万能グローブガラパゴスダイナモス 「馬鹿野郎、そこは掘るな」

「不都合な人生」にわたしは「真正面」から
「立ち向かうこと」ができたか?
「立ち向かっている振り」をしていた
「だけ」じゃないのか?


 わたしもこの演目の初演時より
多くの出来事、又は修羅場潜っては来たけれども、
なんだか、自分に自分で腹が立つ。

 腹が立つを通り越して、
さらには自分で自分に怒りを覚える。
いったいぜんたい、いままでなんなんだ?
わたしは何をしてきたんだ?
何もしてないのに「している」と天狗に
なっているんじゃないのか?

 こういうことを感じさせる出来事が甘棠館に辿り着く前
わたしの「現実」として襲い掛かってくる。
「一つ上の段階」にゆくためのinputがどかどかどかと。
それを処理するための時間も、お金も不足している、
これらを解消するためにハンバーグ工場の仕事、
銀行、信販会社、そして母に相当な負担を掛けている。

 この負担が知らない、というかわかっていたけれど、
ずっしりとのしかかり、「自転車操業」でも対応できなくなってきた。
だとしたら、「第三者」という存在を入れてざっくり大鉈を振るうしか
道がなくなってきた、なのに変な日程を9月と11月に数本入れてしまい、
にっちもさっちもいかなさそうになってきた。

 まあ、飲む条件は飲む、やるとこまでやるしかない。
けれども、心と体、すごく最悪、すごく気持ち悪い。
とにかく、いそかわさんと一緒に動いていくしかないやね。
・・・ものすごく吐きそうになるけれど。

 そういう「前提」はさておいて、今回は甘棠館ガラパスタイル再び。
一味違うのは最前列が椅子ではなく、むしろと座布団数枚重ね。
なんだか初演時よりもシンプルな感じになっている。
さらには集客もレディスデーとかそういう「仕掛け」を作らなくても
アフタートークとか、生コメンタリーとか、「作品」に関する「仕掛け」と
若干の割引、継続特典という「演劇」で客を集められるようになった。

 故に客層も初日だからか妙に落ち着いている。
「中洲のどこの店なのか」という派手目も、関係者も
居るには居るようだが、「観客の森」の中に紛れている。

 こういうことを考えながら、物語へと入っていく。
キャストがある程度入れ替わると物語の「切れ味」が
こんなに半端無いくらい鋭くなってしまうのか。

 「場所」はどんなに「大人」になってもここに来ると「子供」に
帰ってくる「空間」たる洞窟の中。

 「状況」は「結局、ブレイクどころか爪あとすら残せなかった」
お笑いグループが迎えた「ひとつの転機」、ここに「同窓会」と
「結婚式」の要素がかぶさってきた。

 この、「場所」と「状況」で「行き違い」と「すれ違い」と
そして「勘違い」というものを初演時は妙にキラキラしていたものだから
味わえなかったけれど、今回はよこやまが恐ろしく地味だけれど
ムーブマイムがものすごく丁寧、目線すらも丁寧に演っているから
「行き違い」、「すれ違い」、「勘違い」がくっきりはっきり見える。

 さらにはまつのおが「両性具有」のウェディングプランナーを
うまくスイッチ切り替えてやっているから「漫才のコンビ」って
なんだか「夫婦」に似たところがあるよね、とジェンダーフリーに
方向性が行ってしまっている、なんかすげぇ。

 みずほが入るとガラパ的な空気に「飛ぶ劇場」が混ざって
ものすごく真面目になるし、「パー子」のポジションに
ただではなく、こぱるが入ると、「妖精」からつかみどころがない
「あまのじゃく」のするする感が物語の強度を作っている。

 ・・・だから「同窓会」と「結婚式」と「転機」がふんわり、
しっかりと撚り合わされ、様々な伏線や仕掛けが組み立てられ、
気がつけば破壊力抜群の「心理的爆弾」が仕込まれ、
今か今かと爆破を待っている塩梅。

 キャンドルリレーから導火線に火がつくとさあ大変、
今まで隠していた「うそ」や「ごまかし」、「言い訳」、「しがらみ」、
「重荷」、いろいろな「マイナス」が爆発し、噴き出して来やがった。
ここまで噴き出してくると怖いどころか、むしろ引く。

 噴き出した様を見た嫁は「ウェディング・ブルー」が炸裂し、
より一層情緒不安定になるわ、これを見た男はどうしたらいいか
狼狽して、お互いが本気でぶつかり合って、どうしたら良いか呻く
様子が、なんか自分と重なる。

 過去もない、未来もない、今だ、というか、そう言い続けたことで
何者かに「負荷」というものをかけすぎていた、それはそれでいい。
けれども、「わたし」は一体どうしたい?
腹決めきらんからこうなったんやろ、相手に負荷をかけてしまう
現状と「おわかれ」せなあかんやろ、と諭された。

 振り返るな、されど忘れるな、か。
ああいうふうに本当に遠いところに行かれると切ねぇわ。
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福岡市文化芸術振興財団 「パンチネロ~たいせつなきみ~」

全ては「見通されている」。

 やって来ました、さいとぴあ。
博多駅から地下鉄に乗り、姪浜から今宿、福大の野球場が
見えたら、九大学研都市、イオンの隣になにかいいものが。

 ・・・というか、この場所、「福岡外環状道路」に関わる
「代替地」に作られたものだったのか。
それが何より証拠には、福大の野球場だって、外環状線と
都市高速環状線の「福大トンネル」を作るために
場所を提供して、このおかげで七隈の体育関係施設が
再レイアウトされ、福大病院の新棟ができた、
そのさまを自転車で見てきたのか。

 だとしたら、地下鉄七隈線も、天神南駅から博多駅と
橋本駅から九大学研都市駅までは通るのだろう、時間はかかるが。

 ・・・いや、まあ、北芸の「痕跡」があったけれど、ぶっ倒れて以来
久しぶりに演劇の仕事「だけ」をする日程。
おまけに、夜は月一回の「大切な人」に会いに行く。
終演後から会いに行くまで、結構時間が空いている、
そういう時ほどサッカーもない、野球もない、ついでになにもない。

 どうしようとイオンのスタバでお茶を飲み、
11月の広島から沖縄、という大移動の日程をまとめ、
熊本方面の手配もしてから現地に向かう。

 それにしても、ここ数ヶ月あった、ツイッターの中で
ある写真家「もどき」が日本の文化や他者の人生を
口汚く喚いていて、非常に気持ち悪かったのです。

 この件についてなかめぐに夜中「この人知っている」てなことを
ことばのパスを回してしまって、なにか申し訳ない気持ちになる。

 この思いを感じながら、小便したいなとトイレに行き、
戻ってきたらしまださんに捕まり、体のことを聴かれる。
・・・まあ、なんとかっす、3日間寝てたら何とか戻って、
今度ぶっ倒れたら入院も選択肢のひとつかなぁと
話してから入場の列に並ぶ。

 ドアが開いて、中に入るとなんかすごい表演空間。
おまけに客席は子供連れがかなり多い、というか、
イオンの中にあるゲームセンターや、楽市楽座なんかに行くよりも、
近所にこういうものがあって、行く機会があるならば、得るものが
あるのかもしれない、見手にそう仕向けるような「強度」のある
演劇を作っていく、そしてつないでいく。

 ポイントは「0を1にする」、そしてこの「1にしたものをそれ以上にする」
その方策、ロジックの組み立て方、組み立てて、どう実行するか、
任せるところ、凌ぐところ、こんなことを考えるとまた吐きそうだ。
人を殺すような汚い言葉を感じ、それに対していろいろ考えすぎて、
動き過ぎて、気がつけばピークアウト起こしている現実。

 そんなことを感じていたら、もう本編だ。

 物語の基本構造は「彫刻家」という
ある意味「孤独な」アーティストの工房と彼によって「創造」された
「人形たち」の「社会」でそれぞれ起きた出来事が交互に
展開していく、なんか、これを見て、感じて、ふと思う。

 この様子、ツイッターやら、フェイスブックのような
SNSや、2ちゃんねるのようなBBS、さらにはネットゲーム、
NintendoDSやらPSPのような通信型ゲーム、要するに、
インターネットと現実社会、という対比と全くもっておんなじじゃないか。

 現実社会も、現実じゃない世界でも「わたし」には
それぞれ位置や役割があるけれど、その位置や役割が
「ポジティブ」な位置や役割であるならば、それはそれでいい。

 けれども、ポジティブの裏にはネガティブ、というものが存在し、
なんていうか、位置や役割に対する不平や不満を解消するための
「はけ口」としての存在も少数ながら必要なのだ。

 この、はけ口として「創造主」はパンチネロをお作りになられた。

 がだ、当の本人はそういう位置や役割であることを知らず、
ただ、その位置や役割を果たしているから、理不尽に悩む。
「なぜ、わたしは、まわりと同じではないのだ」と。

 そして、「わたしはこんなに劣っているのに、ここにいていいのだろうか」
さらには、何を一体、どうしたらいいのか、わからなくなる。

 「大切」って一体何なんだ、「わたしに出会う」とは一体何なんだ、
「ありのまま」とは一体何なんだ、これらを見つけるのはとても大変だ。

 大変だから普通は「はやり・すたり」を追いかけてみたり、
みんなそれぞれ生まれや育ちが違って当たり前なのに
その生まれ、育ちをことさらに強調して優劣をつける、という
ある意味「差別主義」に走りやすい、という愚かさ、などの
「人間の可笑しさ、悲しさ」ということを非常にわかりやすく見せている。

 普通は立ち居振る舞い、さらにはツイートの中に
様々な人生が見えてくるのだけれども、何も見えない人が居て、
ググって調べるにしてもなんか嘘をついていそう。

 こないだ、他者と繋がろうとしないのですか、という問いに
乗っかったら「わたしは創造主だ、わたしの創造物を買え、
つながることには意味がない」と言ったので、
なるほど、と思い関係を絶ったことを思い出す。

 この人、孤独で、とても弱い人なのだな、不特定多数の意見を聴くのに
耐えられないメンタルかもしれない、はまるいの演った「貴婦人」と
おんなじような、だから「材質」という狭い価値基準しか信じていない。
逆に「彫刻家」という「創造主」は傷ついた心を受け入れ、癒やし、
正しいと思われる道を指し示す手助けをする。

 「特別な存在」なんて人それぞれなのに、この狭い価値基準を
不特定多数に強要する、部分的には正しいかもしれないが。
がだ、窮地に立たされた時、「差別」した奴に生存を
助けられることもあるかもしれないのに。

 「差別」って不思議な力を持っていて、「わたしはわたし」と
存在を強く持っていても狭い価値基準に合致して「褒められて」
しまうと、簡単に「崩れて」しまうんだな、魔力だ。

 そういう人に出会うと、私の人生や学んだことに不安を感じるけれど、
もういいや、私はそうとしか生きられないし。
これが、わたしにしかない「良さ」というものなのだろう。

 今年、3年に一度の「八雲国際演劇祭」というものがあって、
そこは「3歳からの演劇祭」と銘打たれている。
この演劇祭にフルパッケージで持って行けたら化学変化が起こりそうだ。

 ・・・終演後、程なくして「大切な人」からメールが入り、わたしを気遣って
「今日会うのやめにしよう」と連絡が来た。

KAKUTA  「痕跡」

「人生バンジージャンプ」。

 ・・・はい、ぶっ倒れていました。
先々週末の広島、楽しく飲んで、ご飯食べて、かなり寝不足、
宿を出て、ウロウロして、ネットカフェに立てこもってから汗が止まらない。
おまけに夜遅く帰り、早く起きて仕事に行く、その仕事自体は楽しい、
問題は人間関係、勤務の「交通整理」というものが全く出来ていない。
お互いがお互いの「優先順位」を強調してものすごくしんどい。

 さらにはお盆、チンタラチンタラ働く輩の後始末をするために
気がつけば帰りは18時、酒の量が気がつけば増えていた。
内蔵ボロボロ、心もボロボロ、という状態で鹿児島へ。

 宿について、ご飯食べて、汗を流して寝るまでは良かった。
けれども、寝汗が尋常じゃない、おまけにもんもんしている。
過去のスカウティングレポート読んだり、抜いてみたりしてみると
もう3時、もう4時、もう5時、もう6時、ここまで行くと汗も引いて
すっと眠れる、と思ったら「臨死体験」という「金縛り」に合う。
身体がズブズブと沈んで意識はあるのに立ち上がることができない。

 これが二回続いてスッキリ目覚め、宿を出て見学する前に
演出者協会の会費を入れようと郵便局に行き、払込票を
機械に入れたら大変なことになり、手間を掛ける。
・・・劇作家協会の会費も入れた、阪急友の会の会費も入れた、
お金、一体どうなるの、と変なスイッチが入る。

 この後、鳴かず飛ばずを見学し、さあ福岡へ、と思うが
なんかしっくりこない、お茶をしながら切符を手配するが
指定席が満席なのでグリーン車を取る、駅に向かって食べるものを
探すが、なんか嫌な感じ、仕方がないからコンコースのうどん屋で
そばを食べる、そして新幹線に乗る。

 福岡に帰り、少し飲んで家に帰ると雨に濡れたかのように汗が酷い。
あと、例の手紙でスイッチが入り、慌ててお風呂に入り、
口に手を突っ込んで吐いてしまう。
あとは喋れないし、動けない、横になるしかない。

 それから日曜病院に行くと「精も根も尽き果てる状態」といわれ、
この後、ずっと火曜日まで眠り込んでいた、HMEに出る以外は。

 いろんな出来事を乗り越えて、やっとこさ、ここまで辿り着いた。
一時期はせっかく買ったチケットを無駄にしてしまうかも、と思ったが。

 それにしても、青山円形劇場は見やすいけれど、
椅子の座面高が恐ろしく低いし、隣の席との間隔も
恐ろしく狭く、満員の状態で見るとかなりのストレスになる。
この表演部や座席の作りを北芸小劇場に「もって」来ると、
「演じる空間」はすごくぎゅっとしているが、座席の作りは
えらくゆったりしている、ストレスなく見ることはいいことだ。

 疲労が溜まりすぎて、何やらかすかわからない時にはなおさら。

 「疲労」でよく考えるのだが、最近良く「毒親」という言葉を
目にしたり、耳にするようになった・・・ネットの中だけだが。
「親としてアタリマエのことをする」こと自体が子供をダメに、
もしくは子供を殺してしまうことがあるらしい。

 まあ、このことはある意味現実で、ある意味嘘かもしれない。
がだ、今こうしてこのレポートを書いているうちに潰され、殺されている
子どもたちが居るわけで。

 そういう人生を送った大人たちが「新しい人生」を送るためには
いったいぜんたい、どうしたらいいんだろう、今のままでは
「毒親」というものに死ぬまで絡め取られてしまう。

 だとしたら、「わたし」という存在を「解体」しなければならない。
さて、「わたし」はどれだけ「解体」できる?
私を縛っている「戸籍」をどうやって抜いて、別のあたらしい「戸籍」を
どこで、どうやって、手に入れて、それに付随する免許証やら
パスポートやら、健康保険証をまたどういう手段で手に入れる?

 「人生を変える」ということはこれぐらい徹底的にやらなければ、
住所や、仕事や、人間関係変えたって「元」がよくなければ、
そのよくなさが「あとあと」わたしの人生ついてまわる。
過激に、厳しくやって「人生のバンジージャンプ」は意味を成すのだ。

 たまたま「人生のバンジージャンプ」を成功させることができたけれど、
この「成功」が以外にも沢山の人々の人生を巻き込み、狂わせた。
ここがこの演目の肝。

 ある夏の嵐の夜、自分の意志なのか、導かれるように家を出た
10歳の少年が何者かによってひき逃げされ、
生きているか、死んでいるかわからない、
ホントはどうなのか、ということを母親が探しに行く
というロードムービーを軸に、「無戸籍児」、「密入国者」、
その他もろもろの「表には出ない、出て来られない」存在が
板の上に存在し、そうならざるを得ない事情までも垣間見えてしまう。

 そういうような存在に対して、知らぬ存ぜぬを決め込んで
のんべんだらりと生きていればそこそこ幸せだ。
けれども、この世界をうっかり知って、触れて、手を突っ込んで
しまった、それでもそうしたことを「隠し通せば」まだいい。

 けれども、「隠し通す」事によって「あとあと」生まれた毒が
皆の心を蝕んでいき、最後の最後「良心の呵責」に負けて
「普通」が同時多発的に崩壊するさまに戦慄を覚える。
 
 私にはそんな勇気がないから、と言って
自らを責める必要なんてないし、痕跡のリスクなんて背負えない。

劇団鳴かず飛ばず 「ダブリンの鐘つきカビ人間」

「たかが30分、されど30分」。

 上演時間の長さ、というものも満足度を左右するのか。

 さて、この演目を今年の5月、広島のtempaというところが
演ったのを見た。

 そのときは「福岡演劇フェスティバル」週間のまっただ中、
ttu「おやすみカフカ」を見たのち、クロサイ「#」を見て、
うまく食事や風呂もできずに広島行きの高速夜行バス、
またいつものようにとなりあわせで人がいる、というストレス。

 このストレスをえんやらやっと、というか路線自体のルート変更に
驚いて広島にたどり着いて、いつものサウナで汗を流して、
一眠りして、気がつけば場所を出ていかなくてはいけない時間、
ゆっくりと広島駅まで歩き、途中のJRA場外馬券売り場で
スカウティングレポートを書きながら時間を潰し、
なんか落ち着かない、というか腹が減ったので新幹線口の
グランヴィア、ビュッフェレストランに並ぶ、その合間にも
しこしことレポートを書く、食べて、ハコに向かい、
レポートを書きながら会場、というか受付を待つがなにかしんどい。

 うまく眠れていないからなのか、入口近くにキャンプでもするのか、と
うす汚い野郎たちが(以下略。

 おまけに、15時半開始で途中休憩がどこに入るかわからないが
終演は18時過ぎ、なんだかんだしていたら19時10分発の
福岡行き最終の高速バスに間に合わない、と気をもんでしまう。

 その旨、挨拶がてら親分に聴いてみると、大丈夫、という。
「間に合う」というならば、信じるしかない、と腹をくくる。

 ということがあったので、鹿児島で鳴かず飛ばずがやる、という時、
まっさきに見に行く、という基本方針は固まった。
泊まるところも久しぶりにレム、問題はお盆の交通問題と
スケジュール管理、どのタイミングで工場での仕事を抜けることができるか。

 そして、上演時間がどんな感じになるのか、もしかしたら
広島のように休憩時間を挟むのか、そうじゃないのか、
下手に長引いたらいけないから早いタイミングで
交通機関が抑えられない。

 おまけに、今後の問題、お金の問題、人間関係の問題、
いろんなことがまとまらなくてものすごくきつい。

 きついことをやりこなして新幹線に乗り、鹿児島について、
宿に入り、外は大雨だから中のレストランで飯を食い、
タンバリンのスカウティングレポートを書いて寝ようとすると眠れない。

 タブレットいじったり、何やらしているともう明け方。
目をつぶって寝ようとすると汗がひどい、朝になって
やっと眠れるが、金縛りが酷い、「臨死体験」とはこのことか。
「ああ、もうすぐ、わたしは、ここで死ぬのだな」と。

 奇跡的に目が覚めて、ご飯を食べ、汗を流してテレビを見る。
・・・おどろいた、名は敢えて秘すが、この演目の出演者が
舞台衣装とメイクで鹿児島の情報番組に出ている。
鹿児島のフットワークの良さ、というか、過酷、というか。

 それを見ると、そろそろ外に出なくてはいけない時間帯。
まずは演出者協会の会費を入れに郵便局に行くが
やらかして、時間がかかりすぎる。
あとは天文館をウロウロして、お昼なのに何も食べられない。

 気がつけばもう時間近いのでハコに向かい、じっと待つ。
鹿児島の中央公民館は漆喰を塗り直すとものすごくいい感じ。

 開演前、腹をくくる、あらゆる感覚を板の上に落とし込む、
そのための準備をやっていると、なんだかなぁ(以下略。
いつものtempaはそう言うのなかったし、この部分だけが
tempaではなく、G2プロジェクト、あるいは商業演劇だった。
・・・大概行儀の良くないわたしが言う義理ではないが。
ということが広島では多々あって、心配したけれど、
鹿児島ではお客さんがすごくちゃんとしていた。

 こういう様子を見ると「ああ、わたしのやっていること」が
気に入らない人、というものが居て、そういう方々から
キレられていることもあるのだな、と思い知らされる。

 故に、不思議な違和感を感じながら本編に入ることが
広島だったけれど、鹿児島では前説のコールアンドレスポンスで
違和感を「ほぐす」ことですんなりと本編に入る。

 前半部、G2って、「中性的な要素」を持っていたのか、
物語が「男性性」と「女性性」が曖昧なまま存在していて
時と場合によって「男性性」と「女性性」のどちらかが
寄せては返す強弱具合で板の上に現れている。

 お話のベースは「ノートルダムのせむし男」だな。
「ノートルダムのせむし男」は「先天的奇形」だったのだが、
「ダブリンの鐘つきカビ人間」は原因不明の「病気」による
「後天的奇形」によって起こった不都合、それだけの違い。

 前半部の肝は男女性の違いそれぞれを見つめる
おちさんの「女性的な要素と視点」が広島は甘く、優しく効いていて、
ものすごくキラキラしている。
キラキラしているからこそ、なんかものすごく落ち着かない。
落ち着かないから物語を捉えられない。

 逆に鹿児島は「男性的な要素と視点」が「いま、そこに在る現実」として
「苦い」辛口として効いているけれど、なんか後味の良い苦辛さ。
地味で苦辛さはあるのだけれども、「歌舞伎」の「見得を切る」と
いうような「形」がきちんと出来ているから「身体言語」としての
一つ一つがメリハリがあって、落ち着いて物語を捉えられる。

この肝に現代から「迷い込んだ」、「男と女」がドラゴンクエストを
はじめとしたRPGというものをプレイする、ということがうまく絡んで
「違い」から派生する「差別と嘘」というものを
くっきり、はっきりと見せていく、という趣。

 後半部は「後天的奇形」によって「正直者」になった
「大嘘憑き」と「後天的奇形」によって「大嘘憑き」になった
「正直者」による「不器用」だけれど、「本当の恋」という
物語の肝があって、肝の周囲に「欲」と「うそ」という
「人間の原罪」というものがグルグルと絡みつく「気持ち悪さ」、
その気持ち悪さを断ち切る、というRPGを「プレイ」する感覚、
それを見手が「見ている」けれど、
どこかでは「参加している」というところの曖昧さ。

 これらを精度と密度の良さでやられると、途中休憩なんかいらない。
故に物語を動かすリズムがさらに良くて、「因果応報」というか、
「因縁の巡り」やら「愛しているから憎い」としか言えない
苦しみとかが切れ味よく表現できている。

 「欲」と「嘘」はいつも仲良しでこの仲良しぶりが
「世界」をある方向(善悪はここでは問えない)へと連れて行き、
退っ引きならない事態へと気がつけば連れて行かれる。
こんな事態をご破算にし、すべてを中和する塩梅は
梨木香歩の「裏庭」のように「生と死」の両方を抱き寄せて高みに
ひっぱりあげて、「喜捨」という形で見せた。

  だからこそあの「市長」は「嘘」をついて皆を「扇動した」罰、
として「この世での永遠の命」を得た、と「死」という形で
「あの世」に行きたくても、死ぬことすら許されない、
「魔法の剣の奇跡」だって「私利私欲なく使用する」ことが条件な
ものだから起こりようがない、ひたすらに罪もないものを殺して
殺して、自分「だけ」生き続ける、これこそ惨めで酷い罪はないな。

 がだ、「鐘つきカビ人間」の方だって、結局のところ
そうなる前に起こした「過去の因業」が災いして
「助けてほしい時に助けてもらえない」事態を呼び、
自らの「欲」と「嘘」によって自分を滅ぼした、とも取れてしまう。

 ・・・人間というものはものすごく哀しい動物だ。

劇団goto 「タンバリン」(再演)

「生存」とは何か、「たたかう」とは何か。

 初演の時も初日20時開演の回を予約していたことは覚えていた。
というか、gotoは初日20時開演はデフォルト、勤め人にとっては
ものすごくいい日程、遠距離演劇見学にとってもすごくいい日程。
がだ、初演の時、どこのどういう演目、というか、どのサッカーの試合を
セットにしようとしていたのか、さらには、あの時、いったいぜんたい
何が起こっていたか、何も覚えていない。

 この戯曲が九州戯曲賞を取る前に、初演を見たけれど、
いつもは覚えていた様々な感覚が「消えていて」、物語の核心に
差し掛かるところで突然記憶が消えて、落ちて、気を取り戻すと
物語の終盤だった。

 で、戯曲賞リーディング、広島でtempaの「演劇文庫」に
二日間行って、帰って、朝早く起きてハンバーグ工場で働いて
午前中で仕事を上がり、まどかぴあへ行ったけれど、
またおんなじところで突然記憶が消えて、落ちてしまった。

 今回は仕事を上がり、20時から見るのかな、と思いきや、
何の因果か知らないが、父の初盆法要がやってきた。
お昼に法要があり、みんなでご飯を食べ、少し飲んで
眠たくなったんで横になり、いままで溜まっていた
スカウティングレポートを片付けて、汗を流してちらし寿司喰って
ぽんプラザに向かう。

 あの厄介な人に出くわすといつも、いつも考える。
人間、それぞれ違う「因業」を抱えている、とはいうけれど、
どういう「因業」をいったいぜんたい抱えていて、この「因業」を
どう整理していくか、解決するために動くことも、解決を拒否する
ことも、それぞれの自由裁量という「人生」なのだ。

 ・・・だから、他人の人生にああだこうだ言うたから
「因業」という蜘蛛の糸に絡め取られて、身動き取れないじゃないか。
うん、他山の石とすることにしよう。

 この戯曲の肝はギリギリまで「リアル」を追求し、
さらにおしゃれな感覚を加えるという作りになっているから、
出演する演者にボクシングの技術を「インストール」してから
この戯曲を「作品化」という形にしてしまった。

 だからこそ、「建前」と普通に呼んでいる
「しゃべる」言葉や「文章」などで「表現」する言葉と
「本音」と普通に呼んでいる個々の「からだか発している」言葉の
齟齬、というかずれ、溝、が「嘘」や「ごまかし」になることがよく分かる。

 この様子を女性4人芝居で、「からだの中から出た本音」の
セリフ部分はきちんと言葉にして、異性たる「男」のセリフ部分や、
「建前」のことばを「タンバリンの音」で表現していたことが初演。

 「ボクシング」という心が折れそうなほどしんどいことを
なぜ、選んだのだろう、他者とボクシングで会話をするという希望を
どうして持ったのだろう、そのことが分かる前に私の記憶が飛んでいた。

 なぜだ、なぜだ、なぜだ。
もしかしたら、気が付かないうちに「ノイズ」という「余計なもの」が
作品自体にまとわりついていたのかもしれない。

 今回はこの「ノイズ」をきっちりと削りこんでいるから
この「なぜ」がやっと理解できたほど純度高く物語を見せている。
故に、集中切れずに思考を保つことができた。

 わたしにとっての「立ち位置」と「役割」は一体何なんだろう?
その「立ち位置」と「役割」を手に入れるなかでの
「焦燥感」とのたたかい、手に入れたら手に入れたで維持していく、
あるいは一段上を目指すなかでの「焦燥感」とのたたかいがあるわけで。

 これらの「たたかい」の中でわたし自身の心が「響き」、
この心が響くことでまわりの心も共鳴し、気がつけば
何かが変化していく。

 前提として、「たたかい」の中で嘘をつかず、
ごまかさず「出しきった」充実感というものが必要なのだ。
このふたつが「土壇場で人生を変える一発」につながる。
みんな、そこをよくわかっていない、当然自分も。

 「恩師」でもあり「血は繋がっていないが、母」である
「たんば・すず」という存在が常に嘘をつかず、出しきっているから
それぞれが自身を再確認し、歩みはゆっくりだけれど
また「新しいわたし」へと進んでいく。

 その様は誕生やら、種の物語を飛び越えて、「たたかい」の
物語にまで変容してしまった。

 さて、わたしはわたしの心を響かせているのだろうか?
そして、どれだけの人の心を響かせているのだろうか?

F's company 「マチクイの諷(うた)」

人が産まれて、生きて、死ぬということ。

 ふたばがおもいっくそ「夜のお姉さん」を演ったらなんか凄いわ。
いや、まあ、そういう女の子と月一回楽しく飯を食べてお話する
機会があっていろいろな表情、というものを目の当たりにすると
ふたばがえげつないほど空気感まで見せていた、
特に「男に媚びる」ところと「正気に戻って自らを主張する」ところの
落差の見せ方が凄い。
ふたばも、ある程度金稼いだら中古のマンション買うのだろうな。
そんなことを考えつつ広島行きの新幹線。

 広島につき、駅の不便さに不満を感じ、タクシーのほうが
いいのだけれど、またスマホのアプリを使えなかったことに(以下略。
まあ、宿について、荷物を入れて、気がつけば触発されて飲んでいる。

 寝不足のまま、起きると外は雨が降っている。
風呂に入り、飯を食べ、外に出て、メガネ屋を確認し、
広島駅まででてマツダスタジアムの二軍戦に行くが、
当然中止、チームショップを覗き、フェンス越しに
グランドの様子を眺め、ものすごくレアなものばかりのショップに行き、
八丁堀に戻り、ますゐで久しぶりに飯、気がつけばお金で青くなる。

 本通方面に歩き、お金を少しだけ下ろして、ネカフェに
時間ギリギリまで立てこもることにする。
「喧嘩商売」とか「喧嘩稼業」をひと通り読み、なんだかんだしていると
もう時間だ、バスで慌てながらハコに向かう。

 今回はステージ上に客席と表演部をしつらえたわけか。
入った瞬間、去年指輪ホテルを見に直島に行った、
あの時の空気感がそのままに再現されていた。

 島の夜、それも夏の雨が降ったあとの夜って
ものすごく深くて、ものすごく静かなのだ。
開演、じゃなくて開場10分前に中止が決まり、大雨が降ったのは
その30分間だけ、本来の開演には完全に止んでいた。
なんか、「旅の終わり」と「旅の始まり」が重なる不思議な時間だ。

 不思議な時間を感じていたら、もう本編だ。
20年前に起こったある「エネルギー機関」で起こった爆発事故によって
「マチクイ」という人間が木になってしまう病気がある島で起こった。

 この病をめぐるいろいろな心のやりとりというものが物語の根っ子。
これがものすごくしっかりしているから、たくさんの問をしっかりもらう
仕掛けになっている。

 マチクイにかかって、完全に木になった父と周囲とのやりとりを
見れば見るほど、父がどこか遠くに行くぎりぎりの姿と妙に重なる。
人間、寝ているか、立っているか、その違いはあるけれど、
生きていることの「終わり」って徐々に「木」と同じようになる。
水、というか、氷しか口にできなくて、半分寝て、半分起きて、
聞いていないと思って話をしてもしっかり聞いていたりする。

 さらには、マチクイという病の元になった「爆発事故」は
もしかしたらわたしたちが死んだあとになってしまう
「みあれ」という巨大なエネルギーの塊を人工的に作って
我が物にしたい「欲」が生み出したのかもしれない。

 この「永遠エネルギー」のもととなるものが「ケガレ」というもので
この島の南に居る人間は、それを知らない間に「受け入れて」いた。
「生きていく」という覚悟とともに。
けれども、そのことを知らない北の人間は「ケガレ」を忌み、嫌っている。
・・・というか、「ケガレ」に対する北と南の「行き違い」、「勘違い」、
そして「すれ違い」がエネルギープラントの爆発で顕在化した。

 この様子を見て、 人間には「根無し草」という人種と、
そうでない人種が居るのだ。
そして、しゃべっていることばも、思っている思いも、
考えているすべてのこと、全てが違っていて、違っているから
お互いが噛み合わない。

 この噛み合わなさ、というものが「命を自然に還す」という
アタリマエのことを当たり前のようにする「妨げ」となっている。

 わたしたちが生きている自然、というものは
その場に居るもの全てに「立ち位置」と「立ち位置」に合わせた
「役割」という「仕事」がもうすでに用意されていて、これを果たすための
壮大な修行を知らないうちにもくもくとこなしている。

 この修行に対して他のものは何もできないし、手も出せない。
否、手を出してはいけない。
その決まりを破って手を出す輩に反発していたのだろう。

 けれども、ああいう形でマチクイを発病し、しかも初期、
これが「役割」なのだろう、という覚悟を持って島を出る。

 この「マチクイ」や「けしてきえないひ」のように
福田さんのテーマが「ケガレ」って何、元々人間は
「ケガレ」というものを背負ってこの世に生まれて、生きて、
死んでいるわけやん、なんでそれぞれ区別なんか、するん?
というものに貫かれているのだな。

hen house  「ホーリーズナイト」

これぞ「お盆」に相応しい、お洒落な「生と死の混淆」。

 それにしても、暑いし、給料日なのに金策大変、
ハンバーグ工場の仕事もえらくごちゃごちゃしていて
日程の再編成もうまく進まなくて、正直、この日程キャンセルして
直接広島に入って、上手いもん喰って、ゆっくり寝たかった。

 けれどもなぁ、ふたばが是非に、と言って居るとなぁ。

 なんていうか、気もち、女の子多めの客層。
ハコの中に入ると、この涼しさ、このにおい、
そうだ、大阪でいつも使っている大阪新阪急ホテル地下、
どこをどう歩けばいいかわからないところにあるバーの
雰囲気だ、いや、客室の鍵を持って行くと生2杯に
オサレなツマミが付いて1800円、というコースがあってな、
そんな感じでほどよくお酒、飲んでいる。

 そんな雰囲気で何楽しそうな話をして、どんな本を
読んでいるんだよ、というか、お酒の入っている棚が
「本物」ではなく、2枚の絵になっている。
・・・ここに何か「引っ掛かり」を感じなければいけないのだが。

 この時点でわたしはこれから起きることに気が付かず、
「2枚の絵」を見ながら森繁久彌の「喜劇・競馬必勝法」という
映画のある場面、谷啓が「ノミ行為」を引き受けて、
「こんなの当たるわけない」とバーのカウンターにある高そうな洋酒を
かたっぱしから叩き潰すところを思い出し、ここにジャズが乗っかると
なんとも言えねぇや、あらいつの間にか本編だ。

 ボディ・コンバットのレッスン中、誰かが倒れた、という話に
絡めて「おとなこども」、いわゆる「オドモ」な様子を
笑いながら聞いていると外がなんだか騒々しい。

 どうやら、近くで「物騒なこと」が起こり、その当事者らしきものが
この店に迷い込んだ、誕生日のクラッカーとともに。
・・・もしかしたら何かが「混ざって」居ることが始まっているようだ。

 そんなことを感じてみると夜のお姉さんらしき人がやってきて、
さらに又別の夜のお姉さんが贔屓の客連れてやってきた。
そういうやや尋常じゃない場所に当事者らしきものが混ざって
ごくごく普通に、自然に、飲み始める。

 飲み始めては見たけれど、じわりじわりと「事の次第」という
ものが炙りだされて、炙りだされたものが何かの衝撃で
噴出しそうなところに、「物騒なこと」のすべてが明らかになって
当事者たる「チンピラ」がこの店の中で暴れちゃう。

 この暴れちゃったことを引き金にしてこの店の中には
「人」のなりはしているけれど、「人」ではない、何かしかいない
ということをじわりじわりと見せてくる。

 どうやら、いちばん最初、ボディ・コンバットで倒れていたのは、
だったし、もう片割れは博打に手を出しすぎてにっちもさっちも、
夜のお姉さんとお客さんは「マルチ商法」をめぐるゴタゴタ、
そして、このバーのマスターとその娘らしき少女は・・・。
という具合に言葉で語らずとも演者の身体言語で「死に様」を
語らせている、ということに驚きを飛び越え、戦慄した。

 そして、チンピラの死に様で、本当に「人生とは油断も隙もない」と
強く感じさせてしまう。
・・・この流れでマスターの奥さんだった人が泣きながら花を供える。
どんなことがあったかわからないが、こういうふうにすることも
ひとつの「愛」なのかもしれない。

劇団ぎゃ。「左様なら王」

「幸福な終わり方」、「幸福な終わらせ方」。

 「楽しい時間」はあっという間、とは本当だな。
何時かは終わりがやってくる、とは言え
とうとう「この日」がやってきた、と思うとなんとも言えないや。

 ゆきえさんも、みさかも、ぎゃ。につながってきたみんな、
「演劇」というもの、エンターテイメントというものが
ものすごく大好きで、大好きなものをもっと大好きにして
大好きなまま続けていくために必死こいて走り続けた、
そういう一年を12回も続けてきたのか。

 そういうことを考えてみるとわたしは「人生、始まった」ばかりか。

 つらつらと考えていたら前説からぎゃ。をぶちかまして
本編に突入する、スマホで歌詞を見ながら「魔笛」かますとは。

 板の上に「文学の人」が居る。
苦悩呻吟しながらあたらしい「物語」を書こうとしているけれど、
もう「物語の泉」が枯れ果ててしまったのか、元からそういうものが
なかったのか、しっくり来なくて物語を作ること自体を放棄しようとする。

 そんなところに「月」という「異次元」から「エンターテイメントの人」が
やってきて、たくさんの「繋がり」という物語をしたのち、
「最後の物語」を静かに始める。

 昔、昔、ある国にひとりの賢く、優しい男がおりました。
男は大勢の大様にこき使われて、とても疲れていました。
あまりにも疲れ果てて逃げ出したら、そこに魔女がやってきて、
「森の奥深くに、男がいるから訪ねて、仲良くなれ」といいました。
男はそのとおりにして、心を通わせる所にまでなると
また魔女がやってきて、「今日は新月、森の男を死に招けば、
お前が王になる」と囁く。

 そして、森の男は男に森の男がかつて王様だった頃の話をし、
ものすごく深くて、重い「過ち」の話までして新月の元へ
自ら死へと足を踏み入れ、男は王となった。

 けれども、「民主主義」という誰も責任を取らない
「王様」が大量にいる時代によって収拾がつかなくなり、
賢者だけでは社会は改善できなかった。

 ここで、また現実に戻って「自己実現」や「自己主張」って
いったいぜんたいなんなんだろう、という問に辿り着く。

 この問をいままでのぎゃ。をぎゅっと詰め込んだ
「エンターテイメント」に加えて、宝塚歌劇そのものが持っている
「極彩色のガーリーさ」や「毒々しいほどのキラキラ感」で
歌って、踊ってをぶちかましているから外で行われていた
大濠公園花火大会にも負けないくらいのエネルギー。

 さらに、演劇を通して彼女たちが結んだ「縁」にまつわる物語を
「ニーベルンゲンのマイスタージンガー」や「魔笛」、
「ハムレット」や「リア王」というガチの古典の持つ要素を
うまく混ぜあわせて、「民主主義」というか「現代日本」に対する
「皮肉」というメッセージまで込めている。

 これが、ぎゃ。で学んだこと、演劇で学んだことを
次に繋げる「決意表明」だったのか。

 わたしも12年サイクルのなかで演劇と取り組み、
結果的に、演劇の中に立ち位置と役割を見つけた。
なんか、マヤ北島氏がいたであろう位置にいつの間にか(以下略。

 そして、次の12年についての取り組み、というか、なんというか、
新しい戦いが始まった。
・・・はじまりはいつも大変だ。

鹿児島演劇見本市2014(了)

【劇団宇宙水槽】

 ・・・ものすごく若い。
ムーブ・マイム、さらには板の上から聞こえる
「身体言語」そのものまでも。

 これを言ってはいけないが、福岡で言うたら
「wet blanket」というところのような、東京で言うと
「柿喰う客」の流れかな、と感じ取って、その旨やりとりしていたら
どうやら、ここが参考にしている流れは西田シャトナーの
「惑星ピスタチオ」のパワーマイムというものらしい。

 ・・・てか、私はそのたぐいを見たことがなかったな、という発見。
いわゆる「関西系」という演劇の一部なのに。

 そういった「身体言語」とムーブマイムで「青春バトル物」を
おっぱじめよう、という趣。

 「青春バトル物」といえば若さに物を言わせた
これでもか、これでもか、と「身体言語」としてのアクションを繰り出す。
けれども、こういうことをするためにはちゃんと殴って、蹴って、
そのムーブを受けて、次のムーブに返す、という動作をどうつなぐか。

 この流れを身につけるには結構長い時間が必要だ。
・・・その時間を埋めるための一つの手段として
「じゃんけん」という要素を加えてきた、これがすごく斬新。

 殴って、蹴って、身体に「当てる」代わりにじゃんけんをする。
そうすることでアクションの経験が浅くても見ていられるし、
アクションの経験が深くても「心理戦」という要素をわかりやすく
できる、という意外な効果がある。

 この意外な効果が「人の心を読み取る特殊能力」と
「特殊能力者同士の不思議な恋愛」という裏テーマが絡んで
ある意味、すごくバカバカしいんだけれど、面白い。

 ああ、これがこの劇団の「スタイル」で、
このスタイルを突き詰めていけば、かなり凄いことになりそう。

 さて、ひと通り見て、雑談して、路面電車で鹿児島中央駅、
地下の吹上庵でそばとビール、ちょうどいい塩梅の新幹線で
福岡に帰り、長い旅が終わる。

鹿児島演劇見本市2014(4)

【鹿児島高校演劇部】

 ここは大きなハコに慣れているな、と。
四隅にきちんとセリフが入っているし、お話もこれまたえげつない。

 ある姉妹と男の人の「出会い」と「別れ」をギュッと詰め込んだ、
といえばものすごく「さわやか」な青春物語のいち場面と思わせて
しまいがちなのだが、実は一筋縄ではいかないところにまで
見手を引きずり込んでしまう。

 「いじめから逃げる」ために生まれた場所から遠く離れた。
姉は高校へ行く妹の身の回りの世話をし、あるスーパーで
働いて、その場所に男が高校新卒社員としてやってきた。
いろいろな困難があって、その困難を姉と一緒に解決することで
男は「少年」から「大人」になった。

 そういう役割をした人が何も言わずにいなくなるわけだから
すごく慌てて、ずっと「人生」までもマネジメントしてくれ、
と言いたくなるわな。

 なんか、隠しているよな、と思っていたら
姉が家庭のある男の人を好きになり、のめり込んで
結果、自殺未遂を起こし、そのことが理由で妹がいじめられ、
それから逃げるために遠くへ、妹が大学に行くんで
さらに遠くへ行くから、スーパーをやめなければいけない。

 こういう話を聞くと、芸工大の興行講座で平田オリザ氏が
よくネタにする「地方(田舎)」は「人生上のイレギュラー事」と
いうものに対して対処法、というか引き出し、というものが少なく、
「悪いうわさ」という一番良くない対処法で解決して、
当事者の居場所を潰してしまいがちだ、ということを思い出す。

 こうして、「根無し草」の人は生まれるのかもしれない。
正直、切ないし、怖いのです。

鹿児島演劇見本市2014(3)

