劇団HallBrothers 「となりの田中さん」 (再演)

「甘い生活 "DOLCE VITA"」の裏にある
隠蔽された「ドメスティック・バイオレンス "DV"」と
いう暗い沼。


 祝・九州戯曲賞大賞受賞。
「戯曲賞」というものは「他者」との争いもあるが、一番大切なのは
「自らとの闘い」をやっとこさ乗り越えた、ということか。

 幸田さんの場合、奥様の「鬼嫁」と言わんばかりの
恐るべき「内助の功」もあっての成果かも知れないが
とにかく次に進むための足がかりはできた。

 さて、この演目、初演を一度見たわけなのだが、
一度見たら内容やその時の心の感じまで覚えていたのだが、
これだけはなにかいろいろなところを忘れてしまっている。

 唯一、覚えていたのは「我」と「他」と「異」というものに
考察を深めていた時期で、色々複雑な感情があったのだろう。
「人を許せない」状況で心の琴線に触れる行為をすることは
大変危険なこと、さらには触れた結果について言葉にすることは
更に危険なことなのかもしれない。

 この表演空間の作り、洋風で「おしゃれ」なんだけれど、
感情をゴミ箱においてじっくり見てみたら、びっくりした。
この空間を「和風」の文脈に落としてみたら、
所謂「文化住宅」というもので、わたしは生まれてから10年間、
こういう空間、こういう環境で育って、生きていたのだな。

 この余りにも「平等」な空間に住んでいる人間の持つ「空気」や
「人生」の違いを子供ながらに感じ、板の上で繰り広げられる
いろいろな会話のやりとり、行動の違いからくる様々な感情、
男女関係のなんだかんだや、さらには「宗教問題」までの
「全て」が懐かしかった、多少の吐き気はするけれど。

 更にはすべての住人の苗字が「田中」なものだから
それぞれの「違い」が際立ってくると、普通やら正常とは
いったい何なんだろう?
と考えさせられることがこのお話の肝だったのだな。

 さて、普通やら正常とは一体なんなのか、ということを
大人になり、「ドメスティック・バイオレンス」という問題を考察する中で
「嗜癖システム」という個々の人生において
「役割」と「方向性」について
非常に限られた選択肢の中で特定の性格、
特定の行動しかできないように
仕向けられた「現実」をずっと、ずっと生きている。
そんなことを改めて思い知らされた。

 それぞれの部屋ごとにこの「嗜癖システム」がどう作用しているのか、
また、作用することによってどんなことが起きたのか見てみよう。

 まず、101号室の田中さんから。
前提として「福岡」という場所で夫は生まれたけれど、
「より良い生活」を求めて東京に渡り、夫はコンピュータープログラミング、
東京で見つけた妻はお菓子職人と今風の「手に職」を付け、多忙ながらお金もあり、
「物質的」にはより良い生活なのだが、「人間的」にはどうなんだろう、と
一度離れた福岡に「戻って」来た。

 ここまで来たらとっても良い「美談」と思えるが、現実はそう甘くない。
夫はいままで「組織」の中で仕事をして、その中で培われただけの
実力を自分の実力だ、と勘違いしてフリーのプログラマーとして
やろうとするも、「仕事を取ってくる」ところからなにかおかしい。

 おまけに生活の一つ一つに東京の「物質的」な生活で
培われた妙なこだわりを捨てることができず、
労働面でも生活面でもなかなかうまくいかない焦りからか
他者、というか異者の問題にも首どころか、土足で
遠慮なく踏み込んでくる。
他人の問題より、まずは自分の問題なのだが、
夫婦ともども自らを自らで追い込んでいる、なぜだろう?

 もしかしたらこれが「プロセスの嗜癖」と「物質の嗜癖」が
複合的に重なってきたがゆえの状態なのかもしれない。
「ミニクーパーの最高モデル」とか「東京の有名珈琲店の特別ブレンド」に
こだわることで「今現在での必要と限界」を知ることから
逃げているのかもしれない。

 次は201号室の田中さん。
夫婦ともども生まれてから今までずっと地元、というか
福岡で生きてきたのだろう。
故に「根っこ感」が半端なくにじみ出ている。
おまけに女の実家がこの「共同住宅」の所有者。

 がだ、この女が「曲者」だということは
セリフ、ムーブ、マイムの端々からも伺える。
あまりも不正直、あまりにも自己中心的、おまけに依存的だから
一度、結婚生活が破綻して、自らの自己中心的かつ依存的を
満たしてくれる男性を「婿養子」として「捕まえた」。

 結果、子供も授かって、まあ何より・・・と言っていいのか?

