劇団ZIG,ZAG,BITE「傷は浅いぞ」

「完璧たる人間=無茶振りが効く人間」ということ。

じわじわとおもいだした。
・・・そういえば、この演目、どこの誰かがやったかわからないが
見たことがある、そういうことを。

柿喰う客、というカンパニー自体はぽんプラザに始めてきた時
見に行って、おんなじ演目を愛知長久手の「カラフル」で見て、
最近読む機会がなくなったが「エル・ゴラッソ」という
ピンク色のサッカー新聞を効果的に使っているなと。

で、サッカーつながり、という流れで「露出狂」を見て、
れおさんの一人芝居、女体シェイクスピアをまた長久手、
「柿喰う客フェス」もラグビー第2テストマッチが味の素で
あるタイミングだったから行けるかも、と踏んでいたが、
15000円を用意するタイミングが悪く、どうにもならなかった。

こうしてみると「傷は浅いぞ」を柿喰う客、というカンパニーで
見た、ということはなさそうだ。

そういうことはさておいて、ざかざか雨の降る中を
辿り着いた先の空間はシンプル、シンプル、さらにシンプル。
パンチカーペットも何も敷いていない、素の木がむき出しになっている
平台を使って「高さ」というものを使っている。

もう少し「黒」というものを強調できれば大阪精華小劇場を
思い出させる奥の深い空気、というものができたのだが。

前説があり、音が徐々に大きくなって、ドカンと明るくなれば、
柿喰う客の初期作、その初演時よりも世の中が尖っている、
と言わんばかりの生々しさが板の上にぶちまけられる。

お話の背骨は「進め!電波少年」という
「生き残りをかけた芸能人に無茶振りを仕掛けて、
その反応を不特定多数の人間に晒す」という番組を
「生き残りをかけたアイドルという存在」に特化したものの裏側。

「無茶振り」というものは「無茶」のさじ加減が重要で、
振る側も、振られる側もこの「さじ加減」を間違えるとえらいことになる。
がだ、何らかの事情で加減をする「匙」自体を壊されたら、どうなる?

「無茶振り」というものが静かにエスカレートして洒落にならなくなる。
そのさまを見ながら、パラリンピックのことや神奈川で起こった
例の事件を考えてしまう。

人間、という生き物は「自分じゃ出来ない、できそうもないこと」を
いとも簡単にできる、要するに「無茶振りの効く」存在になりたくて、
なりたくて、たまらないのだ。

「無茶振りの効く」人間が世界中から4年に一度集まってくるのが
オリンピックであり、さらに磨きがかかっているのがパラリンピックに
集ってくる、そういうことをこの間やっと理解した。

けれども理想と現実の落差、と言うものを感じると、
その衝撃波は半端ない。
更に言えば、知らない誰かに「人として生きる」ということを
残酷な形で毀損されたが故の衝撃だったらどうなる?

踏みにじられ、毀損した人間を殺したい、てか殺しちゃう。
がだ、それは正当防衛ではなく、過剰防衛として・・・。

こういう猛々しさ、開き直り、切なさ、悲しさ、色んな感情を
歌舞伎の要素をうまく入れて見せていたのか!!
そんなことを感じて、家路につく。

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演劇集団非常口「チャチャトゥールの穴」

人生は「こんにちわ」と「さようなら」の繰り返し、とは言うものの。

どこかしら、「そうなんだよな」と言いたいけれど、
言えないもどかしさをずっと抱えている。

この演目を見学する前に、今後のことについて
状況を進める仕事をして、ほんとうは西鉄電車で
久留米シティプラザに向かう計画をしていたのだが、
不思議に足が向かないので、JRで久留米に向かう。

・・・歩いてシティプラザに向かうのがいいけれど、
途中の変な空気に巻き込まれて殺意を抱くことがしんどいので
お金はかかるが、バスに乗って向かうことにする。

この新しい施設、2月に久留米で特別競輪があった時、
4月と8月に筑後でのホークス2軍戦を見た時、それぞれ前を
通りながら飲みに行っていたわけで。

そういう「行きやすい」場所に大きいホールと中くらいの演劇劇場、
おまけにどうとでもできる「小劇場」があって、野外ステージとして
ちゃんとしたバトンがある場所もある。

北九州はリバーウォークに北九州芸術劇場がある。
そして砂津の旧小倉松山フェリー乗り場にあたらしい
フットボールスタジアムが建つ。
バックスタンドは海とギリギリであるが
故に、さいたま市大宮795スタジアム並の
薄さだが、メインとゴール裏は恐ろしくいい。

その中間の福岡市はどないやねん?
うるさい方々の声を聞きすぎて、気がつけば
「興業に不適な街である」という烙印を押されてしまった感がある。

そして「ただ家と会社を往復し、余暇は買い物と外食」しか許されない、
「生きるだけ・生存するだけの街」でしか存在価値がなくなるのかな。
さらに言えば「通過するだけの街」に・・・。

ヤフオクドームもなんか中途半端な立地と設備、
レベ5ももうすぐラグビーW杯に備えて20年間手を入れていない
客席関係をなんとかしなければいけないのに・・・。
ああ、腹が立つ、と屋台演劇を見ながら思い、話してた。

気がつくともうドアの開く時間だ。
上に上がって入ると、驚いた。
東京の「坐・高円寺」という劇場をギュッと圧縮した、
そしてウッディな感じをメタリックにして、ブラックボックス化した趣。

