あなピグモ捕獲団 「月面の少年アリス」

「息苦しい」は「生き苦しい」に通ずるわけで。

 リハビリ、というか、トレーニングもあと残り僅か。
昔使っていた銀行口座をこれから使う新しい口座に
切り替えて、「次」というものがじわじわと始まっている。

 そういえば、この一連の流れが始まったのが
6月、城崎温泉での劇作家大会に行ってからだ。
このカンパニーもちょうどその時期公演を打っていて、
ふたばやらあきこさんが出ていたので(以下略。

 じじ、こぱる、みずほ、みどりこはあくまでも「女優」という
カテゴリーで括っている、故に恋愛はちとためらうが、
ふたばとあきこさんは「女優」とどう表現したらいいかわからんが
「恋愛関係希望」とのグレーゾーンで括ってしまう。
・・・基本、わたしには「大事な人」がいて(以下略。

 そんな話は脇に置いといて、表演空間に入る。
・・・なんていうか「季節外れのビーチパーティ」という趣。
おまけに客入れ音もビーチパーティ向けの
これまたおしゃれな選曲になっていて、外で行われている
福岡オクトーバーフェスト、また行けなかったな、貧乏は辛い。

 その辛さを抱えつつ、今日はパーティ、とにかくパーティ
あわよくばせっ(以下略。にまで持って行け、という空気に
耐えなければいけない、というか、ひたすら耐える。

 それにしても「濃ゆいお客さん」が多いなぁ、ということを
感じると、「大人になったエヴァンゲリヲン」の色調で
「演劇」は「テレビ」じゃない、直に「向き合える」ことが喜びだ、
故に「携帯電話の電源を落とせ」と言い続けることが
とてもとても悲しい、という前説のち本編に入る。

 今回は「外部に書き下ろされた」短編8つを
自分のカンパニーで演るという趣向。
しかし、「つなげ方」が秀逸だ。

 まず、初手の言葉、「ドイツ臭い」にやられた。
・・・うん、ブラジルのワールドカップ、城崎温泉で演劇を考えれば
考えるほど「サッカーとは、あるいはスポーツとは”戦争”の代替品」だ
という思いを感じながら福岡に帰り、それからはドイツの快進撃を
横目で見ながらふと考える。

 世界最高の「思考プロセス」はドイツだった。
シュタイナーだって、ゲーテだって、なんだって、そうだ。

 わたしたちはその「思考プロセス」を間借りして
「新しいわたしのあり方」というものを考えている。
いままでは良かったが、それは現在ではちとまずい。

 「カタカナの思考」ではそろそろ「限界」というやつがやってくるぞ、
ならば「ひらがなの思考」はどうすれば出来るんだ、
そういうところまでわたしはなんとか辿り着いた。

 こういうお話を「女臭い女」と「男臭い女」の取り合わせで
それぞれが持つ、立って、居て、振る舞う、こと、その前提にある
肉体と精神、さらには肉体の有り様、精神の有り様すべてを使い
表現している、気がつけば「内面世界」に足を踏み入れた。

 踏み入れた途端に次は「群唱」で鴻上尚史が持っている
「言葉」の質感というものをロックなスピードで見せて、聞かせて、
一段落した時の安堵感との落差を隠し味に効かせて、
これがマヤさんやらが健筆を振るっていた時の
「古き良き福岡演劇」だったのか、と何もその頃を知らないわたしは
「残り香」を嗅ぎながらふと考えた。

 今度は「手紙」を題材に物凄くロックの世界がさらに広がる。
「単なる手紙」ではない、これはひとつの「文学」だというシロモノを通して
「言葉」というものは「自ら」崩壊「する」ものなのか、
それとも何らかの「外部」によって崩壊「させられる」ものなのか、という
問いかけを恐ろしいくらいのリズムで畳み掛けていく。

 更に使われている言葉がものすごく「ロック」。
・・・ロックはロックでも、映画を見ている人は
「ドゥエイン・ジョンソン」の方が通りがいいかもしれないが、
WWEというプロレス・エンターテイメントで
最高、且つ最強の「スーパースター」、「ザ・ロック」のこと。

 彼の凄さは「話芸」の旨さ、言葉のセレクト、
タイミング、リズム、そして強さ、全てに「説得力」がある。

 その言葉の感覚をうまく使いこなして、は言いすぎだが、
「暴力」というものをシンプルに伝え、「20年」続ける長さを出し、
最後の「平壌」という言葉、「あらゆる意味において遠い」という
言葉それぞれに隠された「意味」をうっすらと見せる。

 隠された「意味」をうっすら見せて次は「笑うな」という
ひとつの「禁忌事項」は「演劇」、あるいは「芸術」に必要なのか?
もしかしたらそういうことをいう人はものすごく「心」を病んでいて、
「病んでいる」という「不安」を隠し持っていて、
この「隠し持っている」不安を形にしたものが「芸術」であり、
「演劇」であって、これらすべてを誰かに「理解」してもらいたい
欲求を持っていた。

 それを満たすことができず、他意なく「面白い」と「笑う」ことで
何か侮辱された思いがあるのだろう、「笑うな」、
そして「わたしが正義だ」と主張し始めるようになった。

 ああ、人はこうして「ハラッサー」という存在に「変化」するわけか。
そして「わたし」とは感覚の違う「異者」を「排除」しようとして
影に日向に「暴力」というものを肉体的、精神的に使い、
排除に排除を重ねた結果、あるものは「レイパー」に、
またあるものは「サディスト」、逆目で「マゾヒスト」、「エゴイスト」に
なるものもいれば、「ロリコン」や「ペドフィリア」、その他種々様々な
「悪」をやらかす「魑魅魍魎」へと転じてしまう。

 この「原罪」というものを忘れた「魑魅魍魎」に
「原罪」というものを思い出させる、という被害者の仕掛ける
「復讐」から「世の中の仕組み」というものを思い出させ、
「ルール」というものは案外「秘密」が多い、だから「ルール」に
よって身動きがとれなくなって、事態は持ち越されてしまう。

 解決したいのに解決できないジレンマを壊すには
「いま」、「ここ」で「何か」を「形」にしろ、それが「生きる」ということだ。
この「行為」を「規定」して初めて「物語」は動き始める。

 「物語」が動き始めたら今度は何か「きしむ」音や
「壊れる」音、さらには「考える」という「痛み」がわたしを襲う。
「疲労感」からくるストレス、その大元となる「諸問題」は
何も解決せず、ただそこにひたすら積み上がる。

 なぜ、そうなってしまった、どうすれば知ることができる、
どうすれば解決できる、という問を突き詰めれば突き詰めるほど
「わたし」という「宇宙」の果てに辿り着き、そして「中心軸」へと
辿り着く、この「往復運動」の結果、わたしはすべてを振りきって
「孤独」という「状態」を選んだ。

 ・・・こうして張られた「伏線」というものはいい響きをしてやがる。
これらすべての「伏線」に種々雑多な「ニュースの断片」が
引っかかると不思議な響きを持った「物語」が生まれ、
それを種種雑多な「考え方」や「生き方」を持ったわたしたちが
「芸術」や「演劇」という形で受け取ると、「いったい、あなたはどうなんだ」
という問が生まれ、この問を血ぃ流しながら解決することが
「伏線」を回収することであり、「世界」を回収することになるのだ。

 わたしはわたしであり、そしてわたしはわたしではない。
わたしは「不思議の国」に存在しているし、存在していない。
わたしは「夢の中」に生きていて、「現実」にも生きている。
・・・ということは、わたしたちは「理不尽」や「不条理」という
「落とし穴」を私達自身の手で掘っている。

 だから、息が苦しくて、生きているのが苦しいのだ。
けれども、わたしたちは生きなければいけない、とにかく。

 いろいろな場所でバラバラに演じられた戯曲を
ひとつにまとめてしまったら、人間に関する物凄く深くて広い
眼差しとこれまた物凄く深くて広い哲学の世界が存在していた。

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早川倉庫杯 くまもと若手演劇バトル DENGEKI

「ストラテラカプセル」の使い方。

 どうやら、「演劇」というものの「伝え方」、「見せ方」というものに
ある意味「戦略性」というものが必要になってきたのかもしれない。

 というか、熊本行きの荷物を作った時、飲まなきゃいけない
薬のセットを忘れて、昼の部は何とかなって、宿に入り、風呂に入って
落ち着いて、夜の部、時間間違えたかな、というやりとりを
古田さんとしていたら、突如「ストラテラ」という言葉が頭を。

 おまけに満席で、不安な状態を拭うため「息吹」を
やって落ち着かせようとするが、息が途切れている。
何とか乗り切ったが、不安が止まらない。
現実、疲労が脳みそ、前頭葉からダイレクトに心臓へ、
姿勢を変えて寝てみると疲労が奥歯から前歯へ移る。

 どうもならないから長崎直行の予定を切り替えて
朝早いバスで福岡に帰り、薬のセットを飲んで、安堵する。


 一通りすべてのプログラムを見たが、
翌日の本戦には「残るべきところ」が残った。
その差は「形」の有る無しと安定した「質」の提供、
ただそれだけ。
この事を踏まえながら、話をしていこうと思う。

【予選Aブロック】

熊本高校演劇部

 こうして見てみると、「演劇」というものは「演者」という
「楽器」の響かせ合いで作られていくのだな、というところを
メトロノームを使い、ひとつの戯曲の複数場面を演者毎に
バラバラと読ませている、メトロノームのかなり早いリズムに合わせて。

 この様子、稽古が始まる前、もしくは本番、というかゲネプロが
始まる前の心と体、そして喉を温めて「私という楽器」を
チューニングして、いつでも板の上に出る準備だよ。
こうしなければ、さあ、そこでなにかやれ、と言っても
十分に声は出ないし、身体も動かない、当然心も。

 きちんとチューニングできたところで
今度はメトロノームのリズムを「演目そのもの」のリズムに下げて
「仲直り」というミッションをするが結局は事故で死んじゃった。
というお話をぶちかます格好。

 見せ方はすごく斬新なんだけれど、メトロノームの入れ方、
リズムの変え方、止め方が雑なせいか、
流れを「殺して」いる傾向がある。

 更にいただけなかったのが一番最後の「謝罪」という名の
「言い訳」をしてしまったこと。

 要するにDENGEKIに相応しくない戯曲を出した、
けれども納得いかない、チェルフィッチュの岡田さんも
評価して云々と、うーん、なんだかんだと、言い過ぎだ。
・・・だったら、九州戯曲賞という「評価の場」があるから、
それに出せ、出して知らない人から「評価」してもらえ。

RIKKA

 「アイドル甲子園」ですか。
その企画、もう「スカパー!」が半年、というか
一年かけての「企画番組」としてやっているんだよなぁ。
47都道府県から1ユニットずつ「参加料1万円」で甲子園方式の
トーナメントを戦い、買ったほうが参加料総取りして
次の段階に進む、故に優勝賞金は47万円、それに舞台衣装の新調が
おまけとして付いてくる、審査の仕方はよくわからんが。

 で、このお話の優勝商品がスマホのケースに「鼠の国」での
カウントダウンライブの一枠、だとしたら参加料は10万円、
それとも100万円なのか、と下衆いことを考えてしまう。

 熊本のダンススクールできららのみきてぃが一枚噛んでいるところだ、
ということは「身体言語」の使い方やら物語の持っていきかたから
よくわかる、自分の「居場所」と「立ち位置」を見つけるため
苦悩呻吟して「新しい」「自分」の「居場所」と「立ち位置」を
見つけた、そして遠回りも悪くないよね。

 構造はちゃんと「行って帰って」ができていて、
ダンスもそれなりにキレキレ、しかしバランスが良くない。
「からだ」と「こころ」がうそをついているとセリフが聞きにくい、
否、セリフが聞き苦しくなる、それだけでしんどいのに、
「ロリ趣味」が好きじゃない自分にとっては見ていてすごく苦しかった。

演劇ユニット永久磁石

 また、改めて「ゲド戦記」全巻セットを読みたくなってきた。
というか、「世界」はこういうふうに「終わっていく」のだろう。
構造はF's Companyの「ロン通り13番地」のスピンオフ、
「ロン」という「人体」をベースにした「人工人間」が何らかの形で
無人島に「存在」している。

 さらに言えば、究極の性能を持った人工人体は
「男性性」と「女性性」というものの並立、両存を
可能とするのかもしれない。
おまけにいろいろな意味で「遠く」まで見渡せる。

 故に、何らかの事情で忌み、嫌われ、ここまで流された。

 ある日、醜い生き物が流れ着き、この人体に恋をした。
というか、この醜い生き物も「人工人体」のなりそこない。
このふたつの「醜悪なれど、悲しきいきもの」たちが
「男性性」とは、「女性性」とは、「人間性」とは、というものを
考えるように仕向けられ、結局、「国家」というものが
あらゆる「性」を「規定」している、この窮屈さを皮肉っている。

 この窮屈さがひどくなったから、どこかへ行って、死んで、
その結果「国家」というものが破壊され、分解したんだよな。

 がだ、ある年代、世代には刺激が強いお話だ。
この回のお客さんはほとんどが2番目のアイドル甲子園の
関係者、子供と、その親御さんで性や社会システムに関して、
ある意味保守的だ。
そういうところに関する「嫌悪感」があったのかな。

 「ある棋士の肖像」を持ってきたほうが・・・うーん、どうだろう?

DO GANG

 取り合わせが人間と「ネコ」という名の「犬」、
そして「人間ビートボックス」という形で「掴み」はオッケー。
更には男の名前が「偽男」と書いて「ブラフマン」と読ませる。

 ・・・流石、徳富蘆花、徳富蘇峰の血を引くなんとやらだ。
所謂「自宅警備員」を拗らせてパソコンのスキルは知らない間に
身につけてはいたが、「世の中」に出るのが怖いので、
この培った技術をどう活かしていいかわからない。
おまけにこのへんてこりんな「名前」のせいで余計に苦しい。
だから、とにかく死にたい、死なせてくれ。

 それを受ける「ネコ」という名の「犬」もなんか説教臭い。
もしかしたら、これが「ハラッサー」と呼ばれる
「善意をまとった悪意」というものかもしれない。
この善意と悪意が入り混じった感情で他者の人生を云々されると
私の心は「バカヤロー」と言いたくなる。

 生きとしいけるものにはそれぞれ「目的」があって、
この「目的」に息をするように取り組んでいるものだ。
それを「努力」とか「才能」だとか「苦労」という言葉を
「介入」させてしまうから人生が余計ややこしくなる。

 この「ややこしさ」を見続けてしまうと、なんだか腹立たしくなる。
まずは外に出て、生の人間にぶつかれ、繋がれ。
・・・話はそれからだ。



劇団ヒロシ軍

 こういうお話は、男にとって心が痛いのです。
インターミッションの時、心と体を温めているところから
「演劇」というものをおっぱじめているよ。

 「演劇」を諦めた男と「演劇」にしがみついている女のお話。
このふたりが交わる場所がある小さなTV局のTVショッピング
番組の制作現場。

 こう来ると、宍戸錠の自伝「シシド-実録日活撮影所」を
彷彿とさせるお話の作りだ。
どんな世界、どんな仕事でも「立ち位置」や「居場所」の数には
限りがある、この限りある場所を力ずくで取りに行かなければ
どうにもならない、そのためには「戦略」も必要になる。

 そうなると、生きる、とは相当過酷なのかもしれない。
向いている、向いていない、と自分で判断するよりも
「仕方なく」やらなければいけないことでも懸命にやるしかない。

 その懸命にやった結果があの「すれ違い」だった。
さらには女はあの場面で最後の最後に「女優」を見せた。
なんかくやしくて、切ないわ。


【予選Bブロック】

熊本大学演劇部

 「味噌汁のお椀」という小宇宙ですか。
ここに「外国人」、「男子同性愛」という「見えない差別」と
「一味違う三角関係」というものをぶち込んだ、という趣。

 ふつう、冷たい味噌汁を「意図的」に作ることが出来るか?
できるとすれば生まれてこの方母親の料理の手伝いをせず、
家庭科の授業も受けず、ひたすら受験勉強して「他人」が
作った「ご飯」しか食べたことのない人なのだろう。

 そういう「世間」というものを全く知らない人間が
地球滅亡の危機に際し、冷たい味噌汁椀が「ノアの箱舟」となって
彼らを救ったものの、「三角関係」のバランスを保つため
前にも後ろにも進めない。

 このカオス感をギターとカホンを使って、「ABCヤングリクエスト」とか
「MBSヤングタウン」、「ヤングおーおー」を彷彿とさせるリズムで
表現はできているが、「第七インターチェンジ」がよく使う
「フリップ芸」はこの狭い空間には合わない。

 まあ、「一度壊れなければ」わたしたちは「新しくならない」という
「宇宙の真理」にまで行き着いたことは良しとしよう。

劇団鳴かず飛ばず

 初めて「アウェイ」でたたかう「緊張感」なのだろうか、
なんか心と体がカチカチになっている。
おまけに「時間」というものをうまく「コントロール」できているのか
できていないのか、正直分からない状態で板の上に入る。

 ・・・打ち合わせの段階で「この音の後に演技面入って設営ですよ」と
言われてはいるのだろうが、その「段取り」をすっ飛ばそうとして
我に返る状況があった。

 けれども、全てが暗くなり、「自分たち」の光と音が掛かれば
「遊びごころ」が満載のエンターテイメントをガチでぶちかましやがる。
福岡にかつてあった「ぎゃ。」という女の子だらけのエンターテイメントを
ガチでやるところは時折ファンタジーやらメルヘンを混ぜるけれど、
鳴かず飛ばずは「お客様を楽しませる」という点でガチを仕掛けてきた。

 まあ、江戸時代、徳川、というシステムによって
「目出度い熊本、哀れな鹿児島」という扱いを受けていた。
それくらいえげつない「差別」というものの陰を鹿児島は持っていて、
年に一度の「鹿児島演劇見本市」の中でもこういった「差別」を
極めてソフトに扱った演目がよく見られるのです。

 この文脈で「俺達は哀れなんかじゃない」と差別を逆手に取り、
・・・鹿児島が泣くから「鹿鳴館」だと?今度は俺達が熊本を
キャンと泣かせてやるわ、と言わんばかりに時空を自在に
行ったり来たり、弄り弄られ、反発心と反骨心の圧も凄い。

さらには、宮崎メディキットの搬入口近くにある銅像の人、
「川越進」にまつわる「宮崎県、鹿児島県から分離、独立を果たす」話
まで持ってくるものだから、正直ぶっ飛んだ。

 名刺代わりの強烈さは残した。
がだ、熊本のこういう「因縁」を知らない人はマジで引く内容。
私はここに戦慄してしまった。


with a clink

 これを見て、わたしはきたむらあかねという人間が
いけだみきの「演出助手」として重用されている、という事実を納得した。
多方面で彼女の仕事ぶりを聞く機会があるが、「音」と「身体言語」、
そして「立体空間」の把握とイメージの保持能力が秀でていて、
付いた名前が「人間USB」とのこと。

 自分も、これから演劇スカウティングの合間に「演出助手」の
仕事をする機会があるのだろう、がだ、そうできるのかとても不安だ。

 そういう人間USBが「演劇作品」を作ったら、あまりにも圧倒的すぎる。
「音」と「身体言語」、「立体空間」に対する
「心地良い」と「心地良くない」の「基準」に全くもって「ブレ」がない。

 もし、山下久美子が中島みゆきの「夜会」とおんなじことをするならば、
こんな風にやるのかな、というくらい音と詩がしっかりしている。

 さらには、音と詩に対して皆のからだが素直に動き、
おまけにrockな隠し味が効いている。

 「ブレ」がないから「本」を巡る冒険、「欠けている」と「満ちている」、
「未知と既知」、という「言葉の海」をこれでもかと味わわせる。
そして、現実は「貯水タンクから水が溢れ出た」というオチまでつける。
ああ、実際に「言葉の海」に入るとこんな感じなのか。


純白奇劇団

 ゆーこねえさん、ぶっ飛んでる。
こらまた、「第七インターチェンジ」が「品川心中」で
演った「落語・改」をさらに過激にして「お血脈」という
演目を演る、という趣。

 いや、まあ、ゆーこねえさんって「女王様」気質があるねんな。
出し受けする関係が長く続いてはいるが、そんな一面見せたことない。
さらには「出囃子」が「鼠の国」の「電光行進」で掛かるあの曲ですわ。

 そうして、噺家が座布団の前に座り、手ぬぐいを傍らに、
扇子を座布団の前において「結界」を作るか、と思いきや
いきなり子供劇団とのなんだかんだというマクラに入り、
「身体」を使ったくすぐりから気がつけば本題に入る。

 落語とは「結界」を自由自在に動かすことが芸の売りとは聞いたが、
ここまで「結界」をぶっ壊して、落語の「お血脈」という演目を使い
現代が抱えている「罪」や「毒」を混ぜて加えて、徹底的に
カオスにして「遊びまくった」らこんな具合になりました、と
顔中、体中絵の具まみれ、汗まみれで言われると、何も言えない。

gojunko

 最近、「形」というものに対して考察を深める機会が
ラベルの「ボレロ」を通して持つことができた。

 まずは「日本舞踊」と「ボレロ」のかけあわせ、に衝撃を受け、
次はこの元ネタである「野村萬斎+日本舞踊」と「ボレロ」の
かけあわせをYouTubeで見て、そうなると「シルヴィ・ギエム」の
「ボレロ」、とうとう仕舞いには元版たる「マイヤ・プリセツカヤ」の
「ボレロ」にまで行き着いてしまった。

 こうやってひと通り見て、感じたことは音も、身体言語も
「限られたパターン」の組み合わせで見せて、効かせて、感じる。
ポイントはただ一点、「何か」と「常に接合」するということ。

 「演劇」だと「物語」に接合することになるのか。
そうなると「誰にも愛されなかった」が
この炎のような「運命」を引き受けて生き続けなければいけなかった
「女の一生」という新しい解釈としての「ボレロ」が生まれた。

 まさしく、曽田正人の「昴」、宮本すばるとプリシラ・ロバーツの
「ボレロ」を通して「魂レベル」で「邂逅する」感覚が
「腹違いの姉妹」を通して伝わり、最後は「カノン」を重ねて
「不幸な一生」を生き抜いた「魂」を浄化させやがった。

 がだ、流産、死産はデリケートな領域、自分も上の妹に
降りかかった出来事をうっかり思い出し、吐きそうになった。


 諸事情により、本戦は見ることができなかったが、
え?最後の最後で意外な展開になってしまった。

 開会式に抽選で決めた順番の綾?客層の違い?
違う訴求力の差なのか?・・・もやもやは残る。

 正直、今年はwith a clinkが獲るか、と思ってた。
そしていけだみきから堂々「暖簾分け」をして
本格的に「広い世界」へ戦いに行く、そう信じていたのだが。

非・売れ線系ビーナス 「そう遠くない」

「多くの議論」は「ひとつの現実」の前では、とても敵わない。

 宿の中、もんもんもんとして、朝ごはんを食べるタイミングをしくじり、
料理が出てくるタイミングに少し苛立ち、大急ぎで食べて
大急ぎで宿を出て、交通センターに向かい、熊本から長崎行きの
バスのチケットを戻して、福岡からの長崎行き高速バスの手配をし、
前もって確保していた帰りのチケットを出して、福岡行き高速バスに
乗ろうとするが、時刻間違えのミスに気が付き、正しい時刻に変更して
ようやらやっと高速バスに乗る。

 ・・・新幹線ができたせいか、水前寺、益城、特に合志方面から
客がぞろぞろぞろと乗り、なんかきっついなぁ。
きっつい中、天神にたどり着き、西鉄電車に乗ってタブレット開くと
ある方面から昨日のdengekiについて、「助けて」コールが入る。
それを受けてレポートの内容をほんの少しだけ書いてお出しする。

 ゆえに歩いて、家に帰ると、誰もいなかった。
浴室乾燥機だけがウンウン唸っていて、とりあえず洗濯ものを
出して、汗を拭いて、パソコン立ち上げてデータを移して、
ご飯を作って、食べて薬を飲む、2時間ばかり寝て、
再び天神、そして長崎へ向かう。

 大雨、というか、なんというか、天神辺りがひどく混んでいて、
渡辺通を南へ向かい、清水の交差点を曲がると半道橋、
そこから都市高速に乗って、九州道、いつの間にか暗闇になり、
気がつけばもう長崎。
用事をして、バスで宝町のポケットシアターへ。

 炭酸水飲んで、雑談して、中に入ると、
いつものように、いつもの「喫茶店」が「ぎゅっ」と詰まっている。
初演のとき、よくものを見ていなかったせいか、
壁に「野間大池の会」のポスターを初めて見つける。

 そういえば、初演のときは「歴史的な経緯」がよくつかめず、
「恋するマリールー」を見て、ようやらやっと
「ひとつの流れ」を掴んだ、ということに気がつく。
気がつくと、前説を兼ねた物語のさわりのさわりが。
勧められるがままにチラシの束の中にある茶封筒を
手に取り、その中にある「野間大池の会会報」を見る。

 さて、このお話の肝は「福岡」対「博多」の内戦に
那珂川町と佐賀県がちょっかいをかける、という構図。
まずは市町村制度ができる時に「福岡市」にするか、
「博多市」にするか、という問題を「後ろについている方々」が
ややこしいことにして、結果血を見ることに。

 これが「糸島地震」の救助・支援問題を引き金に、
「平和火事」という「仕掛け」が煽りに煽って、
佐賀というか、「筑後」の財力を背景にした那珂川が
油山を攻め落とした、そして占領。

 この占領状態を打開するため、「野間大池の会」が結成され、
解放運動が始まり、政令指定都市になって南区は返還された。
しかし、油山には基地は残り、各区には「自衛組」と呼ばれる
半官半民の軍事組織が組織され、「血のどんたく」や
「マリールー」に代表される「爆破テロ」にまで
問題が先鋭、陰湿化している。
そして、「ロビタ」と呼ばれるヒューマノイドロボット誕生。

 ・・・それから30年のちのお話がこれから始まる。 

 ふう、前置きが長くなっちまったい。
がだ、この「戦争」の「コンビニエンス化」を語らずして
このお話は語れない訳で。

「戦争のコンビニエンス化」というものは、あなたが今、ここで息を
している時、その近くで誰かが「殺され、傷ついている」、
故にあなたもいつか、どこかで「殺され、傷ついてしまう」のかもしれない。
そういう「綱渡り」の日常を知らないうちに生きている。

 さらには「電子マネー払いによるポイントバック」などにより、
知らない間に二重三重の「監視」を受けては居るが
日々、たんたんと生きている人々がそこにいた。

 「問題」から30年以上経過すると、いろんなことが「本当」から
かけ離れて、なにか違う「問題」へと変質してしまうのかもしれない。
「デモ」は「オナニー」ではなかろうか、という疑問や
「選挙」は「投票する」ことに意義があるのではなく、
「棄権する」ことに意義がある、という異議。
「活動」が何かを「伝える」ものではなく、
「出会いの場」になっている、という希薄化。

 それでも現実は「ハラッサー」による嫌がらせや、
「ハラッサー」から進化した「レイパー」や「サディスト」に
よる精神的、肉体的な「侵略」はより激しさを増し、
これらの被害によって苦しんでいる人は更に増え、
「ハラッサー」は当然のことながら「レイパー」や
「サディスト」は「強いもの」に守られているから
反省する気もなければ、罪を背負う気もない。

 そういう現実の前では、性善説だとか、性悪説だとか、
革命がどうのこうの、だとか、議論しても虚しいよな。
ああ、これが「離間戦略」というものに繋がるのか。
そして、「離間戦略」というものによって、社会と
民主主義が壊れてしまったのか。

 このことを亀田一郎の孫娘は喫茶店のカウンターから
ずっと見ていたのかもしれない、中立・人道的な立場として。

schop 「屋上庭園/かんしゃく玉」

「器用に世の中を渡っている」人たちに
囲まれた「不器用な夫婦」が持つ哀しみとやるせなさ。



 まず、最初の予定として、熊本「dendeki」の予選2セットに
行くことを決めた、土曜日だから。
その話を決めたのがちょうど鹿児島でぶっ倒れる前。
・・・事実非売れ「そう遠くない」は熊本でもなく、長崎でもなく、
沖縄で見たほうが「ひとつの何か」を掴めそうで、そういう予定にした。

 現実は心と体がギリギリまで追い詰められて性も根も尽き果てた。
流れで休養のち、リハビリ、という流れなのだが、土曜日曜祝日が休み。
そうなったら日曜日に非売れを長崎で見る予定を入れて、
こうなったら交通手段はバスを使おう、例のフリーパスで。

 月曜日、別府の温泉保養もいいかな、なんて思っていたら
ちょうど父の一周忌、だったら金曜日しか動けないじゃないか。
どうしよう、と夜中悶々と考えていたら北芸でスコップがある。
てなわけで、金曜、土曜、日曜の日程になった。

 さて、久しぶりに北九州芸術劇場「創作工房」の中に入る。
わたしが福岡舞台計画から外に出て、演劇で「居場所」と
「立ち位置」を探しに行くために、通った場所。
あと、熊本のDRINKとそこから派生したGKKも。

 いまは、わたしにとっての「居場所」や「立ち位置」はどこだ?

 「岸田國士」って、現時点で「居場所」や「立ち位置」のない
極めて不安定で、危ういとことに辛うじて立って、生きている
だが、親のお金で食うには困らない「高等遊民」の男や、
これまた「居場所」や「立ち位置」に困る結婚したての若い
「夫婦」の機微を表現するのが旨い、という印象。

 その印象をちょうど半年前、鹿児島のLOKEというところが
「葉桜」と言う戯曲と「屋上庭園」と言う戯曲を「にこいち」に
してから、ふくぞのさんという女性の演出を使って見せた。

 さて、今回は、「葉桜」の代わりに「かんしゃく玉」と言う戯曲と
「にこいち」にして、りきぞう、という「身体言語の引き出し手」が
どういう「人生」と「化学変化」を見せていくのだろうか?

 そんなことを考えていたら、いつの間にか
演者がそろそろと控えに入り、「人が死んだ」あとの
ざわざわ感を多少なりとも抱えながら物語が始まる。

【屋上庭園】

 「死ぬこと」でしか「活路」を見いだせないヤバイ状況も存在する。
さらには、本当に状況を「死ぬ」ことによって打開した「何か」が
屋上庭園のどこかに「へばり」ついている。
そのなかを「勝ち組」夫婦と「負け組」夫婦が並んでやってきた。
「風の音」なのか、「荒涼たる心の音」なのか、ビール瓶を笛にした音が
どろどろと鳴っている中に。

 「欲」がないのも、またひとつの「欲」というのだろう。
そうなると、世の中、騒ぎすぎだよ。
「セレブ」なんていうけれど、そういうの、みんな「掃き溜め」のなかに
いる「高等遊民」じゃないか、そしてこの「高等遊民」から落っこちて
居場所もなく、立ち位置もない、故にどうしたらいいかわからず、
されど、妻と言う存在を食べさせていかなければいけない。
がだ、「良い友達」ってなんなんだろう?

