演劇集団よろずや「バイバイ」

いつもの挨拶がやけに愛しく、そして哀しい。

 わたしにとって、「プロ野球」と言うものは近くて、遠い。
わたしの「人生」に「プロ野球」が入ってくる時はあるが、
「同志」と呼べるくらい1シーズン、ガッツリ野球場で応援したことがあまりない。
選手は遠くから見るものであって、サインなんて欲しくはない。
むしろ時間が経てばごみになる。

 いろいろあって、客席を見渡してみると、カープの赤ユニやら何やらがチラホラと見える。
ホークスはなんか、「みんなでたたかっている」という雰囲気が薄い、
薄いから少しでも調子が悪くなると、ありとあらゆるところから
「不平不満」が飛んで来る、そして全てがギクシャクする。

 わたしも含めて、それぞれの人生が存在して、その中に「野球」がくっついてきて、
わたしの人生が調子良い時は励まされつつ「油断するなよ」と釘を刺され、
逆に調子悪い時は「慰め」という励ましと、辛抱すればなんとかなる、という
教えをもらう、「調子の波」と言うものは個人差はあるけれど、ある一定のリズムを
持って浮いたり、沈んだりしている。

 ある時はわたし自身の調子とチームがいい調子で重なったり、
わたし自身は調子悪いが、チームはその逆ということもあるが、
基本、良いことばかりじゃない、悪い事ばかりじゃない。

 広島東洋カープとそのファンはこの事を日本で一番体現しているかもしれない。

 それはさておき、津田恒美というプロ野球選手の「人生」は常日頃、私の心の中に
とどめている、というかとどめ「続けている」出来事である。

・・・気が付けば、自分は彼より11年も長く生きている。

 カープでがんがん投げていたときは、正直、憎たらしかった。
というか、昔のカープの野球はあまりにも隙がなかったわけで、
その隙がない試合の、これまた「しまい」に出てきて完璧に抑える。

 他球団のファンにとっては憎たらしいことこの上ない、まじで殺したいとすら思ってた。
フルフォーム(めちゃくちゃ調子のいい状態)のとき、本当にストッパーしくじったのは
原辰徳を骨折に追い込んだ前のシーズン、優勝争いの大一番、
後楽園で駒田徳広に満塁一発喰らったことと、
日本シリーズ第5戦、所沢で当時ライオンズの工藤公康に
サヨナラヒット喰らった「だけ」か。

 その時の様子からこの物語は丁寧に書き起こしている。
こんなに気迫溢れる仕事をする人間が実は小心者、というか
ものすごい優しさに溢れた「人間」だった。
もしくは、ものすごい優しさに溢れた「人間」だったから、
気迫溢れる仕事をやり遂げることができたんだよ、と指し示す。

 結婚して、やっと夜でも明るいおうちに帰ることが出来て、
子供も出来て、さあこれから、という時に彼は病に倒れてしまったとき、
正直、わたしはびっくりした、というか狼狽した。
・・・だって、さんざん死んでくれ、と思っていてそれが現実になると、
「喜び」よりも先に「やっちまった」という恐怖が襲って来る。
そして、「わたしの持つ悪魔性」に気づかされる。

 はじめは「水頭症」とか言っていて、野球は無理でも
まあ生きて帰っては来るだろう、とは思っていた。
しかし、1年経っても、2年経ってもいい知らせは来ない。
そうなると、いままで持っていた憎らしさはいつの間にか消えて、
「お願いだから、生きて帰ってきて」という思いになってきた。

 しかし、それはかなわぬことだった、ということを
当時、NHKであったドキュメント番組を見ることと、それを文字化した本を
読む機会に恵まれたことで、表には見えない壮絶な現実を知ることとなった。 

 ほんとうは奥さんが書いた「最後のストライク」という本も
読んだほうがいいかもしれないが、主治医(演劇とおんなじように
実際も女の主治医だったのだろうか?)との「西洋医学対マクロビオティック」の
平行線をたどる言葉があまりよろしくない言い争いが巻末にあって少ししんどい。

 当初の新聞記事にあった病因の「水頭症」というのは
実は、ファンを「安心させる」ためのエクスキューズで、
実際は本当に手の施しようのない「脳腫瘍」だったこと。

 それでも何とかしようと奥さんが「マクロビオティック」中心のやり方で
懸命に看病したこと。(だから、彼の「終の棲家」は広島ではなく福岡なのだ)
一時症状が瓦解したときの現役復帰に向けた執念。

 加えて「プロ野球」という毎年新陳代謝の激しい世界で必死に食らいついて
代謝・淘汰をくぐり抜けるけれど、何時かは力及ばす、代謝・淘汰の対象になってしまう。
それでも、懸命に食らいついて、戦ったんだから、悔いはないよと、次の人生に
胸を張って進むことをこうして当事者の感情入りで演劇すると、より一層心に入っちまう。

 
 自分はあれからことあるごとに彼の闘病生活とプロ競技選手の競技人生を想い、
「自分は、果たしてどれだけのことができているのか?」
「自分は、自分がやろうとしていることに妥協を許していないか?」
「自分は、安易に享楽や快楽に走ってはいないだろうか?」
ということを自問自答している。

 あれから13年経った訳だが、当時現役プロ野球選手だった
当事者の殆どがいろんな人生を生きている。

 森脇浩司は新聞に載らない「ある小さな事件」がもとでホークスをやめさせられ、
オリックスバファローズに落ち着いたものの、プロ野球とは縁が切れ、
アマチュア選手の面倒を見ている。

 達川光男は王貞治に請われてホークスに来るが、
我の強さで喧嘩別れして、カープの監督をしたあとに
たまたま松山でのオープン戦の帰り、広島行きのスーパージェット、
あの頃は1000円の追加料金だったな、そこで同席して、
こ難しい顔をして週刊文春読んでたな、これまたなんだかんだあって
落合博満に請われて中日ドラゴンズに行くが、諸事情で出て
来年から縁あってホークスに戻る、今度は喧嘩別れするなよ。

 きたぽっ・・・じゃなかった、北別府学はカープとホームテレビを
振り子のように行ったり来たり、いい年になった今は野球解説の傍ら
夕方ニュースの「情報部門」で美味しいもの食べたり、温泉行ったり、
局所属のタレントさんとまったくおんなじ仕事をしている。

 清川栄治は近鉄バファローズの打撃投手をしている、という話は
聞いたが、球団が消滅し、それでも何処かの球団の打撃練習でコツコツ球を投げているだろう。

 今井譲二は熊本で地に足をつけて、仕事と野球を踏ん張っている(と信じたい)。

 正田耕三は・・・なんでカープと喧嘩別れしたんだよ!!
阪神タイガースでコーチしたけれど、結局消息不明になっちまったじゃねーか。
ほんとうは(以下略。

 山本浩二はWBCで誰も拾いたくない「火中の栗」を何の因果か、
みずから拾いに行った。

 安仁屋宗八(ルーキーズに出てくる安仁屋の名前はこの選手から取ったんだよ!)は
相も変わらずマイペース、RCCで好きな様に喋り、好きな様に振る舞っている。

 長内孝は「野球鳥」という焼き鳥屋だったね。
何処かでスカウトか、なんかやってコーチしてたかと思った(ポリポリ)。

 山崎隆造は結構長い間カープとともにいたんだね。
まあ、広島市内の女子大生を相手にしたマンション経営も順調だし、
カープで球団編成の仕事したり、テレビ・ラジオで解説しなくても・・・。

 金石昭人は言わずもがな、一番この中で成功しているんじゃね?

 あと、一番若い緒方孝市、なんだかんだあっていまやカープの監督だ。
天国の津田恒美も腰抜かしながら、泣いて喜んだだろうよ。

 そして、志半ばで亡くなった上本孝一という審判員とお話にはでてこないが
木村拓也の事も忘れてはいけない。
ホークスの藤井投手の物語もこうして「演劇」にすることができたら
果たして沢山の人に見てもらえるだろうか?

・・・今年も生きて年の暮を迎えられた。

スポンサーサイト

KAAT「ルーツ」

本当の意味での知性とはなんぞや?
「洗脳」されるために知性があるとしたら・・・。

 ・・・そんなのいやだ。
というか、関東には結構頭の逝かれたお年を召された方々がいるねんな。
KAATは5階に主なホール入口が「レイアウト」されていて、主なアクセスは
チケットボックス隣りにあるエスカレーター。

 それより前、朝5時に大阪上本町から東京駅八重洲口に放り出され、
(大阪バスニュースター号は居住性抜群だったけれど)
上野東京ラインの始発電車を待ち、上野駅にたどり着くも
歩道橋のエスカレーター・エレベーターが全部朝7時からしか動かない。

 ひいひい言いながらいつも行くサウナへ行き、お風呂に入り、
大広間の仮眠室に入ると急に眠くなり、気がつくともう10時前。
もう一回お風呂に入って温まって、行く準備をして、朝飯食って、
荷物を宿に預けて、トトロ日比谷線で中目黒、それから横浜。

 横浜について、「目的地までの道に迷う」という「市内観光」をして、
それから神奈川芸術劇場(KAAT)にたどり着いて、上に上がるエスカレーターが
動かないことを見て、道向かいのローソンで体制を立て直すことにする。

 なんか食べて、レポート書いて、そろそろ時間やね、と場所に戻ると
エスカレーター前がなんか剣呑だ。
どこぞのおっさんが仏頂面で本読みながら待っていて、気持ちが悪い。
気持ちが悪いことを辛抱しながら待っていると
チケットボックスのお姉さんにイヤミをぶーたれている。

 「順番守れ」、と言うたかて、チケットの券面にはもう「入場の順番」を
記した番号がすでに印字してあって、早く来たからというわけじゃない。
チケットボックスには「本日公演の当日券は(チケットボックスで)発売されていません」と
張り出してはいる、なのにあのおじさん、チケットボックスのお姉さんに
「この状況を写真に取れ」なんて、頭のネジが数個飛んだ人でないと言えない言葉を吐く。

 剣呑すぎる状況を抜け出して、ようやらやっとエスカレーターが動く瞬間、
おっさん、こう吐き捨てたよ。
「あなた、わたしの言った日本語がわかってないですね」だと。
わかっていないのはてめぇだろうが、という言葉を飲み込みつつ
エスカレーターを上り、ロビーにたどり着いて(以下略。

 リアルに「威力業務妨害」を見て、入ったら空間のつくりにも驚いた。
ある意味、多層構造の倉庫であり、生活空間、というには
いささか殺風景、おまけに地下構造まで作り込んでいる。

 さらには殺風景、無機質ながらも、ものすごい精度と密度で
それぞれの人物設定に合った「生活空間」を作り、「購買部」まで立ち上げている。
・・・構造はシンプルだ、けれど恐ろしくリアル。

 こういった「空間」で繰り広げられるは、「古細菌」という
「細菌の化石」を探しに若い研究者が地図にない「事にされている」
廃鉱を抱えた村に導かれるようにしてやってくることから始まる物語。

 最近、人間関係において私は「他者」と「異者」という「腑分け」を
より意識するようになってしまった。
問題、というか、課題は「他者」と「異者」の線引きはどこなのか?
更にいうと「他者」と「異者」の間にある、「わたしじしん」を
「客観的に見た」存在と言うものをどう呼べばいいのか、
板の上で繰り広げられる「認められる」という作業を見ている。

 この作業を見ていけば見ていくほど、この村の村人が、
というか、この地球で生きている人々が何かある種の
個々人に違った「障害」を持たせて、どう振る舞うか?
という「実験」に物語が化けてしまう。

 「障害がある」ということを認めないでわけの分からない
生き辛さや生き辛さから来る「落ちぶれ感」、さらに「平凡」で
あることを罪悪、というか恐怖に感じる心持ち、故に
「そっとしておいてくれ」としか言えないナイーブさ、
このナイーブさを知ろうともせず、「わたし自身だけが持っているかもしれない」
興味を第三者に「押し付けているかもしれない」しんどさ、辛さ。

 「実験」を経て「異者」がなんとか「他者」となって、
新しい命が生まれるまでがインターミッション前。

  インターミッションを通り抜けると、物語の色調が急に変化する。
「せけん」や「せかい」の「偏」や「作り」、というものを
広すぎず、狭すぎず、程よい空間で、しかも時間の長さも感じさせず、
あっさり見せるから目から鱗が落ちると腑に落ちるを同時体験してしまう。

 「にほん」という「くに」や「みんぞく」というものが「そのほかのせかい」から
どういう風に「見られ・思われて」いるのか、そしてこの「見方」に
わたしたちがどう反応しているか、目の前に突きつけられると、考えさせられる。

 「せかい」すべては、みんな「うそ」でつながっている。
「うそ」を共有しない・あるいはできない人は「せかい」には入れない。
「うそ」を信じない・信じたくない人を排除するのがこの「せかい」の仕組み。
この「じじつ・しんじつ」を旧坑道の中で立て板に水の言葉回しで話すと、
不思議に納得してしまう。

 まあ、若い研究者も「せかい」でよく使われている
「賛同を得るために」という言葉の胡散臭さ、と言うものに、気づかなければならなかった。
「多くの人の賛同を得るために」ではなくて「多くの人を騙すために」ということに。
それを「研究所を作り、村をもり立てる」という欲に負けて、忘れてしまった。

さらに、この「せかい」は「ほのめかし」を好む。
そのためには、一世代の期間を費やして「リーダー」や
「カリスマ」という存在を育てることもある。
これは、テロリストの育成と同じだ。
生まれた時から近親者が少なく、少し賢く、貧しく健康であればよいわけで。

 おまけに、「魂」の問題、というやっかいな問題までついてくる。

 結局、わたしたちが「ただしいこと」と信じてきたものは、
ほとんどうそ・いつわりだったのかもしれない。
そのうそ・いつわりをきれいに剥がしたのが「ぼくちゃま」という存在の
「代替わり」にまつわるなんだかんだなのかもしれない。

 誰もこの「構造」を笑えない。
どんな形であれ、私たちは「洗脳」を受けているのだから。
わたしだって、あのキチガイを排除するために警察呼ぼうとしたのだから。

MAY「モノクローム」

眩い光の中には、眩さと同じくらいの暗黒を抱えている。

 いわゆる「映像作品」が「フィルム」という形で提供されなくなって、
というか「記憶・記録媒体」というジャンルから「フィルム・テープ」という
ものが除外されてどれくらいの時間が経ったのだろうか?

 そう言う堅い話はさておいて、MAYというカンパニーには
ちょいと「借り」を作ったまま数年間が経ったわけで。
初夏、千林大宮の芸術創造館で演ったとき、わたしの見通しが
甘かったせいか、公演途中で中座してしまう、ということをやらかした。

 正直、申し訳なくて、いろんなことを考えていたらこういうことになり、
善通寺での講座、最後の講義と仕上げの実習に参加することをやめて
新しいことを始めることになった次第を報告するために年内最後の講義に出て、
それからジャンボフェリーに乗って、神戸に渡り、風呂に入って飯食って、
阪急神戸線で梅田、諸々の用事をして環状線鶴橋経由で上六。

 落ち着いた、と思ったらいつも使っているペンを落としたようだ。
まあいい、これも古いことをはぎ落とす、ということよ。
それにしても千秋楽とは言え、変なお客が多すぎる。
開演前の趣向としてジャズと朝鮮音楽、そして和との融合を
「聞かせる」ライブがあったが、その良さがわかってないのか
なんなのか(以下略。

 そんなこんなでも、本編が始まると圧倒された。
「興業映画」を上映する(映画)館では唯一「フィルム」という形で上映する
大阪某所にある映画館、ここのプロデューサーがとある「幻の映画」を
偶然発掘することからお話が始まる。

 この「発掘された」物語ができるまでの「現場の葛藤」、
ある見手の「家族の葛藤」、「民族の葛藤」、「変化への葛藤」、
これらを「甘美的に」表現したのがイタリア映画の「ニューシネマパラダイス」、

 しかし、この映画の大阪版とこの演目を言うにはいささか鋭すぎる。
物語の端々に見られる鋭さ、とくに京都の朝鮮学校とのなんだかんだに
「パッチギ!」などを始めとする井筒監督特有の表現が混ざってはいる反面、
物語自体の密度と精度がすごいから、選ばれし者の恍惚と不安や、
ターザン山本の「シネマプロレス」のような映写室から物語にはまり込んで
引き込まれるが、どこか引いて見ている感覚、伝統の継承と断絶、
時代とプロレスする、そしてスタァの隠し持つ暗黒。
あと隠し味に「キューポラのある街」が効いている。

 なんていうか、こういうことを忘れてしまっている。
恵まれているから、こういう苦難をしなくて済んでいるのに、
けれども、苦難を引き受けなきゃいけない存在もいるのに、
どうしてそっとしてあげることも出来ないのか?

KAKUTA「愚図」

人生を投げ出しても、受け止めて投げ返す存在がいることは幸せだ。

  善通寺でのハイ・パフォーマンスマネジメント業務を
どう演劇に落とし込むか、一通り終わる年明けにわたしの今後を
どうするか、再構築する場所に入っておこうか、と思っていたら甘かった。

 諸々の書類が早い時間帯に整い、気がついたらその場所にいた。
直近の予定は「仕方がない」ということでなんとかなったけれど、
今後の予定は「第一段階」を何とかすることに専念してくれ、
ということで(以下略。

 「第一段階」の肝は、全てを吐き出す、ということ。
今まで関わったところ、いつも行っているところに新しい担当の方に
同行してもらって、いろんなことを聞き取り調査し、自分の中にあるものを
徐々に言語化して、行動の癖を修正して、まあ色々大変。

 そういうことがあって、ようやらやっと演劇を見る。
確か、こんなことになってしまったきっかけが
元ガラパのまつのおが東京に行く送別会、しんどいの引っ張って
行って、グダグダになって、仕事に行ける時間帯に家に帰れず、
生まれて初めて会社をサボった。

 そこから人生がぐるぐる動き出して、ただの送別会は
よりいっそう酷いわたしになって、家には帰り着いたが、
自分の部屋にげ(以下略。

 こんなことを考えつつ、すげぇコンテンポラリーで、すげぇクラブ
(ひと座り数万円ではないところ)の雰囲気を感じていたら本編。

 再構築する場所に行って、今「掘り起こしている」ことと言えば、
「私は、どういうしくじりをして、なぜそうしてしまったのか」、ということ。
そこでわかったことと言えば、人間という生き物は、心のなかに
何かしら「穴」というものを抱えていて、それが個々の関係によって
「気になって」しまうとその穴を埋めようとして行動しすぎてしまうものらしい。

 行動しすぎても、穴は埋めることが出来ず、
逆にあなはだんだん大きくなる。
「動きすぎた結果として」大きくなりすぎて、
ひとりでは手のつけられない穴を見ると、
その穴ごと自身の人生を人生を放り投げる。

 この放り投げる様子が板の上にジグソーパズルのピースのように
絶妙の塩梅でバラバラになって配置されている。

 けれども、世の中には奇特な人もいて、大きくなりすぎた穴を
しかも自分が招いたわけでもない穴を埋めようと東奔西走する。
時には犯罪スレスレのことまでやりながら。

 その犠牲の物語を林家こぶ平、じゃなかった林家正蔵が的確に演じてやがる。
三平含めてクソミソのボロカスに言うやつもいるが、そういうやつがこれを見たら
・・・それでもボロカスに言うんだろうなぁ。

 投げ出しそうになっても、受け止めて、投げ返す存在がいたから
あるいはいるから、なんとかなったのかもしれない、私は。

月光亭落語会「梨の礫の梨」

和解、あるいは赦しという、次に進むために必要な物語。

 一度こういう場所でゆっくりとお酒飲んでみたいな、という空気ができている、
恐ろしいくらいにギュッとしたスタンドバーの作りをこれまた風情のある
アートビルディング内にあるイベントスペースに持ってきたら、なんだかモダン感満載。

 さて、ここ数年、大阪では焼酎亭、ここ福岡ではソネス亭、この月光亭と
「演劇人による落語公演」というものが盛んになっている。
・・・考え方次第によっては、落語というものは「根多」という「戯曲」を
演出・私自身、出演・私自身、という形で、動きも座布団の上に正座し、
上半身だけ動かして板の上で演じる、という「究極の一人芝居」なのかもしれない。

 「究極の一人芝居」で身につけた「技術」をホームグラウンドたる
「演劇」に還元してみよう、という今回の試み、相方は出産後初の演劇を
やろうとしている14+のゆきまるだ。

 まずは「拒絶」のお話と言うマクラから絶妙の話芸が炸裂する。
電車の中って、いろんな拒絶が漂い、なぜかしら火花が飛んでいる。
けれども、これらの「対立」に対してささいな衝突はあるけれど、
これがもとで傷害事件とか殺人事件が起きた話をなかなか聞かない。
ということは、みんな、いろんな拒絶を受け入れてはいるのだろう。

 本当は、自分だって電車に乗った時、自分の隣の空席に
カバンなり、自分の荷物を置いて「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う
ある種の「意思表示」をしたいのだけれども。
板の上では逆に「わたしはわたしのとなりに誰も座ってほしくない」と言う「意思表示」に
抗って、というか抗おうとして、結果降りたかった駅で降りることができず、
実は、抗っていた、抗おうとしていたのは「わたしの自意識過剰」だったのかもしれない。
その考察を裏打ちするかのように「座席の譲りあい」と言うケースまでも
絶妙の話芸で「聞かせて」いる。

 この冒頭部がサキトサンズの元版、最初に見た長崎では
阪急神戸線、西宮北口から電車に乗り、阪急三宮で降りたかったのに、
会社境界線の花隈駅を超えて、高速神戸で相手が降り、
自分は新開地まで行っちまったよ。

 次に見た大阪・和泉大宮では阪神なんば線、大阪難波駅から電車に乗り、
甲子園か、阪神西宮で降りたかったのに、気がつけばこれまた新開地だよ、
山陽電車の西代駅まで行きそうな勢いまで空気が変わった。

 さて、今回の月光亭版、JR九州鹿児島本線かと思いきや、
西鉄天神大牟田線、大橋あたりから電車に乗って、二日市か小郡あたりで
降りたかったのに、久留米、花畑、しまいには大善寺、そこから先は単線だよ。
そう言う空気に見事に変化している。

 この空気の中、自然な形でゆきまるが入ってくると、驚いた。
・・・子供を産んで、美しくなっていやがる。

 「自意識過剰」をめぐるひとり酒から「本当は今、そこにはいない」誰かとの会話、
過去に起こった、どうしようもならない、もしくはどうしようも出来なかった出来事についての考察、
突き詰めたら母が突然わたしの目の前から消えたからこんなに大変な目にあった、
責任取ってくれ、と「見えない」母に対して言い寄ってくる。

 ここにフェデリコ・フェリーニの「道」という映画と思われるお話が重なってきて、
「運命」に対してどうしようもできないわたし、とそれでも受け入れて
生きていこうとするわたしが一つの体に入っていて、その相反する思いが
いつもいつもぐるぐるしていて、ぐるぐるがひどくなるとお酒を呑んで、
毒を吐かなければ、やってられないのだ。

 過酷な状況を何とか無理やり生きてきたけれど、疲弊は相当なものだった。
なのにあなたはそこから逃げた、私は逃げられなかった。
けれど、私はもっと、もっと、耐えてやる、という思いが最後のマッカラン2本に
現れていたのだろう。

 色々な思いがいろいろな変化をした様子ってこんなかんじで、
変化した先に見える「景色」を丁寧に、丁寧にノイズを取ってみせたら、
「過酷な人生を生きなければいけなかった」女性と
そうなるきっかけを作った母親との和解、というか赦しというか、次に進む物語と
いうものに変化してすんなり心に染み入ってしまう。

劇団きらら「はたらいたさるのはなし」

「マイノリティの悲哀」と言うには明るすぎて。

  「パーソナル・スペース」と言うものに対して、私たちは鈍すぎる。
・・・のかもしれない。
とくに、「空席を埋める、ということ」において。
段差はあるけれど、やっぱり前の人の頭は気になるし、
その気になっているところをうまく避けるポジショニングにも気を使うし、
最前列がいいかな、と思っても、後ろの人のパーソナル・スペースを
「侵害しない」ようにどうしたら良いか、迷ってしまう。

 そうして「短い時間」で作り上げた「パーソナル・スペース」を
「異なる」人はあっさりと壊してしまうのだ。
「ここ空いていますか」、なんて言われたら、
そりゃ、口ではどうぞ、というが、肚の中では
こいつ、俺に「宣戦布告」してやがる、もしこいつが
「演劇関係者」だったら、こういう人と仕事したくない。
というか、こういう人の作る「作品」という人生はつまんねぇだろうな。
更に言えば、そう言う人達とおんなじ空気吸いたくない。
吸ったら、わたしもおんなじようにつまらないものを作り、
つまらない人生を生きてしまいそうになる。

 ・・・それを人は「普通」というのかもしれないが、
わたしはまだわだかまりが残ってしまう。

 毒吐きはここまでにして、本編に入ろう、本編。

 「うどんの自販機」に関しては、高速道路のサービスエリアや
パーキングエリアにごくごく当たり前にあった頃から
存在は知っていたが、親、とくに父がそう言う食べ物を
食べさせてくれなかった。

 そして、大きくなって、どこにでも行けるようになったら
当の自販機コーナー自体が「絶滅危惧種」、と言うものになってしまった。
というか、この「バブル景気」を通り過ぎた30年で「せかい」や
「にんげん」が大きく変化してしまったんだよなぁ。

 今はYou Tubeという便利なものがあって、
うどんの自販機が稼働している様ばかりを撮りつづけた動画も
たくさんあって、どういう風に「仕込んで」、どういう風に「商品化」されるか、
・・・細かいディテールはここでは問わないことにしよう。

 本題、なぜ、うどんの自販機が減ったか?
機械を作るメーカーの問題、というか、「機械の手入れに手を掛ける」より、
「低賃金・長時間労働」で人を「使い潰した」ほうが安上がりだ、と
資本家(経営者)が気づいてしまったこと。

 「使い潰されてしまった」人が増えると、社会はどうなる?
「消耗された」わたしが「消耗された」他人と触れ合うと、
ものすごく摩擦して、緊張して、退っ引きならない事態になってしまう。

 だから冒頭部のせりふ、「24時間チェーンの店もあるのに、
自販機のうどんを食べに行ってしまう」という言葉につながってくるのだ。
温かいものを腹に入れて、落ち着きたいときまで、ささくれ立ちたくないよ。

 このやんわりとした、穏やかな空間で、マイノリティ、というか
「発達障害」や「ADHD(多動)」、「自閉症」、「軽度の知的障害」、
そういうものをたまたま抱えた人たちが抱える生きにくさを明るく、
とにかく明るく板の上で、表現している。

 わたしも、縁あって、というかワケアリでそういう場所で
初めて大掛かりな「人生の棚卸し」を始めた。
その環境が程度の差はあれど、みきてぃが
この戯曲で描いていることとおんなじことなのだ。

 「やらないかんことは今(今日)やる」とか
板の上で繰り出される言葉やもろもろの動きとおなじものを毎朝 見たら、
こういう「自立支援」のやり方として、「当事者同士による相互扶助」も
あるのだな、というか、うまく「自己開示」ができれば(以下略。

 「普通」というか「定形」って一体なんだろうね?
その言葉を盾にして「普通」とか「定形」の発達ができた人たちは
他人というか、「異なる」人に「服従」を求めているんじゃなかろうか?
そういうことをわかって、表面上の明るさに沸いている客席を見て、
なんだか悲しくて、切なくなってきた。

 普通だ、普通だなんて言っていい気になって、
マイノリティが生きることに対して四苦八苦しているさまを笑ってはいるけれど、
マイノリティであるが故の生きる覚悟、や踏ん切り良くしなくてはいけない事情に
ついて、ほんの少しでもいいから想いを馳せてくれよな。

 「マジョリティ」の中にいると、「覚悟できていない」、「覚悟に踏み切れない」、
そして「覚悟することに躊躇している」わたしを見なくて済むから、なおさら。

万能グローブ ガラパゴスダイナモス「月ろけっと」@福岡

「ああ、お前は一体何をやってきたんだい?」
「そして、お前は一体何をやらなかったんだい?」
 
 あたらしいがらぱは、どこかてごわいぞ。

 ガラパの演劇スタイル・システムは実際に当たったり・当てたり、
捕まったり、捕まえられたり、押したり、押されたりなどの他に
身体の圧だけを相手に「残す」フィジカルコンタクトを使い、
ラグビーボール状になっている「扱い方によっては不規則に弾む」言葉を
つないでいくことで局面を作って、積み重ねる「コメディ」なのだ。

 某地方局の企画で、この演劇スタイル・システムを
デルモーズにいる男の子の手引で、7にんせいだんじょこんごうふっとぼーるの
「ふくおかだいひょう」はしもとまい「せんしゅ」(とあえて呼ばせてくれ)が
「体験する」趣向をたまたまみることになったのだが、「せんしゅ」だから、
この場にハマっているよ。

 更にいうと、かのじょの「きほんとくせい」が「ぺねとれいと(とっぱ)」がうまい、
しかも「軽い」ではなく「重い」ぺねとれいとをもちあじにしているので、
ものがたりの「すいしんりょく」が結構重く、力強い。

 いりを「おもく」みせることでうまれる「すいしんりょく」もありなのかな。

 そういうことはさておき、今回はこの「基礎・基盤」に「運と欲」、
そして「寿命」とは何か、「時間」とは何か、ということを我々に問いかけている
ゲーテの長編小説、というか戯曲の「ファウスト」を元ネタに使い、
ここに「テラスハウス」やらに代表される「リアリティ系ドキュメント番組」を枠組みで、
オチは漢文の「一炊の夢」を仕込んだら、「コメディ」という枠を軽く飛び越えた、
壮絶な演劇に化けてしまった。

 「業」と「欲」が深ければ、夢は叶うと、誰かが言った。
・・・けれども、人間は夢をかなえるために何を「喰いつぶす」のか?
「運」というか、「時間」、それも限りのある「持ち」時間。
この喰い潰す様を表に出した、「どうでもいいこと」からじわじわと
「欲」を叶えさせて、本当に叶えたい「欲」を徐々に見せていく。

 さらに「学問」やら「技術」、もっと言えば「才能」というものを
得るのも、ある意味、「環境」や「人間関係」、などと言った
「偶然」に左右されて、この偶然にたまたま恵まれたのか、
そうでなかったのか、どっちかだった。

 ・・・結局、わたしは限りある「時間」をどのように使ったのか、
その成果が「いま」だったのかもしれない。

 熊本よりもよりシェイプしていたから、こういうふうに物語がわかりやすくなっている。
わかりやすくなっているから、人間関係を始めとした「知的な迷路」にはまり込んでしまい、
また見たくなる、まるで麻薬のような演劇だ。

万能グローブ ガラパゴスダイナモス「月ろけっと」@熊本

「戦慄しながら笑う」、とはこういうことをいうのか。

 ・・・まだ熊本行きの高速バスは熊本に着く前の
「ある地点」で滑らかに走ることが出来ていない。
そういう地震の影響はあるが、少しずつ元気にはなっている。

 ほんとうは高速バスだったらスーパーノンストップ便
最初の停車地、西合志で降りて、道をくねくね行けば
熊本電鉄三ツ石駅があって、そこから藤崎宮前駅行きの電車に乗り、
黒髪町という駅で降りて、そこから獣道を歩けばバス通り、
着た道を引き返すようにして歩けばはあもにぃ。

 けれども、現実は非情である。
人が多いとうまく降りられなくて、ズルズルと熊本交通センターという
野外、じゃなかった露天バスターミナルに降り立ち、
高速バスおりばと市内バスのりばが恐ろしく離れて、
おまけに横断歩道をやり過ごし、菊池方面の経由地が飲み込めず、
来たバスに乗ったはいいけれど、バス通りをまっすぐ行かず、
熊大方面に曲がったのですぐにバスを降り、歩いてはあもにぃ。

 まあ、辿り着いた先にみずほの顔を見たことで安堵したし、
ガラパのTシャツ着ているせいか、ゆーこねーさんが若返っとる。

 こんなことを感じつつ、はあもにぃのいつものところに座り、
客入れ音を効くと、恐ろしく変化している。

 今までは「若さゆえの不如意であることのもどかしさ」を歌った
日本のロックだったが、今回はフレンチ・ロックと言うか
フレンチ・スカバンド(こういうジャンル、あるのかな?)、
フレンチ・ポップだったらアフリカ移民系とか色々あるが、
声質とかなんだかんだを考慮に入れたら
フレンチ・バスク系の音楽の感じがする。

 新しい変化を感じながら本編になだれ込むと、これまた驚いた。

 今までのガラパの演劇は実際に当たったり、捕まったり、の他に
身体の圧だけを相手に「残す」フィジカルコンタクトを使い、
ラグビーボール状になっている「扱い方によっては不規則に弾む」言葉を
つないでいくことで局面を作って、積み重ねる「コメディ」なのだ。

 今回はこの「基礎・基盤」に「運と欲」、そして「寿命」とは何か、
「時間」とは何か、ということを我々に問いかけている
洋の東西や時代の故い、新しいを飛び越えて集められた
数々の名作、名著を形つくる要素を隠し味に混ぜ込んだら、
「コメディ」という枠を軽く飛び越えた、壮絶な演劇に化けてしまった。

 ・・・面白い、面白い、と笑っていたら、知らないうちに
「ああ、お前は一体何をやってきたんだい?」に加えて
「そして、お前は一体何をやらなかったんだい?」という問いかけが
そこはかとなく響いてきて、戦慄を感じたし、その問いかけに答えようとする
わたしがそこにいた。

 あたらしいがらぱは、どこかてごわいぞ。
ついでに、はしもとまいは「ぺねとれいと(とっぱ)」がうまい。
いりを「おもく」みせることでうまれる「すいしんりょく」もありなのかな。
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR