「川上音二郎・貞奴物語」 博多座

 「博多演劇」と「第二の道」を模索し続ける。

 「博多演劇」を作った「テアトルハカタ」と「あたらしい博多」を
日本中に知らしめた「ギンギラ太陽’s」が掛け合わされて、
すべての根源である「川上音二郎」という人物の生涯を表現した趣。

 この事自体が大変不思議な、不思議な縁、というか、
川上音二郎がいなければ、テアトルハカタはなかっただろうし、
テアトルハカタがなかったらギンギラ太陽’sはなかったのかもしれない。
そして、これらが居なければ、私はこうして、この場所にいない。

 さらに言うと、自分と同じ高校の同級生が今もなお板の上で戦い続けている。
高校の時からずっとテアトルハカタの中でやって、独立してなんだかんだだから
大概キャリア長いなぁ、あの場所で勉強ばかりやっていいところに行った奴らよりも
正直すごくて、尊いものだ、と思う。

 そういうことを考えているともう本編だ。
てか、こういう「花道」の使い方もありか、という導入部。
「野辺の送り」というものをああいうふうに表現したか、
なんていうかものすごく切ない空気をかき消すかのように
天井から音次郎さんが登場して物語る。

 このお話の最初から最後まで流れているものは
「平等とは一体なんぞや」という問いかけなのかもしれない。
「機会の平等」を大事にするべきか、それとも「結果の平等」を
大事にするべきか、それとも「平等」なんて端からない、
それならば、どうやって「与えられた」人生を生きていくのか。

 言えることはただひとつ、「どういう形であれ、切り拓くこと」が
一番大事なのかもしれない、「成り行き任せ」という選択肢もあるけれど。 
というか、今も、むかしも「にほん」そのものが実は「成り行き任せ」という選択肢を
望んでいるのではないのか、てなことをじわじわと考えるようにできている。

 というか、「にほん」、という「仕組み」は
「考えないこと」を前提にできているようだ。
そういうふうにできているところに「居場所」がないから
どんなことをしてまでも「居場所」を作らなければ
この世に生まれた意味が無い、と思う男と女がくっつけば
「演劇」という素晴らしいものやことが生まれた。

 けれども、周りは「急いては事を仕損じる」という。
音次郎たちのやることなすことにそういえば言うほど「にほん」という「仕組み」が
「考えないこと」によって成立していて、ただ「目先の欲」にのみ
動いていくことが素晴らしい、とは言わないまでも「正しい」とされている
仕組みなのかもしれない、という「本当」が透けて見えてくる。

 それでも「第二の道」を命かけて模索していったからこそ、
今、こうやって演劇は存在するし、オッペケペ節だって
「ラップ・ミュージック」という形で存在しているのかもしれない。

 初演はギンギラ太陽’sの「エンターテイメント」要素が強く入って、
「人生」をあますところなく伝えた感があったけれど、
再演ではテアトルハカタが持つ「博多演劇」の要素が強くなって、
「ガチの演劇」というものになっていた。

終わって、天井をふと見やると、またいつもの様に空から見ていたよ。
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