香川文化芸術フェスティバル(カブフェス)

直島の指輪ホテルのリベンジ、果たした。

 ・・・あれからもう一年過ぎたのか、というくらいものすごかった。
去年はものごっつい台風の中、日田で快快、移動して大阪、
翌日は中崎町でiakuの「人の気も知らないで」、上演途中から
雨がシトシトどころかドバドバ降っている、その様がきっついセリフと
重なって、果たしてたどり着けるかな、どのタイミングで断念するのかな、
なんてことを思いつつ、とにかく新大阪、新幹線で岡山、瀬戸大橋線で
坂出、そして高松と道を急ぐ、そして直島行きの船乗り場につき、
「天候調査中」の案内を見て、ある、ということを信じて船に乗る。

 直島につくとまあ、あるんじゃないのかなという空の塩梅。
場所にたどり着いて、ご飯食べて、雑談しながら待っていると
空がなにか不穏だ、一点俄にかき曇り、風が轟々吹き始め、
気がつけば稲妻ピカピカ雨はドサドサ、開演、じゃなく、
開場10分前に中止が決まって、払い戻して、港の船のりばに
帰りの船の手配と避難のために戻る。
・・・それから船着場近くをウロウロできるまで雨がやんだので
散歩しながら来し方行く末を考え込んでいる。

 ・・・何かが終わって、何かが始まった。
「始まり」というものはとてもとても大変で、わたしを巡る状況が
恐ろしいほど変化しすぎていて、いままで「居心地」の良かったところ
が徐々に「居心地」の悪さ、というものを感じ、新しくやることやものが
続々とやってきて、これらをどうハンドリングするか、
いままでの範疇を超えている。 

 いままでのハンドリングすることの範疇を超えている、
「お金」の面がものすごく窮屈になって、正直やばい。
こんなことを抱えつつ、解決の糸口を掴みつつ、新田原から
小倉、小倉のネットカフェで高松行きのバスを待ち、
バスに乗ってまんじりとしない夜を過ごしたらもう高松。
降りて、駅近くのうどん屋で飯を食うが、七味唐辛子の瓶に
ウジ虫が湧くわ、なんだかんだで(以下略。
風呂を探すのにもしくじって、玉藻公園の中にあるハコに向かう。

 昔ながらのお屋敷、というかどう表現したらいいかわからないが
とにかく、居心地がいい、木と畳、そしてみどりの庭、たまに潮風。
なんか、落ち着いた感じでひと通り場所を見て回るが、
午前中はシアターホリックの連続ドラマ風演劇を見ることにする。

 最初は、いわゆる「ホームドラマ」をえげつなく見せる、
それも物語の「断片」を「同時多発的」に起こして、ある部分は
見手が「選んで」見る、という形がすごく斬新。

 ・・・不倫というのか、なんていうのか、尋常じゃないものを
そうでないように見せるのは、正直、技量が必要だ。
「全て」が終わったあとの嫌な感覚を先に見せて、
「なぜ、そうなったのか」を逆追いで見せると、
潰れそうな居酒屋があるお客がうっかり落とした100万円を
店の人がネコババしたことから起こる「良心とのせめぎあい」。

 「良心」というものが「崩れて」、ネグレクトやら殺人にまで
発展する様子を「あるところ」から「聞いた、見た」というように
「断片」をまとめて、ひとつの物語にする。
・・・これ、池波正太郎の「鬼平犯科帳」あたりに出てきそうな
エピソードの「裏設定」にフォーカスを当てるとこうなるのか。

 「一杯」を重ねるとそれは、罪に罪を重ねてしまうこととおんなじだ。
そうなってしまうと人はとんでもないところに行ってしまう。
「一杯の半分」で収める、それがひとつの「決まり」だったの
かもしれない。

 シアホリを見終わったらちょうどいい塩梅でお昼。
いい隙間なのでまずは宿に大きい荷物を入れる。
えっ、明日からで宿の予約を入れていた、マジすか。
まあ、空室大いにあり、だったからよかったけれど。

 荷物を入れてまたハコに戻って今度はマエカブ二本立て。
まずは「きのこの山」、昔の「ムラ」というものはいかに
「閉ざされた」空間で、「閉ざされた知」というものの
「集合体」だった、この「集合体」の象徴するものが
「きのこ」≒「申神」様の肉であり、それを受け入れて、
初めて「外」の人間は「集合体」の「中」に入ることを許される。

 しかし、「集合体」を無意識のうちに壊そうとする
存在がうっかり入ってきたら「集合体」は全体で「奪い」にかかる。
そして殺して、「集合体」の「閉鎖性」を保とうとする。
そういう風に煽って、煽って、ふすまのところに目線をやると、
・・・また、新たな犠牲者がそこにいた。
うーん、山下和美の「ふんわり」とした「怪談話」を
演劇に起こすとこうなるのか。

 「人でなしの恋」は一転してすごくおどろおどろしい世界、
「極彩色」とはこのことか、演目から演目への「場面転換」すらも
ひとつの「演劇」なのか、というところまで見せてくれる。
明治大正ロマンにまわりで聞こえる他演目の音、いろいろな音が
響き合っている、「疑心暗鬼」というものと。

 にしても、金持ちって何考えているのか、よくわからない。
体面を保つための「本妻」のほかにもう一人「美人」、それも
「毒」のある美しさを持った、そういう女を「飼って」いた。
・・・普通の女だったら、これ、耐えられないよな。
耐えるか、耐えられないのか、ぎりぎりのチラリズムから
薄皮一枚を引剥がしてみたら、より耽美的な、おどろおどろしい世界が。
・・・人間の剥製、もしかして殺したのか、死んだのか。
江戸川乱歩の「因業」ってまじ半端ないわ。

 さて、また宿に戻って、部屋に入り、お風呂までは無理だったか。
ハコに戻って、tempaのところに早く入って、外の庭をゆっくり眺める。
木々の緑、おひさま、海風、そういうものにあたってボーっとしてたら
治らないものも治るかも知れない。

 そんなことを考えていると、唐突に物語が動き出す。
姉、妹の「関係性」をめぐるお話、状況は母の一周忌法要。
おみやげの「甘納豆」を食べていると「母が倒れてから」
止まっていた時間がソロリソロリと動き始める。

 というか、広島というところは案外広い。
ちょっとなんかあった、としても頻繁に行くことが難しい。
この「行けそうで行けない距離感」がお互いの「隠していたこと」を
じわりじわりと明らかにしていく、妹は妹で喘息という持病が
ひどくなって大学を一年休学したり、姉は姉で「心を亡くす」ように
仕事に没頭していたり、色んな意味で大変だ。
・・・切ねぇ時間を一気に詰めていく、というのはとてつもなくしんどい。

 さて、次は兄、弟の「関係性」をめぐるお話だ。
やっぱり、男には「秘密」というやつが仰山あるなぁ。
「あの時」にかかっていた「あの音」がすごく気になり、
未だ探せずにいる。
 
 ロックな兄、真面目な弟。
帰りたい、帰りたくない、帰れない、興味がある、興味が無い。
いろいろな壁というか、距離が果てしなく遠い。
いろんな恋や愛があって、生きるということはやり直しが効かない。

 ・・・気がつけば、兄は事故で死んでいて、この世の人ではなかった。
弟は兄の無念を背負って生きていくのか。
時期的なものもあるのだろうが、「生」と「死」が隣り合うことは切ない。

 一息ついてから長台詞屋。
・・・前の日に戯曲を演者がもらい、当日夕方までじっくり稽古。
空間をシンプルに削れば削るほど、演者の素材、
演者がからだで「鳴らしている」音の質が問われる
作りにまで仕上げている。

 この「作劇」を古くからある「屋敷」というか
「家」がしっかり受け止めて、「一人芝居」ではない、
なんか「新しいジャンル」が生まれた感がする。

 基本形は昔からある家と平屋の文化住宅をめぐるお話。
その家に住んでいた母と息子と娘、それぞれが抱える
物質的、性的なコンプレックスから「死は平等にやってくる」と
いうお話を「リレー」という形で丁寧につないでいる。

 で、そのまますんなり繋がるか、と思わせて
この「家」の近くにある「高層住宅」へ「高さ」でつなげ、
さいごの「家族を持つ」ということに対する
「希望」と「不安」という形にうまくつなげた。

 ひとつの繋がったお話でも通用するし、一つ一つをばらして
ブラッシュアップすることができたらINDEPENDENTに参戦できそうだし
様々な可能性を「作る」ことができた、とはこのことか。

 さて、ハムプロジェクトの準備がほぼ出来たんで中に入るか。
そして、天野っちとしばし雑談、いろいろ溜まりに溜まったことを
ぽつりぽつりと話して、さあ本編。

 初めてハムプロジェクトを見た時は、ちょうど「放生会」が終わって
間もない筥崎宮の裏にあるイベントスペース、ちょうど「見世物小屋」の
「密室感」と「空気感」、故に悲しさや寂しさが満ちていた。

 数年が、久しぶりに同じ演目を見ていたら心持ち広いし、
窓があるから恐ろしく風通しがいい、故におどろおどろしい
「見世物小屋」独特の感じがない。
けれども、そうでないからわたしたちに「外界」と「内界」というものを
強く意識する、というかするりとわたしの中に入ってくる、何かが。

 こういう状況で「精神障害」や「知的障害」、さらには「発達障害」を
抱えている存在が「居場所」を探そうとするが「異質」ということで
「排除」されていく、ここに「サンタウィルス」という「細菌兵器」で
隔離された「差別民」というふたつの「哀しみ」を「悲しい」
そのままではなく「突き抜けた明るさ」と「日体大のエッサッサ」を
うまく使ってひとつの「文学作品」にまで仕上げてきやがった。

 バラシに入り、改めて、わたしはこうして沢山の人をつないできたのか、
この繋がりを見て、なんだか不思議な気持ちになる、うん。
たくさんのことがあって、当分は演劇に戻りにくい状況になりそうだ。
けれども戻ってくる、必ず。
スポンサーサイト

冨士山アネット/Manos. 「醜い男」

すべての「常識」というやつを壊してしまえ。

 「意図的に避ける」という行動は果たして良いことなのか?

 ・・・わたしはその人達があまりにも「醜い」ということを
皮膚感覚で「感じて」しまったから「意図的に避ける」という行動を
取ってしまう、あるいは取ってしまったわけで。
この行動がどうやら陰で不快だ、と思われているらしい。
で、その「反応」をもろに受け取って心と体がしんどかった。

 どうも我慢ならんから今回は敢えて意図的にポジションを
変えていく、なんか厭だな、という空気を察知して。
そのことを母に話すると、「よかった」と云う。
ここでまた、世間とのギャップに戸惑う。
気にしたくないのだが、「かまって」アピールが酷い。
・・・あまりに酷いからうんざりするわ。

 はい、毒を出しきったところで本題に移るか。

 さて、この演目、8月にリーディングという形で
「顔を変える」ぎりぎりのところまで見せた、というか
聞かせた、本当は行く予定はなかったが、担当のそら・・・
じゃなかった、はらさんにぎゃ。の最終公演で捕まって
チラシ貰って、では行きます、という次第。

 この時はさかせとそめごころの若いのとあと誰だ、
長谷川さんが事前のワークショップで捕まえた福岡の演者を
使って、「演者の技量」と「静止画」を補助的に使って、という趣。
本公演もそういう形で見せるのかな、と思ったが、
水槽もあり、額縁が吊ってあり、譜面台もある。
その他にもいろいろな意味で「仕掛け」が満載だ。

 もしかしたら、これが「ぶっ飛んでいる」おしゃれとはこういうものか。
この「ぶっ飛んでいるおしゃれ」で「プラグ」という「ことば」に
「ダブルミーニング」というか「二重メッセージ」をぶち込まれると
不思議に物語が納得できる、というか納得した。

 この戯曲、というか物語の肝は高電圧「プラグ」という
「工業製品」を開発する仕事をして、「特許」という「評価」は貰った。
けれども「評価」を外に出して「商品」として「売る」ための
「評価」は恐ろしく悪い男がいた。

 周囲は「彼」が持つ「内面」の「素晴らしさ」に惹かれ、
「美しさ」に引き寄せられ、「彼」もその点は自覚している。
けれども、「外面」、特に「顔」という部分があまりにも「醜い」、
・・・「ことばにはできない」とは言うけれど、いったいぜんたい
どれくらい「醜い」のか、ここから「戯曲」の「罠」というか、
「魔法」に見手が掛けられていく。

 「醜さ」の「程度」が個々人によって違う、ということ、
「正当な評価」の基準がこれまた個々人によって違う、ということを
逆手に取り、「彼」が「顔≒自己」を「放棄」して「彼」の望む
「顔≒自己」を手に入れる、ということでまずはひとつ突き崩されていく。

 そして「彼」の望む「顔≒自己」を手に入れたことで「プラグ」という
「ことば」が「工業製品」から「商業製品」、さらには「性的な何か」と
いうように様々な「意味」と「価値」が「倒錯」していく様子が
滑らかに展開して、基本、基盤となる「常識」や「評価」がもつ
「意味」と「価値」、そのものが「天地返し」を起こしていくさまを見て
またひとつ突き崩されていく。

 突き崩されていく中で問われるのは
「美しい」とはなんぞや?
「醜い」とはなんぞや?
「商品」に「意味」や「価値」があるのか、
それとも「商品」を売る「存在」に「意味」や「価値」があるのか?
「人間性、あるいは魂」に「意味」や「価値」があるのか、
それとも「見てくれ、あるいは外面」に「意味」や「価値」があるのか?

 さらにはこれらの大前提である
「わたし」はいったい、どこからここに来て、どこへ行こうとするのか?
もっと突き詰めれば「わたし」は「わたし」としてどうありたい?
というところまで問われてあらゆる意味でぐちゃぐちゃになる。

 ぐちゃぐちゃになった挙句、いちばん「醜い」形であっても
それを受け入れて、初めてこの問を解く、というか解が見つかる。

 結局、全ては「同調圧力」の為すことであって、
何でもかんでも「自分の責任」として背負い込むのも
しんどいし、逆に「他人のせい」と開き直っても別の意味でしんどい。
というか、「責任」というものを論じること自体、意味が無い。
さらに言えば「ありのまま」とはなんぞや、という議論も意味が無い。
何ならそういう「闘争」から「逃走」したほうがいいのではないだろうか?
・・・それでいいんじゃね、という見後感。

演劇ユニットそめごころ 「走れメルス~少女の唇からはダイナマイト!

「形」があるから、「型破り」。
「形」がなければ「形無し」。


 私がこういう形で「演劇」をする上で「形」としているものが
ふたつあった、ひとつは「テアトルハカタと博多演劇」、
そしてもうひとつは「野田秀樹」だった。

 というか、「テアトルハカタと博多演劇」というきっちりしたものを
見続けて、ほかのを見ないと、という流れで最初に見たのが
村松利史の「変態演劇」と夢の遊眠社という取り合わせ。
「変態演劇」を見た時にえりこねえさんとうんぜんさんとの
「第一遭遇」があった模様。

 いっとき演劇から離れたい、と思った嫌な出来事があって、
そうなると物事は自然と離れるように事態を仕向けていて、
演劇の現場に行くことなく、「新感線・南河内万歳一座・そとばこまち」の
「関西演劇」やら「宝塚歌劇」やら何やらを「現場」ではなく、
「活字」で、あるいは写真やテレビで追っていて、心と体が疲れると
それすらできなくなっていた、というか「サッカー」という「戦争」を
欲していたほど、なんか異常だった。

 この異常さがわたしを壊していたのかもしれない。
壊れていたわたしを救い出して、直していったのもまた演劇だった。
その足がかりとして「からだの中にある言葉を引っ張り出す」ことを
見つけ、その中で「舞踏」を通して不思議な出会いがあり、
また「野田秀樹」に戻ってきた。

 さて、野田秀樹の片腕、というかメインの「音屋」さんをしている
高都さんとのなんだかんだは追々話を進めるとして、
自分にとって一番「蒙を啓かれた」ことが「ことばの出し方」。
「断定系」で話を終わらせるな、それじゃいろいろ不都合が起きるよ。
高都さんだからソフトに言うけれど、これが野田秀樹だったら
ボロクソのてんこすに言われて、落ち込んでいたのかもしれない。
そんなところを今のわたしは「改善」できているのだろうか?

