劇団goto 「タンバリン」(再演)

「生存」とは何か、「たたかう」とは何か。

 初演の時も初日20時開演の回を予約していたことは覚えていた。
というか、gotoは初日20時開演はデフォルト、勤め人にとっては
ものすごくいい日程、遠距離演劇見学にとってもすごくいい日程。
がだ、初演の時、どこのどういう演目、というか、どのサッカーの試合を
セットにしようとしていたのか、さらには、あの時、いったいぜんたい
何が起こっていたか、何も覚えていない。

 この戯曲が九州戯曲賞を取る前に、初演を見たけれど、
いつもは覚えていた様々な感覚が「消えていて」、物語の核心に
差し掛かるところで突然記憶が消えて、落ちて、気を取り戻すと
物語の終盤だった。

 で、戯曲賞リーディング、広島でtempaの「演劇文庫」に
二日間行って、帰って、朝早く起きてハンバーグ工場で働いて
午前中で仕事を上がり、まどかぴあへ行ったけれど、
またおんなじところで突然記憶が消えて、落ちてしまった。

 今回は仕事を上がり、20時から見るのかな、と思いきや、
何の因果か知らないが、父の初盆法要がやってきた。
お昼に法要があり、みんなでご飯を食べ、少し飲んで
眠たくなったんで横になり、いままで溜まっていた
スカウティングレポートを片付けて、汗を流してちらし寿司喰って
ぽんプラザに向かう。

 あの厄介な人に出くわすといつも、いつも考える。
人間、それぞれ違う「因業」を抱えている、とはいうけれど、
どういう「因業」をいったいぜんたい抱えていて、この「因業」を
どう整理していくか、解決するために動くことも、解決を拒否する
ことも、それぞれの自由裁量という「人生」なのだ。

 ・・・だから、他人の人生にああだこうだ言うたから
「因業」という蜘蛛の糸に絡め取られて、身動き取れないじゃないか。
うん、他山の石とすることにしよう。

 この戯曲の肝はギリギリまで「リアル」を追求し、
さらにおしゃれな感覚を加えるという作りになっているから、
出演する演者にボクシングの技術を「インストール」してから
この戯曲を「作品化」という形にしてしまった。

 だからこそ、「建前」と普通に呼んでいる
「しゃべる」言葉や「文章」などで「表現」する言葉と
「本音」と普通に呼んでいる個々の「からだか発している」言葉の
齟齬、というかずれ、溝、が「嘘」や「ごまかし」になることがよく分かる。

 この様子を女性4人芝居で、「からだの中から出た本音」の
セリフ部分はきちんと言葉にして、異性たる「男」のセリフ部分や、
「建前」のことばを「タンバリンの音」で表現していたことが初演。

 「ボクシング」という心が折れそうなほどしんどいことを
なぜ、選んだのだろう、他者とボクシングで会話をするという希望を
どうして持ったのだろう、そのことが分かる前に私の記憶が飛んでいた。

 なぜだ、なぜだ、なぜだ。
もしかしたら、気が付かないうちに「ノイズ」という「余計なもの」が
作品自体にまとわりついていたのかもしれない。

 今回はこの「ノイズ」をきっちりと削りこんでいるから
この「なぜ」がやっと理解できたほど純度高く物語を見せている。
故に、集中切れずに思考を保つことができた。

 わたしにとっての「立ち位置」と「役割」は一体何なんだろう?
その「立ち位置」と「役割」を手に入れるなかでの
「焦燥感」とのたたかい、手に入れたら手に入れたで維持していく、
あるいは一段上を目指すなかでの「焦燥感」とのたたかいがあるわけで。

 これらの「たたかい」の中でわたし自身の心が「響き」、
この心が響くことでまわりの心も共鳴し、気がつけば
何かが変化していく。

 前提として、「たたかい」の中で嘘をつかず、
ごまかさず「出しきった」充実感というものが必要なのだ。
このふたつが「土壇場で人生を変える一発」につながる。
みんな、そこをよくわかっていない、当然自分も。

 「恩師」でもあり「血は繋がっていないが、母」である
「たんば・すず」という存在が常に嘘をつかず、出しきっているから
それぞれが自身を再確認し、歩みはゆっくりだけれど
また「新しいわたし」へと進んでいく。

 その様は誕生やら、種の物語を飛び越えて、「たたかい」の
物語にまで変容してしまった。

 さて、わたしはわたしの心を響かせているのだろうか?
そして、どれだけの人の心を響かせているのだろうか?
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