劇団ルアーノデルモーズ「ラッキーフィッシュパーティナイト」

「生きる衣紋掛け」と
「良い俳優・女優」の間で生きていく覚悟。


 山口小夜子、というこの国のファッション草創期を
支え、生き抜いてきたモデルは自らのことをこう言った。

 「私は、生きる衣紋掛け」と。
それを初めて聞いた時、
「なるほど、この職業における立ち位置や役割はそれなのか」と
理解し、彼女はこの立ち位置と役割を全うしたからこそ、
この国における「モデル」という職業をひとつ上の段に押し上げた。

 「実際」に、洋服を「着て、動く」ことで、洋服自体が持つ
「質感」や布地の「重い、軽い」、更には纏っている「空気」の
「重い、軽い」などといった様々な「情報」を周囲に「伝える」
ことができるようになると、自然と「演劇的」な要素までも
身につく、というか必要になるのだろう。
これを見つけたから「ひとつ上」の段に職業を押し上げたのかもしれない。

 この流れで演劇を始めたデルモーズ、
前作「ミツバチと時間のワルツ」まではどこかに
ファッションショーのランウェイを「意識」しながら
「演劇」をやっていた。

 ランウェイを「意識」しながらの「演劇」をひとくぎりさせて
夏のハウスショーでガチの「演劇」というアプローチングを
始めたうえでの今作、どう変化して、化けたか?

 村上春樹「羊をめぐる冒険」の世界、というかお話の「肝」は
「幸運」とはなんぞや、「ツキ」というものは「移動」するのか、
「移動」するとしたら「どう言う形」で「移動」するのか?

 この「問い」に対して、結局のところ、「幸運」とは実に「ふんわり」と
つかみどころのないものであって、つかみどころがないものだから
「幸運」を「表す」印、というか、「何か」が存在している。
この「印」、というか、「何か」を「表」に「見せない」ことによって
その人にとっての「幸運」は「守られて」いた。

 「幸運」の「印」、というか、「何か」をうっかり見つけた、というか
たまたま見つかったことによって「幸運」と「ツキ」というものの
「移動」という「物語」に巻き込まれていく、そのなかで
たくさんの「人間」が生きている様子をきちんと見せる。
・・・これがお話の基本的な流れ。

 この流れはそのままに「幸運」を表す「印」を「羊」から
「魚」、それも「金色か赤色の小魚」に変化させて、
空間は「山」から「海」、そしてガラパ風味で迷路感いっぱいの
船の中に変化させて見せていく、という趣向。

 この趣向で「コメディ」ではなく「ガチの演劇」として
「お話の流れ」を見せなきゃいけない、それを荒削りながら
「やり切った」ことでものすごく「化けた」な、という見後感。

 モデルの「身体性」はそのままに、ガラパの
「基本的な身体性」たる「ラグビー」、それも大昔の
早稲田大学のような「密集・展開、あとなんだ」が
荒削りながらも徹底されている。
「ツキ」が移動する手前の展開、「紅茶の入った水筒」の攻防戦、
本業の人が見ると「危ない」と思うかもしれないが、
それなりに、「モール」ができているのだから。

 あとは「モール」から「水筒」という「ボール」をどう出すか、
ラインをきちんと作ること、それより以前に
「安全なラグビーの基本動作」をガラパともにマスターすること、
あと、所々見られたセリフの詰まりを無くせば
名古屋の「あおきりみかん」という「演劇」を射程圏内に
捉えられることができる。

 そしてその先に見えるものは・・・。
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サンピリ「ラブ・イン・ヘル」

「愛の地獄」からの生還に向かう入り口。

 ものすごくすっきりしている、というか
配置している「もの」の色バランスがすごくいい。
白い壁と床、客席の黒い椅子、そして演者が座る
赤い椅子、この絶妙なコントラストを見ただけでも
ここに来たかいがあったものよ。

 さて、よこやまゆかりが「人生」の何かに対して
「くそったれ!!」と「演劇」でシャウトするシリーズも
早いものでもう3回目。

 こっちは、行って、帰って、また行ってと
「相互補完」という今の立ち位置・役割を
やっていけば行くほど、ものすごくしんどい。
けれどもそれが役割だから。

 まあ「朗らか」でいれば誰も悪いようにはしないし、
「陰隠滅滅」でいれば、何もかもなくなってしまう、
そこら辺を考えておけば、まあ良しとするか。


 そういうことを考えていたら、今までのよこやまとは違う
雰囲気をまとって、表演部にやってくるではないか。

 生活の中で何かに「追い詰められている」様子が
うまく出ている、更に言葉の流れから見て、
「都会」にある少し大きな病院の「精神科」に
都会から離れた「地元」のクリニックの紹介でやって来た。
その「初診」の中で起こった出来事。

 最初は「うつ病」だ、と思い込んでいて、
それを聞いたお医者さんが「そうじゃないよ」ということに
対して当初はものすごく反発していたが、
「父親」と「わたし」、「母親」と「わたし」という「人間関係」という
「過去」を少しずつ明らかにしていく中で、もしかしたら
「父親」にも、「母親」にも、そして「わたし」にも
ごく軽度な「発達障害」があるかもしれない。

 この「発達障害」が生活の不都合を引き起こした結果が
あなたの「うつ病」のもとになるものなんだよ。
原因となるものがわかればじわじわと「わたし」の過去を
話しやすくなるものだ。

 わたしの過去を少しずつ明らかにしていく中で、
なぜそうなったのか、そうなった中に「正の感情」は
どこにあり、「負の感情」はどこにあったのか、
それぞれの感情を「感じて」どうなったか、
という流れをひと通り見せる趣向。

 どうやら、これはひとりの女性が自らを取り戻す入り口に
立った、というお話のようだ。

 それを見て、わたしも10年前、同じことを経験し、
わたしになった、ということを思い出す。
世間の一部から陰口叩かれて、季節の変わり目になると
妙に死にたくなる、というか死んだほうがいいかなぁなんて
思ったりもするけれど、まあ、その理由は金稼ぎと
演劇が両立できない、そんなところだが。


 さらに、「物語」で使われていた「女性の名前」が
大切な人の名前だったからこそ、妙に細かいところに
引っかかり、引っかかってくるからこそ
わたしは、大切な人の物語を今まで以上に聴きたいし、
もう、そろそろ結婚しないとなぁ、そんなことを考える。

九大大橋キャンパス演劇部「ゴミくずちゃん可愛い」

「世の中の狂い」を
「本当の稚気(チャルダッシュ)」で見せている。


 正直、ぬいぐるみハンターの元版も見たくなった。
というか、元版見なければ内容や技量をはじめとする
様々な「差異点」についてうまく話が展開できないわけで。

 一年ぶりの芸工大多目的ホール。
自分たちは「道真」でああいう「使い方」をしたが、
今回は更に発展した形で空間を作った模様。
・・・流石に音響はスゲェや、王子小劇場にシステムを
まるごと持って行きたい、尾本さんとつなぐ場を作らなければ。

 それにしても、芸工大演劇部の伝統なのか、
何なのか、よくわからないところがあるが、
演目のチョイス、キャラメルボックスや
野田地図、新感線に代表される「商業系演劇」でもなく、
「平田オリザと青年団」に代表される「こまばアゴラ系演劇」でもなく、
演劇界の「新潮流」、「王子小劇場系演劇」を選ぶ傾向がある。

 この「王子小劇場系演劇」、いろんな「演劇的背景」を持っている
作り手、演者、見手が集まって、それぞれの「流儀」で「演劇」を作り、
そして見せることでそれぞれの「演劇」という「言語」がぶつかり合い、
ブラッシュアップ、というか修練と鍛錬を重ねていくことが特色。
これら「修練と鍛錬」の成果を顕彰する「仕組み」として
「佐藤佐吉演劇賞」というものがあるのだ。


 「王子系演劇」が問うているものやことは
もしかしたら、「今までの演劇」というものが
時代の流れによって「限界」というものがやってきていて、
「限界」に「幻滅した」ひとは「演劇」に対して
「悪態」をつき始めた、それってまずいよね?
悪態つくなら、文句言うなら、出来ることでたたかうしかないのだよ。

 そんなことをつとつと考えていたら目の前には
「世界」というものの「終わり」が目の前に。
「終わり」が近づいてくると「不要なもの」ばかりが増えてきて、
その「不要なもの」を処理する場所はパンク寸前、
こうなると、陸を走って「不要なもの」を運ぶには
いささか面倒だ、いっそのこと空から振らせてしまえ。

 こういうある意味「危険な場所」に何らかの理由で
自らの「たましい」を捨てた、捨てざるを得なかった
人間がいつの間にか、集い、好きなことをして働き、
好きなようにして生きている。

 その場に「ゴミ」と「ソニー」という二人の子供が
「放置」され、「産まれ」た。
「子供」を育てる、ということで、「たましい」を取り戻す、
その一部始終が物語の肝。

 ここで問われている「テーマ」みたいなものは
「人権」とはなんぞや?
「人権」というものの中に「生存権」というものが
「存在」しているのか?
「生存権」とはなんぞや?
もし「生存権」の中に「生きることをやめる権利」があるとしたら
「自殺権」や「殺人権」はあり、なのか、ナシ、なのか?

 そういうことを「児童ポルノ禁止法」に絡めたことやら、
経済に関する事柄などでそれとなく見せてはいる。

 がだ、テーマ、というより演者それぞれが年齢的に若いし、
「幼稚」ななりをしていると、妙に「時代」というものがリアルに迫ってくる。
ああ、現代はものすごく「幼稚」な時代なのだな、世界中どこでも。

 「世界」というものの「終わり」と「再生」の入り口とは
こういうものなのか。

劇団あおきりみかん「パラドックスジャーニー」

人生での一番厄介な長い、長い、旅の途中。

結論、松山から寄り道して見た甲斐があった。

松山でシアホリ見る、というところまでは道筋ができた。
問題はその後、どうするか?

そのまま福岡に帰っても芸がない、
というか、つまらないし、大阪に寄って阪神戦でも、と思うが
お金が心もとない、ましてや・・・と思ったところに
一枚のハガキがやってきた。

今度、名古屋などであおきり、新作やるよ、
前作、行く予定でキャンセルしたろ?
あ、今回、「行かない」はナシでおねがいします。
なんてそこの親分の直筆で書かれていたら
「集合」が掛かったも同然だ。

「集合」が掛かったら、なにはなくとも行かねばならぬ。
というわけで、大慌てで日程を確認したらちょうど良い塩梅で
ぴったりとハマってしまうではないか。

松山からちょうどいい時間帯で名古屋までの夜行バスがあり、
帰り、福岡までの夜行バスは時間帯がちと早いが、
広島行きだったらちょうどいい時間帯、そしてこないだの遠征で
やり残したことがあって、それを片付けるには良い塩梅。

そういう日程を組んで、実行してみたが、現実は甘くない。
松山の演劇、終演時間が遅く、シアターねこから道後温泉まで
上一万の交差点まで一本で行ける道がどこなのか夜なのでわからず、
変な道筋をウロウロ歩き、道後温泉にたどり着いたら、
足湯も、本館も、椿の湯も時間切れ、大人しくベンチで待つ。

そうこうしているとバスがやってきて、奥のターンテーブルで
一回転してやっと乗ることができる。
あとは目をつぶっているとじわじわと眠くなり、外が見えないから
気がつくともう名古屋、サウナの割引券をもらい、お風呂に入って、
ご飯食べて、ゆっくりしつつ、レポートを書くともう出る時間。
もう一回お風呂に入り、外に出て、まずは伏見に向かって
納屋橋通りを歩く。

そして、御園座はもう取り壊されて改築中だ、というのに
通りの名前は御園通り、通りの終点より先まで歩いていると、
ハコがあるらしい、文具屋がやっている雑居ビルにたどり着く。

・・・ここでいいのだろうか、と考えつつ、
帰りの高速バスのりばまで一本で歩けるか、試してみたが
どうも難しいかも、ちょうど良い塩梅にスルガ銀行があったので
小銭をおろして帰りの地下鉄代は確保した。

あとはコンビニで食事をしながらレポートを書き、
街の様子をウロウロしながら見ている。
日本の現状知るなら、海外行け、とか言うけれど、
名古屋に行って、街の様子を見れば、それでいいのかも。
東京はなんかおとなしすぎる、大阪、福岡はアジア人が多すぎる、
広島はアカデミックな多国籍、名古屋は「本当」の多国籍。

・・・名古屋の地下鉄の案内は日本語、英語、中国語、
ハングルに加えてスペイン語とポルトガル語。
で、ハコのある雑居ビルに住んでいる住人の殆どが
外国人、色んな色の、いろんな言葉を話す人々が
雑多に混ざって、生きている。
これが現実、なのかな。

そういうことを感じつつ、いろいろムカつくことをしのぎながら
ハコの中に入ると黒一色に、回りに棒がぐるりと立っていて
客入れ音も何もないガチの「演劇空間」ができていた。

この演劇空間を見て考えた。
もしかしたら、私たちは何らかの「檻」に「囲われて」、
生きているのかも知れない。
そして、人が「考える」という「作業」における「檻」というものが
「パラドックス(矛盾)」というものなのだろう。

・・・わたしの現状を見てみればあまりにも「不自由」が多すぎる。
なのにわたしたちは常に「自由だ、自由だ」と言っている。
その時点からもう「パラドックス(矛盾)」は生まれているのだ。

これらの事柄を物語の題材として、のっけからフィジカルが高く、
物語とその題材に対して的確なムーブマイムで演者が
「表現」してしまうと、その「表現」の一つ一つが思想的・思考的、
肉体的、あるいは社会的な「檻」から演者自身、あるいは見手を
「解放」する「作業」と化してしまう。

更に、この作業は上下も左右も関係ない空間で
時間の枠も超えた「同時並行的に起こる現実」として
見せている、見せているから、この場に「矛盾ではない」ものが
たった一つだけ存在していることをそれとなく見せている。

・・・それは「愛」というものだった。
けれども、「愛」を「表現」する段階で若干の「パラドックス(矛盾)」が
存在し、この「パラドックス(矛盾)」を「調整」して届ける。
そういうふうに見ると「パラドックス(矛盾)」というものは
人間自らが生きている上で生じさせている「癖」であり、
その「癖」に「向き合う」ことを「一つの旅」として
見せていたのかもしれない。

だからこそ、旅の終わりに「無」から「有」が立ち上がったのか!!
・・・私達の同じ旅はまだまだ続くけれど。

劇団シアターホリック「樺沢家の三人姉妹」

「人間の業」をエンターテイメントで見せる。

 大野城まどかぴあから西鉄電車春日原駅まで歩き、
もたもたしすぎていると先の急行電車に乗り遅れ、
次の普通で大橋まで行き、あとの急行電車に乗り換えて
天神、結局、天神では美味しい食べ物がなく、
バスターミナルの中にあるローソンでなんか買って、
小倉港行きの高速バスに乗る。

 道中、いろんなことがあったけれど、なんとか
松山行きの船に無事乗り、お風呂に入り、ビールを飲んで
横になって、ウトウトしていたらもう松山。

 7時まで船の中でダラダラ時間をやり過ごし、
観光港から高浜の駅まで海を見ながらゆっくり歩く。
本当に瀬戸内の海はいい景色だ。

 本当は高浜の駅で1500円のいよてつフリーパスを買うのだが、
今回は諸々あって、金が無い、故に、松山市までの切符を買い
珍しい車両でゴトゴト松山市駅まで運ばれ、降りると、福岡からの
夜行高速バスがちょうど着いて、乗客を降ろしていたところ。

 うーん、どうなんだ、自分、そんなことを感じつつ、
銀天町から大街道まで歩いて、マクドナルドで飯を食い、
どうしようか、自己ミーティングを始める。
ニンスタまで行くバス、往復は出せない、というか出ない。
けれども、愛媛の地元開幕戦を蹴って、予定どうり
昼にシアターねこへ行っても、正直なんだかなぁになるわけで。

 時計を見たら、朝の8時半、兎に角、片道は歩き通してみる。
・・・休憩入れて、なんだかんだして結局3時間で着いたぞ。
ご飯食べて、ぼーっとして、開幕戦名物の餅まきに参加して、
スタンドに上がり、取った餅を食べながら開始までのひとときを過ごし、
気持ち悪い試合をなんとか引き分けに持ち込んで、急いでバスに乗って
大街道で降りてシアターねこまでたどり着き、なんとか公演に間に合う。

 さて、今回は「カラマーゾフの兄弟」byドフトエフスキーという
名作を現代風、かつガーリースタイルに「仕立て直す」趣向。

 この「仕立て直し」、著作権上は大丈夫なのかな?と
いらない心配をしてみる、演劇時空の旅「三文オペラ」をめぐる
どうのこうのがあったので、余計に気になる。

この件、北九州の軍師さんが分析した資料からみても、
どこか「黒い香り」が漂う感じがするのです。
・・・二束三文で「パブリック・ドメイン」を買い叩き、
その「権利」を高く売りつける「ブローカー」やら「エージェント」などの
有象無象の存在に翻弄されている我々、という構図なんだよなぁ。
最近、そういう手合がよく目立つ。

 どろどろした出来事とその対策をどうすりゃいいかしばし思案していると、
ジェイムス・ブラウンのようなファンクで開演前の前説をぶちかます。
爆発するかのようなファンクで客席を十分に温めたらもう本編だ。

 ある田舎にひとりの「少女」が「赤と白」の混ざった、
セーラー服、靴は白い、ピンクのかばん一つで都会からやってきた。
・・・彼女が物語の案内役であり、狂言回しとなる、樺沢家の末娘。

 この末娘の目から見た「欲」と「金」にまみれた非常に「生臭いお話」を
上の娘と真ん中の娘、そして母との「複雑なのだが、単純」という「家族」関係、
「樺沢家」とその使用人親子(実子ではない親子)との「主従」関係、
「樺沢家」と「菩提寺」との「不思議な関係」、
そして「男」と「女」ののっぴきならない「関係」および「三角関係」。

 全部の「関係」に共通する「何か」は「欲」と「金」。
「欲」と「金」にまみれているから着ている服は「赤く」、
履いている靴は「黒い」。

 そういう状況で非常に「人間臭く」、更に言えば「非常に生臭い」、
「許す、許さない」や、「善と悪」までもがぐちゃぐちゃのめちゃめちゃに
混ざり合った「物語」が板の上で繰り広げられ、
ここに「隠し味」としてファンク、ラップ、
おまけにコンテンポラリーダンスまで加えてみれば、
「生臭いお話」がいつの間にか「極上のエンターテイメント」に
化けてしまっている。

 「極上のエンターテイメント」の中で、ひとりの
純粋な「少女」であった末娘が「強欲の紅」を挿されることによって、
セーラー服から赤一色のワンピース、黒いヒールに化けるさまが最高。

 人間、という弱き存在が強がって、「欲」と「金」を弄んでいたら
気がつけば、のっぴきならない状況になり、その状況を誰かに押し付けて、
知らぬ存ぜぬを決め込もうとするが、「強欲の報い」はてきめんにやってくる。
・・・気がつけば、その場所に誰もいない。
 
 やっている演劇の特性が違う故に、断言を避けるが、
四国にも万能グローブガラパゴスダイナモスクラスの可能性を
秘めた劇団がここにいる、という発見。

 もし、この戯曲を万能グローブガラパゴスダイナモスが演るとしたら、
エンターテイメントにあえてしないで、「ガチの演劇」の文脈を使った
「コメディ」としてやるのだろうな、と思わず考えていた。

大野城「円」演劇祭3日目 昼セッション

一回限りじゃもったいない。
 
 ・・・一度、心を緩めると、どっと来るな。

 少し疲れた感じで空間を眺めると「立体」として
「立っている長方形の枠」がある意味
「テレビ」のフレーム(外枠)に見えてしまい、
その中に「内蔵」されている円形の表演部が
ブラウン管の(古いなぁ、液晶ディスプレイなら、なんと言えばいいのだ?)
奥に映る「何か」を「わたしの視座」で「自由自在」に動かして、
わたしなりの「見方」や「意味」を作っていく。

 「見る」ということは、そういうことなのかもしれない。
24時間演劇に浸かって、半ば疲弊した頭でじんわりと考える。

劇団PA!ZOO!!

 ここを見るのは、本当に久しぶりだ。
「きれいなおねえさん」が「プロフェッショナルの舞台裏」という「場所」を
利用して「演劇で遊び倒してやる」というところがこの劇団の持ち味。

 今回の「プロフェッショナルの舞台裏」はレコーディングスタジオ、
それも、スタジオの「収録室」ではなく、「収録前控室」で繰り広げられる
なんだかんだ、というか、ドタバタに右往左往する様子。

 ジャズ・スキャットの「スタジオ・アーティスト」を主な生業とする
3人姉妹、一番下の妹が一度離れてひとりでなんとかしようとしたけれど、
「スタジオ・アーティスト」と「ステージ・アーティスト」の違いに苦しみ、
また二人のもとに戻り、初めての仕事、煮詰まりまくった末の休憩時間。

 「変わらない」方がいいのか、「変えていった」方がいいのか、
やいのやいの言うから、また、下の妹が何処かへ逃亡したじゃないか。
30分だけ時間をください、と言っては見たが、なかなか解決しない。

 解決しないから歌を歌う、その歌のハーモニーがすごく良い。
そうこうしているうちに下の妹が帰ってきてもうひと煽りの混乱が。

 ・・・結局のところ、プロフェッショナルはどこかしら「変えて」いかなければ、
「闘争」という「日常」を生き延びることができないのだ。
そこのところがよくわからず、「このままでも大丈夫・・・かな」という
曖昧な「自信」というか「プライド」が変化の邪魔をする。

 そこにステージ・アーティストがやってきて、曖昧な自信や、
プライドを突き崩し、ひと踏ん張りして「変化」をし始める。
・・・オチはサxエさんかよ!
歌のハーモニー、演劇のハーモニー、それぞれが細部に宿っているから
面白すぎる、がだ、床、汚しすぎ。

14+

 ・・・十分、背中を見てほしい、というわけですね。
基本線は「行き違い・すれ違い・勘違い」というものを
いろんなシチュエーションで見せ、徐々に物語の負荷を
ストレスフルに上げていって、気がつけば月面移住。

 別の角度では「居眠り」から「夢遊病」という塩梅で
こんこんと眠り続ける少女、そして月には降るはずのない
雨、欠けたものを埋めて、散り散りになった感覚。

 男と女の番(つがい)、異人種・異文化混合、そして分裂、分散。

 ・・・「ノアの箱舟」を演劇の文脈で、しかもコンテンポラリーに
スピードや空間の使い方を調整してみると「新しい何か」になるのだな。

 この演劇祭、一回限りじゃもったいない。
資金面が問題なら「クラウド・ファンディング」という
「飛び道具」を使ってもいいし、兎に角5シーズンは続けたいよなぁ。
この5シーズンの間に広島やら四国方面、九州全土からの
「挑戦者」も出てきてくれたらなおよし。

ヨハクノート 「余白の音」

人間は産まれて、生きて、死ぬだけよ。

 なんかやる、という話はいろんなところから聞いていたが、
最初の内は、木曜日から始まっている大野城から松山、そして広島、
という「演劇遠征」に当てるお金がぎりぎりいっぱいで行けないよ。

 けれども、フェイスブック上でガラパのしいきっつあんが
「いいから来い」とこれでもか、これでもか、と熱を込めた
「言葉」を発するは、まどかぴあ、夕方辺りに終わるから
春日原駅まで歩いて、西鉄電車に乗って、井尻で降りたらいいじゃねーか、
とわたしの中にいる「悪魔」がささやき、止めはオフィスに去年演った
「道真」の「なぜそうしたのか」から「やってみてどうだったのか」までの
「記録」を出す必要が出てきた。
・・・こうなったら行くしかないよね。

 空間に入ると、ものすごくぎっちりした空間に
分厚い辞典を始めとした本が山のように積まれている。
そして、客入れ音の「FM福岡」、金曜日の名物プログラム、
「ぶっち・カウントダウンレディオ」、録音ではなく、
実際にその日放送している分をうすーく流している。

 この「サラッと聞けば意味のない声と音」を聞きながら
昔、金曜日はこれを聞きながらずっと働いていたのか、
月曜日から木曜の夜の入り口はこれがコンバットさんの
番組になるんだよなぁ。

 そういうことを思い出しつつ、聞き流していたら、
突然「前説」という「意味のある言葉」が突然耳に飛び込んでくる。

 「前説」を聞きながらこの「演劇」というか「劇団」の持つ
「ルール」というか「決まり事」をなんとなく探っているともう本編が。

  基本線は、ソーントン・ワイルダーの「わが町」という戯曲を
「いま」、生きている「わたしたち」は完全に「存在していない」
いつか来るかもしれない「将来」の「わたしたち」に寸を直した趣向。

 「いま」、生きている「わたしたち」がやりたい放題やってしまったせいで
物語に存在する「将来」の「わたしたち」は淀んだ空気を吸い、青空も、
月も、星も見ることができない。

 そんな状況でも、「将来」のわたしたちは普通に「産まれて」、
普通の日常を「生きて」、時期が来たら「死んで」いく。
この様子は、なんていうか、わたしたちは「止まっている」かのような
「速度」でいつ来るかも不確かな「終わり」に向かっているとおんなじで。

 「普通の日常」で問われるは、「どう生きて、どう死んだのか」、
そして、「何を、どう、諦めた」のか、「何を、どう、諦めなかったのか」。
この二つを私達がいつも「生きて、息をする」のと同じ「リズム」で見せるから
「距離感」というものがきちんと出ている。

 これが「演劇の基礎」、というものなのか。
がだ、物語の味わいはあくまでも「パンとスープ」、
初めて見る人にとっては少しとっつきにくいところがあるかもしれない。

 「ご飯と味噌汁」でこういう「演劇」しているところが・・・。
宮崎こふく劇場の永山さんが得意としている「演劇」と同じじゃないですか。
今度はヨハクノートに永山戯曲を取り扱わせてみて、化学変化を見てみたい。

大野城「円」演劇祭2日目 昼セッション

しがらみが、解けていく。

 なんだか、空気自体がゆったりしている。
空間も、客入れ音も、何もかもがゆったりしている。
目覚めもいいし、仕事自体も集中して動けてはいる、
けれども・・・もういいや。

劇団HallBrothers

 それにしても、「結婚」って、なんなんだろう?
自分にもそういうことを「約束」した女性がいて、
かれこれ7,8年、下手すると10年間、つかず、離れず「付き合って」はいる。

 けれどもなぁ、お互いが「貧しい」のか、何なのか正直わからないが、
うじうじ、ぐだぐだして、「結婚」というものを先延ばししている傾向が。
・・・「行き遅れになるの、いやだよ」と大切な人に話せば、
「歳のことは言わないで」と返ってくるし、今月は4回も体調不良で倒れた。
・・・一体全体、どうなることやら。

 反面、簡単に「結婚」して、簡単に「離婚」してしまう「ふたり」もいる。
「いま」という「時間」はこれら「両極端」な「世界」に
きっちり分けられているような感じがする。

 こういう、「結婚」というか、「人間の本質」を”Sex and the City”のような
「アメリカ式グダグダ恋愛ドラマの文脈」を「福岡という文脈」に「翻訳」したら
「もう少し、突き詰めてみて、シンプルに考えたらどうなる」という問いと
そこにある「生」が生々しく見えてくる。

 「女性」をニュートラルな立場で見てみると
「男性」というものが「ダメ男」、「クズ男」、「硬(カチ)男」、「軟(ユル)男」と
ネガティブ要素満載で、「熱(アツ)男」やらそういう類の男は
ここにはいないのか、と嘆いてはみる。

 けれども、そこから一歩踏み出して、「本質」というものを掘り下げてみると
そういう風に「他者」やら「物事」やら「出来事」を見ていること自体、
「完全」、あるいは「完璧」というものをいつの間にか「求めている」わたし、が
今、ここに存在していて、この「わたし」が「次の人生」に進むための
「妨げ」になっているのでは、という「解」を突きつけられる。

  人生のままならなさを知ることが「解」に対するリアクションだ、ということは
わかってはいるが、知ることでうだうだしてもなぁ。


総合芸術舎 玉屋

 今シーズンの「日本戯曲家協会・新人戯曲者賞」を取った広島の人が
こないだの演劇引力廣島「五十嵐伝」に演者として出演したのを
たまたま、というか、あえて、というか見てみた。

 ・・・「演者」として見てみたら、言葉の運び方、息の使い方、
ムーブ、マイムが、ここの三原さんと良く、というか、すごく似ている。
映像も少しかじっている、という点でも。

 そんなことをつらつら考えながら物語に入り込むと、
ものすごくびっくりしましたがな。

 そういうふうにして、心の中で半ばほめた本人が
「女子高生」のカッコをして、押しの強いキャラクターとして
今、そこに立っているではないか!!

 で、流れている空気はあだち充の「タッチ」、その空気感で
「高校相撲」という、ある意味「マニアック」、ある意味「濃い」世界を
DDTプロレスという「プロレス寄りに針が振れた演劇」という文脈で演ると、
女装した三原さんを始め、随所に仕込まれた
「飛び道具」が効きすぎて堪らないのです。

 ・・・こういう「飛び道具」の効かせ方を「ガチの戯曲」に落とし込めたら
もしかしたら、もしかして(以下略。

 最近の主な戯曲賞受賞者のトレンド(流行)を少し考えてみたら
「映像」とか「絵画を始めとしたアート」、「コンテンポラリーダンス」や
「舞踏」である程度の実績を積んで演劇に「新規参入」してきた人が多い感じが。
そういうことを考えては見たものの、うん、多くは望まない。

大野城「円」演劇祭初日 昼セッション

長い、長い、旅の始まり。
 
 少し、どころか、かなり「書き始め」というものに困ってしまう。
今回の企画がどういう「形」で始まったのか、その「始まり」を
「知っている」自分にとって、何をどう書けばいいのか、
正直、わからんのです。
下手にこの事に触れるとやばいことになるからこそ、余計に。

 だからこそ、ものすごく「朗らかな」空間と
見やすくて、落ち着く空気を作ってくれて本当にありがたい。

 演技面が円形の「闘技場」で、最終日には「最優秀賞」と
「俳優賞」という2つのタイトルを争う、という、
ある意味殺伐としたところも若干はあるけれど。

 さて、当方はこの演劇祭を一通り見て、土曜の夜の船で松山、
シアホリをねこで見て、その前に我らが愛媛の地元開幕戦だ。

 終わって夜行バスで名古屋、あおきりを見たあと、広島まで
夜行バスで広島、やり残したことをして、福岡に帰るという
結構やばい日程を作ってしまった。

 とりあえずは押さえていた夜行バスと高速バスのチケットを
買って、あおきりのお金と細々を残したから、良しとする。

 さて、物語の世界に入るか。
 

1/4
 INDEPENDENT史上最高、最強の演目は何なんだろう?

 自分は山田ももじの「ある盲の物語」と、SUN!!の「スクラップ・ベイビィ!」
あと、「赤猫ロック」、そだそだ、れおさんの「いきなりキスシーン」もだ。
さらには、飛ぶ劇、葉山さんの奥さんが、気持ちよく板の上で、
実際に食べ物を「食べる」演目も。
「九州限定」にまで範囲を広げると、白浜さんのやつとか、しいきっつあんの
「ヴァニシング・ポイント」、山田美智子の「霙」、これくらいだな。

 今回は、この中から、「スクラップ・ベイビィ!」を
福岡の力ある若手が荒削りながらも、新しい解釈で見せる趣向。
・・・「一人芝居」ではなく、「四人芝居」で。

 このお話の「一人バージョン」は小道具兼、大道具の
「手持ちイントレ(足場)」ひとつで「生きて還りし物語」、
だから「メルヘン」じゃなくて、「ファンタジー」を四方八方、
さらには上下に繰り広げていた。

 このファンタジーに「生きるって、何やねん?」とか、
「命、というものは果たして平等なのか?」という問いを加えると、
 動きや表情はものすごく元気でかわいいんだけれど、
心に入ってくるものはなぜだか、重く、苦くて、さらには辛い。

 さて、今回はどう「作り変え」、「化学変化」を起こすのだろう?
「オズ」と「アズ」という「孤児」なんだけれど実は・・・という「ふたり」が
反発しながらも「知らない間に」惹かれあう、その「シンクロ具合」が
「フィジカル能力がある程度備わった二人」だから「一人」よりも
より濃く出てはいる。

 がだ、「二人」のまわりで「運命」として「かきまわす」役割の
「新聞」というか「文字」という「つがい」の存在は果たして必要だったのか?

 そういうことはさておいて、「文字」を読むことができなかった
「存在」が「文字」を読めるようになり、「文字」を「読む」ことで、
「二人は一人」だった、という「真実」というか、「事実」を知り、
さらに、「一人」を生かすために、両親は持てる「すべて」をなげうって
「クローン人間」という「分身」を作ったことまで、うっかり知ってしまう。

 世の中には「命の格差」というものが厳然たる事実として存在し、
「死ぬために生きる」存在も多少なりともいることは事実。
がだ、「死んで失う」自由もあれば、「死んで得る」自由も存在する。
「死んで得る自由」を知っていれば、死ぬことがわかっていても怖くない。

 ・・・さらにはこのお話の「ポケット」が持つ「意味」を知れば、
もっと重くて、苦くて、辛い感覚を見た後、受け取ってしまいそうだ。

 今度はSun!!の「一人ver.」と1/4の「ふたりver.」、
両方「ニコイチ」にして見てみたい、そういうアイデアが出てきた。

劇団goto

 ・・・大変だったんですから、もう。
「ツル子の恩返し」は自分がショートして、「タンバリン」@広島は
どこぞのなんとかが、えらい粗相をやらかして行く直前に取りやめに。
ようやらやっと見に行けた、そんな感じだ。

 今回の趣向は別役実、という「戯曲界の水木しげる大先生」が
書いた「良質なコント台本」をごとーかおるの的確な技術で見せる、
そういうことやね。

 表演部に無造作に置かれている「コントのお題」の習字具合が
あまりにもすばらしく、「月下の棋士」という漫画を思い出したのは内緒だ。

 というか、「良質のコント台本」を的確な「技術」で再現すると、
「笑い」の中にも「毒」がある、という発見。
とくに、小坂愛の壮絶な「言葉責め」はSMクラブ、というか、
そういう趣味の場所に見手を一瞬のうちに連れて行くくらいのインパクトが。
・・・まあ、髪の毛が短い桐谷何がし、という「美人」であるが故の芸当なのだが。

 あとは自由自在にぼけて、突っ込んで、板の上で楽しく「遊んで」いる。
この「遊び」を支えるは、隙のない技術、と修練、そして、鍛錬。
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