも生まれるだろうし。

劇団HallBrothers  「上野真冬の遅すぎた春」

「自分のことが第一、他人は二の次」で
人は、果たして幸せになれる・・・のか?


 「発達障害」もしくは、「自閉症スペクトラム」は
社会そのものが「共依存」を要求するがゆえに起きた
「病気」ではなく「問題」である。

 そんなことを改めて受け取ってしまった。

 ホルブラ、と言うか幸田さんの「テーマ」が
「社会のささくれを表現する」という初期の段階から
はぎわらと結婚して「永遠に少年」で「発達障害」もしくは
「自閉症スペクトラム」を抱えた人間が如何に
社会で「生きにくさ」を抱えているか、というテーマと
「閉ざされた社会」という「状況」の逃げ場のなさ
というふたつに分化、変化してきているなと。

 それにしても、表演空間の雑多具合、とか
ありとあらゆるところがVillage80%という所が
大昔やったとある演目とほぼおんなじです。

 わたしもわたしで、城崎温泉劇作家大会後の
リカバリ期から休養期の「はいり」というものが
恐ろしく良くない、タブレットとか、
ブルートゥースキーボードという
新しい「装備」にお金の面とテクノロジーの面の
両方で四苦八苦、「できること」と「できないこと」を
腑分けして、対応する作業が物凄く厄介。

 おまけに、いろいろなところでわたしのリズムや
周りのリズム、対応や作業の手順が微妙に変わって
「リレーションシップ」がうまく行かないことによる
コントロールミス、それに関係する諸々が起こりすぎて
正直、疲弊している。
けれども、日々の仕事はせにゃならんわけで。

 そんなことを考えていたら、もう本編。
・・・うん、「人間」といういきものは
かける言葉によって「活かされる」し、
「殺される」わけだから、個々人に対する
「言葉のかけ方」には、気をつけろよ、と
考えてしまうくらい、「上野真冬」という
一人の女の子が生まれて此の方、周囲から
かけられていた言葉、というものが非常に汚い。

 このことからしても、彼女はいままで
「安心」というものを生活の中から得ていなかった。
親からは「ネグレクト(育児放棄)」を受けてしまい、
周囲からは「ネグレクト」によって生じたのかもしれない
「発達障害」もしくは「自閉症スペクトラム」という
「異質性」と「貧困」という「生活環境」を槍玉に挙げられて
生きているすべての場所に「居場所」を作ることを
許してくれなかった。

 「居場所」を作ることを許さない場所だったら、
誰もが「わたし」という「存在」を出して
生きていくことなんてとても出来ない。

 おまけに、周りを見渡してみれば、「自分」を手に入れて
「自分の人生を生きている」振りをして、
何者かに「依存」を要求している、否、強要している
そういう「関係」という洒落にならん「現実」が
今現在、板の上に「存在」していた。

 「上野真冬」が私を生きようとすればするほど、
周囲は「彼女を利用して自分がいい思いをしてやる」という
「邪さ」がじわじわとにじみ出てくる、彼女はこの邪さを
「違和感」として体の中に入っているから誰に対しても
うまく心を開けない、開けない様を周囲はさらに追い詰める。

 結局、みんな、「まとも」の振りをしているけれど
ある意味、みんな「まともじゃない」から「違和感」と
いうものをうっかり感じた時は身内の誰にも相談できないし、
誰もこの「違和感」を受け止めることができない。

 だったら、シンプル、というものを学ぶことができる
「中立な場所」を探して見つける必要がある。
わたしは、そうしてわたしを助け、今、こうしてここに居る。
・・・親が「獣の道」を教えてどうするんだろう?

 「うち」と「そと」のバランスをうまく取らないと
「私は、誰かに依存しているのかもしれない」や
「私は、誰かに依存することを望んでいるのかもしれない」
「私は誰か、私の世話をする相手を探している」という
問に目を塞ぎ、耳をふさいで、気がつけば「共依存」という
「蟻地獄」に自分で自分を追い込んでいる。

 あなたは本当に自立、しているのですか?
本当に自立しているのならば、いま、あなたが
そうしているように「あなたが抱えているいたらなさ」を
不特定多数にぶつけて鬱憤を晴らしたり、
「共依存」という「蟻地獄」をつくって自分より弱い人間を
落とし込んで、自分の弱さをその人になすりつけることは
しない、というか、できないよね?

 そういうふうにして手に入れた「幸せ」に
どういう因果が待っているのか、40数年生きていても
私は何も知らないし、みんなも何も知らない。

 うん、このお話の5年後、10年後を少し見てみたい。

万能グローブガラパゴスダイナモス  「よれた僕らの水平思考」

「自由」と「規律」の狭間、それが学生。

 えんやらやっと、という感じだ。
実を言うとな、このカンパニーを始めてみたのが、
甘棠館であった「インディゴブルーの本当」という演目で、
それ以前にわたしが演劇に関することをはじめた時、
出会う良い才能、良い才能所属をひと通り聞いてみると
みんなここのカンパニーを言いやがる。

 そういうふうにしてやりとりをはじめてから見ようとしたのが
この「よれた僕らの水平思考」だったわけで。
で、木曜の夜この演目を見て、翌朝の飛行機で東京へ飛び、
2本演劇を見学して一本リーデイングかな、そして土曜日に
味の素で東京ヴェルディ対愛媛を見てから深夜便で
北九州に移動、日曜日にスミックスホールでC4という
日程を組んでいた。

 なのに、なのに、5月の中頃、お金と体調の管理をミスって
えらいことになり、飛行機も宿も何もかもキャンセルした。
お金だけが出ていく、なんともまあ嫌な感じ。

 この状態の悪さをズルズル引っ張って演劇は見られないが、
トレーニングキャンプには出るようになり、ガラパから貰った
年賀状が「川口です、いつもお世話になっています、
        たまには公演にも来てください」と来たものだから
年明け早々背中に冷たいものがつうっと。
・・・海よりも深く反省せなあかんな、これは。
というわけで「コンディション」というものを
より意識するようになったわけで。

 そういうことをつらつら思い出しているともう本編。
とある大学の「デジタルゲーム研究会」というところの部室、
いわゆる「部室」特有の雑多なんだけど、ある意味「熱を帯びた」
表演空間、客電の時壁に貼ってあるポスターが「ソニック」、
ここで鉄ヲタであるわたしは「特急ソニック」のポスターかな、と
思ったら、ストレートにSEGAの「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」。

 うん、大学、という空間は「日常」と「非日常」が
常日頃から「混ざって」いて、特に「前期」と「後期」の
「定期試験」の期間中はこれらの混ざり具合が恐ろしいぐらいに凄い。
なんていうか、「緊張と弛緩」という相反する精神状態が
同居している、とも言うのだろう。

 その中で「時間」というものや「ものごとに対する優先順位」
あとなんだ、「人生」のいろいろなことに対して「選択の自由」を
「私」が持っている、ということが「大学生」の権利なのだ。

 この「権利」というものを「どう活かしたか」が後々
大学を出て、社会に入った時に活きて、「人生」を大きく変えて、
「これから」というものを決めるのだろう。

 これらの「行為」で起こった「行き違い」と「すれ違い」、
そして「勘違い」が同時多発的に起こる様は
まるでラグビーの試合を見ているかのような
「重量感」のあるスピード感。

 この重量感とスピード感を初演の時に見ていたら
というか、あの時の「精神状態」で見ていたら
いったいぜんたいわたしの心のなかで何が起こったのか?
そのことがものすごく気になってしまった。
さらには「この感覚」を携えて東京へ飛び、
演劇などを見ていたらどうなっていたのだろう?

 それくらい、「青春」という熱量の高さが凄まじかった。
時間が過ぎ、ガラパという劇団もわたしも「立ち位置」というものや
「役割」というものが変化していた、にも関わらず、感じる熱量は
あの時の「立ち位置」や「役割」の醸しだすそれだった。

 お話は「思い出づくり」でゲームを作ってみよう、
けれども、「学生」という曖昧さで物事がうまく進まない、
という「すれ違いがあって、ひとりだけ「恋愛」を緒にして
「就職」というものを有利に進めようという「抜け駆け」があり、
「試験の日程」についての「行き違い」、さらには「すれ違い」を
リアルにロールプレイングゲームにする、という
「ある迷宮からの脱出」シリーズをある意味先取りした隠し味。

 「行き違い」や「すれ違い」、「抜け駆け」、「勘違い」を
まとめて「ゲームの中」で昇華して力技で解決する、というのが
らしい、といえばらしいのだが。

 さて、「ガラパコレクション」の二作目。
「レモンサイダー・バカンス」の時は正直にグイグイ押していく感じ、
これが「よれた僕らの水平思考」ではサイドの切替というものが
少し出来ていた、これが次の「馬鹿野郎、そこは掘るな」で
どんな変化があったのか、さらに知ることになるのか。
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