rawworks 「素敵じゃないか」 福岡公演

「転換期」を「生きている」わたし。

 「転換期」自体の出来事や程度にそれぞれ違いはあるが。

 去年辺りからわたしとわたしを取り巻く人々に
「転換期」というものが訪れているようだ。
その様子を開演前から見せつけられる、とはこのことか。
少しづつ「終わり」というものはやってきて、
「はじまり」もまた少しづつやってくる。
「くやしくて、かなしい」空気感と一緒に。

 まずはフェイスブックでチラホラと聞いていたが、
きたっちが「ふっくら」としてた、うん、気が付かなかった。
わたしが開演前、変な疲弊感を抱えていたからだろうか?

 にしても、心と体が動かない。
チケットをピックアップしよう、買ってきたお菓子を渡そう、と
思っても、実際に動かない、否、動けない。
少し様子をうかがい、座り、またうかがい、座る。
座ると心と体が沈んで、どうしようも出来ない。

 お菓子で思い出した、さかせ氏と約束してた黒船の「ロロロ」という菓子が
きょうは売り切れなのか、土曜、日曜、祝日には売っていないのか
よくわからないが、黒船のカステララスクになってしまった。
・・・澄まない、けれどもロロロは日持ちがしないお菓子だから
その点を考慮するとそれはそれでよかったかな。

 こういうことを考えているとチケットのピックアップ兼入場が
始まって、流れでいつもお世話になっている人と一緒に座ることに。
・・・そういえば、枝光での初演時、この人も同じ回に行ったっけ。
自分は終演後大急ぎで北九州空港に向かい、東京に行ったんだよ。
ゴジゲンのモンちゃんと、あとなんだっけ、震災前の東京だった。

 さらには近況報告に絡めつつ「あのこと」の一部始終を話した。
一応、そうなるかも、とは言っているけれど、顛末が良くわからないのです。
わたしがこりっち再開した時、そういう人たちの痕跡は消えていて、
激しく攻撃していた人はぱったりと現場に足を運んでいない、というか、姿を見ない。

 そういったある種の「諦念」を抱えながら枝光でも、熊本でも
この物語を「見ていた」、けれども「現実」と「物語」が絡んで混ざって
「迫っていた」のが枝光と熊本、絡んで混ざった結果を「物語」として
「眺めていた」のがここ福岡だったのかもしれない。

 この「現実」と「物語」が絡んで混ざって、行き着く先は
「子供が出来なかったけれど、心がつながっていこうとする」夫婦と
「うっかり子供が出来たがゆえに心が離れてしまおうとする」夫婦の
「春夏秋冬」、それを「ことば」に頼らず、「身体言語」との絶妙のバランスで
見せていくところにまで「演劇」の質を高めている。

 わたしは福岡公演、冒頭部、さかせ氏がベランダの草花に
「水をやる」身体言語を「見せた」瞬間、わたしは「大切な人」と
「籍を入れて一緒に暮らす」ところにまで
まだまだ辿り着いていない、でも何とか繋がっている。
このことに対する「不甲斐なさ」なのかなんなのかわからない
感情をふと思い出し、気が付かないうちに涙が出た。

 こういうふうに「籍を入れて一緒に暮らす」事ができる、ということも
実はものすごく幸せなことなのかもしれない。
このご時世、経済的な問題から派生して「籍を入れて一緒に暮らす」ことすら
ままならない状況にいる「ふたり」なんてたくさんいる、更には様々な
「社会的タブー」によってそういうことすら許されない「ふたり」だって存在する。

 そんなことをある出来事のどさくさ紛れにさる人に喋ったら
「ことばや法律に頼らない、精神の愛を貫いているよね」とか言われた。

 けれど、正直、「ことばと法律に頼る、結婚という愛の表現手段」を使えたら
どんなに楽か、「精神の愛」を貫く時間が長ければ
長いほど訳がわからなくなってしまう。

 こういうしんどい時間を生きているからこそ、「子供ができる、できない」とか
「子供ができた、どうしよう」というところにまで辿りつけない、
その一つ前、「結婚できるか、できないか」という壁の前で
立ちすくんでいるわたしという存在が物語の中に見えた。
故に、「子どもという他人」を持つ「わたし」という姿までも想像できない。

 なんか、この演目を見る、ということは
「わたしの内面」を「吐き出す」作業をすると
同時に「わたし」を取り戻す作業をしているようで、
あとからじわじわと来るのです。
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