 こういうことをそめごころを見る前のひととき、つらつら考える。
・・・前置きがすごく長くなってしまった、本題に移るか。

 今回公演の「肝」は3つある「初めて」。
ひとつは初めて「外部」から演出者を「招いた」こと。
ふたつは初めて「ダブルキャスト制」を敷いたこと。
みっつは初めて「野田地図」ではない、「夢の遊眠社」時代の
「野田秀樹」戯曲を演ったこと。

 まず、ひとつめの「初めて」は改めて演出者の所属先である
(劇)池田商会が「なんでもあり」の集団だった、と云う発見。
持ち味たる、コメディから、ガチの「時代劇」や、ガチの「演劇」、そして
いわゆる「地下演劇」までこなすことのできる「形」を持っていて、
この「形」を経験の少ない若者に「インストール」できた、という収穫。
・・・そんなことを言うとやのまゆから「来い。」と連絡が来そうだな、おい。

 ふたつめの「初めて」、「ダブルキャスト制」は「空気の違い」というか
配役を変えることで「空間」が180度変わってしまう、と云う発見。
わたしの「見る順番」が「シャッフルキャスト版」から
「ノーマルキャスト版」という流れだったからかもしれないが、
「見世物小屋」や「テント演劇」という「非日常」が強すぎる空間から
3時間の「間」を置いてガチの「地下演劇」という「流れ」を
感じることができた、という収穫。

 さて、最後の「初めて」、「夢の遊眠社」時代の「野田秀樹」戯曲を
演ったこと=「英国留学以前の野田秀樹」、さらには「走れメルス」という
戯曲を「選んだ」ことによる新しい発見。

 そめごころやら田原工業、こふくの永山さん演出による
「野田秀樹」戯曲を枝光アイアンシアターや甘棠館で見ると
どうも「地下演劇」というものと「親和性」が高いな、と感じることが
多々あり、その感覚を携えて演出者協会からもらった本、
「演出家の仕事(4)八〇年代、小劇場演劇の展開」を読んでみたら
まあ、驚いた。

 ・・・現在の「地下演劇」界の大親分、流山児祥と
野田秀樹が「組んで」仕事をしていた、という「意外性」。

 さらにあらためて読み進めると「走れメルス」を初演した翌年に
「第一遭遇」があったのか。
そして、一年後に野田秀樹が流山児祥のカンパニーに
「ぷらねたりよむ・あむうる」という戯曲を書き下ろしたが、
その公演の「打ち上げ」の席でカンパニー同士の「流血沙汰」に
より、野田秀樹は「地下演劇」と「決別」して、その「4年後」に
「向こう側」へと行ってしまった、という事実。

 となると、野田秀樹にとって「走れメルス」は
ひとつの「転換点」となった「戯曲」だったのかもしれない。

 そういう風に「捉えて」見たら「メルス」という存在の「本当の名前」、
「メルス・マークス」にひとつの「鍵」を見つけてしまった。
見ながら、まずは"mars/max"からドイツ語に飛んで、
野田秀樹流に「ことば」を分解して再構築したら
"Merkmal/feature"と来た、そのことばを日本語に直すと
「特徴、特色、面相、本領、そして"似る"」、さらには
"max marks/maks Marken"、日本語に直すと「最大級の評価」。

 ああ、わたしたちが「追って」いた、あるいは「求めて・闘って」いた
「何か」の正体はわたしたちが持つ「特徴・本領」に対する
「最大級の評価」というものだったのかもしれない。
で、「アイドル」や「売れっ子の女郎」、そして「犯罪者」というものは
何らかの形で「最大級の評価」を得ている、その様を眺めながら
私達も追い求めていた、という「現実」がうっかり見えた。
・・・これが「多幸症」な「多動性」というものか。

 さらに言えば、「多幸症」な「多動性」は
「繰り返し」というものへの欲望、へとつながってしまうのだろう。
・・・なるほど、「形」がない上で「繰り返し」を見せればこれは「苦痛」だ。
がだ、「形」のある上で「繰り返し」を見せることができれば「快楽」だ。
この極みがプリセツカヤの「ボレロ」だよ。

 「向こう側」へと行ってしまった野田秀樹は「歌舞伎」という
「形」と「西洋演劇」を「接続」する役割を果たしたことは
ある意味「当然の成り行き」だったのかもしれない。

KOKAMI@network 「朝日のような夕日をつれて2014」

これは「演劇」というエンターテイメント。

 プレオーダーで手に入れたとはいえ、前から2列目ですよ。
えげつなくいい位置だ、あとは厄介な方々が近くにうようよ
しなければ尚いいのだが。

 カンパニー名、"KOKAMI@network"を当初"KONAMI@network"と
空見してしまい、「はあ、鴻上さん、コナミという金主を掴んだのね」と
思ってしまったのは内緒だ。

 さらに言えば、「第三舞台」の「封印解除兼解散公演」、
わたしの「大切な人」がどこぞの誰かから福岡公演昼の部の
チケットを貰って見に行ったわけで。
・・・貰ったなら貰ったでちゃんと言ってね、時間都合つけて(以下略。

「朝日のような夕日をつれて」という演目自体も
数年前、久留米大学の演劇部がやったのを見たとき、
とても暑苦しくて、だらだらとした感じがしてとてもしんどかった。
そういう記憶しかない、おまけに客さばきと終演後、
どこに出たらいいのかわからないくらい扉という扉が
締まりまくって、迷子になった、というか遭難した。

 こういうことをつらつらと考えていたらキレキレの
コーディネーションから本編に気がつけば引っ張り込まれている。
そして、舞台装置のLEDビジョンがいい味出してる。
なんていうか、「時代を写す鏡」として板の上に存在している。

 けれども、「人間が一番面白いおもちゃだ」という基本線が
ものすごくしっかりしているから恐ろしく見やすい。
さらには「温故知新」という形で今と昔のバランス加減がいい。
ぶっちゃけ言えば、この戯曲は「ゴドーを待ちながら」という
戯曲に対する鴻上尚史さんなりの「お返事」なのかもしれない。

 ゴドー、ゴドーと言っているのですが、
「ゴドー」っていったいぜんたい誰なのですか?
なぜ、「ゴドー」を待っているのですか?
そして「ゴドー」はここに来るのですか?
・・・おまけに待つの、疲れません?

 この問がはっきり見えているから、ひとつひとつの切れ味がすげぇ。
さらに鋭い身体性で重量感ある物語を巧みに使っているから
「人生」というものを底深く見せていることができている。

 うーん、「日常」というものはものすごく「退屈」なのかもしれない。
故に「非日常」という「暇つぶし」を人間は必要としていたのかも。
けれども「暇つぶし」は「人潰し」というくらい依存性が高い。
ここに現代の流行りである「SNS病」という「本音を思わず吐き出す」
「言いっぱなし、聞きっぱなしにせず、議論という喧嘩をふっかける」
という「世の中の病」が混ざるとすんげぇカオスになる。

 すんげぇカオスの中で「ありのまま」とはなんぞや、
「クリエイティブ」とはなんぞや、「生産」とはなんぞや、
「消費」とはなんぞや、そして「批評」とはなんぞや、と
矢継ぎ早に問われて、「だとしたらどうなんだよ」という
「答え」しか今のわたしには出すことしかできなくて、
どうしようもない絶望感にとらわれてしまう。

 その絶望感で世の中を見渡してみれば、嘘つきやペテン師は
この世の中、まっとうに生きていたら沈んでいる様子を横目に
何かよく分からない高みに向かって昇っている。
けれどもその高み自体に登ってはいるものの高みそのものが
もしかしたら沈んでいるのかもしれない。

 さらには「世の中のありとあらゆること」が「記録されている」、
その中でわたしたちはどこから来て、どこへ行くのか、
おまけに「過去を肯定するノスタルジー」まで見せておいて、
最後の最後で「実は精神病院、閉鎖病棟の治療でした、全ては」と
落としに行く、やっぱりこの世は狂ってる。

 「狂っている」世の中に立つことは苦しいが、何かしら楽しいのかも。

14+「ゾンビの瘡蓋」

川津戯曲って、かなり緻密で、結構骨がある。

 初めて彼の戯曲を「立体化」したものを見たが、最初に抱えていた
「煩雑そう」というところがさとねーさんによってうまく整理されて骨太さと
緻密さがうまく残っていた、やっぱり、立体化しないとわからないことが多い。

 苦しくて、悲しい、とはこのことか。
わたしが、今直面している物や事に対して
「どうすればいいのか」分からない。
わからないまま生きていると性も根も尽き果てた。
おまけに「他者」という存在が許せなくなってしまう。

 そんな感じで私はいつも生きていた。
はっきり言って、生きるのしんどいわ、なんとかして死ななければ
楽になることができない、ずっと前から自分にあった場所や環境を
探して生きては見たけれど、どこにもなかった、
もうシャバへは出たくない。

 そんなことを考えつつ、色んな意味で「混ざっている」ところから
表演空間へとよろよろとまろび出る、とはこのことか。

 現時点での「文明」というものが崩壊してしまった、
あまりにも原始的な世界、何かから逃れるために
道をゆくワゴンが一台。

というか、「ヒト」はなぜ、「ゾンビ」というものになってしまうのだろう?
要するに、「なってしまった」存在に「噛み付かれる」という「傷」を
受けて、初めて人はゾンビになるわけだ、だとしたら「始まり」と
いうものがそこには存在しているわけで。

 けれども、現実は「始まり」というものを見せず、気がつけば
大変なところにぽつねんと存在させられる。
さらには「現実」と「非現実」の間に生きていることも突きつけられている。
こうなってしまうと、人は「絶望」によって人でなくなる。

 ・・・「絶望」から逃れるためのバンドワゴンだったのか。

 「絶望」に襲われることで人は霊を抜かれ、抜け殻になったことを
「ゾンビになった」ということになっているのだろう。

 こういうを見てしまうと、やっぱりわたしたちは
どうしようもない「狂い」のなかに生きていて、
狂いを知ってしまったら、正直何をどうしたらいいか
わからなくなる。

 そうして「人」と「ゾンビ」の狭間を綱渡りのように生きている。
この狭間を生きなければいけない苦しさ、わかってくれとは言わないが。

福岡県大学合同公演「エゴ・サーチ」

心がマジでいたくなるわ、これ。

 ぽんプラザホールがああいうことになったので、
今回からゆめアール大橋の「小さい方」に表演空間と
客席をしつらえて公演を打つ趣向。

 これから演るは鴻上尚史戯曲なのに、この場を流れる
空気、というか、雰囲気は平田オリザと青年団、という
とても、とても、不思議な感覚。

 ここに辿り着く前、わたし、というものが「マイナスの場所」に
居続けている現実があり、せめて「プラマイゼロの場所」に移りたい。
お互いがお互いの足を引っ張らない、汚い言葉を無闇矢鱈に使わない、
隠しごとなく、言いたいことを素直に話す場所ではなく、全て真逆で
とにかく、吐きそうな場所に居続けて、性も根も尽き果てた。

  これから、どういう「関係」というものを作ればいいのか、
正直、わからなくなってきた、まずは懸念点を洗い出す。

 こういうことをつらつらと考えていると、もう本編ですか。
南のところの海と空しかない本当に小さな島。
この島の小中学校の門の前で野球をすることが
それもヒールを履いたまま白球を追いかけることがなんともシュール。

 このシュールさに両性具有を持ったキジムナーが絡んできて
物語にいつの間にか見手を引きずり込んでいく。

 さて、状況はとある都会、作家と編集者の打ち合わせに
急展開で戻って、というか変化している。
・・・なんか、言葉を絞り出すのに一苦労で心が折れそうに、
というかもう心が折れてしまっているところに「わたしでないわたし」が
ネットで「生きていた」、そこに驚く。

 そしてネットというものをうまく使えば、技量の良し悪しにかかわらず
「有名になる」という夢はかろうじて叶えることができる。
・・・要するに、「セルフ・ブランディング」の良し悪しが
元々ある、技量とか才能を凌駕する可能性もある、ということ。

 がだ、「セルフ・ブランディング」の裏で自分の力を付ける作業、
俗に言う「ネタの仕込み」を怠ってしまえば
永遠に「セルフ・ブランディング」というものに頼らなくてはいけない。
・・・わたしの人生を「他者に委ねて、金をもらう」ということかもしれない。

 こういう葛藤に、「ある過去の出来事」ががっちり重なって、
徐々に「居心地」が悪くなる、というか、怖くなってくる。

 実は、みんな、知り合いで、休みもろくにない労働環境で、
チーム、というか男女関係のなんがかんだで取り返しの付かないことに
なって、それをどう償っていくか、そのためにネットを使った。

 これって、なんかものすごく怖いことかもしれない。

 そして、若さゆえのえげつなさ、というか
「納得して言葉を編み上げる」ため、
「意識に鍵をかける」ことをやめるために、
みんな一番最初の島に戻り、どーんと大きな花火(ライブ)を
ぶちあげ、止まっていた小説を書き始める。

 ・・・にしてもなぁ、今年の合同公演、1・2年生が中心と言ってたが、
例の九州戯曲賞を取った九大の奴がいない、どういうふうに
九大演劇部は奴を使っていくのだろうか、気になる。

LAY-OUT 「ミモココロモ」

試行錯誤の積み重ねが「子供」を「大人」にする。

 それにしても、前の日はえらく飲み過ぎた。
ホルブラが15周年のお祝いがあって、顔を出す前に
連休明けてからのもろもろごとの下準備をして軽く飲んで、
久しぶりにいろんな人と出会って話して、下ネタもたっぷり、
どうやって家に帰り着いたのかわからない。

 ・・・翌朝、妙に寝汗が薬臭い、と母が言い。
うーん、「第三のビール」とか、「発泡酒」のたぐいは
なんか、ビールではなく、ビール「もどき」に薬混ぜて「ビール」に
近くしているから酔いがよろしくないのか、という発見。

 五臓六腑が恐ろしいほど重く、水以外のすべてを
受け入れられないまま久しぶりの黒崎。
降り立つと、廃墟同然だったコムシティは区役所やら
公的機関を入れる、という荒業を使い何とかした。

 開口一番、「えげつない」という言葉が出てしまう。

 飛ぶ劇の「ミモココロモ」とガラパの「よれた僕らの三角思考」は
「ある大学のサークルで起きた色恋沙汰」という基本設定が
似ているんだよな、ということが表演部からなんとなく見えている。
かたや、「映画」、此方「デジタルゲーム」、という「時代」というか
「時間の流れ」の違い、というものがあるが。

 そんなことを空間から考えているともう本編。
まずはカールスモーキー石井のリズムで河島英五を
歌われると、うん、なんとも言えませんなぁ。
そのなんとも言えないところに「世の中を何も知らない女の子」が
飛び込んできた、「映画」という「作品」が好きなだけで。

 けれども、「映画」という「作品」を好きになってしまったら、
次はその「作品」を作った「人物」というものを知りたくなる。
そうなってしまうと・・・これがもし「男」と「女」だったら?

 さらには、「学校」の「とあるサークル」という「閉ざされた」
空間と、時間で、「男」と「女」の関係がうっかり成立して、
おまけに複数ある「男」と「女」の関係が同時並行で進行して
ややこしいことになったら、いったいぜんたいどうなる?

 「子供」は閉ざされた空間と時間を生きるしかなくて、というか
生きてしまいがちなのだ。
 故に「映画製作サークル」の隣には
これまた「カルト」という閉ざされた空間と時間が存在し、
それぞれの「男女関係」が「幼い」が故に残酷で、その残酷さを
越えなければ大人にならないことはわかっていても
どうしたら良いかわからないので別のカルトに頼り、
結果、現実に帰って来られなくなった。
 
 この「閉ざされた空間と時間」を見ると、
今ここにあるわたしの現実と関係を考え直したくなる。
結局は「続けなければいけない関係」と
「続けていってはいけない関係」を見極めないとえらいことになる。

 ああ、わたしもこの夏、実生活で面倒な関わりにぶち当たった。
城崎温泉劇作家大会の帰りに551持ってくるよ、から月一回
ご飯食べよう、それから(以下略。それはそれで楽しいが、
疲れて、疲れ果てて、お金のことや人生のことで変化が必要になって、
どうしようもなく好きだったら一度外に向かって開けばいいし、
一度その存在からはなれてみるのも手だ、そう考えた。

 引き出して、どうするか、その一連の動きの中で
気がつけば「続けなければいけない関係と
「続けていってはいけない関係」を峻別していた。

 そうできなかったからひとを刺し殺し、「間接的」に
刺し殺してしまったということを精算するために映画を作る、
そのためには帰って来られなくなった「あの子」を現実に
戻してあげなければいけない、「子供」から「大人」になる
ひとつの「たたかい」でもあり「儀式」を果たすために。

 ・・・泊さん、やっぱ天才や、えげつないくらいの。

「パダパダ 波の少女」

わたしたちは波にたゆたって生きている。

 うーん、ものすごく複雑だ。
「あの問題」に触れることなしに「福岡と釜山」の関係性、
うまく書けへんもんな、ホークスがシーズン終盤、
大事なところで「あのチーム」にズタボロにやられることを聞くと
なおさらどう書いたらいいのか、正直わからなくなる。

