福岡演劇工房「黒んぼと犬たちの闘争」

「孤独」を拗らせ、「痛み」を荒みに変えてしまった人間の悲哀。


  ここの親分は「スタニスラフスキーくん」といつもわたしは呼んでいる。
彼は、どういう人生を生きてきて、どういう事情で演劇という「芸術」を選び、
どういう経緯でヨーロッパ(特にロシア)に渡り、
そこの演劇を勉強して「スタニスラフスキー・システム」というものを
体得して、この福岡に「流れ着いた」のか、まだまだわからない。

 故に、わたしは会うたび、会うたび、彼が「わからない」から
スタニスラフスキー・システムと「公立の演劇学校による俳優教育」とか
に代表される、要するに「カタカナ」の「エンゲキ」に「固執」して
福岡の演劇業界に顔を出すたびに喧嘩を売りまくっていたことが、
正直、理解できなかった。

 たしかに、「スタニスラフスキー・システム」とか
そこから派生する「メイエルホリド」、「マイズナーテクニーク」、
その他、たくさんの「カタカナ」による、「エンゲキ」を学ぶことも
すごく重要だ。

 けれども、わたしたちには不完全ながらも先人から培ってきた
「ひらがな」の「えんげき」や「漢字」の「演劇」という「芸術」がある。
その「不完全」や「至らなさ」を抱えて昨日よりも、今日、今日よりも
明日、と日々、たたかっているのだ。

 それを理解する以前にスタニスラフスキーくんは
「私は”世界基準”を学んできたのに・・・」というオーラを
振り撒きながら、「自分」を懸命に伝えるに夢中で
他者の話を聞かない、聞こうともしない。

 聞かない、聞こうともしないから「混ざる」ところと
「混ざらない」ところを知りたくないのか、知ろうとしないのか、
故に、スタニスラフスキーくんと場を共にすると
気分が甚だよろしくなく、ぐったりと疲弊してしまう。

 そういう経緯があったので彼が「福岡演劇工房」というところを
立ち上げ、最初のリーディング公演に行けなかった。
そして、やっと「本公演」というものを打つ。
それでも、行くか、どうか迷っていた。

 心も体もすごく疲弊しているし、あとお金も。
「演出家協会」の「無料観劇斡旋」にもなかったし、
どうしようか、と思ったらオフィスから斡旋が来て
オーダーを出したらすんなりと通って見に行くことに。

 まあ、武装解除というものをして甘棠館に行ってみると
「家内制手工業」で「演劇」というものをしようとしている。
スタニスラフスキーくんの両親がなんだかんだと動きまわり、
そこに、受付兼ホタルさんが色々と準備をする。

 よく訓練された・・・と言いたいが開場の声掛けが
「周りに迷惑をかけない」というか「ささやくような」小さい声で
やるものだから、少し戸惑ってしまう。

 表演空間も凄くシンプル、ほぼ素舞台の隅っこに
目立たないように机と椅子、そして手元を照らす小さいライト。
「無音の音」に耳を澄ませているとスタニスラフスキーくんの父が
前説をたどたどしくやり、逃げ場が塞がれて暗くなる。

 隅っこにある机と椅子にスタニスラフスキーくんが「演出体勢」で
座り、その後、静かだけれど、「美しい」リズムで男と女の演者が
板の上に入り、物語がゆっくりだけど、激しく動き始める。

 場所は西アフリカのとある国のとある「公共事業」の「建築現場」で
「誰か」が「現地人」を車で轢き殺したのか、うっかり撃ち殺したのか
そういう「事故」という「事件」があり、その「兄弟」が遺体を
返してくれ、金はいらないとお願いに来る。

 ここに、「現場監督」という不具で年をとった男が「婚約者」という
「女性」を母国から連れてきた。

 さらには「現場監督」の下で働いている「自意識過剰が肥大した」
若い「白人」男性が絡んできて、「立場」と「役割」というものが
「わたし」と「他者」と「異者」という三つ巴の関係を作り出し、
それぞれがそれぞれの存在をどういう風に「扱い」、どう「生きよう」と
するのか、というところをスタニスラフスキーくんのある意味
「味のある」セリフ回しでじっくりと見せている。

 そうなると、戯曲の中にある「フランス領の西アフリカ」とか
「フランス人」とか、「アフリカーンス」という物語を規定する
「枠」がいつの間にか取っ払われていて、芯の部分である
「差別」とはどういうものなのか、なぜ「差別」というものは
起こってしまうのか、そして「差別」という行為の行き着く先に
何が残るのか、という問がはっきりしてくる。

 まず、「母国から遠く離れて」という「孤独」が
それぞれの「底」にあり、「孤独」という「時間」が長ければ長いほど
抱える心の重さによって心は拗れてどうしようもなくなる。

 こじれてどうしょうもなくなった心の「痛み」をどうにかするために
酒に呑まれる、金に取り憑かれる、そうすることで痛みは和らぐが、
「荒み」というものへと変化して「狂い」へとつながる。