この「趣」に「晩夏のサーカス」というどこか物悲しい表演空間を
立ち上げ、今までの非常口はどこかしこに地元たる
鹿児島県伊佐の空気、土の匂いが残っていた。

そして、物語の芯へ見手を連れて行く「高度の上げ方」が
九州新幹線新水俣駅からバスに乗り、じわじわと川を眺めながら
高度を上げていくと、そこには、という上げ方だったのが、
今回はわたしの知り得ない何処かの空気と土の匂い。

さらには、高度を上げるのではなく、4月の熊本地震のように
揺さぶって、揺さぶって、揺さぶって、ズドンと地の底に落とす。

落とした先には今まで生きてきた場所と同じだけど、
どこか違う「ヨハテ」というパラレルワールド。

このパラレルワールドで「終末論」や「信仰」をベースにした
「こんにちは」と「さようなら」のお話を繰り広げ、戦争というか、
テロによって「死」という「世界の崩れる瞬間」を見せつける。
爆発テロって、熱で溶けるように死んじゃうのか!!

周囲は「世界の崩れる瞬間」と同時に「死」という形で
「新しい世界」へと向かっていった。
けれども、あなたは「崩れたあとの世界」に「生きよ」と投げ出される。

投げ出されることがどんなに怖くて、しんどいことなのに、
崩れたまま、「基本的人権」というものを剥ぎ取られ、「生存権」まで
さらには「わたしはわたしのままでいい」ということまで禁じられる。
しかし、「被養護者」と言うかたちで、名前ではなく番号、
外部との交通は厳しく制限、という形で「ただ生きること」だけは認められる。

・・・これ、れっきとした「差別」やないですか。
と言うか、ドア一枚隔て、エスカレーターを降りてまたドアを抜けた場所で、
「現実に起こっていること」をぶち込むとしょうじき、戦慄が走る。

この戦慄からくる混沌をこれでもか、と見せられて、
一番最後に「希望」の尻尾を掴んだら、いろんなことを考えてしまう。

役者の層、といい戯曲といい、このカンパニー、「外」と言うか
「アウェイ」を意識し始めている、一つ上の段に上がったのかもしれない。

福岡県大学合同公演「喜劇ドラキュラ」

なんか、残念だ。

九州戯曲賞・大賞を「現時点」での最年少で取った戯曲が
福岡の演劇をやっている大学生有志の「現時点」での力のすべてを
集結して、実演化にこぎつけた。

がだ、遠征の疲れやらなにやらで頭がうまく回らない。
さらに入場の時、受付の手際が悪いのに加え、
考えの足りないお猿さん達がダラダラと並んでいて、
その後ろでじっと待っていたら関係者かなんか知らんが、
どこぞの年寄りが自分よか遅く入り、自分よか早くハコの中に入ってる。

けれども、あまりにも自分が眠すぎて、疲れすぎて、
私の心の力業が「怒り」の方向へとうまく向いていかないのだ。
殴ったり、蹴ったりできたらどんなにいいことか。

まあいい、それにしても、全体の雰囲気は何もかもがむき出しで
表演空間のつくりは機能性、というやつは十分にありながら
ある意味「病院のロビー、というか待合室」をほうふつとさせる
無機質な空気、そこにクラシックの音楽がうすーく、うすーく掛かっている。

戯曲そのものの作りは「ドラキュラ公」というヨーロッパで言えば
小さい国を任された王侯貴族の「へうげぶり」、というものが
オスマントルコという「大国」に五分以上で渡り合う。

「弱者」が「強者」を「苦しめる」ためには緻密な戦略、というものが
必要なのだろうが、その緻密さと元からある「へうげ」が四つに組めば
化学反応を起こして「気が触れてしまう」、というか
「クレイジー」になってしまう。

ここに「人間不信」という気質や、有象無象の「トラウマ」というやつが
絡まりに絡まって「怪物」ドラキュラは誕生した、と言うか、されたのだ。

こういう「古典」ではなく、「故事」の誤意訳化ですごく興味深く、面白い。
むしろ、日本の戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人を
足して、ぐちゃぐちゃに混ぜて、キリスト教とイスラム教で味付けした、
という「共通点」まで見つけることができる「隠し味」まで盛り込んでいる。
 
がだ、それを表現する演者の身体がきちんとできていない。
合同公演という試みを始めてから福岡大学演劇界の身体言語は
少しづつ良くはなってきているのもまた事実。

けれども、「古典の誤意訳」でお馴染み、中野成樹とフランケンズの
仕事を間近で見て、さらに言えば「受け入れ側のマネジメント業務」と
いう丁稚奉公をやってきたことを踏まえて話を進めると、
「からだがこの戯曲を受け入れていない」、
「言葉をきちんと咀嚼しようとするけれど、消化しようとするけれど、
気がつけば嘔吐してしまっている」そういう実演だった。

特に、せりふ、「言葉」がしっかり伝わっていない。
・・・浅利慶太の劇団四季見たく「母音式発声法」を稽古の時から
開演ギリギリまでやり続けることは正しかったんだ、と今になって思う。

というか、「ギリギリのところにまで心身を追い詰める」創作の現場を
知らず、自分たちの流儀で難しい戯曲を扱うと、大怪我するんだな。
「ギリギリの現場」に飛び込んでいけたらもっと良くなるねん。

くどさと脂っこさしか残らないものを見て、食あたりしちまったい。
この戯曲をもう少し身体ができているところがやれたらどうなるんだろう? 
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