宮村耳々×森岡光「おとこのこと」

ふたりはふたご、にてないふたご。

 今回はいろんなことでじじに助けられた。

 それはさておいて、北九州市小倉界隈は意外と中立的な場所であり、
風土を持っているので、多種多様な「おしゃれ」というものが
「昔からここに存在している」かのように自然な形で馴染んでいる。

 故に、表演空間のつくりや、その他もろもろも結構エグいところが
あっても、内蔵されている「場」自体に自然な形で組み込まれている。

 この演目を見る前、もりおかとじじの「関係」はもしかして、もしかして
「女性同性愛者」の傾向があるのでは、なんてことを
うっかり考えてしまう。

 更にはもりおかが去年の春辺りに「ある男性」との恋愛トラブル、
というもので心身ともに疲弊して本拠地である熊本という街に
いられなくなってしまった、というリアルなお話を知ってしまい、
北九州の方に一時逃げて誰かの家に転がり込んで、
それから対馬の祖母の家へ移動して、地元の小学校で
それとなく働き出したら心身の疲弊が取れ、熊本に帰る。

 この一連の流れと心のありようや動きをおーさこが「戯曲化」したのが
不思議少年の「棘」だったのかもしれない。
・・・だから、キーとなる場面で「対馬の子守唄」が出てきているのか。

 で、この戯曲で語られなかった「空白の部分」を編集して、
「戯曲化」した、それをじじともりおかがそれぞれの流儀を出しあって
二人芝居に仕上げる、というのが今回の趣向。

 そんなことを考えつつ、見手も表演空間の回りで演目の違う
「演劇」という「作品」を偶然かつ、同時多発的に作り上げていく。
その様子を眺めて、表演区間の真ん中にあるソファ、その回りに
お菓子とジュース、お酒、そして洗っているのか、いないのか
よく分からないお洋服と靴の山がやけに気になる。

 いわゆる「汚部屋」というのだが、食べ物は封を切っていないし、
飲みっぱなしの食べっぱなし、という事態ではない。
これを人は「清潔感のある何とやら」というのだろう。

 この場にまずは化粧っ気のないザラザラした「素」のじじが
ヌボーっとした顔をしてソファーに座り、そこに置いてあった
パソコンを弄って、しばし脱力、それから鏡を股に挟んで
外の顔へと「化け」始めようとする。

 その間にも見手による「演劇」という「作品」は続いていて、
ここに「前説」という「演劇作品」が終わると本編が。

 ・・・最初からおどろいたではないか!!
さわりがじじのウィスキー、瓶からそのままラッパ飲み。
そういうムーブを見せられると、おいおい、これがリアルな
私生活、だとしたらそうとうえげつない。

 さらに、飲み終わると窓を見ながらだらだらぐだぐだ、
なんか大事なことがあるのだろうが、それをすることが
なにか億劫になる理由、というものがあるのだろう。
その空気を匂わせていると呼び鈴がなって数回無視を
決め込んでいると下心らしきものを隠したもりおかが
大荷物とともに登場。

 家出なのか、旅行なのか、この場所にいつまでいるのか、
本拠地に戻るのか、戻らないのか、戻らない、としたら
どこへ行って、あるいはとどまろうとするのか、というように
もともと「悩み」なんて持っていない、感じていない人が
「言いにくい事情や言葉」を抱えてやってきたら尋常ではない
ことが起こっている、状況をじわじわ見せながらも
とめどない会話がひと通り続いている。

 とめどない会話はいつの間にか「得る」ことと「失う」こと、
「満たす」ことと「欠ける」こと、それぞれどういうことなのか?
という深いところまで中身が発展し、突き詰めたところで
じじが突然「わたし、明日結婚するねん、けれど不安でたまらない」
と話しだし、見手に左の薬指に目を行かせるように仕向けている。

 ・・・おいおい、じじ、リアルで結婚しているのか?
そういうことは早く言え、なんてことを考えていたら
お話は「もしかしたら彼女たちは双子の前世を生きていた」かも、や
「もしかしたら彼女たちは同級生として同じ学校にいた」かも、という
「もしも」という展開に舵を切り始め、またなんだかんだあって
お互いが抱えている何かを吹っ切って、それぞれ別れる。
もりおかは大荷物を忘れて、というか置いていって。

 ああ、これが「輪廻転生」というものかもしれないし、
こうして「人生」というものは男女問わず果てしなく続いているのだ。
この果てしない「輪廻転生」の中で「愛」というものや「好き」というものに
考察を重ね、少しずつ賢くなっていくのだろう、何代にもわたって。

 この、少しずつ賢くなっていくさまをいつものようにナチュラルに
「わたし」というものを演じて生きるもりおか、それを受けて
「鏡の中」にいる「もうひとりのもりおか」をじじが演じて、
なおかつ、じじはじじを演じて、生きているという趣だったのか!!

 そこには「同性愛」というものは余計なノイズとして、
入れなかった、というか入れてはいけなかったのだろう。

 さて、終演後、福岡の演劇業界、女優さんについて
じじと少し話し込んでいたら、「もりおかは別のルートで云々」という
話があったから何かあったのだろう、と思って後日フェイスブックを
見たら、驚いた。
・・・二兎社「書く女」にもりおか出演、北芸リーディングと同じ役で。
そういうことだったのね、でじじは「もっとうまくなりたい」と言っていた。

 だとしたら、今の「フリーランス」状態ではちとしんどいぞ。
宮崎「演劇時空の旅シリーズ」が原則として「フリーランス」の
俳優、女優に門戸を閉ざす現実があるわけで。
だとしたら、少しきついかもしれないがどこかの所属になった方が
「もっとうまくなる」道につながるかもしれない。

 ・・・助けられたお返しにこういうことを言ってみる。
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ブルーエゴナク「pop!!!」

「演劇」と「編集する力」。

 本当に久しぶりのアイアンシアター。
今までの空間より更に「演劇をする空間」としてすごくなってきた。
おまけにトイレが素晴らしい物になって、変な体勢で水を流さなくても
良くなったし、上の諸施設をまだ見ていないが、ひとつ間違えれば
食中毒を起こしかねない台所環境や体を洗った感じのしない
お風呂場、というかシャワー室も改善できたのだろう。
・・・あの黒板、残ってくれたらいいのだが。

 なんというか、家から駅に辿り着き、ATMで残高見たら
えらいことになって大急ぎで家に戻り、お金の手配をして
また駅に戻り、といった塩梅で着いたのが開演ギリギリ、
「何かのミーティング」の最中に紛れ込んだ、という
いたたまれなさを抱え、始まるのを待つ。

 そうすると、前説を兼ねた「ボール回し」が始まり、
貰ったボールを結界にあるバケツに見手が投げ入れると
爆発音とともに「テロが起こったあと」の教室が目の前に。

 ある事件が「起こったあと」から「事の次第」へと
物語の「時間軸」は逆回転を起こし、どういう「外的なもの」に
よって、「テロ」というものが起こったのか、普通の人は
わかるはずもなく、「起こったこと」だけを見て、大変だ、どうしようと
右往左往している様子があり、加えて、恋の鞘当てだとか、
学校で起こりうるすべてのトラブル、不平不満、憤怒や憎悪が
少しずつじわりじわりと降り積もる様子を今までのエゴナクには
なかった「ラップ・ヒップホップミュージック以外の多ジャンル音楽」を
うまくリミックスして、そこに爆弾テロとカオスと野田秀樹を混ぜてみた。

 特に「合唱曲」という至って真面目な音楽を大事なところで
「使う」ことで「まじめ」と「ふまじめ」という「落差」が
「平穏」と「カオス」という「対比」として表現ができている。

 こんなにもえげつない「青春」というものになるのか!!
という驚き、けれども見手によってはこのえげつなさが
「怖さ」となってひとつ「引いた」見方をしてしまう危険性が。

 エゴナクが一つ「進化」する様子を見ながら考える。

 幾ら良い「戯曲」を書いた、書けた、としても、
スタニスラフスキー・システムなどの演技法・演出法をマスターして
演出能力を高めたとしても、幾ら良い技量を兼ね備えた演者を揃え、
空間のつくりや、音や明かりにこだわったとしても
これら演劇の各要素を「誰にどういう意図で伝えたいのか」
あるいは「誰にどういう意図で届けたいのか」を考えた
「編集する力」がこれからの演劇に必要なのかな、と。

 ・・・なぜ、海外で有名なクラブDJが一晩で何億も稼ぐのか?
それは「編集する力」が誰よりも図抜けているからである。
演劇も「編集する力」というものをつければどうにかなるのかもしれない。

 その端緒をこの演目を見ることで感じることができた。

アマヤドリ「ぬれぎぬ」

人間とはえげつない「いきもの」。

 最近、どこからどこまでが真実で、嘘なのか、
正しい、正しくないとはなんぞや?ということを考えすぎている。

 そういうこととはお構いなしに、私はこの3年間で方向性を見出し、
この事実を足がかりにしてあたらしいことやものを始めようとしている。
がだ、初夏の天候不順と真実と嘘、正しいと正しくないの考察が
マーブル模様となってわたしの感覚が狂ってしまうこともまた事実。

 こんなことを乗り越えて西鉄ホールの中に入ると、
目の前に「無機質」というその場所に存在するだけで
気が狂いそうな空間が広がっている。

 ああ、これが「自由」というものが最大限に拡大・解釈された
空間、というものなのだろうか、正直、心がゾワゾワした。

 そういう心がゾワゾワする「社会」では「公共」というものも
半ば民間というカテゴリーの裁量に任されていて、
任された裁量により運営されている刑務所とその場所で働いている
「親会社」と「下請け」、「本社から出向の正社員」、
「契約労働者」という「立場」は違うけれど、受刑者に対して
「悔い、改めよ」という作業を共に行い、助ける「カウンセラー」という
同じ「役割」の人間たちがこの無機質な空間で右往左往して、
この右往左往を家庭まで持ち込んで大変なことになる様子が
物語の基本線。

 「犯罪」というものはある「社会」が規定した行為。
その行為をうっかりやってしまった、あるいは確信犯的にやってしまった、
「犯罪者」という「人間」にどうやって「罪」というものを意識させて、
向き合って、更生につなげていくか、社会が抱える最大の問題。

 しかし、この問題は「良かれ」と呼ばれる「善良な意識」の下で
犯罪の半分は行われていて、あと、残りの犯罪は
「そうしなければ生きていけない」というある意味、
「切迫感」と呼ばれる意識の下で行われている、という
前提を知らなければ解決は難しいのかもしれない。

 この前提を知らずに「悔い、改めよ」と言いながら、
更生・矯正教育を「立場・役割」として行う、としても
それは「立場・役割」として物事を有利に進めるだけにすぎない、
故に、「良かれ」という意識や「そうしなければ生きていけない」という
意識を持つ「立場・役割」は必死で抵抗する。

 こういった様子が、それぞれがそれぞれの有利になるように
「事件」や「事態」という「現実」を非常に偏った見方にまで
「曲解」するさまをムーブやマイム、そしてセリフ回し、
あとアマヤドリ特有の「フォーメーション・ワーク」をほんの少し効かせて
生々しすぎるくらい生々しく見せている。

 「言語」や「身体言語」のやりとりがストレートに板の上に存在する
相手役や客席の見手に「あえて」届ける(デリバリーする)のではなく、
何かしらの「ひねり(スピン)」を加えて板の上に存在する相手役や
客席の見手の内っかわにある柔らかくて、儚いところを突くように
届けて(デリバリーして)いる、危うさ、痛さがじわじわと伝わってくる。

 まるで、沢山の「固執」がドロドロに混ざっている状態を「拘泥」といい、
拘泥状態から生みだす言葉は有利さを求め曲解(スピン)する。
私達は一体どういうことに「固執」して「拘泥」しているのか、
何もわからないままに。

 故に、自身とは持っていく感覚が全く違う存在を「知った」時、
「邪魔でうっとおしい」という感情を持ち、その感情が「憎しみ」にまで
曲解(スピン)して、存在ごと消してしまえ、というところにまで
曲がってしまったところを丁寧に解きほぐしていく。

 結局、曲解(スピン)と利害関係が新自由主義者の基本思想なのか、
この基本思想の下、自分にとって「有利な人生」を得るために
駆け引きした事実が積み重なって、誰も「得る」ことは出来なかった、
何も「残る」ものはなかった、という現実だけが残った。
そして、泥沼のようなあたらしい現実が始まる。

 上から物事に当たるのではなく、「わたしも同じだ」という
目線にまで降りなければどうにもならないのだろう。

 ・・・故に、人間はえげつない「いきもの」である。
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