劇団tempa「ペンタゴンの侵入者」

福岡のガラパも凄いが、広島のtempaも凄い。

 「お客様をうまくもてなす」、そしてきっちりと
「演劇という技術」を体に叩き込む、という独自の「方法論」を
持っている、というふたつの点で福岡の「ガラパ」と
広島の「tempa」はものすごく似ている、というかおんなじだなぁ、
そんなことをここ数ヶ月考えている。

 ガラパは「ガラパサダーパス」という形で観劇コア層に
「伝播」(インフルエンス)の役割を分担させて、
新しいスタイルでの「広報」を確立させつつあるし、
tempaは広島県外から見に来た観客に「侵入免許証」なるものを
発行し、次と次の回の公演チケットの割引やら、何やらをするらしい。

 おまけに、地元のミニFMで持っている番組の中で
積極的に九州の劇団を紹介しているとのこと。

 「おいおい、そのネタはそこに入れていないぞ」というところまで
取り上げてしまっているからこそ、
「ここまで広げて、ありがたい」という思いが生まれ、
その思いがこっちも広島ネタを福岡・九州に伝播する策について
更に模索していかなければ。

 これが来年、自分の課題やね。

 そんなことを考えつつ、ハコの中に入って
「物語」の空気にまずは慣れてみることにする。

 今回は、白、白、白一色。
客席に今回は「劇団メール直販・1公演5席限定」で
「指定席」を設定するとのこと、どういう形で指定席を置くのか、
一度見てみようとしたら、自分が見た回は
どうやら、指定席を希望する人がいなかったようだ。
「○○様お席」という張り紙が特定の座席になかったし、
どう案内するのかわからないまま、考察の世界に戻る。

 表演空間はこの劇団がこの場所でやるときは
大体「外に向かって」、もしくは「外を活かして」という
作りをするのだが、今回は五角形などを場所の中央において、
その周りを客席で囲むことを選ばず、ガチの「シアタースタイル」を
あえて選んだ、そういう趣向になっている。

 この感じ、空気感を見て、自分はかつて見た
「アマヤドリ」という劇団が演った
「幸せはいつも小さくて、東京はそれよりも大きい」という演目を
うっかりと思い出していたら、もう本編が始まる。

 今流行の「シェアハウス」、その中には女が4人と男が1人、
空間の作りが「内に入る」感じで、ものすごく閉ざされていて、
「外への逃げ道」というものが演者の「外への」ではけ口を兼ねた
小さい扉一つだけ、その中でフォーメーション・ワークを使い
「閉ざされた人間関係」を一通り見せて、閉ざされた世界の外は
なにか尋常ではないことが起こっている、ということをそれとなく
指し示す序盤の流れ。

 全体の流れは「人生」そのもので実際に起こっている
行き違い(というか生き違い)と擦れ違い、そして勘違いを
「ガチの演劇」に落とし込んでいる。

 その「落とし込み具合」が「自立する」とはなんぞや?とか、
「同時進行」している「人生の諸々ごと」において、
何を「優先して」、どこに「集中させて」いくのか、
肯定もできない、否定もできない、けれどもつなげる準備はしなければ。

 結果、とにかく変化が必要になってきて、その「変化」が
どういうものなのか、具体化してどう動かしていくか、
というか私たちは「変え方」自体がわからない、という
「できない」怒り、「やらされている」怒り、「分からない」怒りを
抱えて「新しい波」を乗り越えようとしてる。

 ・・・そこには「快」と感じることを拒否してしまっている、
あるいは拒否してしまった重さが「存在」しているのだが。

 こんな「重さ」を見た目は軽くあっさりしながらも
深く踏み入れれば踏み入れるほどとても重厚。
重厚だからこそ「敵はわたしの外になく、わたしの中にいる」ということを
それとなく感じるように出来ていた。
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block 「バケツ」

虐待と差別は確実に心の奥底から壊してしまう。

・・・故に、「すくわ」なければいけないのだよ。

 block、といえば旗揚げからだいたい真夏のクソ暑い時に
公演を打つのが常、なのだが、今回は「夏の終わり」というか
「秋の始まり」というのか、どちらかはっきりしない時に
公演を打ってきた。

 表演空間の真ん中に、大きい「箱」というか、
「ドア」のある「何か」が「鎮座」していると
その「事実」だけでひとつの「世界」が出来上がってくる。

 この「世界」が教えてくれることは、
「人は所詮、凡夫であり、持っている知は程度の差こそあれ、
 凡知でしかない」ということ。

 更にこの教えは「生きるときには生きる・死ぬときは死ぬ」という
「普遍の道理」にまで発展していくさまをわかりやすく見せている。

 がだ、こういう現実や道理を知り、目の当たりにしても
凡夫の凡知であったとしても、生きている以上、
やらなくてはいけないことがあるのではないのだろうか?

 「わたしも至らない、あなたも至らない」ということを知る。
知ることができれば、「至らない」が故に
この世の全ては勝ち負けなしのおあいこであり、
だからこそ全てを「赦さなければ」いけないことを理解する。

 しかし、この事を知ってか、知らずか、あるものは
自らと異なった「異者」を「排除」しようとし、
また、別のものは「凡知」を飛び越えて何段か飛び超えた
先の「叡智」というものを手に入れようとしている、というか
手に入れた「振り」をしていることが多々見受けられる。

 「叡智」を手に入れたからか、はたまた手に入れた
「振り」をしているからか「赦す」という行動ができない。
「赦す」という言葉を忘れてしまったのか、
それとも元から「赦そう」とする心持ちがないのか。

 そこのところがわからないがゆえに起きる「ありえへん」ことが
板の上で連続して起こり、起こってしまったことに対する「反応」として
「噂」や「都市伝説」という適当な言葉ででっち上げ、ごまかし、
一番大事なことは、隠して見えないようにして
現実を個々人の都合の良いように「加工して」生きているから厄介だ。
・・・これが「バケツおじさん」の正体、というか真(心)の姿なのか。

 「バケツおじさん」が映し出す「真(心)の姿」は「虐待」という
「親が子供を愛することができない」という問題や、
この問題の背後にある「差別」、そして「貧困」までこれでもか、と
見せつけ、一度触れてしまったがゆえの「どうにもならなさ」から来る
「悲しくて、悲しくて、とてもやりきれない」感じが強く残る。

 こういう悲しみ、苦しみを題名は何か、忘れてしまったが、
筒井康隆がよく書くSF小説に 21世紀の世相を加えて、
「コンテンポラリー演劇」という形で見せたら、
こうなってしまうのか。

万能グローブガラパゴスダイナモス 「西のメリーゴーランド」

「またいつか」は「くる」かもしれない、
もしかしたら「こない」かもしれない。


 ずっと昔、縁あってこの劇団の基礎トレーニングを受ける機会があり、
一通り受けて、他の劇団の基礎トレーニングとすり合わせた結果、
「ガラパはラグビーの要素がものすごく強いな」という印象を受けた。

 この印象を強く感じたのが、ランパスの要領で「言葉」を
ボールにして回していく、というトレーニングを受けたとき。

 「サッカーの要素」で演劇をすると「言葉」というボールを
パスする時、すこしのブレも吸収・修正できる幅の広さがあるのだが、
「ラグビーの要素」で演劇をするとぶれ、というものを全く許さない
精度と密度を要求される、この「妥協のなさ」が
ガラパをガラパたらしめているひとつの要素なのかもしれない。

 新しい「節目」を迎え、今までやってきたことを誰にでも「わかる」ように
「見える化」、「見せる化」できるように再編成したのが、
前回の「ひとんちでさよなら」。

 この公演の中で、できたところと出来なかったところを見極め、
様々な手当をして、この公演を迎えた次第。

 今回の表演空間は、ごく普通のリビング、極めてシンプル。
・・・シンプルすぎるほどシンプル、けれども「事の起こり」なのか
「事の次第」なのか、はたまたその両方が「混ざっている」のか、
曖昧になっている空気を抱えている。

 この曖昧さはもしかしたら「パブリックな時間」から
「パーソナルな時間」へと移っていく途中で流れている
ものすごく曖昧な「時の間」と同じものなのかもしれない。

この「時の間」の曖昧さ、「空間」の曖昧さ、
「コミュニケーション」の曖昧さ、その他多くの「多層・多面的」な
曖昧さを幾重にも貼り付けて、序盤はグイグイと物語を進めていく。

 進めていくムーブとしてラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)が
試合でよくやる「ムカデ行進のようなドライビング・モール」を
仕掛けてきた時は「ここまでやるか、ここまで来たか」と
唸らされてしまった。

 この半ば強引、とも取られかねない物語の進み具合で
いつもと同じ「行き(生き)違い」、「勘違い」、そして「擦れ違い」の
お話を「場面」(scene)ではなく「局面(phase)」で繋いで、積み重ねて、
さらに「次」をどうするか、どうなるのか、たくさんの「思い」や「考え」、
そして「思惑」を混ぜ込んでいくと、
ぐるぐると加速しながらいま、そこに在る全てが動き出す。

 もしかして、わたしたちがこれまでも、これからも
「生きている場」というところは元々複雑な構造をしていて、
というか、その「場」自体が歪んでいるかも知れない。

 故に、「目的」というものに「行くこと」ができても、
元の場所、あるいは別の場所へと「帰る」ことができないようだ。

 更に突き詰めれば今、「生きている」のか
「死んでいるのか」正直、わからなくなる。

 「生きている」、ということは「魂」と「肉体」が
調和している状態だとしたら、「生き物」とは
元々「魂」を「運ぶ」ための「容れもの」であり、
「当たり外れ」次第ではとんでもないものに
「載せ替えられて」しまう可能性が在ることさえも示している。

故に、「同じ展開」は二度と来ないのだ。
「またいつか」は「もう遅い」と同義なので、思ったら、今やれ。

  こういう「魂」と「肉体」の関係、という「大きな出来事」を
「男と女」や「家族」という「小さな出来事」に
載せ替えたら密度がよりえげつなくなり、そのえげつなさが
それぞれの「役」が持つ「キャラクター」に反映されて,
物語のはじめでは個々のキャラクターが突出していたが、
物語がすすむにつれて、個々のキャラクターは
「一つの作品」という「塊」に化け、物語に挑んでいくように持って行ってしまった。

 ・・・ああ、これが「めんたい演劇」というものなのか。
これからはこういったスタイルを突き詰めて「新しいコメディ」を
作り上げていくのかもしれない。

劇団きらら「ガムガムファイター」

「ちゃんと」していたら
「決して」みる「ことができない」景色と
 ちゃんと「していた故に」みて「しまった」景色。


 ・・・ヒトサマニ、メイワクヲカケテハイケマセン。

 そういうような「正論」を「良識のある大人」は
いつも、いつものたまっている、うんざりするくらいに。
ほんとうはそうじゃないこと、わかっているくせに。
それを立場の低い人におしつけるのは、かなりしんどい。

 そんなこと考えていたら、ご飯ちゃんと食べていても、
夜きちんと寝ていても少しだけ調子が良くないので、
公演に行く前、間に合うギリギリまで横になる。

 さて、今日は懐も心もとないので家から大橋まで歩くことにする。

 そして箱に着いて、空間の中に入ろう、
そうしたらこの心細さは何とかなる。
今回もほぼ素舞台の上に「なんにでも化ける」箱馬が
登場人物の人数分。
客入れ音として、ジャズがうすーく、うすーく鳴っている。

 そういう状況でわたしは、わたしたちの生きている「場」が
「規則・規範」によって「定義されて」居る「法治」の「場」と
「ある特定の人物・あるいは集団」によって「定義されて」居る
「人治」の「場」、この二つに分かれていて、これらの「狭間」、
「端境」という「曖昧」で私たちは生きていることを知る。

 この「曖昧」を近年、「見える化」してきたのがmixiに始まり、
ツイッター、フェイスブック、ライン、Instagramを始めとした、
SNSと呼ばれる「新時代の双方向通信」だったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、いつの間にか本編が始まっている。
まず、物語の「空間」は「ラブホテル」、それも「お客様」の立場ではなく、
「お客様」が「やらかした」後を「掃除して」何もなかったかのように
「仕事」をする立場を使い、表現されているのが今回の趣向。

 この「空間」について「底辺」であると「思う」人も存在するし、
逆に、というかそれに変わる言葉が見つからないが、
「日常」であると「思う」人も存在する。
けれども、この2つをそれぞれ「体験」した人はどうなんだ?

 そういった疑問をいけだみきはイタリア映画のような空気感を使い、
切なく、悲しいけれど愉快にお話の肝である、
「インテリ文化」という中で生きてきた人が、
自分の責任もあるけれど、「ヤンキー文化」に突然放り込まれ、
価値基準の違いをうまく認識することができず、
最初は戸惑っていたけれど
「幽霊」とともに働いている人の「家族」との交流で
徐々に慣れてきた、という流れで見せていく。

 がだ、人間は生活に慣れてくると自らが元々持っている、
持っていた価値基準を使って違う文化圏の人を
「査定する」ような態度を得てして取りがちになってしまう、
というか、確実に取ってしまう。

 そして現在はツイッターやらフェイスブックというSNSが
そういう態度を助長するから始末に負えないわけで。

 更にはその態度を受け取った不特定多数の
「預かり知らない人もどき」が「上から目線」での「同情」や「非難」
としかそれらの態度を受け止めきれず、
何がなんだか、訳のわからないことになってしまう。

 なぜ、そういうことになってしまうのだろう?
「いいね」などに代表される「他者」や「異者」の評価結果に
拘泥しすぎて「自分のあるべき姿」を見失ってしまうからかもしれない。
こんな時に外から「聞こえない声」として聞こえてくるのは
「ちゃんとしなさい、ちゃんとしなさい」という何処かからの声。
この聞こえない声を聞いてしまうと出来たこともできなくなるし、
わたしがわたしでなくなって、「ちゃんとした」仕事、
「ちゃんとした」収入、「ちゃんとした」家庭、
その他多くの「ちゃんとした」を失ってしまう。

 こうなったら、ものすごい勢いで人生堕ちるところまで堕ちてしまう。
落ちた底は土曜も日曜も祝日もなく、「ちゃんとした」人が
寝ている時間帯に起きて、働き、「ちゃんとした」人が
起きて、働いている時間帯は寝ている、
そういった「時間帯」を生きなければいけなくなるのだろう。

 ここまで堕ちたくないから粘り強く、ふんばろうとするけれど、
うまく行かないのが、人生なのかもしれない。

 うまく行かない苛立ちをうまく処理できず、
さらに堕ちていく人もあれば、踏ん張って、現状に妥協して
黙々と働く人もいる。
・・・わたしは一体どっちなんだろうか?

 ここ最近のいけだみき戯曲は「生きる」ということの「きつさ」や
「難しさ」を「優しく・柔らかく」して見手の前に差し出している。
故に、見たあと、何かを思わず考えてしまうのです。
プロフィール

itumo25254you

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