 今度は202の田中さん。
ここも色んな意味で大変だ。

 大変だからこそ、「宗教団体」というものが「嗜癖」や「共依存」を
「前提」とした「方向性」と「役割」について所属する人々に限られた
選択肢を与えないように仕向ける「閉鎖的」なシステムだ、ということが
よくわかる。

 「閉鎖的」だから役割、立場が上の存在に「くっついて」いかなければ
「救い」がないという「人間関係の嗜癖」に絡め取られていて、
さらには「子孫を残さなければならない」という問題にも
絡め取られている。

 ・・・故に、男は立たないし、女は「義務でやるセックス」に
快楽を覚えない、このことが102号室の田中さんが抱える
様々な問題を増幅してしまうことになってしまうのだが。

 さあ、問題だらけの102号室の田中さん。
まず、「籍」を入れていないということが問題。
・・・お互いなのか、両方なのかわからないが親族が
何らかの「物質的依存症」という問題を抱えていて
「物質的依存症」からくる「感情障害」がこの問題を生んだのだろう。

 故に、男は「何か」に怯えている、怯えているから
「自分」を一体どうしたいのかわからなくなり、「アルコール」という
「薬物」を自分自身の「感情」や「思考」を「ごまかす」ために使っている。
自分自身の「感情」や「思考」をごまかしているから202号室の
田中さんの女に「職業訓練」という形で「セックス」という「嗜癖」に
操られて、よりどうにもならなくなってしまう。

 女は女で、「感情障害」の家庭で生まれ育ったからかもしれないが
「自己」と「他者」の「境界線」を曖昧にしてしまっている。
ここを101号室の田中さんに付け込まれて、というか
世話焼かされて、カウンセリングに行き、というか行かされ、
「一つ上の生活」というものを見せられ、男に「労働意欲」を
持たせるよう仕向けてはいる。

 がだ、「必要と限界」というものから目をそらしているから
物事がうまく進まない、進まないから「ハリボテのような人生」しか
生きられない、その呻きが切なく聞こえてしまうのはなぜ?

 ・・・こうしてみると、いろいろな「結婚」の形があるんやね。
「向上」のための「結婚」があり、「堕落」のための「結婚」があり、
「居場所を作る」ための「結婚」も、「商売」のための「結婚」だってある、
とにかく、「夫婦」の数だけ「結婚」が存在する。

 この「違い」を知ってか知らずか、お互いがお互いを
妙に「牽制」する会話や行動が妙に身につまされる。

 故に、一番弱い立場にある102号室の田中さんが
「らしさの拘束」に満ちていたこの「集合住宅」から
「必要と限界」を探しに外へ脱出するラストに「救い」を感じた。
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劇団きらら 「ぼくの、おばさん」

人生における「不器用」の定義について、
しばし考えてみる。


 いけだみきという「書き手」は「人や物、あるいは出来事」が
「ある日、突然いなくなってしまう」ということをお話の題材として
「扱う」となんとも言えない空気、というものを創りだしてくれる。

 始めて見た「いちじく純情」だってそうだし、前作の「踊り場の女」は
「無縁社会」とその周りにある「過干渉社会」という「社会の現実」を
加えて、「喪失感」というものを精度の高い「身体言語」で
見せつけられた。

 「縁」というものを残したい、と思えばいつの間にか
「縁」を「切っていく」方向になる、逆に「縁」というものを
うざったく思って、切りたいな、と思えば思うほど
この「うざったい縁」がしつこく残るようになっていて、大変面倒。

 ここに板の上に立っている「キャラクター」が持っている
「生まれ」や「育ち」によって醸しだされる「感性の違い」となって
「歳の差」や「性別差」が混じりあうと「人生の質量」に化ける。


 ここ数作のみきてぃ、「混ぜ加減、混ざり加減」の塩梅が
なかなか良くなってきたので、名古屋で戯曲面での初タイトルを
狙えたのだが、取れなかった、というところに
「九州演劇」の、あるいは「九州戯曲」の課題がそこにあるのかも。

  リーディングでもいいから上演の機会、というものを
さらに言えば「書き手自身」による演出、ではなく
「他人の解釈」による演出の機会を増やしていくしか道はないのかな。

  さて、今回はゆめアール大橋の大きい稽古場を仕切って
その小さい方で公演を打つ趣。
・・・ぽんよりかは恐ろしいくらいぎゅっとしていて
この空間一面、「緑一色」。

 客入れ音が大昔、とはいっても阪神大震災以前によく大阪で
放映されていた「宝塚映像・阪急ドラマシリーズ」に使われていそうな
音が効いていて、じわりじわりと「人がいなくなる、人が死んでしまう」と
いうイメージへと変わって本編に入る。

 本編に入ると表演空間の「緑一色」がじわりじわりと意味を持つ。
「緑」といういろ自体が持つ「目立たない」「目立つことを嫌う」という
イメージがあり、このイメージを主な役柄の人に「敢えて」使うことで
「ああ、この人たち今まで、世の中から目立つことを嫌っていたからか、
 何なのかよく分からないがひっそりと生きていた」という
「物語の前提」をそれとなく見せる仕組みが出来ている。

 この「ひっそりと生きている」、「ひっそりと生きていける」ところに
「道路拡張に伴う立退き」という「街が変わる」出来事がやってきた。

 本当はわたしたちが居るところの「外」では少しづつ、少しづつ
「変化」が繰り返されている、というのにこの現実を受け入れられない。
受け入れがたいが知らない間に巻き込まれてしまう。

 まあ、「ひっそりと生きていける」ということは
ある意味、「ひきこもり」とおんなじで、こういうことが続くと
現実の「変化」というものを受け入れよといろいろ言葉を投げかけて
いることが、徐々にわからなくなり、「変化」というものに
ついていけなくなる。

 この状態が大学の授業料を滞納した、道路工事で
「ひっそりと生きていける」場所を手放さないといけないが
その代わり結構な額の「補償金」がもらえる。
けれども、隠れていた、隠されていた「そこに今いない人」という
存在が明らかになってその人の同意をもらわないと先に進めない。

 自分も含めて、大多数の人間が持つ「癖」なのかもしれないが
変化というものに対応しなければいけないことはよくわかる。
けれども変化に対応することに踏み出せない。

 こういう状態が見せる「心模様」というものを「変化を要求する言葉」を
聞いてしまうと「脳みそがフリーズしてしまう」ことを表現する
壊れているカセットデッキ、レコードプレイヤーのような言葉のリピート、
つまり具合を「聞かせている」ところが秀逸。

  この秀逸さが「不器用」という状態は「自分が好き」ではなく、
何らかの理由で「自分が嫌い」になってしまったがゆえに
起こったのかもしれないよ、と「いなくなっていた人」が突然現れて
自由自在に振る舞うことで「不器用さ」というものを解きほぐしていく。

 こうやって解きほぐしてはいるけれど、当の本人も
「別の問題」を抱えてしまったから身を隠さざるを得なかった
現実も心のどこかにある「寂しさと寂しさから生まれる渇き」、
「寂しさと渇き」を埋めるために「良きものであろうとする目的」に
しがみついた「反動」としての、一度道を外れたがゆえの
人間が堕ちる速さとして見せている。

 この「反動」の表す例として「買い物中毒」とか
「こことは違う場所へのあこがれ」、「マネーゲーム」という
自らを破壊するほどの依存に巻き込まれてしまう。
「あっ」という間に「白」だったものが「黒」にひっくり返るように。

 けれども、どん底の惨めな時間を過ぎなければ
わたしはわたしに気が付かないし、「必要とされる必要」も感じられなくなる。
更には自分の必要と限界に沿って生きていくことを学ぶことができない。

 こういう切なさ、悲しさを覆い隠すかのような「熟女の性」の使い方を
はじめとした、物凄く肩の力を抜いてリラックスというか、落ち着く、
という見せ方に安堵する。
プロフィール

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