劇団tempa「歌姫」

広島、という街はわたしを二度、涙させる。

 北芸の「北斎」から夜中にようやらやっと家に帰り着き、
ご飯を食べて、うだうだしていたらもう寝る時間。
翌日は早起きして博多バスターミナル、広島行きの高速バスに
乗り込んでうだうだとしていたらもう広島駅前。

 地下の食料品コーナーで食べ物を調達してまずは
マツダスタジアムまでゆるりと歩こうか。
・・・福岡ヤフオク!ドームだと食べ物を調達するのに一苦労、
その後に長い列を作ってバスにのるか、地下鉄に乗って
唐人町で降りてこれまた長くてだらだらした道を歩くか、
野球の試合を見る前からひどく疲れてしまうではないか。

 マツダスタジアムは道の途中にも美味しそうなものや
美味しそうな匂い、なんていうか「野球という祝祭」が
もうすぐ始まるよ、という空気に道中が満ち溢れているから
ストレス、というものがなく、いい気分で試合に入ることができる。

 そして今回は「生ビール飲放題付き指定A席3塁側」を
取ったものだから飲み放題用のビールサーバーの真下に
座席が用意されているではないか!!

 席について、荷物をおいて、コップ引換証をコップと軽いおつまみ、
そしてバンドを手首に巻きつけてまずは一杯、おかわりして
買ってきた食べ物とともに飲んで、食って、試合開始前のひとときを
過ごす、うん、これが良い週末の昼の使い方だ。

 それにしても「広島カープの歌」ってさんざん苦しい思いをして
何らかのところに辿り着いた、あるいは辿り着こうとする人々にとって
行ったことのある道のりと歌詞がピッタリとハマるものだから
不意に泣いてしまうではないか。

 そうしてある程度飲んで食って、試合に集中するともう演劇の時間だ。
こちとら完全に「出来上がった」状態でこれまた近いところに
東区民センターがあって、これが「泥酔」というものなのかと
足元をふらふらしながらなんとか客席に辿り着く。

 わたしのありとあらゆる感覚がおぼつかない、書く字までも
めちゃめちゃのぐちゃぐちゃだ、こうなったらもう「見ること」に集中だ。

 前置きがあまりにも長すぎた。

 このお話の元版は「東京セレソンデラックス」という劇団が
やっていて、一般的にはTOKIOの長瀬と相武紗季が出ている
テレビドラマとして知られているし、あの妊婦のお姉さんの役が
サタケミキオ・・・じゃなかった、セレソンデラックスの主宰
宅間孝行の今では「元」嫁となってしまった大河内奈々子が
演っていたのは軽いトリビア、としておこう。

 このテレビドラマがリアルにあった時、セレソンデラックス本体が
福岡で公演を打つとき、「仕切り」はXXかXXですよね?と(以下略。
その流れで「東京」ではなく「東宝セレソンデラックス」で一本見て、
福岡の後藤香という人が「くちづけ」という戯曲を自分が教えている
専門学校の生徒、卒業公演という形で演ったのも見た。

 セレソンデラックスの肝は「物語の本筋」を外しまくったところに
これでもか、と笑いを仕掛けてその「落差」で大きな感動を作る、
というところを完全に削りとってガチで「差別される側にも人生がある」
ことを見せていく作りにしてしまった。

 さて、おちさんは今回の「歌姫」をどう調理していくのだろう?

 結論から先に言うと、おちさん、遊びも、削ぎ取りも無しで
セレソンの「良さ」をガチで出しやがる。
昼間にマツダスタジアムでカーブの歌で散々泣かせて、
夜は近くの演劇でこれでもかと泣かせて。
・・・・まじずるいわ。

 というか、セレソン以上に寄り道に寄り道を重ねて
「不思議な人生の綾」にまで物語を作っちまった。

 時は戦争が終わって間もない、高知という四国でも
人里離れた場所にある県の更に県庁所在地からもっと離れた
町にある映画館、という場所がある。

 この映画館に集う町の人々はみんな「それぞれのペース」で
「わたしじしん」というものを生きている。
この場所に記憶をなくして流れ着いた「太郎」がいて、
「すず」という女の子は「太郎」を慕い、「太郎」も「すず」の
愛を真正面から受けて、いい関係を作れてはいた。
で、お互いがお互いを「大切な人」と思うようになるのが前半。

 後半は県庁所在地から「太郎」の義理の両親がやってきて、
「太郎」の記憶が蘇り、切ない別れと新しい命の誕生、
そして時代は流れて、また別の形で再会を果たす。

 映画そのものはポスターという形でしか見せないが
一味違う「ニュー・シネマパラダイス」という趣にも仕上がっている。

 いままでずっと自分のリズムとペースで「人生」を生きていて、
これからも生きていけるだろうというところに戦争がやってきて、
リズムとペースを崩されながらも命からがら生き延びて、
また自分のペースとリズムで人生を始めようとするが、
時代の流れ、というものは残酷で、なかなか取り戻せずにいる。
・・・そんな不器用さにわたしは涙するのです。

 さて、テレビドラマの「歌姫」のDVDセットと
「ニュー・シネマパラダイス」のDVD探して借りてこないとな。
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北芸✕北美「画狂老人@北斎」

アーティストはいかなる表現方法であれ、
「自分のより良き、理想の線」というものを
生涯をかけて、追い求めていくものかもしれない。


 というか、わたしたち凡人もその一生を掛けて
何か「より良き線」を追求することを何処かでやっているのか。

 「画狂老人」というタイトルの一部とあの「長すぎる」サブタイトルを
うまく作り替えてあげるといろいろな意味でしっくり来るなぁ、おい。

 前置きはここまでにして、北九州、初夏の風物詩、
「美術マニア」と「演劇マニア」が同じ場所に集って
「混ざっていく」年に一度の試みがやってきた。

 いつもは「美術館で働く人々」と「劇場で働く人々」の
体の線や着ている洋服の違いを入場前から感じるところから
物語は始まっているのですが、今回は時間も時間だ、
そういうところをすっ飛ばしていきなり物語へと入る。

 ・・・物凄くシンプル、おまけに机と椅子の並びが
アーティスティック、更に背景の「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」の
生々しすぎる波濤がどーんと、客入れ音の心を揺さぶる津軽三味線、
なんだか異様な状態から演者が入り前説が始まる。

 今回の前説は諸注意事項の伝達の前に出演者が
「携帯電話の電源の落とし方」というものを懇切丁寧に教えている。
そう言えば、前回のバスキア、こちとら演劇マニアは
前説から物語にじわじわと集中していこうとするのに
隣の美術マニアが携帯の電源落としを執拗に(以下略。
・・・というか、北芸の方々もこれ、読んでいるのね。

 そんなこんなで本編に入るとのっけから心、突き刺してくるよ。
「歌麿 54歳没・國重・54歳没」
「手塚治虫 60歳没・石ノ森章太郎 60歳没」
「藤子F不二雄 62歳没」・・・おい、赤塚不二夫は?

 そして、「北斎 90歳没」と先人たちが「命を削った様」を
しっかり見せてからの「川村鉄蔵 77歳」という
この歳にしてはあまりにもポップで、あまりにもキッチュな
アーティスト、しかも若い感性、というものも持っている、
そんな人物の「生きている・生きていた証」を
「なぜ、そうすることができたのか」ということを丁寧に紐解く趣。

 まずは若いころ、漫画家としてキャリアを始めた時、
出版社の担当編集から「長所」を見出され、伸ばすための参考として
彼の終生の「テキスト(教本)」となった北斎の画集と「北斎漫画」
という「描画集」を手渡され、川村鉄蔵という一人の人間が
「定規などの道具を使うことなく、自らの手のみで書いた理想の線」を
追い求める行為を始めたところから。

 当初は先人たちが書いた漫画作品を「追跡」し、
それらを模倣し、オリジナルを加えて「自分の作品」というものにする。
この「経済的活動」の合間に北斎を参考にしながら「描線」を学ぶ。
そのせいか、少しづつ画力が上がり、そこそこ売れるようになった。

 けれども、担当編集の力不足もあるが、「物語」や「性格」の
「描線、描画」まではうまく手が回らず、「追跡・模倣」の繰り返し
にも限界が訪れ、連載は打ち切り、運の悪いことにちょうど家族を
作ることになり、生きるための仕事をしながら北斎の描線に
自らの描線を重ね、より「自らの線」についての学びに没頭し、
気が付くといつの間にか「ひとり」になっていた。

 この様子を見てわたしはある5月の昼下がり、とあるサッカー場の
入場待機列で交わしたある会話、というモノをつとつと思いだしていた。

 そういえば、わたしもわたしで「描線」というものにおいて
ものすごくこだわり、というものを持っていたのだな、
「線を書く」という「行動」において、時と場合で線の太さや
色、その他もろもろを違えさせていくし、使う道具も違えさせている。

 さらに、演劇が終わったあと、美術館の学芸員による
レクチャーで「富嶽三十六景」は海に面した「表富士」の主線の色は
「墨」ではなく、「紺」というか「藍」を使い、反対側、山に面した
「裏富士」の主線の色は「墨」を使っていた、これが肝、という話を
聞き、「こういうこだわりがあるから絵が生きるのか」ということと、
自分のこだわりに対して「これでいいのだ」と思えるようになった。

 さあ、また本編に戻ろう。
奥さんが生活に頓着することなく、子供の一生はわたしが面倒見るから
あなたは本当に好きな絵を納得するまで書いて、という「愛情表現」を
「離婚」という普通では「悲しい」出来事として示して、通り抜ける。

 通り抜けた先がシルバー人材センター、市民センターという
公民館の少し進んだ形で行われる絵画講座の講師に収まって
「描線」というか「描画」を教えていた。

 その中で「絵」というか「線」というものに卑しいも貴いもなく、
「書くこと」自体が尊い、という出来事があり、「自らの理想」とする
「描線」をじっくり、ゆっくり追い求める環境を手に入れた。 

 そこに憎みあって別れたわけじゃないから色んな意味で
「家族」との「漫画」を媒介とした交流は結構あって、結果として
孫が世界有数の「コスプレイヤー」という「職業」になってしまった。

 彼女が「川村鉄蔵」という存在に出会い、「いままで」と「これから」が
「合体・融合」したら不得手だった「物語」や「性格」の線が
なんとなくまとまり、「紙の印刷物」から「インターネット」という
「発表の場」が大きく様変わりする時代に乗っかって人気が爆発した。
世界で売れ始めると、もう止まらない。

 そこまで来るのに50年も長い時間が掛かったわけだが、
普通では挫けてすべてをやめてしまいそうになるのに、
川村鉄蔵は成し遂げた、なぜ?

 それは、「うまくなりたい」という一念を貫き通せたこと、
貫き通すための縁として「あなたは北斎の生まれ変わりだ」という
ただ単純な「思い込み」を生涯信じ抜けたこと。
このふたつが自身を励まし、救っていた。

 けれども、人生とは皮肉なもので病という寿命の終わりは
爆発的な歩みを少しずつ止めようとするが、最後の気力を
振り絞って、大きな仕事を自分なりにやり遂げて、遠いところに
行ってしまった、享年78歳。

 さて、この作品を現実的に支えていたのは渡辺明男という
ひとりの「漫画家になりそこねた男」が演者となり、
実際に演劇で使われているアートワークスを自ら書いたこと。
彼のアートワークスたるや、石ノ森、ではなく石森章太郎から
山上たつひこまで、メジャーの「線」からマイナーの「線」まで
ありとあらゆる「線」の書き分けが出来ている。

 さらには、はやまんずるい、はやまんずるい、はやまんずるい、
おまけに、じじえろい、じじえろい、じじえろい、と言わんばかりの
「こども」から「おとな」、そして「ろうじん」、さらには「昔」と「今」という
時間まで縦横無尽に渡り歩くかのような「衣装の早変わり」という
「コスプレ」も作品を現実的に支えていた。

 とは言いつつ、人生という山道を同じ強さで踏み、
同じ速度で歩き続けた人間の強さを泊さん、十分に遊ばせながらも
うまく表現しやがったな、と。

 さて、北斎の影響は「AKIRA」やら「谷口ジロー」だけにとどまらず、
意外なところにまで続いていた。
・・・そう、「シャルリー・エブド襲撃事件」で亡くなった
ティニューというイラストレーターにも。
たまたま、彼が描いた「20年前の九州」の「描画展」に顔を出し、
じっくり見てきたのだが、構図や線のこだわり、素材の選び方、
まさしく「現代版の北斎漫画」そのものだった。
この発見を記して、今年の北芸×北美の締めとしようか。

岡崎藝術座「+51 アビアシオン、ザンボルハ」

わたしたちは「棄民」とその反対側を
綱渡りのように生きている。


 おまけに「現実」および「事実」は人の数ほど存在する、という
厄介なことも存在しているわけで。

 さて、この演目、他団体の演目との日程面、金銭面の
兼ね合いや、会社をどこで休むか、どうするか、という問題により
広島でも、熊本でも、ましてや鹿児島でも見ることができなかった。
でだ、各地で見た知り合いが「すごくいい」と言っていることを横目に
「ああ、このままこの演目を見ることができないまま人生終わるのか」
なんてことを考えていたら、いいタイミングで福岡にやってきた。

 ワンチャンスをものにするには大変厄介な時間帯だけど。
・・・見に行くためには仕事を「どこかで」切り上げなくてはいけない。
本当はギリギリまで働くのはベストなのだけれど、仕事自体が
中途半端になってしまう、だとしたら午前と午後の切れ目で
切り上げて、近所の資さんうどんでご飯食べてまったりしてから
演劇に向かうことにしよう。

 ハコにたどり着き、久しぶりに合う人に挨拶したり、
ボーっとして待っていると、いつの間にかドアが開いて、
中に入ると、ものすごく贅沢な空間のつくりだ。

 今、そこに存在している色や音にそれぞれ意味があるのだろう。
その意味を必死に探ろうとすると、この場所に辿り着くまでに
蓄積した疲弊、というものがわたしの身体を蝕んでいく。
うとうとしていると、演者がいつの間にか表演部に入り、
静かに、極めて静かに物語が始まっている。

 「わたし」という、ある「演劇人」が「私自身」というものを探しに
「トーキョー」から「オキナワ」、そして「オキナワ」から「ペルー」へと
旅、というか流れ流れていく「物語」を軸に「佐野碩(さの・せき)」という
「過去に存在した演劇人」が「自身」を「戦時中の日本」という
「国家と社会制度」では「自身そのまま」を受け入れてもらうどころか
「犯罪者」として獄に繋がれてしまう、故に、アメリカからドイツ、
そしてソヴィエト・ロシアまで流れ流れていく、そこでやっと
「自身」を「自身のまま受け入れてくれる」場所を探し、見つけたが、
師匠たるメイエルホリドがスターリンの粛清で排除される事態に
巻き込まれ、メキシコ、という場所でやっと落ち着きどころを見つけた。
という「物語」がところどころ「挿入」されていく。

 このふたつの「物語」に共通する「肝」は「わたし」という「存在」の
「根っこ」というものをどうやって、どこに求めていくか、
求めた場所でどうその「根っこ」を張っていき、「樹」として生きていく
ことを選ぶか、「花」として生きていくことを選ぶか、「草」として
生きていくことを選ぶか、果ては「根無し草」として生きることを選ぶか、
あなたは一体どうするの?という「問いかけ」に「神内良一」という
「懐が広くて大きい」が「神も悪魔も知っている」人間が成したことや
成したものをところどころ「補助線」として混ぜ込んでいる構造。

 そういうふうにして見ていたら「わたしたち」は一体どこから来て、
いったい何を成しに来たんだろう?
というか、「わたしたち」は一体今、どこに「所属」していて、
どう「存在」しているのだろうか、「ひと」なのか、「民衆」なのか、
「奴隷」なのか「ペット」なのか、それとも「主人」なのか?

 更に突き詰めて、わたしたちは「居民」なのか、「市民」なのか、
それとも「移民」なのか、更に言えば「棄民」なのか?

 そして、わたしたちはこれらの「存在」や「所属」を「自らの意思」で
「積極的」に選びとってきたのか、「自らの意思」にかかわらず、
「外的要因」というものによって「消極的」に選び取らされたのか?

 いや、まあ、心身ともに疲弊感を感じるときに「ふたつの物語」や
「数多くの選択肢・あるいはマトリックス」を行ったり来たりという
「精神的活動」というものをしてしまうと、ものすごく「わたし」という
存在が余計に揺さぶられ、「なんぞや」という問が迫って来る、
故に、所々でうっかり落ちてしまう。

 ・・・意識が戻って、ひとつの「結論」というものに辿り着く。
「んなこと、どうでもいいじゃねーか」という具合に。
「立場」や「役割」によって色んなモノやことが「決定」されて、
「制限」されてしまう、それが人間の悲しき性、というやつよ。

 けれども、「立場」や「役割」、「決定」や「制限」は
永遠に普遍ではない、いや不変ではない。
時間を始めとしたたくさんの「要素」が介在することによって
また新しい「立場」や「役割」、「決定」や「制限」が産まれ、存在する。
それも人が生きている数と同じくらい誕生、変化するわけで。

 ・・・これをいいようによっては「偏見」といい、
更に「偏見」のコレクションを「常識」と誰かは言うのだ。 

非・売れ線系ビーナス「キリエ礼讃」

「ラッキーチャーム(縁起者)」の一生。

 非売れ、ぽんプラザホールに得意技の「歌謡劇場」をひっさげて
久しぶりの帰還を果たす。

 それまでに、いろいろなことがあったんだよなぁ、と思い出しながら
きちんと幕で表演部を隠している、ということは
ガチの「エンターテイメント」をするんやね、そうしていると
いつの間にかオーバーチュアーがかかり、幕が開く。

 そこには「上の世界」と「下の世界」がイントレ足場で
はっきり分けられた表演空間が存在し、カオス、いや「起きてしまった」
出来事の跡地に立って、出来事の「欠片」を見つけた瞬間、
物語とエンターテイメントの「スイッチ」というものがはいってしまう。

 一度スイッチが入ると、キリエ役の女の子が歌、ダンスキレキレの
足立梨花かよ!!という出来、そして不思議な「パワー」というものに
他の演者が引っ張られ、それぞれがキレキレの歌、
キレキレのダンスをぶちかます、それだけでもまじすげぇ。

 さらにはキリエに「対比する」ロメという女の子を
ダブル・キャストにすることでAVというか・・・エロ動画も好きな
自分にとってなんとも言えねぇや。
なりきよVer.はある「熟女系エロ動画」で有名な某女優を思い出すし、
あだちまみVer.はこれまた「痴女系エロ動画」で有名な某女優を
思い出して・・・次行くよ、次。

 「ヨゴレ感」と「清純感」という相反するふたつの空気が
エンターテイメントというものでしっかりと中和されているから
エグい「性」の物語が「聖」なる物語へとうまくすり替わっている。

 「すり替え」の隠し味として「アダムス・ファミリー」の「ハンド君」やら
「レ・ミゼラブル」のバリケード、に代表される映画やミュージカル、
更には「AKB襲撃事件」という事実などをうまくパッチワークしている。

 物語の基本的な骨組みはミッション系の学校を出た人が
座組の大半を占めているからなのか、「キリストの生誕物語」の
すべてを「借用」して「ラッキー・チャーム(縁起者)」という存在として
産まれて、生きて、死んでいく過程を見せていく。

ぶっちゃけ言えば「親切せずにはいられない」、
「チヤホヤせずにはいられない」非凡な存在は現実に何万人、
何十万人、何百万人、何千万人に数人の割合で存在し、
凡人たる我々は彼ら、彼女らのことを「スター」とか「カリスマ」とか
言って信じられないくらいの大金を払い、彼ら、彼女らを「消費」する。

 そうすることで「ラッキー・チャーム」たる彼ら彼女らは
たくさんの「親切」や「好意」を受け取って身にまとい「親切」や「好意」を
与えた、というか支払った存在に対して「幸福」あるいは「幸運」を
お返しし、また、たくさんのあたらしい「幸運」や「幸福」を受け取って、
身にまとい、光と力にして「次」を開いていく。

 がだ、「ラッキーチャーム」たる彼ら彼女らは
自身が「ラッキーチャーム」であることに気が付かないものだ。
故に、「ラッキー・チャーム」であることを「努力の賜物」という
正反対の言葉で「ごまかして」しまいがちになる。
その「ごまかすこと」は凡人にとっていささか鼻につくものなのだが。

 あるいは「凡人ではない」ことがあまりにも恥ずかしいと考えてしまう。

  けれども、凡人はラッキーチャームを狂おしい程に欲する。
愛に飢えているから人は親切を求めるとも言うが。

 それを見て、一度「ラッキー・チャーム」であることを自覚し、
「受け取ったもの」をどう「返したらいいのか」という
考えなくてもいいことをひとたび考えてしまえば持っていた
エネルギーの回転が逆方向に向いてしまい、気がつけば
「不運」へと転じてしまう事が多々あるわけで。

 「不運」へと転じてしまうと自らを巡る状況は「楽界」から
「苦界」へと化けてしまい、「カリスマ」や「スター」から転じた
狂信的な信仰は殉教という行動に変化し、これら異様な状態から
逃げ出すためにますます苦界へと歩みを進め、気がつけば
「歌舞伎町」も「吉原」も裸足で逃げ出すほど、えげつない
日本最強の苦界、「飛田新地」へと流れ着く羽目になった。

 この流れ流れていくところでわたしたちはキリエという存在を通して
「善」なるものに隠されている「悪」と「悪」なるものに隠されている「善」
それぞれに目を向け、考えることが出来たのかもしれない。

 キリエ自身も村西くんという存在を通して「善」の中に「悪」があり、
「悪」の中にも「善」があることを知ることとなる。
そういうことを教え、知ることが出来る関係を本当は「愛」といい、
「愛」が仲立ちをしている「関係」は異性、同性問わず性的に
ムラムラしないし、セックスどころか立ちもしない。

 更に言えば、「愛」というものは「見返り」なんて必要としないし、
そういうものを求めることなんてできない。
「見返り」を必要としたり、求めたりしたらそれは「親切」や
「好意」というものに化けてしまい人と人の間がややこしくなる。
ややこしくなる一番の例が「同性婚」というやつを認めるか否か。

 こういう重たいものをライトに見せるなんざ、エンターテイメントって
なんか凄いな、と感じてしまう。

不思議少年「棘」

「沈没する」という感覚とはこういうものなのか。

 西鉄ホールに「オクタゴンスタイル」というものすごくエッジィで、
しかもえげつない表演空間を持ってきてやがる。
この表演空間が持つ空気感のせいなのか、全てが緊張している。
すべてが緊張しているなか、客席のあるところに座っている
演者のもりおかだけはものすごく自由、実に「自由」というものを
体いっぱいに表現している、周りはすごくピリピリしている、というのに。

 うーん、わたしたち「見手」ももうすこしだけ「自由」に
「演劇」というものを見ることができるだろう。
けれども、もしかしたらわたしたちはだれかに「演劇」において、
誰かに「不自由」を押し付けていないだろうか?

 そんなことをつらつらと考えていたら、表演部では
あるひとりの「女性」が人生を終わろうとしている。
人はみな、たった一人で生まれ、たった一人で死んでいく、
とは言うけれど、彼女の「終わり方」はあまりにも寂しすぎる。

 更に「坊や」という幻なのか、現実なのか、もしかしたら・・・
という「存在」が現れ、彼女と「激しく」会話する、あるいは
彼女自身の「問わず語り」が物語の基本的な骨組みに
なっているのかもしれない。

 「まるこ」という女性は「ほんの少しだけ」平凡だった。
故に非凡という存在になりきることができなかった。

 非凡になることができなかったから高校時代、「中途半端」な男を
うっかり好きになり、中途半端な男だからついつい「尽くしすぎて」、
うざく思われて、嫌われ、別れ、その反動で「サセコ」として
大学時代を過ごし、「サセコ」に飽きて社会人、若い男から
求婚されたものの、過去の辛い体験のせいで愛というものを
素直に受け入れられず、ひとりで生きていくことを選んでいた。

 選んで、受け入れていたら突然「結婚」が飛び込んできて、
お互いがお互いを認め合うゆるい夫婦生活の隙間に
高校時代の中途半端な男がまた飛び込んできて、
また「尽くしすぎて」中途半端な男にも、夫にも捨てられた。

 ねこ一匹とひとりの生活が始まるものの、気がつけば
彼女はいろいろな苦労がたたり、子宮癌で余命幾ばくもない。
その病室で一人見る走馬灯。

 わたしはわたしの感情を入れず、この走馬灯をじっと見ていたら
数年前から交際して、近い将来結婚して共に生きていきたいなと
いつも考えて、月一回あって、話をしている女性のことを考えていた。

 「大切な人」は「結婚」というものを「一つ間違えたらお互いがお互いを
沈没させそうで」いつも怖い、と言っている。

 なんとかして、なんとかしないと、その前にお互いのことを
知らないとまずいよね、それからわたしは「大切な人」にわたしの
今までや今、そしてこれからを話すようになり、「大切な人」もわたしに
「大切な人」の今迄や今、そしてこれからを話すようになった。

 月一回の「会話」の内容と今、板の上で起きていることが重なって、
「大切な人」がいう「沈没する」ということの正体が見えてくる…うん。
妙に私の心に引っかかってくる。

 人生というものは「平凡」の裏にある落とし穴が一番怖い。
この落とし穴に落っこちてしまうと心と体に無理をしてしまうんだよな。
自分も入院まで行かなかったけれど、長い期間、いろんなことを
おやすみしてしまった。
「大切な人」は心と体に無理をして入院どころかICUに担ぎ込まれて
・・・いわゆる「危篤状態」になって家族が呼ばれたらしい。

 そういうことをつらつら考えてしまうほど心に突き刺さる。
他の見手はどんなことを考えているのだろうか、どんな景色が
見えているのだろうか、気になるが、自分は自分のことで手一杯。

 わたしは「大切な人」がいるからわたしでいられるのかもしれないし、
「大切な人」もわたしがいるから「大切な人」として生きていられる。
こうして今現在、お互いがお互いをより良く出来ている。
 
 だからこそわたしは彼女と結婚しなければいけないだろうし、
そのためにわたしはわたしの今やっている、できる仕事を
しているのかもしれない。

劇団ピロシキマン「現場にて」

すべてが「リアル」すぎる空間だ。

 表演空間がものごっつうリアルな「現場事務所」、
あるいは「工事現場」というものやで。
そこに在る全ての一つ一つがリアル過ぎて「工事現場マニア」と呼ばれる
人々にはたまらない空間なんだろうなぁ。

 更には客入れ音がビートルズ末期の楽曲を使っている。
そういうことをつらつら考えては見るが、ピロシキマンのほうが
ルアーノデルモーズより少しだけアウェイ感、というものを感じてしまう。

 演者の身内、というか、演劇を見るにあたって若干の素人さんが
客席に多くいると変に緊張してしまい、くつろいでみることができない。
そんな塩梅でガチガチに緊張していたら、もう本編だよ。

 今回の物語の肝は何か「わけあり」の土地に橋を架ける、
その工程の中で一癖も二癖もあるけれども、「職業倫理」という
ものだけはきちんと持っている人間の集団に入ってきた
「中途半端」な若者が揉まれに揉まれて「職業人」となる。

 というか一端の「職業人」になるための訓練として
「ラグビー・ユニオン」という「ギミック」を社会が使っていたのか。
その証拠に、トップリーグという場所にいるヤマハ発動機ジュビロ、
というチームが実際の試合や練習に使っていたラグビーボールが
板の上で「演技」しているよ。
(多分出処は村田亙つながり、だと推測するが、どうだろう?)

 そんなことはさておいて、「建物を作る」、「橋をかける」、
「トンネルを掘る」、「機械を作る」、「服を縫う」、「食べ物を作る」などと
世の中、いろんな「作る」があるけれど、これらの「作る」は
みんな「人の命」というものに大きく関わってくるし、
「作る」事によって生み出された「もの」にわたしたちは
私達自身の「命」というものを預けて生きている。

 だからこそ、「作る」ことに携わる人々には高過ぎるほどの
「職業倫理」が必要になってくるのかもしれない。

 この「職業倫理」というものを軸に、「住民ごと捨てられたある村」を
めぐるミステリーというか、ホラーが入ってきて、なぜここの村人たちは
「棄民」となってしまったのか?という複雑な気持ち、「差別」というものの
怖さ、「大切な人」を守れなかった、という後悔にも似た思い。

 これらを全て、盛りだくさんの「ギミック」で見せ、
というか、若者が事務係として働きに来た「少女」との
「約束」を守るために取った「ある出来事」によって、
「作る」ということでご飯を食べるということは、
自分一人ではなく共に働く人、そしてそれらの家族、
ひいては周りの人生を背負っていることをシンプルにみせている。

 「責任」というやつはそれだけでたくさんの人が持っている
「これから」というものを大きく変えてしまう。
その重さを教えることができるから「責任者」と呼ばれるのだよ。

 だからこそ「命を預ける」ということはとても重いことなのだ。

雨傘屋「すなあそび」

本当の「コメディ」とは、笑いの中に
ほんの少しだけ「毒と哀しみ」がまざっている。


 まあ、人生もおんなじやね、うん。
そういうことを感じることができるから、こちらが逆に
「ありがとうございます」と思わず言ってしまうわけで。

 自分が「対人的」なところで「めんどくさい」ところが多々あり、
この「弱点」を頭のいい人、というか少々意地汚い人に
突っつかれた時はさすがにしんどい。

 けれども、この「めんどくさい」ところを「嫌いではない」と
わかってくれている人もいる、それもありがたい。

 そういうことを考えながらハコの中に入ると、表演部には
砂、砂、砂だらけ、客動線はきちんとビニールで養生しているけれど、
それがわからないくらい灯りを極端なくらい落としているから
客席部に辿り着くまでが非常に難儀する。

 がだ、客席にたどり着いて、座って、表演部のどまんなかにある
「砂山」を見てしまうと、わけもなくわくわくするのはなぜだろう?

 もしかしたら、この「砂山」には人が埋まっているかもしれないし、
人が埋まっていないにしても山の真ん中にでっかい棒を
一本おっ立ててここにいるみんなで大砂山崩し大会やりたいな、
なんて「妄想」をしていたらいつの間にか前説が始まり、本編が始まる。

 ある砂浜である夫婦が何かを掘ろうと準備をしている。
夫は何かを掘る前に海にまつわる歌を歌わないと調子が狂うらしい。
けれども、ある部分からの歌詞がなかなか思い出せない。
というわけでまた最初から歌いはじめるけれど、同じ所で引っかかる。

 妻はその様子を見て、呆れながらもお昼ごはんの準備をする。
けれども妻は妻でサンドイッチと紅茶は持ってきたけれど、
肝心のゆで卵と角砂糖を忘れてきてしまった。

 忘れてしまった、という事実に気がつくタイミングで
若い夫婦ふたりがいいタイミングで「ゆで卵」と「角砂糖」を
何故か知らないが、売りにやってきたではないか!!

 がだ、それを必要としていない状態になってしまったから
もういらないよ、いやいや、買ってくれないと帰ることができないんだよ、
という押し問答が繰り返されて、さあ掘るぞ、というけれど一体何を掘る?
という押し問答がまた始まって、なかなか本題の「掘る」という行動に
たどり着かない。

 押し問答が繰り返されている間にも、「救世主」というものを探しに
牧師らしき存在がツルハシ持って砂山にやってくるわ、
更には医者とその婚約者らしき看護婦がやってきて、
「まい・すいーともうちょう」はどこ?てな具合の勢いで砂山にやってくる。

 そうして三者三様、それぞれのやり方で「砂山」を掘り始める。
けれども、ほっても、ほっても何も出てこない。
出てこないところに何かが「おわり」を告げる合図とともに、
「リアルな」看護婦さん、しかも3人やってきた瞬間に、
今まで掘っていた人々は生を失い、その周りを看護婦たちは
ぐるぐる回りながら熊本語で何かを話している。

 そうすると、場の空気は「夏の海」から「秋の海」へと
一瞬にして変化する、その様子が「人生の終わり」と重なって
さらには「松原遠く」で始まる歌と「佐渡の砂山」という歌の持つ
「空気感」の対比が恐ろしいくらいに見手に伝わってくる。

 そうだとすれば、いま、板の上で起きている状況は
「現実」なのか、それとも、あの「考古学者になれなかった」男の
頭のなか、しかも、もうすぐこの世からさようならする寸前で見る
ひとつの「妄想」だったのか、色々と判断しかねない。

 この世からさようならするときに見る「妄想」だとすれば
あの医者は主治医だったのか、水着の若い夫婦は息子か、
それとも娘夫婦だったのか、そして牧師は・・・。

 見れば見るほど、考えれば考えるほど、思えば思うほど
用意周到に仕掛けられた砂の落とし穴に嵌まり、気が付くと
物語から這い上がってうまく現実に戻れない。

 こういう状況に嵌ってしまうと、正直、何が「幸せ」なのか
訳がわからなくなり、わからない状況でほんの少しの毒を
飲んでしまうと「幸せ」という存在自体があるのか、ないのか、
さえもわからなくなってしまう。

くうきプロジェクト実験シアター「わたしを女優にしてください」

「戯曲」と「女優」の掛け合わせによる「化学反応」。

 よこやまゆかりの「人生が抱える不如意」に対して「くそったれ」と
言わんばかりに「もがいて生きている」戯曲実演シリーズ第二弾。

 第一弾は「ガラ博」で「(一般的な文脈における)ちゃんとした」
女性の「可愛さ」というか「美しさ」とはなんぞや、というか、
これらに対して「くそったれ!!」と言ってみた。

 さて、今回の第二弾、何に対して「くそったれ!!」というのだろう?
 
 表演空間、怪獣のきぐるみとか、「公演」に関するいろいろな「もの」が
雑多に置いてあってところどころに「プロフェッショナルのプライド」が
それとなく隠されている。

 それにしても、ひがしますみの「あともう少しで、
アクションシーンもできる榮倉奈々」感が冒頭部からえげつなく出ている。
「もう少し」の理由にもなっているアトピーのお肌具合が
足、うまく隠せている、いい色目のスパッツ履かせているのかな、と
見れば、光の塩梅でうまく隠していただけだった。

 結局、あの「お肌具合」もひっくるめてみんな「素のわたし」だよ。
というところをうまく見せて本編に入る。

 この「素のわたし」に芽が出そうでなかなか出てこない、
それでも下を向かず、諦めず、前だけを見て戦い続け、
もがき続ける様子、このもがきと戦いの中で
「自分だけではどうにもならない不如意」というものを
感じつつ、我が身の不幸を恨むわけでなく、我が身に降りかかる
「不如意」に苛立ちながら、「わたしはどうしてここにいて、
演じるということで戦い続けているのだろう」ということを
自分がどう生きてきたか、というところに落としこんで見せている。

 恋をしたり、恋に裏切られたり、結果、一旦すべてを諦めて
故郷の家に帰ろうか、と考えるけれど、それでも自分を貫いて
やっと、というか、たまたま、というか「女の子らしい」ヒロインの役を
貰って、次に進むチャンスに繋がろうとしている。

 けれども、「女の子、というか女優」という「立ち位置」が
いままでのもがきや戦いを通して「似合わなく」なってしまった。
さらには自らを貫き通すための力となった「熱心なファン」というのが
実は、彼女の弟だった、というオチを見せられると・・・。

 なんかやられた、という感じだ。
というか、何度も見ていたい、見て見て、この感情に身を浸していたい。

大体2ミリ 「悪い天気 リーディング公演」

より過激な、「春雨じゃ、濡れて参ろうぞ」。

 「リーディング公演」であるがゆえの空間のシンプルさ。
上手の方にある「ト書き読み」が入るポジションにアナログ式の
ブラウン管テレビ、そして鉄の棒が一本立っている。
これらの存在がなにか意味深なメッセージを持っている。

 けれども、開演前、流れている空気はなんだか緩い。
おまけにもっさりとした感じで物語が始まろうとしている。

 その空気の中でこれからわたしの生活と演劇というものが
グルグルと動いていくのだろう、グルグルと動かさなければ
すべてが前に進まなくなる状態なのだろう、しんどいけれど。
とにかくふんばろう、うん、とまとめていたらもそもそと本編始まる。

 雨が降りそうでなかなか降らない空模様。
公園のベンチに「存在している」ひと組の男と女。
・・・空間の作りと相まってより一層意味深な状態を作っている。

 この「男と女」は夫婦なのか、それとも「わけあり」の関係なのか
よく分からない、そういう「関係」で人間、長い間生きていると
「天気が転機」となることが多々ありまして、というさわりを始める。

 冬には冬の「からだ」があり、春には春の「からだ」、
夏には夏の「からだ」としてそこに存在し、秋には秋の「からだ」がある。
それぞれの「からだの変化」というものが諸々の事情や加齢によって
しんどくなってくるものだ、という会話が延々と続くのを聞くと
わたしの身にも重なるところが多々あって切なくなる。

 さらにアトピーなのか、アレルギーなのかわからないなら
病院いけよ、という話をしていたらヴォルフガングさん、という
「謎の人物」が唐突に現れ、ベンチの傍らにある街灯がチカチカする
「状態」を持っていた傘の「一撃」で直してしまう、というありえへんことが
起こり、今度は蓄膿症かよ、とカオスが深まっていく。

 深まったカオスに「メガネ」に関する「意味」や「本質」、
おまけの「存在」について「問い」というものを繰り出されると
いつの間にかわたしの頭がぐにょんぐにょんしてしまい、
「なんだか邪魔」という「精神的な」ノイズと「雨音」という
「物理的な」ノイズというふたつの「ノイズ」が酷く重なって、
よりわたしの頭はぐにょんぐにょんしてしまう。

 板の上ではセックスだの、食べ物だのいろんな方向に
話は飛んで、いま、板の上で起きている状況が
「お互い、たいへん飲み過ぎていて何をしでかすかわからない」から
ありえないことがありえるようになる、しまいにはそれぞれの持つ
「心の声」まで聞こえてしまったら収拾がつかなくなってしまう。

 気がつけば雨は激しくなり、あらゆる意味でぐちゃぐちゃの
どろどろになって、話の行く末が見えなくなり、見えても
結局、何も内容のない殻の話だから、しまいにはブチ切れて
ぶっ壊れて、いつのまにやらホラーと化してサンドストーム。

 演劇の基本である、「行き違い・すれ違い・勘違い」を
極限まで突き詰めやがった唐突感の連続、とはこのことか。

 リーディング公演がこうやってあまりにもカオス過ぎると
実演になったら更にカオスが強くなり、かなりやばくなりそう。
・・・この戯曲、演出家泣かせの戯曲だよ、本当に。
14+のさとねーさん「夫婦」にもう一枚「誰か」をかませたら
より楽しいことになりそう。

 がだ、最後の「雨に濡れながら(真っ裸で)放尿したい」と
女がのたまうセリフは飯野のおねーさんが言うから
「変態」にも聞こえないし、「エロ」の方向にも流れない、
なんと言えばいいんだろう、何かのウップンを晴らすための
「咆哮」という「ねぎらい」の意味として取れてしまう。
そして、思わず飯野のおねーさんを抱きしめてしまいそうになる。
・・・バスタオル、というものをもって、広げて。

 このセリフをみやむらじじが言うと「性的な意味」でえげつなくなるし、
もりおかひかるだと「性的な意味」でやけくそに聞こえてしまう。
さらにはたさきこぱるになるとこのセリフ、あるいはより過激なせりふを
言いながら実際に放尿してしまう可能性が。

 うーん、その差は一体何なんだろう?
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