宇都宮企画 「うみのいきもの」

「純粋な自由」と「制限のある自由」。

 恐ろしく疲弊している。
先週末夜行バスで岡山、高速バスで高知、
一休みして演劇のトレーニング。
トレーニングが月曜まであって、交歓会で飲んで、
火曜日朝早く広島行きのバスに乗り、新幹線で福岡。

 家に帰りつき、月イチ病院のちハンバーグ工場の新年会。
明日仕事だというのに遅いタイミングで飲んでしまっている。
ああ、またやっちまったよ。

 高知でも帰ってきてもなんかからだが落ち着かない状態で
演劇したり、生活していると、なんか「キチン」とできていない。
これがものすごく悔しい、腹が立つ。

 そういうもやもやを抱えてしまうと起きるの大変。
引っ張って、ギリギリまで家から出るのを伸ばしてしまうともうこんな時間。
枝光アイアンシアターにたどり着くのが本当にギリギリだ。
おまけにトイレ行きたいけれど、行ってない状態で、まずは出すものを出す。
落ち着いて席についた途端、じわじわと本編が始まり、
気が付くとわたしは物語に「居る」。

 ・・・やられた。
動き、「身体言語」の使い方、が劇団鹿殺しのそれらだった。
「物語」の入り方までも、違いはこれらすべてを動かしていく速度のみ。
それが何より証拠には板の上に菜月チョビねーさんによく似た存在がいた。


 演劇を始めて、「世の中の見え方」がじわじわと変化しているようだ。
特に「純粋な自由」と「制限のある自由」は同じ「自由」でもかなり大きく違うぞと。
というか、わたしたちは「生きて」いかなくてはいけない、
「生きて」いく、ということは何かしら「食料」、乱暴に言えば「餌」を
何処かから「得て」、「食べて」行かなければならない。

 「純粋な自由」は自分の力でその餌を取って生きている。
「制限のある自由」は自分以外の「何か」から餌をもらっている。
この「違い」が知らないうちに板の上にあり、やっぱりそうかと唸らされる。

 故に、時の権力者は自身につき従う存在に「餌」を与えるため、
「純粋な自由」を求める存在との「交流」を絶たなければいけない、と考える。
このシンボルが「海」と「壁」だったのかもしれない。
さらに言えば「海」と「壁」の「緩衝帯」として
「旧市街」という「廃墟」が存在している。

 この曖昧な「世界」に発達障がいと高次脳機能障がいを持っているかもしれない
男の子と女の子がうっかりと「入り込んで」、「純粋な自由」と「制限のある自由」
両方の世界を行ったり来たりしていたらえらいことになってしまった。

 どんなに自由を制限しても、どこかに必ず穴がある。
この「穴」は人によって開いているところが違っていて、
気が付かなければそれはそれでいいのだが、気が付いたら
ものすごく気になってしまう。

 気になってしまうとこの穴から自由へ侵入して、
最終的には「別の自由」へと脱走する様がうまく表現されている。
「単調な世界」より「多種多彩な世界」で生きることを欲することも。
さらにはこういう希求は日常に押しつぶされて「忘れて」しまうのかもしれない。

 だれかが自分にしかない「自由への穴」を見つけて通ってきたら
他の大勢にも伝染して次から次へと「個人」ではなく「集団」で
「脱走」してしまう、これこそ「リビング・レミング」なのか。
その様子が、正直、怖いし恐ろしすぎるのです。
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