 正直、「あのチーム」と「あのチーム」に対しては
猛烈なさつ(以下略。を持って戦わなければいけない、と言いたい。
そしてホークスには「計算高さ」はあっても「道徳心の欠けた」
「計算高さ」がない、おまけに「目先の一勝」にもこだわれていない。
「プロ野球」というか「スポーツ」が「政治的ゲーム」になっていることは
重々承知、がだ、ホークスと「あのチーム」が噛み合わないとな、
うまく学べないことや所が多すぎて、現状、不幸すぎる。

 そんなことなんか関係なく、福岡と釜山は
徐々に「一衣帯水」になっては来ている、という現実を
ここ数ヶ月、演劇の現場で目の当たりにする。

 6月はグレコローマンスタイル、7月はHANARO project、
そして8月9月のgo-to、そしてパダパダとさかせのアウェイ戦。
福岡と釜山を行ったり来たりして「演劇」という同じ分野で
「少し違って少し同じ」文化を持つ場所へと赴いて
自らの「身体言語」で向こうの人間を納得させていく。
そういう「たたかい」というものが始まったのかな。

 そういう「たたかい」の裏でわたしは「行かなければいけない」
ではなく、「行きたい」というところに一度戻らないとマズイよな。
「しなければならない」というものに取り付いていたから
色んな意味で常軌を逸した事となり、精神的にも肉体的にも
負担がかかってしまったのかな。

 こういうことをつらつらと考えつつ、福岡と釜山の15から18歳の
「女の子」の「夢」や「現実」という客入れ音を聞いていたら
「国」、あるいは「都市」というものは「わたしたち」を形成する
ひとつの「要素」であって、それ以上でもなく、それ以下でもない。

 一番大切、というか重要なのはどのような「家庭環境」で、
どのような「生育場所」で、どのような「文化を超えたもの」で
わたしが育っていたか、いわゆる「生育歴」というものかもしれない。

 この「生育歴」というものがちゃんとしていたら
「将来、私はこうしたい」という意味付けやそうするための理由、
さらにはたくさんの方策、方法論を他者に対して開示できる。

 私はこの「生育歴」があまりよろしくなく、何かずっとさまよっている。
そういうことまで知らないものだから「なぜ、わたしはさまよっているのか」
ということすらわからず、この福岡という街どころか、わたしの人生を
ずっと、ずっとさまよいすぎて心も、身体も疲れ果ててしまった。

 十分に私の心に関わる大事なことを引っ張りだされて本編。

 まあ、日本人と韓国人がひとつ同じ船に乗り合わせている、
ということは「呉越同舟」ということではなくて、
ごくごくアタリマエのことなのですよ、と思わせる導入部。

 そして釜山でニモカが使えますよ、というセリフに、釜山のハナロ、
ソウルのT-Moneyのスペックはソニーのフェリカではなく、
たしか、シーメンスかフィリップスのicカードシステムなんだよなぁ。
香港の八達通(オクトパス)はソニーのフェリカなのだが。
ここでひとつ「噛み合わない」ところ発見。
がだ、pitapaは技術の壁を乗り越えて期間限定ながらも
ソウルのT-Moneyと「片相互乗り入れ」を果たした。

 なんか、ある意味「翻弄感」というやつをコンテンポラリーダンスと
いうか、コーディネーションでじわりじわりと見せていき、
翻弄されながらも「隠していた」、あるいは「隠されていた」
本当のわたし、というものを見せていく。

 現実空間ではくじらの群れがうようよして行く手を阻む。
前にも、うしろにも進めない状況で日本人の少女と
韓国人の少年がうっかり出会い、「ゆるキャラコンテスト」と
いうものを通じて、これまた「事に臨む」上での「食い違い」という
ものをこれでもか、と客を巻き込みながら見せている。

 隠し味として第一次世界大戦、第二次世界大戦という
「人間」というものが犯した「過ち」を「鬼っ子」あるいは
「トゲピ」という「生まれてくるはずのない子」が混ぜくるように
わたしたちの意識に働きかけ、結局は「噛み合わないこと」が
戦争を引き起こすのだろ、ヒト、というものは何時かは滅ぶ。

 滅ぶからこそ、「噛み合わない」ところは多少なりともあって
そこをどう埋めていくか、「憎しみ」というもので埋めていくのか、
「侮蔑」というもので埋めていくのか、それじゃあんまりだから
「愛」で埋めていくのか「歓び」で「感謝」で埋めていくのか、
課題でもあり、楽しみでもあるのかもしれない。

 そこまで行き着いて船はようやらやっと進み行き、
挙げ句の果てには海底トンネルだわ。
いつの間にか親子、いつの間にか一衣帯水、
今だ自由は噛み合わないが。
・・・これはこれで、まあ、いいか。

Plant M 「If you are happy and→」

正直、凄いところに来てしまった。

 前の日は「おやどり・ひなどり」で有名な「一鶴」で
ハムプロやらマエカブの方々と久しぶりに飲んで話す。
ハムプロとは箱崎で初めて見て、ガラパの面々と
合流して飲んだとき以来だよ、いったい何年前だ?

 おまけにその飲みだって、「大切な人」の
お誕生日を一緒に過ごすため途中で切り上げて、天野っちから
名刺もらって、急ぐように消えたのだな、うん。

 それからなんだかんだあってもわたしと「大切な人」との関係は
未だ続いている、その話を久しぶりに天野っちにしたら、
「ええかげん、一緒に住めや」と言われてしまった。
てか、天野っちを細く、高くしたのがわたしの「大切な人」だった。
・・・だから、同じ案配で話すことができるんだ。

 宿に戻り、やっとお風呂に入り、身体を洗い、落ち着いてから
寝るともう朝だ、しかも昨日までの青空とは違い、今にも泣きそうな空。
高速バス、早い便に変更するにもややこしいことに巻き込まれ、
かなりの時間高松駅の喫茶店で時間を潰し、ようやらやっと
バスに乗って、うだうだするともう鳴門、明石海峡大橋を通るともう神戸、
甲子園を外野から眺めて、「甲子園の魔物」は競輪場跡地の
高層マンション群によって完全に「殺された」ことを知り、
タイガーデンから大阪へ、OCATにたどり着いてなんば、
日本橋のところで大雨に巻き込まれ、宿につくまで難儀する。

 宿について、部屋を作り、お風呂に入り、少し休む。
うーん、困ったことを不承不承飲むことになるが、これが翌日(以下略。
ある程度落ち着いてからなんばへ向かい、大国町で四つ橋線に
乗り換えて花園町、初めて降り立つ場所ってすごく緊張する。
すんなりと今回のハコを見つけ、いろいろ見て回る。

 ハコからすぐのところに大きな葬儀場があり、
それからまっすぐ歩くともう天下茶屋の駅ですか。
所々には自民党と維新の会の政治事務所が密集している。
なるほど、結局、日本の政治とは「貧しさ」というものを
「隠匿」してもらうために「長いものに巻かれる」ことを
選択したが故に、立ち向かうこともできず、逃げることもできなくなった。
・・・この象徴が大阪西成だったのかもしれない。

 この様を睥睨するようにあべのハルカスが高く、高くそびえている。

 まさしくリアル「じゃりン子チエ」の場所で、
しかもおしゃれに「生と死」が「薄皮一枚」で隣り合った
場所に身を置く、その空気に慣れたところでビルの3階、
元トレーニングジムのだだっ広い空間に「遊び場」を作っている。

 けれども、この「遊び場」にはどう表現すればいいかわからない
重すぎるくらいの「切なさ」が充満している。
なんともいえない空気を感じていると、ギターを抱えた存在が
ある意味知恵遅れのように記憶を歌いながら話す。
・・・この国は、1964年の東京オリンピックで
「終わって」いたのかもしれない。

 大阪万博からバブル期までがその終わった残り、というか
利子で生きていて、いまはその利子すらも尽きていて、
いったいぜんたいどうしたらいいのかわからなくなったから、
「幸せなら手をたたこう」という歌を歌うしかなにもないわけで。

 黒い男と黒い女が対角線上に存在し、ところどころに白い人たちが。
というか、未だわたしは経験がないけれど「悲しみ」というものが
大きければ大きいほどこの悲しみを紛らわせるために「笑う」しかない、
もしかしたらこの「笑い」は「狂い」を回りに気が付かないように
させるための「防衛的手段」なのか。

 これら「悲しみ」と「笑い」と「狂い」が「Nintendo's War」となり、
「火星移住計画」となり、ひとりの「悲しみ」が誰かの「狂い」となり、
じわりじわりと「悲しみ」と「狂い」が皆に満ちてくる。

 ・・・ああ、このようにしてみんな少しずつ狂っていくのか。
狂ってしまうと元には戻れないことを知っていながら
狂う前のわたしをどうしても探してしまう。

 「せかいとわたし・わたしとせかい」というものは何かしら繋がっていて、
さらにはたくさんの無念を背負って、引きずって生きている。

 その先には何がある、「なにも、ない」というか
より、自由、というものがあるのだろう、見るものによってはとても美しい。

バカボンド座 「花と猿」

「永久エネルギー」の無駄さ加減。

 ここ数週間大変だった。
「これから」をめぐるもやもやがひどくなりすぎて、
人生なにもかもうっちゃってやろう、と思ったが
のっぴきならない状況になると
案外、物事がすんなり動くものなんだな。

 たまたま、そういう日が重なって、「始まり」が始まった。
まずは、「第一段階」の設定。
削り込むところは削りこむ、されど、思案は続く。
今後、どう付き合うことになるのか、野放図ができない。
まあ、話し合って決めるしかない。

 ある程度話し合って、行橋から高松、そして大阪に行く
日程、というか旅の中で考えよう、自分の中のことを。

 そんなことを感じていたらお盆の空気が板の上に存在している。
このお盆の空気の中で客入れ音としてラジオやラップが効いていて、
さらには前説がコム・デ・ギャルソン系の落語、ぶっこんできやがる。

 エグい空気をひと通り作り上げたところで、
ウータンクランらしきものを出囃子にして演者ひととおり登場。

 どうやら、むかしからある大きな家の結納の席。
男は軽いのか、重いのか、よく分からない知的障害があり、
女はかなり美しいがどこか自閉症気味、ここに女主人と
下男がエロ落語のように絡んできてさらにえげつない。

 物語のこういった基本線に東村アキコの
「メロポンだし!」という漫画が持っている、
「おしゃれな基地外」という空気感、
同じ作者の「主に泣いてます。」の持つ
「霧のような悲しみ」という空気感とやりとりのテンポ・リズム。

 この空気感、テンポリズムの中、なかがわとじじの
すんげぇ美人ふたりが変態と正気、さらには狂気の狭間を
「濃く」やっているからえげつなく、たまらない。
ぶっ飛びすぎて、もう笑うしかない。
・・・ああ、みやむらじじはただかおりを結構骨太にした美人だな。
時折椎名林檎のような激しさも見せているし。

 ぶっ飛びすぎたところにこのお家が「セックス」というものを
利用した「永久エネルギー」を研究しすぎて、財産も何もなくした
というさらなる狂気が重なって、「生」じゃなかった、「性」の持つ
因業具合がすべからく絡みに絡んで「頭がいいやつ」ほど
心を「削って」しまいがちなんだよな、と気がついてしまう。

 ・・・すべてを肯定することができればなんとかるのだが。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR