Dengeki vol.4

九州最強の「磁場」誕生。 

 
 14+の広島公演から中国地区劇王戦に行けず、
どうにもならなくなってきている。
 おまけに、久しぶりの熊本、行き道を完全に
忘れてしまっているので時間と距離で戸惑い、 
お行儀の悪い人たちに前を塞がれて右往左往している。

 

 心と体の荒れもひどく、この場所にたどり着く
数日前まで死んでいて、
おまけにお金も心細く、
いろんな不安が体中ぐるぐるしているわけで。
  子供だから、仕方がない、とは言いたくないが、
大人と同じところで戦う以上、
同業者から「行儀が悪い」と
思われてしまったら、それはそれでまずいのです。

  そういうところとおんなじ組に回された大人たちは 
 ものすごく大変だ、と感じていると昼のセッションが始まる。

 
今回は行き道塞いだ団体が最前中央を独占したため、 
四隅の準備まで見えてしまうポジションを見つけて
そこに落ち着くことにしよう、
・・・昼のセッションは。 

 この公演、「パッケージ」の作り方が秀逸。
 音の作り方にしてもオープニングの「田園・朝」から演者入場の
「ラデツキー行進曲」というその場を
ある意味「沸かして」しまう
仕掛け」が十分にできている。

  ・・・がだ、「きちんとできている」からこそ昼セッション担当の 
MCがカミカミのグダグダだったことが非常に惜しまれる。


  
1. 劇団鳴かず飛ばず×演劇集団宇宙水槽 
 
 前シリーズ、初参戦で名刺がわりに
「熊本を思いっきりdisってやる」とも
取りかねない内容を
見手の目の前に差し出されたら、
ものすごくビックリするではないか。 

 そういうわけで、今回は「ファンタジー」を得意とする 
同じ鹿児島の劇団と組んで再びこの場に参戦。
 がだ、今回は全体の端を切り、おまけに昼の部名物と化しつつある 
「大人殺し」の小学生ダンス集団の前で演る。
 
  こら、すごくしんどいぞ、と思っていたらいつの間にか本編が。

 
今回はdisりも何もなく、「cyberで、すごくおしゃれ」な空気で
 「走れメロス」を演る、という趣向。
  
 メロスの立場を演ずるは「人型ロボット」、「プログラミング」という
 「くすぐり」を効かせ、cyberなのに、やっていることは
ガチのマンパワー
(またの名を「人海戦術」という)が
 表演空間目いっぱいに繰り広げられ、
いい意味でえげつない。

  作業中のロボットの目に写った「美しい一羽の鳥」が
柔らかく飛び立ち、
その鳥を追って日本を飛び出し、
世界を駆け回り、気が付くと4万キロも「走り遂げ」ていて、
 一回りして、また同じ場所に追いかけていた鳥が柔らかく降り立つ。

  そういった「空気感」がロックのリズムで表現できている。

 2. 熊本大学演劇部 
 ・・・おどろおどろしい「空気感」、とはこういうことなんやね。

  その「空気感」を肝心要の「第一声」で滑らせて、
台無しにしてしまった。 

 「意思」とはなんぞや?という問いが「主題」であり、
 その問いを「意思」と「石」にかけてみせる、という「趣向」は理解できた。
 けれども、肝心要の「第一声」を弱く出してしまったことで
「主題」と「趣向」、
両方共薄くなってしまった。

  そうなってしまうと板の上にあるすべてが不明瞭になって、 
「人間は、すべからくして大人のふりをした永遠の子供である」という 
「メッセージ」が正確に届かない、それはすごく残念だ。

  お話として「学者、というかその道に対して一途な者」は 
もしかしたら「大きな子供」でしかなく、「大きな子供」が
「大人」として認められるために
「ノーベル賞」というものは
存在しているのだろうか?という疑問、 
更には「地球」という存在が「有機物」なのか、「無機物」なのか。 
もっと言えば「有機物」と「無機物」が共存していて、
その割合はいかほどか? 

 それらがわかれば、もう少し地球やわたしたち人間を
深く理解できるのかもしれない、
けれども、どうなんだい?
 というところが伝わっているからこそ、
第一声を「丁寧に」演って欲しかった。

 3. RIKKA 

 はいはいはい、「大人殺し」の小学生がやってきた。
 「みんなちがって、みんないい」ということも、 
「好きなもの」に対しては「工夫」というものを出しやすい、 
というメッセージはよく理解できた。

  けれども、「学ぶ」ということや、「勉強」の方法論というものは
一体全体、何なんだろう?

 「やる」と「やらされる」の「違い」と「作用・反作用」は何なんだ? 

 これらふたつを勘案して、「わたし(あなた)にあった学び」とは
何なのか、
ということを考えるには、ちとチカチカしすぎて、中身が薄い。 

 「子供の頃から「身体言語」というものを「学んで」、「習得して」、 
小学校高学年から中学生になる頃には、
もう「プロフェッショナル」という
半ば「過酷な世界」を生きている人間にとって、
 日本の、というか「学校教育」自体が
いささか窮屈なもの、と
思えてしまうのだろう。 

  がだ、「ラジオ体操」というものの持つ「美しく、意識を集める」ことを
 「認識する」作業を通して、「違う価値観」に触れることもいいもんだよ。 
ということも考えろよなぁ、という着地の仕方。

  ・・・なんか、見ていて、ある意味哀しくなってきた。

 4. イチニノ 

 「生きること」ということは何かしら「業」を抱えているのかもしれない。 
「第一声」はゴスロリの女の子、中身は「年次の統計数字」。 

 
 空気感は「あった」、「会った」、「有った」、「合った」、
「遭った」 
「在った」、「逢った」・・・という単語がふわふわしている
「変なお見合い」の場。

  この部屋から出ない、出られない、わたし以外しかいない、
いることができない、
わたし以外はみることができない、
わたしはわたししかみることができない。 
これだけでも、なんか怖い、というかぶっ飛んでいる。

  この「ぶっ飛んでいる」状況で私たちは「外の常識」と「内の常識」の 
「かすかな違い」というものを感じ取らされて、同時に「性的な何か」と
 「植物的な何か」に
「なる」ことによって、 
「終わるための旅」をある意味「疑似体験」することになる。

  ・・・ある意味、シンプルではあるが、
別の意味では複雑かつ、煩雑でもある。

  まあ、言えることは世の中の有象無象にある
「汚いもの」を吸い込んで、
「養分にして生きていく」ことも
ひとつ、あり、なのかなぁ。

 5. 「」
 

 若くして死んでしまうのは、正直、しんどいけれど。
 そのしんどさを抱えて迎えるお通夜の場、繰り広げられるは
これまた重たい
「深層心理ゲーム」、何故死んだのか、
何故、一月も冷たい海のなかに「放置」されて
どざえもんになったのか、
壮絶な「腹の探り合い」が半端ない密度で繰り広げられる。

  正直、誰かがごまかして、嘘をついている。
 けれども、その「嘘」を見破る「ギミック」に一抹の不安。 
「手元」を「どう見せるか」というところを曖昧にしたからだろうか? 
「あれっ、いつの間にかに」という「驚き」が薄かった。

  もう少し密度のある空間だったらそれでもいい、
 しかし、dengekiの空間では訳がわからなくなる。

  ・・・人は自分可愛さに嘘をつく、というところが
きちんとしているからこそ、
なおさら強く残念なのですよ。 

 ああ、「組織票」いやだ、いやだ、腹たち紛れに飲む。

  そして夜のセッション、濃ゆい見手の中に混ざる。

  
1. 純白奇劇団 

 今回も、ものすごく「ぶっ飛んで」いやがる。 
「死ぬ」ということの「定義」というものは人によって違うし、 
もっと広い意味では国家、あるいは民族によっても違うのだ。

  こういうところを「きちんと」狂わせながら見せている。

  故に、ある人や国家はたくさんの金を使って、
死体を「永久保存」してみたり、
「肉身如来」というものにしてみたり、
そうして「見世物」というか
「アイコン」にしているところもある、
反面、「安葬」と言って、
土葬で、きちんと「骨」に出来なければ
子孫繁栄が難しくなるほど祟るぞ、
それを「陰死」という。 

 こういうことを聴いて、見ていると切ない、というか考えさせられる。

 2. オルココ2 

 これが「世界基準」の演劇、というもので、
 更に言えば「コンテンポラリー演劇」というものを
突き詰めていくと 
こうなってしまうのか。 

 その文脈で「エゴイズム」と「男子同性愛」、
「嘘」と「罪」を
ジョン・ケージの「4分33秒」という
「現代音楽」の「空気」
取り入れて見せると、
こうなるのか。 

 がだ、「世界基準」を「世界基準」のまま見せてしまうと
 どこかで消化不良を起こしてしまいがちになるのだな。
 そこさえ出来たら、
すげぇ「掘り出し物」になる。

 3. gojunko 

 今回も、一つ一つに込められた「情報量」が半端ない。 
基本線は同級生がカラオケボックスに集って、
人生をどうのこうのするけれど、
その場を「成立」させている
「人間」がいつの間にかひとり欠け、ふたり欠け、
いつの間にか「孤独」になってしまった。 

 そこに至る「事の次第」を見せずに、「死んだ」という
「事実」だけを伝え、
見せられると「死ぬ」って、
こんなに「あっさり」としたものなのか、と重く伝わってしまう。

 4. DOGANG 

 前シーズンのチャンピオン。 

 ・・・にしても「これがチャンピオンなのか?」という出来だった。

  がだ、今回は「チャンピオン」らしい質と出来を持ってきた。

  というか、INDEPENDENT:FUKに持って行ってもいいかな、という 
「一人芝居」を持ってきた、ともいうけれど。

  あとは「たくさんの人間を一人で演る」というアイデアを
 確実に実行するための「準備」をきちんとやる。
 何度も何度も結界を踏み越えず、一発で「決める」こと。

 5. 天然木 

 最後の最後で凄いものがやってきた。

 「民謡オペラ」というのか、「民謡ミュージカル」というのか。
 新しいジャンルを見てしまった。 

 「祖母」と「孫」という世代間の「生き違い・すれ違い・勘違い」を 
「民謡」という自らが培った技術と「生きている空間」をそのまま 
この「場所」に持って行くと全てが圧倒的だった。

  全体通してみると、凄い磁場を持ち始めてきた。
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演劇ユニットそめごころ「反復する、イクツカノ時間と、交わる、イクツモノ時間の中で、僕等にできる、イクツカノこと。」

「演劇」と「日常」の反復運動。

 去年10月のハムプロは「財布をなくした、というか落とした」という
理由で、去年、12月のこふく劇場は「心身の疲労」で、
2度も松山行きをキャンセルしてしまった。
・・・3度キャンセルしたら「次」はない。

 そういう状況で旗揚げ以前より野田秀樹、特に「野田地図」の
「身体言語」及び「身体感覚」を携えて、福岡で立ち位置を
確保しつつある劇団がひょんなところから松山登場。

 松山、という街はシアターねこができる以前から
「コンテンポラリー・ダンス」というものがすごく盛んで、
そういう「前提」を持ったところ。
野田地図も「エッグ」で振り付けにコンテンポラリー・ダンスの名手を
迎えたように、結構「親和性」が高い、という発見。
このふたつが組み合ってどういう「化学変化」が起こるのか?

 そんなことを深々とする冬の空気の下、考える。

 考えながら、我らが愛媛FC、ことしも「キャンプ」という
「長期拘束・長期合宿」をやらず、「日常」を積み重ねて
シーズンに臨む模様、との知らせを受ける。

 「長期拘束・長期合宿」の強みって一体何なんだ?
「演劇時空の旅」のことも有り、更に考えてみることにしよう。

 まずは、「一体感」(らしき)ものを作ることができる、
あとなんだ、長いシーズンの肝、「遠征」の「予行演習」という形で
個々人の「メンタルの強弱」、「対応力の強弱」を見極める事ができる。
・・・これだけか。

 「強み」もあれば、「弱み」もある。
まずは、シーズン最大の肝、「試合から日常」、「日常から試合」が
うまく作れない、ということ。

 「日常から試合」があるから「浮いたり、沈んだり」ということが
わかるのであって、「浮いたり、沈んだり」ということに対処する
「処方箋」がうまく書けないことが多々ある。

 「処方箋」が書けないからどこで「締めて」、どこで「緩める」か
その「勘所」がわからない、わからないからどうしても「やりすぎる」、
「やりすぎて」、心身に「トラブル」を抱えてシーズンに入る。

 ・・・その結果、どうなったか、わかるよね?

 ということで結論を演劇に落としこむ。
「演劇時空の旅」は永山さん、という「コンディショニングの達人」が
演出家を務めていたからこそ、「長期拘束・長期合宿」で
作品を成熟させることができた。

 けれども、たいていの演劇は「作品から日常」、
「日常から作品」のリズムを反復させることによって、
作品と座組を成熟させなければいけないのかもしれない。

 「演劇」、もしくは「サッカー」のない日常から「心と身体」を
「起こして」、段々と「演劇」、もしくは「サッカー」のある日常へと
心と身体を整えていく、そして「試合から日常」、「日常から試合」、
「日常から作品」、「作品から日常」、というリズムを作るから、
「ベンチマーク」が明確となり、出来、不出来がはっきりとわかる。

 そんなことを考えていたら表演空間に入る準備が整い、
そろそろと中に入っていくことにしよう。

 さて、今回は奥行きのある場所の特性を活かした
「八百屋舞台」、そこに「だだっ広い黒板」を仕掛けた趣。
・・・「だだっ広い黒板」、といえばずっと前の「演劇引力広島」初演の
「ガラパゴスパコス」をふと思い出し、思い出しながら今、この場所で
展開している「舞台裏・開演前」のドタバタを見ている。

 開演前のドタバタを「敢えて」、見せているのか、
それとも「初めての場所」で「自分の」演劇を見せるが故の
「神経質」なのか、「演出席」はそのまま、表演部の「黒板」、
チョークで書いた「消しあと」もそのまま、「影アナ」の確認まで。

 え、これ、もう「演劇」は始まっているのか?
「演劇」と「日常」、「嘘」と「本当」、「過去」と「未来」、
あとその他諸々が混ざって何とも言えない時間と空気が
いつの間にか漏れだした「本編」が始まる。

 基本たる「生き違い・すれ違い・勘違い」は押さえていながらも、
「見る」と「聴く(聞く)」、「白」と「黒」、「善」と「悪」という
「人間として、基本的に持っている矛盾」を「あさま山荘事件」と
「ベルリンの壁崩壊」という「生きる、死ぬ」と「革命・反革命」、
更には「共産主義」と「自由主義」の混淆を孕んだ「出来事」に
荒削りながらも落とし込んでいる。

 物語の全体はサン=サーンスの「月光」が流れてはいるが、
自分の脳味噌の中では椎名林檎の「NIPPON」という曲、
更に言えば「あの世へ持って行くさ、至上の人生、至上の絶景」という
ワンフレーズが妙にぐるぐるしやがる。

 ある意味、「絶望」を見せながら「希望」も提示する、というところに
野田秀樹でありながら、野田秀樹ではない。
ある意味、野田秀樹より「社会・時代」の際どいところすれすれを
攻めていく「姿勢」を見せて、再び幕が上がろうとしている。

劇団こふく劇場「ただいま」

「変えられるものを変える勇気」と
「変えられないものを受け入れる勇気」に繋がる祈り。


 最近、いろんなことがあって、ありすぎて、
「演劇」をまったくしていない。

 久しぶりの「演劇」が久しぶりの枝光本町アイアンシアター行き。
中に入ると、今までよりも質、量、ともに分厚くなった「劇場空間」が
その場に存在している。

 その分厚い「劇場空間」に「余白」というものを十分に取り、
この「余白」に「物語」の持つ「空気感」をしっかり含ませたうえで、
演者と見手はこの「劇場」と「表演空間」がもつ「空気」を
あるときは背後から「背負う」ように感じとり、
またあるときには真正面から「受け止める」ように感じとる。

 故に、演者の「演じるからだ」がものすごく「美しい」。
この「美しい」演じるからだで滑らかに「動き」、「話し」、
そして、それぞれの要素が滑らかに「響きあっている」ことが
板の上で繰り広げられている。

 この行為はまるで小津安二郎 作品の持つ全体的な空気を
形作るそれ、とほぼ同じものなのかもしれない。

 これら「総合」された要素に「日々の、淡々とした生活」と
いう「行為」が落とし込まれ、隠し味に演歌やフォークソング、
合唱曲という「歌う」こと、美しい所作で毎日の生活を表現したら、
それは「なんてことない日々の生活」に突然、飛び込んできた
「結婚」や「蒸発」、そして「死亡」というイレギュラーな
「出来事」のもつインパクトをよりいっそう強く感じ取ることができる。

 感じ取ってしまうと生きていれば自分の有り様を含めた
「生きているすべて」はじわりじわりと変化し続け、
ひとつとして同じところにとどまることはない、ということは
わかってはいるのだが、いざその場に立ち会う、ということになって
実際に「変化」を手触りした戸惑い、焦り、苛立ち、たくさんの感情を
歌や音にして「表演空間」と「劇場空間」両方に飛び交わせている。

 そういう様を感じ、味わっていると、いつの間にか
「変えられることは変えていく」、「変わらないことは受け入れる」という
「二つの勇気」を手に入れ、これらをどう使っていくか決断するための
「賢さ」、というものも学んでいた。

 けれども、学んだものを使いこなすには相当の踏ん張りが必要だ。
この「踏ん張り」を「伝える」力量の強さがこふくの強さだったのだ。

 いろんな場所で、この空気の違いを確かめたかったのだが、
いままでの疲弊がどっときたのかなぁ、うまく行かず。
プロフィール

itumo25254you

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