あなピグモ捕獲団「瞬間キングダム」

「今日を最期」と思って生きるしかない。

  自分が熊本行った次の週にああいった事態になるなんて。
「地震」の数日前、夕焼け空がやけに、というか「変に」赤色を
帯びていたので、もしかしたら、とは思っていたが。

  で、揺れに揺れると演劇をする心が折れそうになる。
更に言えば、始まる数時間前にまた大きい揺れが来たので
中止の確認電話を入れて、行かないことも考えた。

  けれども、予定通りの報を受け、先方さんも「今日を最期」と
生きる覚悟を持つならば、こっちも逃げるわけにはいかんのですよ。

  結論から先に言うと、「余震の揺れ」を「演劇」で使うすべての「圧」で
「制圧」したところにこの劇団の凄みを見た。

  表演空間は凄くシンプル、まさしく「種も仕掛けもない」、
演者の体一つで表現してやるぜ、という心意気だ。

  この心意気を「最後の晩餐」と「王様ゲーム」を元ネタにして
見せる趣向があり、見方によってはバラバラに見える
「短編」を絶妙に繋いでいくことで「信仰」というものを
多角的に、かつ「自らの価値観」を自然と疑うように
物語が進んでいく。

 その表現空間たる「最後の晩餐」という「史実」と
「わたし」という「国家」という「嘘」の「ふたつ」の世界を静かに、
正確性をもって変化させているから、さらに凄い。

  「静かに」動かすことは、非常にエネルギーと
 フィジカルが必要だから、なおさら。
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ゼロソー「父と暮らせば」

「葛藤」を乗り越えて。

やっとこさこの演目を見に行くことができた。
熊本公演があった時は日程調整がうまくいかず、
見送ってしまい、この戯曲と作者たる井上ひさし氏に
映画の山田洋次監督が「お手紙」を「書く」ように
作った「母と暮らせば」という映画も見ることができず。

そういう経緯があり、天草でこの演目やるよ、という話を
聞き、どうやって行くか、その他諸々を情報交換している。
前の日、長崎市内にいるので、バスで諫早、それから
島原半島を口之津まで行って船で天草、を一番に考えたのだが、
諫早から口之津、鬼池港から本渡市のバスがわかりにくいので
どうしよう、と思案したら、「もう単純に長崎熊本の
高速バスに乗り、そこから天草快速に乗り換えたほうが
15時開演な分、いいんじゃね?」という結論にたどり着く。

で、当日、長崎からひたすら眠り込んで目が覚めると
もう熊本、いわゆる「継ぎ目なし」で天草快速が乗り場に滑り込むので
トイレでおしっこする暇もない、おまけに天草快速にはトイレがない、
時間が進むに連れて増す尿意、結局、本来のトイレ休憩場所より早めに
無理を言ってトイレにいく羽目になる。
・・・仮設、しかも露天ターミナルはしんどい。

 それからバスは海と山が混ざったなんとも言えない道を
えんやらやっと進み行くと本渡のバスセンター、降りて
少しだけ来た道を戻ると今回の会場。

体育館と中くらいのホール、あといろんな施設がコンパクトに
まとまったところの展示ホールにシンプルな表演空間を作り、
しかも午前中は市の子供会に関する話し合いと講演、
それから演劇だから「前説」がそれなりのものに。

さて、井上ひさしの「広島原爆三部作」といえば、
この「父と暮らせば」、「紙屋町さくらホテル」、そして新国立劇場
俳優養成所が必ず教材としてやる「少年口伝隊」。

そのうち、「少年口伝隊」は広島の「現場」近くで見た。
「紙屋町さくらホテル」はまだ未見だけれど、何時かは見るだろう。

この「父と暮らせば」という戯曲を簡潔に言えば、
広島原爆を「伝える」には欠かせない、「語り部」という存在が
「語り部」という存在になる手前の出来事を原爆でなくした
「父」の幽霊とのある意味「コント」に近い「戯曲」にまとめた。

そこには、「大勢の人がこうして死んでしまったのに、
私は、今、こうして生きていることが申し訳ない」という罪悪感、
「悲惨な出来事を素直に話すには抵抗がある」というためらい、
「大切にしたい」と思っている異性がいるけれど、その人は
「被爆者」としてなのか、それとも「異性」としてみているのか、
その他、様々な「葛藤」がぐるぐると渦巻いている、「現実」。

その「現実」を幽霊たる父が程よくかき混ぜ、程よくほぐす。
けれども「現実」という「葛藤」はより重くのしかかる、
のしかかるのが嫌になった娘は知り合いのいる宮島に
逃げようとするが、逃げたら、どうしようももならんぞ、と諭す。

その「現実」を「ほぐす」様子が天草、というこれまた、過去に
「隠れキリシタン」という信仰上の葛藤を抱えた土地と響き合う奇跡。
そして、天草と広島の物理的距離は遠いが、想いの距離は
遠くしたくないやね、ということを考えてしまう見後感。

帰りもいい具合にバスが来て、熊本市内まで戻り、
東京へ向かうきららの最終調整を見学して福岡に戻る。

・・・その一週間後、地震は起こり、日常は日常ではなくなった。
けれども、私達は生きなければいけないのだ、生きているから。
打ちのめされると、そんなこと考えられないほどしんどいけれど。

さばと座「そしてサンタ・マリアがいた」

「Zeus,Quo Vadis domine?(主よ、あなたはどこへ行く?)」

わたしたちにとって、「信仰」とはなんぞや?
・・・そもそも、わたしたちには「信仰」というものを
持っているのか、持っていないのか、正直わからない。

更に言えば、わたしたちにとって、「神」や「仏」とは
一体何なのか、訳がわからなくなる。

浦上の天主堂だって、大浦の天主堂だって、「ガチの信仰」が
行われている教会には入り口入ってすぐに「賽銭箱」があり、
「賽銭箱」より前の祭壇に近いところは「異教徒たる」わたしを始め、
その教会の近くに住んでいるクリスチャン
(プロテスタントは含まない)しか入れないようにできている。

この件に関して、「差別だ」と思おうとしても、
「至極当然」と思おうとしても、かすかな違和感が残る。
この「違和感」が「頑なさ」というものなのかもしれない。

さて、話題は変わるが、カトリックを始めとした「キリスト教」と
「名前」がつく前、ローマ時代ではこの「信仰」に
どういう「名前」をつけていたのだろう?

諸説紛々あると思われるが、シェンケヴィッチの「QUOVADIS」では
「魚」と物語の中で「名前」をつけていた。

そんなことを考えていたらいつの間にかもう本編。

ひと通り見て、改めて思った。
徳川時代は私たちにとって、西洋でいうところの
ローマ時代だったのかもしれない。
「権力の周辺」はあまりにも退廃的、更には「異者」と
「他者」を切り分ける手段として
「信仰」を悪用し、その「罪悪感」を「同調圧力」という形で隠して、
ごまかしている。

 これが、「魚の信仰」に対する「弾圧」や「イスラム」に対する
「十字軍」へとつながっているのだろう。

この部分が「にほん」という「文化」では結構小奇麗で、西洋のように
野蛮さがないゆえ、見えにくく、わかりにくいことが板の上で
行われていることを通してよくわかるように物語ができている。

浦上、天草、島原、という土地が江戸時代以前、
どういう状況になっていたのか歴史に少しだけ疎い
わたしはよく知らないが、「純粋な信仰」を受け入れる余地があり、
「純粋な信仰」を受け入れたが故に「良心、というものは
とても弱いものである」という「事実」を知り、
そうすることで「良心に背いた」時、どうすればいいか
「対応・対処法」をきちんと心得ている。

これらはまさに「純粋な信仰」と「同調圧力」との
静かながら壮絶なるたたかい。
この「たたかい」を体験した子孫たちが「演劇」で追体験するから
より「たたかい」の持つ圧が真実味、というか生々しく迫ってくる。

そう思うと、Quovadisの世界を2016年の私たちも生きている、
現在進行形で、だとしたら私達を救う「信仰」はなんなんだ?
 

演劇ユニット1/4「二時間に及ぶ交渉の末」

これもまた、「コンテンポラリー演劇」のいち形態。

 さて、「コンテンポラリー演劇」と「ジャンル」を
ひとつこしらえたはいいけれど、一体、どういう「定義」を
持ったものを「コンテンポラリー演劇」というのか、
そして、この「反対側」に存在する「ガチの演劇」は
どういう「定義」なのでしょう、という「問い」が生まれるわけで。

 「生の声」と「生の身体」を使うところまでは、
そして、「生の音」、さらに「生の空間」を使うのも
両方共おんなじだ。

 だとしたら、どこが、どう違うんだい?
・・・そうなると、「ガチの演劇」は
「非常に制限されたルーリング(規則設定)」の元で
「生の空間」を作り、「生の声」、「生の身体」を使っていく。
日本で言えば、「落語」という「一人芝居」であり、「歌舞伎」の
「型」というものも「非常に制限されたルーリング」になるし、
西洋では「ストレートプレイ」、「ミュージカル」、「オペラ」、
「オペレッタ」、「ボードヴィル」などと
「非常に制限されたルーリング」がより細かく設定されている。

 それに反して「コンテンポラリー演劇」は
この「ルーリング(規則設定)」が良い意味に取ったら、
「ある意味制限の少ない」ルーリング、悪い意味に取れば
ルーリングがいい加減、あるいは曖昧な条件下で
「生の空間」を作り、「生の声」、「生の身体」を使う、そういうことかも。

 こういった観点で開演前の表演空間を見るとこれらの件について
よく考えていることがはっきりとわかる。
普通なら最前列までお客さんを入れるのだが、今回は最前列
一列をきちんと「殺して」(お客さんを入れないようにして)いるから
演者の足元まで程よい目線で見ることができる。

 壁部の天にある「切り欠け」だって見ようによっては
都会の高層ビル群の遠景にも見えるし、何かの暗号、
記憶のパンチ穴、そういうものにもうっかり見えてしまう。

 そういうところを楽しみながら本編を待つ趣向。
・・・本編が始まれば同年代の演者が6人、オーバーエイジ枠で
ひとり、これらの面子でまずは「戦隊物」をやり、「刑事もの」をやり、
「自殺もの」、「恋愛物」、「買い物もの」、「別れもの」、「終末もの」
そしてガチの「演劇もの」を一通りサラッと「さわり」だけ通す。

 「さわり」だけ今日やる「ネタ」を一通り通したあと、
「今日のルーリング」が「交渉」を題材にしたもの、と発表され、
「交渉の鉄則」が説明される。
「冷静であること、論旨がシンプルであること、粘り強く」。

 このルーリングに沿って「演劇の基礎」を押さえながらも
「関西演劇」や「九州演劇」の知っている人にとっては
知っている「内輪ネタ」を「P音」入れながらやり、
ガラパや非売れ、エゴナクなどの「演劇スタイル」を
「本歌取り」してみたり、若手が「演劇使って遊んでる」、
その場にオーバーエイジ枠で存在する非売れの田坂さんが
要所要所をきちんと〆ている。

 そうなると、「嘘」と「現実」、「過去」と「現在」、
「めっちゃ嘘」と「めっちゃ現実」を表現した「短編作品」が
最初はバラバラだったのが、少しずつ接点を重なり合わせ、
徐々にお互いが絡みに絡んで、最終的に「愛」という「結論」に
まとまりを見せていく。

 男女が虚実入り混じりながら精神的にも肉体的にも絡み続ける、
別れたり、くっついたり、そう考えると演劇って怖いが、面白い。

 ・・・「二時間に及ぶ」というから公演時間もそれくらいかな、と思っていたら
時間的にも、感覚的にも2時間行かなくて、アフターイベントの
「ネタばらし会」まで含めて「二時間」だったのかなぁ、という見後感。
プロフィール

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