劇団Hit!Stage「CASE4-天使と悪魔ー」

「悲しき天使」は「悪魔」と同じ存在。

 それにしても、高速バスをめぐる「痴漢」事案はあまたある。
けれども、高速バス、特に夜行バスをめぐる「隣席トラブル」から
始まる傷害事件や殺人事件という事案はまったくもって聴かない。
というか、殺すか、殺されるかの状況になりやすいのに、
結果、殺しました、殺されましたという事にならない。
・・・新車1台をダメにした「巻き添えテロ」の事案は聴いたことがあるが。

 まあいい、とにかく早め、早めに佐世保へ移動、
道中、眠り込んでいるともう終点のバスセンター、時刻は9時少し前。
お金があれば上のホテル・レストランでバイキング食べて、動く。
けれども、現実は時間があってもお金がない。

 となれば、近くに競輪場があるからそこまで歩き、
開門まで正門でボーっとして、門が開くと今日は場外発売日だから
机と椅子のある有料席が無料で入ることができる。
そこで持っているお菓子を食べ、お茶を飲み、前日までの
まとめをやって、時間を潰してから会場へとゆっくり歩く。

 会場及び、中の表演空間は前回と同じ元映画館を
改造したライブスペース、そこに「人間そのもの」が
板の上に存在しているかのようなしつらえ、更に正面には
謎のタンスが「鎮座」している。

 客入れ音は「Those Were The Days」、日本語訳題は
「悲しき天使」のフランス語版、もしかしたらロシア語版が
耳に優しく、加えて切ない音圧と音量で流れてくるから、
日曜の昼下がり、しかも心と体が疲れきっている状況には
大変酷な環境だ。

 こういう酷な環境でも脳みそはフル回転していて、
佐世保という場所の空気は湿気のある南仏マルセイユ、
けれども信仰はロシア正教やらギリシア正教なんだよなぁ、
てなことをつらつらしながら考えている、そうでないと睡魔が。

 睡魔と闘いながら気がつくともう本編だよ。
ムーブマイムのベースとなるものも前回と同じく、
「女性性」を強めに出している「女性」と「男性性」を強めに出している
「女性」、ん、今回は「中性性」が強めに出ている「女性」はいないのか。

 狭い空間の二人芝居だから正面のタンスが開いた中には、
物語に必要な「小道具」が壁にかかって、待機スペースも兼ねる
「アイコンスタイル」の改良版。

 入れ替わり立ち代わり二人の女がいろんな立場をやって、見せる。
おまけに「現実」と「非現実」の2つが、マーブル模様のように
錯綜していて、「生きること」自体が壮大な「ゲーム」なのか、という
感覚に囚われてしまいそうな趣に仕上がっている。

 お話の基本構造は「子育て」をめぐるなんだかんだ。
「子育て」をめぐるなんだかんだにまで想いが立ちゆかねば
なぜ、佐世保という場所で2回も「子供による猟奇的な殺人事件」が
起こってしまったか、その理由がうまく理解できない。

 この「子育て」というものが「何らかの事情」で
うまくできなかった=「魂」を救うことができなかった、あるいは
救えなかった「記憶」を「携帯育成ゲーム」の中にインストールして
それをプレイしている。

 ・・・なるほど、わたしたちはわたし自身を救うことができず、
この「救えなかった」という現実が産み出す「記憶」というものに
人生そのものを翻弄させてしまっているのか。

 そうしてバラバラになってしまった「救えなかったわたし」の欠片を
次こそは、次こそはと何度でも、何度でも拾って、集めて、同じことを
続けている、その結果が「こうなったらいいな」というものが
「こうでなければならない」という怪物に化けて、気が付かないうちに
わたしたちは自らの手でこの怪物を育てていた。

 この怪物は育てば育つほどわたしたちのからだとこころ、
そして脳みそを支配していく。
ゆえに、すべての物や事、出来事に対して「恨み」や「つらみ」、
「嘆き」と「怒り」の感情、更には「他人様信仰」が芽生え、根付き、
行くところまで行って、「自己否定」、自分を殺すか、他人を殺すか。

 そこまでわかったらどう解決すればいいだろう?

 何らかの形で、長い期間降り積もって凝り固まった「負の感情」を
吐き出して、その後にまた「負の感情」が入り込まない手当てが
必要になってくるのかもしれない。

 その手当ての手段として「演劇」を始めとした「アート」を
「カウンセリング」的手法にまで持っていくやり方もアリだろうし、
自分はいままでそうしてやってきたことに加え、化学的療法や
「外部からの強すぎる刺激」を遮断することが必要。

 さて、その次どうするよ、というラストでお話は終わる。
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演劇ユニットそめごころ「201x年の記憶」

わたしたちは、「そめごころ」だという「決意表明」。

 このカンパニー、というか、ユニットは結成当初、
もしくは結成「以前」からずっと野田秀樹の戯曲にこだわってきた。
「農業少女」から「表へ出ろぃっ」、「THE BEE」から「赤鬼」、
短編で「エッグ」を意識した「Death Disco」の超短縮版、
野田秀樹が書いた一人芝居は・・・女の子版は
「障子の国のティンカーベル」か、それを意識した男の子版の
一人芝居用の戯曲、で、「Death Disco」をある程度の時間に
「作って」、「走れメルス」を外部からの演出入れて2バージョン、
「自分たちはどこまでできたか」を知るために狭い空間で
「赤鬼」と「THE BEE」、そして今回、初めて長めのオリジナルをやる。

 結論から先に言うと、「救済されなかった、救済できなかった魂」と
あるいは「救済できなかった魂の記憶をめぐる物語」
としては野田地図の「エッグ」とおんなじことを言っている。

がだ、アプローチというか切り込む姿勢がほんの少しだけ違った。

 まず、表演空間、こういう塩梅で「四面囲み客席の真ん中に表演部」を
使われてしまうと複数回見に行ってしまいたくなる。
しかし、惜しいところは客席の段目、高さがいまいちだったところ。

 表演部に転がって、「カオス」というものを作り上げている「もの」は
ロッカーではなく机と椅子、さらには「ブレヒト・カーテン」という代物が
二枚、斜め平行、しかも客の目にさらされる場所に存在し、
さらには入口近くに「クランク」を仕掛けて「物語」の導入を作り、
90分から100分間、演者は出番のあるなしにかかわらず
見手の目に常にさらされている、という恐ろしいことになっている。

 さて、「エッグ」の元ネタは「731部隊」と「東京オリンピック」、
「Death Disco」の元ネタは「311大震災・フクシマ」と「東京オリンピック」。
本編の元ネタは「佐世保で起きた同級生バラバラ殺人事件」。

 この元ネタを軸にして「救済されなかった、救済できなかった魂」が
なぜ生まれてしまい、「わたしはわたしを救うことができなかった」、
「後悔」という「記憶」と「救済されなかった魂の記憶」に人々が
翻弄され、苦しめられていく様子がピッタリと重なっていく。

 違いはただ一点、バラバラにして「カオス」のまま終わらせたのか、
「カオス」のその先にまで荒削りかもしれないが踏み込んでいったか。

 「救済されなかった、救済できなかった魂」と「記憶」が
ぐちゃぐちゃになってバラバラになった「欠片」を何らかの事情で
回収することを「しなかった」のか「出来なかった」のか、「エッグ」は
放ったらかしにして「赤い夕陽は・・・」というふうに無理矢理に
「持っていった」感がある。

 この「欠片」を不器用ながら何とか拾い集めていくと、
とんでもない「過去」、もしくは「そうなるべくして起こった重大な出来事」
というものがうっかりと見えてしまう。

 うっかりと見えてしまうと「そうなるべくして起こった重大な出来事」に
よって、その「出来事」に携わった数多くの人々の「その後」というものが
大きく変化してしまった、「変わらないよ」と勘違いして、
「大事にならないように」尽力しなければしないほど「その後」という
ものはより一層「悪い方向」へと変化してしまう。

 人は、その「結果」だけを見て恨んで、嘆いて、怒ってしまう。
けれども、その時にはどうにもならないわけで。

 だとしたら、「大事にならないように」尽力するにはどうすればいい?

 そこにいるあなたとわたし、そして「他者」もしくは「異者」が
各々、それぞれの「生きている時間軸」、「生きている時間帯」は
全く違う、けれども何らかの事情で重なってしまっただけ。

 重なってしまったとしても、わたしはわたしの「時間」を、
あなたはあなたの「時間」を生きていかなくてはいけない。

 その先に、何があるかわからないけれど。

 わからないけれど、受け止めてやっていく、という「決意表明」を
こういう形で見た、ということか。

野田地図「エッグ」

「救済されなかった、救済できなかった魂、
あるいは記憶の物語」

 「ワンチャンス」をものにした、と言うかできた。
そめごころの「Death Disco」を見た時、この「エッグ」に
重なるところが多々見られる、だとしたら「エッグ」初演を
見に行っていない自分は「Death Disco」をうまく整理できない。

 こういうことを考えていたら、奇跡的にエッグ再演するぞ、
今度は北芸でもやるぞと連絡があったが、その頃は
色んな意味で準備ができなかった、故にチケット第一次争奪戦に
ものの見事に出遅れ、第二次争奪戦も出遅れ、「リセール」での
出物があっても指をくわえて見送る以前、「ああ、もう見に行けないのか」
というところに最後の最後で演出プラン確定による「追加席」が出た。

 最後の最後で上手くタイミングが合って何とか手に入れて何より。

 なんか、高校生の頃、初めて「夢の遊眠社」をももちパレス
大ホールの下手、一番端っこの客席にぎりぎり学生服、
高校のテストで日曜登校の隙間からようやらやっと潜り込んだ
あの頃とおんなじ気持ちだ。

 あの頃は高校生「的」チケットなんていうありがたいものもなく、
4000円から5000円もする決して安くないチケットをよく買ったな、
というか、買えたものだ、自分。

 そう考えてみるといまどきの若者って恵まれている、というか
恵まれすぎている、「場」も「情報」も全て用意されていて、
「負担」というものも余りかからない、半分の「苦労」で
最大の「結果」が出せるから現実的になるんだろうな、と開場前の
雑踏を見ながらふと思っていた。

 さて、座席の位置、思わず驚いてしまった。
リアルに「スカウター・シート」という位置を貰ってしまったぞ。
一番後ろの音響や照明のコントロールブースの近く、
天について若干の「見切れ」はあるけれど、気になるレベルじゃない。
後ろを振り返ればお客さんのなんだかんだを見ることのできる
大変便利なポジションだ。

 前方表演部に目をやると、なんというかアンドリュー・ロイド・ウェバーの
「オペラ座の怪人」、開場時から開演までの空間のつくりを彷彿とさせる
「全てが終わってしまった感」が野田秀樹の流儀で表現されている。

 全体的な空気は「演劇」というか「ライブ会場」のノリでおしゃれな
客が沢山いる中で「サッカー場」のような猛々しい音をぶちかましている。
この違和感、というものが今回の肝だったのだろう。

 ふと正気に帰ると、板の上では野田秀樹が自らが具有する
「両性具合」をうまく引っ張りだして修学旅行中の「女子高生」
(ここが物語の肝!!「男子高校生」は混ざらない)に「場所の物語」を
語り、これを「スイッチ」にして「全てが終わってしまった場に残された」
夫婦が現れ、気がつけば「飛ぶ劇場」の名作「Iron」を意識した
「ロッカールーム」が現れて、物語が動き出す。

 物語の柱は「開催されなかった」、「開催された」、
「これから開催されようとしている」、「3つの背景」を持った
「東京オリンピック」というスポーツイベント。

 このスポーツイベントで開催されるはずの「エッグ」という
実際には存在しない、そして断片的にしかルールや
どう競技するのか、見せないがどうやらクリケットという
実際にあるスポーツと似ているところはあるが、少しだけ似てない
スポーツを仕立てあげ、ここにもまた「オペラ座の怪人」の
人間関係、というものを巧みに混ぜ込んたフィクションを仕立てあげた。

 歌姫クリスティーナがイチゴイチエで、ファントムがツブラヤ、
ラウールがアベベ、という「三角関係」というものとして
そこに存在している。

 隠し味として「野球のオリンピック除外問題」や「ドーピング問題」
「隠れ性別問題」、そして「アベベ・ビキラ」という大変優秀なアスリートが
東京オリンピックのち、どんな人生を送り、死んでいったか。
という「現実」というか、「事実」という超弩級の毒を用意周到に仕込む。

 全ては嘘で、全ては事実、あるいは真実。
否定もありで肯定もあり、それが生きている、ということを
丹念に記録する「記録係」として寺山修司が「存在」し、
更には、この「記録」に「プロパガンダ」や「医療による大量抹殺」、
嘘や事実や真実すべてを突き詰めていくと、時代というものが
「女性の勝利・男性の敗北」という結果の継続と「常に生贄を求める」、
「生贄を求める」ということは「救済されなかった、救済できなかった魂、
あるいは記憶の物語」というものを「受け入れなければいけない」
という要素が明らかになっていく。

 これらの記録や要素にロック音楽とコンテンポラリーダンスを
ガチで混ぜて、場面転換にはブレヒト・カーテンを効果的に使う。
一つ一つがかなり刺激的で、挑発的な作りになっている。

 刺激的で見手を常に挑発しているから、いままで「鵜呑み」に
していた「物語」が実は「半分が真実・半分が嘘」だということを
じわじわと知ることになり、知ることによって生まれる違和感と
反発感が見る人によってはすごく感じるのだろう。

 そめごころの「Death Disco」をこの文脈で整理してみると
「東京オリンピック」に加えて「3・11東日本大震災」と
「フクシマ」の原子力発電事故を絡めて、スポーツの要素は
少なめに、その代わり、「差別」というものでわたしたちは
「殺し合い」をしている、という「事実」や「現実」にまで踏み込んだなと。

 「前に進んでいる」からこういうことがわかる、そして
「救済されなかった、救済できなかった魂、あるいは記憶の物語」を
どういう形であれ、救済することができるかもしれない。

 逆に、「前に進むことをやめる」ということは「救済されなかった、
救済できなかった魂、あるいは記憶の物語」を消去すること。
故に、滅びることしか選択の道はない。

 故に、この物語は「前に進むことをやめた」から
ああいうふうにして、壊れてしまった。
そしてある一欠片が天井の一番高いところにくっついて離れないのだ。

rawworks「中村仲蔵」

徹底的に貫き通す。

 少し早い時間から長崎に入って、開演までうまいもん食って、
温泉にも行ってゆっくりできるかもしれない、なんて
思っていたら、甘かった。

 ・・・ふうっ、ホークスの先先行、6月の阪神戦、ハム戦、
2つとも取れてしまったじゃないか、おまけに机の上に
引っ掛けて使う「書見台」を探して買わなければ。

 色んな意味でカネがかかりすぎる。
緊縮財政によりいっそう磨きをかけたいが、もう嫌だ。
くんちの諏訪神社に行き、そんなことを考えつつ
ひさしぶりに宝町のポケットシアターへ向かう。

 中に入って驚いた。
昔ながらの「芝居小屋」が現代風味にアレンジされながらも
再現されている、というか、なんというか。
おまけに客席が三面になっていて、こういう作りは
同じものを3度見に行きたくなってくる、けれども日程、
加えてお金の問題というものがなかなかそれを許してくれない。

 演劇、というかアートというものは「歴史」という
「アーカイブ」の中に隠れている「トレンド」というものを探して、
拾って、ピタリとハマる「ピース」を新しく補うようにして作る、
そうして「歴史」というものをつないで、続けていくのかもしれない。

 こういうことをつらつらと客席で考えていたら
ものすごく姿勢と所作の良い前説が始まり、
本編の上演時間は90分、とのこと。
どうやら高速バスの最終にはなんとか間に合いそうだ。

 前説の間にもぞくぞくと客が入ってきて
数分オシで本編が始まる。

 お話の中身は孤児が「芸の道」で生きている人に
「拾われて」、最初のうちはこき使われ、その後に
芸を仕込まれ、見つけて、身に付けて、一度は芸の世界で生きてみた。

 けれども「運命のイタズラ」でまた堅気の世界に戻されて、
そこで生きてはみたけれど、芸の世界が骨身に染みてしまうと
堅気の世界で生きていくには無理がある、ということを悟り、
また芸の道に戻って、更にありとあらゆる「汚いもの」を
嘗めに嘗め尽くして更に芸を磨き、看板を背負った男の一代記。

 けれども、看板を背負うまでに喪ったものは数多く、
喪ったものやことをすべて飲み込んで開き直ろうとはするけれど、
「過去」の残像に揺さぶられ、「成功」という幻にも揺さぶられ、
心と体、そして頭が狂っておかしくなろうとも、「板の上」という
ものすごく広いけれど、ものすごく狭い「場所」でしか
生きることができない。

 この「覚悟」と苦しみや痛みを背負って生きた先に
「生の歓び」がある、ということを「心理的な広さ、狭さ」や
「陰影の使い方」で変幻自在に見せている。

 そうなると、物凄く狭い、物凄く密集した濃密な空間で
「研ぎ澄まされた」藝の凄みをいつの間にか見ていた。

 あるときは、歌舞伎であり、またあるときは落語であり、
そして万才でもある。

 こういう壮絶なものを見ていたら、長崎に向かう道中、
あることで「わたしの世界」と方法論によって「違う世界」に
うっかり口を出してしまったわたしの愚かさに気がつく。

 ・・・ただかおり巧い、帯域が広くなってきやがる 。

福岡オトメ歌劇団「パシフィック・パニック・パーティ」

「演劇」って、いいものですよ。

 最近、みんな、みんな、「演劇」しているよ。
テレビでよく見るタレントさんも、アナウンサーの方々も、
グラビアでよく見るアイドルも、モデルの方々も、
そして「大人の世界」で妖しくうごめいているセクシー系の
方々までガチの「身体言語」を学んで「演劇」を始めた。

 いろんなことがあるからだろうか、まあ、とてもいいことだ。

 こういうことを考えていたら、変に疲れているからか、
いつの間にか、うとうとしている。

 さて、表演空間のサイズはぽんプラザホール108人サイズ、
アクティング・エリアはシンプルに平台5×5=25面、
上にはパンチカーペットやリノリウムのたぐいを敷いていないが、
平台の下に「防音・防振」のためのコルクボードが敷いてある。
奥の方には暗闇に紛れて何かが隠れている。

 客入れ音も波の音が断続的にざわざわしながら突然消え、
また唐突にざわざわと鳴っている。
そうすると「わたしたちは板の上で演っていて、音と光とにおいが
気になる、あと<<権利>>というものはすごく厄介だから
引っかかるようなことはしないでね」という前説が入り、
奥の暗闇に音担当の人が入る。

 こうして全ての「支度」が整ったところで、本編に入りますか。

 普通の人では「なりたくてもなることのできない」役割というものがある。
その役割に「たまたま」なる資格がある少年が「役割」になるための
修業をする「ある島」へ行くために船に乗ろうとするところから、
物語は始まる。

 というか、板の上に存在している「すべて」から「ナマの肉体」、
「ナマの声」、「ナマの音」になかむらゆきえはものすごくこだわりを
持って、「舞台」というか「エンターテイメント」というものを作っている、
ということがきちんと見えて、きちんと聞こえ、きちんと感じることが
できた、というか、できるためにあえて足元を「木の床」にしたのか。

 ダンスの基本的な「ステップ」や歩く速さ、リズムがもつ
それぞれの「音」が舞台後方にある音箱から出る「ナマの音楽」と
組み合い、重なりあってうねりというものが生まれ、
物語のひとつとして存在している。

 なるほど、「アイドル」というものの流儀で「劇団ぎゃ。」を
ぶちかましてみるとこういう風になるのか、というくらい
ゆきえさん、アイドルと言うものに徹底的な基本・基礎を
叩き込んでいるのかなぁ、うん。

 お話の中身は声をなくした「歌う人魚姫」と彼女の「陰」となって
「歌う」ことのできる存在を「探す」、という出来事があり、
背景にあるさまよえる魂、「人生、なにかごまかしていないか」という
疑問点、「責任」というものをひとりで背負えばいいや、から生まれる
なんか「変な感じ」、これらもろもろがぐるぐる回る渦巻き模様となって
混ざりに混ざるところにアンデルセンの「人魚姫」、
漫画の「ワン・ピース」、映画の「タイタニック」の要素をさらに加え、
更にグルグルかき混ぜた。

 かき混ぜにかき混ぜた結果、「子供」から「大人」へと変化して
「自らの人生を自らで決定する」ところで一区切り。

 うーん、彼女らにまだ「演劇」というものが身体に入っていないからか、
ムーブマイムに乱暴さや強引さが多々見られ、
おもちゃ箱をひっくり返したような乱雑さが目立つところが多かった。

 そこら辺をうまく整理できたら良くなるだろうし、実際良くなりつつある。
CD売り上げランキングにデビューシングルが入った、という現実が
これを物語っている、とは言い過ぎか。

九大大橋キャンパス演劇部 「幸せはいつも小さくて東京はそれよりも大きい」

すべてを「リ・デザイン」する、という凄み。

 数年前の8月、東京のアマヤドリという劇団が元版を
福岡ぽんプラザホールでやり、これを実際に見た(かもしれない)
熊本の劇団「不思議少年」が「熊本からのお返事」というか
「熊本からの挑戦状」という形として「東京ジャングル」という
戯曲を書いて、上演し、倍ではなく、乗の速さと強さを重ね、
今や九州で次を担う有望劇団の位置にまで辿り着いた。

 自分も自分で、この元版を見に行く日の午前中に
「飛び込んで」来た会社とわたしの「考え方」の「すり合わせ会」以来
わたしは本気で演劇とハンバーグ工場の仕事とを「掛けあわせて」
生きてみよう、と考え、九大大橋キャンパスでやっている
アートマネジメントの社会人講座を受け、総まとめとして、
こないだ公演を一本作ってきた。

 この公演での仕事とそこに至るまでのなんだかんだを
思い出していたら、このタイミングでお手伝いしてくれたところが
「原点」になる演目をやる、なんという偶然か、と驚き、ハコに行く。

 ハコに入るなり、驚いた。
表演空間の入り口に「東京」のビル群、というか「都市山脈」を
イメージしたダンボール細工がドン、と鎮座していて、
これを眺めながら表演空間に入ると白、白、白一色に
「生活感」というものがぎっちりと詰まっている、という
恐ろしく凝った空間の作りになっている。

 アマヤドリの元版はこういった、というよりか、
これよりも「シンプル」な表演空間で「一糸乱れぬポジション・ワーク」を
繰り広げていたが、フィジカルと身体言語がやや劣ることを
この大橋キャンパス演劇部はどう補うのか、つらつら考えながら
置いてあるものを見ていると、なにか懐かしい。

 今や、ほとんど見ることのできなくなっている2槽式洗濯機、
その他にも色んな意味で「懐かしいもの」がいっぱい揃っている。

 この白一色の「懐かしい」空間にドアが3枚、というギミックがあり、
ところどころに「黒」をアクセント、というかポイントで「置いて」あるから
尋常ではない、さらには「鏡」という「自ら」を写すものや
「時計」、あるいは「時間という概念」といった「心理的な軸」を
示すものが全く存在しない。

 この空間で、奇妙で、恐ろしい「事件」という「物語」が始まるのか。
いわゆる「メンヘル」で「コミュ障」の美人がある日突然、
平和に生活している「シェアハウス」の中に飛び込んで
このハウスの「生活者」のひとりである男に「しがみついた」。

 ・・・「監禁」されていたならばまずは警察行きな、というが、
当の本人は警察行きたくない、と言い、さらには真実も大事なことも
名前も、住所も何も喋らない、ということは何か「秘密」を
抱えているのだろう。

 この抱えている秘密が平和な日常をひたひたと侵食していることを
知らないまま、毎日を生き、たまたまうるさいと苛立っていた、
アカの他人が実は知り合いだったり、というようにわたしたちを
構成している「社会」というものの「歯車」の揃いや狂いの様子を
フォーメーション・ワークで再現しているのか、という発見。

 家とバイトの往復、バイトは夕方から夜中の2時まで、
それから始発の電車まで別の店で飲んだくれている、という
日常があり、「監禁」からまた別の「監禁」へと自らの意志で
「場所」だけが移動するある種変態的な日常、
せっかく一緒になったのになる前より離れ離れになってしまった
「トゲのある」日常だってある。

 これらの「日常」という断片をポップな「会話」でまとめているから
「5年前」のお話、生活空間なのに、気がつけば「2015年」の
お話に化けてしまっているほど全く古さ、というものを感じない。

 それはさておき、私達はひとつの「宇宙」を生きていて、
この「宇宙」にひとつしか「開けられていない」窓の向こうにも
また別の宇宙が存在している。

 わたしたちはどうやら「別の宇宙、異者の時間」というものを
無視しすぎているきらいがあり、これが心配する「ふり」、
わかっている「つもり」、というへんてこりんな「ピン」というものが
心に刺さって追い詰められてしまう。

 けれども「ピン」の存在や刺さっていることがわからないから
どうしていいか、わからない、わからないから他人と触れたくない、
触れたくないからうまくいかない、うまくいかないから現実と
非現実の区別がわからない。

 これらの「わからない」をごまかすことのできる「魔法の言葉」が
「向いていない」とか「XX不足」という言葉なのかもしれない。
われら幼い若者、いや、人類は安易に、この「魔法の言葉」を使い
「傍観者」になろうとするが、なろうとすればなるほど皮肉なことに
より変な形で「事件」や「事物」に関わってしまいがちになる。

 こうなってしまうと「ルール」って何? 「責任」って何?
さらに言えば、「人生」って何?
これらの問いがもくもくと湧き出てくると、結局、みんな、誰もが
「当事者」であって、いま、そこにいる場には「傍観者」というものは
誰も存在しないわけで。

 なのに、「当事者」を引き受けたら「人の機微」は理屈では
わからないことを知らないがゆえのカオスに巻き込まれる。

 こういうキツイお話をムーブマイムの精度と密度はもちろんのこと、
芸工大らしく空間全体のデザインで「見手に負担を掛けない形で
多くの情報を提供する」ように作られている。
 
 故に、流れる空気はライトな「クラブ系」なんだけれど、
どこかえげつない 。

劇団ルアーノデルモーズ「ミツバチと時間のワルツ」

修羅場感が半端ない。

 この劇団に対して、当初感じていた「アウェイ感」というものが
公演回数を重ねるに連れて薄まっていている。
初めてこの公演に足を踏み入れた時、「ああ、これが生きている世界、
というものが違う」ということなのだよな。
こんなことを感じると「いま、そこにいる場」にいることがしんどくなり、
「見ること」すらしんどくなってしまうのです。

 がだ、「身体的魅力」としてもともと備わっていたものに
「身体言語」というものをインストールして、公演ごとに
アップデートしながら作品を作っていくことで
「ファッションモデル」という「職業」が「演劇をする」ということを学び、
「何を伝え、何を伝えないか」を正しく判断し、「場」に応じた
「感情のコントロール」を学んだ。

 故に、彼ら、彼女らは「ファッションモデル」以外に自らを「表現する」
ことのできる「仕事」を徐々に手に入れつつある、という現実が生まれた。
現実はさらに彼ら、彼女らを「演者」として次なるステージ、
「自らの身体言語だけ」で勝負するしかない「ガチの演劇」に
足を踏み入れさせようとしている。

 こういうことはさておいて、表演空間をひと目見て、驚いた。
なんていうか、これ「ハニカム構造」というものやないですか。

 ざっくり言えば、「部材」というものを「蜂の巣状」に組んで
形を作れば、かなりの強度が生まれ、使える空間自体も
最大限のものが生まれる構造だ、ということ。

 さらにいえば、「蜂の巣」という「自然の営み」を
「人間の生活」に「落とし込んだ」デザインは2015年でも
(21世紀も、もう15年経過したのか!!)全く古さ、というものを
感じることなく、むしろより一層の「新しさ」すら感じ取ってしまう。

 お話の構造として「自作の構想」がうまくまとまらない
売れっ子の小説家、「何か良からぬことを企んでいる」陰の勢力、
そして「メジャーデビュー」という「一つの目標」を窺うロックバンド。

 これら三者三様の「ドタバタ具合」を「断片的」に見せていきながら、
はりーの可愛くてえげつない「ミツバチ」という存在が「運命」という
「花粉、あるいは媒介物」をあっちにやったり、こっちにやったりして
さらにはおバカまるだしで振る舞うことで「生きるとは何、死ぬのって何」という
「硬い話題」を「柔らかく」見せている。

 「硬い話題」を「柔らかく」見せてしまうと、「幸運も不運も紙一重」という
こともわかるし、「人生、どう転ぶかわからない」ということも良くわかる。
そして、そうなることの「必然性」や「意味」というものまでも
きっちり見せている。

 そうなるためにはそうなるための「事情」というものがあり、
この事情が「必然」を生み出し、最終的に「必然」は成果や
結果へと「昇華」していくのだ。

 この「昇華」はまさしく「修羅場」そのもの。
ひとつ油断すれば足元を何かに掬われ、気がつけばすべてを
失ってしまう、この様子がえげつない。

 えげつない「修羅場」を通り抜ける「紙一重」を
「新しい世」行きの「修羅場」を通り抜けるための「列車のチケット」を
ミツバチがやりとりするさまを人はよく見ることができず、
「なぜ」を重ね、そして繰り返していく。

 ミツバチ自体も「使者」として働く以外のことを
「上から」教えられていない、故に、「なぜ」と言われても
その「なぜ」に答えようがない。

 答えようがない「答え」を探す、ということは
必然として「立場」というものが入れ替わり、立ち変わる中で
「チャンス」や「役割」、そして「居場所」は変化していく、
もし、その場でじっと待っていたらチャンスも、役割も、何もつかめない。
・・・だったら「自分」から掴みに行くしか、道はない。

 自ら「つかみ」に行くことで困っている人を
気がつけば「助ける」ことになり、その助けてもらった「恩」が
まわりまわって自らを「助ける」事になる。
そうしてみんな、それぞれの「チャンス」や「役割」、
そして居場所を見つけ「黄金の毒の国」へと足を運ぶ。

 また「ゴールデン・ゴールデンポイズン」を見たくなったではないか。
・・・こんどはかわさきゆうVer.で。

演劇ユニット永久磁石(nomad) 「龍とあたくし」(dengekiリベンジ版)

「変化する勇気」と「変化しない勇気」。

 それにしても、「物事の起点」になっている自分が
当初は別の日程を建てていて、この演目の予約の予の字すら
入れていない、ということはいかがなものか。

 去年、熊本のdengeki予選ステージ終わって、
脳みそがしんどい、しんどい言ってどうにもならないので
朝早くの高速バスで、一度家に帰り、天神バスセンターに着いて
1階下の西鉄福岡駅に降りて、太宰府行きの急行に乗る前、
このカンパニーから「ことばのパス」と言うものが出た。

 出来には自身を持っていたが、どこが良くて、どこが悪かったのか、
この回の見手のほとんどがアンケート書いてくれていないので
途方に暮れている、助けてください。

 このパスを受けて、電車の中で、降りて家への最寄り駅の
ホームにて苦悩呻吟しながら「パスの返し」を書き上げて家に辿り着く。

 で、この「返し」を受けてくうきプロジェクトの中で
「リベンジ公演」と相成った次第。

 こういう状態を作っておいて、どういう変化が起こったのか
「見ない」ことを選んだなんてわたしはいったい、何をしているんだ?
そんなことを考えて、身悶えしていたら、あなピグモのイベントで
ふたばがバカダミアン出るよ、ということで行って、見て、その流れで
この演目を見ることが出きて、まあ何より。

 お話は「ノアの箱舟」のように地上から何らかの事情で
「隔離」されている空間での命のさざめきや愛のさざめき、
それらの聞こえそうで聞こえない声を「あたくし」という
男性性と女性性の両方を持った「人工人間」が拾って、
「毎日の生活」という形で見手に伝えながら、「あたくし」という
「人工人間」が「人工人間」になる前、「人間」だった時の記憶まで
混ざりこんでしまうと「わたしって、一体何のために生きているのかな」
そういう疑問と生活の中に「龍」という何かが入ってきた、
あるいは入ってきつつある。

 この「何か」が入ってきたことによって起きる「変化」を熊本dengekiでは
「異物が入ってきて、今までの世界が崩れていく過程」として捉え、
カオスに満ちた「殺し合い」という形で見せていた。

 今回リベンジ版は「殺し合い」を「育て合い」という形で
物語の「軸足」を移し、「人工人間」の人物像も女性を強めにしたものから
ほぼニュートラルにしたものへと調整し、「何か」というものも
「つかみ所のない架空の生物」から「女性的な人工人間」として捉えた。 
 「気がつけばこんなに醜くなっていて、それでも生きているのはなぜ」
という「内省」から醜さを笑い飛ばして開き直る。
そのきっかけが「龍」という何かだった、そうしたらわたしの
生きているところは以外にも広く、以外にも素晴らしいところではないか。
こういうところにまで「うまく変化させたな」という見後感。

 もしかしたらこのお話は「ふたつの物語」が連なっているかもしれない。
そういう「可能性」も同時に生まれた。
結局、「変わる勇気」と「変わらない勇気」のさじ加減が大切なのかも。
 

オイスターズ 「日本語私辞典」

人は「じ」より出て、「じ」を失い、「じ」で終わる。

 わははははは・・・・当分酒の顔を見るのも嫌になってきた。
人間、ひたすら飲み続けて、はっちゃけて、エンターテイメントとしての
「飲み」として変化してしまったら、反動で身体が大ボケかましやがる。

 おかげで、携帯電話やら何やら、その他たくさんのものを忘れて
家からあじ美ホールに向かっている、という現実。

 さて、名古屋の演劇業界の誇る2トップのうち、
あおきりみかんというところは親分のかのめっちと言葉のパスを
いろんな状況でやりとりしているし、その流れで公演自体も
宮崎まで遠征してみることができた。

もう一方のオイスターズ、東京でのあおきりニコイチやら、
広島公演、行くチャンスはあったのだが、身の回りで
いろんなことがありすぎて、なにもかも見逃してしまって、
今回、やっとこさ、というところ。

 ハコの中に入り、空間の中に身を落ち着けると、奥行きの深さを
十二分に活かし、背面には5×10マス以上あるグリッド骨組みに
半紙を貼ったものがそこに、存在している。

 それはさておき、人類というものは「思考」というものを
外部から入力したり、また、外部へと出力するために
どういう手段を使っていくのだろう?
 
 ぶっちゃけて言えば、人は何を拠り所にして考え、
この考えた結果をどういう形で他人に発表するのか、
「ことば」というものはその数多ある手段のひとつかも知れない。
がだ、「ことば」というものはあまりにも単純、あまりにもシンプル。
けれども、あまりにも複雑で多岐にわたる。

 故に、入出力の手段にはとっても都合が良く、
結果、このように人類の歴史上多用される次第となった。

 このことを踏まえて物語を見てみるとすべてが文化的、
且つ哲学的な世界、というものが目の前に広がっている。

 文化的、哲学的な世界とこれらの出入力にまつわるすべてを
「演劇」という形で身体言語に載せてしまうと、ムーブ・マイムの
一つ一つがものすごく滑らか、この滑らかさに強弱が程よく効いた
リズムのいい「セリフ」という名の「パス」が加わって、
正確かつ、意図的なパス回しからフィニッシュ・ワークに持っていく
事もあれば、これまた意図的に不正確なパスを出して、
強引なフィニッシュ・ワークに持っていく事もある。

 けれど、どんなフィニッシュ・ワークも、物語の枠内に
きっちりぶち込んで行くことのできる精度と密度がありすぎる。
・・・これが福岡の演劇、九州の演劇に少し足りないところかもしれない。
ガラパも、飛ぶ劇もここができているから、凄いのかもしれない。

 この精度と密度で普通の高校生の朝起きて、飯食って、
学校行って、バイト行って、家に帰ってなんだかんだして、寝る。
という一日の繰り返しが正確に板の上へと「落とし込まれて」いく。

 この「ある一日」の中で起きた「ストーカー」という「不都合」を
消していくために「ことば」というものを一つ一つ「潰して」いくことにした。
一つ一つ「ことば」を潰していくと「思考」というものの入出力が
次第に自由を奪われ、「思考」そのものがだんだんと塞がってしまう。

 入力、というものが少なくなってくると、出力が回りくどくなって、
出力が少なくなれば、入力したものを読み取る、という作業が
訳がわからなくなってしまう。

 そういった様子が文選のセンスの良さと、「直感的」かつ、
「意図的」に消していくことで窮屈になる。
けれども、窮屈の中で「やりくり」することが足りないものを
補うことに繋がり、気がつけば「豊かな言葉遊び」へと変化している。

 こういう様を見るとわたしたちが如何に「偏った」言葉の
入出力で生きている、ということを思い知らされてしまう。

福岡女学院合同公演 「あゆみ」

「産まれて、生きて、死んでいく」 のリズムは、
歌うように歩き、歩くように歌うものだ。


 この「人生の名作」をわたしはこれで、都合3回見たことになるわけだ。

 さて、一番最初に見た本家本元の「ままごと」版は
演技面は長方形、長辺の正面と向こう正面に客席を入れ、
床面は歩きやすいゴムの床。

 次に見た佐賀の「テアトロこじーら」版は演技面が
円形で、これをぐるりと囲むように客席ができていて、
客席の隙間からも演者が演技面にアクセスできる作り。
床面はハコの構造である木の床をそのまま使用。

 これだけでも凄い違いが生まれているのに、
女学院の合同公演版はどのような形で「人生」を
表現するのだろう、とハコの中に入ってくると・・・。

 空間の形としては、ままごととおんなじ長方形。
違うところは床面にパンチカーペット、座席の作りが
長方形すべてを囲むように一列作り、表演部と客席との間は
ものすごく狭くなっている。

 更に、客席と表演部の境目より「身体言語を出しやすい」幅に
「内圏線」というものを引くかのように形、踵のヒールのあるなし、
ヒール自体の高い低い、という「違い」はあるが、色は「赤」で
統一されている靴が一足ずつ内圏線として「存在して」いる。
・・・やられた、こういうふうにでも「人生の違い」は表現できるのか。

 演者それぞれが着ている「色」は「始めの色」でもあり、
「おわりの色」でもある白、そういうことをつらつら考えていると
演者が身体と声を温め、いつでも動ける準備を始める。

 この戯曲の「肝」は「人間」というものの「産まれて、生きて、死んで」と
いう「出来事」とその果てしない繋がり、というものを圧倒的な
スピードと密度と精度で繰り返し、繰り返し、再現していく。

 がだ、全員女性と男女混合、という「座組」での「あゆみ」は
こうして見たことがあるが、全員男性という「座組」での
「あゆみ」は見たことがない、というか今まで挑戦したところは
あるのだろうか、そういうことを気にしていたらもう始まっていた。

 いろいろな体のサイズ、顔の作り、それぞれが同じで、それぞれ違う、
ここに「子供遊び」の「言葉遊び」というもので「文化」の違い、と
いうものを織り込み、演者自身がこの学校で訓練してきた
様々な「演劇のスタイル」で「歩き」、「話して」いくことで
人生の「断片」一つ一つをじわりじわりと見せていく。

 着ているものも、ふんわりしたり、かっちりしたり、
子供ぽかったり、大人ぽかったり、男性的でもあり、女性的でもある。

 こうして、人生、というか人間社会に存在する、色んな物が
混ざって、集まって、輪になって、ランダムに動きながら、
歩きながら、「足」をめぐるお話から「言葉のパス回し」という
「演劇」をおっ始める。

 色んな所で「言葉のパス」がよくまわるから、いろんな「人生」や
「生活」のすべてがよく見えてくるし、よく見えてくるから
「いじめ」や「差別」の構造がうっすらながらも良くわかる。

 更には四方八方からいろんな人が飛び込んで、
「黒の外圏線・赤いくつの内圏線」それらの間にある「空間」も
「時の流れ」として効率的に使い、小さな出来事は「内圏線」の
靴の間から出入りをし、大きな出来事は四隅の大きなスペースから
出入りをする、という「規律」のもとで「産まれて、生きて、死んで」と
言うものを一定の方向でぐるりと回って見せている。

 ぐるりと回ってみせるところからどまんなかの表演空間に入れば
「演劇的な自由」をもたせたムーブ、マイムができる、
ある一定のリズムで、それぞれがそれぞれの人生を「歌って」いる。

 この「人生の歌」がままごと版は「演劇」というものを「ガチ」で
「職業」にした「女性」であるがゆえにきちんとした
「コンテンポラリー・ダンス」や「コンテンポラリー演劇」になっていて、
そうなっちゃうと「わたしの人生」ではなく、「他者であり、異性の人生」と
言うものをただ、流れるがままに見ている、という感じだった。

 こういう感じが佐賀のテアトロこじーらになると
「演劇と人生」を楽しんで生きている老若男女が集い、
「人生ってすごく楽しい」という喜びを「演劇」を使って見せつける。
この喜びを喜びのまま見ている、という感じに転じた。

 さて、女学院版は「考えや思いを言葉で伝える、その手段として
演劇、というものを学ぶ」人間と、「演劇自体が好きでたまらない」と
いう人間、「演劇」を「役割」にしている人間、それぞれの集合体で
おまけにキリスト教系の学校である、というバックボーンが
「賛美歌」というリズムとして「もしも」というところまで含めた
「人生のすべて」を「走馬灯」のように見せている。

 ・・・ひとつの戯曲でもいろいろな見せ方、感じ方があるんやね。
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