 逆に「信じて待っている」妻だけがいるから男はその妻だけを
信じて、新しい道を歩くように生きていけばいいんじゃね、と思うのです。

【かんしゃく玉】

 この戯曲、単体ではものすごく短い。
故に「演者」を「裏表」ひっくり返して同じ戯曲を演る、というのが
「北九州の流儀」になりつつある。

 今回の「表」はメインの女の持つ空気感、
台詞の出し方が「異国感」というものとしてものすごくなっている。
もしかしたら、中国、もしくは琉球から何らかの形で「東京」にやって来て
ある男と「偽装結婚」をしているのかもしれない、という感じだ。
故に女を「利用する、利用される」という関係がある
ところに「地下組織」の臭いがしっかり残っていて、
その地下組織が女を使って情報を盗ろう感がうっすらと。
・・・それを感じた男は面白くないよなぁ。

 と感じさせたところで「裏」に入る。
てか、じじの「美人感」が半端ないわ。
この「美人感」をうまく使いこなして「性的に」男を誘う、
誘った「お礼」として旦那さんに食べさせる高級なお肉を
誘った男に「買わせる」、その一連の動きに「説得力」がある。

 てか、「説得力」のある「美人感」はある意味「売春」の
誘いすら「運んで」来る、「カフェ」という「置屋」をやれ、だの
高名な老学者の「お世話係」をやれだの、みんな「からだ」に
いや、「セックス」に関係していることばかり。

 まっとうに生きていたいのに、まっとうではない手段でしか
「生きること」ができない、モラルに反して生きていくのは
すんげぇキツイよな、だからインモラルに直面した時
この夫婦はかんしゃく玉をバチバチ言わせるのだ。

 がだ、あまりにも世の中がインモラル過ぎて
かんしゃく玉が足りなくなった、そして「思い出の品」である
「ヘチマコロン」の瓶にまで手を出そうとするが、思い留まる。
・・・良心は最後の最後に残っていたか。

WET BLANKET 「神威-KAMUIー」

新しい「切り口」で「もうひとつの歴史」というものに向きあってみる。

 本当に、腰、というものは抜けるし、火を噴いてしまう。
この演目の初演時、行くことを決めていた日の午前中、
働いていたら、変な体勢でものを持ち上げるとすっぽりと。
まあ、明日には痛みが収まるだろう、なんて考えたら
甘かった、結局行くことができず、大変残念だった。

 時は流れて、ちょうどいいタイミングで、しかも混みあうことで
変なストレスを感じることなく、興業的にはしんどいけれど、
程よい見手の密度で物語を見ることができそうだ。
熊本で薬を忘れ、脳疲労が酷い状況を何とかしながら
福岡へ帰り、休んで長崎、深夜にまた帰り着き、父の法事
以外は脳みそが完全終了、という身にはありがたい。

 表演空間は物凄くシンプル。
シンプルであるがゆえに「アクション」という「身体言語」という
この劇団の「持ち味」を十分に見せてやる、という心意気が伝わる。

 それにしても、ロングラン、というものはクセモノだ。
お客さんが入る日もあれば、入らない日もある。
その「差」というやつをどうやって詰めるか、特に「3連休」明けの
翌日、というものの集客が一番大変だな。

 そんなことを考えていたら、もう本編。
この劇団の前作がつかこうへいの「新・幕末純情伝」という
ある意味、「男性性」と「女性性」をシャッフル、というか倒錯させて
歴史と社会の「裏側」というところにへばりついている「差別」という
とても厄介なものを、彼らなりの「視点」で見せることができた。

 この出来事を踏まえて、今そこにある物語を見ていると、驚いた。

 ものがたり自体が「つかこうへい」が出した「問い」に対する、
Wet Blanketという「若者」が出した「お返事」であり、「ひとつの回答」
というものになっている。

 「この国」は「単一民族」ではなくて、「多民族」であることを
「忘れていた」のかもしれないという「答え」として。

 まず、基本構造として「森は我らなり」という「狩猟、収集」を
「生きるすべ」とする「縄文人」が存在して、その対立的存在として
「鉄は国家なり」という「農耕、工業」を「生きるすべ」とする
「弥生人」が存在する。

 このふたつの中間的存在として「人智を越えたもの」にアクセスできる
「出雲人」が存在し、「自然の守護者」として「山の狼」たる
「アイヌ」や「ヴィヒタ」をはじめとする「北方人」が存在する。

 「弥生人」が「鉄を作る」には「強い火力」が必要だ、
故に「木炭」がいる、その木炭を作るためには「縄文人」が
大切にしている山から木を「使わせていただく」ではなく、
「略奪」という形で手に入れる事が度々あった。

 北方人も北方人で、弥生人からの略奪から縄文人を
守ろうとしたが、成り行き上、ある縄文人夫婦を「殺して」しまった。
・・・それから時は流れて5年後。

 北方人は縄文人と共同体を作り、助けあいながら
「山」や「自然」と共に生きている、そこに手負いの「出雲人」が
入ってきて、「止まっていた時間」が再び動き出してしまった。

北方人は「もう殺したくない」いうてるのに、
出雲人は「新しい国のあり方」というものを考えているのに、
弥生人だけは「過去の成功体験」に取り憑かれて
略奪を繰り返そうとしている、そして出雲人から政権を
簒奪しようとしても、北方人が邪魔だと。

 で、弥生人は縄文人をだまくらかして北方人を誘い出し、
ここから「殺されなければ、殺される」修羅の世界が自滅していくさまと
山が持つ「愛」と都自体が持っている「愛」のふたつが重なるさまを
通して、「物事を変えていくためには大きな覚悟がいる」
「物事には良いも悪いもない、それは当人の心が作る」
そして、何かを「託す」ために自らの「命」を差し出すことも
必要になってくる、これらのメッセージをうまくアクションで見せていく。

 さて、鉄を作るにはこの時代、「砂鉄」というやつが必要だ。
「砂鉄」というものは、海で取れるわけで、次は「砂鉄」をめぐる
「海」の物語が見てみたい。

劇団Hall Brothers 「家中の栗」

「世の中」って、所詮「成功者」の偏狭すぎる
「エゴイズム」でしか動いていない。


 それにしても、「労働パターン」が変化していることに気が付かず、
日曜が休み、というか空いていたことに気が付かなかった。
いつものようにハンバーグ工場で働いていたら土曜に
北芸の「アリスのお茶会」から新幹線に乗って17時の回に
無理やり間に合わせようとしていたが、そんなことしなくて良くなった。

 けれども、そうなった大元が「見えない障害」というものを
抱えているがゆえに感じてしまう「生きにくさ」というものが
重なりに重なって、何とかしようとして普通より無理に無理を重ね、
無理という「労力」の割には稔りが少なく、現実に対し嫌な思いをして
さらに無理をして、結果無理に無理が膨らんでどうしょうもなくなった、
そういうことを考えると、なんか考えてしまう。

 それにしても、なんだか「おしゃれ」過ぎる表演空間やな。
バーカウンターのとなりには琉球畳、子供のおもちゃがそこかしこに。

 この「セカンドハウス」で繰り広げられるは、「家族」という集団で
いちばんできの悪い「存在」が「ご期待通り」に「しくじって」、
また実家に戻ってきて、その「処遇」をどうするか、
夜に「家族会議」を開く前の所謂「欠席裁判」を時間帯と
面子を変えて、3回行う、という趣向。

 だとしたら、この家族、なにかおかしい。
部屋のどこかかしこにアルコールの類いがごろごろ転がっている。
「ほんま、みんな、飲み助やね」となにもないときはワハハと
笑って済ませることができる。

 がだ、ひとり、というか、ふたり、さらにはさんにんの「今後」を
どうしていくか、下手すると生き死にに関わる大事なことを
考えるためには「リスク」というものを在るように掴み、
認識した上で、「まとも」なというか「現実的」な
判断をし、処置を高じなければいけない。

 なのに、アルコールを摂取することで脳みその感覚が緩んで、
「リスク」に対する考察、現状に対する認識が普通より狂ってしまい、
さらには、各々が心に「隠し持っている」本音がよりむき出しになってくる。

 「むき出しになった本音」って、かなり怖い。
そこに居るひとすべてが「ある意味」成功、というものを手に入れている。
だからこそ、この「手にいれている」成功に対する「方法論」に
とても、とても、すごいこだわりを持っている。

 これが「マイルール」というものの正体であり、
「根性論」というものの根拠は「圧倒的すぎる」ほどの成功体験、
その二つを不運にも持ち合わせていない人間にはとても暴力的。

 さらには、「家族の絆」だとか「自己責任」という偏狭なエゴイズムが
「常識」だとか「分をわきまえる」に代表される「美辞麗句」に化けて、
「家族というもの」が「皆を癒す」場ではなく「だれかを責める」
真っ赤に炭火が燃えている囲炉裏となって、ここに長男夫婦という「栗」が
今、ここに飛び込もうとして居る。

 真っ赤に炭火が燃えているなかに硬く殻を閉ざした「栗」が飛び込むと、
どうなるか、わかるよな?
この「三つ」の「話し合い擬き」で繰り広げられたあることないことという
「高熱」によって「栗」は「爆発」するよね?

 「栗」が爆発することによって、「成功者のエゴイズム」が
実は「現状がものすごく苦しくなっている」ということを隠し、
「本当に立ち向かわなければいけないこと」や「本質」から逃げる
「隠れ蓑」になっていることを明らかにする。
「だろう」という言葉はあえて、使わないでおこう。

 「隠れ蓑」によってこの場にいる皆は同じくらいの
苦しみを抱えるのかもしれない。

 だからこそ弁護士やさまざまな社会支援という
「第三者の援助」が必要になってくるのかもしれない。
・・・この「家」が閉じているからこそ。

北芸プロデュース 「《不思議の国のアリスの》帽子屋さんのお茶の会」

「縁」を繋いで、繋がれて、わたしたちは生きている。

 この演目のリーディング公演、出された座組を見て、驚いた。
よく、この面子集って、というか、引き寄せられてくるとは。

 この「事実」はわたしにとってどういう「合図」なのか、
この「合図」に対して、わたしはどう反応すればいいのか、
どのような「立ち位置」でどのような「役割」をやればいいのか、
この数ヵ月思案し、城崎温泉でこってり絞られて、様々なことに
ぐるぐるして、いろんなどん詰まりを感じ、休んで、整理を始めた。

 整理を始めてみると、わたしの「人生のテーマ」や「表現手法」、
「立ち位置と役割」、「今後の方向性」、いろんなものが見えてくる。
見えてくるとどう対応、対策していくか、色んな所と連絡して
手段を講じる日々が数ヶ月続いたわけで。

 そういうことがありすぎた後、久しぶりに北芸へ。
小腹満たしにクリスピー・クリームドーナツに入ると、
そこにただがいた、昨日、デルモーズ、予約リストに入っていたが
来てへんようやったけれど、言うたら来てた、とのこと。
てか、ぱっと見ではわからないくらい美しくなってきやがる。

 ついでに14+の「三人娘」は隣のスターバックス、テラス席で
大変かしましくやっていたし、まあ大集合、という趣だ。

 そういう喧騒をすり抜けてエレベーターに乗り、
6階の中劇にたどり着いて、中に入る。
座席の決まった位置に入り、回りを見渡してみると
種種雑多な人たちが客席に集い、今か今かと待ちわびている。
そのさまはまるで植生が各々異なっている「木」であり、
「木」が集うと「林」となり、「林」が集うと「森」となる。

 わたしたちは「客席」という「森」に生えている
「観客」という「木」となって「あり得ない場所」で繰り広げられる、
「あり得ないお話」を見る、という趣向。

 この「あり得ない」お話の肝は、アリスという一人の少女が
「不思議の国」に迷い込んですぐに起こった「お茶会」の場面を
「入り口」にして、「果てしないかくれんぼ・もしくは鬼ごっこ」
というものをおっぱじめる、という出来事を切れ味鋭いエンターテイメント
へと仕立て上げた、ということ。

 座組、というか「役割分担」は主だった「役割」を
「言語担当」と「身体言語担当」、もしくは「性格」という鏡の
「裏と表」、という形で分けて、混ぜて、カオスを作り出し、
「ひとつしか存在しない」眠りネズミと、謎の男が物語を動かしている。

 「不思議の国のアリス」というメルヘン、なのかファンタジーなのか
わたしは正直、わかりかねる物語を別約実とコンドルズの手にかかれば
「生きる」って、もしかしたら「ぐるぐる回り」を
永遠に続けていくことなのだろう。
このぐるぐる回りの中にはたくさんの「問題」が内包されていて、
それらを一つ一つ潰していかないと終わり=死ぬ、というものが
なかなか見えてこない。

 さらに言うと、今の世の中、こんなにめちゃくちゃなのは、
わたしたちが「終わらせたくない」とか、「死ぬのは嫌だ」と
「強情」を張ってしまい、「強欲」にまみれ、自身より偶々
いろんな意味で「弱い」立場の存在に「おわり」や「死」を
「押し付けて」、都合の悪いことやものから逃げ切ろうとしている。

 こう見ると、人間、という「いきもの」は「繋がっている」と見えて
実は「離れ離れ」で「孤独」の中にいるのかもしれないし、
「孤独」の中を生きていても実は「深いところ」で
「繋がっている」のかもしれない。
こういう主客がひっくり返る、内と外がひっくり返る中を
わたしたちは生きている。

劇団ルアーノデルモーズ  「夜にざわめき」

六次の隔たり。

 人、という「いきもの」は「6人、もしくは6通り以上」の関係を
「経由」すると世界中の人達と関係になる可能性があるらしい。
・・・事実、ツイッターやらフェイスブックというものが
「ブースト」となって「六次の隔たり」という現象を実感、というか
痛感することが多くなってきた。

 ああ、これが「パブリックな存在に成る」ということか。

 にしてもなぁ、いろいろなことがあって、ひとつずつ
「潰して」いくように解決するのに一ヶ月、
やっと今後の方向性ができて、今週から動かしていくように
なってきたけれど、連絡の不徹底で見通しを再度説明せざるを
得ない状況、まあ、何とかなったけれど。

 そんな状況からネットカフェで「喧嘩商売」の佐藤十兵衛が
「金剛」をマスターし、「煉獄」を入江文学と解析してパクって、
「無極」をマスターして「そうび」を増やしてさあ金田保戦、と
いうところまで読んでからハコに行くと、驚いた。

 いや、まあ、モデルさんですから、色んな所からえらく派手な
お花が仰山飾られの、客席の人も恐ろしいくらいに線が細いし、
その「細さ」に加えて、なんというか「魅せつける」お洋服やら
お化粧やらをしている人たちが仰山おったりして、
すんごい「アウェイ感」を常々感じていたところ。

 がだ、今回はいろいろな意味で恐ろしいくらい「地味」だ。
ハコ主が「アクティブ・ハカタ(テアトルハカタ)」ということで
逆にノアールが「アウェイ感」を恐ろしく持っていたのかもしれない。
ちうか、提携しているのかな、「アサデス。九州山口」の水曜日に
みよしみゆうと徳永玲子ねえさんだしなぁ。

 おまけに表演空間と客席を「ひっくり返して」、
「日常」と「非日常」をマーブル模様にしてさらには変則的な
「ランウェイ」というものを表演空間の中に作りやがった。

 ほう、今回は「ガチの演劇」という「文脈」で
「美しさ」と「格好良さ」、そして「綺麗」というものを
「見せていく」腹づもりなのか、客入れ音もすごくおしゃれな音を
「音圧高め」に聞かせて、「下ごしらえ」は十分出来ている。

 さて、物語的には「夜のザワザワ感」をテーマにした短編2本を
「ファッションショー」の「やり方」で「演劇」する趣向。
故に、「立って」、「居て」、「振る舞う」のキレが
演劇とはほんの少しだけ「異質」だった。

 まずは一本目、半ば高校演劇部の同窓会、みんなで集まって
ワイワイと飲んで話して、地区大会止まりだった演劇部が
たまたま県大会に進出して、たまたま九州大会に進出して
もしかしたら全国、という展開でたまたましくじって、という
思い出話から「何かを為す」ということは意外と「気力」と
「体力」、そして「胆力」が重要で、これらが三位一体となって
「緊張感」というものが生まれる。

 この緊張感が程よく上がらないと何も成せないわけで。
・・・程よく上がった緊張感は「社会の窓」ひとつ開くだけで
簡単に崩れてしまった、という教訓に雨の音が重なると
もう、すでに「何かが始まっている」ことにみんな気が付かない。

 さらには「信じられない」という言葉に「ポジティブ」な意味が
乗っかってくるのか、「ネガティブ」な意味が乗っかってくるのか、
「そこにいる」けれど、もう「そこにはいない」、あなたの「ポジション」は
これからずっと「空いている」、そういう情報を淡々と入れられると
・・・糞怖いです。

 男と女、もしかしたら「三角関係」かも、という「疑心暗鬼」というものが
膨らみに膨らんで、これが夜、大雨で増水した河川、という
「死への入り口」に誘われて気がつけば「知らないところ」に
行っちゃって、二度と帰れなくなった。

 ものの取りようによっては「わたしは選ばれなかったのだ」という
心理的なダメージを生きている側に与えてしまった、とも言うし
「死」、というもので「究極の愛」が完成してしまった、ずるい、とも
言わざるをえないくらい震えるお話だ。

 ・・・「始まり」と「終わり」のお話だと思ったらヤケドする。

 さて、二本目は「吸う」という「行為」に「ダブルミーニング」を
ぶっこんだらえらいことに成るものだな、おい。

 最初の姉、弟のやりとりから福岡、九州の演劇業界、
男子喫煙者は3割位、女子喫煙者は自分が知るところでは
やまえり、りえぞお、みずほねえさん、よんぱた、それくらいか。
本当は喉がパクパク割れるからよろしくないんだよなぁ。
こういうことをつらつらと思い出す。

 てか、みよしみゆうが演ってた役の名前が「みずほ」とは
川口さん、みずほねえさんをどっかで知っているのかもしれない。
喫煙者だし、ほとんどああいう感じで慣れたらすごく居心地のいい人だ。

 うーん、「夜9時起床、朝6時就寝」と昼夜がひっくり返っていますなぁ。
・・・「禁煙合宿」だったら普通逆でしょ。
もしかしたら「大麻断ち合宿」でもおんなじか。
「人の匂い」とか「血液型」とか、物騒なことをおっしゃっているところで
これが「吸血鬼」が「人間と同化する」ために「血を吸う」ことを
「我慢する」合宿だった。

 この「いきちがい」、「すれちがい」、「かんちがい」が
怒涛のようにやってきて、無邪気な人間が「事の次第」というものを
あっさりとネタばらしてあっさりと状況を破壊する。
破壊したらしたで、「世の中は広くて狭い」ところを見せ、
「己の甘さ」を自覚し、まあ、収まるところに話は収まる。

 ・・・吸血鬼は曹洞宗のお寺にぶち込んで納豆ご飯と
味噌汁、たくわん、それだけで血を吸わずに生きていけるらしい。

 「演劇の三大要素」がきちんとしていると「事の次第」が
じわじわ、ざわざわと見えてくるのだな、あとは「出来事」という
「爆弾」の使い方やね。
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itumo25254you

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