「新しい感覚」とはこのことか。

 今年は「ここは福岡の劇団だったらここだよな」とか
「熊本だったらここだよな」という特性のフィルターを掛けることなく
目の前にある出来事を素直に見ている。

【劇団AIS】

 ・・・魔法少女まどか☆マギカですか。
そういう趣味のないおにーさんには少しわかりにくいなぁ。

 けれども、「神様の世界」にある学校は「キューピッド部」てか、
「恋愛部」という非常にお得のある部活動があるのですね。
この部活動の対極にある「経済研究部」という三田某の
「インベスター・なんとか」という秀才がFXなどの「金融賭博」に
手足どころか、体中突っ込んで、どうなる、というものと
AKBというものから派生した「ゲス部」が三つ巴で絡まっている。

 その様、見ていると非常に気持ち悪い。
この「気持ち悪さ」をぶっ壊す要素として
木多康昭の「喧嘩商売」とか「喧嘩稼業」という下手すると
「現代版池波正太郎」になりそうな漫画に出てくる佐藤十兵衛のような
存在が登場し、「煉獄」やら「金剛」、「高山」は使わないが、
「無極」はほんの少しだけ使ってあっさりと「気持ち悪い」を壊している。

 たまたま一緒だった、ずっと接点があった。
「近すぎる」が故にそれぞれがそれぞれの「良さ」が
見えにくくなっている。
見えにくくなっているから、見つけて、伝える努力ができにくい。
その努力をする「お手伝い」が「キューピッド部」の内容。

 ・・・だから、「好き」がずっと前から伝わっていた、という
オチがきちんとしている。

 けれども、みんな、このハコの広さと奥行きに慣れていない。
特に奥行きに慣れていないがゆえの音と言葉の「被り」が
あまりにもひどすぎて、何を言っているのか、正直、わからなかった。
隅っこにことばを届く事に気を配ればより良くなる。

鹿児島演劇見本市2014(2)

「ダブルスタンダード」の中でわたしたちは生きている。

 「負けるな」、「嘘をつくな」、「弱い者いじめをするな」。
わたしたちはそういう価値観の中で生きている、と思っていた。
けれども現実は「負けるが勝ち」、「偽善・嘘は最大の利益」
(=「嘘も方便」ともいう)、「弱い者いじめは最善策」という
世界が幅を利かせる中で毎日を生きている。

 ・・・なんかさぁ、こういうことにまともに向きあえば、
気が狂ってしまいそうだ、さらに深入りして「知って」しまえば
「社会的」にも「生命的」にも「殺されて」しまう。
けれども、わたしは演劇を通してうっかり感じてしまった。
感じて、知ったことを武器にして生き延びなければいけない。

 こういう堅い話はさておいて、次行くよ。

【劇団コスモス】

 何回か前の「見本市」でチャンスを掴んで、
INDEPENDENT:FUKからINDEPENDENTにまで行った
山田美智子さんのところですね。
鹿児島と大阪でなんだかんだやっているみたいやけれど、
お元気で演劇を続けているでしょうか?

 さて、今回は「一人芝居」ではなくガチの演劇。
基本的な骨組みは「お手伝いさん(お針子さん)、撲殺」。
この骨組みに「恋愛」や「不倫」という「人の道」に大きく外れた
「獣の道」を「レクリエーション」にできるから、
本当に金持ちという人種はえげつないなぁ。

 ・・・てか、金持っていると「レクリエーション」の幅が広がる、とは
本当のお話だったのですね。

 というわけで、「獣の道」に生きているから「夫婦関係」はないも同然。
とっとと別れりゃいいけれど夫婦関係を続けなければ
「獣の道」では信用、というものがなくなってしまう。
・・・死んで、いや殺してしまえば全てリセット。

 お針子さん、じゃなかったお手伝いさんは「身寄り」がない、
「行く宛がない」が故の貧しさで知らないうちに獣の道に
足をうっかり踏み入れる、その姿は何故か哀しくて。

 お互いがお互いを「リセット」する、という共通の目的があるから
「共犯関係」というものが成立し、関係による「食い違い」や
「行き違い」、さらには「勘違い」が「名探偵の居ない推理ドラマ」で
表現しているから、最後のオチ、「苗字を読まなかった」からの
「双子の片割れ」の復讐劇がなんとも言えないや。

 こういうお話は世界中、どこにも転がっているよな。

鹿児島演劇見本市2014(1)

「響かせる」ということ。

 わたしも、福岡舞台計画というところで
昔、福岡で開催された国民文化祭に参加した。
演劇部門、というよりかエイブル・アートの部門で。

 そんなことをドアが開く前、とある人と話をした。
その時は思い出さなかったけれど、見ている中で
思い出したことがある。

 広いハコでどう声、というものを響かせるか?
最上段、センターに向けて声を出しても届かない。
どこにどう声を届けていくか、ということをあの時教えて貰った。
・・・最上段は最上段なのだが、ハコの一番隅っこ。
隅っこにピンポイントで声を届けていけば、じわじわと周りに届く。
これが演劇を通して学んだ何番目かの出来事。

【演劇ユニット GREEN CARD a.k.a】

 ・・・なるほど、「冤罪」とはこうして「作られる」のか。
そんなことを感じさせる冒頭部。
特に「痴漢」とは「なにか大きなもの」にとって「邪魔な存在」を
「社会的に消す」ためには一番都合のいいやり方やね。

 はめられた人間が「それでもボクはやっていない」と
無実を「勝ち取る」までをspecの戸田恵梨香、
「踊る大捜査線」の織田裕二、「古畑任三郎」の田村正和、
「相棒」の水谷豊、「ガリレオ」の福山雅治、名探偵コナン、
「アンフェア」の篠原涼子と現代刑事ドラマのオールスター
勢揃いで、とは言え「トリック」の阿部寛・仲間由紀恵とか
「ケイゾク」の中谷美紀は押さえていなかったけれど。

 まあ、こういう話を鹿児島、という土地で見聞きすれば、
純粋な「サツマビト」が「徳川」によって社会的に分断されている
という現実、というか事実と重なって「えげつない」を飛び越えて
「えげつなくて、えげつなくて、震える」のです。

 けれども、「ほんとうのところはどこにある」ということを
ぐだぐだやられると、あまりにも中身がえげつないので
少し、というかかなりしんどい。

 このしんどさを引っ張って「あるあるショートコント」をやられると
もっと、というかかなりしんどいの二乗。

 「わたしたちはこういうことをやっています」というショーケースと
見ればまあ分かるのだが、全体的な精度と密度がよろしくない。
だからこそ、年2回、できれば年1回、自分で公演打って、
お金を払って見るお客さんを増やすことをしなければより良くならない。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
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