演劇ユニットそめごころ 「Death Disco」

「体制」と「反体制」。

 これらそれぞれの目から見える「世界」は当然だが、
違って見えている、否、見えてくる。
ましてや、「生きること」、「死ぬこと」の定義さえも大きく違う。

 ・・・「新幹線」という選択肢を事前に選んでよかった、という
展開だ、エゴナクののち、18時開始の甘棠館にたどり着くには
新幹線しかなく、しかも、乗り換えのタイミングに恵まれた、とは
このことか、唐人町の駅を降りエゴナクで感じた剣呑を振り切ると
受付に緑子がいて、なんだかんだと安堵する。

 それにしても、あたらしい甘棠館の使い方だ。
普通、客席の方を表演空間にして、最上段一列分と
いつもの表演部を客席にしている。
なんだか、浅目のプールでやっていることをプールサイドで
「眺めて」いる、そういう雰囲気であり、趣だ。

 プールの真ん中には浮島がひとつ、そこに一人板付きで居る。
もう一人はプールを細かく動きながら見手とコミュニケーションを
とっている、まさに安上がりで個性的な空間だ。

 そういえば、この演目のさわり、えだみつアイアンでの
「ふくおかプレ学演祭」で見たことを想い出す。

 うん、あの時は東日本大震災の「津波」と
太平洋戦争末期の「対馬丸」というふたつの「事件」から
生きている、ということは 「始まる」から「終わる」のだ。
けれども、「終わる」の先にあるのは一体何なんだ?
という「げんじつ」を「戯曲の生まれる」苦しみという「ものがたり」と
よく混ぜあわせて「おとなに見捨てられた子供」というか
「国家に見捨てられた国民、あるいは人間」という物語に仕立てあげた。

 その尺が大まか30分と少し、きちんとした公演にするには
あともう少し尺が必要だ、そうするとフクシマの原子力発電所事故、
その事故に関連する放射能問題、さらには様々な社会運動とその妨害、
寄せては返すたくさんの現実、加えて1940年に開催される「はず」だった
幻の東京五輪、2020年に開催される「かも知れない」東京五輪、
もっと突き詰めて「なぜ、これらの出来事」が起こったのか、
その原点まで今回は自由に時間を動かしている。

 さらに言えば、野田地図に近い身体言語の使い方で
この自由な時間をうまく見せているのはさすが。

 故に、東京五輪の件を感じているとはたと感じてしまう。
この部分、野田地図の「egg」とほとんどおんなじじゃないか。
野田地図は戦後日本が抱える原罪のひとつである「731部隊」を
ベースにして、ここにスポーツのお話を混ぜた、そして
このお話の扱い方が一部で物議をかもした、という話を
うっすらと聞いた。

 故に、野田地図の「egg」を見なかったわたしに怒りを覚えた。
だって、見なければ本当のこと、書けないじゃないか。

 それでもあえて言うならば時代と事件を飛び越えて「本質」を
反体制派の目線で見せようとしている。
これが「野田秀樹」の原点、なのかもしれない。

 がだ、彼は元から「体制派」だったのか、いつの間にか
「体制派」に行ってしまったから「時代」というものを
作っていったのかもしれないが。

 もしかしたら、この「変化」を抱えたがためにほんとうの意味での
「ダークな部分」に触ることができず、というか触ることを許されず、
敢えて曖昧な形にしてしまったのかもしれない。

 がだ、そめごころは「若さゆえ」なのかもしれないが、
この「ダークな部分」にぐいぐいと触っている、ここに戦慄した。

 戦慄したことで、「あの人達」がああいう「非道いこと」をするのは
「何か」に対して「復讐」をしたかったのだろう、
それにしてもなぜ「復讐する」のか、否しなくてはいけなかったのか、
そんなことをつらつらと考えていたらひとつの答えにたどり着く。

 「地球上のすべてのいきもの」、あるいは「自然の摂理」
というものに復讐を果たしたかったのかもしれない、ということに。
何故かといえば「死にたくない」から、さらに言えば
「順番譲りたくない」からああいうことができるのだな。

 けれども、生きているから必ず死んでいくわけで。
それを踏まえた「選択の自由」が存在して、それを選びながら
生きている、あるいは死んでいくのだ。
スポンサーサイト
プロフィール

itumo25254you

Author:itumo25254you
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR