中野成樹+フランケンズ『夏の夜の夢』

都会の狂気とファンタジー。

「夏の夜の夢」って、演劇をする方にとっては
ある種の「通過儀礼」的な戯曲だ、ということを今回の公演で
遅まきながら知ることになった次第。

となると、見手である自分にとって、ある程度の本数・バージョンを
見ている「はず」なのだが、実際には数年前の
「ぽんプラザホール開設記念・九州福岡演劇祭」で
ガラパの川口さんが戯曲を整理し、gotoのごとーかおるさんが演出、
このバージョン「しか」実際には見ていないのだ。

そして、スカウティングレポート自体もクラウドに残す以前というか、
「戦争」に巻き込まれ、永遠に読めない状態になってしまった。

・・・宝塚歌劇版の「PACK」というものはかねてから見たい、
そして宝塚歌劇100周年記念のラインナップに入っていたとき、
行ける、と踏んでチケットの手配をした。
けれども、「戦争」に巻き込まれたことによるカオスのため
行くことができず、チケットも現金化できず、
まあよかったことといえば、九大大橋キャンパスでの
アートマネジメント講座、最終シリーズの総まとめ公演
招集日に間に合い、なんだかんだありながらも完走して
この公演を「見手」以外の立場で迎えることができた、それだけ。

・・・今回は「見手」ではなく、受け入れ側の制作兼、
クリエイター側と受け入れ側の間で「状況を整える」立ち位置の
丁稚奉公、という立場で公演を見ている。


フランケンズ、という「劇団」の強みは「古典の語意訳」、
「戯曲」や「物語」の取っ掛かりを「いま」という時代にどう楽しく、
どう理解できるように「翻訳」している、このスタイルでどう料理するか?
「考える事」が好きな人はこういうスタイルにものすごくハマるけれど、
「考えること」が苦手な人は「なんじゃこりゃ」になりやすい。
ここをどういう形で「乗り越えて」いくのか。

これらのことを仕込み後から千秋楽終演まで一通り見ることができた。
というか、九州ではぽんプラザで「短編集」数本を
引っさげてやって来たけれど、四国ではこの公演が初登場、
どういうことをやって、何を見せるのか
掴みどころがない、ということで6月に東京で演った映像を
とあるルートで一通り見せてもらう。

その時感じたことはシェイクスピアの戯曲に橋田壽賀子作・
石井ふく子演出の現代日本「ホームドラマ」の空気をまとわせた、
故にシェイクスピア特有の「韻を踏んだ長ゼリフ」も
心地よく聞ける、空間の作りは基本的に「パジャマ・パーティ」で
「祝祭もの」が持つ「何か」を表現しているんだな。

そういうことを携えて一通り見ていくと、驚いた。
空間の制約上、東京で強く感じた「空間の立体性」はほとんどない。
その分、屏風、視野角度などをうまく利用した仕掛け満載の
表演空間を作り上げ、その中に「生活に追われる人間が存在している」
ゴミ、というか物が散乱している「場所」がぽつんと「存在」している。

・・・パジャマパーティ感、完璧に排除されているよ。
その排除された痕にいま・ここで現実に起きている
「都市の生活」が「これ、よく見るよね」という質感を伴って存在している。
コンタクトレンズ屋、というか、何かを売るための「ちり紙・ちらし配り」や
宅配ピザ屋、運送業者、コンビニエンスストアのそれぞれの日常が
同時並行や交差、混合を繰り返している。

この質感の高い「都市生活」にシェイクスピア戯曲自体の
「貴族」と「妖精」、
それぞれの恋愛にまつわる「行き違い・すれ違い・勘違い」が
混ざり、隠し味としてシェイクスピア戯曲では「貴族の祝祭」で
「職人・労働者」が「余興の演劇」をする部分を
つい最近まで世間を賑わせたSEALsに置き換え、
PEALsというパートタイム労働者(まあ、非正規雇用だわな)の
社会参加活動に変化させたところが効いている。

こうして「森のなか」と「都会の森」でリアルとファンタジーの境界線
ギリギリを攻めていくと、いろんなことをうっかりと考えてしまう。

特にSEALs、じゃなかった、PEALsのところ、
看板では「社会は舞台、ひとは皆役者。輝いているよ!」と謳っていながら
現実論をシェイクスピア戯曲の中のセリフ
「この演劇に出るのはライオンです、ロバではありません」と絡め、
社会参加したいけれど、戸惑っている多くのわたしたち、というところを。

この戸惑い、というか「疎外感」の前では
貴族や妖精の身体的・感情的な「コンプレックス」を嘆くことや、
「振り向いてほしいけれど、振り向いてくれない」や
その逆の出来事なんて、「社会にもう受け入れられている存在」の
贅沢すぎる悩みにしか 思えなくなってしまう。
 
そういう鬱屈感がたまりに溜まって、最終的にやる、やらないにしても
暴力的な悲劇、となりその強弱はパックのようないたずら野郎が
複数回・複数人が絡んでいるんだろうな、そのいたずらごとを思いつつ、
疎外感に対して、もう少し思いを深めていたらSEALsも
なんとかなっただろうに。

・・・そんなことを考えている。 
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下鴨車窓「旅行者」

沙漠のチェーホフ。

 INDEPENDENTの3セット目、葉山さんの演目を見たあと
場転のじゃまにならないようにひっそり、素早く場所を後にし、
大橋駅から西鉄天神まで電車で行き、少し飲んで
夜行バスに乗る。

 脱法、じゃなかった新高速バスではない、
普通の夜行高速バスでも時期によっては
「現代版ガレー船」の様相を呈するわけで。

 どういう事情を抱えて関西に向かうのかわからないが、
乗ってくる人ひとりひとりの「身体言語」が妙に一言多く、
さらに言えば、なんかうす汚くて不安定な時期は
それが引っ掛かりとなって無性に腹が立つ。

 この腹立ちに加えて関門橋で火災が、関門トンネルをくぐるために
ものすごい渋滞、結果90分遅れ、恐ろしく暑い中を神戸三宮の
バスセンターに降り立つ。
まずご飯食べて、金券ショップの当たりをつけるも、
店が開くのには時間が掛かる、仕方がないからネカフェの
パソコンとか何もない漫画を読むための椅子コースを取り、
シャワーを使い、漫画を読みつつ時間をつぶす。

 ちょうどいい時間になったので、金券ショップに行き、
三宮から伊丹までの阪急電車と神戸から高松までの
ジャンボフェリーの切符を買う。

 そしてえんやらやっと三宮から特急で西宮北口駅、
普通に乗り換えて塚口、そこから伊丹線に乗り換えて終点。

 ・・・アイホール、阪急電車の駅至近じゃなく、
JRの駅至近だったのねとこれまたうだる暑さの中歩き、
なんとかたどり着き、ハコの中に入る。

 ホールの「広さ」を活かして物語が「流れる」ように
空間全体を作っている。
そういえば、下鴨車窓は5月に福岡大橋で「渇いた蜃気楼」という
演目を見て、その時は季節的なルーリングとして「夏」を
よく使っているよね、今回は季節、というものはあまり感じられない。

 となると、一番最初に下鴨車窓を見た「人魚」のように
「さまよえる人々」を描く、と言う基本的な構造なんだろうな。
こんなことを考えていると、当日券の入場列に紛れて
一人の演者がスッ、と表演空間の中に入っていく。

 見手がさざめいている中で、「演劇」はもう始まっていた。

 さて、このお話はチェーホフの「三人姉妹」を大黒柱として、
所々に「桜の園」を効かせている、という基本構造やねん。
ざっくりとぶっちゃけてしまえば、そうなっちゃう。

 所々に「新しい場所で生活」だとか、「女子も労働をしなければ」とか
半ば「革命的な言葉」というものがチラホラと聞こえてくる。

 けれども、チェーホフの「言葉」の基本となる「風土」は
ロシアの「永久凍土(ツンドラ)」、草木までとは言わないが、
コケ類はなんとか生育しているよ。

 けれども、今、ここで繰り広げられている「風土」は
沙漠(砂漠ではない)、人間以外の生物が何もいない、
不毛の土地、この違いがものすごくひりひりするのだ。

 しかも、「三人姉妹」に腹違いなのか、なんなのかわからないが
「別の人間」が次々と投入されて、「xxである」という「存在の曖昧さ」を
「弁護士」という「曖昧さを潰す存在」が介入することで
余計ややこしいものに化けさせて、さらに「土地の問題」まで
加わって怖ろしいくらいのややこしさに化ける。

 これって、平田オリザと青年団のテーマたる「分かり合えなさ」と
いうものの「正体」なんだよなぁ。
けれども、下鴨車窓のほうが本家よりも「分かり合えなさ」というものが
「厳しく」効いていて、いろんなことを考えてしまうのです。

 人の流れは絶えずして、元のところに・・・とは言うけれど、
流れに乗ることがしんどい、と「判断」したから
その場所に「とどまる」ということも多々あるわけで。
これらの判断は「わたし」だけにしか下せない、というか
判断できないわけで。

最強の一人芝居フェスティバル

これは「演劇」ではない、「エンターテイメント」である。

ハコの中に入って、驚いた。
・・・なんなんですか、一体。
ここは「夜中まで」やっているクラブですか。
そういう「雰囲気」で演劇を見る、と言うおもしろさ。

サッカーというか、フットボールでもこういうユーロテクノとか
あんまり客入れ音やら何やらとして掛けないもんなぁ、
イングランドプレミアで言うたらチェルシー、
フランスリーグアンで言うたらPSG、そういうところぐらいだもんなぁ。

こういうことをつらつらと考えながら数年来、この催しに
顔を出せていない、また不義理しているよ。
去年なんか、いろんなことに手を尽くしぃの、ホルブラの「上野真冬」とか
gotoの「タンバリン」と言う演目の「延長戦」と言うか「スピン・オフ」が
掛かっていたりしてすごく楽しみだったのだが、お金やらメンタルの
問題がひどくなって顔を出せず。

今年もその次の日から四国方面に演劇丁稚奉公へ向かうため、
いろんなことを考えなければならぬ、けれどもなかなかうまく行かねぇや。

さて今回のツアーは外来勢としてここ数年間の
ベストセレクション4本と、それを半ば迎え撃つ格好の九州勢3本。
1本当たり30分として、3本90分が1セット、セットの頭は九州勢、
となると一日3セット、通しでみると外来勢がダブる回があるわけで。

・・・本当はセットの頭から尻尾まで見ないといけないし、
見に行っても天神で関西行きの西鉄夜行バスに間に合うことも
確認済み、がだ、早く目的地に着くに越したことはない。

さて、諸々ごとにおいて肚は決めた。
実際の見た順番とは変化してしまうが、スカウティングレポートを
外来勢から上げてみようか。

c 「DANCE BURRN」
出演:河口仁(シアターシンクタンク万化)
脚本:二朗松田(カヨコの大発明)
演出:福谷圭祐(匿名劇壇)

「演劇」というものを影で支える「チラシデザイナー」の
「目線」で「演劇」という世界を見てみたらこんな世界が広がっていたのか。

というか、A4サイズの紙の上に「もう一つ」の「演劇空間」を
表出させる「作業」がこんなに大変で、「別の意味」で妄想というものを
じわりじわりと膨らませて、作り上げていく様子を見ていくと、
この様子に加え、放ったらかしにしていた彼女とのデートの件、
「演劇」として全体が見えない今度の依頼、そして過去のなんだかんだに
ジェンダーアローワンスとして「男と女」の「考え方の相違点」や
「約束」というものの重たい、軽いをどう考えるか、これら相違点が
摩擦を起こして火がついちゃった。

f 「次の場所までさようなら。」
出演:中嶋久美子
脚本:二朗松田(カヨコの大発明)
演出:泉寛介(baghdad cafe')

最近、相撲漫画ですげぇ面白いものを見つけた。
「バチバチ」、「バチバチburst」、
「バチバチ・鮫島鯉太郎最後の十五日間」、
この三部作を読めば、相撲感がマジで変化してしまいます、うん。

それはさておき、「相撲」と「クラシックバレエ」という「身体表現」は
「修練」と「鍛錬」の積み重ね、という点でものすごく似ている。
というか、「クラシックバレエ」の「ポジション」で「相撲」の「四十八手」を
表現しても違和感、というものをあまり感じない。

番付の枚数が上がる楽しさと苦しさも程よいバランスで
表現できているし、更には「八百長メール」、しかも濡れ衣か?
という話までぶっこまれたら、更に自分が今住んでいる土地から出た
幕内まで行った某力士を髣髴とさせるキャラクターとして表現したら
二重の意味で正直、怖いです。

・・・というか、その話について、前の日にしているんだよ!!
「大切な人」とのデートの場で。

i 「仏の顔も10度目にもう一度」
出演:maechang(BLACK★TIGHTS)
脚本演出:野村有志(オパンポン創造社)

・・・竹中直人の出始めより、怖ろしいくらいにぶっ飛んでやがる。
このぶっ飛び具合で老若男女問わず、様々なキャラクターを
これでもか、と演じきり、その先にある「縁の循環」というものまで
ぎっちりとした精度と密度でつなぎきって、「災い転じて福と成す」やら
「人間万事塞翁が馬」やら、「災厄は糾える縄のごとく」という
ことわざの本質まで見せているよ。

j 「シロとクロ」
出演:米山真理(彗星マジック)
脚本演出:勝山修平(彗星マジック)

「赤猫ロック」のような狭いグリッドの中を「全力疾走する」
コンテンポラリー演劇を更に改良、発展させたらこうなった。

「シロ」と「クロ」とは言うけれど、見手によっては
「大きい屋外犬」と「小さい室内犬」の他に
「子供」と「大きい犬」の関係を想起してしまうかも知れない。

そして、子供が生まれたら「犬」を飼いなさい。
子供が赤ん坊の時、子供の良き「守り手」となるでしょう。
子供が幼年期の時、子供の良き「遊び相手」となるでしょう。
子供が少年期の時、子供の良き「理解者」となるでしょう。
そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に
「命の尊さ」を教えるでしょう。
というイギリスの諺をコンテンポラリー演劇、季節の移り変わりや
「生活」という「言葉」をきちんと韻を踏ませたラップ・ヒップポップを
使い、「死ぬ・死んだ」という表現を直接使わないやり方でみせた。

さて、迎え撃つ九州勢はどうなんだ?

k1 「ロストサムライ」
出演・脚本:大串到生(劇団ZIG.ZAG.BITE)
演出:山口ミチロウ(劇団マニアック先生シアター)

「剣術アクション」というものにかけては九州の若手で一二を争う
技量を持つとーい、その「からだ」に「ままならない」せりふを載せる技量が
ピカイチなマニ先のミチロウさんの掛けあわせ。

「武」の時代が終わる少し前のお話、
「比べられる」、「比べる」ということに囚われて前に進めない男の話。
・・・俺って一体何だったんだろう、もしかしたら「比べなくていい」人生、と
いうものを選択して生きていられたのかもしれない。

さらには「勝つ」って、何なんだろう?
「負ける」ってなんなんだろう?
ということにも思いを馳せてしまい、おまけには「勝つ」ということは
誰かを「殺す」ということをしなければいけないし、「負ける」ということは
誰かに「殺されてしまう」ということになるのだろう。

この「勝つ・負ける」や「殺す・殺される」という出来事が走馬灯のように
ぐるぐるしながら、「もう一人のわたし」という存在に出会う。
・・・自分とついつい重ねてしまい、すごくしんどくなる。

「勝ち負け」に拘泥している間はどうにもならないんだよ。

k2 「時間切れを待ちながら」
出演・脚本・演出:白濱隆次(謎のモダン館)
演出:大坪文(謎のモダン館)

この演目はしらはまさんにとって、「出世作」だったのかもしれない。

忘れていた、忘れかけていた「過去の罪」がある日突然蘇り、
「過去の罪」によって「失ったもの」を取り返すために「現在の罪」を
犯した結果、より大勢の人々から「大切なもの」を奪った。

こうして「罪」はより大変な「罪」というものに変化する。

・・・変化を見せてはや幾星霜、積み重ねた修練と鍛錬は
凄みに化け、より一層「罪と罰」というものを研ぎ澄ましていた。

おまけに上演中に外では夕立がこれでもかと降り、
この雨音が聞こえてくる、より一層物語の持つ「不穏さ」というものが
増幅されてきて、最後の「種明かし」がより一層真実味を増してくる。

k3 「そのころ」
出演:葉山太司(飛ぶ劇場)
脚本・演出:大迫旭洋(不思議少年)

大迫さんは「森田と林田」で作・演出・出演していて、
葉山さんは奥さんが北海道の枠で出演しているのだ。
磯野サザエのようにきもちよく舞台上で飯食っていて、
見終わったらケンタッキーフライドチキン食いたくなるのだ。

両人とも、「訥々系」の演劇を得意として、その中に「真実」という
名の「毒」をええ塩梅に混ぜてくる。
二人の「化学反応」はどうなっていくのか?

・・・正直、ぶっ飛んだ。
たくさんの「日常」、たくさんの「生活」をひとつづつ「ビットマップ」に
天然かつ、丁寧に「起こしていく」、特に冒頭部のコンビニの流れ、
昔飛ぶ劇でやった題名は忘れたがコンビニをネタにした演目の
バックヤードでお菓子をガメて、飲み物ガメて、を思い出す。

けれども、「日常」や「生活」をピットマップに起こし、
起こした一見、何の関係もない「日常」や「生活」を少しずつ、少しづつ
「言葉のパス」で正確に繋いでいき、あるひとつの「到達点」に向かって
「シュート」するために「物語」は加速していく。

・・・ひとは誰かのために生きていて、誰かに「ありがとう」をいい、
また誰かに「ありがとう」を言わせるために生きている。
それが「人」なんだろうな。

客席裏に休憩スペースというかピットまで出来ていて
色んな意味で正直すごい、疲弊せずに楽しむことができる。

プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
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