 若い「白人」男性は年取った不具の「現場監督」の
「奴隷頭」に成り下がることで「孤独」を埋めようとしたが
「こんなはずではなかった、私はもっと出来る」という形で
「孤独」をこじらせ、酒に呑まれる、「現地人」を見下げてすぐ殺す。
・・・結局疎まれて自分も殺された。

 「現場監督」の婚約者は彼女に関わる「差別」に疲れて
「新天地」たるアフリカにやってきたけれど、「現場監督」の
「静かなる拘束を受けることによる高い報酬」と引き換えに
「婚約者」という「奴隷」になってしまった。
けれども、「現地人」の持つ「無垢の魂」と「深い教養」に
惹かれて、「本当のわたし」に目を向ける。
そして「アフリカの土」になろうと決心をするが・・・。

 「現場監督」は「不如意」の痛みを「荒み」に変えて、
それを強調することで何処かから「大金」をせしめ、
この行為に味をしめて着服や横領をしていた、
母国の会社は何も知らない。
そして「全て」を知ってしまった人々を手を下さず殺して
「孤独な王」になりつつある。

 この「心理的構造」の外にいる「現地人」は単純に
「兄弟」の遺体を地元の村に「帰らせて」、地元の土に
「もどしてあげたい」、ただそれだけの理由だった。
・・・だから「お金はいらない」、出てくるのを静かに待つだけ。


 結局「努力」とは「奴隷」になるためにやることなのか?
「自由なわたし」を手に入れるための「為すべきこと」に
「努力」という言葉は間尺に合わない、別の言葉を当てなくては
という考えをより強くするところまで「煎じ詰めて」いる。

 なんか、最近のわたしたちは「異者」だけでなく
「他者」すらも「拒否」や「拒絶」をしようとしている傾向が多々ある。
それぞれが持つ「良さ」や「素晴らしさ」を「理解しない」まま
人生を過ごし、終わらせるのは実にもったいないなぁ。
 
 それだからこそ、うーむ、「スタニスラフスキー・システム」って、
何なんだろう、と思わず考えてしまう。

 戯曲が持つ「作者が本当に伝えたいこと」を「背景にある思想」や
「場所が持つ空気感を始めとした情報」、演者それぞれが持つ
「元来のキャラクター帯域」などを「ノイズ」として捉え、調整して
一字一句「正確に」見手へと「伝える」手段として捉えたらいいのだろう。

 だとしたら、その文脈で「使いこなす」ことができていたのは
おーたさん、ただひとりだけ。
あとの演者はシステムの「奴隷」になっていたのか
からだがシステムに囚われすぎて言葉がお留守になったり、
なんていうか不思議な「エンゲキ」に変化していた。

 スタニスラフスキーくんの今までの心のありようを
「表す」ためにこの戯曲を選んだ時点で「ドキュメント」という
見方をしてみるのもあり、なのかもしれない。
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万能グローブ ガラパゴスダイナモス 「ボスがイエスマン」

「蟻地獄」から。

 イムズホールでの「星降る夜になったら」を見て以来、
わたしの眼の前に「変化」というものがじわりじわりとやってきた。

 父がどこか「遠いところ」に行ったひと通りの出来事が
その後に「ナイスコントロール」で不思議な感覚を伴って重なる。
・・・というか、INDEPENDENT:FUKでのしいきっつあんが
演った「ヴァニシング・ポイント」そのものがあの父の「半年」と
重なってくる、とても、とても考えさせられる。

 演劇の仕事でも、「厄介な方々」がより福岡の演劇業界に
「戦争」を仕掛けてくるから、こりっちに今まで書いたレポートを
全部消去して、自分のメディアを立ち上げて、演出者協会の
ドイツ演劇特集、ブレーンストーミングでいろいろな発見をし、
それに伴い、わたしの新しい立ち位置が少しづつ固まりつつある。

 固まってくると、今まで通ってきた芸工大講座から
派生してきた「舞台作品を作る」プロジェクトに参加したり、
城崎温泉劇作家大会でウンウンいいながら平田オリザ氏に
食らいついて、「納得して動ける言葉」を作ったり、
その縁で劇作家協会に参加した。

 そういう風にバランスを崩したことが多々あって、
ハンバーグ工場の仕事で人間関係が元の疲弊感を強く感じ、
この疲弊感を消すために正直、演劇と、お酒に逃げた。
結果、金銭面の問題やら何やらを抱えてしまい、
気がつけば精も根も尽き果てる。

 その前に「馬鹿野郎、そこは掘るな」の見学のち、
なんだか、自分に自分で無性に腹が立っていた。
・・・何やっているんだ、俺。

 というわけで8月末から9月末までハンバーグ工場の仕事を休んで
金銭面の問題や精も根も尽き果てたことを解決するため、
色んな所を駆けずり回りながら休み、10月から11月半ばまで
もう一度手元に集中できるための訓練をずっとしてから、
そして、またいつもの日常が帰ってきた。

 さて、初演はぽんプラザホールの客席、
一番後ろがバルコニーになっている、という「特殊」な形を活かすため
いつもの「表演部分」を客席にして、六本松にかつてあった
「九大小劇場」のような客席の勾配を甘めにして、
奥行きで「見せる」、客席部分に表演部分を
仮設して、何かの「ファクトリー」の持つ空気を持つ作りになっていた。

 今回の再演はまどかぴあ大ホールのステージ上小劇場。
初演時よりも客席の角度、甘くない。
そして、ファクトリーというか、アトリエをいちから作っているので
椅子とか、テーブルとか、楽器の配置、壁の所々に
貼ってあるポスターや「お絵描き」、床の塗料汚れ、
エンタメがところどころに溢れるものごっつい空間。

 さらに、すり鉢状の底から「覗きこんで」見たら絶妙な位置に
クリスマスツリーが飾ってあり、絶妙な光の塩梅。
この塩梅具合が「現状、光が当たらない、当たっていない、
けれども、何時かは、光の当たる場所にたどり着き、
自らがまわりを照らすほどの光になりたい」という強い思いが
この角度から見えてくる。

 いろんなことを考えていたらもう本編だ。

 このお話の基本線はとある「芸能事務所」のいわゆる
「落ちこぼれ組」と言っていいか、言葉に悩むけれど、
この事務所で「居場所」をなくした面子が大切にしてくれている
マネージャーを頼って「別の居場所」を作るため「独立」をした。

 けれども、待てど暮らせど肝腎のマネージャーが来ない。
「来ない」苛立ちと「このままで大丈夫だろうか」、
「これから大丈夫なのだろうか」という不安が重なって
ただでさえ「密室」な空間がより「密室」となるある意味コメディ。

 コメディと見せかけて、実は結構深い「人生」の考察になっている。
タレントさんに限らず、「プロフェッショナル」という
「人様に何かをして、お金をもらう仕事」をする世界は、
「わたし」という「なまえ」が「パブリックではない」状態は
「一山いくら」という扱いしかしてもらえない。

 基本的にこういう「一山いくら」扱いは人間的にも、
金銭的にも恐ろしく辛く、しんどい。

 こういう時は「もしかしたらわたしには才能がないのかもしれない」と
思い込んでしまい、次は、「才能のある人に憧れ、嫉妬して、憎悪を抱く」と
いう状態まで感情がエスカレートしつつ、もがいてじたばたして、
それでも前に進まない。

 なぜだろう?というぐるぐるまわりになってしまう。

 事実、自分も演劇から改めて人生を始める前、そうだった。

 福岡舞台計画でとびうめ国文祭での公演をやりこなして、
「あなたは演劇という場所に居ていいんだよ」と言われて、
北芸の関連事業に参加して、選考会落ちまくって、
その途中に熊本DRINKで「戯曲を読む」ことを教えてもらい、
熊本で演劇の勉強を始め、平行して人生を再編成し、
こりっちにスカウティングレポートを入れることをやり、
最初のGKK後にハンバーグ工場の仕事を始め、
次のGKK終わって、わたしの「なまえ」が「パブリック」になった。
・・・気がつけば、そういうぐるぐるまわりから抜けだしていた。

 このひととおりの流れを体験した、というか、実感した。

 うん、頑張っても、頑張ってもうまくいかない、
あるところから「差」を付けられてしまったことに対して
ものすごく苛立ってどうしようもない、思いを抱える、ということは
何か、私に「穴」というか「至らないところ」があるんだよな。

 この「穴」というか「至らないところ」というものは自身には
「見えていない」、けれども「他者」には丸見えでこの落差が
「自分で自分の居場所をなくす」ということにつながっている。

 ある人は体の準備ができなかったから得意のアクション中
不注意で自らの膝を壊し、また別の人は「情報」というものを
きちんと分けないから「秘密」を「秘密」にできなかった。
そして、「過去」というものにしがみつき、「過去」というものを
重荷にしてしまう、微妙に軟弱なものもいれば、
「素直さ」をなくして意固地になっている人も居る。

 初演は売れっ子の美人モデルが中盤から「女王様」のように
振る舞い、「穴」と「至らないところ」をこれでもか、これでもか、と
突っついて、突っついて、反発心を増幅させたところで
ドアノブが壊れ、「完全な密室」となる。
そして、元いた事務所に「電話」をするためにこの密室という
「蟻地獄」をでなければいけない、という「課題トレーニング」を
やりぬくことで何かが変わる、というところにまで持ってきた。

 再演も、客演に呼んだのがデルモーズのはりー。
まあ、リアルのモデルさんだし、こら、エゲツねぇくらいに
「女王様」やって、振り回していくのかな、と思ったら
・・・いい意味で裏切られた。

 はりーという「美人」を「落ちこぼれ組」のポジションにおいて、
こぱるという「美人」、だけれども
「技量を頼りに修羅場をくぐり抜けた美人」を
「女王様」のポジションにおいた。
この「化学反応」がえげつないくらい凄い。
・・・バチバチぶつかるところはリアルに「ファースト・クラス」という
あのドラマそのもの、というか「陰の声」なしのガチでいっちゃっている。

 このガチ具合がみんなの「穴」と「至らないところ」を
グイグイ引っ張り出していき、「他力本願で這い上がる」だった
今までから「自分で何とかして這い上がりたい」という覚悟を
共有するところまで持って行きやがる。

 覚悟を共有する中で「女王様」はひとりぽつんとそこに居る。
「女王様」はどうやっても「女王様」、ほっといても光輝き、
たくさんのお金を色々なところにもたらしてくる。

 がだ、いずれはその光は消えてしまう。
消えてしまうことが怖くて気がつけば「会議室」という場所で
彼女のあずかり知らないところで「彼女の人生」が決まって、
その決められた人生を「生かされる」現実がそこに在った。
・・・その現実には彼女ひとりしかいない、まわりの覚悟すら
共有することすら許されない。

 人間、この現実が一番辛いのだ。
だから、「女王様」も最後の最後にまわりの覚悟を受け取って
蟻地獄を這い出て、事務所に毒を吐いて仲間に入る。

 こうして、わたしもあなたもこの蟻地獄を這い出て
あるレベルのとある場所、というか修羅場を
通りぬけてきたのだろう。
そして、今は通り抜けていた場所や修羅場よりも
より高い難度や険しさをもったとある場所や修羅場を
通り抜けているところなのだろう。

 そうだとしたら、あの言葉は云うものではない。
「掴んだようやね」と「上から言葉」をわたしが吐くなんて
ほんとヤキが回った、というか、おまえ、何様やねん、と
自分で自分に怒っている。

時間堂 「衝突と分裂、あるいは融合」

みんな、正しくて、みんな、間違っている。

 故に、ありとあらゆることが一つになって「混ざる」
ことができにくいのかもしれない。

 くろさわせり氏からこの公演の案内はがきで
「お待ちしています」とキャッツカード並みの書き方だったから
正直、びっくりした、びっくりしたから早々に日程を組んでいる。
にしてもなぁ、「ローザ」をぽんと枝光で見ているのに
そのチケットやらプログラムのたぐいをいつの間にか捨てている、
さらに言えばこないだの(以下略。

 ほんとうに「心」と「からだ」が止まってしまうと
色んな意味でものすごく大変だ。

 閑話休題、「プロパガンダ」が酷い、酷すぎる。
正直、選挙に行くほうがいいのか、行かないほうがいいのか、
行って、「敢えての白票」を投ずるべきか、それがダメなら
いったいぜんたいどうしたらいいんだろう、もしかしたら
投票用紙の筆跡で有権者それぞれの「思想調査」やられているかも。

 さらに言えば、「経済成長しない、あるいはできない社会」について
風通しのよい、大ぶりなヴィジョンを描ける人間が
日本中、世界中にだれもいない、という現実。

 もしかしたら、社会全体がそのようなことを描くことができない、というか
「成長」という「亡霊」を信じこんでいる人の「プロパガンダ」がより酷い。
対立するものによる殺し合いしか「解決方法」はないのだろうか?

 ついでに、「データ」というものには、「本当のデータ」の中に
「嘘のデータ」が所々混ぜられていてひとつの「罠」を作っているのかも。
故に、「嘘」と「罠」が当たり前にある社会ではどうにもならない。

 これらのことを考えながら、表演空間や、客席に「変な緊張」が
高まっていることをじわじわ感じて、物語の中に入る。

 1963年、日本という国で「原子力」という「エネルギー」の
「実用化実験」が始まった。
この「エネルギー実用化実験」に携わる人々のやりとりが物語の肝。
「学問」というか「研究」というものは「公開・民主・自主」が
基本線、これは旧制高等学校、大学より言われていたこと。

 ちょうど原子力の「エネルギー実用化実験」開始と前後して
日米安全保障条約をめぐる学生運動が激しさを増し、
激しくなれば、なるほど学問の基本線「公開・民主・自主」が
国家権力、経済権力によって侵食されて、現在に至る。

 その激しく動いている「時代」の中で、「実験から実用」へと
方向性の舵が切られていき、その中で様々な生まれ、育ちの
「背景」を持った科学者とその周辺の人々が「混ざって、混ざらない」
会話、というか議論というか、コミュニケーション、というか、
ディスコミュニケーション、これらすべてがないまぜになった
ある意味カオスな状態で、日本初の「放射能漏れ」事故が起こった。

 「起こったこと」を「素直」に「公開」することが一番大切。
しかし、「素直」に「公開」すればするほど、「恐怖」というものは
より高まり、「実験から実用」へと進めない。
「実験から実用」へと進むことで何か、経済的に益が生まれることを
知っているものは「隠匿」することを選び、それを良しとしないものは
「実験のままで、時を待つ」ことを選ぶ。

 この決して「混ざらない」議論の中、「放射能漏れ」事故の弊害が
じわり、じわりとやってきて、白血病やら小児ガンの問題が
テレビのワイドショーでお涙頂戴の物語として取り上げられている。

 それを見た小さい頃の私はどうしようもない憤り、というか、
不思議な感覚をこの歳までずっと感じていたところに、
今、ここで板の上に存在している物語とこの感覚が
ひとつのものとして「混ざり」始めていた。

混ざり始めたら、科学は人を幸せにしたか?
科学者は偏狭なエゴイズムに侵されていないか?
という問がわたしの眼の前に迫ってくる。

 さらに言えば、「科学」ってなんやねん?
「人間」ってなんやねん?
もっと突き詰めれば、「人間」というものを主に考えるのか、
「科学」というものを主に考えるのか。
行き着くところはそれぞれ、「大切なもの」はなんですか?
という問いに辿り着いた。

 「科学」というものを主に考えると、人間として性格が悪くなる。
性格が悪いまま何かをたまたま成してしまうとその性格の悪さで
「成したもの」に対する評価が曖昧になってしまう。
けれども、「人間」というものを主に考えてしまえば
生きていくこと事態が困難になってしまう現実がそこに在る。

 この世、あるいは現世というものは「程々」、「中庸」というものを
保ち続けることがわたしたちに課せられた「修行」なのだな、
こういう結論にたどり着いてしまった。

飛ぶ劇場 「豚の骨」

「最後の晩餐」と「最初の晩餐」。

 そういえば、わたしはラーメン屋で食べる「ガチの」
とんこつラーメンを最近食べていない、というか、
ラーメン屋のラーメンを食べていないことに気がつく。

 春のすごく暖かい時、熊本に演劇の見学に行って、
いつものように桂花ラーメンで飯食って、やることやって、
福岡に帰ってきたら、というかその道中からなにか変だ。
・・・どこかから納豆のようなものすごく臭い匂いがする。
母に訊いてみると、ラーメンのとんこつ成分と
にんにく成分が汗に反応してそういう匂いになったらしい。
それ以来、わたしはラーメン屋で食べることをやめてしまった。

 このこと以外にも今までやってきたこと、食べ慣れていたものを
わたしの心と身体が拒絶反応を示し始めている。
この事実が何故かものすごくしんどくて、しんどくて、しんどくて。
まあ、「しんどい」理由はわたしの中にも、外にもあって、
これらを処理するためにひと月、ハンバーグ工場の仕事を休んで
事務処理をしながら養生し、もうひと月で集中し直すために
軽めのところで「訓練」というものをしてきた。

 月曜日まで訓練をして、会社の健康診断のち、
振り返り、水曜日から「戻って」来たが、なんというか
違和感なく「そこにいる」ように働いていた。
そういうことがあって、久しぶりの演劇、久しぶりの北芸。

 表演空間、ガチの「屋台」だわ。
・・・小倉らしく「お酒」を出さず、「おはぎ」とおでん、
そしてラーメンを出すところかな、と思わせて
客入れ音が「資さんうどん」の店内よろしく「オリジナル」の
音楽がひたすらかかっている。

 ・・・どうやら、おでんもない、おはぎもない、当然のことながら
お酒もない、ラーメンだけを「ひたすら」食べてくれ。
そういう「メッセージ」を空間自体が語りかけてくる。
だから、「スープ」にこだわりを持っているのだ、という説明を
ひととおりやって、更に観劇のご注意を混ぜて
これが前説、そして気がつけば本編。

 「スープ切れ」につき、本日閉店ですか。
まあ、人気のラーメン店にはありがちな出来事ですわな。
というか、「ガチ」でラーメンのスープを作ると手間暇かかる。
されど、手を抜こうと思えばどこでも手を抜ける。
特に、血抜き、アク取り、というところで、がだ、手を抜けば抜くほど
出来上がりはとても獣臭く、それをごまかすために(以下略。

 そんなところにまろび現れるはなにかワケありの
男と女、どうやらこのラーメン屋でたまたま出会い、
そこから「関係」が始まったらしい。
さらにはなんだ、「本日、人類最後の日」ということで
思い出になるものをなにか食べよう、と思ったら
ここに辿り着いたらしいが、あいにくスープ切れ。

 しかし、世の中は良く出来たものだ。
鍋の底に残っている濃縮したスープと新しい若いスープを
うまく合わせればなんとか一杯は作れるらしい、時間はかかるけれど。
この「最後の一杯」を待つ間に、
「この場所」と「この時」に「来るべき人」が何かに引き寄せられて
じわりじわりとやってくる。

 「おわり」というものがやってくると「人間」という
「いきもの」の「すべて」、いろいろな「本音」や「本心」というものが
より一層露わになってくるものだな。

 「不倫」やら「家族崩壊」、「同性愛」に「ドメスティック・バイオレンス」
「自らの不注意、というか適正のなさ」による「居場所の喪失」、
更には「ネグレクト」といろんな「負」の状況というものが
ひとつの坩堝、というか鍋にまとめて放り込まれて、混ざり始める。

 「混ざり」始めるとそこに存在している「立場」が主張し合い、
「対立」という「喧嘩」をおっぱじめてしまう。
・・・「立場」は「持ち味」ともいい、更には「役割」というものを持つ。
この場で、より強い熱量を持つ「役割」によって
様々な「立場」や「役割」が更に混ざって、煮込まれて、
「スープ」という名の「一つの場」へと「変化」していくのだ。

 こうして「一つの場」にならなければ、
「人間」という「いきもの」はそれぞれ「立場」と
それに付随する「役割」というものを持つということがわからない。

 更には、これらを「やり遂げる」、というか「完了」させるために
たくさんの「工夫」とよりたくさんの「準備」という「手間」を
かけて「生きて」いかないと人間はまずいのかもしれない。

 がだ、これらの「必要」な「手間」をかけることが
「面倒くさい」と思い、省くように「生きて」いくことも
また、人間なのかもしれない。

 「面倒くさい」と思い、手間を省いて今まで生きてきた人間が
そこに存在していない誰かによってささやかれた「終末論」と
いうものをそのまま信じこみ、知っている人しか行かない
ラーメン屋にまで「最後の晩餐」をするために早々と行き、
早々とスープ切れを起こして店じまい。

 満足したところで、あとは死ぬだけだ、とやりたいことを
野放図にやっていても、そこにいる人たちは
「おわり」の「合図」すら見つけられない。
「おわり」の「合図」を見つけられない「群衆」は
「烏合の衆」へと変化して、更には「暴徒」となり、
「やりたいこと」を更に先鋭化させて略奪へと走る。

 その様子を横目に、「面倒くさい」と思わず、手間を厭わず
自らに向き合うことが出来た人たちがこうやって集い、
「最後の一杯」と「最初の一杯」をその場にいた皆でわかちあい、
混ざって、一つになった結果をそれぞれが抱えて新しいところに
歩み始めていく、その歩みは良きものなのか、どうなのかわからない。

 約110分間、「じっくり煮込まれた滋味深い物語」を
一口いただいた、そうしたら今まで心に抱えていた
「寒さ」や「ひもじさ」がいつの間にか取れていて、
ああ、与えられた生命の終わりまで黙々と与えられた
「立場」とそれに付随する「役割」を生きていかなくては、
「面倒くさい」と思わず、手間を厭わず。

犬と串 「犬の散歩」

いい意味で「狂って」やがる。

 ・・・いや、まあ、長くもあり、短くもあり。
この演目を見る前に9月半ばから心と体を壊して
お休みしていたハンバーグ工場、どのタイミングで戻るか、
という案件について、最終確定をして、もろもろの報告と
連絡をハンバーグ工場に持っていく、というミッションがあり、
報告と、連絡ができて、来週から戻るようになった。

 その後、唐人町に行き、少しだらだらしてから
甘棠館へと向かい、中に入ると、なぜかしら懐かしい空間だ。
客入れ音が「モダンチョキチョキズ」、それだけでやられましたわ。
今の「濱田マリ」も「枯れた」味わいがあってそれはそれでいい。
けれども、モダチョキのマリちゃんの若いこと若いこと。

さらには自分が二番目に行った音楽ライブがモダチョキ。
・・・というか、モダチョキはCDとかで聞くよりライブに行って
ひとつの「エンターテイメント」として音を聞く、ということが
一番似合うよな、あとマリス・ミゼルも。

 うん、SEKAI NO OWARIとか、きゃりーぱみゅぱみゅの
隆盛期を見れば見るほどモダチョキは5年先を走っていたよな。
がだ、生き残りたる濱田マリがこうして長く戦えているのを見ると、
SEKAI NO OWARIもきゃりーぱみゅぱみゅも、なんかおXにーじゃね?
そんなことを考えるともう本編だ。

 というか、気がついたら物語の空気に存在している。
一本目のお話、あれ、新宿歌舞伎町、それも「コマ劇場跡」から
奥の方、とか「新宿区役所」、「ハローワーク新宿」近辺の
真夜中2時から3時の無駄にテンション高い空気が
甘棠館の板の上にあった。

 いや、まあ、ゴジゲンを見学しに高円寺へ行くため、
たしかあれは枝光アイアンシアターの「素敵じゃないか」初演、
みきてぃ演出じゃなく、作者自身が演出で、川内さんの相手が
みやびさんだった、それを見た後、大急ぎで北九州空港エアポートバスに
飛び乗って、スカイマークの北九州羽田深夜便に乗り、
ちょうどいい塩梅に国際線ターミナルへのバスから
新宿行きのリムジンバス最終に間に合い、しばしの不安を抱えて
新宿小田急前に辿り着いたのが夜中2時過ぎ。

 そこから歌舞伎町めがけて歩いて、というか
新宿グリーンランドを目指したかったが無駄にテンション高い空気が
行く手を阻み、気が付くと少し設備が悪く、ガラも悪い
「新宿区役所前カプセルホテル」に入ってしまった。

 この気まずさを「ラーメン馬鹿」と「刑事馬鹿」と「スタンド馬鹿」が
とある殺人事件の取り調べという形で表現しただけで、
もう、私の方位磁石は著しく狂いを見せる。

 この狂った状態で二本目の「コミュニケーション障害」を
演劇という道具で克服すると、どうなる、というお話に突入。
いまは、こうしてスカウティングやら、その一環で演出修行とか
劇作修行に軸足を移しつつあるのだが、自分もこの状況と似た
状態で演劇をやり始め、演者の世界に足を踏み入れた時、
・・・「経験者の目」から見てわたしはこんなに「下手」だったのか、
道理で北芸のリーディングセッション落ちるはずだわ。

 熊本のDRINKからGKKという流れでわたしを知ってもらって、
何とかやりこなすことはできたけれど、ひとつ間違えれば、
ああいう「舞台裏の修羅場」をやらかしていたのかもしれない。
そして、公演中の舞台裏には、丸鋸なんていう危険物を置くんじゃない。
・・・寝始めのあの嫌な感覚を思い出してしまう。
そして、パネルが落っこちるところをやらなくてよかった。
昔、北九州の某劇団で、そういう事故があって、(以下略。

 そして、三本目、ぶっ飛んでしまいましたわ。
・・・やっていることはガチの「トーキー」演劇。
けれども中身は「シモネタ」がこれでもか、
これでもか、と盛り込まれている。
ふぇxやら、ばxぶやら、おxほーるやら、「大人のおもちゃ」丸出しで
恋の喜劇なのか、恋の悲劇なのかよくわからないまま
最後は「フル・モンティ」ぶちかましてやがる。
「トーキー」演劇だから所々「字幕映像」が出るが、
出るときは演者は見手に字幕映像を見やすくするように
律儀にしゃがんでいる、そこが凄い。

 てか、「モダンチョキチョキズ」のライブも「丸出し」担当の人、いたよね。

 こうして、やっていることはお馬鹿やら演劇の危険性やらガチの下ネタ。
けれども、ひとつひとつの「身体言語」の質がマジで半端ない。
半端ない「身体言語」でガチのお馬鹿をぶちかましやがる。
潔い、とはこのことか。
今度は半端ない「身体言語」でガチの「演劇」を見てみたい。

 「厄介な人」があの場にいたから、コリッチに落とせないや、クソ。

劇団どくんご 「OUF!」

「野試合」の流儀。

 「ダム」終演のち、交流会、というもので軽く茶を飲んで
雑談しながら様子をうかがうと、どうやら前もって手配した
帰りの新幹線ではうまくいかない、ということがはっきりわかり、
まずは熊本駅に戻って最終のつばめに変更をかけると
すんなりと通り、下手に焦ることなく河川敷へと向かう。

 開演どころか、開場にも早過ぎる時間だが、
熊本駅近辺は時間潰す場所が少なすぎる、というか
下手に動くと開演に間に合わなくなる。

 故に、公演の準備をしている近くでいろんなことを咀嚼し、
つとつとと考えていけばいくほど、なんかようわからんが、
悲しくなるわ悔しくなるわ、でまたやりきれない気持ちになる。
・・・ああ、風呂屋やらネカフェやら長逗留出来る場所が
熊本駅前にあれば、なんとかなるだろうに。

 それにしても、最近世の中すべてがリアルで
「お笑い」やらかすものだからいろいろな意味で洒落にならんし、
本当に何でもありすぎて、生きていくことさえ大変だ。

 そういうことを考えていたら窓口が開いて、木戸銭払って
中に入ると、本当にわたしが小さかった頃、大阪石切神社だったのか、
生駒山の参道だったのか、夜のお参りに行って、その帰りに
引き込まれるように入っていった見世物小屋の空気によく似ている。

 がだ、見世物小屋よりも「安上がり」にできているし、
「安上がり」にできているからこそより「濃い」空間で、
しかも集う人々もものすごく「濃い」、そしてわたしは
小さい頃、たった一人で中に入っていったが、
親と一緒にこういう「濃い」場所にいること自体、なんか凄い。

 がだ、ざわざわざわと人が入る、おまけに最前に席作られると
・・・まあいいや、本編に入ろう。

 初手から掴まれましたわ。
暗くなって、どっかーんと「目出鯛」の幕が開くと
熊本ニュースカイホテルの高層ビルやらその他もろもろの
「街の景色」というものを「借景」にして「異次元」ともう一つの
「異次元」を「接続」する物語をおっ始める。

 そこには人間も、宇宙人も、男性も女性も、そしてありとあらゆるものが
混ざりに混ざって、ものすごくぶっ飛んだ、それでいて懐かしい物語。
・・・そういえば土曜日の夕方、「料理天国」というサントリー提供の
番組があって、そこでかかっていたコマーシャルにこういう世界が
表現されていて、そこでわたしはアントニオ・ガウディやら
アルチュール・ランボー、という名前を知ることができた。

 そういうことを思い出し、空間が持つ不思議な響きを
夜の河川敷、テント小屋、そして秋の入口の温かいと寒いの
変に混ざったところで感じてしまうとあの土曜日の夕方に感じた
「切なさ」というものを再び思い出してしまう。
 
 物語の中身はパウル・ツェランやアルチュール・ランボーの
「散文詩」のリズムやマルセル・プルースト「失われた時を求めて」の
文学的空気がこれでもか、と満ちている。
ここに第七インターチェンジの「芥川龍之介ワールド」が絡み、
なんていうか、和洋の「えげつない文学」というものを
あの空間と身体言語に落とし込むとこんな具合に深くなるのか。

 さらにはちょうどいい塩梅で「雨」が降るし、これが「野試合」の
凄味なんだよな、何年もこういう形で積み重ねてきた「強さ」と
いうものを目の当たりにすると、理屈はどうでもいい、
身体ですべてを感じるしかない。

メメントC+ゼロソー「ダム」

もしかしたら、人間は自然に「危害」を加えて生きていたのかもしれない。

 わたしたちは、私達の心のなかに多かれ少なかれ、
「不満」というものを飼っていて、この不満を自らより「弱い」存在に
ありとあらゆる形でぶつけて「解消」しようとしている。
故に、自然も人間に「危害」を加えて生きているのかもしれない。

 これが「ハラスメント」という行為。
そして「行為者」を「ハラッサー」と呼ぶのだ。
さらに言えば、この「ハラッサー」が自らの「やっていること」を
意識せず、「ハラスメント」という「行為」を繰り返すと、時と場合によって
「エゴイスト」や「レイパー」、「サディスト」、裏返して「マゾヒスト」、
さらには「ロリコン」、「ペドフィリア」と様々な「トラブル」の元になる。

 ・・・アダルトビデオのありとあらゆる「プレイ」の元ネタは
ハラスメントやハラッサーから来ていたのか、という発見。

 てか、人間の業、というか、原罪そのものが
「アダルトビデオ」に凝縮されている。
この事実にわたしは戦慄した、そして頻繁に抜くことができなくなった。

 そういうことを「特」に「急」がない「新幹線」で熊本に向かいながら
ふと反芻してしまう、さらに木曜日の日本シリーズ第5戦、
阪神西岡の「守備妨害」が「相手殺してでも勝て」ができなかった時の
ものすごい「哀れさ」とか「みっともなさ」につながってなんとも言えず、
「結果はあくまでも結果」として受け止めるには常に何かを
「背負う」ことをやめないと、受け止めることすらできないのか。

 そんなことを考えると特に急がなくてもあっという間に
熊本に着き、どくんごのテント劇場を確認しながら、
早川倉庫までまったりと歩く。

 この「倉庫」は「時代」という空気を背負ってこの場所に佇んでいる。
130年というものすごく重い空気を感じながら中に入ると、
「球磨地方」に昔からあるお家の「座敷」の持つ「何か」が
きっちり「生きている」表演空間がそこに、存在している。

 自分は「菊池、山鹿地方」のこういう「空気感」の中を
福岡からわざわざママチャリを「輪行」して朝早くから
夕方、日が沈むまでグルグル回ってチラシを撒く仕事をしていた。
その仕事を離れるきっかけになる出来事をつらつら考えるともう本編。

 最近、「リーディング」という座って台本を持って
読んで、というスタイルにある程度の動きが加わるように
なった、「ドラマチック・リーディング」という形で今回はやるらしい。

 そういえば、DRINKからGKKにつながって、戯曲、というものは
それ自体声に出して、読めば読むほど心と体が動くように
できている、ということにうっかり気がついた。

 その流れで「ダム工事」をめぐる様々な出来事を
多方面の視点で眺めてみると、人間ってそうとうえげつない。
というか、今いるところがあまりにもえげつないから、
生きていくためによりえげつなくなった、ともいう。
そういうことを長い間、世代を超えて繰り返していくと
いつの間にか「原点」という名の「根」が張って、
初めて「場所に馴染む」といった次第。

 なぜ、「ダム」というものが必要になったのか?
「原点」という名の「根」が張る前に「喪った」人や物、
そしてことがあまりにも多すぎたから。
この多すぎた「哀しみ」や「苦しみ」を堰き止めて置くために
作らざるを得なかった「装置」だったのかもしれない。

 この「喪った」人や物、そしてことによって、「残った」人やことは
「あるべき」ところから大きく移動して、あるものは「残った」ものに
しがみつき、またあるものは「根無し草」の人生を選び、「欲」という
「悪魔」に身も心も「売った」ものも、当然ながら存在する。
 
 その三者三様の思惑や駆け引き、というものが
「ダム工事」をめぐるやりとりで明らかになればなるほど、
わたしたち「人類」はある「繋がり」から切り「棄て」られた
いわゆる「棄民」だったのだ、そういう事実、というか、
現実を突き付けられると、何も言えなくなる。

 本当は「自然」というところに「居場所」と「役割」があるから
その場所「に」、というかその場所「で」生きることができる。
けれどもその場所で生きていない人間が「居場所」と「役割」を
壊して、「自分勝手」に変化しようとしている。

 誰かの犠牲によってしか何も変わることはできない、
というけれど、誰も犠牲を引き受けようとしない、
犠牲を誰も引き受けようとしなければ、人間も、自然も
それぞれが持つ「汚さ」や「醜さ」を露わにしていく。

 「汚さ」や「醜さ」が露わになればなるほど「正論」というものは
本来の意味を亡くし、拾える金を全て拾おうとして「天災」という形で
「強姦」された自然に「人災」という形で復讐し始め、
その手で「弱き者」に対して経済的、社会的な形で
これまた「危害」を加えている。
・・・「愛している」という「偽り」に隠され、何も見えないが。

 しかし、「堰き止め続けて」いた「汚さ」や「醜さ」、
そして、「こうありたい」という思いは何時かは決壊する。
決壊して、淀んでいたものが流れた後、皆は静かに「笑って」居る。
・・・何もなかったかのように。

 こう「水に流して」しまうと良いも悪いも曖昧なものになるし、
本質的なものについても訳がわからなくなる。
・・・すべてを受け入れる「痛み」とはこういうものなのか。
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