(劇)池田商会「クロキモノ」

「争いとは、実に、実に、無益である」

そういえば、この劇団、結成15周年の記念すべき年なのに、
なんか見る自分の身にこの劇団の公演ごとにいろんなことが
ありすぎたのでレポート書くことや、見ることができなくなってしまった。

更に言えば、人生、というものが唐突に動き出したんで
有利な日程変更が出来ず、動き出す前の予定を粛々と動かすしかない。
もう少し、人生のソロバン勘定うまくなれや、と言いたくなってしまう。

ああ、頭痛い、医療保険のことがうまくいかないとしんどい、
けれどもキャンセル続きはというわけで、ぎりぎりまで粘って
家を出て、ぽんプラザホール、中に入ると「黒木の大藤」を意図した
恐ろしくシンプルな空間のつくり。

いままでの「瀧猫組」はNHK大河ドラマの「小型版」の作りで、
あまり知られていない「福岡の歴史」をしっかりと見せる趣向が多く、
おまけに時間が恐ろしく掛かり過ぎる。
一本120分は当たり前、ヘタすると180分、という恐ろしいボリューム感。
今回もそうなることを半ば「覚悟して」見ることとしよう。

結論、いや、まあ、すげぇものを見せて貰った。
「時間」のコンパクトさや、シェイプ具合もさることながら
劇団にとっても、つくり手にとってもある意味「分水嶺」の一作になった。
 ・・・初日一発目に行かなかったことを心から恥じるくらいの出来。

福岡八女黒木で起こっていた「史実」をシェイクスピアの「マクベス」という
「戯曲」を借りてやっているから身に着けているものの一つ一つが
「マスケティアーズ・パリの四銃士」のような革製の装甲や
フロンターレ(前飾り)を使うことによって、
日本ではないある種の「異世界観」を醸し出している。
けれども所作の一つ一つは純和風。
さらにガチの「シェイクスピア」演劇文法ではなく、蜷川幸雄の演劇文法で
「マクベス」と「福岡八女黒木」で起こっていた「史実」を融合させている。
「客単価」が高く、見に行くことをためらった自分でも蜷川幸雄の演劇文法は
こうだったのか、ということを想起させてしまう、そういう作りになっている。

蜷川幸雄の演劇文法に必須なのは「群衆」と「音楽」、そして「花」らしい。
その必須をうまく混ぜ込んでいる、「群衆」というか「雑兵」を今回は
全出演者一回は演るように、というのもそうだし、始終程よい音量で
クラシックが「客入れ音から」鳴っていたのも、藤の花も、女人が
簪で挿していた花も全てそうだ。

そういう「仕掛け」を入念に施したから最初の数分で物語に入ってしまう。
こうなってしまうと、古今東西、「争いとは実に、実に無益である」と
いうことを「演劇」というものは恐ろしいくらい鮮明に表現できる。
おまけに「演劇」というものは「何者でもないわたし」が
「わたし」になるために
どうするか、いつも模索する「作業」であり、
その「作業」はこれまた
古今東西、「形」を変え、「品」を変え、
営々と続けられているということまで
想起させてしまうように持っていかれる。

特にとどめを刺そうとするときのセリフ、「奴隷と言われて(中略)
どれだけの人を斬ってきたんだい?」というところが
心に強く、強く迫ってくる。

人間は己の欲に「負けて」、つまらぬことで争い、その「結果」に怯え、
虚勢を張って、最後はすべてを「呪い」、滅ぼしちまうんだよなぁ。

ああ、この劇団はある意味、アングラの演劇文法を手に入れて、
ものにしてひとつ上の段に上がるだろう、その「瞬間」を
見てしまったのかもしれない。
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北九州芸術劇場×北九州市立美術館分館vol.4 「モネ、逆さまの睡蓮」

「価値」というものに対する、一つの「挑戦状」。

 何年働いたか、正直わからないが、長年勤めたハンバーグ工場の
仕事を一週間前、辞めた。
演劇の仕事、扱う仕事がでかくなって、その仕事にぶつかることで
結果として「わたし」が大きくなったのか、「神経症患者」が増えたのか
よくわからないが、ここ数年、その場所にいて、働くことが窮屈になった。

 というか、ずっと「戦い続けていた」のかもしれない。
「わたしは、わたしでありたい」という「たたかい」がひどくなって、
結果としてぶっ飛んで、「一線」を超えてしまった。

 超えてしまうと、あらゆることにおいて「解放」されるんだな。
時間が経って、心の整理がつくと恐怖、ではなく、安堵しか起こらない。
「お金のこと」とか心配事はあるが、まあ朗らかな心持ちだ。

 そういうことがあって、はじめての遠出、はじめての演劇。
高速バスに乗り慣れていないから、時間が読めず、
着いても1階エレベーター前の「公演案内」が平日昼バージョン、
それを見て「早く着きすぎた」と慌てるが、それはそれで。

 北九州市立美術館が所蔵する絵画1点を題材にして演劇作品を製作し、
演劇鑑賞・作品解説・絵画鑑賞をセットで味わってもらおう、という
趣向の企画もとうとう第4弾。

 第1弾は「美術館学芸員(キュレーター)」の視座、第2弾・3弾は
年齢の幅をもたせた「作り手(アーティスト)」の視座で演劇を作った。

 ・・・こうなると「もう一つの立ち位置」である、
「観客・見手(ギャラリー・パビリオン)」というところの視座を
印象派の画家クロード・モネの《睡蓮、柳の反影》という
「絵画」をネタにして「演劇」を作っていく、という今回の趣向。

 「表演空間」はすっげぇおしゃれな「アート喫茶」。
そこに毎週集っている年齢も職業も思考と嗜好がバラバラな
「大人の絵画サークル」というものすごく、というか、
ものすごくを飛び越えた先の「ゆるすぎる」集団に子育てが
終わりかけた女性、言葉きつく言えば「おばちゃん」が飛び込んできた。

 おばちゃんが飛び込んできたことによって始まった
「絵画の良し悪し」とはなんぞや?
という「議論」から「価値」をめぐる議論、
そして「絵画の良し悪し」と「価値」をめぐる考察、
考察の過程として「実際」に鞘ヶ谷の美術館に行き、
「日常」の中で何も知らない「他人」にアンケートを取る、という
「新しい試み」を混ぜてより考察を深めていく。

 結果として、「新しい知見」を得る、という流れに
おばちゃんの「過去の疵、というか諦めたこと」を混ぜ込んだ
「知的冒険エンターテイメント」に仕上げてきた。

 この「知的冒険エンターテイメント」に
クロード・モネの《睡蓮、柳の反影》という「絵画」を北九州市が
「購入」した時の経緯、手違い、その他諸々を小ネタとして挟んでいる。

 というか、23年前の「印刷技術」と現代の「印刷技術」、
格段の変化過程、というものをわたしは知っている、
更に言えばその中で働いていたから「市政だより」に
逆さまに載っちゃうこともあるよね、「モノクロ」だったら尚更。

 モノクロ、しかも「粒子の荒い」印刷物からでも「何か」を感じ取って、
「これ、逆さまじゃね?」ということのできるひとがいることが
わたしにとって正直すごい、と思う。

 更に言えば、「良い絵画」というか「良いもの全般」に共通して
言えること、見えること、感じることは「考えるための引っ掛かり」が
「複数」あることと、それよりも大事なこととして「エネルギー」が
何かしらあること。

 その「エネルギー」は「天と地」を入れ替えると質、量ともに変化する。
・・・そこを感じるまでには「スピリチュアル」も必要だし、
「物理の原理」も
必要なのだろう、というかバランスが肝腎だよ、と。

 故に、過去3回よりも肩肘張ることなく、物語にすっと入ることができた。
 
 更に凄いのは、各演者の「人物描写(デッサン)」の旨さ。
多種多様の「キャラクター」を絶妙の塩梅で演るものだから、
ある意味「人間あるある」へと化けて、これまた絶妙の味わい。

 中でもみやむらじじとごとーかおるの掛け合いという
「化学変化」が半端ない。
ハード、というかソリッドにみやむらじじが突っかかる、その突っかかりを
ごとーかおるが熟練の技術でソフトに、スーパーソフトにいなしていく。
その「化学変化」によって何かがリセットされて、前に進んでいく。

 その様子が、あたらしいところに進みゆくわたしにとって、
えらい励ましと、十分な示唆、というか、モネと泊さん両方から
2枚の「挑戦状」というものを貰った感がするのです。

  これら「挑戦状」に対する「答え、というか何か」を
わたしはこれからの 「演劇」と「生活」の中でレポート等で
「形」にして、見せるしかない、そういう決意にたどり着いた。

下鴨車窓 「渇いた蜃気楼」

妙に喉が渇く。

  終演後、体中から水気が抜けて、パサパサになっている。
落ち着いて一番最初にやったことは炭酸水を買って、飲むこと。

 そういえば、このカンパニーが最初に福岡へやってきた
「人魚」の時も自分はえらくバタバタだったわけで。
金曜日は小倉でBlockを見て、夜行バスで大阪、
それからINDEPENDENTセレクションを見、その日は大阪に泊まって、
翌日新幹線で博多について、財布をみるとチケット代ギリギリの
お金しか入っていない、そんなことを思い出しながら空間を感じる。

 ・・・というか、田辺剛、という書き手の「時期」をめぐる
「基本的なルーリング」は「夏」が多いような。
ああ、あともう数ヶ月するとセミがみんみんみしみし鳴く声を聞きながら
朝、起きていくのか、その空気で存在する状況は恐ろしいほどカオス。
書類、というのが正しいのか何かわからないが、紙があちこちに
散乱し、輪をかけて発泡酒の空き缶が散乱している。

 そこに女の人がやってきて、テレビをつけて、DVDを見ながら
少し、どころか結構エロいダンスをやりだしたら、
いつの間にか場の空気が夏の夕方、それもかなりの期間、
雨の降っていない、ひりつくようなあの熱さに変化していた。

 お話の肝、というか「基本線」はある夫婦が「マツトミ」という
「マチ」にも取れるし、「カイシャ・キギョウ」にも取れる、
「マチ」と「カイシャ・キギョウ」に共通することはただ一点、
人々を「縛る」、ある意味、「檻」のようなところから「脱出」して
なんやかんやあってかなり離れた「場所」、それも坂の上に
ある、ところに移り住んだ「日常」。

 この夫婦の「生活」は扇風機がない、ましてや冷房もない、
水道もこの「渇水期」では用をなさない、おまけに寝るための布団すらない。
夫はなんかの事情で失業者になったばかり、
ということで妻のパートが家計を支えている。

 その「場」に夫にとっては「友人」、妻にとっては「元彼氏」が
突然飛び込んで、「過去」というやつをじわりじわりと見せていく。
「板の上での現実」では見えない、いや見えるわけのない
「ガキが川辺でキャンプしていやがる」、という話をじわじわ話す。

 というか、そこまでにいたるところで妻が水を飲んでお腹おさえていたろ?
・・・最初は「水にあたった」かと思ったさ、けれども見えるわけのないお話を
あたかも「いま、そこで起こっているように」話して、
見せてしまうと、恐ろしいことに。
「キャンプ」の話は、もしかしたらこの「3人」の中で「高校時代」に
「実際」起こった話だったのかもしれない。
 
 だとしたら、「妻」はそのとき「元彼氏」の子供を「妊娠」していた。
ということか、それなら「お腹を押さえる」ムーブにも意味があるわけで。

 その後の話はうまくぼやかしているが、狭すぎる「檻の中」では
悪いようにしか話が伝わらず、妻は逃げるように「檻の中」から脱出し、
同じく「脱出」していた夫と結婚して、今に至る。

 これらの「会話」が責めるでもなく、憐れむでもなく、
ごくごく普通の感情で、淡々と続き、カオスな一日が終わり、
朝がやってきて、給水車から水をもらうことから始まる「新しい日常」。

 盗まれていた自転車も戻り、妻は中絶の影響なく子供が産めそうだ。
何か別のことが起こりそうだが、それはそれで、という塩梅で終わり。

 ああ、「夫婦」はこういうなんだかんだを通って「夫婦」になるのだな。
自分も「大切な人」との関係がこういう風になっちゃうのかな、
そして結婚にまでたどり着くのだ、と思ってしまった。
この思いが真夏の雨が降らない「ひりつく暑さ」と重なって、
なんとも言えない「状況」に対する「もどかしさ」に化けてしまう。

 その「もどかしさ」を解決するためには部屋を片付けて、紙と缶を捨てて、
布団を買って、敷いて、寝よう。  

あなピグモ捕獲団「GIANT-STEP」

人類の挑戦は、少しの勝利と多くの敗戦でできている。

 21世紀が始まってもう16年になるが、まだまだ20世紀を
引きずっているのかもしれないな、わたしたちは。

 一本目の「瞬間キングダム」を見たあと、少し雑談して、
なにか悪いものが心に淀んでいたせいか、飲みたくなってきた。
というわけで、キャナルシティ地下で程よく飲んできた。
今年の誕生日は、なんだかぐだぐだやな。

  コンテンポラリー演劇炸裂、という感じで
「アポロ計画」とそれにまつわるなんだかんだがお話の肝。

 こういうふうにまとめると、どこかで「近い」ものを見た感が。
・・・振り返ってみると、思い出した!!
名古屋の「あおきりみかん」やで。

 相違点といえば、あおきりみかんは「立体」として見せて、
場面変換は出演者総出でストーリーの一部として見せているが、
あなピはある意味「平面」で見せ、場面転換という名の
「短編」としてお話を繋いで、それとなく次のお話へと続く。

 けれども、共通しているテーマは
ただ一つ、「愛」なのかもしれない。
というか、「愛」がなければ失敗の連続を乗り越えられないのだろう。

福援隊ヤング 「星降る夜になったら」

「死ぬ」も「生きる(活きる)」も勢いだ。とは言うけれど。

ガラパがイムズでやったこの演目の元版を見る前、
わたしは精神的にも、身体的にも最悪、最低な状態だった。

人間関係は崩壊寸前、日程的にも日曜日に
やらなくてはいけないいろんなことが集中して、
何も出来ない、というのがこんなにつらいとは思わなかった。

ついでにお金のこともままならないので、
故に演劇とハンバーグ工場の仕事がそれぞれうまく回らなくなる。
本当に、次をどうするか、どうしたいかわからなくなってきた。

こんなことに直面すればするほど、考え方や人間としての
なんだかんだが違う人とうまく揃えることができにくくなり、
物事を続けていくことが難しくなっている。

この難しさがわたしを活かす、という点で
妨げになっているのだろう。
まだ、私はこのことをうまく解決できてはいない。

ああ、このままだと自殺するしか道はないのかなぁ。
そんなことをうじうじ考えていた。

・・・そして、久しぶりにこの演目を見る直前まで
わたしの状況はより最悪だったわけで。

というか、この時期、人間関係やら、ままならない人生に
ぶつかることがままあって、正直、全部の因縁精算したい、と
思い、それを行動に移すと必ずもって、身体ずくで止めるやつが
「最低」一人はいる、自分が演劇やめようとした時もはしりさが
身体ずくでガッツリ止めて、今がある。

そして、今回、というか今年も身体ずくで止める奴が・・いた!

で、「星降る夜になったら」以降、思うところあって
はしりさが演劇やめたい、といった時、自分も同じように
ガッツリ止めた、そしてはしりさひとりが抱えていた「重荷」を
ガラパ全体で抱えて、解決しようとする一つの解として
「劇団員全員が制作のスキルを身につける」と
観客コア層を「ガラパサダー」として「伝播する広報」の役割を与えて
「作品創り」に巻き込ませる、という手法を取り始めた。

箱のなかに入り、こういうふうに「起こったこと」をつらつらとまとめている。

確か、この演目をやる前にガラパは「ガラ博」という形で
「多種多様な才能」を育てる「苗床」を作り、
ガラ博が終わったあと、その中にやまさきみずほが座組に入り、
「裏切り者」でくどーあやかが「客演」で入り、
この演目はショーマンシップからひがしさやかが、鹿殺しからも
ひとり「客演」で入り、たさきこぱるもこっそり入っていた。

こうして見ると、ガラパも次なる「変化」に対してあがいていたんだな、
もがいていたんだな、そんなことを思うと前説なく本編へ。

「貸し別荘」、というわたしの人生で「ほとんど」
行ったことがない
ので戸惑うくらいの
 ものごっつうおしゃれで高級、
ついでに仕掛け満載で
ボリュームたっぷりの空間 。
今回はイムズホールではなく、ぽんプラザホール、「余分なところ」は
きちんと削りながらも空間のボリュームは変わらず。

今回の座組は「ガチの演劇」をしている人ではなく、
ナベプロ九州オフィス(昔ながらの人間にはこっちの呼び名が
しっくり来るのです。)所属のTVタレントさんやら
お笑い芸人さんが「新しいわざとすべ」を身につけるために
公演を打つ、という趣向。

そういう「趣向」の座組で、ラグビーのもつ「フィジカルコンタクトを
軸にした状況の打開」を取り入れて「場面」ではなく
「局面」を多面、多層的につなげ、重ねていく演劇である「ガラパ」の戯曲を
サッカーでの「守備では相手に触ることなく(=フィジカルコンタクトを
”拒否”する)立体から平面、そして線を”消して”ボールを奪い、
攻撃では相手にボールとボール保持者を触らせないように線から平面、
そして立体を構築する」ために必要なスピード感と身体性で演劇をした。

こうなると元版の時に感じた「重苦しさ」はどこかに行って、
進めば進むほど、すんなりと物語が身体に入ってくる。

板の上にいる人間のキャラクターもどこか「重み」を残した
「軽さ」を持った身体性であるがゆえに元版より鋭く研がれている。

そういう「演劇」で生きて、別れて、出会って、くっついて、
裏切って、裏切られ、傷ついて、死んで、
板の上になかったのは妊娠して、生まれる、というところだけ。
こういう、ボリュームたっぷりに人生、というものを
見せてもらったら、いやうっかり見たら、いろんなことを考えてしまう。

そろそろ新しい段階に入っていくのかな。
というか、もう新しい段階に入っているんだよ!!

それが何より証拠にはいろいろな所で変わり目、というものを
体感、というか、実感しているではないか、良きにせよ、悪しきにせよ。

そうやって、わたしも変化している、あなたも変化している。
変化していないのは誰だ?

スーパーラグビーのサンウルヴス見てみろや、
人によっては「悲惨な状況」に見えてそれを叩く人もいる、
お前もそんな状況に近い「人生の局面」を通っていると思うよ。

それでもあがきながら、もがきながら生きているじゃないか、
戦い続けているじゃないか、それって結構かっこ悪いことじゃないと思うよ。

もしその戦い、というかもがき、あがきの最中に死んでしまったら
「次の局面」は「予定」のまま終わってしまう、
それはそれで少ししんどいし、どこかカッコ悪いと思うぜ?

今回の局面は宴の「真の主役」が「ある覚悟」を抱えていたせいか、
妙に大人びていたからカッコ良かった、けれどなおさらしんどいわ。

人間同士が出会えば、いつかは離れるし、別れる。
お互いがお互いの領域に踏み込めば踏み込むほど、その分
「離れる・別れる」という「おわり」を忘れてしまいやすくなる。

忘れる、ということが平気になる、ということが
わたしはなにかとても悔しくなるときがあるんだ。
逃げれば繰り返すし、立ち向かうとごまかしやすくなる。
知らないふりをしていても、なんとなく全てを知っている。

そんなことを時折「哲学的」なセリフを織り込んで見せると
元版を見た時の「心の琴線」に触れたところとは違う
「心の琴線」に触れてしまい、なんとも言えなくなる。
・・・おまけに時間を感じない。
元版のいいところは「前に進む」熱を帯びた物語、
ラストのバルコニーの扉を開けるとすっと冷気を感じた、
これが明け方の空気、あるいは「始まりの空気」を
感じることができるところ。

今回は程よく熱をかき混ぜてるせいか、明け方の空気を
あるいは「始まりの空気」というものを感じることが出来なかった。

 もう少し練度を上げたら、「サッカー」と「ラグビー」の間の子である
「ゲーリックフットボール」という演劇になる。
そうなったら「熱」を「熱」として素直に伝えられるのかもしれない。

・・・こう書いたら、ガラパはこの演目の再演をぽんプラザホールで
演って欲しい、ただかおりのポジションには北九州から
みやむらじじを客演において、福援隊ヤングにはこのお話に
つながっている「馬鹿野郎、そこは掘るな」を演って欲しい。

プロフィール

itumo25254you

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