南無サンダー「ヂゴクダンサー」

「労改」からの脱出。
 
 知る人ぞ知る「肉体は演劇」を地で行く劇団。
公演開催ギリギリになって「来てください」と言われたら、
そこに日程がぼっかり空いていたら「怖いもの見たさ」で
駆けつけてしまう。

 ハコの中に入ると、床一面ダンボール。
そういえば、自分たちが仕事した芸工大の「道真」は
前景(ホリゾント幕)を一面ダンボール、それをみんなで作ったな。
(「神」故に、「紙」にしてしまいました)こういうことを思い出す。

 床一面ダンボールに血らしきものが点々とする、前を見れば
金網があり、角材があり、まさしく"Hell in the Sell."
これからデスマッチがおっぱじまりそうな空気がじわりじわり
やってくると身も心もおどろおどろしくなってしまう。

 そのおどろおどろしい感じが「能古島」という場所が
第二次大戦以前までは「残島」と呼ばれていた、という事実を
踏まえていて、非常に興味深く、作者の隠れた「教養の深さ」まで
垣間見えてしまうから、正直すごい。

 「隠れた凄み」を感じさせる導入部から気がつけば物語の中に。
さて、お話の中身はファシズムというものが極端にまで進んでしまった
「これから」の日本、その中にある福岡の玄界灘、博多湾に浮かぶ
「残島」、あるいは「能古島」という場所に存在する(かも知れない)
「牢獄」という名の「労働改造施設」で起きるもろもろごと。

 ここはありとあらゆる犯罪者をぶち込んで「意味のない労働」を
死ぬまでやり続けるように仕向けていく、とても、とても恐ろしい場所。
この場所に「流れ着いて」しまった恩義、というものが深すぎて
わたしを育ててくれた親分とその組織を崩壊させた「敵対勢力」を
たった一人で崩壊させた、という咎によってこの「労働改造施設」に
送り込まれた男がひとり。

 この個性的かつ筋の通った男を取り巻く一筋縄ではいかない
一癖も二癖もある先達の収容者、そして「ファシズム」というものは
実は「男社会」と見せかけて、「女社会」だっのではなかろうか、と
考えさせられるくらい看守に女の演者を揃え、収容者たる男を
いじめにいじめまくる熱量、男の収容者同士による
「意地」の激しいぶつかり合いの熱量が半端ない。

 更にはこの熱量を、ナチュラルに鍛え上げられた演者の身体を通して
表現されるとこの演劇、というか劇団の持っている
独特の「男臭い」においや空気がドカンと来て、
なんとも言えなくなるのです。

 更には「意味のない労働」としてじわりじわりと客席を
イントレパイプで仕切り、囲んでその上から金網をかぶせ、
更にビニールシートをかぶせて見手に
「これから始まるシャレにならないこと」から身を守る手立てをしたら、
「労改からの脱出」というある意味「プロレス」を客席の上にある
「金網」の上でおっぱじめ、血反吐代わりにクランベリージュースを
(此処から先、あまりにもエグいんで自己規制)。

 たまにはこういう男臭いものも見たくなるんだよなぁ。
同時に「こんなの、わたしではない」と「わたしじしん」を力尽くで
捕まえて、命がけで「作る」作業をしてしまえば他者や異者に対して
文句はもちろんのこと、愚痴やボヤキすらも出てこない、というか
そういう言葉を出す余地すら与えてもらえないほど作業は厳しく、激しい。
スポンサーサイト

メニドク「▼(クマ)」

人の持っている「弱さ」をうっかり覗いてしまうと、
なんだか恐ろしく、且つ、切なくなってくる。


 2015年になって福岡の若手劇団がじわり、じわりと芽を出しつつある。
ここ数年間、福岡の演劇に携わるすべての人々が自分のスタイルで
演劇という「畑」を耕し、「種」を蒔き、丁寧に「手入れ」をしたらそうなった。

 そうすることでいろんな方面で「今後の方向性」というものが
できつつある、というかできている。
だとしたら、わたしもその決まった方向性で「全力前進」と参ろうか。

 こんなことを考えていると、ハコの木戸が開いて、
中に入り、黒黒黒一色で箱馬が4つ置いてあるシンプルな表演空間、
おまけに自己啓発系の客入れ音に気を失いかけるともう本編。

 逃げ場がなくなると一目見て、「野田地図」なのか、「柿喰う客」なのか
スタイルの良く分からない作りになっているが、
「コンテンポラリー演劇」という新しいスタイルが徐々に
作り上げられているし、形になってきていると感じることができる。

 「コンテンポラリー演劇」で「インソムニア(不眠症)」、
あるいは「ナムコレプシー(睡眠障害)」という事態から
始まる「精神疾患」という「病気」の一連の過程が
どのように進行していくか、おまけにこれらの「精神疾患」になぜ罹って
しまったのか、原因、あるいは理由を板の上に起こしてみたら
ものすごくえげつない人生が、そこには展開されていた。

 「わたしがわたし自身を信じられなくなる」、
「わたしがわたし自身を救えなくなくなる」状況のもとで
同性、異性にかかわらず、「誰か」を好きになり、この「好き」から
転じた「愛」がその相手に届いているのか、いないのか、わからない。

 わからないが故に「生きている」すべて、「生活」のすべてが
徐々に重荷となり、負担となり、この重荷や負担がどかっと
心や体に入ってくると視覚、聴覚、触覚、もしかすると味覚まで
敏感なところを感じ取ってしまい、この感じ取りが増幅されていく。

 感じ取って、増幅されると心がざわざわ、ゾワゾワして
眠れなくなるものだ、これがインソムニアであり
ナムコレプシーという事態から始まる「精神疾患」の正体。

 眠れなくなるから、さらに「わたしがわたし自身を救えなくなり」、
「わたしがわたし自身を信じられなくなる」から周りが
「わたしをよく」しようとして尽力している「善意」を「悪意」と
取ってしまい、より一層心の病と闇は深くなる。

 心の病と闇が深くなればなるほど、わたしは周りを信じられなくなり、
更には愛する存在すらも信じられなくなって、一人ぼっちになってしまう。

 本当は何とかしてわたしを良くない方向に導いてしまう
「内なるささやき」というものを自らを傷つけず、ましてや殺さず、
「内なるささやき」というものだけを殺さなければいけないのに、
わたしは「内なるささやき」に引っ張られて「愛する人」という
「他者」を殺してしまう、という取り返しの付かないことをした。

 こういうことを若くて美しい女の子が演るとえげつない、
そして「因業」の深さをふと見てしまい、恐ろしくなってくる。

北芸リーディングセッション 「書く女」

すべてがあまりにも壮絶過ぎて、
思わず、この現実に「悶絶」する。


 この戯曲、どんな形でも、どうしても見たかった。
そのきっかけが数年前だろうか、寺島しのぶ主演で
二兎社が演った公演のチラシビジュアルなわけで。

 ・・・あのビジュアル、ものすごくインパクトがあった。
机があって、ワープロ、もしくはパソコンがあって、
プリンタとファクシミリ、メモを貼るコルクボード、
椅子は普通の椅子ではなく畳椅子。
そこに座って、寺島しのぶがものさし片手に
苦悩呻吟している。

 さて、樋口一葉という女「性」を井上ひさしという男「性」は
「頭痛肩こり樋口一葉」という戯曲で「因果の糸」の結節点、
もしくは「因果の起点」として捉えて、この「因果」というものに
多くの人々がぶんぶん掘り回されていく様子と因果に
振り回されることで生み出されるエネルギーを「文章」にしたためて
その「仕事」でお金を稼いで、生きていこうとする女「性」としてみた。

 そうした見方を同「性」である永井愛は樋口一葉という女「性」を
どういう「存在」として捉え、背後にある「何か」をどう感じて
戯曲化し、板の上に載せていくのだろう?

 こんなことを考えていると、いつの間にか前説が始まっている。
物語の説明役、というか案内役である「現代人」が
わさわさとやってきて、その中に札幌の「千年王国」に居た
榮田さんを見、年賀状代わりに道真のチラシを札幌に送った時、
「北九州にお嫁にいったよ」ということを聞いたことがあり、
現実にいることを見たことで真実だったことを更に知る。

 前半部からマジで凄い。
「生きていくため、食べていくため」の「手段」として
「文学」という道を選んだ「人間」というか「女性」の苦しみを
これでもか、これでもか、と板の上に、演者のからだに、心に
叩きつけ、叩き込んでいる。

 相手とするのはありとあらゆる「無知」や「偏見」、
そして「既得権益」に守られて生きている同「性」、異「性」の
いかんを問わないすべての存在。

 これらに真正面から相対すればするほど樋口一葉が「武器」とする
「言葉」はより一層砥ぎに研ぎ澄まされ、人と人の付き合い方というか
「面対面」までも洗練されていき、今まで内気でどうしょうもない
ひとりの「少女」が「戦う女性」にまで急激に成長し、変化するまでが
めくるめくスピードで表現されていく。

 後半は戦う女性がありとあらゆる現実にぶつかり、
血みどろの血まみれになり、ボロボロに傷つき、
脳みそぶっ壊れたのか、心臓ぶっ壊れたのかわからないが
「寒い、寒い」言いながら、呻きながらそれでも言葉を書き続け、
書き続けてももらえるお金はほんの僅か、貰ったほんの僅かなお金も
「昔の価値観」に引きずられて、しがみついて生きている
「親族」が見栄を張って生きているお陰で右から左、
むしろ、出て行く金のほうが多い。

 目の前に立ちはだかる苦境を何とかしようと「言葉を書き続ける」他に
様々な手段を模索していくが、なかなかうまくいかない。
うまくいかないことで無理に無理を重ね、更に言葉という武器を研ぎ、
磨いて戦い続けたが29歳、という若さで力尽き、死んでしまった。

 この一部始終を見守り続けていた現代人は一体何を思う?

  現代人はある意味「自由」を手に入れたのかもしれない。
けれども、この「自由」を手に入れるまでに血みどろの血まみれに、
とはいえ、実際には血を流さないたたかいのほうが多すぎた、
この「事実」も忘れてはいけない。

 この「現実」を忘れて、「書くこと」はすなわち戦うこと。
「たたかう」覚悟もできていないのに鋭い、砥がれ過ぎた言葉を
ブログやらツイッターやらフェイスブックなどのインターネットで
ところかまわず振り回している奴がいる。

 どうせ振り回すなら、も少し命削って来いや、と諭される見後感。
諭しの持つ凄み、現実の持つ凄みが生み出す戦慄に震え上がる、
とはこういうことを云うのだろう。

「演劇・時空の旅」シリーズ#7 1953年/フランス「ゴドーを待ちながら」

ものごっつい中味の「お手紙」を頂いた。

 最近の「演劇・時空の旅」シリーズは四面囲み座席や二面囲み座席、
オクタゴン形式などとある意味、「凝りに凝った」空間創りをしていた。

 今回はどうなるのだろう、と思って宮崎に向かうと
久しぶりにガチのシアター形式で「演劇の空間」を作っている。

 荒涼たる空間にこれまた唐突な形で「演芸場」というものが
立ち上がり、その裏の控えでいつ来るかわからない「出番」を待つ
芸人、というものをつらつらと考え、舞台裏の配線周りがスッキリ
していたらものすごく「仕事」が楽になるだろうな、「仕込み」は
えらく大変なものになるけれど。

 そういえばこないだの「道真」という仕事は演者の「動線」にかかる
配線周りに関する養生のオーダーが場面ごとの動きが固まってから
どかどかどかと出て、自分が慌てながら平気な顔をして処理して、
確認を取って、またオーダーが出て、慌てながら平気な顔をして処理、
その繰り返しをしていると、こういう「面倒事」を引き受けて動く
役割や位置がいなければ「演劇」という「公演」は動かないように
なっているのかな、そういう仕事を「やりたい」といえるようになった
自分が(以下略。

 そんなことをつらつらと考えながらじわじわと
いま、そこに在る「演劇」に入り込もうとすると
ちょうどいい塩梅で前説が入る。
前半80分、インターバル10分のち後半65分。
・・・ということはアフタートークをうまく抜け出せたら
宮崎から熊本へ向かう高速バス17時半発に十分間に合う。

 半ば安堵してこの戯曲のおおまかな解説を聞き、
解説が終わると同時にすうっと明るくなって、
演者が板の上に立っている。

 Prayer'sシリーズからの流れを受けているのかもしれないが、
空間に靴の山、その上にラジオが置いてある。
そんな状況で毎日、毎日暇である、この「暇」をどう潰そうか、
というオーバーチュアがあり、一度暗くなってから本編に入る。

 「生きる」というか「歩く」というリズムでチェロが音を出すから
「ゆらぎ感」というものが半端なく出ている。
この「ゆらぎ感」というものを演者が受けてひとつひとつの
ムーブやマイム、更にはセリフ回しが「人生における出会いと別れ」や
「人はなぜ生きるのだろう」というネタを「不条理」というもので
うまく味をつけた「演芸」というものにまで作り上げている。

 この「演芸」となっている「演劇」を九州の、あるいは九州出身の
「演劇の名手」がやっているから喜劇は悲劇に転じ、
悲劇は喜劇に転じる、それでも生きなければならない人間、
というものが手に取るように良くわかる。

 板の上に存在する 「ふたり」の「芸人」を取り囲んでいる
「現実」は今だ、何も変わっていないし、「待っている」とされる
「ゴドー」というものの正体も未だにわからない。
しかし、「時間」と呼ばれている「状況」は少しずつ、
微妙に変化している。

 もしかしたら、この「ふたり」は生きているのか、
死んでいるのかすらも分からない、あるいは知らないのかもしれない。

 さて、鴻上尚史はこの戯曲という「長大なお手紙」の「お返事」として
「朝日のような夕日をつれて」という戯曲を書いたことはすごく有名。
(だから「鴻上夕日堂の逆上」なのかもしれないね、うふふ。)

 「いったい、誰を、何を待っているのですか」
 「本当に、その待っているひとやもの、ことは来るのですか」
 「来るか、どうかわからないひとやもの、ことを待つの、疲れませんか」

 という「お返事」から「ゴドーを待ちながら」に自分は入ってしまったから
「本当の」演劇人はこういうものごっつい「お手紙」をもらい、
この戯曲という「お手紙」に対してそれぞれの立場で、
それぞれの表現手法で「お返事」というものを書いて、出すために
日々、苦悩呻吟しているのかもしれない。

 というか、「ゴドー」というものの正体も見る人それぞれによって
違ってくるのかもしれない。
ただひとつ言えることは「次」というものがわからなくても
生きなければいけない。
そうすることで人間というものが如何に馬鹿で、間抜けで、
くそったれ、だけれども何故か愛しい、ということが良くわかるから。

 まあ、とにかく、今日も、明日もあさっても「暇」というものは
続くのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
そんなことをつらつらと考えながら携帯電話の電源を入れると
・・・もう、バスの時間に間に合わないじゃないか。
そろそろと外に出て、タクシーに飛び乗り、バスに間に合う。

赤星マサノリ×坂口修一 二人芝居全国ツアー2014-2015 「Equal-イコール-」

どこか切ない「おとなのファンタジー、もしくはメルヘン」。

 この戯曲を書いた末満健一という人、「例のこと」が元で
わたしはあまり赦せないところがあるけれど、作っている「もの」の
クオリティがものすごく高いし、そういうものを作ることができるからこそ
「心地良い」と「気持ち悪い」の「価値基準」が凡人以上に厳しくて
この「価値基準」を凡人にも平気で要求する、ならば黙って従うしかない。
・・・言いたいことはあるけれど、わたしの腹の中に納めればそれでいい。

 こういった質が高く、厳しすぎる「価値基準」から生まれた「美学」を
「力のある個」が演り、これがふたつ掛け合わされたならば、
一体何が起こるのだろう?

 表演空間からしてものすごくアートで、「異国感」というものが半端ない。
そして、きっちりと黒滔々たる闇がきちんと出来ていて、
この闇からさっと明るくなると演者ふたりが場の空気を探るかのように
前説を始めていく。

 前説のネタが土曜日17時からの「鋼の錬金術士」やその後番組
「進撃の巨人」を使っている所為かこの番組をリアルで知らない、
というか見ていないからどうもしっくり来ない。
故に、後ろの方にいる学生たちが面白がっていることがわからない。

 この時間帯は演劇見てるか、野球見てるか、サッカー見てるか、
あるいは寝ているか、という行動をわたしはしているのだろう。

 不思議な違和感を感じていると板の上では月曜日から始まる
「出来事」というものが静かに動き始めている。
月曜日、火曜日、水曜日は「主治医とその患者」、もしくは
「古くからの友人」と演者ふたりがそれぞれの立場を曜日ごとに
入れ替えながらなんとも奇妙な男二人の「同居生活」というものを
ユーモアたっぷりに見せ、時折後ろから面白がる声も聞こえる。

 しかし、木曜日から物語というものは突然、緊張感という
強度を伴って、見手に襲い掛かってくる。
気が付くと、いつの間にか「わたし」は「あなた」を乗っ取り、
「あなた」も「わたし」を乗っ取っている。
そんな様子から生まれる戦慄感が半端ない。

 この半端ない戦慄感を抱えて金曜日、土曜日は
いま、ここにある全ての出来事の「種明かし」をする。
「わたし」は「医者」であり、「錬金術士」という
いわゆる「化学者」の「始祖」だった。

 「わたし」は当時では「死の病」である結核という病にかかり
このままでは「身体」と「精神」というふたつの「滅び」がやってくる。
これらの「滅び」を少しでも引き伸ばすために「わたし」は
ひとつの「魔法」を編み出した。

 「もうひとりの私」を作る、という「魔法」というものを。
やり方としてはまず、「わたし」の「核」になるものを「あるやり方」で
取り出して、培養すると、弱く、小さい「もうひとりの私」が生まれる。

 この弱く、小さい「もうひとりの私」に自らの「血」を与えることで
「もうひとりの私」は「わたし」へと少しずつ変化していく。
そういうことで「身体」の滅びは少しだけ食い止めることができた。
けれども、自らの「血」を与える、ということは精神も少しずつ
「わたし」と重なっていく、ということ。

 そうなってしまうと姿形は異なるが、「精神」がほぼおなじになってしまう
「わたし」という「ふたり」が別々に「出来事」を起こし、
そうすることで「現実」というものが複数に化けてしまい、
何がなんだか分からない世界へと巻き込まれていく。

 巻き込まれてしまうと「過去」という「現実」と「現在」という「現実」の
ふたつがいま、ここに同時並行している、そのさまを見て
見手は心のなかにぞわざわ感を抱え、その場に凍りついてしまう。

 戯曲の持つ力が半端ないから、「生きて帰りし感」が強く出ている。
強く出ているから、人はみな、いずれは「滅んでいく」が、何時かは
「新しき人」として「新しき世」へと還っていくことができる。
これを人は「往きて還りし生の輪廻」というのだろう。

 だとすれば、「滅ぶ」ことを拒否して身体と精神を
「その場」に「生きて、留める」ということができるならば、
この「出来事」は素晴らしく、幸せなことなのだろうか?

 「行ったら行きっぱなし、帰ることを拒否する」生き様は
果たしてどうなのだろうか、という問を残して物語は消える。

 この、「苦くて辛い」見後感が、「大人のファンタジー」や
「大人のメルヘン」が持っている味わいなのかもしれない。
「苦くて辛い」を「強い個」を持つ演者ふたりがギリギリまで
表現しきってしまうと半端ない「苦さ」と「辛さ」が生まれる。

鹿児島演劇協議会リーディング 「楽園の楽屋」

演劇は見ることも、作ることもえらく体力と気力を使う。

  恐ろしくしんどいけれど、何かの糧になる活動だ。

 鹿児島、という街は福岡では街が湿気が多いからかもしれない、
この湿気などで「傷めつけられ」、「取り壊されて」しまった
古くて、風情のある建物が多く、その場所をうまく見つけて
「演劇」をしていて、いい空気を作り始めている。

 今回はいわゆる「教員協会」の講堂、という場所を風情のある
演劇空間、それも「舞台裏」という形で使ってしまえ、という趣。

 それにしても、「息」がうまく通る「場所」を作っておかないと
色んな意味でしんどいなぁ、そして物事がうまく進まない。
そう考えるとわたしはずっと「息」が詰まって、あわなくて
すごく苦しかったのかもしれない。

 こういうことをつらつら考えていたらもう本編だ。
板の上ではある程度、年齢を経て、数あまたある
「修羅場」を踏み続けた女優が3人、「日常」を脱ぎ捨て、
「演劇」に着替え、ひと通り終わって「演劇」を脱いで、
また「日常」に戻る、この繰り返し。

 この「繰り返し」をどこからともなく見ているのは
人生そのものの「演出家」たる「神様」なのか、もしかしたら。

 こういうふうに「演劇」と「日常」が重なりあって、絡み合っていくと
公演期間、というものも自ずと長くなることを望んでしまうものだ。
雑談して、外の空気を吐き出し、板の上の世界の持つ空気を
吸い込んで準備をし、演劇をして板の上で起こったいらだちや喜びを
吐き出して、日常の空気を吸い、クールダウンしてまた日常に戻る。

 そして、心と体にトラブルが起こってもそんな事情なんて、
演劇は待ってはくれない、ゆえになんとかごまかして板の上に立ち、
自分の役割を、位置を、十分果たさなければいけない。

 これが「修羅場」というものであり、この繰り返しの中で
見えた景色は、感じることのできたものは一体何だったのだろう?
何をよし、として何をよりどころとし、何を嫌い、何を苦しんでいたのか?

 そして、わたしはどこへ行くのだろう?

 こういうことを考え続け、「わたしの人生」と「役の上での人生」という
「ふたつの人生」を同時に生きていたらもうこんな歳になってしまった。

 「わたしの人生」だけを生きている、ということ自体すごくしんどいのに、
「役の上での人生」というものまで生きていたらいろんなトラブルを抱え、
何がなんだかわからなくなる。

こんな状況を一体何の因果でバチかぶってしんどい思いをしてまで
やっているんだ、と嘆いてみても「自分がどうしてもやりたい」と
思って、この道を選んだのだから逃げることはできない。

 というか、「選択肢」というものは最初からあったのか、
それともなかったのか、すべての業をなし終えるまでわからない。

 集合日から稽古、小屋入り、初日から中日、そして楽日へと
同じ道をゆく同士、連帯感、というものはあるけれど、
現実には親の死に目にも会えず、普通一般の恋愛や
結婚、というものにはまず、縁がない。

 けれども、わたしはいたのうえにたつことをえらび、
こうして、いたのうえにたつことをつづけていく。

 誰か、大切な人が死んでいても、いなくなっても、
そして、わたしが死んでいても、いなくなっても、どこかで見ている、
どこかで見られている、更にはどこかで見ることになるだろう。

 「演劇」とはそういうことであり、「演劇を作る」とはこういうこと。

 自分もこんな風に演劇と関わり、父を何処か遠い所へと送った。
という「現実」と重なれば、ひとつひとつの存在が、言葉が突き刺さる。
新しい演劇と人生に踏み込んでいるとなれば、なおさら。

公益社団法人日本劇団協議会 「義務ナジウム」

わたしたちは、「偏った価値観」の元で生きている。

 最近、演劇を見に行っていない、というか、見に行くことができない。
「芸工大プロジェクト」で「道真」という「作品」を作ることで
久しぶりに「演劇」というものをガッツリやっている、とも言うが。

 体と頭を動かして、わたしの考える「戦略」と芸工大サイドのそれと
すり合わせ、数多くの段取りをしてこの「義務ナジウム」と
もう一つ鹿児島である「天国の楽屋リーディング」に行って
見学がてら色々動くことになった。

 それはさておき、本当にえらく凝っている表演空間だ。
「巨大な樹」が「石段」に「寄り添う」ように「存在」している。
さらに言えば、「何か」に寄り添うように「お社様」までもが
「存在」している。

 その近くには「人々の生活空間」として文机、棚、そして電話、
かばん、ヘルメット、懐中電灯、そしてその他もろもろ。

 今回公演の趣向は、河野ミチユキという「熊本の戯曲書き」が
書いた戯曲を自ら持っているゼロソーという劇団「単独」で、
「自ら演出」して「自ら、もしくは、所属している役者たち」に
よって「公演」を作り上げて行くのではなく、東京から
古城十忍という「恐ろしい演出理論」を持った実力者と
彼が引っ張ってきた手練の役者に熊本で厳しい選考を
くぐり抜けた役者たち、という座組によって、
「公演」を作り上げる趣。

 この戯曲の「肝」は「働き終えて」というか「戦い終えて」日が暮れて、
という空気、「労働の尊さ」という「精神」が全編を貫き、流れていて、
この流れに乗せて「プロスポーツ」と「セックス」と言うものから
「地方」というものが抱えている「疲弊感と可能性」をまとめて見せること。

 さて、本編に入ろう。
「労働の匂い」を強く感じることができる「音楽」といえば
「ブルース」だよな、けれども、「労働の匂い」というものが
徐々に希薄化されている現代において「ブルース」という音楽は
どう変容していったのだろうか、ということを考えながら。

 コンビニエンスストア「すら」ない、ある意味、時代、というか
現代から取り残された山村が「スカッシュ」という「プロスポーツ」と
「トンネル」という「アイテム」で「取り残された」状態を打破し、
「外部」である「時代と現代」とつながっていきたい、という希望はある。

 けれども、男は「外」へ出稼ぎ、女は「内」で家を守る、
といういつできたかわからない、事実、「美女村」というように
ある時期までは「選ばれた」女が外で出稼ぎ、あと、残されたものが
「内」で家を守る、というようになっていた。

 そういう「風習」が「山」のお陰で未だに残っていて、
さらには、「男女差別」というか「男女区別」というものに加えて
「この土地で生まれ育った存在」と「この土地以外で生まれ育った存在」
という「差別」、もしくは「区別」に対して風習を知らない
「この土地以外で生まれ育った」、そして「女性」という二重の意味での
「異者」は折にふれて問いかける。

「なぜ、そうするの?」
「なぜ、そうしたらいけないの?」

 その「問いかけ」に重なり、響くようにこのムラにある
もう一つの風習、である「御籠り」という15歳になった
少年少女たちが厄年で年上の「異性」と「性交」して、
「処女」や「童貞」を敢えて「捨てさせる」行為の準備、
参加する、しない、その他いろいろなことにまつわる葛藤が
スカッシュで繰り広げられるラリーのように重く、早く、
見手の心に入ってくる。

 「外」の常識では「童貞」や「処女」というものは「貞操」として
「神聖なもの」というか「はれもの」に触るように取り扱っていて、
こういう風に「敢えて」捨てさせる事を見てしまえば、
人によっては「狂い」というものを感じてしまうことがある。

 けれども、この「狂い」を「狂い」と言ってしまえば
「外」の常識は「内」の人々が脈々と「生きてきた」生活や
歴史、そのものを「否定」してしまうかもしれない。

 もし、「否定しない」ようにするためにはどのような形で
「生きてきた」生活や歴史を「尊重」しなければいけない?

 みちゆきさんver.は「尊重」するにおいて「それ以外の部分」を
よりきちんと「書き込んで」いて、それはそれでいいけれど、
どうも、まだるっこしいところが多々見られた。

 これに対して、今回公演は「それ以外の部分」はきちんと
「シェイプ」されていて、「異なるものやこと」に対する
「寛如の念」というところに「特化」している。

 故に、人はみな、それぞれの「生」を全うするために
「お互いを尊重する」という「矛盾」と葛藤していることが
きちんと表現されていて、見えている。

 矛盾と葛藤しているからよそ者はあまり「閉ざされた」ところへは
行こうとしない、と言うかできないのかもしれない。
「閉ざされた」ところに「いく」ということはなにかしらの存在に
「呼ばれた」のか、あるいは「血」もしくは「縁」に呼ばれないと
そうそう行くことができない。

 そうして「呼ばれた」存在である「異者」がその場所にとっての
「他者」となるための「儀式」として「御籠り」という物がある。

  こういうふうに捉えたら矛盾や葛藤は「生きる」ということにおいて
「悪いこと」なのか?それとも「格好わるいこと」なのか?
更に突き詰めれば「生きる」ということ、「ものを作る」ということは
各々の場所に「寄り添う」ことでしかなし得ることができない、としか
考えることができなくなってくる。

 もっと突き詰めたら「生きる」ことや「ものを作る」ということは
「限られた状況」の中において「何かを変えていく」作業であり、
この「限られた状況」とはわたしたちが予め「背負っている」
何らかの「運命」や「宿命」、これらが形作っている「考え方」や
「生き方」、総合してそれぞれが持つ「人生の主題」なのだろう。

 これらのことを一度「棚卸し」する必要はあるが、
この作業は打っても打っても次々に「跳ね返って」来るので
非常にしんどく、手間がかかり、骨が折れる。

 けれども、そうすることで「変化しなくていい」本質と
「変化しなければならない」本質が徐々に腑分けされ、
「変化しなければならない」本質が少しずつ、少しずつ
「変化」していくものだ。

 このような「変化」を手に入れるためには
「手を抜かず、本気で取り組む」必要と、そうするための準備、
そうしたあとの十分なケアが必要なのかもしれない。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR